旅行・地域

April 09, 2014

第二無鄰庵と無鄰庵

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 ムラ遠征といいますか、宝塚大劇場での公演の帰りには有馬温泉で日ごろの疲れをほぐし、京都にまわって南禅寺界隈の小川治兵衛作庭の庭を見ながら食事をして、抹茶をいただこうという感じで旅行計画を立てていました。

 宝塚から有馬温泉に向かう途中、三田で乗り換えの時に寄ったお好み焼き「白水」も忘れられませんでしが(女子ゴルフツアーのスタジオアリス女子オープンが開催される時には、女子プロもよく使うほど)、有馬温泉は到着が夜。翌朝も山あいということで風雨が強く、じっくりお湯につかることに専念しました。

 ということで翌日は雨の京都。時間もないので小川治兵衛作庭の庭でも見に行きますか、ということで、まず向かったのは昼食をかねて「がんこ 高瀬川二条苑」。第二無鄰庵の庭を眺めながら食事をしようという感じ。

 ここの庭園は、最初、慶長16年(1611年)に角倉了以が造りました。高瀬舟で京都の物流を一気に効率化した角倉了以の偉業をしのぶため、お店の前には底の平らな高瀬舟がもやってあります。

 明示維新後、山縣有朋が所有していた時代に小川治兵衛の手が入りました。その後も持ち主が変わって、さらに改修が進められた結果、必ずしも小川治兵衛作庭とは言い切れなくなっている感じなんですが、底は浅いが流れのある池を囲むようにしたグランドプランは小川治兵衛のものではないかと思います。琵琶湖疎水から夏でも水が来るようになって、庭に流水を入れることが可能になったから。

 別名、第二無鄰庵。無鄰庵は「隣に住む人もいない」という意味で、最初の無鄰庵は出身地である長州につくられました。で、二番目がここ、と。

 お店自体は3000円代で気軽な京懐石を出してくれるところで、中国、韓国などの外国人ツアーにも人気になっているような店なんですが、思ったよりもちゃんとした料理を出してくれました。白和えとかちゃんと美味しかったです。

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 そして、順番では第三無鄰庵ですが、「単独で無鄰庵」と呼ばれているのが琵琶湖疏水のほとりにある別荘。

 目を落とし、やや上げてみると借景の東山、さらに青空とその上にあれば雲という構成が考えられているんだろうな、という、なんとも心落ち着く庭でした。自分が落ち着いてものを考えるために庭を見る。その、余裕をほくたちは完全に失っています。

 なお、無鄰庵では日露戦争開戦の前年に山縣有朋が伊藤博文と総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎を集め、対露戦争も辞さないという国策を決めた「無鄰菴会議」が開かれました。


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May 11, 2011

西湖で「飲湖上晴雨後二首」

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 GWには上海へ行ってきました。仕事でもないのに…と言われるかもしれませんが、羽田から飛べば3時間ぐらいで基本的に日本語や英語もほとんど通じない国に行けるというのは、やはり魅力的です。

 上海自体も租界時代のヨーロッパ風の建物が残っていて、それなりに美しい街並ですが、ずっと街歩きをしていても空気が悪いし、やはり退屈するというので、昨年10月に開業したばかりの上海~杭州の新幹線に乗って、西湖に遊びました。

 まずは地下鉄で上海虹橋駅へ。初めて中国の新幹線に乗るので、早めに着くようにしましたが、虹橋駅大きすぎです。

 「東京駅より規模大きいんじゃないの」と、やや呆れる感じ…。「乗るのは二階、出るのは地下から」というシステムは杭州駅でも同じだったので、共通なんでしょうか。

 上海の場合は地下鉄に入る時も、中国鉄路の駅に入る時も、空港と同じように手荷物の検査がありますから、どうしても、フレキシブルな動線をつくれず、バカでかい施設になってしまうのかもしれません。

 韓国の仁川空港でも思ったことですが、日本の空港や駅は小ぢんまりしすぎているかもしれないけれど、逆に効率的な設計ができているんじゃないのかな、と。

 治安が安定している一得でしょうか。

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 新幹線の車両は日本製だと思っていましたが、カナダ製?杭州まで45分。

 軌道も新しいし、直線が多いので揺れません。

 驚くことに、定時発、定時着。帰りもそうだったから本当に驚きました。

 短距離の往復運転で本数が少ないにしても、ヨーロッパの呆れるほどのダイヤ無視列車と比べると中国鉄路はやっていると思いました。

 杭州駅で地下から出ると、これまたバカでかいバスターミナル。

 西湖に行くバスどっちから出ますかと聞いたら「あっち」というので向かったら、そこに目指すK7路のバスが来ていたので、さっそく乗車しようと思ったら、おばさんたちが地図を渡してくれました。

 「ありがとう」と行ったら「4元」とのこと。

 しかたないので払ったら、バスに入れる2元がなくなって、5元札を入れたら「釣りは出ない」とのこと。

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 なんか損したような気分…。

 まあ、三元=40円ぐらいのことですが、それにしても、1元=13円というレートで旅行できる時間というのは、もうあまり長く残されていないかもしれません。

 とにかく、気を取り直しているうちに西湖が見えてきます。

 目指すのは断橋残雪。

 ここから西湖を歩いて一周し、西湖十景を堪能する計画。

 水光瀲艶として晴方に好く
 山色空濛として雨もまた奇なり
 若し西湖を把って西子に比せば
 淡粧濃抹総て相宜し

Sotouba

 という蘇東坡の詩の二句「山色空濛として雨もまた奇なり」という感じそのままの天気。

 いやー、感動。

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 感動のまま、中山公園から竹の林を通り、さらに山を登って玉泉の山外山で昼食。

 小エビの炒め物と東坡肉(ブタの角煮、もちろん蘇東坡に由来)と馬ごやしの炒め物をオーダー。

 もうね、西湖で「飲湖上晴雨後二首」を読むことができたし、東坡肉を喰えたし、超満足。

 にしても、蘇東坡いいですよね。

 役人として二回も獄に繋がれて、地方に流されても、少し落ち込んだ後は明るさを失わない。

 そして、行く先々で出くわす住民たちの不幸には「我が涙は猶お拭う可し」と同情して改善につとめるものの、グルメな士大夫として詩を読み、酒を飲むという日々の生活も大切にします。

 玉泉からの帰り、少し道に迷ったものの、蘇堤春暁を渡って、一周を完了。

 滂沱と涙も出そうでした。

 雷峰夕照で十景終了。

 帰りの新幹線は窓際の席だったので杭州~上海間の町並みを見ていたのですが、夜になりつつある時間帯なのに、灯りがともっていない家ばっかり。

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 良く目を凝らして見ると、人気のないマンションや、建築途中で放棄されたような開発物件ばっかりが目立つ。

 隣で英字新聞読んでるリーマンに聞いてみると「完成した物件でも七割以上は売れ残っている」とのこと。

 不動産バブルは大丈夫でしょうか…。

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January 10, 2011

韓国の印象#2

 遅ればせながら韓国に行ってみようかな、と思った時に、一番最初に浮かんできたのは、『縄文聖地巡礼』坂本龍一、中沢新一、木楽舎の以下の言葉でした。

 《いまの芸能界を見ると、日韓がひとつの世界になりつつありますが、芸能界で起こることは、経済や政治の世界で起こることの先鞭をつけていますから、おそらくこれからの未来的な経済圏として、朝鮮半島の南部と日本は一体となっていくのではないでしょうか》(p.56)

 ということで、以下、ランダムに。

[寒すぎ]

Roten

 今年はラニーニャ現象が発生しているということで、日本でも厳しい寒さが報告されていましたが、いやー、韓国はシャレになりませんでした。

 なにせ、初日の最低気温はマイナス15度ですよ。さらに雪。

 あらかじめ「かなり寒いのでヒートテックの上下は忘れずに持ってきてください」とアドバイスをいただいたのですが、ヒートテックがなかったら、軽く死んでましたね。

 外を歩いても、10分ぐらいで耳が痛くなるほどの寒さというのは初めて経験しました。

 マイナス15度って、北海道あたりのスキー場ぐらいでしか経験できない寒さですもんね。

 ご参考のために報告しておきますと、一番寒いと思った時には、ヒートテックの上にカシミアのタートルネック、綿のシャツ、カシミアの大きめなセーターを着て、さらにダウンを羽織って、ゴアテックスのパーカーで風を防ぎました。

 もちろん手袋は欠かせません。

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 ずっと縮み上がっていたのですが、それに比べると、韓国の人たちは寒さに強い…。マイナス10度で雪も降っているに、ランチ時にはサラリーマンがコートも着ないで、手袋もはめずに店を求めて歩いている。

 パワーありすぎ…。

 にしても、雪も本州のベトッとした湿気の多い雪とは大違いでした。丸く握っても、パラパラとまとまらないほど。

 シベリアから、乾ききった大地を渡ってきた冷気が降らせる雪とは、こういうものか、と実感しました。北海道の"アスピリンスノー"ともちょっと違うようなような気もするし、いやー、雪ひとつとっても、こんなに近いのに違うのか、と。

 つか、日本海のありがたさを実感しましたよ。マイナス40度クラスの大寒波が襲ってきても、凍らない日本海で暖められてしまうわけですから(もっとも日本海側には豪雪をもたらしますが)。

[寒い中で営業する露店凄すぎ]

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 明洞でも、仁寺洞(インサドン)でも、南大門でも、東大門でも、とにかく道の真ん中は露天だらけ。

 中には、若い男の子たちが仲間でやっているような店もあって、たくましいな、と思いました。

 こうやって原始資本を蓄積して、将来、頑張るための基礎をつくっているのかな、と。

 さらに、アーケードの屋根は付いているけど、基本は吹きっさらしの広蔵市場でも、ずらっとスンデやトッポッキ、ビビンバの屋台が並んでいました。

 ご案内していただいたhisaさんの教え子の方と一緒に、こうしたところで一回ぐらい喰おうかとも思いましたが、どうしても寒さが…ということで断念。

 しかし、不思議だったのが、暖かいお酒が置いてないこと…。

 寒いときには冷たい冷麺や、冷たい焼酎の方が健康にいいとも言われたのですが、根っからの蒲柳の質なので、情けないことに思わず「オデンで熱燗飲ませてくれるような日本食の店行きましょう」と日和ったことは、ちょっと我ながら情けなかったですw

 後になって考えみると、昭和の時代には、日本のサラリーマンも吹きっさらしの屋台でオデンをつっついたり、ラーメンをすすっていたりしたんですよね。

 日本では、そうしたパワーは失われてしまったな、と…。

[兵役とか集合住宅とか]

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 2日目にご案内いただたジャヒョンさんは兵役を済ませたばかりとのことでしたが、月給は日本円で8000円ぐらいとのこと。

 いやー、素晴らしすぎるというか、いくら衣食住は提供されているとはいっても…としばし考えさせられました。つか、自分にはとてもできませんw

 ちなみに、韓国の男性は40歳まで一年に一回は軍隊に戻って訓練を受けるそうですがが、ジャヒョンさんはそのお世話をするというのが兵役期間中の仕事の内容だったとのこと。

 それと感心したのが市内の治安の良さだったのですが、これに一役買っていそうなのが、義務警察官。これは兵役期間を警察部隊で勤務する警察官とのことで、5~6人がワンパックとなって、パトロールをしている姿をよく見かけました。

 これって若い人だから、単独行動などでムチャをやらせないようにするためなのかな、と思いつつ、2年間、毎月8000円の給料で治安維持を補強できるというのは、国家財政的には随分、効率がいいんじゃないかな、と思いました。

 効率の良さということでは、集合住宅の多さ、デカさにも驚かされます。

 金浦空港に降り立つ前から外を見ていたのですが、やたら高層住宅が立ち並んでいて、「エヴァの第三新東京市かよ」と思うほど。

 いろいろお聞きすると、上下水道など社会インフラを集中的に整備するためじゃないのか、とのこと。

 しかし、日本みたいな本当に一戸建ての平屋がズラッと並ぶみたいな風景が少ないんですよねぇ。

 残念ながら、ぼくの撮った写真には、いいのがなかったので、詳しくはこちらの「韓国は団地天国だった」をご覧ください。

[ソウルの交通事情]

Card_charge

 ざっくり大阪の環状線の中ぐらいにアッパータウンもダウンタウンも集まっているという感じでしょうか。

 基本、だいたい歩いて行けます。

 だからなのかもしれないけど、タクシーは安い。

 金浦空港から2万ウォン(約1500円)ぐらいでしょうか。

 だから、ソウル市内はタクシーで観光してしまえばいいのかもしれませんが、それでは、あまりに上っ面な旅になってしまうので、地下鉄を利用しました。

 交通カードを買えば、初乗りは900ウォン(70円)でかなりのところまでいけます。

 あまり詳しくないのですが、1号線~9号線が韓国鉄道公社、ソウルメトロなどによって運営されており、会社は別なんですが、東京のメトロと都営みたいに別料金ということではなく、安く利用できます。

 ソウルの街中にはあまり日本語は氾濫していないのですが、交通カードのチャージなどでは、日本語を指定すると、わかりやすく案内してくれます。

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 ちなみに、韓国の大学は中心部に近い方から偏差値がグラデーションしているそうです。

 空港とソウルを結ぶ鉄道のA'REXは仁川~金浦が開業していて、今回、金浦~ソウルまで伸びたというので、さっそく帰りに乗ってみました。

 仁川までノンストップのエクスプレスは日本円で1000円(所用時間43分)ぐらいですが、鈍行だと300円(53分)。 金浦空港までだと、100円で27分。安いです。

 車両も新しくキレイですし、次は行き帰りともこれかな。

 ちなみに、韓国の鉄道は全て標準軌。植民地時代の日本の鉄道官僚たちが「ひゃっほう!」という感じで、夢の標準軌の鉄道網をつくっていた姿を思い浮かべてしまいました。とにかく、日本の狭軌が中心鉄道システムと比べると、車両が大きい。でも、ちょっと揺れるかな…。

[初めて良い高麗青磁を堪能]

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 高麗青磁と李朝白磁では、学生の頃から李朝白磁が圧倒的に好きでした。青山の骨董通りにあった李陶に飾ってあった10万円ぐらいの茶碗が欲しかったんですけど、今回、見られたのは、それとは1000倍ぐらい違うレベルの焼き物でした。

 最初に訪れたのはサムソンのLeeum三星美術館。

 場所は漢江鎮なので、明洞でブランチをとったあと、地下鉄に乗って、途中、三角地で乗り換えて漢江鎮に。三角地というのは韓国語の発音も「さんかくち」と聞こえるので、乗り換えでも不安なかったですね。

 それと、教えていただいたiPhoneの韓国地下鉄案内アプリ「Jihachul」も便利でした。これ、韓国に旅行する方は必需品でしょうね。

 ところで漢江鎮で降りたのですが、Leeum三星美術館の場所が案内に書いてない…。この後いった国立中央博物館も書いてなかったし、ちょっと不思議。なんでなんすかね…。

Hakuji

 ま、とりあえず、分かりやすかったのでサクッと着いて、入場料は常設展だけだと1万ウォン。これに日本語解説もバッチリな音声ガイドが2000ウォン(ただしパスポートとか預けなければなりません)を付けても日本円で1000円ぐらい。

 ぼくは青磁というのは、なんか色が貧乏臭くて嫌いだったんですが、ここの名品を見て不明を恥じました。なんつうか明るい澄んだヒスイ色。華やかで安定感もある。独特の水差の素晴らしさ!。

 もちろん白磁も良かったですよ。姿、色、佇まい。全ていい。つか、いいのを触りたい…。まあ、かなわぬ夢ですが…。Leeumのミュージーアムショップはたいしたことなかったけど、建物はなかなかカッコ良かったですよ。サムソンの韓国文化保護に対する責任感みたいなのを感じさせるような気合いの入った美術館でした。

 ということで、こんどは漢江鎮から、やはり三角地で乗り換えて二村へ向かい国立中央博物館でも焼き物を堪能しました。

 Leeumは写真撮影不可でしたが、国立中央博物館ではフラッシュ焚かなければOKということらしいです。

[徳寿宮]

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 徳寿宮は大韓帝国を宣布した高宋が、日本からの圧力を逃れるために景福宮から移ったところ。

 1907年に強制退去させられた後も、1909年に韓国初の西洋風建築である石造殿を建築するなど、1919年まで暮らしたそうです。

 近代化を孤独の中で目指していたんだろうなぁ、と。

 あまり韓国の歴史に詳しくないのでよくわからないのですが、「西郷、大久保」のような側近がいなかったのかな、と。

 あるいは、そうした有能な側近団というか、分厚い武士層みたいなのがいないと、孤独にやるしかなかったのかな、みたいなことを、中和殿を取り囲む西洋風の建築を見ながら思いました。

 すぐ側にあるソウル市立美術館にも行ってみましたよ。

 ここは日本統治下の裁判所。

 重厚なファサードをカメラに収めたいと思ったけど、シャガール展の巨大ポスターで埋め尽くされて残念な結果に。

 しかし、なかなかいい建物でした。

 建築家は日本では難しい「横に広い」外観を実現したかったんだろうな、と思います。

[一人飯はつらい韓国]

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 なんでも、韓国では家族、友人らと飯を食うというのが基本だそうで、ひとり旅の飯は、けっこう限定されます。

 そんな中でも美味しいと感じたのが、明洞餃子のカルックス(韓国風うどん)とマンドゥ(餃子)。

 韓国のお店は、場所プラス売り物をそのまま店の名前にしているようなところが多いと感じましたが、何店もチェーン展開しているここも、まさにそんなお店。

 お昼過ぎに入ったのですが、満員。

 地元の方の比率も多いと感じましたね。

 餅米のようなご飯と、庶民的なキムチも美味しかった。

 味に慣れてないのかもしれませんが、旨味調味料ビシバシ系みたいな感じのここのキムチが一番美味しいと感じました。

Kokyu_bibinpa

 もうひとつは、これも有名店ですが、古宮のビビンパ。

 いただいたのは石焼ビビンパ。

 隣の中高年の韓国人サラリーマンも同じオーダー。

 いつも感心するとともに、驚くのが素早く持ってこられるキムチなどの小皿。ここではスープも含めて6皿並べられました。

 ビビンパが到着して写真撮っていると、隣のリーマンがスプーンでスープをすくって、ババンピの中に投入している。

 さっそくマネをしてまぜます。

 おもむろにいただくとんまい!

 これ発見でした。

 まだ、書くかもしれませんが、とりあえず、こんなところで!

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January 09, 2011

韓国の印象#1

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 関東周辺に住む約2000万人の生活にとって、2010年において最も大きなインパクトを与えたの出来事は羽田の新国際線ターミナル開業ではないでしょうか。日経の10年ヒット商品番付でも横綱を与えられていましたし。

 ぼくも旅行は大好きですが、まとまった休みがなかなかとれず、とれた場合も基本ヨーロッパに行っていたので、なかなかアジアに目は向きませんでした。

 なにせ、成田まで行かなければなりませんでしたから。

 だいたい、運輸官僚が最初にボタンを掛け違えて、その後の対応も生意気だったからあんなにコジれて開港も遅れてしまったわけですし、最初から祝福された空港とは感じられませんでした。海外旅行に行くという楽しみのために苦しまなくてはならない試練、みたいな空港ですよ、成田なんて。

 その点、羽田はいいです。都心や横浜から20分ですもん。

 「これなら、アジアに気軽に行ける!」

 羽田の本格的な再国際化にあたってまず思ったのは、そのことでした。

 ということで、年末までは忙しかったのでmixiやTwitterに「12/26からアジアに行く!」と宣言したら、韓国在住で、このblogを読んでいただいているhisaさんから「ぜひ!」ということでしたので、サクッと航空機とホテルを予約して行ってきました。

 これまで、個人的に親しくしていただいた旅行代理店がナニしてしまったので、今回は「ま、とりあえず使ってみようか」ということでHISを利用。航空機はアシアナ航空と共同運行している「愛するANA」の羽田~金浦の早朝発、夜間着便を確保しました。几帳面な日本人がガッチリ整備している機体で飛べる安心感はかけがえのないものだと思っていますので、これからも基本はANAで飛んでいきたいと思ってます。料金はTAX込み \46,640でした。

 泊まりは改装なったばかりのソウルプラザ。新しいホテルが好きなんで、次に行く台湾でもパレドシンを予約したんですが、とにかくシングルの三泊四日で\82,400というのはウォン安を実感しました。

 ということで、シーケンシャルな旅行記を書いてもしょうがないと思うので(日記は別なところに書きましたし)、印象的だったことをまとめたいと思います

[国立中央博物館]

Stone_knives

 韓国史に関しては詳しくないし、その上あまり調べないで勢いで書きますので、間違いは多々あるかとは思いますが、その場合は平にご容赦ということをお願いします。

 が、とにかく、ここは良かった。

 日本でいえば弥生時代から古墳時代、韓国でいえば無文土器時代から三国時代というのは、かなりの部分、文化を共有していたんだな、ということを強烈に実感できます。

 最初に驚いたのが石包丁。

 中国東部の遺跡から発した石包丁は、朝鮮半島では無文土器時代の遺跡から出土しますが、もう日本の中学校あたりの歴史で習う弥生時代の石包丁と同じ。稲作の伝播に伴い、徐々に南下していったんだな、ということで、中国、韓国、日本で出土する時代の違いに現われると思うのですが、稲作に寄与した刈り入れ道具が、当たり前のことなんでしょうが「ここまで同じだったとは…」とその交流の歴史に頭を垂れます。

Bronze_spearhead

 青銅器時代の間でも、銅鉾のあまりの日本で出土するものとの類似に驚かされます。

 銅鉾は朝鮮半島から入った後、九州で生産されていましたが、その後、鉄器時代となって、荒神谷遺跡のように大量に埋葬したような例もあるわけですが、こうした当時の日本というのは流行を最も遅れて受容していたんだな、といじらしくなってきます。

 さらに驚いたのが、高句麗時代の墓(江西大墓、7世紀前半頃)。日本のキトラ古墳(7~8世紀)のように青龍、白虎、朱雀、玄武の四神図が描かれているのですが、まあ、当たり前ながら、そっくり。

 残念ながら日本のキトラ古墳の四神図は湿気でボロボロになってしまいましたが、その、良くできたオリジナルを見せてもらった、という感じを受けました。彩色も見事としかいいようがありませんし、特に玄武の躍動感あふれる足の描き方なんかは素晴らしい。その前の時代に、韓国でも大量に残されている飛鳥の石舞台のような遺跡を含めて、長く同じような文化が日本にもらされてきたんだな、ということが実感できました。

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 百済の間には倭に贈られた国宝・七支刀と同じ出自であろうものが展示されていますし、鏡も含めて、中国から朝鮮、そして日本へという流通ルートを実感できます。

 日本史というのは、当たり前ですが、日本海を挟んだ大陸、半島との交流というものを、もっと意識しないと、理解が深まらないんだろうな、と改めて思います。

 日本との交流といえば、渤海。朝鮮半島は高句麗・百済・加那・新羅の時代から統一新羅になっていくわけですが、もうひとつ、渤海という国が高句麗の遺民によって建てられます。渤海と日本の交流は926年の渤海滅亡までの200年も続くんですから、表から裏から、いろいろ交流は深いんだわなぁと。

 李氏朝鮮あたりの展示がやや足早なのには、まあ事情があるんでしょうということですが、李氏朝鮮の王たちのなんとも憂いを秘めた肖像画も印象的です。

Wondanggamjatang

 3階の磁器の館も見逃せません。実は、同じ日にLeeum三星美術館でも高麗青磁と李朝白磁の国宝級のをたくさん見させてもらったのですが、ここでも、同じぐらい素晴らしい青磁、粉青沙器、白磁を見ることができました。一生分ぐらいの素晴らしい銘品を見まくって、いやー、眼福でした。

 3階には半跏思惟像もいらっしゃるのでもちろん会いにいきます。ひとつの独立した部屋を与えられるぐらい重要な作品。ひとりでしばし対面できたのもラッキーでした。

 ソウルを4日間、ウロつきまくったのですが、日本と違って仏教寺院はほとんど見かけませんでした。なんでも、仏教弾圧で寺院などは、都市部にはあまり残っていないとか。

 この半跏思惟像といいますか、弥勒菩薩も、本来、収められているべきお堂を持ちません。

 にしても似ているな…とおもいつつじっと対面していたのですが、それと同時に、日本の弥勒菩薩は広隆寺や中宮寺などのお堂が残っていて幸せだわな、と感じました。

Wondanggamjatang2

 ということで、二村から地下鉄で明洞にもどり前日、美味そうだなと思ったウォンダンカムジャタン(豚の背骨肉やジャガイモ・野菜の入ったピリ辛鍋)の店で、マッコリ相手にひとり鍋をやりました。

 大中小の鍋でもちろん小を選んだんですが、それでも多すぎ。でも、んまかった!これから、自分でつくるチゲ鍋にも、ジャガイモを必ず入れようと思いましたね。

 ここはたぶん「ウォンダンカムジャタン 明洞1号店」だったと思うのですが、全国で50店舗を持つチェーン点なのに、おばちゃんたちがでっかい鍋で炊いたご飯を、床に座り込んでご飯入れにせっせとつめるような雰囲気があって、それも良かったです。

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July 24, 2009

紐差天主堂

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紐差天主堂 長崎県平戸市紐差町

 こちらも設計は鉄川与助。

 天主堂としては、長崎県では初めて、鉄川与助にとっては2番目のコンクリート造り。

 紐差(ひもさし)と読みます。

 この紐差地区にもドロ神父は外海の家族を移住させたとのこと。

 建築計画は明治20年から始まったそうですが、着工されたのは1927年(昭和2年)、献堂は1929年(昭和4年)。

 日本としては大きな天主堂ですが、木造の宝亀天主堂を見てきた直後でしたので、やっぱりコンクリート造りというのは…

 ただ、ここも雰囲気はいいですね。

 遠く北九十九島なんかも見えますし。

 気になったのは、拝観(?)が午前中のみ、とのこと。

 観光客が中を荒らしたためということですが、寂しい限りでした。

 このほか平戸では大久保町の崎方公園近くにあるオランダ商館跡、公園内にある聖フランシスコ・ザビエル記念来航記念碑、三浦按針の墓なんかにも行きました。

 公園から見える平戸の街並とキラキラ光る海は印象的。

 山頭火が行乞日記に「日本は世界の公園、平戸は日本の公園」と書き残しているのがよく分かります。

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《四月一日 晴、まつたく春、滞在、よい宿だと思ふ。(中略)
「絵のやうな」といふ形容語がそのまゝこのあたりの風景を形容する、日本は世界の公園だといふ、平戸は日本の公園である、公園の中を発動船が走る、県道が通る、あらゆるものが風景を成り立たせてゐる。
もし不幸にして嬉野に落ちつけなかつたら、私はこゝに落ちつかう、こゝなら落ちつける(海を好かない私でも)。
美しすぎる――と思ふほど、今日の平戸附近はうらゝかで、ほがらかで、よかつた》

 この後、長串山公園から北九十九島の島々を見て、旅の思い出としました。

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July 16, 2009

宝亀天主堂

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宝亀(ほうき)天主堂 長崎県平戸市宝亀町

 2年前もいろいろ廻りましたけど、これまで訪れた長崎・天草の天主堂の中でも特に印象的な建築でしたね。

 かわいい。

 もし長崎の天主堂廻りをしようなんていう方がおられたら、ぜひ、ここだけは外さないようにおすすめしておきます。

 宝亀天主堂はマタラ宣教師の指導の元、1897年(明治30年)に着工し、五島列島の宇久島出身の大工・柄本庄一さんの手によって翌年完成したそうです。

 紐差(ひもさし)教区から分離・独立し、京崎地区と雨蘇(うそ)地区の仮教会を統合することとなり、両方の地区との間で、建設資材が運びやすい場所に建てられたということですが、けっこう今の道でも行くのは大変です。

 カーナビでも結構、苦労してたどり着きましたもん。

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 でも、クルマ一台が通れる細い道を辿っていくと、秘密の花園みたいな空間がパッと開き、そこにひっそりと佇んでいる感じ。

 全体はゴシック様式でまとめられているんでしょうか。

 長崎でも15指に入る古さを持つ教会とか。

 宝亀湾を見下ろす高台につくられ、近くで見ると山に囲まれているんですが、海から眺めるといいらしいですね。

 とにかく、その風情は格別でした。

 中もこぢんまりとしているのですが、美しく保たれ、光がまわって、暖かな雰囲気でした。

 側面がコロニアル風のバルコニーになっているのもポイント。

 開放的な雰囲気になりますよね。

 ステンドグラスは建設当初からのものだそうです。
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 県指定文化財。

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July 15, 2009

田平天主堂

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田平天主堂 長崎県平戸市田平町

 えー、一昨年は天草から外海(そとめ)をまわったのですが、今回は平戸の教会とオランダ商館跡などを駆け足で巡ってきました。

 外海というとフランス人神父のド・ロ様が有名。

 そのド・ロ神父は外海地区の生活改善に私材をなげうって取り組んだのですが、田畑を子供に分けると、いよいよ狭くなって生活が成り立たなくなるということで、なんと遠くこの地区に土地を購入して、信者たちを移住させるという計画を立てたそうです。

 もちろん購入費用はポケットマネー。

 実家は大金持ちだったそうですが、それにしてもスゴイ話ですよね。

 二百数十年間、隠れキリシタンとして信仰を守ってきたということのインパクトだったのかもしれません。

 とにかく、1886年(明治19年)から1893年(26年)までの3回にわたって信者の家族を移住させた、と。

 田平天主堂周辺地区の農地は、こうした信者たちの手によって開墾されたそうです。

 さらに黒島や五島からも信者がやってきて、1905年(明治38)年に現在の田平天主堂の建設準備が始まった、と。

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 1905年といえば5月に日本海大海戦があり、9月にはポーツマス条約が締結されて日露戦争が集結した年ですね。

 設計はもうおなじみの日本人の棟梁建築家鉄川与助。

 着工は1915年(大正4年)。

 1917年(大正6年)年に竣工。

 いまや国の重要文化財に指定され、世界遺産への登録も狙っている教会群の中でも傑作といわれるロマネスク様式の天主堂です。

 天主堂の周りはカトリック信者が眠る墓地が取り囲んでいます。

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 この墓地ですが、ほんどのお墓に新しい花がそなえられていました。

 なんかの記念日なのか…と思ったのですが、どうもそうではないらしい。

 帰って、いろいろな写真をみたんですが、どんな写真でも美しい花で飾られています。

 となると信者の方々の努力なのでしょうか?

 素晴らしい。

 墓地からは明るい色の海が見えます。

 こんな素晴らしい墓地もないかもしれませんね。

 同時に田平天主堂は海からの姿も一度、見てみたいと思いました。

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 ということで内部入ると、真っ白な柱がアーチを描いて伸びているのが印象的。

 木造のリブ・ヴオールト天井は通称「こうもり天井」とも呼ばれていますね。

 円形アーチを支える椿の花の意匠に日本人棟梁らしさを感じます。

 教会の壁にはステンドグラスがはめ込まれていますが、内容は十字架の道行きで、イエスの受難を黙想する行に使われるんでしょうね。
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 教会近くには建設に使用されたレンガ用の貝焼場も残されています。

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January 31, 2008

外海の旅

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 ガラシャでは当然のように飲み過ぎてしまい、素早く就寝。

 温泉では、夜中に起きて、大浴場でバタフライの練習をするのが小生のお約束なのですが、ここのおフロはちょっとバタフライには適さない大きさなので、背泳ぎで二かきぐらいでお茶を濁しつつ、大好きになったお湯を堪能しました。

 朝食もちゃんとつくってくれています。何回も同じことを言ってしまいますが、なんで旅館の朝ご飯ってこんなに美味しいんでしょうか。おもわずご飯をおかわり。

 本来でしたら、富岡から茂木へフェリーが運航されているのですが、この時期には船がドック入りしていて運休。

 ということで朝8時45分の鬼池発口之津行き島鉄フェリーに乗るべく出発。朝食時間を少し早めてもらったおかげでドンピシャで到着。この時点で〝勝利の予感〟がしましたね。「また来るよぉ」と天草に別れを惜しむ間もなくフェリーは30分で島原に着きます。

 前日は諫早湾の側から時計回りで、有明海沿いに口之津に南下してきたのですが、今回は一筆書きのように、まだ通っていない天草灘というか千々石湾沿いに北上します。

 しかし、海の様相が天草灘は有明海とはまったく違いますね。外海(そとうみ)につながっているため、天草灘の水はキレイでキラキラ輝いています。しかも、島原半島も長崎半島も天草灘に面している側は、山が迫っていて風景は変化に富んでいます。20~30分ごとにいい渚、美しい港、断崖があらわれます。『鉄腕DASH』ではありませんがYさんが海沿いの細い道を走ってくれますので、まったく飽きることがありません。

 途中、温泉軽便鉄道が走っていた跡の道をずっと走りました。

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【二見の活魚料理】

 ということで茂木へ。

 二見についてはすでに書きましたが、オランダ坂トンネルを抜ければ今なら長崎市内から15分。近い奥座敷という感じです。

 アラ、石鯛、アオリイカなどが泳ぐ50メートルの生け簀を備え、活魚にこだわった活きづくり。素晴らしいお店です。

 いまは小エビ、もうすぐ白魚の躍り食いのようなイベントも嬉しい。

 海がすぐ見える個室というのもエンターテイメント性を高めています。

 また、すぐにでも行きたくなってきました。

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【一○香本家】

 「二見」でお腹いっぱいになった後も、茂木にはさくまあきらさんのお勧め店が残っています。

 それは和菓子の「一○香(いちまるこう)本家」。

 桃太郎電鉄で遊んだ人たちは、長崎の物件では「びわゼリー」をまず購入すると思います。「大人気です!」という臨時収入がやたら入りますからね。そのモデルが「一○香本家」の「茂木びわゼリー」。

 なんつったって創業は1844(弘化元年)。老舗です。

 あこがれの「茂木びわゼリー」を本家のお店でいただけることになったんですから涙が滂沱とあふれるほど。

 お店でいただいた【国産】茂木ビワゼリーは1個263円。その価値はありますよねぇ。しかも、ちゃんと枇杷茶も出してくれるし。

 それにしても気高いお姿ですな。茂木枇杷が丸々1個入っているんですよ。お味も上品。もちろん15個・箱入4043円も購入、送ってもらいました。

「一○香本家」 長崎県長崎市茂木町1805 095-836-1919

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【角力灘の海】

 大々満足で再び移動開始。今回も海辺のルートを辿ってもらいましたが、変化する海岸線の美しさったらありません。

 途中でいくつもの撮影ポイントがあり、そうした場所にはクルマが停められるような設備がちゃんとあります。「とるぱ」とか名づけられています。

 とにかくビーチなんかはジャワ島みたいな感じのテイスト。

 長崎といったら市内をぐるって回っておしまいという方も少なくないと思いますが、もったいない。昔はとてもクルマなんかでは行けなかったようなところですが、この連続する景色は素晴らしすぎます。

 ということで「すごい断崖ですねぇ」とか話していたらYさんは「こういうところからだいぶ隠れの人たちは突き落とされたらしいんよ」とポツリ。いやー、なんとも言えない話ですな。

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【黒崎教会】

 崎津天主堂も最初の建物は1500年代につくられましたが、ここの黒崎教会も1571年1月にカブラル神父が訪れたあたりを起原としています。

 江戸時代の弾圧を耐えた信徒たちが発見されたのは1865年。1867年にクーザン神父が訪れて、隠れの集会所ともなっていた辻村三次郎宅で二百数十年ぶりのミサが捧げられたそうです。

 しかし「小教区内には未だに数多くの隠れキリシタンが所在する。付属する鐘楼は、その隠れキリシタンの帰依を願って故渋谷神父さまから寄贈された」とのこと。

 いまの建物はド・ロ神父の指導の下、信徒たちが積み上げたレンガ造り。

 しかし、ここら辺は仏教のお墓も黒石に金文字ですが、教会もそうなっているのにはちょっと驚きというかw

 この近くには禁制時代の宣教師サン・ジワンを奉っている枯松神社というのがあるそうです。サン・ジワンは外海地方で崇敬されている日本人伝道師バスチャンの師でもあるそうで、隠れの人たちはジワンの隠れ家であったおエン岩に集まり、オラショを唱えていたそうです。

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【遠藤周作文学館】

 黒崎教会からちょっと行けば遠藤周作文学館とそれに併設されるように立つ道の駅です。

 外海(そとめ)の黒崎村は小説『沈黙』の舞台となる「トモギ村」のモデルの一つとして設定されてました。

 いまは「遠藤文学と長崎~西洋と出会った意味~」が開催されています。『沈黙』の取材旅行で訪れた時などは、とてつもなく道が悪かったみたいですね。

 角力灘に浮かぶ奇岩は、映画の『沈黙 SILENCE』(篠田正浩監督、1971)にも出てきたと思います。最後は踏み絵を踏むことになるロドリゴ神父が奉行所の追っ手から逃れようと海辺をさまようシーンの背景にあの岩はあったというか…撮影が宮川一夫さんですから、なかなか良かったような記憶があるんですが…。

 マーティン・スコセッシ監督の次回作が『沈黙』のリメイクといわれていますが、どうなりますやら。

「遠藤周作文学館」長崎県長崎市東出津町77番地 0959-37-6011

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【出津教会】

 地元ではド・ロ様で有名なエンジニア神父が建てた教会。

 ド・ロ記念館もありますが、外海歴史民俗資料館の2階にある隠れ切支丹の展示がすさまじい。

 Y氏によると隠れは禅宗の門徒として暮らしていたそうで、表紙は「禅宗教本」となっていますが中はオラショ(祈り)の本になっている本などが展示されています。

 なんで禅宗なのかな…とずっと思っていたのですが、『島原・天草の諸道 街道をゆく17』司馬遼太郎を読み返していたら《禅宗(臨済宗、曹洞宗)もまた本来「不立文字」(ふりゅうもんじ)であるために、キリスト教的な意味における体系としての教義がない》(p.217)というところを発見。

 隠れにとっては教義はなし、お坊さんも自分の座禅で忙しくて放っておいてもらえる分、心理的な圧迫もないのかな、と思いました。

 後は大村湾をグルッとまわって長崎空港へ。

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 途中、潮が渦巻く西海大橋でひと休みしていたら、奇妙な三本の針のような構造物を発見。

 なんでも旧帝国海軍の針尾送信所だそうで、真珠湾攻撃のニイタカヤマノボレはここから送信された可能性があるとのことです。

 以上、「島原、天草、外海」の旅のご報告を終わらせていただきます。

 読んでくださって、ありがとうございました!

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January 30, 2008

島原、天草の旅

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 島原、天草、長崎を友人Yさんのクルマで案内してもらいました。隠れ切支丹の里を訪ね、そこに建てられた棟梁建築家・鉄川与助やフランス人神父「ド・ロさま」が設計した天主堂や教会を見て回るというのがテーマ。

 このルートをちょうど100年前に辿った人たちがいます。それは与謝野鉄幹に率いられた北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里ら五人の詩人たち。この「五足の靴」の旅は1907年(明治40年)7月28日から8月27日までかかりましたが、そのルート+αをほぼ二日で回ってしまえるのですから、道路整備の恩恵はたいしたものです。

 二日間の旅で長崎、天草の印象はガラッと変わりました。

 長崎というと市内ぐらいしか探訪していませんでしたが、こんなにも変化に富む海岸線をもっているとは思っていませんでした。考えてみれば、長崎は最も長い海岸線を持つ県なのですが、特に西岸の美しさ、海の碧さには感動しました。また、天草というと「耕作地のない島-->隠れ切支丹の里で貧乏人の子だくさん-->悲惨な生活」というネガティブなイメージがあったのですが、それを180度ひっくり返されました。面積は約1,000km2という巨大な島に空港まであってボンバル機が飛びまくっているという。しかも、縦横に張り巡らされた立派な道路網。心の中で「いままでマイナーなイメージばっかり持っていてすまぬ、すまぬ」と何回謝ったことか。

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【雲仙普賢岳】

 出発地は諫早。朝早く、頂上に雪を頂く雲仙普賢岳がキレイに見えたのには感激しました。出発は9時過ぎ。ギロチンで有名な諫早湾干拓の上を通れば、島原半島までは一直線。Yさんによると「諫早湾の海を一番汚しているのは実は海苔の漁師。ノリの胞子をつけた網を酸に浸し、海にひたす酸処理を行うことで、どれだけ海を汚しているのか。地元民はよく知っているから〝カネのために騒いでいるんだろう〟と思われているみたいだ。だから中央のメディアが環境問題としてとらえて報道しても、運動がいまひとつ地元では盛り上がらない」とのこと。地元にきてみなければよくわからない、いろんな問題があるんだなと思いました。

 国見あたりから山岳ルートに。それにしても、日本は道路をつくりまくっていて、まゆやまロードは平成新山をぐるりと見せてくれます。ちなみに眉山(まゆやま)は「島原大変肥後迷惑」の元凶。寛政4年(1792年)4月1日(新暦5月21日)、普賢岳の噴火にともなって発生した地震によって普賢岳近くの眉山が崩壊、有明海に流れ落ちた後(島原大変)、津波が対岸の肥後国天草に襲いかかって(肥後迷惑)合わせて1万5000人が亡くなったという大惨事。山が崩落するなんていうのはどんな事態なのか想像もつきませんが、1990年から1995年にかけての噴火では、逆に眉山が火砕流から島原市中心部を守ったといいますから何が幸いするか災いするのかわかりません。

 それにしても雲仙普賢岳は近づくにつれて異様さを増してきます。溶岩ドームはオーバーハングしていまにも壊れそう。しかも、白い噴煙が上がっている。よく地元民は怖くないな、と思いますね。

 下まで降りると火砕流被害をとどめた公園が道の駅に併設されています。なんでもこの道の駅は日本最大級とか。火砕流に埋もれた家々などを見物した後、軽く昼食をとりました。

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【原城跡】

 この日は天草へ渡るつもりでしたが、フェリーが出る口之津口に向かう前に、ぜひとも見たいと思っていたのが原城。そう、島原の乱で反乱軍が立てこもった城跡です。

 バカ話をしながらのドライブだったんですが、ふと会話が途切れ、「ここやけん」と言われた瞬間、ちょっと背筋に寒いものを感じました。

 なにせ3万人とも3万7000人ともいう人々が殺された場所。幕府軍は城内にいた者のうち、内応していた1人を除き、女子供を含めた全員を殺したといいます。しかも、バラバラにして。今でも掘れば必ず人骨が出てくるとのこと。

 景色は美しく一日中いても飽きないということで、その昔は日暮城といわれていたらしいのですが、まだ大量の人骨が埋まったままということの薄気味悪さがあるためでしょうか、その風景が味わえません。天気も曇りでしたが、本当にうち捨てられた場所という感じがしました。

 普賢岳は島原からも天草からも見えたのですが、もちろん原城跡からも見えました。絶望的な籠城戦を戦っていた一揆軍たちは、どんな想いで普賢岳を見つめていたのかな、と思いました。

 それにしても観光客も数人程度。骨と髪だけになった遺体を供養したというホネカミ地蔵などもありましたが、正直、なにもかも怖かったです。

 その後は、島鉄フェリーの乗り場へ。天草までは30分の船旅。

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【崎津天主堂】

 「天草へ渡る」とひと言でいってしまいましたが、実は天草の主島は上島と下島のふたつがあります。島原・口之津と結ばれている鬼池はちょうど上島と下島の中間地点。今回は、下島を時計回りでグルッと一周しました。

 天草へ渡ったのは今回が初めて。フェリー乗り場のある鬼池から天草市に向かう道はかなりの混雑ぶりでしたし、東京などにもある様々な業種のチェーン店のほとんどがけっこう大きな店舗を出していました。

 しかも、驚いたのが道路の整備ぶり。上天草は南側が平地が多いのですが、北側は山が多い。その山々を縫うかのような道が張り巡らされています。

 「けっこう大物の政治家が出てないと、ここまで整備されないんじゃないのかな」と思ったら内閣官房長官・外務大臣・厚生大臣などを歴任した園田直が天草出身でした。子の博之も代議士ですが、なかなかやるもんですな。

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 などと俗っぽいことを考えながら走っていたのですが、向かった先は崎津天主堂。

 もちろん「隠れの里」です。最初の教会が建てられたのはなんと1569年といいます。

 その後のキリシタン弾圧では、今の正面の祭壇のある場所で、厳しい踏絵が毎年行われたそうです。

 《そういう、いわば迫害を前提とした踏絵の場所にわざわざ祭壇をすえて教会をたてたというは、精神風土としてのキリスト教の一面と無縁ではあるまい。まことに執念深い》(『街道をゆく 島原・天草の諸道』司馬遼太郎、朝日文庫、p.290-)。

 この話、『島原・天草の諸道』の最後の最後に出てくるので印象的でした。明治6年にキリシタン禁制がとけるとすぐに教会が建てられ、明治21年には、初期の木造天主堂を建築。現在の天主堂は昭和10年に建てられた建てられた美しい「西海の天主堂」です。設計は棟梁建築家・鉄川与助(1897~1976年)。鉄川組は長崎の様々な天主堂を建てましたが、本人は最後まで仏教徒のままでした。

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 目指す先は決まっているのですが、実際に行くとなると大変。天草の下島は、般若の面が横を向いたような形をしているのですが、崎津はその口というか喉のあたり。

 断崖の続く海岸線が深く入りこんだ羊角湾の奥の奥にあるんですから。

 逆にいえば、ここまで奥に入り込んだところではなければ、切支丹たちは二百数十年続いた禁制の時代を隠れられておられなかったのかもしれません。

 左手に海を見ながらしばらく走った後、山道に入りワインディングロードを延々と走り抜けてやっと着いたのが崎津。もう画に描いたような「天然の良港」です。

 漁村は土地が狭いのですが、目指す崎津天主堂の敷地のすぐ隣も民家。

 何枚か写真は撮ったのですが、良い撮影ポイントは505段の階段を登った丘からしかありません。

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 しょうがないので登ったのですが、笑ってしまったのがこの「チャペルの丘」の入り口が神社なこと。

 大きな鳥居をくぐって神社の境内を通った後も、何回も鳥居をくぐらないと頂上にはあがれません。

 しかも、頂上には金比羅さんがまつられてあります。

 まさに日本的な風景でした。

 しかし、やっぱり天草ではカトリックが強いのでしょうかね。

 山上には金比羅さんを圧するかのような巨大な十字架のモニュメントが建設され、夜にはライトアップされるみたいです。

 カトリックの漁師たちは港に出入りする時には天主堂に向かって十字を切るそうですが、船の波紋が美しかった。

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【大江天主堂】

 崎津天主堂からそう離れていないところにあるのが大江天主堂。

 小さな建物ですが、人びとの記憶に残ることは多い天主堂です。

 隠れキリシタンの発見はカトリック「業界」にとってとてつもないビッグニュースでした。

 しかし、なにせ200年以上も隠れていたため、彼らは禁制が解かれたとはいってもなかなか表には出てこなかったそうです。明治維新直後に名乗り出た浦上の信者たちは、殺されはしませんでしたが、明治政府から江戸時代と同じような責苦を負わされましたし…。

 そうした中、崎津天主堂を拠点にしていた神父が大江地区に赴き、住民を集め説教を行うと、その中から3人が名乗り出てカトリックに改宗したそうです。

 崎津からは近いといいながらも、大きなトンネルを2本は通らなければ行けない場所ですし、昔は船しか交通手段はなかったと思います。崎津と同じように湾が深く入り込み、隠れるにはもってこいの場所だったでしょうね。

 次に、前にもチラッと触れましたが、与謝野鉄幹に率いられた北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の学生5人が天草を旅したのは、この大江天主堂のガルニエ神父を訪ねるためだといいます。後年、北原白秋は『邪宗門』を発表、「南蛮文学」はブームとなったそうですが、この中に吉井勇の名前を見るのは意外な気がしませんか?

 吉井勇というと「かにかくに祇園は戀し寝るときも枕の下を水のながるる」なんという歌を思い出しますが、ここでは「白秋とともに泊りし天草の 大江の宿は伴天連の宿」というウブな歌が刻まれています。そんなことを話すと、Yさんは「聖と俗はいつの時代も背中あわせ」と答えるのみ。

 まあ、このガルニエ神父は文学者五人や信者だけでなく住民から「パアテルさん」と呼ばれて親しまれ、天主堂建設にあたっては、2万5000円の建設費のうち2万円を工面したそうですが、それらは赴任してから一枚も服を買わなかったり、フランスへの帰国手当を貯めた私費が含まれていたといいます。

 白亜の建物は印象ですが、ここも設計は鉄川与助。

 崎津はなぜか閉まっていて入れなかったのですが、大江天主堂はオープンされていました。

 「撮影禁止」ということでご紹介はできませんが美しく明るい天主堂でした。

 しかし、崎津にしても大江にしても外壁がキレイなんですよ。

 これって空気が汚れていないからなんですかね。

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【群芳閣 ガラシャ】

 ということで、伴天連の文化にひたりまくっていたのでありますが、ふと時間をみると、もうかなり遅くなっています。天草は当たり前ですが島。熊本とは天草五橋とつながっていますが、そこから長崎に帰るのは大変。鬼池からフェリーに乗って口之津まで戻るしか手はありません。フェリーの出港時間を調べてみると、最終は18:30となっていて、どうにか間に合いそうだったのですが、よーく見てみると、その前の時間とは色が変わっている。「ま、まさか…」と思って、細かな字を読んでみると観光シーズンだけにしかこの便は運航されていないとのこと。

 ちょっとガッカリもしましたが、いまから長崎に戻っても、開いているのは全国チェーンの居酒屋ぐらいなので、天草に一泊することに決めました。

 Yさんが天草の地元自治体につとめている友人に電話して推薦されたのが「ガラシャ」。「細川の姫さまのガラシャね」と確認し、カーナビに入力すると、もう目的地までの誘導が始まるのが素晴らしい。

 「もうゆっくり行こうや」ということになり、妙見浦や「五足の靴」が遭難しかかった下田北から下田南に抜ける途中にあるブルーガーデンなどに寄って景色を楽しみました。

 「群芳閣 ガラシャ」に着いたのは6時すぎ。

 旅装を解いて、さっそく夕食。なんとお友達のご厚意で素晴らしい大皿も加わっています。

 ありがたい!

 にしても、ここはいい宿ですよ。温泉も肌に優しい。硫黄臭い温泉は苦手なのですが、ここはアルカリ泉というか、まったく臭くないのがいいです。

 絶対お勧めです。

 小生が泊まったのは「吉井勇の間」。「かにかくに…」で有名な吉井勇ですが、こんなのもいいですよね。

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「雨降りて祇園の土をむらさきに染むるも春の名残りなるかな」
「先斗町の遊びの家の灯のうつる水なつかしや君とながむる」
「比叡おろし障子をさむく鳴らせどもわがおもひでやおほかたは艶」

「群芳閣 ガラシャ」 熊本県天草市天草町下田北1296 TEL0969-42-3316

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February 16, 2007

高千穂の印象

Takachiho

 高千穂は遠いです。

 FC東京が二次キャンプをはっている都城で、鳥栖との練習試合を見終わったのは16:30頃。前日に頼んでおいたタクシーに乗って都城駅へ。そこから延岡に着いたのは19:41ですから、3時間以上かかります。しかも、延岡からバスあるいはタクシーでさらに1時間というんですから、もしかして、国内では東京から時間的には最も遠い場所なのかもしれません。

 真っ暗闇の中、おそらく飲酒運転もまじっている地元の人たちが100kmで飛ばしているクルマをぬうようにして走る約1時間は恐怖体験に近いものでした。

 死ぬ思いでようやくついたバスセンターで待ってくださったGさんはガイドの資格ももっておられる方。宿泊先の「春芽」はもう食事の時間が過ぎているので、「ここへどうぞ」と案内されたのが「居酒屋けんちゃん」(0982-72-5224)。大衆的な名前ですが、店の前には、ご丁寧にしめ縄と紙垂(しで)という清浄を示す飾りなんかもぶら下がっていて、なんかお祭りでもあったんでしょうか。とにかく、高千穂では一夜氏子になって"ネ申遊び"を楽しむのが大切と聞いていましたので、さっそくご相伴にあずかります。

 宿は山の中に入ったところで、周りは真っ暗。星が美しい。けど、寒い。という感じ。

 朝起きて窓をあけると氷点下。つか、霜がすごい。身支度をととのえて朝ご飯をいただき、いざ、高千穂の神社めぐりへ。

 さて、高千穂を彩る神話は主に日本書紀、古事記、日向國風土記の三つのテキストから出ています。だいたいこの順番に脚色度合いが多くなってくるといいますか、例えば、キリスト教の世界でも新約聖書の4つのイエス伝(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)だけではモノ足りなくなった信者たちが創造力を膨らませて様々な福音書をつくってしまった、みたいなものでしょうか。

 天孫降臨伝説は天照大御神(アマテラスオオミカミ)が孫の迩迩芸命(ニニギノミコト)を地上の国へとつわかし、天孫=天皇家による支配を確立する"いわれ"を説明したもので、その場所を日本書紀は「日向の高千穂のニ上の峰」 、古事記は「筑紫(九州)の日向の高千穂のくしふる峰」と書いています。

 文献学的にどうなっているのかというところまでは知りませんが、宮崎の高千穂町というのはこうしたテキストで書かれた地名がワンセットで揃っているというか、揃えたところが強みです。天孫降臨の地はこの高千穂町以外にも、FC東京のキャンプ地からも見えた高千穂岳ではないかという説(宮崎県西諸県郡高原町)もありますが、高千穂町の場合、天岩戸神社や天安原まであったりするわけですから、念が入っています。 しかし、あまり声高に自己主張していないところに好感がもてます。

Amano_manai

 しかし、まあ、固い話はおいといて、夜神楽でも33夜にわたって延々と繰り広げられる天孫降臨の物語をおおらかにめぐってみましょうか、ということで神社巡りの最初は「天真名井(あまのまない)」から。まずは霊験あらたかな泉からわく天湧水でお浄めを、みたいな。

 しめ縄のまわされた大きな欅(ケヤキ)の根元からこんこんとわく湧水。朝早く行ったので、冷たい空気が比較的暖かな水面にふれて水蒸気がたちのぼっていたのには感動でしたね。

 白秋などは「天なるやくしふる峰、高千穂の御田居の郷、真名井湧く老木がもと、照る玉のま澄むは見つつ、しづく石かきろふ見つつ、心處に高くはゐしか、神さぶと清くは座しつれ、今にして、我はや死にせむ、この道半ば」「ひく水に 麻のをひてて 月まつは 清き河原の 天地根元作りの家」とうたっていますが、素晴らしい清浄感です。

Kushifuru_jinja

 ここの水をつかい、次に向かった先が櫛触(くしふる)神社。

 古事記には「筑紫の日向の高千穂の久志布流多気(くしふるたけ)に天降り」とありますが、このくしふるたけはここだという言い伝えによって小さな山全体が御神体となっていたらしいのです。中腹には元禄7年(1694年)に当時の延岡藩主や村人たちが建てた社殿があり、それが櫛触神社。 標高は約500メートルぐらいでしょうか。さすがに寒いです。

 まだ朝は早く、誰も参道を登ってきません。

 静か。

 ここをひとりで登っていった時の静謐に満たされていくという感じは、ちょっとは味わえないものでした。

 神社の建物自体は屋根も銅拭きで新しいものですが、もう一度、ここに帰ってきたい。強く、そう思いました。

 櫛触神社から連なる丘の上にあるのが天原遥拝所(たかまがはらようはいしょ)。

Takachiho_kyo

 ここら辺から、ちょっといろいろあるのですが、高千穂町はあくまでケチャみたいに3ヵ月もお神楽を村人総出で舞ってるようなところで、しかも、あまり観光化されていない、というあたりが貴重ということで。レヴィ・ストロースもごく普通に感激していたらしいですが、おそらく、史跡というより、人々の間に残されているかもしれない"なにものか"に感動したのかもしれません。

 天原遥拝所(たかまがはらようはいしょ)は天孫が降臨した後、ここに立って、高天原を遙拝した場所とのことですが、いまは木々がおおって空をみあげられません。石に十字が彫られているのが、なんか不思議。

 さ、ここまではいいんですが…。

 なにせ天岩戸(あまのいわと)神社と天安河原(あめのやすかわ)まであるんすからねぇ。高天原(たかまがはら)は天上じゃないんかい、みたいな。さっき天原遥拝所で見あげたところとの空間関係はどうなっているのか…ということろまでは云わないのが大人の対応ということで。とにかく奈良の大神神社が三輪山をご神体としているように、天岩戸神社は川の対岸にある岩場を天岩戸としています。

 さらにすごいところがあるんです。

 イザナキとイザナミが高天原(古事記)で天沼矛を下界に突き刺し、かき混ぜて引き上げると、矛の先から滴り落ちた塩が積もり重なって島になったのが石殷馭慮島(オノゴロ島)。イザナキとイザナミはオノゴロ島に降り立ちそこに天御柱(あめのみはしら)を建てたというのですが、なんと、高千穂にもオノゴロ島が用意されているんです。さすがに、ガイドさんに「ここは辛いですねぇ」と漏らしてしまったのですが…滝が美しい高千穂峡の隣にあるので、まあ、ついでに立ち寄らざるを得ないわけです。

 高千穂峡はなかなか見事です。

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 雲海があったら見事だな、と思うのが国見ケ丘からの眺めです。ここからは反対側に阿蘇山も見えたりします(写真は阿蘇山が見える方で、ちゃんと阿蘇山が見えています)。

 後は高千穂神社をめぐって、終了でした。ここは那須与一の扇落しの件で有名な畠山重忠が頼朝の代参で訪れたといわれています。

 とにかく、次は夜神楽を一夜氏子になって見てみたい、と思いました。

 なかなか素晴らしいですよ、高千穂。

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