文化・芸術

February 06, 2020

『菅原伝授手習鑑』道明寺の歌舞伎的工夫

 

二月大歌舞伎の昼の部は十三世片岡仁左衛門追善興行で『菅原伝授手習鑑』の加茂堤、筆法伝授、道明寺の通し狂言。

よく飽きもせず毎年かけるなと思うような寺子屋とは違って五年に一度ぐらい通しの中でかかるぐらいの段ですが、様々な歌舞伎的工夫がみえるな、と改めて思ったのでチラッと。

菅丞相(菅原道真)は81年の国立劇場と88年の歌舞伎座が十三世片岡仁左衛門(苅屋姫は玉さま、秀太郎)、95年の歌舞伎座からは孝夫丞相で02年、10年、15年、20年とほぼ松嶋屋の家の狂言のような形で上演されています(苅屋姫は孝太郎、玉さま、孝太郎、壱太郎、千之助)。

歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』の菅丞相は十三世と十五世の仁左衛門親子が演じ、苅屋姫も秀太郎、孝太郎、千之助という伯父、親子の松嶋屋で40年近く上演されてきたんだな、と改めて驚きます。

スッキリした二枚目の菅丞相は仁左衛門親子のハマリ役だし、ちょっと長くて通しの中でかけられてきたことを考えると、高麗屋兄弟などがやたら寺子屋をやりたがる気分のもわからないではないかな、とも思えるほど(正直、迷惑ですが)。

ここで考えたいのは苅屋姫。

歌舞伎の「道明寺」は、文楽では二段目の杖折檻、東天紅、丞相名残の段をまとめたもの。杖折檻と東天紅はあまり変わってはいませんが、丞相名残の段は相当、変えられています(81年の時や66年に十七世の勘三郎が菅丞相を演じた時までは「河内国道明寺」と題されていて、その動画は観ていないのですが)。

文楽の方では覚寿が丞相に配所での寒さしのぎにと伏籠に掛かった小袖を送ろうとして、その中に苅屋姫が隠れているという処理で、苅屋姫も最後の最後に出てくるだけですが、生身の人間が演じる歌舞伎ではかなり早くから苅屋姫が姿を現します。

そして、歌舞伎では苅屋姫が養父である菅丞相に恋しているんだろうな、というつくりにしているんじゃないかな、と。それが叶わないから斎世親王との逢瀬にいってしまったんだろうけど、その科で菅丞相が太宰府に流されることとなって、自分の心を知った、みたいな。

『摂州合邦辻』の玉手御前が本当に自分の義理の息子に恋したように拡大解釈したように、菅丞相の出立を見送るシーンの苅屋姫は義理の父親に恋しているようにも見えるように変えているんじゃないかな、と。

苅屋姫は赤姫のつくりだし、八重垣姫のように柱抱きをして丞相をみているし、さらに丞相が苅屋姫を懐手にして渡す笏は、どちらもファルスを表しているんだろうな、と。

そう考えてみると、孝夫は玉さま、自分の息子である孝太郎、孫の千之助相手にこんな役をつとめたのは凄いw

しかも、今回は玉さまを三婆の覚寿に配して、中川右介さんのいうマスタースクールで鍛えてもらうということまでやっているし、40年近く家の芸としてやってくると、様々な工夫が目にみえてくるのかな、と。

「なけばこそ 別れを急げ とりの音の 聞えぬさとの 暁もがな」

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January 16, 2020

『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』の影の主人公はジミー

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雪組公演『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』を見て、セルジオ・レオーネ監督の原作映画の謎が個人的に解け、この作品はユダヤ人ギャング団の話しではなく、もっと大きな全米トラック運転手組合(Teamsters)の話しだったんだ、と勝手に理解しました。John Rogers Commonsの米国労働史の資料などを雑に読みながら、日本の港湾労働と893の関係と同じというか、日本の893映画も実は港湾労働や炭鉱労働などの現場を背景に描かれているのと似ているんだろうな、とも感じました。

チームスター(Teamsters)は1903年に発足した全米最大手の労働組合のひとつで、Teamsterは元々、荷車の御者の意。正式名称、International Brotherhood of Teamsters(IBT)でインターナショナルが付いていますが、腐敗した組織としてチームスターと並んで有名な国際港湾労働者協会(ILA)もインターナショナル付き。なんかあるんでしょうか。

創生期のチームスターは米国労働史においては、ほとんど犯罪集団と位置づけられていますが、やがてルーズベルト大統領が大会で演説するほどの組織に発展します。

そんな中でも暴力沙汰は絶えず、さらには二代続けての汚職による会長辞任でAFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)からチームスターは除名されるほど。その後に就任したのが『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』で労組委員長のジミーのモデルとなるジミー・ホッファ。

ホッファの前会長は全ての輸送網を傘下におさめようとして港湾労働者労組のILAを襲撃したりしましたが、ホッファは逆に資金援助したりするなど政治的な動きを示します。しかし、ソフト的な対応だけでなく、禁酒法時代に最も儲かったアルコール輸送を製造元から抑えるため醸造所労働組合も合併しようとして、反対派を襲撃したりするモンスターぶりもみせます。

あまりにも襲撃事件が頻発したことからAFL-CIOは襲撃禁止の協定を結ばせることに(893の手打ちか…)。

ホッファは均一労働条件のマスター契約を拡大するなど、労働者の権利拡大と組織拡大に成功しますが、50-60年代のラスベガス開発期(映画『ゴッドファーザー』の背景)にマフィアへの資金援助を行い、これが致命傷となり、Netflixの『アイリッシュマン』で描かれているようにマフィアによって殺されたと推定されます。

日本でもY組のT岡組長が「日本は貿易で生きていくしかない。その貿易の貨物を船舶から港湾倉庫まで運ぶ港湾労働者を抑えれば、大きな力が生まれるとともに、最悪だった港湾労働者の労働条件も改善される(←これ重要)」と考え、港湾に食いこんでいったのと似ているでしょうか(日本の場合、陸上の長距離輸送は国鉄が1960年代まで握っていたため、トラックは大きなファクターにはなりえませんでした)。

宝塚版の『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』では主人公ヌードルスの父が港湾ストで殺されたという設定を加えられます。さらにギャング仲間で最後には商務長官となるマックスにも「親父は病院で狂い死にしたんだ」という映画にもなかった説明が効いて、狂ったような計画を立てて実行するものの、最後はより大きなモンスターの餌食になるという流れもスムース。

映画では、なんでマックスだけ助かったか、その理由と顛末は説明されてないというか、全部、マックスが仕組んだこと、みたいな感じになっていて「さすがにその設定は無理があるんじゃ」という批判もありました。映画は最後、ヌードルスが阿片窟で高笑いして強引に終わるんですが、マックスがたまたま生き残って労組委員長のジミーに助けを求めたという宝塚流の方がスッキリします。大やけどを治療するために、労災事故で死んだものの、親類縁者がなかったために放っておかれた組合員の名前で保険証をつくるという下りは、古い言い方をすればアトム化した労働者という存在を意識させてくれます。そこには東欧からのユダヤ系移民という共同体もないわけで、そんな労組を仕切るジミーはどこか甘いところもあったマックスたちより一枚上手なわけです。

ジミーにはラスボス感が増し、アメリカに徒手空拳で立ち向かったユダヤ人ギャングは破滅したけど、ニューディールの波に乗って合法的な労組という新しい組織を立ち上げた者が勝つというか、新しい体制になる、というのは映画より、よほど素晴らしいオチ。

そしてギャングが破滅するキッカケとなった禁酒法廃止と労働者の権利拡大を進めたニーディール政策をともに決めたのはチームスターの大会で挨拶までしたルーズベルトでした。ギャングたちは禁酒法を逆手にとってのし上がるけど、ルーズベルトが禁酒法を取りやめたら、途端に行き場を失うわけです。

映画では、なぜレオーネが途中で組合のボスを出したか分からなかったのですが、舞台ではルーズベルトが強調されており、それを補助線として意識すると、ニューディールでのし上がる民主党支持の労働組合と禁酒法撤廃で破滅すらギャングを対照的に描きたかったかったからなんだろうな、と。といいますか、義兄弟のように描かれるヌードルスとマックスの役は二人で一人のジミー・ホッファそのものなのかも。実際のホッファも組合員拡大のため、暴力沙汰は厭わず、対立組織に爆弾投げ込んだりしてたから、歴史上のジミー・ホッファの表の顔がジミーで、裏の顔がマックスなのかも…でも組合モノではヒットしないから、ギャングモノにしたんだろうなレオーネは。

そして底辺の人々は、左派的政策でも、やはり救われない部分があるじゃない、という悲しみなんだろうな、と。それはワンスアポンアタイムインアメリカじゃなくて、今もなんだよ、みたいな。

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January 27, 2019

菊田一夫作『霧深きエルベのほとり』の対照構造

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 現在、宝塚大劇場では菊田一夫作の『霧深きエルベのほとり』が上演されています。1963年初演で、再演は83年以来36年ぶり。水夫が父親との確執から家出してきた深窓の令嬢と恋に陥るが…というベタな作品なんですが、そんなベタな話に感動するのかわからないけど感動してしまう。宝塚大劇場の客席は2550ですが、平日も立見の入れたキャパの2710人に迫る行列が出ていました。なぜなのか、と考えながら新人公演を含めて3公演見てきました。

 観劇後に考えると菊田一夫の脚本はダブルイメージのシンメトリーな構造を持っていることがわかります。

・オープニングとエンディングが同じ歌
・オープニングでは客席から最も近い銀橋に立たせ、ラストでは最も遠いフランクフルト号の船首に立たせる
・主人公は女に振られたハンブルグ港におり立ち、女を振ってハンブルグ港を去る
・上流階級と庶民の二つのカップルが誕生する
・ゲスな男と高貴すぎる男が一発ずつ殴りあう
・男に去られた女が、女から去った男の話を聞いてやる

という対照構造が浮かび上がり、そうした構造がうねって若い二人が出会って別れるだろうなという予感の物語に推進力を与えている感じ。

さらに

・ビール祭りの庶民の喧騒vs上流家庭のパーティの盛り上がりのなさ
・自分のことしか考えてないフリして利他的な船員vs文化多元論主義者だけど実は自分のことしか考えてない青年貴族
・一途で思い切った行動に出るが実は家に縛られている深窓の令嬢vs思い切って結婚する主人公の妹

 という構造もみえてきます。

 大衆演劇は90分のプログラム・ピクチャーと同じ尺の中でダブルイメージ、対照構造で物語の骨格を印象付けて、物語をドライブさせていくんだな、と。というか、こうした脚本の構造がしっかりしているから、ありきたりすぎる物語の設定に説得力を与えているいるんだろうな。さらに脚本の力を持ってしても越えられない古さは演技力でカバーする、と。

 でも、こうした複雑な構造を考えすぎると、文楽のようにあまりにも高度になって庶民の支持を失うことにもなりかねない。そうなったのは、こうした構造をひねりすぎて、わかりにくくなっていったからなのかな、とも考えました。

 菊田一夫は映画『哀愁』(Waterloo Bridge)のウォータールー橋を数寄屋橋に置き換え、ラジオの連続ドラマにするために戦時下の男女の出会いを何回も繰り返すという構造を考え出したのですが、大衆が何に反応するか、ということを熟知していたのかな、と。

 菊田一夫は商店で働いていた時代、美しい女性に恋をしたが振られたという経験を持っているらしい。時代背景も日本の戦前。そうした厳しい時代のリアリティがカールに投影されているんだろうな…と思いながら岩波から出ている『菊田一夫評伝』を読んでいたら、修行時代にお嬢様に恋をして、その美也子さんがお嬢様だったので宝塚が好きで、気を引くために「歌劇」に詩を投稿していたというのも知りました。

石段に腰を下ろした一人のマドロスは
背中をまるめてパイプをふかしながら
じっと沖を見つめてゐた。

まるで、『霧深きエルベのほとり』のハンブルグ港のシーンみたい!

 宝塚歌劇の各公演ごとのステージ写真集などが載っているLe Cinq(ル・サンク)というムックには、脚本も掲載されています。それも読んでみたんですが、カールとマルギットを探す警察官たちの出番が1)最初に出てくるビール祭りではカウフマン警部と部下2)次のホテルではシュラック家の当主を連れ3)湖のレストランではフロリアンもと徐々に登場人物を増やして見物にわかりやすく紹介してる感じ。初歩的な技術かもしれないけど、んまいなぁ、と。


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December 23, 2018

『アリー/スター誕生』

『アリー/スター誕生』を初日に観たんですが素晴らしかったです!

ガガ子はマドンナが手にできなかった映画界での地位を手に入れ、ブラッドリー・クーパーはイーストウッドの後継者になりそうな感じ。

『ハング・オーバー』から大好きだったけど、ブラッドリー・クーパーがこんなに凄い映画人になるとは思わなかった。ガガ子も本当に可愛いんですよね。

安心して観ていられたというか「どうせこれはエフェクトかけているんでしょ、はいはい」みたいな感じがなく、スクリーンに没入できた。

クーパーは役者出身だけあって、撮影対象の人物が良く浮き上がるローアングルからのボディショットが多くて、それが芝居を引き立たせていました。

最後のシークエンスの長回しはその集大成。やったな、という感じ。

だから長回しのボディショットの後、クレジットに移る前の本当のラスト・ショットの俯瞰が効くんだな…。

お見事!

ロングドレスを逆光で背後から撮って、長回しに入って、最後の最後に…という計算されつくし、誰にでも印象付けられるカットで締めくくるとは、本当に素晴らしい!

往年の名画を観ているようでした。

例えば、途中でガガ子が自分のことを「鼻が大きいの」と語るのは76年のバーブラ・ストライザンドへの、ロングドレスは54年のジュディ・ガーランドへのオマージュとはっきり分かります。

レコーディング・スタジオでの初録音の際のヘッドフォンの使い方も、ブラッドリー・クーパーはきちんと76年作品をオマージュしている。『アリー/スター誕生』はなんて、映画的に由緒正しい作品なのか。

ガガ子の起用といい、ブラッドリー・クーパーは制約の中で自由にやっている感じ。素晴らしい!ガガ子のお父さん役は、実際のガガ子のお父さんみたいな感じ(スマスマに一緒に出てたw)。いかにも、イタリア系という感じの軽さで、しかも家族を愛し、同じイタリア系のシナトラを愛している、みたいな。そういう設定の仕方がんまい。

ブラッドリー・クーパーは『アメリカン・スナイパー』でクリント・イーストウッドから「主演/監督」のポジションを継承したのかもしれません。

次世代のイーストウッドはクーパーなのかもしれません。リメイクというのは勝負してないかもしれないけど、今の時代なら仕方ないかも。

Greatest Showmanについて宝塚の演出家、上田久美子先生がVRというか体験型アドベンチャーのように感動を強要させられるとか言ってたけど、それとは真逆の『アリー/スター誕生』の感想を聞きたいと思いました。

音楽についていえば、『アメリカン・スナイパー』で奥さんを口説く時に「カントリー・ミュージックは好きか」という台詞があったんですけど、ブラッドリー・クーパーはアイデンティティーとしてカントリーをリスペクトしている感じ。

ブラッドリー・クーパー、イイ奴だな、と。

ブラッドリークーパーは『ハング・オーバー』の中で、とりあえず、物語を前進させていくでしょ?自分では解決できずに、最後は人の力を頼むんだけど、そんな役がピッタリ合っていて、本当に好き。

いつの間にか、あんな大スターにして、監督、プロデューサーにもなっていて、凄いな、と。

ブラッドリー・クーパーは「クーパーといえばゲイリー・クーパー」という芸名クーパーの頂点を、久々に更新してトップになったかもw

セルフ・プロデュースのんまさは、イーストウッドと違い、さすが政治学で有名なジョージタウン大学を卒業しているという感じがしますw

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November 08, 2018

清元栄寿太夫の十六夜清心

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 今月の歌舞伎座には、ぼくが全ての演劇の中で最も好きな『花街模様薊色縫 十六夜清心 さともようあざみのいろぬい いざよいせいしん』がかけられています。

 初演は安政の大獄が猖獗を極めていた安政六年。トルストイの『にせ利札』に先立つこと40年あまり前に、めくるめく悪の自己増殖運動をあますところなく描いています。

 女犯の罪で寺心中しますが、二人とも死にきれず、別々に助かります。しかも死にきれない清心は、ふとしたはずみで殺人まで犯してしまう。さすがに腹を切って死のうとしますが「しかし待てよ…今日十六夜が身を投げたも、またこの若衆の金を取り、殺したことを知ったのはお月様と俺ばかり。人間僅か五十年。首尾よく言って十年か二十年がせきの山。襤褸を纏う身の上でも、金さえあれば出来る楽しみ。同じことならあのように、騒いで暮らすが人の徳。一人殺すも千人殺すも取られる首はたった一つ。とても悪事をし出したからは、これから夜盗家尻切。人の物は我が物と、栄耀栄華をするのが徳。こいつあめったに死なれぬわい」心変わりする場面の素晴らしさ。

 こんな作品が大劇場で上演されて受けていた江戸時代の文化度の高さを感じるとともに、所詮、悪事などはバレなけばOKで、良心などはハナッから信じない日本人のホンネを見事に描いていると思います。

 序幕で演奏される「梅柳中宵月」(うめやなぎなかもよいづき)も清元の傑作。なにせ文句が素晴らしい。

♫朧夜に星の影さへ二つ三つ、四つか五つか鐘の音ももしや我身の追手かと、胸に時うつ思ひにて、廓を抜し十六夜が
落て行衛も白魚の、船の篝に網よりも、人目厭ふてあと先に、心置く霜川端を、風に追れて来りける
嬉や今の人声は、追手ではなかつたさうな、廓を抜てやう/\と、爰まで来たことは来たれども、行先知ぬ夜の道、何処をあてどに行うぞいの
暫し佇む上手より梅見帰りの船の唄
負んぶ忍ぶなら/\闇の夜は置しやんせ月の雲に障りなく辛気待宵十六夜のうちの首尾はエヽよいとの/\
聞く辻占にいそ/\と、雲脚早き雨空も、思ひがけなく吹晴て、見かはす月の顔と顔♫

 これを謳うのが清元延寿太夫の二男の歌舞伎俳優、尾上右近というより、二刀流で襲名した七代目栄寿太夫。今回は栄寿太のお披露目興行でもあるんです。なにせ、右近=栄寿太夫の祖父は清心を演じる菊五郎…と勘違いしていたのですが、右近は菊五郎の孫ではなく、六代目菊五郎の曽孫、鶴田浩二の孫でした。

 そうした縁のある爺様が、孕ませた女郎との心中に失敗し、ついでに辻斬りまでしてしまうが知ってるのはお月さんだけ、と居直る話しの心根をうたうのが孫の右近=栄寿太夫という図式。遠縁の乱業を切々と歌う舞台を、父親の延寿太夫が後見するという素晴らしさ。

 女郎を孕ませて心中したけど死に切れず、上がった岡で人を殺してバレなきゃこのままという狂言を遠縁の一家が総出で謳いまくるという日本文化の幅広さの極北のような舞台でした。

 延寿太夫は元々大好きだったし、栄寿太夫も高音が延びてました!延栄太夫もソロパートでうたわず、栄寿太夫を支えていた感じ。いつものイキ顔でうたうすがたも見たかったけど、ま、仕方ありません。いやー、良い十六夜清心でした。あとは玉孝の一世一代で見たいかな十六夜清心は。

 昼の部の一幕は『お江戸のみやげ』。贔屓にポーンと花を入れ、小袖を御礼として貰うという、実に芝居好きの琴線に触れる川口松太郎の心温まる本。そんな良い芝居を観て、安田靫彦や堅山南風、東山魁夷の絵を見ながらお弁当を使える歌舞伎座は、やっぱり良いところだな、と。

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April 20, 2018

プラド美術館展

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 昨日は雨模様の中、上野の国立西洋美術館に出向き、プラド美術館展を見物してきました。

 実はお恥ずかしながらベラスケスの本物を見るのは初めて。

 世俗的な静物画だけがイギリスなどに流出していますが、宮廷画家ベラスケスの重要な作品は基本的にプラド美術館に所蔵されていて、ラス・メニーナスはたぶん門外不出でしょうから、スペインに行ったら、見物しようと思っています。

 今回は7点の作品が展示されましたが、最初の『ファン・マルティネス・モンタニィースの肖像』から圧倒される。

 今描き上げたばかりのような鮮烈な絵の具ののり具合。

 俗なことを考えてしまうのですが、高い絵の具を使ってたんだろーな、と。

 宮廷肖像画では『狩猟服姿のフェリペ四世』に、書き直しの跡がくっきりというか、わざとじゃないの?と思うぐらい残っていて驚く。

 よほど国王の信任厚くないと許されないんじゃと思うほど。それにしても、政治家としては特筆すべきこともなかったフェリペ四世ですが、ベラスケスを厚遇し、好きに(本当に好きに、実験的といってもいいぐらいに)描かせたことだけでも人類史的な功績。

 『王太子パルタサール・カルロス騎馬像』は、先週放映された「日曜美術館」の影響で屈んで見る人多し。「諸国民の間」の扉の上に飾られていたこの作品は斜め30度ぐらいで見上げることを前提に描かれていたので、正面からみるとややアンバランスな構図だが、下から見ると馬のお腹などジャンプする姿が迫力をもって描かれているだけでなく、背景の風景が浮き立つ感じ。

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 『東方三博士の礼拝』のマリアは奥さんがモデル。綺麗な奥さんで良かった。

 当時の宮廷に仕えていた矮人(わいじん)を描いた『バリューカスの少年』も良かった。ぼくもフーコーの『言葉と物』でラス・メニーナスにやられたクチなので、フーコーが矮人もマルガリータ王女と同じぐらいの存在感で描かれていると書いていたことに感動したものですが、スペイン宮廷では小人などの矮人がたくさん周りに仕えていたことが、出品されている他の作品をみて初めて知りました。

 ついでに常設展も見るっつうか、世界遺産に登録されてからは初めてこの建築をじっくり見ることに。見やすいというか、視線が圧迫されないつくりだな、と改めて感じる。松方コレクションを見ると、モネには、気合いの入った作品と入ってないのがクッキリわかるな、と。傑作しか描いていないベラスケスは凄すぎ。

 年間パスポートを持っているので、トーハクにも入って見物。東洋館での書、インド細密画、本館での近代日本画、日本の書が楽しみ。速水御舟の群青が美しい『比叡山』は初見だったので嬉しかった。

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 上野といえば、「肉の大山」で揚げ物とビールをいただくのが楽しみ。

 立ち飲みもできるんですが、いつも美術館を歩き回った後にピットインするので中のカウンターに座ります。雨だったので、座れる店内でもいつものは立ち飲み客専用に供されるハムカツ、やみつきメンチが注文できてラッキーでした。

 しかも、3-5時は飲み物半額。パラダイスw

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February 11, 2018

高麗屋三代襲名披露二月

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 歌舞伎座の高麗屋三代襲名披露も二月に。夜の部を見物してきました。

 高麗屋三代の襲名披露は37年ぶりということで、歌舞伎座で二か月連続で行われた後、全国を2年かけて巡ります。にしても、かける狂言が古くさいのが気にかかる。一月の菅原伝授手習鑑の寺子屋(車引で帰った)や熊谷陣屋をかけときゃいいんだろ的なセンス。

 熊谷陣屋や寺子屋みたいな気色悪い「子殺し」の物語を幹部俳優が演って人間国宝というような選定基準がおかしい。

 あれを客がありがたって見物していると思っている松竹の錯覚が、東宝との差になっていると思う。

 ということでしたが、二月の新幸四郎の熊谷陣屋、なんていいますか。元気いっぱいで金ピカな直実でした。

 出の衣装は白鴎のかな。でも体格違うし、デザインだけ同じで新調したんだろうな。豪華。鴈治郎の鎧なんかも新調?煌びやかでした。

 役の仁とか小難しいことは言わずに、豪快に演じました、という感じ。まあ、元はと言えば人形浄瑠璃だし。

 二本目は芝居仕立ての口上。両花道をこしらえて客席つぶすことあるのかなとは思うけど、始まってしまえば新染五郎の涼やかな美しさに満足。見物も交えての手締めも楽しい。

 ただ口上と次の力弥だけしか聞いてないけど、フォークソング歌ってミリオンセラー飛ばした白鴎と比べると嗄れてる(曲もつくっていたから相当"入り"が良かったらしい)。

 七段目は盛り上がりますね。白鴎さん、最初は声小さくて心配したけど、だんだん乗ってきた感じ。

 海老蔵の平右衛門も、新幸四郎につながるような、なんか元気一杯な演技。小難しいことは言わない、型と身のこなしのスピード感でみせる、みたいな。

 仁みたいな言葉が幅をきかせたのは戦後の歌舞伎ぐらいだったりするかもしれないから、テンポを早めるためにも必要だし新鮮。

 菊之助はいつものように素晴らしい。

 にしても、新染五郎も大したもん。05年の生まれか。新幸四郎に抱き抱えられるように初舞台踏んだのが昨日のことのよう。

 新幸四郎は、なんつうかアホっぽいというか、思慮の足りない役をやるとんまいと思うので、一條大倉は悪くないと思うけど、時間がないので昼の部は見物できないかな…

  菊之助のお軽は、海老蔵が好き勝手に、これまでの平右衛門の型とか壊してしまうような感じでテンポ良く演じる中、お軽に歌右衛門さんの姿がダブる。

 初代白鷗の奥さんが「私の一番のライバルは歌右衛門さんだったの」(『歌右衛門合わせ鏡』関容子、p.218)みたいな話しも思い出しながら。

 初代白鷗の奥さんの正子さんは、初代吉右衛門の一人娘。歌右衛門さんと正子さんが初代白鷗(当時は五代目染五郎)をとりあって、歌右衛門さんが勝っていたら、十三代目我童を愛した成田屋十一代目みたいにお手つきを…とか。

 菊之助のお軽がそりかえり、合わせ鏡で二代目白鷗由良之助の密書を、勘平を思い出しながら誰かからの恋文かと思って盗み見るという場面で、七代目幸四郎帝国となっている今の歌舞伎界を思うというか、それを今につないだ初代白鷗を愛した歌右衛門さん、みたいな物語を勝手に妄想していました。

 高麗屋 次男に産まれりゃ 吉右衛門

 という川柳はあるけど

 吉右衛門 娘ばかりが 生まれける

 みたいな状況なのは、なんなのかな…とか。このままだと新幸四郎の昔の子あたりを養子にもらったらどうかと思ったりしたけど、お孫さんが生まれてよかったな、とか。歌舞伎はそこまで愉しませてくれるのが凄い。

 とりあえず、新染五郎が、どんどん子どもをつくってあらまほし、というのが高麗屋三代の襲名披露への想いです。

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January 17, 2018

『ポーの一族』花組公演

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 前日のANAインターナショナルでのお茶会からの帰りは11時を過ぎていたけど、4:50に目覚ましをかけて起床。身支度を調えて6時発のエアポート急行で羽田へ。
 伊丹から宝塚大劇場に着いたのは9:45。その時点で見た目150人超が当日券めあてに並んでました。
 貸切だったソワレの公演も、もしかしたら当日券が出るかもしれないと思って朝早い全日空にしたのに、係員に聞くと「当日券は出ない貸切」ということだったので離脱。その後も列はどんどん伸び、行列の長さは個人的にこれまで一番だった『黒豹の如く』を超えていたかも。立ち見は三列。250人近くが立見っぽい。
 土日に貸切多く入れるのは営業施策として仕方ないけど、ダブル予定の遠征組のためにも当日券も売るのを入れて欲しい。
 やることがなくなったのでル・マンでモーニング。
 11:00から初『ポーの一族』。
 良いわ…
 原作は一族の歴史を前後させながら描いているので、年代はバラバラになっているけど、その時系列を整理していて、ぼくみたいに何回も読み返して記憶してない原作ファンにも優しいつくり。
 時系列で描かれているからエドガーの孤独が原作より良く分かるし、アランとの出会いも必然に感じる。潤色の小池修一郎先生凄い…。
 上演時間二時間半という制約の中で、よくエピソードを整理してまとめ、しかも美しいフィナーレもつけたな、と。
 明日海りおエドガーと柚香光(ゆずか・れい)アランじゃなければここまで美しく仕上がらなかったろうし。BL的な要素が強く、我の強いトップ娘役だと不満を示しそうな作品だけど、苦労人である仙名彩世さんがエドガー母に回って脇を締めているという奇跡的なメンバーが揃っていたから可能な舞台。
 今後、みりお・れいのようなフェアリータイプの美少年が演じられるような二人が揃わない限り、再演は難しいかも。
 『ポーの一族』は音楽も良かった。
 レチタティーヴォをわざとつかってみたり、ラップ調の曲もあったり。劇団付の太田健さん凄い。
 歌詞は萩尾望都さんの原作に載っている詩のようなト書きに小池修一郎先生が補って歌にしている感じ。
 夜は宝塚ホテルでお茶会。

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 昨日はルマンのサンドイッチでモーニングをいただき、『ポーの一族』で感動し、パスタで豚高菜ピラフをビールで流し込み、若水の温泉に入ってひと休みした後、タカホでお茶会に出て、馴染みの店で一杯呑んで戻り、もう一回温泉に入って、タカラヅカ・スカイ・ステージを見ながらボーッとする朝。
 日本のサブカルの金字塔的作品である『ポーの一族』が、こんな完璧に3D化されたのに、観られる=チケットをなんとかできるのは、ヅカヲタだけというのは厳しいかな、と感じる。
 昨日のお茶会で「原作読まれた方ことのある方」と問われて手を挙げたファンは極一部で、宝塚ファンが『ポーの一族』という出し物を見に来ている、という感じなんだろうな、と。
 千秋楽はいつものように、全国の映画館でライブビューイングをやるので多くの方に見てもらえれば、と願わざるを得ない。
 しかし、原作を読んでじっくり観るより、与えられた美しさをそのまま感じて息を飲んでいる方が多い宝塚ファンが、結果的に舞台を100年間支えて、まがりなりにもミュージカルを日本に定着させたわけだし。
 逆説的にいえば「ジャンルを殺すのは(小煩いわりにはそれに見合ったカネを出さない)マニア」というがよく分かる感じ。
 たとえばみりおエドガーがアランに「ぼくたちの部屋に来ない」って言う場面。
 会場全体が息を飲んだのがわかった。
 今日の大劇場も『ポーの一族』で空気の奪い合いに。
 2回目を見て、宝塚のマンガ舞台化ものは多くの映画化作品とは違い原作を○イプしていないと改めて感じる。
 忠実に再現しようとして、しかも二時間半の中に収め、観客を3Dで圧倒するだけ。
 その「忠実に再現するだけ」のために、豪華な舞台衣装、セット、80人もの出演者で空間を埋め、視覚で圧倒する。
 それは人形浄瑠璃を役者が演じた歌舞伎と似ている。
 人形浄瑠璃の人形は3Dではなく2D。なぜなら、後ろ姿をみせようとすると、遣い手が人形の前に来ざるをえず、その瞬間にファンタジーが壊れるから。
 舞台役者は背中が命と言われるが、背中でも語れるのが3Dの説得力。
 にしてもみりおのエドガー、れいちゃんのアランは原作から魂とともに抜け出てきたような印象。
 エドガーは原作より気性が荒い感じにつくってる。シーラが自ら一族になったという小さな変更を加えたことで、妹のメリーベルを救うためにエドガーは止むを得ずバンパネラになった悔しさが浮き立つ感じ。
 それにしても前の方で観ていると、みりおバンパネラにエナジーを吸われたくなる。キングポーはお断りだけどw
 それにしても日本映画のマンガ実写化ものの原作リスペクトのなさ、カネのなさを補おうとすると浅知恵の惨めさと宝塚の原作を忠実に再現しようとする姿勢は180度違うわな…。
 それにしても見終わった後の劇場全体のため息の大きさは、エリザベート並み。
 馴染みの鮨屋でてっさをいただきながら2回目の舞台を反芻。

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 みりおの代表作はこれまで『春の雪』の清顕だったけど、『ポーの一族』は多分、誰も真似出来ない代表作になったな。
 それにしても、江戸時代の人形浄瑠璃と歌舞伎の関係は、今のマンガと宝塚になるかもしれない。
 村上隆が3D化すると説得力が違うと言ってたけど、ホント。
 昨日、みりおがセリフを言って下手に去る瞬間、エドガーがいる、と感じた。
 『ポーの一族』ダブルという荒業にそなえ、温泉で身体をほぐしてから大劇場へ。こんな平日なのに、立見席を求める列が長く伸びていて驚く。
 今日からみりおの開幕アナウンスからあけおめがなくなった。
 華メリーベルはやっぱり褒めない訳にはいかない。演技の化け物系娘役に育つかも。お化粧もんまいし。
 予科生の時から気になってた鈴美椰なつ紀さんも大劇場で初台詞貰っていたし、良い公演!
 あきらのポーツネル男爵も良かった。
 パスタでランチのあと、2公演目に。
 『ポーの一族』は平日ニ公演でもそれぞれ100人ぐらい立見が出ている。
 傑作の予感しかなかったけど、東宝でもえげつなくチケット取っておいて良かった。
 銀橋での印象的な芝居が多く、前の方の席はみりお、れいの美しさを堪能できる。
 銀橋の去り際が本当に美しいので、5列目ぐらいから内の上手は最高かも。
 高低差を活かしたセット、盆をぶん回す小池流演出もあって、高い所の芝居が多いのも特徴。
 みりおはベルばら、エリザに続いてクレーン乗りもこなす。浮遊感がたまんない。
 ということで金曜日からの5日間で観劇6回、お茶会2回、遠征1回の予定を完了。
 幸せ。

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September 21, 2017

『神々の土地 ロマノフたちの黄昏』

Romanov
 現在、宝塚大劇場で公演中の『神々の土地 ロマノフたちの黄昏』はラスプーチン暗殺を巡るドラマです。

 作家の上田久美子先生は宝塚歌劇団の座付作者で三本の指に入る存在。期待して見に行ったのですが、さすがの出来映えでした。

 『神々の土地』は大劇場の後、東京宝塚劇場でも上演され、これから何回も見ることになるので、作品のことはさておき、背景となるラスプーチン暗殺のことを少し勉強し直しました。

 考えてみれば《1917年の最初の二か月、ロシアはまだロマノフ王国であった。八か月後には、ボルシェビキが国家の枢機をになっていた。この年のはじめには、彼らは、ほとんどだれにも知られていなかった》のですから。

 これはトロツキーの『ロシア革命史』序文の冒頭の言葉。

 あまりにも急激な転換は、イギリスがロシアを戦線離脱させないようにラスプーチン暗殺を支援する動きをみせていたり、ドイツがレーニンを封印列車でロシアに送り込んだりするような動きにも触発されたのでしょうが、ラスプーチン暗殺の後、10週間しかロマノフ朝がもたなかったということを考えると、小さな猟奇的事件として片づけられないかな、とも思います。

 ニコライとアレクサンドラの全治世をつうじて、卜者やヒステリー患者が宮廷出仕のために招かれたのですが(『ロシア革命史 I』p.91)、農奴を解放したアレクサンドル二世の治世においても魔女などを信じる「ライ病病みの宮廷奸党」(ibid. p.104)などは存在していて、それはロマノフ朝の特徴かもしれません。

 また、解放者とも呼ばれたアレクサンドル二世はナロードニキの爆弾で暗殺されたことで、息子のアレクサンドル3世は祖父ニコライ1世のような専制政治を目指すなど反動が進みます。アレクサンドル3世も暗殺されそうになりますが、直前に発覚して逮捕されたメンバーにレーニンの兄ウリヤノフがいたことは有名。

 にしても、ロマノフには暗殺事件がつきまとうんですよね…ニコライII世などは日本でも暗殺されそうになるんですから…(大津事件)。

 ラスプーチン暗殺は、宮廷革命を目指すものだったんですが、暗殺のやり方、その後の権力掌握の段取りも含めて杜撰きわまりないもので、十月革命におけるトロツキーの水際だったやり方とは対照的で、ロマノフには、もはや才能が枯渇していたのかな、と感じます。

 『神々の土地』は一時間半の中で、ラスプーチン暗殺と宮廷クーデターの失敗を見事に描いているんですが、ジプシーたちがボルシェビキというは斬新すぎる設定だし、それがレーニンのために!というのは寡聞にして存じませんでした。クロポトキンなどアナキストたちの群像を重ねすぎていたかな、みたいな。

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April 08, 2017

四月大歌舞伎の歌種と米吉

Kabukiza_201704

 四月大歌舞伎を見物してきました。席をとったのは昼の部。演目は『醍醐の花見』『伊勢音頭恋寝刃』『一谷嫩軍記 熊谷陣屋』。

 『醍醐の花見』はたわいない新作歌舞伎舞踏。見所は大野治長、治房の兄弟を中村歌昇、種之助の兄弟(歌種)が舞うところ。踊りの旨い歌昇が勇ましく舞うところに、女形で出ることが多い種之助が童髪で加わり眼福でした。女形が立役で出るというのは、宝塚だと男役が手足を出してレオタードのような衣装を着て踊る(ダルマ)みたいな感じウキウキしてしまうのはなぜだろうw日本舞踊は偉そうに語れないけど、決まった姿がいじらしくて堪らない。三月大歌舞伎の中村梅丸に続き、種之助の舞台写真も買うか悩むw

 二つ目の狂言は染五郎の『伊勢音頭恋寝刃』。去年ぐらいに海老蔵が『夏祭浪花鑑』を演ったから、対抗上、夏狂言としてかけたんでしょうか。『夏祭浪花鑑』は文楽を歌舞伎にした狂言だけど、『伊勢音頭恋寝刃』は歌舞伎から人形浄瑠璃になっている。染五郎(高麗屋)は御曹司系では大好きな役者なので大許しというか、こういうちょっと情けないけど、切れると暴れるような刹那的な役は似合う。親父の幸四郎はマジメ一方な感じになってしまったけど、染五郎は若い頃のスキャンダルも含めて、ちょっと脇が甘いところが魅力。

 仲居万野の澤瀉屋さんはうまいねぐらいの印象だが、米吉は痩せて綺麗になったかも。米吉は染五郎がラスベガスのベラージオで「鯉つかみ」演った時に連れて行った女形だけど、相性いいのだろうか。

 高麗屋は、先代の幸四郎が東宝歌舞伎に走ったように、團十郎宗家を頂点とした歌舞伎界の秩序を許せないというか、どのみち自分たちの血じゃないか、という気分があると思う。今の幸四郎もいったんは外に出たし、染五郎はアメリカというかベガスのエンターテインメントと組んでいこうという構想があったりして。

 グローバル展開がまったくできてない松竹は自分たちの価値がわかっていなくて、せっかくの歌舞伎という唯一無二の無形文化財を若冲とか北斉という系統でどうにかするという発想がなくて情けない。新しい展開がないままだと、いま染五郎が幸四郎になったとたんに米国資本と組んで…なんてことになったりして。いまの染五郎はなかなかやると個人的には思っているんで。

 それにしても、高麗屋(染五郎)と成田屋(海老蔵)は相手役の女形を育てたがっているのだろうか。現在の最高の女形は菊之助と七之助だけど、もう自分の劇団持っているし、玉さまは孤高だし。

 戦後の歌舞伎は歌右衛門さまも、玉さまも、ドメスティックな市場しか考えていなくて、その中での生き残りを芸の昇華を通じて達成するというスタンスだと思ったんだけど、染五郎や海老蔵は、グローバル経済の中で自分たちの劇団を生き残らせるか、なんてことを考えていたら凄いんだけど。梅丸、種之助は大好きだけど、本人にそれだけの野望がありそうな感じはしないし、当面、立役主導でいくのかな、と思ってます。

 くだらない作品だと思っている熊谷陣屋で、今日初めて「なるほどな」と思ったのは、染五郎の義経が後光を差す位置にいること。『義経千本桜』でも、義経自身は前面に出ないのに、厳しい人の世に差す後光として象徴的に描かれているという橋本さんの文楽論を思い出す染五郎の義経でした。

 にしても時代物の熊谷陣屋、寺子屋なんかは「なんで、こんなにつまらなくて気持ち悪い作品を21世紀の銀座でかけているのか本当に分からない」としか思えない。単に芝居に飽きた江戸時代の客を驚かすために、自分の子供を殺して主君をたてるみたいな気色悪い物語を、人気のなくなった人形浄瑠璃でやる分には「ある異常な人々の普通の行動」として認識されると思うけど、銀座で人間国宝がやると意味が違ってくるんじゃないかな。幹部俳優が口伝で伝えられたとしても、そんな仁は意味がなく、くだらない。

 世話物では魚屋宗五郎も五月にかけられるけど、これも面白くもなんともない作品。談志が死んだ勘九郎に見てくれと言われて「俺が魚屋なら妹を殺した主君を打つという具合に脚本を変える」と言ってた。

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