『菅原伝授手習鑑』道明寺の歌舞伎的工夫
二月大歌舞伎の昼の部は十三世片岡仁左衛門追善興行で『菅原伝授手習鑑』の加茂堤、筆法伝授、道明寺の通し狂言。
よく飽きもせず毎年かけるなと思うような寺子屋とは違って五年に一度ぐらい通しの中でかかるぐらいの段ですが、様々な歌舞伎的工夫がみえるな、と改めて思ったのでチラッと。
菅丞相(菅原道真)は81年の国立劇場と88年の歌舞伎座が十三世片岡仁左衛門(苅屋姫は玉さま、秀太郎)、95年の歌舞伎座からは孝夫丞相で02年、10年、15年、20年とほぼ松嶋屋の家の狂言のような形で上演されています(苅屋姫は孝太郎、玉さま、孝太郎、壱太郎、千之助)。
歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』の菅丞相は十三世と十五世の仁左衛門親子が演じ、苅屋姫も秀太郎、孝太郎、千之助という伯父、親子の松嶋屋で40年近く上演されてきたんだな、と改めて驚きます。
スッキリした二枚目の菅丞相は仁左衛門親子のハマリ役だし、ちょっと長くて通しの中でかけられてきたことを考えると、高麗屋兄弟などがやたら寺子屋をやりたがる気分のもわからないではないかな、とも思えるほど(正直、迷惑ですが)。
ここで考えたいのは苅屋姫。
歌舞伎の「道明寺」は、文楽では二段目の杖折檻、東天紅、丞相名残の段をまとめたもの。杖折檻と東天紅はあまり変わってはいませんが、丞相名残の段は相当、変えられています(81年の時や66年に十七世の勘三郎が菅丞相を演じた時までは「河内国道明寺」と題されていて、その動画は観ていないのですが)。
文楽の方では覚寿が丞相に配所での寒さしのぎにと伏籠に掛かった小袖を送ろうとして、その中に苅屋姫が隠れているという処理で、苅屋姫も最後の最後に出てくるだけですが、生身の人間が演じる歌舞伎ではかなり早くから苅屋姫が姿を現します。
そして、歌舞伎では苅屋姫が養父である菅丞相に恋しているんだろうな、というつくりにしているんじゃないかな、と。それが叶わないから斎世親王との逢瀬にいってしまったんだろうけど、その科で菅丞相が太宰府に流されることとなって、自分の心を知った、みたいな。
『摂州合邦辻』の玉手御前が本当に自分の義理の息子に恋したように拡大解釈したように、菅丞相の出立を見送るシーンの苅屋姫は義理の父親に恋しているようにも見えるように変えているんじゃないかな、と。
苅屋姫は赤姫のつくりだし、八重垣姫のように柱抱きをして丞相をみているし、さらに丞相が苅屋姫を懐手にして渡す笏は、どちらもファルスを表しているんだろうな、と。
そう考えてみると、孝夫は玉さま、自分の息子である孝太郎、孫の千之助相手にこんな役をつとめたのは凄いw
しかも、今回は玉さまを三婆の覚寿に配して、中川右介さんのいうマスタースクールで鍛えてもらうということまでやっているし、40年近く家の芸としてやってくると、様々な工夫が目にみえてくるのかな、と。
「なけばこそ 別れを急げ とりの音の 聞えぬさとの 暁もがな」
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