書籍・雑誌

November 01, 2025

暇と退屈の倫理学』國分功一郎

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『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、新潮文庫

 ジムでエアロバイクを漕ぎながら聴いた本で、スピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガー、ユクスキュル、コジェーブらの考察を検討し「暇」と「退屈」の根源的意味を掘り下げています。

 人類は約1万年前に、中緯度帯で遊動生活から定住生活に移ったのですが、定住革命は新たな権力をもたらすとともに、日々刻々と新しい環境に注意する必要がなくなったことで、慣れによる退屈を生み出したとします。人類は「定住革命」によって社会的には経済格差や大きな権力を発生させるとともに、個々には暇と退屈を生んだ、と。

 近代では退屈な時間を何かに熱中・没頭することで、幸福に満たされようとするわけですが、実はこれには苦痛が伴う場合が多いとも指摘。これは慢性疼痛の患者に痛みを与えると、脳内では快感としてとらえられる、と増補版で補強されています。

 第三章と第四章では消費と労働、そして疎外について考察し、第五章では、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』という講義録を元にした退屈論を丁寧に考察します。続くユクスキュルの「環世界」概念とハイデッガーの存在論的分析の批判はこの本の白眉でしょう。

 ハイデガーは退屈を3つの形式に分けます。

 退屈の第1形式は「何かに退屈させられること」。たとえば、列車を待っているけれどなかなか来ないから退屈することなどが1番目の退屈。

 退屈の第2形式はパーティに出るなど気晴らしをも「退屈すること」。気晴らし逃げ込んでもなぜか退屈な気分に支配されることが2番目の退屈。

 退屈の第3形式は「なんとなく退屈」という気分が湧き上がること。これといった理由もなくなんとなく退屈だというのが第3形式の退屈で、第1形式→第2形式→第3形式と進むにつれて、退屈が深まっていくとハイデガーは考えました。なぜなら、第3形式では一時的な気晴らしの可能性すらないから。

 こうした退屈に対するハイデガーの対象方法は現存在として何かを決断し、何か内心に燃えるものを見つけることですが、國分功一郎さんはこれに対して、第2形式からの逃避として第1、第3を考えるのではなく、むしろ動物的に逃避したほうがいい、とします。

 ここで重要になってくるのがユクスキュルの環世界概念。

 ユクスキュルは普遍的な時間や空間などはなく、動物それぞれに独自の時間・空間として知覚される、と主張しました。地球上の生物は時間と空間を共有していると考えられるかもしれませんが、時間の流れ、空間さえも異なるものとしてとらえられている、と。人間は「限界」という丸い球体の中心から世界を眺めている限界球体的存在ですが、自らの世界認識を客観的・普遍的と誤解しているにすぎない、と。こうして第六章でユクスキュルの環世界の議論をしたあと、7章ではコジューブの言う「歴史の終わり」や「動物」としての人間論(『ヘーゲル読解入門』第2版の「日本化についての註」)を勘違いとして批判します。

 コジェーヴはイエナの戦いで歴史は終わり、その後の戦争はフランスで実現された普遍的な革命的勢力の空間における拡張に過ぎないことと考え、哲学者であることを辞め外交官になります。彼はロシア革命、第一次世界大戦、第二次世界大戦も経験しますが、それはもう意味がないと考えたのです。さらにフォードをマルクス主義者とみなし、米国はマルクス主義の「共産主義」の最終段階に既に達しているとみて、ソ連や中共への旅行を通して、アメリカの生活様式は世界を覆うと確信しますが、それは動物性への回帰にすぎないとも考えていました。しかし、外交官として訪問した日本で、彼は「歴史の終わり」の後でも動物としてではなく、人間としての生活様式を発見します。日本では戦国時代を終わらせた徳川幕府は250年の平和を実現し、歴史を終わらせたとコジェーブは考えました。

 《究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう》(『ヘーゲル読解入門』アレクサンドル・コジェーヴ、上妻精・今野雅方訳、国文社、1987年 246-247頁)。

 自由、平等など価値ある社会を実現するための現存在をかけて立ち上がることは、もう近代の欧米社会ではできなくなっていますが、同じような状態に陥った日本人は動物になることなく、スノビズムによって人間らしく生きようとした、と。

 本書ではアレントによるマルクスの労働に関する悪質な読み替えを批判していますが、こうしたコジェーブの考え方についても観察が浅く、そもそも動物的で何が悪いのか、とまで論考を進めます。

 本書ではノヴァーリスの「哲学とはほんらい郷愁であり、どこにいても家に居るように居たいと願うひとつの衝動である」を印象的に引用しますが、人間にとっての退屈を分析して深めたハイデガーは、人間にとっての「退屈」は分析したが、「愉しみ」や「郷愁」を理解していなかったのではないかと批判します。

 賢い犬種でさえ盲導犬育成は困難だそうで、動物はそれぞれの環世界から移動することは非常に難しいのですが、人間は高い環世界移動能力を持っています。人間は動物のように、何か特定の対象に「とりさらわれ」続けることができないのです。逆に言えば人間は動物とは異なり1つの環世界にひたることができないために、退屈に悩まされてしまうのだ、と。ならば、動物のように「とりさらわれる」ことを楽しめば、退屈から解放されるのではないかに、というあたりが結論でしょうか。

[目次]
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論 ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学 人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史 なぜ"ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論 贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学 そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学 トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学 決断することは人間の証しか?
結論
あとがき

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October 25, 2025

『50万円を50億円に増やした投資家の父から娘への教え』たーちゃん

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『50万円を50億円に増やした投資家の父から娘への教え』たーちゃん、ダイヤモンド社

 投資家というのは、生命の危機を感じると、その投資ノウハウを公開するもんでしょうか。山崎元さんは癌で余命宣告を受けた後、18歳になる息子さんに向けて『経済評論家の父から息子への手紙お金と人生と幸せについて』を残しましたし、清原達郎さんもガンで声を失い、投資家を引退して『わが投資術』を書いてくれました。本書も、著者のたーちゃんもガンで余命宣告されたのを機に、残された娘さんたちに投資のノウハウを残そうとした本です。

 基本としているのはバリュー株投資。それを選んだのは《〝バリュー株投資の父〟といわれるベンジャミン・グレアムや、そのグレアムに学んだ〝投資の神様〟ウォーレン・バフェットといった名だたるアメリカの投資家たちが、バリュー株投資をすすめていることを知った》から(k.593、kはkindle番号)。

 この本は資産バリュー株投資→収益バリュー株投資→シクリカルバリュー株投資、という順で説明していきます。

[資産バリュー株]

 まず資産バリュー株ですが、そのメリットは《資産持ちで財務が安定している割安な株を買うので、株価が下落しづらい点にある。軒並み大きく株価が下がったリーマンショックのときでも、資産バリュー株は資産価値が評価され、下落幅が小さかった》(k.777)とのこと。

 株式は割安だと判断した時に買い、高くなったら売って儲けるわけですが、では、そもそもバリューをどう判断するのか。さきほども紹介した〝バリュー株投資の父〟と呼ばれるベンジャミン・グレアムが提唱したグレアム指数で簡易的に判断できます。PER(株価収益率)とPBR(株価純資産倍率)を掛け合わせて算出されるグレアム指数が22・5以下なら「割安」、大きく超えていると「割高」の可能性があると判断できる、と。

[収益バリュー株]

 次ぎは収益バリュー株。収益バリュー株が多い業界は、銀行・金融、商社、鉄鋼、自動車、海運、電力・ガス、建設、医薬品など安定した収益を確保できる企業が多く、PERやPBRは低い、と。

 収益バリュー株で重要なのは営業キャッシュフロー。普通、投資家は損益計算書をじっくり見るものですが、しばしば「厚化粧」が指摘されることもあります。《経営者の目線で考えてみてほしい。「投資家は損益計算書ばかりを重視する」とわかっていれば、なるべく見栄えのする損益計算書をつくろうとしてもおかしくない。実際、損益計算書には法律ギリギリの〝厚化粧〟が施されることがあるんだ(なかには限りなくグレー、あるいはアウトなものさえある)》(k.1439)というあたりも実践的。

 営業キャッシュフローは企業が本業で得た現金の流入と流出を示すもの。商品の販売やサービス提供による収入から、仕入れや営業活動に必要な経費を差し引いた金額を指し、キャッシュフロー計算書の中で「営業活動によるキャッシュフロー」として記載されています。

 また、《収益バリューは、キャッシュフローの現在価値をはかる「DCF(ディスカウントキャッシュフロー)法」というもので計算する。これは、企業が将来生み出すキャッシュフローを現在の価値に割り引いて、企業価値を算出する方法》(k.2294)だそうで、あとで勉強してみます。

 シクリカルバリュー株は「景気敏感(シクリカル)かつ割安(バリュー)」のこと。景気には波がありますが、このサイクルを利用して、景気回復局面で大きな上昇余地を狙います。このシクリカルバリュー株投資については、ぜひ、本書を読んでください。
 このほか、時価総額別のリターンについての《大型バリュー株は12・87%、大型グロース株は10・77%、小型バリュー株は14・87%、小型グロース株は9・92%——というものだった。つまり、大型株も小型株もバリュー株のリターンはグロース株を上回る》(k.648)、《統計データで「中期経営計画は80~90%くらいの確率で達成できない」と証明されている》(k.663)、《岩井コスモ証券によると、個人の株式取引の7割以上が信用取引だというデータもある》(k.2508)、《2025年1月10日現在、信用評価損益率は「マイナス7・48%」となっている。つまり、「信用取引を行っている人の損益はマイナスになっている」ことが、公式に発表されているのだ》(k.2522)、《この信用評価損益率は、プラスに転じることはほとんどない。0%まできたら「天井に近い」といわれている》(k.2524)という数字に基づく情報は貴重。

《日本企業は買収が苦手だからのれん代がかさむことが多い。こんな企業は得てして経営も下手だ》(k.966)というあたりもなるほどな、と。

 売買のタイミングに関して出来高が急に増えた時というのは実践的アドバイスだと思いました。出来高が顕著に増えるタイミングは、株価の天井か底であることが多く、手だれの投資家が抜けて、下手な投資家が入ってくるケースが多いから。

 暴落時の買うべきタイミングは「ストップ安の銘柄が100を超える」「売買代金が東証プライム市場の時価総額の1%を超える」「新聞やテレビで株価がトップニュースになる」が揃った時で、みんなの投げ売りが終わったあとに下落となる二番底がくるのは、信用取引の清算期限の半年後以降、と。

《配当というのは業績が最も高いときに一番高くなる。つまり、そこから業績が悪くなれば、配当も下がり株価も下がる可能性がある。だから、景気後退期に高配当投資をすると痛い目に遭うことがある》(k.2037)《配当性向(企業が稼いだ利益のうち、どれだけを株主に配当として還元するかを示す割合)は最高でも30%くらいまでがいい。それ以上は株主還元をしすぎている》(k.2045)というのも実践的なアドバイス。

 《これまでの僕の経験上、投資に向いていない人は「調べものをしない」「なんでも後回しにしてしまう」という共通点がある》(k.2187)というのは、まったくその通りだな、と。昔から「株ぐらいやった方が良いよ」と勧めてきたけど、実際に証券口座を開いて入金し、売買しているのは5〜6人しかいません。ちゃんと調べて、やるべきことはキチンとやる、ということだけで、人間界では「よく出来た人」なのかも。新NISAの口座保有率は25%だけど、実際に売買しているのは20%ぐらいだと思うから、それだけで勝ち組かもしれません。

[目次]

医師として働きながら
元手50万円を50億円に増やした
個人投資家たーちゃんの投資ヒストリー

PROLOGUE 愛する娘たちへ――父さんの投資法を教えよう
父さんの投資法を教えよう
「シクリカルバリュー株投資」ってなに?

PART0 そもそも「株式投資」って何か知っているかい?
「株」はなぜ生まれたのか?
「株主」になるのは「王様」になること?
八百屋に野菜が並んでいるように、株も市場に並べればいい

PART0.5 父さんは株で50万円を50億円に増やしたんだ
神童扱いからの落第生…最底辺の高校しか受けられない
お金持ちになりたくて医学部を目指したけれど……
ほどほどに働きながら株式投資で儲ける
自分がプレイするゲーム会社に投資して株が爆上がり
ほとんどが合格する「医師国家試験」でまさかの不合格
働きながら29歳で“億り人”になった!
リーマンショック直撃で一時資産3割減
働きながら30代で資産6億円突破!
株よりも子育てを優先した“ほぼ空白の10年”
FIREして“雀荘通い”をしてみたものの……
投資家・フリーランスの麻酔科医・ジム経営、三足のワラジ
ステージ4の直腸がんが判明し4度の手術

PART1割安株を見つけ出そう――「バリュー株」の選定術
まずは「バリュー株投資」を押さえておこう
知っておきたい株の4タイプと攻略法
「グロース株」のトータルリターンは「バリュー株」より低い
実は危うい「グロース株投資」の真実
そもそもバリュー(価値)とは何か?

PART2 安いから買うんじゃない「資産」があるから買うんだよ――資産バリュー株投資
①資産バリュー株の「特徴」
資産バリュー株ってなんだろう?
資産380億円がわずか800万円で放置されている?
「昔からある会社」が有利なワケ
「資産バリュー株」のメリット・デメリット
②資産バリュー株の「探し方」
7つのステップで探してみよう
簡易的に割安株を見つけられる「グレアム指数」とは?
Xの情報は参考になるけれど……
③資産バリュー株の具体的な「探し方」
「決算短信」のチェックポイント(売上高・貸借対照表)
「決算短信」のチェックポイント(土地・有価証券)
▼土地の場合
帳簿価格との差額が1000億円近い土地
▼有価証券(株)の場合
「事業等のリスク」をチェックしておこう
「受注残」もチェックしておこう
④「資産バリュー株」の売りどき
➊シナリオが崩れたとき
❷もっといい株が見つかったとき
➌短期間で上がりすぎたとき
絶対に売ってはいけないタイミング

PART3 安いだけじゃない、「稼ぐ力」を見極めて買おう――収益バリュー株投資
①収益バリュー株の「特徴」
100倍株(ハンドレッドバガー)を逃して反省……
②収益バリュー株の「探し方」
③収益バリュー株の具体的な「探し方」
▼損益通算書のチェックポイント
▼キャッシュフロー計算書のチェックポイント
④収益バリュー株の「売りどき」

PART4 赤字の会社こそ大儲けできるんだ――シクリカルバリュー株投資
①シクリカルバリュー株の「特徴」
「シクリカルバリュー株」の株価はどうやって上がる?
クリティカルヒットが出やすい投資法
景気は4年で循環する
②シクリカルバリュー株の「探し方」
目の前の数字でなく、その先の数字を読む
いま業績が良い会社が「買い」ではない
シクリカルバリュー株で重視する「PSR」とは?
③シクリカルバリュー株の具体的な「探し方」
決算の数字として表れる前に「買いどき」を知る方法
「シクリカルバリュー株投資」を難しいと思わないで!
なぜ韓国の造船会社に投資したのか?
④シクリカルバリュー株の「売りどき」
「シナリオ」を考えて投資をするレッスン
「数量の増加」と「赤字での新規設備投資」がポイント

PART5 儲ける人はちゃんと記録をつけて考えているんだ――「投資レポート」の書き方
僕が作成した投資レポートを見せよう
投資レポートを自分でつくってみよう
「増資」で乗り切ろうとする会社には投資しない
ナンセンスな経営判断をするサラリーマン経営者
▼「資産バリュー株」のチェック
▼「収益バリュー株」のチェック
投資レポートについての補足
「これぞ!」という銘柄があれば集中投資していい

PART6 小さな違いが大きなリターンにつながるんだよ――利益を最大化する「+α」の投資術
●適時開示
●IR担当者への質問
●ネットワークを広げる
●インフレの捉え方
●信用取引
●株価下落時の行動
●株価暴落時の行動

EPILOGUE 50億円を稼いだ先に見えてきたこと
毎月200万円使うと決めてみたけれど……
FIREしたけど退屈すぎた……半年で気づいた“働く意味”
僕がいなくなっても株式投資が力になってくれる
著者について

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October 24, 2025

『世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ』齋藤ジン

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『世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ』齋藤ジン、文春新書

 ジムでエアロバイクを漕ぎながら聴いた本です。

 東西冷戦後の世界秩序を支えてきた「新自由主義」の終焉、アメリカの視点から覇権国家に挑戦した日本のバブル崩壊と中国への締めつけを説明してくれています。

 まず、新自由主義=グローバリズムへの反乱が各国で起こったのは、「システムの信頼(コンフィデンス)の揺らぎ」が生じたから。安い労働力を求めて国内から脱出し、アメリカではラストベルト、日本では氷河期世代を残したグローバリストに対して、明確に政治的なNOが突き付けられています。

 日本が戦後、驚異的な復興をなしえたのは、もちろん勤勉さもあるでしょうが、ソ連と中国を太平洋で食い止める地政学的な役割を期待され、朝鮮戦争、ベトナム戦争では兵站基地となっていたから。

 しかし、東西冷戦が終結してしまえば、自動車と半導体という分野でアメリカを脅かす地位にまで上りつめた日本は落とし込まなければなりませんでした。そして、様々な輸出規制や円高誘導などにより、日本から第二次産業を追い出すことに成功します。また、日本の政財界、労働界も、それまで蓄えてきた富を利用して雇用維持のために「共に貧乏になる」という痛み分けを選択したことで「失われた30年」となりました。

 当時の日米交渉をがん患者に抗がん剤を投入する医師の関係として説明するところは出色。日米交渉で米国側はどんどん目標値や対象品目を変えたりして、そのたびに日本側は「ゴールを動かさないでほしい」と抗議していました。しかし、アメリカ側が目標としていたのは日本の骨抜き=ガン根絶だったので、医師としては必要な抗がん剤をどんどん投入するだけだった、と。

 この構図は米中交渉でも同じでしょう。WTO加盟などを後押ししてくれた米国が、そこまで中国を嫌うハズがないと考えていた中国は、90年代の日本と同じように「ゴールポストを動かすな」と抗議していましたが、目的が中国抜き=ガン根絶なので、そこまでいくんだろうな、と。

 そして、著者の見立てでいけば、次ぎはまた日本の時代となる、と。

 こうした「システムの歪みを見抜く能力」は、著者が性的マイノリティであったこととカミングアウトしているところも面白かった。著者は邦銀につとめていましたが、バブル崩壊直後に見切りをつけ渡米、当時はまだ日本を有力な顧客とみていたファンドに拾われます。

 そんな齋藤ジンさんの有力な人脈のひとりはトランプ政権の経済政策の舵取り役であるスコット・ベッセント財務長官。ベッセント財務長官は元検事のジョン・フリーマンと結婚して二人の子供を育てているゲイです。

 ベッセントはトランプ大統領の宿敵、ジョージ・ソロスの元で1992年のポンド危機で成功を収め、その後の超円高、アベノミクス相場では齋藤ジンさんのアドバイスを受けて信頼関係を築いていったと言われていますが、性的マイノリティの方々はこうした融通が効く性格を持っているというのは面白いな、と。

 日経のインタビューで齋藤ジンさんが「トランプ支持者の凄いところは、補助金をくれとはいわず、仕事をくれ、と要求したこと」と言っていましたが、これからも注目していきたいと思います。

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October 23, 2025

『天才作戦家マンシュタイン「ドイツ国防軍最高の頭脳」 その限界』大木毅

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『天才作戦家マンシュタイン「ドイツ国防軍最高の頭脳」 その限界』大木毅、角川新書

 陸軍の強いドイツで、マンシュタインはロンメルと並んで旧軍の良心、救いのような扱いを受けます。それは島国日本の帝国海軍における山本五十六や山口多聞のような存在なのかな、と。しかも、第二次大戦後の旧ソ連の軍事力と対峙しなければならなかった旧西ドイツにとって、作戦の妙を以てすればソ連軍も撃退可能だというマンシュタインは希望の存在にさえなっていったという生涯を大木「独ソ戦」毅先生がまとめてくれたのがこの本。

 マンシュタインはドイツ陸軍一家のサラブレッドのような生まれでしたが、初戦となった第一次大戦でも今日なお重要な戦術とみなされている「弾性防御」を編み出したロスベルクと邂逅するなど人脈的にもエリート街道を歩んでいき、別格扱いで「半神」とまで称された参謀将校への階段を昇っていきます。

 ちなみに、この《ロスベルクは、前線指揮官が自主的に行動できるようにするため、極力広い権限を認めるべきだと訴えていた。その主張は、「遊動防御」の根本思想と通底していたし、ドイツ軍の伝統である権限の下方移譲により、指揮官に臨機応変の対応を許す方法、「委任戦術」(Auftragstaktik)の線に沿った議論といえる。なお、この「遊動防御」は、第一次世界大戦以降、各国陸軍の防御戦術のスタンダードとなり、現在では英語由来の「弾性防御」(elasticdefense)として知られている》(k.604)。

 前線死守ではなく、必要とあれば一時退却、機動戦力で反撃して失地を取り戻すという戦いは、第二次世界大戦でマンシュタインが自在に使いこなす戦法となりますが、カイザーの命令さえも「将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり」という孫子の一節を思わせる戦いぶりで一時はパリに迫る勢いを示したものの、やがて戦線は膠着し、本国で革命が生じ、帝政が倒れてドイツは敗北します。

 《マンシュタインは、講和条約の調印を拒否して、交戦に踏み切るほうが、「長い眼でみれば、守れるはずもないヴェルサイユ講和条約の条件を突きつけられたがゆえに、ヒトラーと第二次世界大戦にみちびかれていった道よりもましだったのでは?」との、死児の齢を数えるがごとき反実仮想を『自伝』に記している》(k.757)そうです。

 やがて混乱の中でヒトラーが政権を奪取し、総統となって軍人にも個人的な忠誠を求めるようになりますが、《かつての参謀総長は「帷幄上奏権」、国家元首に直接意見具申する権利を有しており、政治の責任者に対する軍事の筆頭アドバイザーであった。しかし、ドイツ帝国の崩壊とそれに続く共和国時代の組織・制度の変遷を経て、陸軍参謀総長は、元首たる総統アドルフ・ヒトラーに直属するのではなく、国防大臣(国防軍の最高司令官でもある)ならびに陸軍総司令官がそのあいだに介在するようになっていたのである》(k.1422)。こうしたことがヒトラーによるマイクロ・マネジントを招き、スターリングラード以降の敗戦を呼び込むわけです。

 事態はポーランド侵攻=第二次大戦の勃発に向かっていきます。この過程で、ドイツ国防軍はもしイギリスが軍事的に介入してきた場合には、ヒトラーを逮捕し、権力の座から排するとしたクーデター計画を練るのですが、ヒトラーはソ連との不可侵条約締結という奇策でしのぎます。元々、ソ連との不可侵条約は《日本の外務省と海軍が締結に傾こうとしなかったからだ。業を煮やしたヒトラーは、宿敵であったはずのソ連と手を握り、日本の代わりに英仏牽制の役割を担わせようとした》(k.1968)という背景があったようです。

 ドイツは連合軍の主力を包囲し、イギリス遠征軍もダンケルクに追いつめられたというのに、ヒトラーはドイツ装甲部隊に謎の停止を命じて大魚を逃すのですが、こうしたマイクロマネジメントがやがてヒトラー自身を追い詰めていきます。

 ソ連に宣戦布告したヒトラーはモスクワ前面まで進みながら力尽き《厳冬(一九四一年から四二年にかけての冬は、観測史上稀な極寒であった)のなかに消耗していくのをみたスターリンは、全戦線にわたる大反攻を命じ》、ドイツ軍は敗北を重ねていきます。

 いったんソ連軍の反撃をセヴァストポリの勝利によって覆したマンシュタインは、包囲下にあるレニングラードの攻略に向かいますが、包囲を破ることはできず、ドイツの第六軍は降伏。この敗北によって、ドイツ軍は戦略的な意義を持つ攻勢を実行する能力を失い、マンシュタインは「引き分け」のかたちで戦争終結に持ち込むことを構想していきます。しかし、ヒトラーによるスターリングラード死守命令のような硬直的な指揮はドイツ軍を加速度的な敗北に追い込んでいきます。

 ソ連軍の反抗は《攻勢の主役となっていたのは、ニコライ・F・ヴァトゥーチン大将率いる南西正面軍であったが、彼は、前面のドイツ軍がきわめて弱体化していることを察し、ドン軍集団の後背部、マリウポリめざして突進すべきだと考えた。かかる機動は、ドンバス地域にある敵の退路を遮断し、南部ロシアにおける抵抗を不可能とするであろう》(k.3403)とか《一月二〇日、赤軍大本営は「疾走」作戦を承認した。二九日に攻勢は発動され、南西正面軍の快速部隊は、作戦発動から七日でマリウポリに到達、また、ザポロジェ(ザポリージャ)とドニエプロペトロフスク(ドニプロ)付近のドニエプル川渡河点を押さえた》(k.3411)など、現在のプーチンによるウクライナ侵攻の激戦地をめぐるものでした。

 ここでもいったんマンシュタインは奇跡的な指揮で一九四二年の「青」作戦開始時に保持していた地域をほぼ回復したのですが、戦術次元のことにまで介入したがるヒトラーのマイクロ・マネジメントの弊害はさらにひどくなり、やがてドイツ軍は物量に押されていきます。ソ連軍将兵の損害は50万人に及びましたが、そこからも回復可能であったのに対し、ドイツ軍は攻勢に対応するポテンシャルを失っていました。

 そしてドニエプル川を防御線として戦うことを目指したマンシュタインの作戦はヒトラーからの「ドニエプル湾曲部やニコポリの放棄は戦争遂行上許されない」という命令によって台無しになってしまいます。

 戦後は一時、逮捕、拘留されますが、イギリス人の中からも支持者が現れ、やがて冷戦の緊迫化とともにマンシュタインは再評価されていきますが、これから以降はどうぞ本書をお読みください。

【目次】
序章 裁かれた元帥
第一章 マンシュタイン像の変遷 テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ
第二章 サラブレッド
第三章 第一次世界大戦から国防軍編入まで
第四章 ライヒスヴェーア時代
第五章 ヒトラー独裁下の参謀将校
第六章 作戦課長から参謀次長へ
第七章 立ちこめる戦雲
第八章 「白号」作戦の光と影
第九章 作戦次元で戦略的不利を相殺する
第一〇章 作戦次元の手腕 軍団長時代
第一一章 大要塞に挑む
第一二章 敗中勝機を識る
第一三章 「城塞」成らず
第一四章 南方軍集団の落日
第一五章 残光
終章 天才作戦家の限界
あとがき 
主要参考文献

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September 28, 2025

『百人一首 編纂がひらく小宇宙』田渕句美子

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『百人一首 編纂がひらく小宇宙』 田渕句美子、岩波新書 

 これもジムでトレーニングしながらAudibleで聞いた本です。

 聞き終えて、あらためて基礎情報をまとめなおしてみました。

 最初は基礎情報。『百人一首』は小倉山荘で藤原定家が編纂したと一般的に考えられてきましたが、1951年、有吉保によって存在が明らかになった『百人秀歌』との比較で、定家が編纂した『百人秀歌』を元に後代のアンソロジストが『百人一首』をまとめたと考えられるようになってきました。

 藤原定家が編纂した『百人秀歌』は京都在住の鎌倉幕府有力御家人であった宇都宮蓮生に献呈されますが、『百人一首』と比べて97首は同じですが、後鳥羽院と順徳院の歌が『百人一首』には含まれていません。

 具体的に『百人一首』にあって『百人秀歌』にない歌は以下の二つです。

人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆえに物思ふ身は(後鳥羽院)

百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり(順徳院)

 

 元になった『百人秀歌』は合計101首の歌が収められていますが、『百人一首』にない歌は次の三つ。

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(一条院皇后宮[中宮定子])

春日野の下萌えわたる草の上につれなく見ゆる春の淡雪(権中納言国信)

紀の国の由良の岬に拾ふてふたまさかにだに逢ひ見てしがな(権中納言長方)

 つまり101首の『百人秀歌』からマイナス3で98首となり、『百人一首』を再編集した人物が、そこに承久の乱で退位させられた二人の悲劇の天皇の歌を最後に加えて100首にしたと考えられています。

 承久の乱の記憶がまだ鮮明な時代に、鎌倉幕府につらなる宇都宮家の僧、蓮生に献呈した『百人秀歌』に、いわば下手人の後鳥羽院と順徳院の歌は入れられなかったろう、と推察できます。そして、後の歌道研究者が天智天皇の「秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」から始まる『百人秀歌』を和歌の歴史全体をより感じやすくするために後鳥羽院と順徳院の歌が締めくくったのではないか、というのがこの本の結論です。

 このほか、42番『契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは契』の「しぼりつつ」に関して「しほる」は「涙などで濡れる」という新しい解釈の可能性の紹介もされていました。

 最後に個人的な話しを。宙組の『宝塚110年の恋のうた』は式子内親王に恋する藤原定家という物語調で和物のショーが進行していきました。

 『百人秀歌』で定家が選んだ式子内親王の歌は『玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする』ですが、これは題詠というバーチャルな歌の世界で、男の視点で歌った歌。

 一方、定家の歌は『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ』も題詠で、ここでは定家が女性の気持ちになって恋のを歌っています。

 つまり、『宝塚110年の恋のうた』は女装した定家が男装の式子内親王が恋におちるという設定にもなるわけで、その奥深さは素晴らしいな、と(大伴家持の元歌も知らずに『海ゆかば』を批判しなくてすんで良かった、と胸をなでおろしますw)。

[目次]

序 章 『百人一首』とは何か――その始原へ

第一章 『百人一首』に至る道
 1 勅撰和歌集というアンソロジー――撰歌と編纂の魔術
 2 八代集という基盤――「私」から複数の人格へ
 3 『三十六人撰』から『百人一首』へ――〈三十六〉と〈百〉の意味

第二章 『百人一首』の成立を解きほぐす
 1 アンソロジスト藤原定家の登場――編纂される和歌と物語
 2 『百人秀歌』と『百人一首』――二つの差異から見えるもの
 3 贈与品としての『百人秀歌』――権力と血縁の中に置き直す
 4 定家『明月記』を丹念に読む――事実のピースを集めて

第三章 『百人一首』編纂の構図
 1 『百人一首』とその編者――定家からの離陸
 2 配列構成の仕掛け――対照と連鎖の形成
 3 歴史を紡ぐ物語――舞台での変貌
 4 和歌を読み解く――更新される解釈
 5 『時代不同歌合』との併走――後鳥羽院と定家

第四章 時代の中で担ったもの
 1 歌仙絵と小倉色紙――積み重なる虚実の伝説
 2 和歌の規範となる――『百人一首』の価値の拡大
 3 異種百人一首の編纂――世界を入れる箱として
 4 『百人一首』の浸透――江戸から現代まで

終 章 変貌する『百人一首』――普遍と多様と

 『百人秀歌』 『百人一首』所収和歌一覧

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September 26, 2025

『平成史 昨日の世界のすべて』與那覇潤

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『平成史 昨日の世界のすべて』與那覇潤、文芸春秋

 なんでも検索できる環境になって、我々は現在のトレンドの波に飲み込まれて、過去の歴史からのつながりから「いま」を考える思考方法を失ってはいないか、という問題意識から、インターネット上の情報があふれるようになった平成史をさぐるのが本書。

 平成はマルクス主義と昭和天皇という「ふたりの父の死」とともに始まり、二つの大震災とコロナ禍を挟んで天皇の譲位で終わりました。

 《昭和の日本で猛威を振るったマルクス主義も天皇主義(?)も、「どう考え、いかに行動すべきか」の指針を示してくれる点は共通なのですが、その学び方には大きな違いがあります。前者(左翼)は『資本論』をはじめとしたテキストの解釈、すなわち「言語を通じた読解」で身につけるものなのに対して、後者(右翼)は天皇というひとりの人格の「身体を模倣した習得」で学ぶ(まねぶ)ところに、それぞれの特徴が表れています》(k.349)が《身体を排除し「言語に徹する」のは怖いことでもあって、「理論的に考えて、不同意の人間は「殲滅」するしかない」といった極論を止められないことがある。たとえばフランス革命中に恐怖政治を展開した元祖・極左のロベスピエールは、パンフレット等の「ことばで書かれたもの」の力だけで、(一時的な)最高指導者に昇りつめた人物とされています(k.368)》。そして《さらにややこしいことに、純粋に言語だけで人びとを組織し続けるのは難しいので、やがて当の左翼の中から「絶対的な指導者の身体」を有する(と見なされる)人物が出てきます。1930年代以降のソヴィエト連邦で人類全体の教師に喩えられたスターリン(53年死去)が典型で、あらゆる学問はむろんのこと、芸術的になにが優れているかの基準まで、全部スターリンに決めてもらうといったことが起きるわけです(k.372、kはkindle番号)》。

 昭和と平成は20世紀から21世紀をまたいだわけですが、その20世紀はナチスとスターリニズムの勃興と滅亡を持ったことで、人間の獣性と悪と直接的暴力に直面する機会を得て、性善説を捨て去ることができ、21世紀はトランプを持ったことで、民主主義を信じすぎることから免れる可能性を得た、ともいえるのかもしれません。やはり歴史は負の部分からの学びが多いわけで、インターネットから抽出される正解から得られるものは限界がありそうです。

 こうして《20世紀末から生じた「言語よりも身体優位」の風潮は、問題を起こす人の心を言語化して理解するというより、生理的な嫌悪感に基づき物理的に排除する方向へと帰着》(k.3747)する、というのが全体の流れでしょうか。

 政治的に平成は《「ポスト冷戦」とともに始まった――とは、この時代を扱うほぼすべての論説に記されています。しかし昭和天皇と社会主義の「死」がともに同じ年に起きたことの意味を、ほかならぬ日本人の視点から掘り下げる作業は、意外にもあまりなされてこなかったのではないでしょうか。 ひとことでいえば、1989年の1年間を通じて、日本人が思考する上での参照軸、「左右」の二つの芯棒がともに折れたのです。平成史とはそこからの再建の物語であり、そしてそれが挫折する悲喜劇でもあります》(k.305)。

 その平成の日本政治については首相たちの寸評が面白かった。

 《田中角栄の時代までは、自民党の側も「補助金で黙らせればいい」という対応ですんだのですが、田中内閣(1972~74年)のもとで生じた財政の膨張により、保守派にも「国民に官からの自立を促し、政府を維持可能な規模に縮小する思想」が必要とされてきます。その機をとらえて活躍したのが香山や、前章でふれた村上泰亮、その共同研究者だった佐藤誠三郎(政治学。32年生で改元時に56歳)らでした》(k.1216)ということですが、『反古典の政治経済学』村上泰亮はいつか読んでみたいと思います。

 細川政権についての《幕藩体制の「分権性」を評価する細川護熙=香山健一のビジョンもまた、そうした視点を共有するものであり、中北氏はこうした―80年代のポストモダン右派的な―ビジョンを「日本型多元主義」と呼んでいます》(k.1224)という視点はなるほどな、と。

 《小沢一郎や、逆に自民党の側で改革を推進した橋本龍太郎らを「六〇年代末からの学生運動や住民運動などの隆盛を、「体制側最若手」として受け止めた」、「運動側が主張する「戦後民主主義の欺瞞」や「体制破壊」には同意できなくとも、体制に内部改革が必要であるという認識は持っていたはず(69)」の人びと》(k.1314)だという政治学者の待鳥聡史(1971年生の団塊ジュニア世代)の指摘はなるほどな、と。

 そして1993年に発足した非自民連立政権は「転向を知らない子どもたち」のクーデターだった、と。

 福田赳夫についての《戦時下で汪兆銘政権の財政顧問を務めた福田は、1967年から都知事として革新自治体の雄となる美濃部亮吉とも、彼を庇護した大陸浪人出身の福家俊一(自民党衆院議員)を通じてコネがあり、国交正常化以前に周恩来首相とのパイプ役を依頼したほか、79年の都政奪還時にも暗黙の合意を得ていました(k.4756)》というのは知らなかったな…。

 このほか、革新自治体の誕生は自民党支持層の変化についての見方も面白かった。《砂原さんが注目するのは意外にも、GHQによる占領下に行われて戦後日本の税制を規定した「シャウプ勧告」(1949~50年)です。そもそも戦時体制下ですでに、戦後の地方交付税交付金の原型となる「都市の富を農村に回す」制度は作られていましたが、シャウプ勧告はそれを追認したほか、事業税・入場税・遊興飲食税など都心部から得られる税収を(市町村ではなく)道府県に割り当てたため、いわば大都市は国と上部自治体(県)から二重に「搾取」される構造が生まれました。 70年代に都市部で勃興した革新自治体は、そうした状況への異議申し立てでしたが、当時はまだ霞が関に比して地元の権限が弱く、また担い手の左派政党が反・資本主義のイデオロギーに固執して柔軟性を欠いたこともあり、やがて住民は「支持政党なし」に陥るか、自民党に回帰してゆきました(k.5505)》。

 《菅首相―仙谷長官が取り仕切った民主党政権中期は、そうした時代に出された「答え」としてのニューレフトがようやく、国の中枢に到達した瞬間でもありました》(k.5591)というのもなるほどな、と思い前田和男『民主党政権への伏流』も読んでみました。個人的に民主党政権は本当に期待しましたが《菅~野田内閣は、「左」が現実主義を取り入れ、「右」は単なる現状追認ではない思想性を持って歩み寄ることが、新たな時代を切り開くと信じられた戦後後期の潮流の残り火(k.6209)》となってしまいました。《1993年5月にも、連合の初代会長・山岸章が改革派の有力知事に書簡を送り、地方自治体から積み上げての政権奪取を目指す「殿様連合構想」があったが、翌月の衆院解散を経てにわかに細川非自民政権が成立したため、画餅に終わったことがあった(前田和男、前掲『民主党政権への伏流』、252-261・305-307頁)。見方によっては、維新の会はちょうど逆の方向で失敗したともいえよう。432 前掲『幻滅の政権交代』、561頁(k.6398)》というのは知らなかったな。

 このほか、面白かったところをあげていきます。

 《カント的とは、「現実としてこういう流れがあるから」といった論法とは完全に切れたところで、ストレートに「全員が従うべき規範、価値観」を追求するスタイル》(k.3993)というクリアカットさは初めて。

 コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』の「日本化についての註」に関しての解説で《「進歩」のように万人にとって有意味な物語を紡げなくなると、人間は茶道のお碗を右から回すか左から回すかといった風な、「本質的にはどっちでもいい拘り」に意味を見出して生きていくだろう、という趣旨》(k.858)というのは初めて読みました。

 《ハンチントンの主眼はフクヤマの『歴史の終わり』への批判にあり、西洋的な近代社会を「全人類のゴール」ではなく、数ある文明類型のひとつへと相対化することで、全世界をアメリカの流儀で統治しようといった「世界の警察官」構想を抑止するという趣旨でした(137)。しかしその後の国際政治の展開は、同書をむしろ「多文化共生なんて幻想。異なる文明とは対決しかない」といった、ニヒリズムの書物として受容させていく(k.2331)》

 《1994年春に東大駒場の新科目「基礎演習」のテキストと銘打った『知の技法』が、1年間で30万部を売り上げて話題を呼びますが、編者の小林康夫さん(表象文化論)と船曳建夫さん(文化人類学)はともに東大紛争の闘士でした(70)。かつて大学を「解放区」にしようとした世代が、カリキュラムの内容を公刊し「開放区」を作ることで、内実が見えにくかった象牙の塔をオープンにする試みだったともいえます》(k.1330)というのは知らなかったです。

 この間、個人的に息苦しくなってきていると感じる原因はコンプライアンス界隈の跋扈でしょうか。《この社会は確実に「画一化」もしています。昭和の時代には「政治家なら裏金くらいあって当然」・「芸能人だもの、不倫のひとつやふたつは当たりまえ」ですまされたことが、よし悪しは別にしてもう通らない。 ローカルな慣習や暗黙の合意で処理されてきた事案が、ひとたび白日の下にさらされるや、非常識きわまる利権として糾弾が殺到し、だれも弁護に立つことができない(k.132)》ようになりました。

 平成はアニメや漫画がサブカルの王者として君臨した時代だったとも思うのですが、エヴァとジブリについては紙幅をかなりさいています。

 『旧エヴァ』は14歳の碇シンジの失敗し続けるビルドゥングスロマン(成長物語)であり、父・ゲンドウは暴力をためらう冬月のような甘っちょろい(または、平和ボケした)インテリ教授の権威を転覆して、権謀術数に手を染め「解放区」のように治外法権が許される特務機関ネルフの支配者におさまったが、いかに「父になれない」存在かが主題だった。しかし、ゲンドウの内面は空疎であり、「全共闘世代は父になれるか」こそが、『旧エヴァ』の命題ではなかったか、というのは初めて読みました。

 ジブリについては、満洲国の最高幹部の東條英機・松岡洋右・岸信介らは憲法にすら縛られない放埒な経営を経験したことで、内地の政界に戻って戦時体制を指揮。そして、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』で敵役を演じるトルメキアの遠征軍の描写は満洲国の戯画になっている、という見取りもなるほどな、と。

 《普通なら高畑さんはもう映画を撮れないところですが、作品に流れる「マルキストの香り」を愛して支援を続けたのが、共産党からの転向者で(『もののけ姫』の世界観にも影響を与えた)網野善彦の親友でもあった日本テレビの実力者・氏家齊一郎》(k.2387)で、《2013年の遺作『かぐや姫の物語』では、11年に逝去していたにもかかわらず氏家が製作としてクレジットされましたが、日本古典を民衆の目線で映画化する構想には、朝鮮戦争下で網野らがとりくんだ「国民的歴史学運動」の残響を聞くこともできるでしょう(k.2393)》というのは知らなかったな…。

 他のアニメ作品については《八〇年代は押井守監督の『うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー』〔84年の劇場アニメ映画〕に象徴されるだろう。主人公たちは学園祭の前夜の時間の内に閉じこめられてしまう。いつまでたっても学園祭の当日はやってこない。永遠に終わらない前夜祭――。覚醒することのない美しい夢(ビューティフル・ドリーム)。それが八〇年代精神である。 もっともよくその精神を受け継いだ宮台真司は、過酷な九〇年代を闘い抜き、今日へと至った。まるで今夜の宮台の結婚パーティーこそは、その後夜祭のように見えると。〝前夜祭〟から〝後夜祭〟へ。そして……。「結局、〝学園祭〟はなかったんだよ」 そんなふうに私は呟いていた(k.5453)》という見方はなるほどな、と。

 1993年に発足した欧州連合(EU)は中世期のカトリック圏と重なり《EUに至る礎を築いた戦後初期の欧州統合論者――仏外相シューマン、西独首相アデナウアー、伊首相デ・ガスペリらは、いずれもカトリックだった(板橋拓己「黒いヨーロッパ ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋」主義」遠藤乾・板橋拓己) 》(k.2581)というのは知らなかったな…。

 《イタリア共産党が第二次大戦末期のパルチザン活動を通じて、サレルノの転換(44年)とよばれる広範な反ファシズム勢力との提携に踏み切ったのと対照的に(193)、党幹部全員が投獄されていた日本共産党ではむしろ「獄中非転向」の神話が形成され、妥協の拒否こそがモラルとなっていったのです(k.3048)》というのも分かりやすい。

 教育勅語が勅語だったのは《文面上は国家が上から義務を課すというより、君主が道徳的に見て立派なふるまいをし、国民(臣民)がそれに倣って暮らすことで住みよい社会ができるとするタテマエであり、だからこそ法令ではなく「勅語」の形式をとった。いま風にいえば天皇こそが最強の「インフルエンサー」だということですが、こうした発想は明治の盛期に生まれて敗戦直後に東大総長(1945~51年)を務め、社会主義陣営も含めた全面講和を唱えた南原繁(1889年生)の世代までは前提でした。そうした君主崇拝は民主主義にふさわしくないのでは、とする感性が定着するのは、大正生まれだった弟子の丸山眞男(1914年生)の世代からです》(k.325)というのはなるほどな、と。

 ちょっと残念だったのは小泉・竹中の規制緩和、アベノミクスへの評価が浅すぎたこと。専門でないことはわかりますが、それこそネット世論に流されすぎていると感じました。

[目次]
序 蒼々たる霧のなかで

第Ⅰ部 子どもたちの楽園

第1章 崩壊というはじまり:1989・1ー1990
ふたりの父の「崩御」
消えた左右の抑圧/父なき社会への助走
子どもたちが踊りはじめる

第2章 奇妙な主体化:1991ー1992
運動しはじめる子どもたち
気分は「近代以降」(ポスト・モダン)
大学の変容が始まる/昭和の老兵が去りゆく

第3章 知られざるクーデター:1993ー1994
フェイクニュースだった大疑獄?/密やかな「父殺し」
転向者たちの平成
女という前衛を夢みて

第4章 砕けゆく帝国:1995
エヴァ、戦後のむこうに
帝国の造りしもの
連立の価値は
組織のかたち 人のかたち

第5章 喪われた歴史:1996ー1997
「戦後の神々」の黄昏
「戦前回帰」は起きたのか
死産した「歴史修正主義」
イノセントな時代の終わり

第Ⅱ部 暗転のなかの模索

第6章 身体への鬱転:1998ー2000
自殺した分析医
帰還兵の暴走
届かない郵便
「脱冷戦」政治の終わり

第7章 コラージュの新世紀:2001ー2002
エキシビションだった改革
地方への白色革命/崩壊するアソシエーション
SNSなきインフルエンサー

第8章 進歩への退行:2003ー2004
凪の二年間
工学化される「心」
韓国化される日本?
希望の居場所はどこに

第9章 保守という気分:2005ー2006
リベラルと改革の離婚
「あえて」の罠
ノスタルジアの外部
子どもたちの運命が分かれる

第10章 消えゆく中道:2007ー2008
現在の鏡のように
ひき裂かれた言論空間
セカイから遠く離れて
リブートされる平成

第11章 遅すぎた祝祭:2009ー2010
市民参加の果てに
あきらめの倫理学?
軽躁化する地方自治
「後期戦後」の終焉

第Ⅲ部 成熟は受苦のかなたに

第12章 「近代」の秋:2011ー2012
デモへと砕けた政治
「知識人」は再生したか
機動戦の蹉跌
残り火が消えるように

第13章 転向の季節:2013ー2014
知性の経済的帰結
失われた「マジ」を求めて
歴史の墓地
「戦後」という父が、帰る

第14章 閉ざされる円環:2015ー2017
平成知識人の葬送
世界が「セカイ」になるとき
欠け落ちてゆく内面
新時代への模索

第15章 はじまりの終わり:2018ー2019・4
西洋近代に殉じて
再東洋化するルネサンス
令和くん、こんにちは
いまでも平成(あなた)はわたしの光

跋 歴史がおわったあとに

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September 14, 2025

『知性は死なない 平成の鬱をこえて』與那覇潤

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『知性は死なない 平成の鬱をこえて』與那覇潤、文春文庫

 與那覇潤さんは、久々に著書を遡って読もうと思った書き手です。多分、性格はまったく違うけど、妙に読書傾向、興味の方向などが似ていると感じています。

 この本は躁鬱を発症して休職、退職した後に最初に出した本で、東欧民主化からトランプ政権誕生までの30年というリベラルな知性主義の崩壊過程を描いているといえるかもしません。その中で、発症の原因ともなった欺瞞的で実は反知性主義的な場となってしまった大学のあり方の辛辣な批判、自身の躁鬱の発症から寛解の過程も描いています。

 與那覇さんの考えの特徴をひと言でいえば、「理性とは言語を適切に運用できる能力」のことで、「感情は身体からわきおこるもの」という言葉と身体の二重性でしょうか。例えば、キリスト教についてもカトリックは儀礼を重んじ信徒の「身体」にはたらきかけるのに対し、プロテスタントは「言語」で書かれた聖書の読解を根拠にしている、などと説明しています。

 與那覇さんが学生から教職につくあたりの時代は、言葉を思考の軸にすえる側が「どんなことばで語ろうとも、結局は脱構築というかたちで批判されてしまうので、ほんとうに大事なことは語りきれません」というところまで追い込まれた時ではないかと思います。

 そうした時代にデリダは、書かれたものであるエクリチュール(そこにはSNSでRTした有名人のツイートも含まれます)が自分という像を結ぶだけでなく多様なイメージへとひき裂かれていくことを主張しましたが《エクリチュールの散種力を最大化したSNSがツイッターなら、逆にこの自己をひき裂く力を最小限に抑えたしくみがLINEです。うつに転じて以降の私は、類似の病気の知人どうしとのLINE以外、SNSをつかっていません》(k.1867、kはKindle番号)というあたりの指摘は面白かった。

 政治に関しては《自民党に代表される日本の戦後保守とは、アメリカが主導する「リベラルな世界秩序」を保守する存在だったのだから、国際的にリベラルが凋落すれば、じつは保守も終わるのです》というあたりは、今の自民党の凋落の本質をついているように感じます(k.2726)。と同時に、煮詰まった感じのリベラル側も《多様性陣営の結束が一枚岩であることを誇り(この時点でなにかおかしい。「一匹狼友の会」みたいな遂行矛盾だ)、オンラインの動画や文章で「俺たちは『正しい考え』を変えないぞ!」と気勢を上げ》ているようで情けないわけですが(k.4934)。

 《米ソという二大国は、政治や経済の制度では正反対だったにもかかわらず、「国のなりたち」として似かよった面があります。すなわち、どちらもその「人工性」がきわだった国家であり、それを正当化する神話と実態とのあいだに、大きな乖離をかかえていた点です》(k.2824)というあたりは、ウクライナ戦争の泥沼にはまっている現在のロシアも「神の国ロシア」という幻想にすがっている姿を浮かび上がらせてくれています。

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『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤

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『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤、文藝春秋

 今年の夏の「楽しみだけの読書」で読んだのはこれでした。個人的には刺さる内容で、『斜陽』、『されど、われらが日々』、『赤頭巾ちゃん気をつけて』、『限りなく透明に近いブルー』など取り上げられている小説は、小説をまだ読んでいた学生時代にだいたい読んでいましたし、それが戦前の日共から朝鮮戦戦争、新左翼運動とその終焉までの若者の心象を描くというのにそそられて。

 江藤淳さんは、ご存命の時も「なんで米軍の駐留政策にそんなにこだわるの?」と思われていたし、ぼくは大好きだった山口瞳さんを異常なまでに酷評したこともワケわからないけど、今みたいに忘れ去られるのも変かな、とも思っています。

 『されど、われらが日々』は武装闘争時代の日共、『赤頭巾ちゃん気をつけて』は新左翼、『限りなく透明に近いブルー』は戦後左翼運動の終焉をそれぞれ表した文学だと思っていますが、実は太宰治も江藤淳も戦前の日共には関わっています。《弘前高校から東京帝大(仏文科、中退)にかけて、太宰は非合法だった共産党の地下活動に、従来の想定よりも深く主体的にかかわっていた。保守派の重鎮となる江藤も、太宰の死に接した湘南中学時代には、マルクス主義の歴史家・江口朴郎の私宅で勉強会を開き、しかも「こんな研究会には我慢がならない。実践運動をはじめなければだめだ、と」感じていたという(会の開催を持ちかけたのは、中学で1学年上の石原慎太郎)》(k.295、kはkindle番号)。

 著者の與那覇さんによると、これらの小説群から読み取れることは、改革を目指しては挫折して、イチから出直して、結局、次の世代には何も残さなかった運動ではないか、と。「充分に悲劇的でもなければ充分に喜劇的でもない、要するに感傷的なのだ」と。

『斜陽』

 例えば《『斜陽』からは天皇の下に日本人がたどった「恥ずかしい過去」の軌跡が、走馬灯のように浮かび上がる》(k.335)のですが、心中死した相手からは「コミュニストをどうしてやめたのか」とずっと太宰は問われていたそうです。《太宰は4回の自殺未遂をしたが、それらは戦前のかぎられた一時期(1929-37年)のことで、それぞれに理由があった。これにたいし48年の玉川上水入水は、流行作家となり全集の刊行も決まった時期のことで、生活的にも充実していたはずだった》(k.3551)と。

 《片山総理などが日本の大将になったということは、やはり嬉しいことではないかと思いながらも、私は昔と同じように、いや或いは昔以上に荒んだ生活をしなければならん。 1947年11月の『小説新潮』1巻3号の「吾が半生を語る」欄で、太宰治はこう語っている》(k.520)そうですが、これは個人的に凄くよく理解できる心証です。「片山と芦田の連立内閣は、いわば斎藤反軍演説に殉じた者の同窓会」だったと位置づけられますが(五百旗頭、『占領期』、380頁)、片山と芦田によって《法律上の「家」制度を廃止する民法改正、不敬罪や姦通罪を削除する刑法改正は保守政権では困難であり、(GHQも望んではいたにせよ)社会党を含む中道連立ゆえのイニシアティブで進められたと評価されている》(k.723)。

 こうした中、49年の総選挙で35議席を得て躍進した日共は、51年10月の五全協で毛型の暴力革命をめざす新綱領を採択。平和への復帰ではなく、むしろ再度の「戦争」へと突き進む。それは50年6月に始まった朝鮮戦争と51年9月の中ソ両国を排除した対日講和条約に影響されたもので、武装闘争路線はソ連が指示したものとみられていますが、52年10月の衆院選では日共の当選者はゼロとなります。

『されど、われらが日々』

 こうした運動の渦中で翻弄された活動家を描くのが『されど、われらが日々』なのですが、新しい事態になっているにもかかわらず、「あなたまかせ」の転向は続ききます。

 「転向」は戦前の日共だけでなく、敗戦にともなう日本人すべての体験となっていましたが、戦後になっても日共武装闘争からの「転向」は、『されど、われらが日々』で自殺する佐野にとっても「ただ嬉しい、嬉しい」ものだったとされています。

 53年3月にスターリンが死去
 主人公文夫と佐野が地下に潜るのは54年の秋
 しかし、54年の夏には亡命中の幹部が六全協の草案をまとめ
 55年1月に極左路線を清算

 という流れのなか、留年した佐野や文夫の大学卒業は58年3月。文夫の修士課程修了を待って節子との挙式は60年の春に予定されていましたが、第一次安保闘争の抗議活動がその頃から燃えさかり、文夫はF県(福井か)、節子は東北へ去ってゆくことになります。

 当時はこの文夫の大学院修了の2年間という時間軸が読めませんでした。

 また《実は朝鮮戦争の時代、日本共産党の活動家は在日朝鮮人が多かった。しかし武装闘争を放棄した六全協に前後して、彼らは党籍を離脱させられる。「最前線に立った朝鮮人日本共産党員たちの日本党籍は失われ〔19〕」、冷戦下のアジアの苦難もまた、戦後日本の視野の外へと去ってゆく》(k.1104)という指摘にはハッとさせられました。ナベツネが取材しようとした山村工作隊の部隊の隊長も半島の方だったな、と思い出しました。

 
『赤頭巾ちゃん気をつけて』

 64年に10年前の学生運動を追悼した『われらが日々』が最も売れたのは70年安保の時代だったそうで、こんなところにも「ひとつ前」の類似の体験が系譜として語られず、新たな世代の手で単に「上書き」されてしまう、と與那覇さんは綴りますが、庄司薫は柴田翔の二歳年下になります。

 薫くんシリーズの二番手役、小林のモデルは江藤淳ではないかという指摘にはなるほど、と思いました。入試の中止とは無縁に「おれは前から慶応に行くことに決めていた」わけですし、「漱石が大好き」とも語っていました。また、作中で「丸山眞男」の弟子だったのはこの兄で、一緒に泊まる政治学者の「中村さん」は『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』で知られる萩原延壽のようです。

『限りなく透明に近いブルー』

 沖縄復帰の72年は金日成の還暦にあたり、北朝鮮と朝鮮総連は帰国事業を強化して十数万人が動員されていたそうですが、もちろん第一次の帰国事業の失敗は知れ渡っており、渡った数は少なかったようです。半島で奇妙なナショナリズムが盛り上がるなか、「日本」で唯一ナショナリズムが残っていたのは沖縄だったそうです。ところが、元は独立した政党だった沖縄自民党は70年に自民党沖縄県連へと改組し、73年には瀬長亀次郎の人民党が日本共産党に合流するなど55体制に組み入れられていきました。

『ねじまき鳥クロニクル』

 大佛次郎の『宗方姉妹』と村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は半世紀近くの時を超えて、大陸で響きあうモチーフを持っています。

 『宗方姉妹』の三村亮助に刻み込まれた大陸開発の幻想は、満洲に配属された配属田中角栄によって日本国内にダウンサイズした形で反復され、それが行き詰まった後に『ねじまき鳥クロニクル』の平成が訪れる、という流れはなるほどな、と。『宗方姉妹』は50年、小津安二郎によって映画化されているというので、いつか観たいと思います。

江藤淳の陰謀論

 江藤淳は陰謀史観に近い「日本人はアメリカに洗脳された」論は、それによって論壇から干されるのですが、現在でもWGIPこと「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は《キャラクター商品化された歴史エンタメと、江藤のGHQ批判を借用した精力剤のような愛国ポルノが氾濫》(k.2071)という形で残っています。

加藤典洋

 加藤典洋さんの本はあまり読みませんでした(柄谷行人とその参謀役だった浅田彰も同じように読んだことありません)。でも、以下のところはなるほどな、と。《1966年の入学時には吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(前年刊)が囃されていたにもかかわらず、70年代初頭には――テクスト論の起源にあたる――ソシュール言語学にその座を奪われていたこと。当初は吉本派の左翼学生を見下していた加藤自身が、いつしか社会で忌避されるみすぼらしい活動家崩れになり果てたこと。専攻するはずだったフランス現代文学が読めなくなり、むしろ高校生の頃には軽んじていた、太宰治と中原中也に支えられるようになっていた》(k.4022)。

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『新説家康と三方原合戦生涯唯一の大敗を読み解く』平山優

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『新説家康と三方原合戦生涯唯一の大敗を読み解く』平山優、NHK出版新書

 三方原合戦は神君・家康にとって生涯唯一の大敗で、しかも相手が信玄ということで、これまでも歴史書だけでなく、小説やドラマでも多く取り上げられてきました。三方原合戦における織田・徳川方の敗戦は、将軍足利義昭が信長と手を切り、武田・本願寺・朝倉らの反信長連合と結ぶ動きを誘発するなど当時の政局に大きな影響を及ぼし、結果、この選択によって足利幕府は消滅し、織豊政権から徳川幕藩体制に向かう大きなターニングポイントともなりました。

 これまでは、なぜ家康が浜松城を素通りしていく信玄軍に多勢に無勢で決戦を挑んだのか、そして信玄がなぜ完全勝利に近い勝ち戦に持ち込めたのかというふたつの問題意識で描かれていたと思いますが、平山優先生は本で、信玄がなぜ浜松城を素通りしていったのか、そして家康がなぜ決戦を挑まなければならなかったのかという理由を新説として提示しています。

 合戦の前提となる家康の自立、甲三同盟と今川氏滅亡からの家康と信玄の訣別までの流れは読んでいただくとして、本書が強調しているのはロジスティクスの重要性。

 家康は今川氏真から奪った遠州経営のため、三河から東進し、浜松より東側に居城を建築しようとしました。その見付城(城之崎城)はほぼ完成に近いところまでいったにもかかわらず、結局、西側の浜松に退いて拠点を構えます。それは《背後に天竜川(大天竜、小天竜)を控えた地形が問題となったと考えられる。もし、天竜川の増水時に、武田氏に攻められたら、織田氏の救援もままならず、徳川は攻め滅ぼされる可能性が高かったから》(k.1047)なのですが、実は浜松城もこうした弱点を抱えていました。

《浜松もまた、脆弱な陸路(東海道は今切で寸断されているし、本坂道や鳳来寺道は山道なのでどこかを封じられれば使用不能となりやすい)と、不安定な浜名湖水運(天候に左右されやすく、どこかを封鎖されれば使用不能となりやすい)に命運を預ける格好となっていたのである。この二つを念頭に置きながら、武田信玄の侵略を読み解くことで、三方原合戦の実態がみえてくると思われる》(k.1154)、というのが平山先生の新説の前提。

 ちなみに、東海道はかつて現在の今切口でつながっていたのですが、室町時代の明応7年8月25日(1498年9月11日)の明応地震(南海トラフ巨大地震)による津波で崩落してしまっていました。

 こうした弱点を見抜いていた信玄は浜松城を素通りして浜名湖に突き出る半島にある堀江城を攻める構えを見せます。《堀江城と城主大澤基胤の支配領域(庄内半島)は、浜名湖水運を掌握する要所であった。もし堀江城が攻略され、庄内半島が武田方の手に落ちれば、浜名湖水運の主導権は、武田方に奪われてしまうことになる》(k.1409)ことに気づいた家康は決戦を挑むしかなかった、と。

 従来の説では上洛戦の前に浜松城を落城させるには時間と労力が惜しいと考え、三方原で追ってくる徳川勢を迎え撃つ想定だった、という認識でしたが、本書では、信玄は浜名湖水運を手中に収める事で浜松城の補給路を絶ち、戦国大名となった家康を消滅させるために堀江城に狙いをつけ、それを阻止するべく出撃してきた家康勢を平地で迎え撃った、と読み解きます。

 《堀江城と庄内半島を掌握してしまえば、対岸の宇津山城を確保できなくとも、浜名湖水運の主導権は奪取できる。これは同時に、東海道(今切の渡)をも封鎖することが可能となるのだ。浜名湖水運が武田方のものになれば、今切の渡を利用して物資を浜松に送ることは不可能となる》(k.1420)わけですから。

 さらに、駿河湾を抑える高天神城を落としたことで、武田海賊衆(武田水軍)が渥美半島に進出し、放火するなど織田、徳川の連携は危うくなっていきます。《高天神城の城下には、遠州灘から入り込んだ「菊川入江」が存在し、ここには今川時代以来の浜野浦があった。つまり、高天神城は、「海の城」という性格も併せ持っていたわけだ(土屋比都司・二〇〇九年、平山・二〇一七年)》(k.1441)ということで、いつかこうした目で高天神城を眺めてみたいと思います。

 結果、家康軍は大敗を喫しますが、合戦が夕刻から始まり、夜に敗戦が決定的となったことで、土地勘があった徳川軍は重臣の多くが浜松城に戻れたことは幸運でした。

 最後の《史料渉猟のさなか、堀江城主大澤基胤が「味方原を封鎖してしまえば、懸川に在陣する敵軍(徳川軍)は難儀することだろう」と自身の言葉でずばり明言している書状を読んだときの衝撃と感動は、忘れられない》(k.2216)というところは印象的でした。

[目次]
第1章 家康の自立と武田信玄
第2章 甲三同盟と今川氏滅亡
第3章 家康、信玄の訣別
第4章 開戦
第5章 浜松城と徳川家康
第6章 武田軍の動向と徳川家康の決断
第7章 三方原合戦
第8章 不可解な信玄の動き

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『NEXUS 情報の人類史 上 人間のネットワーク』ユヴァル・ノア・ハラリ

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『NEXUS 情報の人類史 上 人間のネットワーク』ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社

 ジムでの筋トレ→有酸素運動の間に、Audibleで聞きいた本。

 下巻をまず「読んだ」のですが、上巻では人類史を「情報のネットワーク」という視点から読み解いています。その中で通信、印刷術やマスメディアの発展を描いているのですが、それをさらに効率化させるために行われているのが、アルゴリズムの最適化であり、さらにAIによって加速されているけど、問題はそのアルゴリズムの途中経過をサピエンスが理解できなくなっていることだ、みたいな。

 狩猟採集時代から近代以前の人間社会の情報のネットワークでは、情報は分散した集団内部に限定され、修正は自分の目と耳で確認することぐらいで、情報を「武器化」するには限界があった、と。情報ネットワークが発達することによって、情報の全国民、世界的な共有を通じて「武器化」が可能になった、みたいな。

 サピエンスが賢いのなら、なぜこれほど愚かなことをするのか?という例では魔女狩りが引き合いに出されます。

 狂ったハインリヒ・クラーマー異端審問官が論破された後に印刷機をつかって創作した『魔女への鉄槌』がベストセラーになり、魔女狩りを拡大させたのでが、16世紀~19世紀にかけて行われた魔女狩りは数万人の魔女を探すのに3世紀かかったのですが(どうしても、それらしき魔女を差し出さなくてはならない場合、共同体の中から一番弱く、関係の薄い老婆を差し出す)、ヒトラーのナチス、スターリンのソ連では情報ネットワークの拡充によって数ヵ月しかかからなかった、と

 ローマ教皇がこれほどの権力、権威を持ったのはヨハネ・パウロ二世(JP2)からで、JP2は様々なメディアを使って直接、世界の信徒に呼びかけた、というのはなるほどな、と。一時はほとんどローマ周辺の権力まで落ち込んでいたローマ教皇でしたが、ラジオ・テレビなどの発達によって、自身の考えをヨーロッパからアジアまで直接、伝えられるようになった、と。そういえば、日本に初めて来たのもJP2でしたね。

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