書籍・雑誌

August 13, 2022

『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか教えてください』西田亮介

Buchake

『ぶっちゃけ、誰が国を動かしているのか教えてください 17歳からの民主主義とメディアの授業』西田亮介、日本実業出版社

副題は「17歳からの民主主義とメディアの授業」。著者は本来こちらをタイトルとして考えていたといいますが、今夏の参議院選挙でも10代は43.21%、20代では36.50%と投票率は低いまま(全体では55.93%)。こうした若い層に向けて、改めて投票や自由民主主義の価値などを平易に、しかもメリットやコストも含めてしっかり説明しながら語るという内容。

東洋経済書評欄の著者インタビューで「SNSは権力者の優位を強化し、告発のツールにはなり得ても監視はできない」「意見に偏りがあるとか、代案がないという批判を恐れるな」というあたりが面白かったし、日本全体で記者が全体で3000人減っており、権力監視機能が弱まっているという、新聞社への高い評価を前提とした指摘などが「バランスが取れている」と感じて読むことにしました。

それにしても安倍政権から菅政権にかけて、公文書やデータの改ざんが平然と行われたのは、戦後政治の大汚点だったと思うし、なぜ日本社会がこうしたことに寛容なのか理解できませんが、参院選も結局は弔い合戦みたいな雰囲気になって与党が圧勝してしまったのは残念な限り(アベノミクスは戦後の経済政策で、所得倍増と並ぶ素晴らしい経済政策だったと思いますが)。そして、勝たせすぎたという意識が、現在の統一教会がらみの政権批判につながっているんでしょうが、3年間のフリーハンドを与えたことは後の祭り。

最初に《危機のときにも、政治や行政への関心や忠誠心が高まると言われています。旗下集結効果などと学説では呼びます。でもコロナ禍の日本では必ずしもそうなっていないのも興味深い》(p.3)という日本の政治風土から説き起こし《最近は「偏らない」ことに教育や若い人の関心が向いています。しかし、「偏らないこと」もまたある種の偏りを選択しています。そのことは忘れられがちです。本書はなるべく複数の議論を紹介しながらも、積極的に特定の立場を表明しています。多様な「偏り」こそ人間性の源》(p.6)なんだと批判そのものを肯定。さらに《多くの人が生活のことや仕事のことなどに集中できる社会は「幸せな社会」です。でも、自由民主主義の社会であるからこそ生じるコスト負担なしで、それを維持している国は歴史的にもほとんど見当たりません》(p.15)と、今ここにある自由民主主義の価値から語りはじめます。

《国によっては投票を「義務」と位置づけ、投票に行かないことに対して、罰則を課す国も少なくありません》(p.51)と投票価値を高く見積もり、それでも何か大きく変わるかものではないかもしれないが《自由民主主義における政治はあくまで「皆で議論して定める」ことに価値を見出》し、《権威主義国家とか、独裁国家とか、そういった世界中の国々と比べてみると、確固とした自由民主主義というあり方自体が一つの貴重な価値》(p.57-)なんだ、と。

自民党の凄さについて多くの地方議会でも多数派を形成し、党の予定がホームページで公開されている勉強会の情報が一応公開され、朝から晩までいろんなことをやり続けている、なんてあたりや(p.95-)、PDFやExcelという形式にせよ、基本的な政府統計が継続して公開されていることも、それほど当たり前のことではないという指摘(p.112)も若い世代には貴重な情報だと思います。

個人的になるほどな、と感じたのは《自由とは、選択をしなければいけないということです。選択するということは、考えなくてはいけないということでもあります。だから選択できること自体が価値だと認識しにくいような状況下では、自由はコスト》(p.170)という流れからの《ぼくは、本当に豊かな社会とは選択肢が豊富にあって、その選択肢を実際に選ぶことができ、仮に選択を間違えた場合にもやり直すことができるような社会だと考えています。 多くの人が閉塞感を覚えるのだとしたら、日本の社会において選ぶことができる選択肢が少なくなっているのかもしれません》(p.175)というあたり。

また、ネットメディアの問題点は訂正記事などに熱心でなく、コストを意識するために品質管理がなされてなく《玉石混淆で圧倒的に石が多いような状況が日本のネットメディアです。残念》という評価はクリアカットで納得的(p.211)。

著者の新聞社への評価は高いのですが《新聞社の経営が苦しいので、たとえば体力のあるIT企業が全国紙を買収するようなことがあるとおもしろいと思いますね。それで完全DXで復活させるとか。具体的には産経新聞や毎日新聞をYahoo!が買収してDXさせながら再生するとおもしろいですよね。まあ規模の割に利益率が低いので非現実的》と悲観的でもあります(p.246)。

最後のあたりに出てくる投票の価値の非対称性は面白かった。《ポイントは投票の価値は非対称的であることです。つまり一般的な有権者が体感できる利得という意味では、投票にはほとんど価値がありません。でも、政党と政治家は1票をめぐってしのぎを削っているわけです。だから彼らは票と票になる行為と機会をいつも求めています。彼らにとっては価値があります。有権者と政治家には、ものすごい非対称性がある》(p.326)と。あと《世論の反応や受け止められ方を分析して、コミュニケーション戦略を設計する専門家のことを「スピンドクター」などと呼》ぶというあたりとか(p.87)。

後で知ったのですが宮台真司さんが師匠というのは、なんか納得。若い世代向けへのお勧めですが『もういちど読む山川戦後史』は読んでみようかな、と。

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August 08, 2022

『アドレナリン ズラタン・イブラヒモビッチ自伝』

Zulatan

『アドレナリン ズラタン・イブラヒモビッチ自伝 40歳の俺が語る、もう一つの物語』ズラタン・イブラヒモビッチ、ルイジ・ガルランド(著)、沖山ナオミ(訳)

2000年代ヨーロッパサッカーの歴史を選手や監督といった現場レベルの話しだけでなく経営者たちの姿も俯瞰できる内容。

ズラタンは地元クラブを出てからはオランダ、フランス、イタリア、イングランド、スペイン、米国でプレーして、5度の得点王となっているのですが、怪我による治療もあって移籍した米国を除けばいずれもメガクラブ。さらにユヴェントス~インテル~ミランというライバルチーム間の禁断の移籍を繰り返します。

こうした派手な移籍を繰り返すことが出来たのは、彼がスウェーデンというサッカー大国ではない国の移民二世という出自だからでしょうか。もちろん代理人の腕もあると思いますし、自分でも「高く売られるのが好き」だからと公言しているからなのかもしれませんが、ヨーロッパのメガクラブを渡り歩き、アメリカのMLSから再びミランに戻るというキャリアは誰も成し遂げてはいないと思います。

そういった意味では、自伝という形式はとっているものの、移民二世のムスリムが貧しい環境から這い上がって、世界のメガクラブを渡り歩き、それでも自分を見失わずに成長する姿を語った、新時代のBildungsroman(自己形成、教養小説)という感じもします。

ただし、古い教養主義的な自己形成小説とは違い、ズラタンは内面での成長をあまり語らず、自分は自分であることをどこまでもド派手に貫き通しているところが新しい感じ。

インテルの下部組織を描いた映画『サンシーロの影』では、チームのマネジャーがかつて所属していたズラタンに関して「彼には欠けているところがあったが、それが彼をスーパーな選手にした」と若手有望株に語るシーンが印象的でした。この『アドレナリン』を読むと、その欠けているものは、多分「自意識」なのかな、と感じます。

彼は自分のことをズラタン、イブラと呼んでるし、サッカーゲームをプレイする時にも自分のキャラクターを使うらしいのですが、それはあまり自分を客観視することをせず、あえて第三者の目で自分を見ないようにしているからなのかな、とか。

極貧地区で育ったズラタンは、笑われるのがイヤだからという理由でチームメイトからシャツその他を盗んだり、あるいは自転車も盗んで乗っていたんですが、もちろん子どもの頃のこととはいえ、自他の区別もあまりついていなかったのかな、とか。

もちろん、前の自伝『I AM ZLATAN』からの10年間という時間は、サッカーでもドリブルよりはパスを多用するようになるとともに、チームリーダーとしての自覚も語るようになります。PSGの状況に関して、たくさんのスター選手はいるが、犠牲的精神に欠けていると批判するところなどは驚きました。

また、マンチェスターユナイテッドに関して、遠征先のホテルのミニバーのフルーツジュース代1ポンドが給与から差し引かれているあたりを赤裸々に書いているあたりは初めて読む内容なので驚きました。最近の低迷は、こうしたクラブのセコさがあるのかな、とか(p.173)。

翻訳が乗りに乗ってるというか《もし、ドリブルが自由への逃避なら、パスは自分と仲間をつなぐものだ。山を登るときのザイルのようなものだ。ドリブルは孤立を与えてくれるが、パスは友情を生み出す》あたりは見事(p.297-)。

ヨーロッパのサッカーシーンが好きな方の夏の読書にぜひ。

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August 04, 2022

『危機の外交 岡本行夫自伝』岡本行夫

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『危機の外交 岡本行夫自伝』岡本行夫、新潮社

自伝は多くの自伝がそうであるように父母から描き始められるんですが、父親の脩三氏は中学時代に農業の重要性を説く折口信夫に感化され、折口が終生の師と仰いだ柳田國男を慕って農商務省のキャリアとなったということに驚く。

さらに農水省のキャリアだった父が二等兵で徴兵。それは小作擁護や反軍思想のためで輜重兵となったというのも信じられなかったのですが、そこまでは明確に書いていないにせよロシア語を学んだ後、京大閥の多かった731部隊に配属されることを前提にしていたのかもしれない、と続く展開は二転三転の驚愕。
 
 敗戦直前、731部隊は全ての証拠を隠滅し、先に撤退でき、父・脩三も亡霊のような姿で復員したというが、戦後は人格が変わってしまったというのが、外交的にはハードライナーなのに中国や韓国に対しては「あれだけのことをやったんだから仕方ない」という岡本さんの姿勢に現れていたんでしょうか。

また、硫黄島の玉砕には八百屋、パン屋、新聞配達店主などが多く、職業軍人の数は少なかったのは大本営が硫黄島の運命を知っていたからだったとか、沖縄戦について全島民の4分の1の12万人が死亡し日本軍の死者は9万4000人を上まわったのは酷すぎるなどと指摘しているのも印象的。

このほか、京浜安保共闘の一員として東京の下町の上赤塚交番を襲い射殺された柴野が子ども頃からの親友であったというも時代だな、と(k.1329)。

「ハル・ノート」を受諾していれば、日本とアメリカは開戦に至らず、しかも朝鮮半島、台湾、南樺太、全千島は、そのまま日本の領土、ないし植民地であり続けることができた(k.1039)というあたりは外交官的感想なんでしょうか。

以下は箇条書き的に(kはkindle番号)。

岡本さんのメンターであった牛場信彦氏は一時、外務大臣にもという声があったが、戦前、ベルリンに勤務して大島浩駐独大使のもとで「枢軸派」に強く傾いていたという過去を理由に固辞したというのは、なるほどな、と(k.1524)

《日本の首相が発言を始めるとジスカール・デスタン大統領は、これ見よがしに新聞を取り出して読み始める》というのも情けないけど、凄い話しだな(k.1680)。ちなみに、ジスカールが出席していたときの日本の首相は三木、福田、大平でした。ミッテランも鈴木首相の話しは退屈だったろかな、とか。

《ミサイルを格納するサイロは、敵の攻撃でいっぺんに破壊されないように広大な地域に散開している。林や農地や山間などにサイロが分布する。その広がりは日本を構成する四つの大きな島の一つである四国の面積に匹敵する。このことだけをもってしても、日本の核武装などは非現実的》(k.2099)というあたりはハッとさせられる。

《日本に向かって発射される北朝鮮の最初のミサイルを撃墜することは実際上、難しい。第二撃以降のミサイルを北朝鮮の発射基地内で破壊するのが「敵基地攻撃能力」だ。そうなれば、北朝鮮は、日本への第一撃も思いとどまらざるを得ない。つまり、敵基地攻撃能力とは、「北朝鮮を攻撃する能力」ではなく、「北朝鮮に日本を攻撃させない能力」なのである。それが抑止力》という説明も納得的(k.5699)。

今回のペロシ訪台でも出動した空母ロナルド・レーガンについて《横須賀にある第7艦隊の原子力推進空母ロナルド・レーガンは、艦載機を含めれば1隻2兆円もするだろう。随伴艦を含めれば3兆円近いはずだ。これだけの軍事アセットを日本の首都のすぐ隣に置くアメリカの戦略が、周辺諸国にアメリカの日本防衛の強い意思として伝わっている》(k.2265)というのはなるほどな、と。

湾岸戦争の時《海上保安庁から、「橋本大臣は巡視船派遣に賛成した、ただし自分が最初の船に乗っていくことが条件だ、と言っておられる」と連絡がきた。いかにも橋本さんらしい歌舞伎役者のごとき対応》(k.2637)というのまでは知らなかった。この派遣は後藤田官房長官が閣議でサインしないとツッパねて幻に終わったんですが(k.2656)、そりにしても橋本さんは海保庁が大好きで、行政改革の時に国交省から米国の沿岸警備隊みたいに独立させてやろうという申し出さえ行ったんですが、なぜそこまでシンパシーがあったのかまでは探れませんでした。

イラク戦争後、日本の自衛隊はサマワに駐屯しますが《ある日、僕と奥は南部の牧歌的な地を訪れた。僕らがまわってきたほかの町に比べて驚くほど静かで、戦争とは無縁だったので被害も受けていない。サマワという場所だった。  僕は言った。 「こういう場所にはどこの軍隊も必要ないね。自衛隊だってくるわけがない」  奥がニヤッと笑った。 「だから、ここに来ますよ。岡本さん賭けますか?」  僕は賭けに負け、バグダッドで夕食代を払わされた》ということだったのか(k.4434)。

《僕の外務省の先輩たちは中国の友人たちから、こう言われていた。 「日本は600万の中国人を殺傷したが、日本はラッキーだよ。その後、共産党の大躍進と文化大革命の時代に4000万人の犠牲者が出たのでみんな日本のことは忘れてしまったよ」 これは共産党の最も深刻なアキレス腱である。1950~ 60 年代の共産党の大躍進と文化大革命の時の記憶を国民から一掃するためには、それ以上の規模での蛮行が日本軍によって行われ、共産党がこれを撃退したと国民を教育する必要があった》というのもなるほどな、と(k.5217)。

《文在寅は人口わずか 28 万人の 春 川 市のローカル裁判所の判事を最高裁長官に抜擢し、「 65 年の日韓合意は個人としての韓国人犠牲者を拘束しない」という判決を出したのである。韓国には罪刑法定主義や法の不遡及は存在しない。民族の怨念が晴れない限り、日韓関係の前進はない》(k.5585)というのもなるほどな、と。

[目次]

刊行に寄せて 岡本さんの思い出 北岡伸一

第1章 父母たちの戦争
父・脩三の戦争
太平洋での戦争
母・和子の戦争
日本の降伏

第二章 日本人とアメリカ人
新しい日本の出発
日本人とアメリカ人
押し進む人々

第三章 敗者と勝者の同盟
日米同盟:有事は日本に有利、平時はアメリカに有利
日米同盟の金字塔――米ソ中距離核(INF)交渉
日本に駐留するアメリカ兵たち

第四章 湾岸危機――日本の失敗、アメリカの傲慢
失敗のプレリュード――ペルシャ湾への巡視船派遣
日本は湾岸戦争への対応になぜ失敗したのか
米中央軍に送り出した膨大な資機材
日本の屈辱

第五章 悲劇の島――沖縄
退職と新ビジネスの失敗
沖縄が僕の仕事になった
普天間

第六章 イラク戦争――アメリカの失敗、日本の官僚主義
成功したプレリュード――インド洋への給油艦派遣
イラク戦争と復興
日本のイラク復興支援
失敗したアメリカのイラク統治
兵士たちの献身
敗北

第七章 難しき隣人たち――日本外交の最大課題
日本の半永遠のくびき
困難な隣人・中国――日中は関係改善へ
さらに困難な隣人・韓国

第八章 漸進国家・日本
脆弱な安全保障哲学
周辺国から日本への脅威
分かれ道
超安全主義から決別できるのか

さいごに 日本の目指す道

あとがきにかえて 岡本代表のライフワーク 澤藤美子
刊行に寄せて 岡本さんの思い出 北岡伸

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July 26, 2022

『グレート・ギャッツビー』とYale

月組公演『グレート・ギャッツビー』のリスケされた初日が近づく中、村上春樹版を読み直してみました。

正直、原作も映画もあまり印象にないというか、だいたい小説はニガ手なので、『偉大なギャツビー』は大昔に放り出したし、読み終えたのは村上春樹版。でも、自分の読書Blogにも書いてない。映画『華麗なるギャツビー』のロバート・レッドフォードは語尾に"Old sport"をつける話し方などが好きだったのですが、デイジーがミア・ファーローじゃね…みたいな。バズ・ラーマン監督版も正直、あまり印象が残っていないので、見直してみようかとは思っていますが、宝塚版も月組のを観ただけですが普通だな、という感じでした。

ということで先日、タカラヅカ・ニュースで朝霧真くんの出た稽古場リポートもあまり期待せずに観ていたんですが、演じるジョンという役はブキャナンの遊び友達で、潤色・演出の小池先生が今回新たに作った役だったと知ったことから俄然、興味が出てきました。小池先生の潤色は、原作に補助線を引くことで、作品の意味みたいなものを浮かび上がらせることが多いので。『Once Upon a Time in America』も労働争議という補助線をクッキリ引くことで、実はギャングの話しではなく、ジミー・ホッファという怪物労働運動家の話しであることを浮かび上がらせていましたので、『グレート・ギャッツビー』もドッグイヤーしたところを中心に読み直してみようと思いました。

そこで感じたのは今回の31年ぶりの大劇場版『グレート・ギャッツビー』に小池先生が引いた補助線はイェール大学なのかな、と。

ブキャナンと3人組の出身大学はイェール。ブッシュ大統領も卒業した金持ちのための大学で、最近の新入生の7割が裕福層出身というスーパーリッチの子どもが歓迎される名門大学。だいたい世界でも有数の資産家であったエライヒュー・イェールから寄付を受け改名したぐらいなわけで、ハーバードに次ぐ約300億ドルの資産を持つ、と。

ちなみに、稽古場情報によると新たに創造した3人の少人数口の芝居には『アメリカの貴族』という金持が貴族っぽく振る舞うのが周りからみるといかに滑稽にみえるか、という新しいナンバーがある、とのこと*1。朝霧くん曰く「3人の友人はみんな背が高く、ブキャナンを含めて背が高い生徒が選ばれた」とのことでハッとして、改めて読み直してみるとブキャナンはイェール大学卒で、アメリカンフットボール選手として活躍し、その時が人生のピークだった、と。NYの屋敷には全米代表として活躍した時のトロフィーや賞状などを飾ってるみたいですが、アメフトはハーバードやイェール、原作者フィッツジェラレルドのプリンストンなどアイビーリーグで発展したスポーツだといいます。ちなみに、ブキャナンはアメフトでエンドをやっていたとのことですが、オフェンスで最も背の高い選手が選ばれるがエンドというポジションです。とにかく、今回はそうしたリッチが集まる大学で派手な学生生活を送ったエリートたちの場面を多く描くことで、灰の谷に住むウィルソン夫妻などとの対比を際立たせようとしているのかな、とか。

ちなみに、フィッツジェラルドはプリンストン大学出身ですが、作中人物はなぜかイェール出にすることが多いんです。原作はニックの回想として描かれていますが、ニックもイエール大学出身*2。村上春樹の訳者あとがきを読むと、生まれつきのエリートであるブキャナンは、成り上がり者のギャッツビーのわざとらしい立ち居振る舞い、派手な服やクルマの趣味などがいちいち気にくわないんですが、同じイェール出身でもギャッツビーと同様、ヨーロッパでの従軍経験のあるニックはギャッツビーの境遇に同情するみたいな構造があるのかな、とか。

といいますか、フィッツジェラルドは初めて成功を収めた『楽園のこちら側』でも「ビッグ3」と呼ばれるハーヴァード、イエール、プリンストンについて語っています。主人公のエイモリーには「プリンストンに行きたい。ハーヴァードの学生はめめしく、イェールの学生はブルーのセーターを着てパイプをくゆらせている感じだ」と語らせています(「ブルーのセーターを着てパイプをくゆらせている」という比喩は、直感的にはわからないんですが金持ちのいけすかない奴が多いという感じでしょうか?)*3。

また、ハーヴァード卒を主人公にしている作品には『ベンジャミン・バトン』があります。この作品で歳を重ねるごとに若返っていくベンジャミン・バトンはハーバード大学に入学し、大学のフットボールで彼は大活躍するんですが、それは考えてみればそれは『ギャッツビー』のブキャナンとパラレルの関係。

ブキャナンのキャラクターをSFチックにしたら『ベンジャミン・バトン』になるのかな、というかフィッツジェラルドの作品というのは、ビッグ3に固執している感じ。フィッツジェラルドはエリート学生の「リア充」な生活を描いて、「ビッグ3」出身のエリート青年に対する冷静な観察者だったのかもしれませんが、そうした意図とは逆に、こうした金持ちのエリート青年の生活に憧れる貧乏学生の読者を得ていたのかもしれません。

ぼくはフィッツジェラルドの作品がまだ読者を獲得しつづけていて、映画化も定期的にされるという理由があまりよくわからなかったんですが、こうした現世的な理由もあるのかな、と。少し古い作家ですが、フランソワーズ・サガンの主な読者は「お針子」だったという話しを聞いたことがありまして、そういうものなのかな、と(もちろんサガンの作品は新たな読者を獲得し続けているとはいえないので、フィッツジェラルドにはやはり作家としてのすぐれた要素があるんだとは思いますが)。
 
 ちなみに短編『泳ぐ人たち』には、アメリカ人はヒレを持って生まれてくるべきであり、金と教育は世間を泳ぎ回ることのできる一種のヒレではないか、みたいな箇所があったと思いますが、実はみんなヒレがほしいわけで、それを小説の中だけでもかなえてやっていたのがフィッツジェラルドの作品の一面にはあるのかな、とか。

*1 ♪俺たちの祖先が この国を開拓して 百五十年前 独立した

  安い 移民の労働者 仕事与えて 発展した

  ヨーロッパは戦争で 落ちぶれた

  今じゃ アメリカが 世界一 豊かな国に(作詞:小池修一郎)

*2 イェール大学出身のニック・キャラウェイは、三章で会社がひけたあと「イェール・クラブ」に行って夕食を取り、食後そこの図書室でしばらく経済学の勉強をしていたとしています(I took dinner usually at the Yale Club--for some reason it was the gloomiest event of my day--and then I went up-stairs to the library and studied investments and securities for a conscientious hour.)。ちなみに「イェール・クラブ」はイェール大学の卒業生と教職員のためのプライベート・クラブで、グランド・セントラル駅の真ん中に今でもあるようです。

*3  翻訳書がないので私訳です。原文は以下の通り。

“I want to go to Princeton,” said Amory. “I don’t know why, but I think of all Harvard men as sissies, like I used to be, and all Yale men as wearing big blue sweaters and smoking pipes.

― F. Scott Fitzgerald, This Side of Paradise

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July 25, 2022

『ヒト 異端のサルの1億年』島泰三

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『ヒト 異端のサルの1億年』島泰三、中公新書

島泰三さんの本のファンなんですが、16年に出ていたこの本は見落としていました。

ご存じない方にひとことで紹介すると、島さんは在野の研究者ということになるでしょうか。東大闘争で「本郷学生隊長」として安田講堂に立てこもり、懲役二年の判決を受け、改めて京大で理学博士号を取得したのですが、アカデミックな職は得られず、自然環境研究センターなどを拠点に霊長類の研究で著書多数という感じ。

『ヒト 異端のサルの1億年』はこれまでの著作、研究の集大成。

マダガスカルには原猿類が多く残っているのは、実は猿はここで生まれ、レムリア大陸としてくっついていたインドがマダガスタルから離れた後にユーラシア大陸と繋がり、そこから広がったからだ、というのが「第1章 起原はレムリア」。ゴンドワナ大陸から分かれたマダガスタルは以降、孤島として原猿類を残した、と書かれたのは『どくとるアイアイと謎の島マダガスカル』(八月書館)でしたが、霊長類の時代は地球規模で気温が下がり続け、インドによるヒマラヤ造山運動はその一因にもなっている、と。

島泰三さんは食性から霊長類の進化を読み解こうという姿勢が顕著なのですが「第2章 歌うオランウータン」では、今の熱帯のボルネオでも栄養価の高い果実が不足する時期があるため、オラウータンは体脂肪を大量に蓄積する必要があるために大型化し、さらに殻を割るほど歯のエナメル質を高めた、としています。

「第3章 笑うゴリラ」では、ヒマラヤ造山活動による地球寒冷化で乾燥に強い大型の類人猿としてゴリラが生まれた、としていますが、そのゴリラにしても個体数はO型の血液型を欠くほどに減少したことがあった、と。

こうした乾燥化の中でチンパンジーは群れのサイズを大きくしてグループ間の闘争能力を高めつつ分散菜食することを選び、大型のアルディピテクスは椰子の木を根城に生き抜こうとしたが失敗したというのが「第4章 類人猿第三世代のチンパンジーとアルディピテクス」。

その後、420年前から50万年間の鮮新生温暖期にはアウストラロピテクスが生まれます。栄養価の高い捕食者の食べ残しの「骨」がある場所をハゲワシの動きで知り、石器でたたき割り、髄液や骨そのものも食べるというのが「第5章 類人猿第四世代、鮮新世のアウストラロピテクス」。『親指はなぜ太いのか 直立二足歩行の起原に迫る』(中公新書)で人類の起源は「骨食」にありという非常にラジカルな自説を展開した説をさらに発展されています。

「第6章 ホモ・エレクトゥスとハンドアックスの謎」は個人的に一番面白かった章。10センチ以上の三角形のハンドアックスが世界中で無傷のまま発見されているそうですが、それはライオンなど大型獣に対して、集団でハンドアックスを振りかざして威嚇しながら迫り、より確実に食べ残しの骨などを確保したからではないか、と。

「第7章 格闘者ネアンデルタール」では、パプアの人々はネアンデルタール人(2.5%)のほかに、デニソワ人のゲノムも4.5%持っているそうです。パプアの人々の他の人種とは明らかに違う体格はこのためだったのか…と初めて納得しました。

「第8章 ホモ・サピエンスの起原」は木楽舎『はだかの起原 不適者は生きのびる』で展開した、体毛を失うという突然変異によって、それまでの類人猿が敬遠していた水辺に生息域を移したことで新たに膨大な食物のニッチをホモ・サピエンスを得た、としています。

そして魚介を主食としたホモ・サピエンスが夢にまで見た楽園が日本列島だったのではないか、というのが「第9章 最後の漁撈採集民、日本人」。この楽園のような列島への流入は続き、野尻湖周辺には3万3000年前から1万4000年前まで7つの石器文化が確認できるとか。また、『ヒト、犬に会う 言葉と論理の始原へ』(講談社選書メチエ)では、ヒトが犬を飼うことで、熟睡をヒトにもたらし、芸術活動も盛んになるなど、脳を発展させたとしています。

江戸時代の漂着民は届出があっただけで1万人近く記録されてますが、1万年続いた縄文時代には、大量の侵略者を心配することなく、漂流者を受け入れる戦争のない時代を列島に実現させたのではないか、と。

また、日本人は脳の活動に必要なEPA、DHA、AAを魚介から取り続けることで、ヨーロッパ人男性の1400ccという脳容量を上まわる1500ccの脳容量を維持している、と。

『孫の力 誰もしたことのない観察の記録』でも指摘していた「ほほえみの力」が戦前の日本の漁撈民には残っていたというのが「終章 ほほえみの力」。

厳密な学問的研究という面からは色々、指摘もあるのでしょうが、ぼくのような門外漢にとっては人類、日本人の起源についての新たな知見をたくさんいただけた読書でした。

[目次]

第1章 起原はレムリア マダガスカル・アンジアマンギラーナの森から

第2章 歌うオランウータン ボルネオとスマトラの密林にて

第3章 笑うゴリラ ヴィルンガ火山の高原より

第4章 類人猿第三世代のチンパンジーとアルディピテクス タンガニーカ湖畔の森から

第5章 類人猿第四世代、鮮新世のアウストラロピテクス ツァボ国立公園にて

第6章 ホモ・エレクトゥスとハンドアックスの謎 マサイマラから

第7章 格闘者ネアンデルタール

第8章 ホモ・サピエンスの起原 ナイヴァシャ湖にて

第9章 最後の漁撈採集民、日本人 宇和海の岸辺にて

終章 ほほえみの力

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July 10, 2022

『上を向いてアルコール』小田嶋隆

Uewo-muite-alchohole

『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』小田嶋隆、ミシマ社

《アル中は遠くにありて思うもの》

小田嶋さんの本を買ったのは『安全太郎の夜』以来、ほぼ40年ぶり。泣けました。
 TVは見る気がおきないので、読んでる順番は違うのですが、小田嶋さんの『上を向いてアルコール』のことを少し書こうと思います。

 《私の医者が言っていた話で必ずしも定説ではないんですけど、どうやら遺伝的なアルコール分解酵素の有無とか組み合わせとかが何らかの形で関わっている》(k.114)というのは納得的。
 今では研究がもっと進んでいると思いますが、『酒乱になる人、ならない人』真先敏弘、新潮新書でアルコール脱水素酵素(アルデヒド脱水素酵素ALDH)には
ALDH1型:血中アセトアルデヒド濃度が高くなってから作用が始まり、ゆっくり分解する酵素(やや弱い補助的な酵素)
ALDH2型:血中アセトアルデヒド濃度が低い時点から作用する強力な酵素
という2種類があって、さらに遺伝子多型は
2型を2つ持つ:酒を飲む速度が速く、気分も盛り上がり、ブラックアウトの経験あり→酒乱タイプ
1型を2つ持つ:大人しい飲み方だが、酒量はかなりいける→酒豪タイプ
1と2型を持つ:中間の飲み方
という3つの型があるとしています(p.134-)

医学的な所見を述べる立場にはまったくないのですが、もうお亡くなりになっているので…小田嶋さんは酒量がそれほど多くなかったと書いているので、1と2型を持つタイプで、さらに《あとは性格とか。性格で言うと、要するに極端なこと好きとか》みたいなことでアルコール依存症になったのかな、とか。また、小田嶋さんと対談したことにある吾妻ひでおさんは多分、1型を2つ持つ酒豪タイプだったのかな、とか。

小田嶋さんが「四〇で酒乱、五〇で人格崩壊、六〇で死にますよ」と39歳の時に医者から宣告を受けたのは計算すると1995年なんですが、この時期はテクニカルライター業界がよりプロっぽくなって、ぼくみたいなプログラミングやハードの深い知識を持ち合わせないライターがふるいおとされていった時代と重なっているのかな、と。小田嶋さんも93-4年頃から原稿を落とすことがあったと書いていますが、テクニカルライターとして生きていくのが不安になり、酒に走った部分があったんでは…と当時から読んでいた身としては個人的に感じています。

小田嶋さんが最初の単行本『我が心はICにあらず』を出したBNN出版はMac Lifeなんかの雑誌を出しつつ、ライフスタイルを提案しようとした版元だと感じていました。小田嶋さんがどっかのインタビューで、マイコン関連の書籍を一冊書くと、細部をちょこっといじるだけで別の一冊が書けて、二重に印税が入ってくるみたいな時代があった,と。そういう供給側が極端に少ないおいしい時代にテクニカルライターを自称して稼いでいた、と言ってましたが、そんな時代。
当時はPC98シリーズで日本のパソコン市場が立ち上がって、とにかく書き手が足りなかった時代でした。ぼくも知り合いから「英語ができて、パソコン使って書けて、コンピュータのことが少しわかってりゃいけるから」と誘われて、会社までつくってしまったほど。小田嶋さんも、そうしたテクニカルライターのひとりだったのかな、と思って読んでいました。

自称テクニカルライターはプログラマー上がりか、フリーライター上がりに大きく分けられて、小田嶋さんはぼくと同じ後者だなと睨んでいました。で、確か月刊BUG Newsだかなんだかで、小田嶋さんがプログラミング講座の連載を始めるという発表があった時には本当に驚くと共に「侮っていてすまんかった」と翌月号を心待ちして、読みました。
そしたら、相変わらずの小田嶋調。どういった経緯でテクニカルライターになったのか、みたいなのがメインで、次号から本格的に…と予告してB5版雑誌の見開きの初回連載は終わってました。「ま、こういうこともあるだろ」と思って、その翌々月号を楽しみしていたら、「著者から『書けない』という申し出があったので、本人の承諾を得て、過去に書いたエッセイを再掲します」みたいな展開になって、それ以降、小田嶋さんをPC関連の雑誌で見ることはなくなり、代わりに『噂の真相』あたりに拠点を移していきました。
確か98→Macとブームは大きくなり、さらには頓挫したOS2から化けたDOSVという大波がバブルと共に来て、ぼくなんかは大した勉強もせずに残存者利益を享受できたのですが、ぼくより二歳年上の小田嶋さんは一足先に降りたのかな、とも感じました。
ぼくがテクニカルライターから足を洗ったのは、編集の側からの細かな注文が多くなり、編集部に出入りするライターにも背広とネクタイみたいなのが増えた93~4年あたりからだったと記憶しています。

とにかく、ぼくが最初に小田嶋さんのことを知ったのは1988年。当時は最先端だったBBSで知り合った友人から勧められた『我が心はICにあらず』でした。ICを「石」と読ませます。

《高橋和巳はひどい痔に苦しんだ男であると同時に、優れた小説家でもあったが、だからといって、重篤な痔疾を獲得すれば傑作が書けるというものではない。当たり前の話》(k.485)と『上をむいてアルコール』でも書いていましたが、最初の単行本もタイトルは高橋和巳の『我が心は石にあらず』に拠っています。そして『我が心は石にあらず』は『詩経国風:邶風篇』の漢詩からとられています。

我心匪石 我が心 石に匪ず(わたしの心は石ではないので)
不可轉也 轉がす可からざる也(転ばして変える事はできない)

我心匪席 我心 席(むしろ)に匪ず(わたしの心はムシロではないので)
不可卷也 卷く可からざる也(巻いて丸めることはできない)

小田嶋さんは文学青年だったんだな、と。

『上を向いてアルコール』でも

・現実逃避よりも、酒が役に立つ場面があるんだとすると、何かの弁解ですよね。だから現実からは絶対逃避できないんだけど、そうじゃなくて、女性を口説くときに、酔ったうえだからという前提を利用したり(k.248)
・酒場の知り合いでお互いの私生活には踏み込まない。あの、うすーい感じの付き合い(k.283)
・「私は酔っ払いです」というポジションの楽さというのは、周囲から「あのヒトは酒入っちゃうとアレなヒトだから」という扱いになっていることの心地よさです。治外法権ですよ。外交官特権みたい(k.1183)
・「毒舌」というのも、酒のうえのキャラみたいなものです。酒とワンセットで初めて機能する人格標本(k.1200)
・人間は「人生を単純化したい」というかなり強烈な欲望を抱いています。たとえば念仏とかも、単純化の極みじゃないですか。「南無阿弥陀仏」と言っておけばいいんだ、往生するんだ。素敵じゃないですか(k.1375)

このあたりは素晴らしいアフォリズムだな、と。

『我が心はICにあらず』や次の『路傍のIC』、『安全太郎の夜』で小田嶋さんに好感を持ったのは、歌舞伎町のはずれにあったビリヤード屋とか、遊んでるところが似ていたし、余所者を拒絶する都会っ子の悪い部分を自覚しつつも直さないみたいな雰囲気が好きだったから。

先日、新宿で開かれたイベントの打ち上げに出席したのですが、ちょっと時間があったので、小田嶋さんが『我が心はICにあらず』で書いていたビリーヤード屋を探してみました。割とすぐ発見できて、まだやっていたのには驚きました。
それは「ACB会館」。
アシベで、いつか小田嶋さんを偲んで弾を突いてみますかね。

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June 20, 2022

『ビーバー: 世界を救う可愛いすぎる生物』

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『ビーバー: 世界を救う可愛いすぎる生物』ベン・ゴールドファーブ、木高恵子(訳)、草思社

 久々に読書を純粋に楽しみました。

 他の本も読みながら、ゆっくりと。

 出かける時に、註を含めると500頁を超えるぶ厚い本を持ち出すのは大変でしたが、それ以上の喜びを得ることができました。

 なにしろビーバーは健気で可愛い。

 北米大陸の生態系をつくっていたビーバー(カストル・カナデンシス)が欧州からの移民と西部開拓によって米国内ではほとんど絶滅寸前となり、その結果、イエローストーン国立公園を流れる河川も修復不可能なほど痛めつけられていたというのは驚きでした。

 ビーバーダムは夏には干上がってしまうような川でも地下水涵養能力を高めるとのことですが、ビーバーがいなくなったイエローストーン国立公園は、いま大雨による洪水と大規模な土砂崩れが発生。公園内の道路が濁流によって崩落したほどだそうです。

 それは、シカの異常繁殖によって河川を守る草木が食べ尽くされ、土が浸食されて潰滅的な状態となり、保水能力を失っていたからなんだろうな、と(第八章によると実際、ビーバーを移転させようとしても難しいほどだそうです)。

 アメリカの西部開拓は高価なビーバーの毛皮目当てという側面も大きかったというのも初めて知りました。

 河川を自然状態に保ち、魚や鳥、両生類などの住み処を与えていたビーバーダムがなくなると、大地と川は保水能力を失い、カリフォルニア州などは慢性的な水不足に悩んでいるんだな、というのも納得です(映画『チャイナ・タウン』あたりでも水不足が描かれていましたっけ)。

 同じようにグレートブリテン島からもヨーロッパビーバー(Castor fiber)はいなくなり、水不足に悩んでいるのかな、と。

 家畜の管理放牧(河川に近づかせない)とビーバーの移転によって荒廃したネバダ州の川が復活していった写真は感動的です(p.81の反対側のカラー頁)。

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 人間の手による土木的生態系復元には、全米で12万6000人が従事しているそうですが、時として短期的な目標設定によって失敗するよりも《高い能力と労働力を無償で提供し、高価な介入の必要性を排除する》ビーバーに任せた方がいい、というのが著者の結論。《彼らは、人間が常に最善の方法を知っているわけではないということを、四本の脚で証明している。生態系に対する私たちの記憶は短期的で間違っていることが多いが、彼らの本能は確実で永遠である》と(p.466)。

 日本列島にはユーラシア大陸経由のビーバーはやって来なかったようですが、愛らしい姿を野生で見たくなりました。

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May 29, 2022

『NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』』

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『NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』』山本芳久、NHK出版

『ニコマコス倫理学』は社会的生活において徳を身につけて幸福になる方法について書かれています。いわば古代のハウツー本みたいな印象。しかも「幸福」は遠くにあるものではなく、「いま、ここ」の自分の行為に関係してくる、みたいな。そして《アリストテレスは、「よい人間」は「よい共同体」のなかではじめて生まれてくるものであり、「よい共同体」を担う存在は「よい人間」であると考え、倫理学と政治学を不可分のものと捉えていました》とクリアカット説明してくれたのが「100分で名著」。

それはそれとして何ヵ所かギリシア語のサビ落としをしていて気になったところを書いてみます。

「倫理学」は、ギリシア語の「タ・エーティカ(τα ηθικα)」で、人柄(エトス、ἔτος)や習慣(エートス、ηθos)」の積み重ねから生じてくるというアリストテレスの考えから生じると説明されていますが、このηθosは1コリ13:33の「悪い交わりは、良い習慣を損なう」で使われていて、それはメナンドロスの喜劇『タイス』(あるいはエウリピデス、ディオドロス)の引用とみなされています。パウロは古典ギリシア語の教養を確かに持っていんだな、と説明されるところ。

習慣を重要視するアリストテレスにとってアクラシア(ἀκρασία)「自制心のなさ」は大敵となります。「意志の弱さ」「悪い行為だと自覚しているのに手を染めてしまう心の傾向」とも訳されますが、新約ではここでも1コリの7:5が有名でしょうか《互いに相手を拒まないように。ただ、祈りに専念するため、合意の上しばらく禁欲し、また一緒になるというのならかまいません。これは、自分を制する力がないのに乗じて、サタンがあなた方を誘惑するようなことになるといけないからです》の「自分を制する力」が「アクラシア」です。

賢明に判断できる能力を指すフロネシス(φρoνησιs)はアリストテレスが重視した概念ですが、パウロはロマ11:25でも「兄弟たちよ。あなたがたが自分で賢いと思わないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない」で、否定的なニュアンスにしても使われています。古典ギリシア語の素養は持ちつつも、自力救済は否定する、みたいな感じでしょうか。

個人的には山本芳久先生がハイデガーもスピノザも何ページ目かで読めなくなりました(k.63)と「はじめに」で書いているところは共感しました。『哲学者廣松渉の告白的回想録』廣松渉、小林敏明、河出書房新社でもヘーゲルの『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(p.125)と告白していますが、個人的に勇気づけらますw

学生の頃読んだ本はなかなか読み返す機会がないし、哲学書は無手勝流で読んでいたので、NHKの「100分で名著」でアリストテレス『ニコマコス倫理学』が取り上げらたのは嬉しかったです。昔読んだ時には、有用性に基づく友愛は老人たちの間に良くみられるなんていう箇所(八巻三章)は読み飛ばしていたな、とか考えながら読めたのは本当にありがたかった。

以下は印象に残ったところを箇条書きで(k.はkindleの位置No.)

倫理学は哲学の一分野で、ひと言で言えば「いかによく生きるか」を考える学問です。単に考えるだけでなく、それを実践に応用することに力点を置く学問でもある。そうした意味で、倫理学は「実践哲学」と呼ばれることもあります(k.54)

哲学においては、入門的な本と、本格的な哲学書を読むこととのあいだに大きなギャップがあり、そこを埋める機会が非常に少ないという問題がある(k.82)

アリストテレスは、人は徳を身につけてこそはじめて幸福を実現できると考えました。そのため、彼の倫理学では、人間としての力量である徳を身につけることが核になってきます(k.157)

(目的論的倫理学)では「善」が一つの大きなキーワードになります。「幸福とは最高善である」と(k.166)

最高によいものを探究していくという立場が幸福論的倫理学です。これとしばしば対比されるのが、「義務論的倫理学」です。これは読んで字のごとく、「〇〇すべきだ」という義務や、「〇〇してはいけない」という禁止に基づいて倫理を考える学問です。その代表的論者がイマヌエル・カントです。カントは、人間は義務に基づいた行為をする必要があり、道徳法則に対する尊敬が重要であると主張します(k.169)

「何のために幸福になるのか」とは問わず、「幸福になる」ことが人間の行為のすべてを支えている究極的な目的としてあるのだと考える。(k.244)

アリストテレスは、こうした様々な学問を大きく三つに分類しました。理論的学、実践的学、制作的学の三つです(k.256)

アリストテレスは、「よい人間」は「よい共同体」のなかではじめて生まれてくるものであり、「よい共同体」を担う存在は「よい人間」であると考え、倫理学と政治学を不可分のものと捉えていました。実際、『ニコマコス倫理学』の最後は「それでは、最初のところから論じることにしよう」という一文で結ばれており、これは『政治学』という本に橋渡しする役割を持っています。(k.263)

世の中には必然的な真理を求めるべき対象もあれば、そうではないものもある。そのことを柔軟に捉えきれていないのです(k.318)

人生経験の少ない若者にはそれを的確に学ぶことはできないのだ、とアリストテレスは述べている(k.356)

アリストテレスの倫理学は、「徳」を身につけることで「性格」をよりよい方向に変容させていき、それによって「幸福」を実現するという基本構造を有しています(k.373)

〈性格の徳〉の方は習慣から形成されるのであって、ここから「性格の(エーティケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させてつくられた(k.376)

「タ・エーティカ」という名詞形が『ニコマコス倫理学』の原題(k.393)

倫理学の原点であるアリストテレスの著作のタイトルは「タ・エーティカ」、つまり「人柄に関わることども」の探求という意味(k.396)

究極目的としての「幸福」は、単にはるか遠くにあるのではなく、「いま、ここ」の自分の行為に常に意味を与え続けている(k.451)

アリストテレスが使う「善」という言葉には、大きく分けて三つの意味が含まれています。「道徳的善」「有用的善」「快楽的善」の三つ(k.470)

実際に私たちが「よい」という言葉を使うとき、かなり多くのケースで「快楽的善」や「有用的善」の意味になっている(k.487)

「悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない」というトマスの一節であり、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』の冒頭で述べている、「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべてみな何らかの善を目指していると思われる」という一節(k.509)

カントは善悪に関わるラテン語の二義性を指摘したうえで、(道徳的な)善(Gute)、幸福(Wohl)、(道徳的な)悪(Bose)、不幸・禍い(Weh)を意味する言葉が別個に存在するドイツ語のほうが、倫理学について考えるにふさわしいと言います。なぜならば「われわれがある行為について、その行為の 善悪 を考慮するか、それともわれわれの 幸不幸(禍い)を考慮するかということは、二つのまったく別の価値評定となる」(同前) から(k.523)

「よく生きる(エウ・ゼーン)」ということ、あるいは「よくなす(エウ・プラッテイン)」ということを、「幸福である(エウダイモネイン)」ことと同じものと見なしているからである。しかし、幸福について、それが何であるかということになると、人々の意見はくい違い、大衆は知者たちと同じような説明を与えてはいない。なぜなら大衆は、幸福について快楽や富、名誉などのような、何かはっきりとした目に見えるようなものを考えているからであり、さらに彼らの間でもそれぞれに見方が異なっていて、しばしば同じ人でさえ、たとえば病気になれば健康を、貧乏なときには富をというように、自分の意見をくるくると変えるからである(k.544)

享楽の生活(アポラウスティコス・ビオス)」を愛好するのである。このように言ったのは、生活の種類には、今挙げられたもののほかに、「政治の生活(ポリーティコス・ビオス)」、そして第三に「観想の生活(テオーレーティコス・ビオス)という、およそ三つの主要な類型がある(k.557)

テオーリア」という名詞に由来します。「テオーリア」は英語の「セオリー」の語源で、「セオリー」は学説や理論という意味ですが、ギリシア語の「テオーリア」は「見ること」というくらいの意味です。「観想」と「観」の字を当てているのはそのため(k.574)

「観想的生活」と言われても、ぴんと来ない方が多いかもしれません。アリストテレスの幸福についての考え方は、現代的な言葉で言うと「自己実現」に重なる部分がかなりあります(k.584)

「可能性」や「現実化」という概念を最初に本格的な仕方でつくり出したのがアリストテレスなのです。日本語で「可能態」「現実態」と訳されるアリストテレスの用語がまさにそれです。 「現実態」は「エネルゲイア」というギリシア語の訳語であり、「可能態」は「デュナミス」というギリシア語の訳語です(k.589)。

人間が持っている能力・可能性で最も優れたものは何か。それは「理性」です。動物は持っておらず、人間だけが持っている「理性」という優れた能力をできるかぎり開発し、花開かせる(k.600)

分量的に『ニコマコス倫理学』の大半を占める内容、社会的生活において徳を身につけて幸福になる方法(k.649)

「アレテー」という言葉の意味をもう少し深く考えてみましょう。Liddell & Scott というギリシア語-英語辞典を引いてみると、一番目に「あらゆる種類のよさ、卓越性、とりわけ男らしい性質、力強さ」という意味(k.652)

徳はそういうもの(上から押しつけられるようなもの)ではなく、むしろ内に 漲っている力という意味なのです。人間が生まれながらに持っている可能性が実現し、より充実した力強い人間として優れた働きができるようになる、それを可能にするのが徳(k.656)

アリストテレスは、様々な徳のなかでも、極めて重要なものが四つあるとします。これはのちに「 枢要 徳」と呼ばれるようになるもので、「賢慮」「勇気」「節制」「正義」の四つ(k.664)

「賢慮」は「思慮」や「知慮」などとも訳され、ギリシア語では「フロネーシス」と言います。アリストテレス倫理学における最も重要な用語の一つ(k.667)

編者が自然学(ピュシカ)のあと(メタ)に置いたので「メタピュシカ」と呼ばれるようになり、明治期の哲学者・井上哲次郎は、『易経』の「形而上者謂之道」(形より上なるものはこれを道と謂い)を基に「形而上学」という訳語を創出(k.690)

「倫理学」という言葉は、ギリシア語で「タ・エーティカ」で、これは「性格の」「人柄の」といった意味の形容詞「エーティコス」に由来します。この形容詞は「エートス」という名詞に基づいています。「エトス(習慣)」と「エートス(性格、人柄)」が似ているのは偶然ではなく、人間の性格や人柄は習慣の積み重ねから生じてくるというのがアリストテレスの見解でした。どのような人柄を形成すれば全体として幸福な人生を送ることができるかを考察する学問が「倫理学」であり、その中心にあるのが「アレテー(徳)」というものなのです。
 徳のなかでも極めて重要なのが、 後の時代に「枢要徳」と呼ばれることとなる「賢慮」「勇気」「節制」「正義」の四つ(k.701)

思考の徳はその生まれと成長とを主として「教示(ディダスカリアー)」に負っており、まさにそれゆえに経験と時間とを要するが、それに対して〈性格の徳〉の方は習慣から形成されるのであって、ここから「性格の(エーティケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させてつくられたのである(k.708)

古代の自然学においては、ものにはそれぞれ「固有の場所」があると考えられていました。重いものの「固有の場所」は下、軽いものの「固有の場所」は上といった具合です。重いものは手から離すと自ずと下に移動し、軽いものは上に移動する。石は重いものなので、自然によって下に落ちるように傾向づけられている(k.732)

ここでは、「徳」と「技術」の類似性という、重要な話が展開されています。アリストテレスは、技術に関する話として、「人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になる」と言い、また徳に関する話として、「正しいことを行なうことによって、われわれは正しい人になり、節制あることを行なうことによって節制ある人になり、また勇気あることを行なうことによって、勇気ある人になる」と述べています(k.753)

アリストテレスの徳論は、一見すると個人の修練のような話ですが、そこには共同体や他者との関わりが含まれています。第1回で、アリストテレスにおいては倫理学は政治学の一部だと言いました。そのことは、徳と技術の話からも明らかでしょう。つまり、善き共同体(そこにおいて師匠やモデルが見出されます)があるからこそ、はじめて善い個人(徳を身につけた人)が生まれ、その善い個人が今度は共同体を支える軸になっていく(k.846)

「抑制のなさ」はアリストテレスの重要な概念で、ギリシア語で「アクラシア」(k.887)

アリストテレスは、人間には「わかっちゃいるけどやめられない」ことがあるとし、それを「抑制のなさ」と呼びました(k.889)

「放埒」は、ギリシア語で「アコラシア」と言います。
 これらを整理すると、「節制ある人」と「抑制ある人」においては理性が支配し、「抑制のない人」と「放埒な人」においては欲望が支配していると見ることができます。また、「節制ある人」「抑制ある人」「抑制のない人」は健全な理性を持っていて、「抑制ある人」「抑制のない人」「放埒な人」は悪しき欲望を持っているという共通点(k.891)

アリストテレス倫理学には「エンドクサ」という概念があります。「常識」とか「通念」などと訳されることもありますが、単なる一般常識や社会通念というよりは、むしろ、「優れた人々の共通見解」「(最終的な真偽はまだはっきりしないが)もっともらしいところのある見解」とでもいった意味(k.1010)

ホッブズは、「万人の万人に対する闘争」が人間の「自然状態」だという観点から、近代政治哲学の基盤となる『リヴァイアサン』という本を書きました。ホッブズはこうした人間観を、ローマの喜劇作家プラウトゥス(*2) の Homo homini lupus というラテン語を引用しながら表現しています。このラテン語は、「人間は人間にとって狼である」と訳されるものです。これに対し、『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの人間観は、ラテン語で表現するならば、Homo homini amicus となります。日本語に訳すと、「人間は人間にとって友である」という意味(k.1035)

「類は友を呼ぶ」と日本のことわざに訳されている箇所は、直訳すれば「からすはからすのところに」となります。それとは反対に、ある人々は「相似た人たちはすべて、あの争い合う陶工たちである」と言う。同業者同士は嫉妬し合い、利害が衝突するのでうまくいかない。そういう見解(k.1061)

「愛されるもの(ピレートン)」とは何であるかが知られたなら、事情は明瞭になるであろう。なぜなら、すべてのものが愛されるわけではなく、愛されるものだけが愛されるのであって、愛されるものとは、(1) 善きものであるか、(2) 快いものであるか、(3) 有用なものであるかのいずれかだと考えられるから(k.1090)

『ニコマコス倫理学』の冒頭には、あらゆる行為は「何らかの善を目指している」と書かれていましたが、その「善」には、「道徳的善」「快楽的善」「有用的善」という三つの意味が含まれているという話をしました。それと同じことです。要するに、広い意味での「善」すなわち価値のあるものこそが「愛されるもの」であり、その「愛されるもの」の一つとして挙げられている「善きもの」とは、狭い意味での「善きもの」すなわち「道徳的善」に対応しています。「快いもの」が「快楽的善」に対応し、「有用なもの」が「有用的善」に対応しているのは、見て取りやすい(k.1098)

友愛とは、「応報(アンティペポントス)」が行なわれる場合の「好意(エウノイア)」だと考えられている(k.1113)

友愛が成立する条件は①相手に好意を抱く、②その好意が相互的なものである、③気づかれている、の三つが揃ったとき(k.1123)

「相手に好意を抱く」は、アリストテレスに特徴的な言い方では「相手に善を願う」となります。無生物に対して善を願うということはありえない。しかし、友に対しては善を願わなければならない。この「相手に善を願う」が、アリストテレスが考える友愛の核(k.1128)

『弁論術』のなかに「 妬み」についての記述があるのですが、そこでアリストテレスは、嫉妬とは他者の善を悲しむことだと言っています。たとえば、他者が価値あるものを手に入れたとき、一緒に喜ぶのではなく、「なんであいつがあれを手に入れたんだ」と悲しむ。それが「妬み」と呼ばれる感情だというわけです。妬みについて、これほど見事で簡潔な定義をほかに知りません。  それに対し、友愛とは「相手が価値あるものを手に入れるといいな」と願い、それをお互いに願い合うことです。『ニコマコス倫理学』においては、「善」が大きなキーワードの一つになると再三述べてきましたが、友愛の議論においても「善」が中核的な役割を果たしている(k.1133)

アリストテレスは、愛されるものが三種類あることに対応して、友愛にも三つの種類があると言います。①人柄の善さに基づいた友愛、②有用性に基づいた友愛、③快楽に基づいた友愛(k.1141)

このような友愛〔引用者註:有用性に基づいた友愛〕 は、とりわけ老人たちの間に見られ(なぜなら、そうした年齢の者たちは、快いものを追い求めるのではなく、有益なものを追い求めるからである)、また壮年の者たちや若者たちにおいても、利益を追求するかぎりの人々の間に見られるように思われる。
 のみならず、そのような人たちはお互いあまり生活を共にすることもない。なぜなら、時には、互いに相手を快く思わないことさえあるからである。(k.1169)

勇気であれ節制であれ正義であれ、習慣の積み重ねで築き上げられた徳には持続性があるため、善い人柄も同じく持続的で堅固なものであるとアリストテレスは考えている(k.1212)

アリストテレスの言う人柄の善い人というのは、単なる「お人好し」ではありません。人間として充実した在り方をしており、そのことに「喜び」を抱きつつ日々の生活を送っている人のこと(k.1221)

ここまで、アリストテレスの友愛に関する議論を、『ニコマコス倫理学』第八巻の冒頭三章を通して 瞥見 してきました(k.1232)

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May 12, 2022

『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』岩波新書

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『世界史の考え方 シリーズ歴史総合を学ぶ①』成田龍一、小川幸司、岩波新書

今年の4月から高校では18世紀以降の近現代史を日本史と世界史にわけずに教えるということで、岩波新書から「歴史総合を学ぶ」シリーズ全3巻が刊行されることになり、その第1巻がこれ。各章のテーマに関連した基本書3冊を紹介し、それを成田、小川氏とゲストが読み解く、という構成。

これまでの歴史研究者は専門とする時代や地域の歴史像を提供していればよかったのですが、いまや同時代の各国史や経済などの分野との対話が求められるようになり、総合的なビジョンを提供しなければならなくなってきたのかな、と。

第一章のテーマは「近代化の歴史像」。紹介されている本は大塚久雄『社会科学の方法』、川北稔『砂糖の世界史』、岸本美緒『東アジアの「近世」』。

第二章「近代の構造・近代の展開」で紹介されているのは遅塚忠躬『フランス革命』、長谷川貴彦氏『産業革命』、良知力『向う岸からの世界史』。

第三章「帝国主義の展開」で紹介されているのは江口朴郎『帝国主義と民族』、橋川文三『黄禍物語』、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』。

第四章「二〇世紀と二つの世界大戦」で紹介されているのは丸山真男『日本の思想』、荒井新一『空爆の歴史』、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』。

第五章「現代世界と私たち」で紹介されているのは中村正則『戦後史』、臼杵陽『イスラエル』、峯陽一『2001年の世界地図 アフラシアの時代』。

紹介されている15冊は新書、ジュニア新書、山川世界史リブレットや文庫がほとんどで、高校生でも読み解けるものでありつつ、遅塚忠躬『フランス革命』や川北稔『砂糖の世界史』など大人の読者にとっても必読の読書案内にもなっています。個人的には山川世界史リブレットを知りませんでしたので、何冊か読んでみることに。

大学の教科書レベルでも有斐閣アルマから出ている佐々木卓也『戦後アメリカ外交史』、久保文明ほかの『アメリカ政治』などは感心して読ませてもらったのですが、ぼくが若い頃に読んだ社会科学系のイデオロギッシュな内容とは次元の違う、晴々とした歴史像を得られるようになってきているのは、本当に素晴らしいことだと感じます。『アメリカ政治』では、日米安保が両国国民にずっと広く支持されてきた、みたいなことがサラッと書かれていて、そのクリアカットぶりに驚いたんですが、時代は変わったな、と。

さて、本書。

近代は後戻りの出来ない「革命の時代」という言い方にしびれました(p.52)。各地で自由や所有権、公論と代表議会、戦争と平和のルールなどの生徒や規範が「近世」に各地で蓄積されたが、ヨーロッパは覇者のように振る舞った、と。

「産業革命」は、アドルフ・ブランキ(ブランキストという名の元祖であるオーギュストの兄)がフランス革命のアナロジーで表現、エンゲルスが広めた。イギリスでは進歩、発展が選ばれて定着しなかったが、トインビーによって一般化され、世界史の画期として扱われるのは第二次対戦後だったというのは知らなかった(p.92)。

「高校の世界史の授業で、最初に教わったのが帝国主義でした。それで父の本棚にあった『帝国主義の時代』を手に取ったのですが、教科書に書かれていないことも載っていて面白い」と『アメリカ政治』の中心的筆者である久保文明さんが最近、日経の書評欄で語っていて時代を感じて面白かったんですが、『世界史の考え方』でも第三章に『帝国主義と民族』が取り上げられてます。江口朴郎は代々木のイデオローグという第一印象で、まともに読んだことなかったんですが、民族主義とマルクス主義をつなげ弟子たちが民衆の戦争責任を追求していった過渡期の考察としてだけでなく、一周回って、割と大切なことも言ってるんじゃないかと感じたので読み返してみるかな(多分しないと思うけどw)。

ロー対ウェイドの最高裁判決の文章がリークされて大問題になっていますが、今アメリカで共和党支持者のプロライフは、女性の自己決定権の否定につながるとプロチョイス側は否定するんですけど、19世紀後半から20世紀前半の米国の人種主義の歴史から見ると、衛生学という科学的知見を装った断種法や異人種間結婚禁止法の問題がみえてくる、というあたりは皮肉で面白かった(p.186)。女性解放の英雄的存在だったマーガレット・サンガーは貧しい移民や黒人に「劣等な子孫」をつくらせないことが重要と主張。1944年までに全米で4万2000人が断種された、というのは知らなかったな(p.185)。キャンセルカルチャーの暴挙はサンガーにも及んでいるということで、いやはや、と。

こうした問題に関連して、カルフォルニアでも戦前は異人種間結婚禁止法が施行され、帰化不能外国人とされた中国人に変わって海を渡った日本人も、家庭を持とうとすれば、日本との間で写真のやり取りで決める「写真婚」しか方法がなくなり、それが「恋愛至上主義」の米国人から野蛮視され、文化摩擦の要因になった、という視点は新鮮でした。米国の衛生法などの法体系は誰を国民とし、誰を排斥するかの選別の歴史でもあり、それはナチスのニュルンベルク法のモデルにもなった、と。

ここで思い出したのがシヴェルブシュの『三つの新体制 ファシズム、ナチズム、ニューディール』。『三つの新体制』はファシズム、ナチズム、ニューディールが似ていることを説き明かした本です。ルーズヴェルトのニューディールは私益に対する公益の優先が主張されており、彼の『前を向いて』はナチスが書いたとしてもおかしくない、と見られていたという議論や、ドイツ、イタリアだけでなく、アメリカ、ソビエト・ロシアでも第一次世界後にはナショナリズムが高揚し、先立つレッセ・フェールの50年間に破壊されたものを取り戻すことが主張されたそうです。それは個人主義によって廃棄されそうな共同体や工業によって脅かされる手工業、文化だった、と(p.98)。結局、ナショナリズムはグローバル経済に対する抵抗として組織されていったのかもしれないな、と。

経済だけでなく、文化面でも米ニューディールとナチスとの親和性というのはあったんだな、と改めて『世界史の考え方』と『三つの新体制』には考えさせられました。

後半では荒井信一『空爆の歴史』についての議論からの、アフリカ史を専門とスル永原陽子先生の議論が素晴らしかったです(p.244-)。空爆は1911年からのイタリア・トルコ戦争から、毒ガスはエチオピア戦争から第一次世界大戦前に使用開始された、と。また、民衆に対する無差別暴力はアフリカでの植民地戦争や米西戦争での地上での焦土戦で生まれたそうです。野蛮な集団に対する無差別大量虐殺と一定数を労働力として使うための収容所はスペインのキューバ、米のフィリピンでのゲリラ戦がルーツだ、と。アウシュビッツには植民地的なルーツがあり、日本も日清戦争で東学党に対して行っているのですが、ゲリラへの殺戮思想は植民地戦争と関係がある、と。

これに関しては「戦争責任」についても考えさせられました。『世界史の考え方』でも「戦争責任」という日本の言葉は訳し難いという議論もありましたが、語源的にも「責任を取る」とは謝罪を意味するのでもなければ、義務の遂行を意味するのでもない。むしろ、各自が自分の判断で自分の行動を律する態度のことですから*1。

イスラエルがグローバルな多文化主義の流れの中で「純粋なユダヤ性」を、強調せざるを得ないのは「国民国家の最大のジレンマ」であり、それは他の国民国家すべてが直面している問題だ、というあたりもなるほどな、と(p.310-)。

しかし、最後の最後で編者の小川さんが、民主主義の旗手のような国が人種主義や植民地主義の抑圧を生み出したことが、ジェノサイドや難民問題などを産んでいると一昔前のような感じでお気楽なことを言ってるのにちょっと呆然としました(p.355)。こんな綺麗事で締めるんなら、新しい世界史観とかも適当にwとかいう高校生の本音が聞こえそうで残念でした。

[目次]
刊行にあたって(小川幸司、成田龍一)
はじめに(小川幸司)

Ⅰ 近代化の歴史像
 第一章 近世から近代への移行
  1 近代世界の捉え方
  2 中国史(岸本美緒)から見ると
  3 岸本美緒との対話

第二章 近代の構造・近代の展開
  1 国民国家の捉え方
  2 イギリス史(長谷川貴彦)から見ると
  3 長谷川貴彦との対話

Ⅱ 国際秩序の変化と大衆化の歴史像
 第三章 帝国主義の展開
  1 ナショナリズムの捉え方
  2 アメリカ史(貴堂嘉之)から見ると
  3 貴堂嘉之との対話

第四章 二〇世紀と二つの世界大戦
  1 総力戦の捉え方
  2 アフリカ史(永原陽子)から見ると
  3 永原陽子との対話

Ⅲ グローバル化の歴史像
 第五章 現代世界と私たち
  1 グローバル化の捉え方
  2 中東史(臼杵陽)から見ると
  3 臼杵陽との対話

あとがき(成田龍一)

*1
「責任」に対応する英語てはresponsibility で語源は、respondere(レスポンデレ) というラテン語。意味は「応答する」。ある行為に対応しようすると必然的に結果が伴いますが、だいたい行為を行わないと何の結果も生まれませんし、それは「責任」という言葉ではないんじゃないのかな、と。

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April 30, 2022

"Why Liberalism Failed"Patrick Deneen

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"Why Liberalism Failed"Patrick Deneen

ジムで筋トレ後の有酸素運動でエアロバイクをこぎながら、英語のサビ落としを目的にAudibleで聞いている本の15冊目は"Why Liberalism Failed"Patrick Deneen。

パトリック・デニーンはノートルダム大の保守的な政治学者でカトリック・コミュニタリアンとしても有名な教授らしいです。

この本では古典的リベラリズム(Classical liberalism)と単に「自由主義」と呼ばれている進歩的リベラリズム(Progressive liberalism)は同じようなものであると批判しています。さらに、日本を含めて先進諸国の問題としても考える場合、前提となるのはヨーロッパ流の社会民主主義や日本の左派は、アメリカのリベラリズムとほとんど同じということでしょうか。細かな自己主張はいろいろあるでしょうが、ざっくり同じだと考えれば分かりやすいし、実際にやっていることは似ているな、と(すぐ分裂したり、攻撃的だったりすることを含めて)。

著者の主張をひとことであらわせば、いろんなことがあったにせよ、リベラリズムが成功しすぎたために文化と伝統が危機に陥るだけでなく、目標とは反対の結果を生んでいるという感じでしょうか。社会を改善するための平等と多元主義、自由度を高める手段としてリベラリズムは素晴らしいんだと喧伝されてますが、実際には不平等を助長し、自由を損なっている、と。

リベラリズムは本来、平等を進め、信念と文化の多元性を受け入れ、自由を広げ、個人の尊厳を保護する手段として確立された政治的イデオロギーです。自分自身の良い人生を可能性の束の中から最適なバージョンを選択して追求するため、自律的かつ無制限の選択を行う能力は、個人個人の自律にも深くコミットしすぎるために、かえって弊害を生むんじゃないか、という感じ。

さらに、リベラリズムは左に傾いているか右に傾いているかにかかわらず、その成功が故に政治エリートの正統性を包含するようになり、そうしたところからも底辺の人々の反発を生んでいます。この本は市場(共和党)と個人の道徳(民主党)のリベラリズムの双方を批判するのですが、結局、二大政党によって社会的連帯は断片化され、コミュニティは喪失し、近年の感情的すぎる選挙にみられるように失敗に近づいている、みたいな。自由主義は個人主義に基づいたものであり、どちらにせよ、それは崩壊につながり、さらには専制的な政府にもつながる恐れがある、と警告しています。

ヘーゲルは「ミネルバの梟は黄昏に飛び立つ」と『法哲学』序文で書きましたが、この本では、リベラリズムで官僚化された政府(民主党的)とグローバル化された経済(共和党的)に対して批判を行い、虐げられていると感じている人々に支配を取り戻すと約束するような専制的な指導者への憧れは、本来、自治に不可欠な文化的規範と政治的習慣のリベラルな解体の後に来る、という感じでしょうか。こうした暗い予測は少なくとも欧米での近年の選挙でみられる有権者の怒り、幻滅を表現しているな、と。

経済の自由化によって多くの人々の生活が不安定となっていますが、一方で文化的自由化は保守的な信条を動揺させなかったのかもしれません。それをリベラル派が遅れていると批判するところにさらなる軋轢が生じるのかな、とか*1。

著者は自称リベラルたちの自身に満ちたおせっかいといいますか、自分たちは欲求の束ともいうべき人間性自体をも変えることができるという傲慢な「信仰」だけでなく、右派の自己愛的で暴力的な思考にも苦言を呈しています。そしてどちらにせよ窒息死されているのはアメリカの草の根の民主主義だ、と。

批判されているオバマも2018年の読書リストに入れています*2。

以下、断片的に。

コミュニティ、相互のケア、自己犠牲、小さな民主主義の文化の育成などを通した草の根のコミュニティ再び構築が必要だが、残念ながらリベラリズムはこうしたコミュニティと連携して機能することはできない、と。

著者な主要な主張は、自由民主主義は自然界の敵対関係に基づいており、人々を安定した法に支配された社会に組織化するという自由主義の考えは、自然の征服という概念に対応しているということで、これは東洋的な自然観に近いものを感じます。もちろん奴隷制、資本主義、帝国主義などの体制だけでなく、資源開発の経験的歴史からも真実味は感じられます。これはフランシス・ベーコンの、人間は自然を拷問にかけることによってはじめて知識を手に入れ、自然を支配できるというマッチョな哲学批判として展開されます。本来、自由主義以前の人間にとって、文化と自然の分裂の可能性は理解できなかったのに、と。

ギリシャ哲学に関する論議は煩瑣になるので省きますが(少しナイーブするぎると感じましたし)、自由主義以前の世界では、文化は自然秩序の繁栄の集大成として理解されていましたが、いまや文化は人工的で疑わしいものであると思われるようになった、と。著者は「リベラリズムが失敗した理由」を繰り返しトクヴィルに求めます。トクヴィルは民主主義が個人主義、唯物論、落ち着きのなさ、短期的思考によって崩壊するとしています。

保守派なのに環境保護などを熱心に説くあたりは新自由主義とリバタリアン批判にもなっています。

著者は最近の学生に西洋文明の歴史の知識が欠如していることを嘆いているので、いまは"The World"をAudibleで聞いています。芸術、文学、音楽、建築、歴史、法律、宗教などの個別の人間の遺産に保存されている文化は、人間の時間の経験を拡大し、過去と未来を人類に示すのに、いまは現在の瞬間だけを経験すればよくなっているとリベラルアーツの衰退も嘆いています。

この本で一躍有名になったデニーンはハンガリーのオルバーンやトランプ支持で失速しているのですが、個人的にはリベラル・レフトは資本主義の権化であるみたいな主張が面白かったというか、こうした部分がヒラリーや民主党への批判となって2016年の選挙ではトランプが勝ったんだろうかな、と改めて思いました。もちろん、こうした主張がポピュリズムへの道をさらに進めたという批判もあるでしょうが。

こちらもAudibleで聴き流しただけで、聞き直し、読み直してはいません。再び書きますが、談志師匠が『談志映画噺』での『絹の靴下』の語りで、シド・チャリシーにからんでくる3人組について《一人はピーター・ローレ、もうひとりがジュールス・マンシンでしょ、あともうひとりがジョセフ・バロフ? えーと、家元はね、記憶力は凄いんだけど、資料ってもんを見ないで書いているので不完全さにおいても、これまた凄い》(p.74)と資料をみないと公言してるんですが、ま、そんな感じですんで、お許しください。
 
*1『世界史の考え方』成田龍一、小川幸司を読んでいて思い当るところがありました(p.186)。

今でも共和党支持者のプロライフは、女性の自己決定権の否定につながるとプロチョイス側は否定しますが、19世紀後半から20世紀前半の米国の人種主義の歴史から見ると、衛生学という科学的知見を装った断種法や異人種間結婚禁止法の問題がみえてくる、という指摘はハッとさせられます。

最初の避妊クリニックを開設したマーガレット・サンガーは女性運動の英雄でもありましたが、貧しい移民や黒人に「劣等な子孫」をつくらせないことが重要とも主張。優生学を支持していると批判されるようになりました。実際、米国における優生学の浸透によって1944年までに全米で4万2000人が断種された、と(p.185)。

カルフォルニアでも戦前は異人種間結婚禁止法が施行され、帰化不能外国人とされた中国人に変わって海を渡った日本人も、家庭を持とうとすれば、日本との間で写真のやり取りで決める「写真婚」しか方法がなくなり、それが「恋愛至上主義」の米国人から野蛮視され、文化摩擦の要因になった、と。
米国の衛生法などの法体系は誰を国民とし、誰を排斥するかの選別の歴史をであり、それはナチスのニュルンベルク法のモデルにもなった、と。

シヴェルブシュの『三つの新体制』はファシズム、ナチズム、ニューディールが似ていることを説き明かしたけど、それを思い出しました。ルーズヴェルトのニューディールは私益に対する公益の優先が主張されており、彼の『前を向いて』はナチスが書いたとしてもおかしくない、と見られていたという議論や、ドイツ、イタリアだけでなく、アメリカ、ソビエト・ロシアでも第一次世界後にはナショナリズムが高揚し、先立つレッセ・フェールの50年間に破壊されたものを取り戻すことが主張されたそうです。それは個人主義によって廃棄されそうな共同体や工業によって脅かされる手工業、文化だった、と(p.98)。結局、ナショナリズムはグローバル経済に対する抵抗として組織されていったのかもしれないな、なんてことを思いながら読んだんですが、経済だけでなく、文化面でも米国とナチスとの親和性というのはあったんだな、と『世界史の考え方』と『三つの新体制』には改めて考えさせられました。

*2FaceBookでオバマは「不平等が拡大し、変化が加速し、過去数世紀にわたって私たちが知っていた自由民主主義の秩序に対する幻滅が高まっている時代に、私はこの本が示唆に富むものだと感じました。著者の結論のほとんどには同意しませんが、この本は、西側の多くの人々が感じるコミュニティの喪失、リベラリズムが自らの危険を無視している問題についての説得力のある洞察を提供します」と書いています。

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