書籍・雑誌

December 27, 2021

『頼朝と義時 武家政権の誕生』

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『頼朝と義時 武家政権の誕生』呉座勇一、講談社現代新書

呉座勇一先生は本当だったら大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証を担当していたんでしょうけど、ツイフェミの陰湿な攻撃と日文研の不当な処分となんかに負けるなという意味でも読ませていただきました。

・富士川合戦は甲斐源氏vs平家追討軍の戦いであり、頼朝軍は後方待機
・頼朝は関東の武士たちに上洛を諌められたはずもなく、そもそも帰服してない佐竹などを残しての上洛は机上の空論でしかなく、最初から関東の地盤固めを目指していた
・義経との黄瀬川での対面に頼朝が喜んだのは奥州藤原氏の援軍という実質をともなったらであって、身ひとつで対面した義経同母の兄全成は厚遇を受けてない
・頼朝は多くの敵を許したので、恩賞に当てる没収地が少なくなったため、佐竹氏への攻撃は所領に目をつけたという面も。中途半端な結果だったが、奥州藤原氏と佐竹氏が連携する事態は回避できたというのは大きかった
・清盛は関東で国衙を各個撃破された反省から嫡男・宗盛を九ヶ国の惣官に任じて近畿での軍事動員を可能にするなどの対処をしたが、そうした処置をした直後に死去
・頼朝は東を源氏、西を平家が治める和平提案を行うが、平家の棟梁となったばかりの宗盛が拒否
・木曾義仲は早期上洛を図るため、事実上の人質として嫡男義高を頼朝娘の婿に差し出す

なんていう前半だけで、源平合戦(治承・寿永の乱)のイメージが変わりました。

さらに、175頁以下の頼朝編のまとめが秀逸。

要は頼朝は父義朝の後継者として自分の家を源氏嫡男として復興することを最大の課題としていた、と。だから平氏より同じ源氏の有力者に敵愾心を燃やした、と(初期のヤマト朝廷や、戦国大名の家督争いとおなじような、兄弟で血で血を洗うものとなった感じ)。

流人の頼朝を北条氏が庇護したのは一発逆転の大穴を北条時政が狙ったから。平家は関東の国司も変えようとして反発をくらい、緒戦で頼朝の息を止められなかったために、各個撃破で交替してしまった、というイメージなんでしょうか。

そして源平合戦とは「武家の棟梁勝ち抜きトーナメント」であり、頼朝は平家打倒よりも、当初は源氏の棟梁を目指していた、と。そのため、平家との和睦もヤル気満々だったけど、清盛の死で宗盛が強硬姿勢となってしまったので流れた、と。

それでも、安徳天皇を京都に帰還させて三種の神器を返還してもらうことを第一の戦略目標としていたが、義経が勝ちすぎてしまった、と。

平氏と源氏のライバルも打倒された過程で、頼朝を頂点とする関東の武士集団が日本で唯一の武装勢力となり、結果として朝廷は頼朝に国家の武装警察機能を委任せざるを得なくなってしまった、と。

頼朝は朝廷の奉仕者というより唯一の保護者となったけれども、その権力行使は抑制的。それは後継者である頼家が若く、自身のように全国の武士との戦闘を通じた人格的な主従関係を持たないために、武家の棟梁として君臨するためには朝廷の権威が必要だったから。

そして、そうした朝廷との力関係を変えるのは義時、と。

鎌倉幕府の中での血で血を洗うような複雑な御家人同士の戦いも、外祖父あるいは乳父として権勢をふるうポジションをめぐる争いであることがキチンとわかるように説明されているのもありがたいですし、義時にとって政子との時政追放より、義時にとっても実朝暗殺は窮地だったということがよくわかりました。

また、承久の乱によって、朝廷は最終的に京都の治安維持のための暴力装置を失うことになってしまった、と。

義時にとって三浦義村は、実朝暗殺の時や承久の乱の時も無二の信頼すべき存在だったんだな、ということもよくわかりました。父・義澄は石橋山の戦いでは悪天候のため参戦できず、平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となって祖父・義明を討ち死にさせてしまったり、妻の父である伊東祐親を預かったりと属人的にも濃厚な役割を演じて、十三人の合議制の一人になっています。その子・義村は個人的にも畠山重忠の乱で先祖の敵を討てただけでなく、陰謀を企んだ時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放され、将軍になる可能性もあった平賀朝雅は殺されるなど、結果オーライが続いたな、と。三浦一族は、祖父・義明が頼朝旗揚げ、父・義澄は源平合戦や奥州合戦での武功と重要な役割を果たし、義村が北条執権の土台を築いたんだな、と。

研究全体のロジックとしては、北条氏を称揚する『吾妻鏡』の中のエピソードで、出来すぎていて信じられない話し、あるいは前後の脈絡が繋がらない話しは、北条氏が権力を握ったのは自然の流れである、ということを言いたいがため、みたいな感じで批判していく、という感じでしょうか。それはそれで推論でしかないけど、大量にあるので押し切る、みたいな。

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December 21, 2021

『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』

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『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』会田大輔、中公新書

これ読んだのにまとめていなかったので…

「はしがき」で《ユーラシア大陸各地で類似の現象が起きたのは偶然ではない。中央大学の妹尾達彦によれば、二世紀後半の匈奴の西方移動と二~三世紀頃に始まった地球全体の寒冷化(年平均気温の低下と乾燥化) を契機に、遊牧・牧畜民(西:フン族・ゲルマン民族、中央:エフタル、東:匈奴・鮮卑など五胡) が大移動を始め、四世紀には既存の古典文化圏(西:ローマ帝国、中央:サーサーン朝、東:漢文化を継承する晋) に大打撃を与えた。その結果、遊牧・牧畜民と農耕民が衝突・融合を繰り返し、遊牧地域と農耕地域を包含する新たな農牧複合国家が生じたと説明している(妹尾達彦、二〇〇一)》。

442年に仇池が北魏により滅ぼされ、ここに北魏は前趙の成立から約150年にわたって続いた華北の分裂を収拾して統一政権を樹立。これ以後、中国は南北朝時代に入る。北魏はそれまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していった、と。

《北魏前期には遊牧文化と中国文化が接することで意外な化学反応が発生し、「子貴母死」制や保太后、太上皇帝などの独自の政策が生み出された》(k.912)、と。

そして、《南北朝時代は華北・江南・モンゴル高原が衝突と交渉を繰り返し、ダイナミックに連動した時代》(k.3283)とまとめられる感じ。

そして、カジュアルに皇帝を名乗っていた時代は隋によって終わり、中国は400年ぶりに統一されたが《南北統一を果たした隋そして唐は、中国化を進めた北魏後期および北斉の制度・儀礼を国制の基軸に据え、遊牧的要素のある北周の制度も一部で取り入れた。さらに南朝の儀礼・学術・文化の影響も受けている。いわば南北朝の制度・文化が融合して成立した王朝なのである(k.3317)》と。

《さらに視野を広げれば、高車やエフタルといった中央ユーラシアの遊牧民の興衰と連動していたほか、朝貢国である高句麗・百済・倭といった東アジア諸国、林邑をはじめとする東南アジア諸国などとも結びつきをもっていたのである》(k.3288)

《東アジア諸国は、北朝と南朝の双方から制度・文化を摂取し、それぞれ国造りを進めていった。このうち倭・日本が南朝文化の影響を強く受けていることは、すでに多くの研究者が指摘している。しかし、意外なところで北朝の影響も受けている。例えば「太上天皇」である》(k.3321)

と遊牧・牧畜民と農耕民の融合が、列島まで影響を与えていた、というのが結論でしょうか。

....…以下はアンダーラインをつけたところで(kはkindle位置).......

鮮卑服が流行して中国的服飾に影響を与えたほか、食生活でも遊牧民由来の羊料理や乳製品などが普及した。女性の行動の活発化も遊牧民の影響と指摘されている(k.61)

南北朝時代は、五世紀前半の北魏の華北統一によって始まった。しかし、南北朝時代を知るためには、中国はなぜ南北に分裂したのか、そもそも北魏を建国した 拓 跋 氏とは何者なのかを見ていく必要がある。そこで、序章では三世紀後半に中国統一を果たした西晋が皇族による激しい権力闘争と遊牧民の挙兵によって四世紀初めに崩壊し、中国が南北に分裂する過程から見ていく(k.136)

餓死者が出た際に、「〔穀物がないなら〕なぜ 肉 粥 を食べないのか」(『晋書』巻四恵帝紀) と無邪気に尋ねてしまうような人物だったと伝えられている。当然、その政務能力は低く、即位後、ただちに西晋の実権をめぐる争いが発生した。それが皇族諸王による権力闘争、いわゆる 八 王 の乱(二九一~三〇六) である。彼らは西晋領内に居住する遊牧民(匈奴・鮮卑・烏桓 など) を兵力に利用して激しく争った(k.159)

この一連の動乱の結果、黄河流域は遊牧民が支配し、長江流域は漢人が支配する南北分断の状況が生じた(k.190)

このころ、南匈奴の一部を統括したのが 劉 豹 である。その子の劉淵は、『春秋左氏伝』『孫子』といった中国の古典を習得し、さらに文武両道を目指して武芸も体得した。劉豹没後に地位を継承した彼は、匈奴内での存在感を高めるため、南匈奴の単于の孫を称した(k.206)

このとき前漢の初代皇帝である劉邦や後漢を建国した 劉秀( 光武帝) らを 祀って、蜀漢の 劉 禅( 後主) を 孝 懐 帝 と追尊している。すなわち劉淵は、漢(前漢・後漢・蜀漢) の後継者であることを 標榜 し、匈奴を中心とする遊牧国家ではなく、漢人と匈奴の双方を統べる王朝の樹立を目指した(k.219)

k.236
即位を果たした劉 曜(劉淵の遠縁) は長安に遷都し、国号を趙( 前趙) に変更したが、その間、石勒も大単于・趙王( 後趙) をなのって自立したため、華北は前趙と後趙の対立状態に陥ってしまったので

五胡諸政権には多くの共通点がある。なかでも重要な制度が漢人と遊牧民を分治する二元統治体制(k.240)

生業も文化も歴史も異なる漢人と遊牧民に対して、別々の統治体制をとった(k.243)

遊牧民の世界では、君主の地位は世襲であると同時に実力が問われたため、後継者争いが多発したが、漢・前趙でもカリスマ君主の死後に、激しい後継者争いが発生(k.245)

漢・後趙に積極的に仕えたのは 寒 門 層(中下級官僚を輩出した豪族層) であって、魏晋期に高官を輩出した漢人貴族は仕官に消極的(k.248)

四〇年間続く「五胡十六国」時代が始まったとされる。この「 五胡」は、一般的には匈奴・羯・鮮卑・氐・羌を指す。しかし、この時期には 丁零・烏桓・巴・蛮 なども活動しており、民族状況はより複雑であった。そもそも「五胡」は、四世紀半ばに登場した言葉であるが、具体的な民族名は定まっておらず、三~五世紀に活動した非漢人の総称として使われていた(k.254)

独自の年号を立てた勢力は、いわゆる「十六国」を含めて三一にも及ぶ。このように「十六国」という言葉は、当時の実態に合っていないのである。そこで本書では、四~五世紀に主に「五胡」が諸政権を立てたことを踏まえ、「五胡諸政権」(便宜的に漢人政権も含む) を用いることとした(k.267)

婚姻は、まず恋愛関係を持ったのちに略奪の形をとって同居し、半年ほどすぎたころ、媒酌人を立てて牛・馬・羊などを結納として贈り、妻の家に二年ほど仕えたのち、夫婦で独立する。夫婦の住まいや財物は妻の家から出る(k.303)

発言力が大きく、その地位も低くはなかったのである。一方、父や兄が死ぬとその妻(生母は除く) を娶る習慣もあった(レヴィレート婚)。宗教は、北アジアに広く流布しているシャーマニズムであり、鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川とともに勇名を馳せた祖先の大人も祀った(k.305)

魏晋時代から、王朝の干渉を受けない地方政権の首長(漢人) にも内臣が与えられるようになった(k.347)

追い詰められた西晋は、徐々になりふり構わなくなり、漢打倒の期待を込めて、猗盧を代王に封建したのである。以後、五胡諸政権・南北朝において、非漢人政権に内臣の王爵が贈られるようになった(k.352)

代は、猗盧没後に後趙に従属した時期もあり、中原に進出していない段階では皇帝をなのるべきではないと判断したものと思われる。彼らの複雑な国家意識(k.359)

これは中国の聖君( 舜・周の文王など) が高身長だったという伝説に由来(k.392)

君主継承の安定化と諸部大人の抑制を達成できないまま、滅亡してしまった。これらの課題は北魏に持ち越される(k.444)

北族の諸部族の力を弱めるため、部族解散を行った。諸部族は、平城近郊に移住させられ、牧畜を行いつつ、北魏の軍事力を担った(k.534)

道武帝は皇帝の実母や外戚による権力掌握を防ぐため、後継者の決定後にその生母を殺す「子貴母死」制を創出したのである。このような制度は遊牧民にも中国諸王朝にも見えないが、先例がないわけではない。それは前漢の武帝が行った皇太子弗陵(後の昭帝)の実母(鈎弋夫人)殺害(k.538)

賀蘭氏は、道武帝の叔母(母の妹) であり、道武帝が賀蘭部に赴いた際に見初めて、その夫を殺して妻に迎えたと伝えられている。北魏成立前後の状況を踏まえると、単なる好色ではなく、賀蘭部との関係を深めるために通婚したと考えられるが、史書は因果応報譚として描いた(k.556)

親征を重ねて華北統一を果たした太武帝の権威は高揚し、親征に反対した北族の重臣の発言力は低下することとなった(k.607)

このころの仏教は、道武帝・明元帝期に道人統(僧侶の監督官) となった僧侶の 法 果 が、皇帝を如来として礼拝する「皇帝即如来」という思想を打ち出したことによって、国家への隷属を強め、皇帝の権威を支える役割を果たしていた(k.643)

やりすぎであるとして寇謙之でさえも反対したが、太武帝と崔浩は断行した。はしがきでも、南北朝時代の混乱・強権政治を象徴する出来事として仏教弾圧をあげたが、その一回目(k.656)

中国史上の著名な四つの仏教弾圧事件、いわゆる「 三武一宗(北魏太武帝・北周 武帝・唐宗・後周世 宗) の法難」の一つ目(k.659)

晃の殺害を進言した宗愛が、晃の死を悔やむ太武帝を恐れ、四五二年( 正平 二年) 三月に太武帝を暗殺したのである。享年四十五。宗愛は、太武帝の子の拓跋 余(鮮卑名は 可 博 真) を擁立して実権を握った。しかし、十月に宗愛は余も殺してしまった。余が宗愛排除を図ったためである。この混乱の隙をつき、北族の重臣である 源 賀 や 歩 六 孤 伊 麗(『魏書』では陸麗) などが、晃の長子で十三歳の拓跋 濬(文成帝。鮮卑名は烏雷直勤)を皇帝に擁立(k.695)

南朝の宋のほか、東北アジアの契丹・高句麗、中央アジアの 于闐・エフタル・サーサーン朝など五十国以上から使節が来ており、このころの北魏がユーラシア大陸東部で大きな存在感を持っていたことがうかがえる( 図1‐4)。ただし南朝に遣使していた 百済 や倭国の名は見えない(k.707)

「子貴母死」制によって皇帝の実母が存在しないため、その代替として養育係で信頼厚い保母を皇太后にしたものと思われる(k.719)

北魏では皇帝の徳の広がりを示すため、道武帝以来、他国の君主の血縁者を皇后としてきたが、馮氏もその一例(k.732)

治世は、無欲・無為だったので皇を称しました。それゆえ漢の高祖(劉邦) は皇帝を称した後、父を尊んで 太上皇 とし、天下を統治しないことを明示しました。いま皇帝(孝文帝) は幼いので、陛下(献文帝) が政治の大権を統べた方がよろしいかと存じます。謹んで尊号の太上皇帝をたてまつります。(『魏書』巻六顕祖紀) と述べて太上皇帝号をたてまつったので、献文帝は国政を執ることとなった。以後の中国諸王朝や日本・ベトナムなどに見える上皇の起源(k.755)

什翼犍が置いた近侍官(諸部大人等の子弟から有能な人物を近侍に登用する制度) であり、北魏成立後に次第に拡充していった。内朝官は皇帝に仕える侍臣であり、上位の構成員は国政に参与(k.808)

官名末尾の「真」は、トルコ=モンゴル系言語で「~の人」(事物を掌る者) を表す +ci、あるいは +cin という接尾辞の音写と考えられている。構成員は、主に鮮卑・匈奴や来降した高車・柔然などの北族の高官子弟だが、徐々に漢人も増加(k.815)

共通点は、君主護衛を基本とする近侍官に、功臣・帰属勢力の子弟を就任させ、多様な職務(護衛・使者・家政・衣食など) を担当させ、幹部候補生として養成すること(k.824)

前漢の郎官や古代日本の 人 制・舎人 も同様の制度であり、遊牧民独特というわけではない。今後、本格的な比較研究が求められよ(k.827)

中国諸王朝では、儒教に基づいて都の南の郊外で冬至に行う祭天儀礼(南郊祭祀) が最も重要な祭祀(k.831)

北魏は柔然・高車討伐による略奪や、陰山などからの貢納によって家畜を補充し、臣下に分け与えることで紐帯を深めた。さらに平城付近に徙民された人々に計口受田(戸口の把握後に土地を給付)を通じて農耕用の家畜(牛)を配布し、農業生産力の向上にも努めていた。鹿苑は遊牧と農業をつなぐ役割を果たしていた(k.844)

北魏は官制・儀礼面で皇帝と北族の紐帯を深め、北族の不満を解消したのである。これが五胡諸政権と異なり、北魏が華北統一を果たし、長期安定政権となった(k.871)

北魏前期には遊牧文化と中国文化が接することで意外な化学反応が発生し、「子貴母死」制や保太后、太上皇帝などの独自の政策が生み出された(k.912)

王導をはじめとする琅邪(現在の山東省 臨沂)の王氏や、陳郡(現在の河南省 太康)の謝氏は大きな影響力を持った(k.928)

k.932
貴族社会成立のきっかけになったのは、三国魏で制定された 九品 官人 法 である。これは一品から九品まで官職を九等にランクづけし(官品)、地方の人事官(州大中正・郡中正) が任官希望者に九ランク(九品) の 郷 品 を授け、その郷品に相応する官品の官職を与える制度で

日本の学界では主にこの士人を「貴族」と呼んでいる。貴族は州・郡の中正官に就任し、貴族秩序の維持に努めた。東晋では、華北から避難してきた王・謝・袁・褚・江・蔡氏などが甲族に該当(k.948)

徐々に官職のなかに郷品の高いものが就任する「 清 官」と、郷品の低いものが就任する「 濁 官」という区別が生じてきた。これには実務を忌避する当時の貴族の価値観が反映されており、図書や著述を掌る 秘書 郎・著作 佐 郎、皇太子の侍従( 太子 舎人)、天子側近の顧問官( 中書 郎・黄門 郎) などは甲族の就く清官とみなされた(k.959)

東晋では皇帝権力が弱く、北府と西府が主導権を奪いあった(k.989)

前秦の苻堅が天下統一を狙って百万と号する大軍を率いて東晋に侵攻してきた。このとき苻堅が勝利を収めていたら、東晋は滅亡していたかもしれない。しかし、北府軍団を率いる 謝玄(謝安の甥) が淝水の戦いで苻堅を打ち破り、東晋はからくも生き長らえることができた(k.999)

当時、高官を輩出する貴族に対し、中下級官僚や軍人を輩出する家柄を「寒門」といったが、劉裕はその寒門の出身だった(k.1015)

無忌(k.1041)

皇族・貴族にかわって、寒門あがりの軍人が東晋の実権を掌握した(k.1046)

「桓玄のときに、すでに天命は改まったけれども、劉公(劉裕) が二十年も延ばしてくれたのだ。今日のことは甘んじて受け入れよう」(『宋書』巻二武帝紀中) とつぶやいた(k.1093)

漢魏革命・魏晋革命の際には、最後の皇帝は天寿を全うできた(k.1098)

以後、中国では王朝交替後、禅譲した皇帝の殺害が通例化する(k.1102)

孝武帝は、文帝期にも増して皇帝権強化と寒人重用の動きを進めた(k.1133)

寒門・寒人偏重の政策を展開した上に、叔父や弟の殺害といった皇族抑制策も実施したため、後世、恩倖寒人をのさばらせて独裁的政治を行った暴君という歴史像が定着(k.1139)

東晋では、建康はあくまでも仮の都であり、中原を恢復するまでは国家儀礼や雅楽の整備を控えるべしとする者が多かった。そのため宗廟・郊祀自体は実施されたものの、ついに雅楽は整備されなかった(k.1145)

文帝の北伐(四五〇年) が失敗し、中原恢復の可能性が低くなると、孝武帝は建康を天下の中心とし、洛陽にかわる真の都にする動きを加速(k.1148)

西晋までは祖先を祀る宗廟と天地を祀る郊祀とでは、異なる雅楽を演奏していた。しかし、孝武帝は弟の 劉 宏 の提案を採用し、同じ楽曲を演奏することにした。戸川貴行(二〇一六) によれば、これは音楽の共有によって、皇統(宗廟) と天(郊祀) を結びつけ、王朝の正統性を強化する試みであった。この雅楽通用という形式は、南朝・北斉・北周を経て隋・唐に継承され、新たな「伝統」として定着した(k.1154)

また、明帝は孝武帝の子一六人を殺し、さらに重病にかかると幼い皇太子の将来が不安になり、功臣のほかに弟四人も殺害している。その結果、四七二年(泰豫元年)に明帝が三十四歳で没し、皇太子の昱(後廃帝)が十歳で即位したときには、皇帝を支えるべき皇族は激減(k.1180)

宋・斉では、血で血を洗う粛清が繰り返された。その激しさは同時期の北魏を上回っている(k.1227)

貴族の形成・維持には、官制との関係が欠かせなかったのである。そのため、貴族(特に甲族) の多くは生き残りを図って政争から距離をとり、王朝交替の際には粛々と従っている。宋末の袁粲のように王朝に殉じた者は珍しい(k.1257)

高官を輩出していた貴族の支持が王朝維持に欠かせなかったことがあげられる。当時、政策は貴族や官僚が月二回開いていた「議」(会議) や重要案件を審議する「大議」でまとめられ、皇帝は提出された議文に可否の判断をくだす形がとられていた(k.1262)

宋・斉にとって貴族社会の維持と並んで重要な課題だったのは、北魏との抗争を生き抜くことであった。そこで宋は北魏に対抗するために、夏・北涼・北燕といった五胡諸政権、青海を支配していた 吐谷渾、朝鮮半島北部の高句麗、モンゴル高原の覇者たる柔然と結んだ(k.1267)

東方からは、朝鮮半島西南部を支配する百済と日本列島の倭(五王: 讃・珍・済・興・武) がたびたび宋に遣使して王号と将軍号(地位の高さを示す官号) などを求めている。百済や倭は、宋から官爵を得ることで、国内外に権威を示し、国家体制を整えようとしたのである。また、南方からは 林邑(ベトナム南部)・扶南(カンボジア)・呵 羅 單(ジャワ島) といった東南アジア諸国も遣使している。ただし、林邑はたびたび宋の南端の 交州(現在のベトナム北部) に侵入したため、四四六年(元嘉二十三年) に文帝の命で攻撃されている(k.1286)。

日本では倭の五王に注目が集まるが、南朝における周辺国家の位置づけは、柔然がほぼ対等関係であり、宋から官爵を受けた国では高句麗─吐谷渾─百済─倭─林邑の順となっている(k.1294)

玄学とは、後漢末以降の動乱のなか、儒学に飽き足らなくなった知識人が生み出した思想である。儒学に老荘思想の要素を加え、『 易経』『 老子』『 荘子』をもとに、「無」や「有」に着目して世界の根本について思索するものであり、三国魏の 何晏・王弼 らに端を発す(k.1299)

范曄は左遷を恨み、劉義康を文帝の跡継ぎとする動きに反対するため、『後漢書』のなかで帝位の非正統な継承を企図した人物を批判した。このように『後漢書』の叙述や人物評価には、南朝の政治・社会状況が反映されており、読む際には注意が必要(k.1312)

裴松 之 が西晋の 陳寿 撰『三国志』につけた注釈も重要である。裴松之は宋の文帝の命を受け、歴史的教訓を伝えるために、四二九年(元嘉六年) に『三国志』注を作成した。彼は二百以上の文献を利用し、『三国志』の簡潔すぎる叙述を補った。ここには『三国志』に見えない興味深い逸話が満載で、現在まで『三国志』が読み継がれ、人気を博しているのも、裴松之のおかげといって過言ではない(k.1322)

四四三年(元嘉二十年) に作成された暦(元嘉暦) では、建康を天下の中心と言い張るために、夏至の影長を実際よりも長い一尺五寸に改竄したのである。このとき作られた元嘉暦は、後に百済を経由し、六世紀の倭国に伝来して用いられた。認識していたかどうかは不明だが、倭国は建康を天下の中心とする暦を使用していた(k.1394)

k.1407
側近に寒門・寒人を登用し、皇帝権の強化を進めた。しかし、皇帝が皇族中の第一人者にすぎなかったため、帝位継承が安定せず、代替わりのたびに凄惨な粛清の嵐が吹き荒れた。

北魏では官僚に 俸禄(給与) を支給していなかった。官僚は軍功などをあげた際に、土地・奴婢・家畜等を恩賞として与えられ、それによって生計を立てていたが、不足分を補うために賄賂や収奪が横行した。その対策として、官僚の生活を安定させるために給与を支給することとした(k.1430)

北魏前期は、豪族・庶民を問わず、一戸単位で徴税していた(戸調制)。しかし、大土地を所有する漢人豪族の戸籍には、その庇護を受けた民衆(蔭附民)が附載され、その数は三十家から五十家に及んでいる(k.1435)

四七〇年代から勧農(農業振興) 政策を進めてきた馮太后は、四八五年(太和九年) 十月には、成年男子とその妻に 露 田(死亡時または七十歳で返還) と 桑田 を支給し、その収穫を税として徴収する 給田 制、すなわち世にいう均田制を施行した(k.1449)

三長制・均田制の施行と合わせて、従来の戸単位で徴税する戸調制から、夫婦単位で徴税する均賦制に転換(k.1459)

北魏前期は、北族が軍事を担ってきたが、領土拡張とともに徐々に農民からの徴兵が始まった(k.1473)

北魏建国後、帝室ではレヴィレート婚の事例が見当たらない。それどころか北魏には皇太子の生母を殺害する「子貴母死」制が存在しており、現に孝文帝の生母とされる李氏も馮太后の意向で殺されている。北魏の実権を握る馮氏にとって、殺される危険を冒してまで子を産む必要はあったのだろう(k.1494)

孝文帝は、華北を治める北魏の正統性を強調するため、祖先祭祀の対象を鮮卑の首長にすぎなかった神元帝や平文帝から、北魏を建国して華北進出を果たした道武帝に変更した(k.1525)

孝文帝は、これまで拓跋氏や北族の間に広く存在した一体感を希薄化し、道武帝とその子孫の権威を高めた(k.1532)

孝文帝は鮮卑の伝統や北族の紐帯を重視する路線から、中国的礼制を軸に中国支配の正統性を示す路線に切り替えたのである。また、封爵や祭祀の改制を通じて、部族的紐帯の解体や皇族の縮小も進め、皇帝の権限強化も図った(k.1539)

孝文帝は、南朝のような貴族社会を創出するために、姓族分定を断行しただけでなく、四九九年(太和二十三年) に南朝の宋・斉の官制を模倣して、清官(貴族の就くべき官職)・濁官(寒門の就く実務官) の区別も導入し、行政法規である 令 において明文化(k.1624)

宣武帝は同年、住民の管理を目的に、居住区を三百歩(約五百メートル) 四方の壁(坊) で囲む 城 坊 制(三二三坊) を始めた。城坊制は、中国における秦漢以来の築城技術の伝統や碁盤の目のような町割と、遊牧民の家畜管理の経験や、 徙民(強制移住)・計口受田などに代表される北魏の政治組織力が化学反応を起こして創出されたものである。  右で見てきた北魏洛陽城の中軸線・城坊制は、隋・唐の長安城に引き継がれ、さらには日本の平城京・平安京にも影響を与えることとなった(k.1701)

高肇は四川に侵攻していて洛陽に不在であった。そこで禁衛長官の 于忠 が一時的に実権を握って高肇を殺害した。しかし、于忠に反発した群臣は皇太后 胡 氏(漢人) の臨朝を望んだ。彼女は宣武帝の妃であり、孝明帝の生母である。宣武帝の后妃たちが「子貴母死」制を恐れて皇太子の生母となるのを願わなかったのに対し、彼女は「お腹の子が男であり、また〔宣武帝の〕長子となりますように。子が産まれれば自分が死んでも構いません」(『魏書』巻十三皇后伝) と祈願し、孝明帝を産んだ。中国文化に親しんでいた宣武帝は、五一二年(延昌元年) に元詡を立太子した際、「子貴母死」制を廃止し、皇子を産んだ胡氏を殺さなかった(k.1752)

諸王から家庭内暴力を受けた妻を保護し、諸王の暴力行為を禁止している。当時としては珍しい命令であり、女性権力者ならではの方策といえよう(k.1761)

中国文化に親しんでおらず、文書行政にも精通していない中下層の北族は、徐々に官界から排除されるようになってしまった。その結果、中下層の北族の不満が増大していく(k.1777)

遊牧生活を行う部族民の「酋長」は、渡り鳥のような行動から「雁臣」と呼ばれていた。彼らは平時には遊牧生活を送り、時に北魏の軍事行動に参加した。また、彼らは洛陽に赴くたびに名馬を持参して交易(k.1801)

k.1820
宣武帝・孝明帝期には北族内部で格差が拡大し、中下層の北族の不満が高まっていった。彼らの怒りは五二三年(正光四年) に頂点に達し、六鎮の乱が発生することとなる。この反乱の結果、北魏はおろか南北朝全体が動乱の時代に突入するので

孝文帝の諸改革によって、北魏が貴族制国家に変貌した結果、北族内の格差が広がり、特に北魏の北辺に居住する中下層北族の不満が高まっていた。その不満が爆発に至る遠因は、北魏前期に設置された「鎮」(k.1830)

孝文帝の洛陽遷都によって、六鎮は首都の防衛拠点から北辺の防衛拠点に格下げされ、重要性が薄れて政治的地位は下落(k.1841)

中央ユーラシアは、モンゴル高原の柔然、天山山脈の高車、中央アジア西部を支配する遊牧国家エフタルの鼎立状態となった(k.1850)

五二三年(正光四年)、阿那 は飢饉を理由に六鎮周辺で略奪を繰り返したあげく、モンゴル高原に戻って柔然の可汗に返り咲き、さらには北魏の派遣した追討軍をかわすことにも成功した(k.1857)

胡太后は、五二八年(孝昌四年) 正月に後宮で生まれたばかりの孝明帝の娘を男児と偽った上で二月に孝明帝を毒殺し(享年十九)、生後五十日の女児を帝位につけたのである。ただし、群臣の動揺が収まったのを見た胡太后は、すぐさま皇帝が女児であることを明かして廃し、改めてわずか三歳の 元 釗(孝文帝の曽孫: 幼主) を擁立した。これを受けて爾朱栄は、同年四月に献文帝の孫の 元子 攸( 孝 荘 帝) を擁立(k.1907)

以後、爾朱栄は次々に軍功をあげていく。まず、五二八年( 建 義 元年) 九月に葛栄が河北から百万人と称する大軍を率いて進軍してくると、その伸びきった隊列をわずか七千人で襲撃して葛栄を捕えることに成功した( 口 の戦い)。このとき二十万人が降伏し、河北の反乱集団の多くは爾朱栄に吸収されていった。そのなかには、後に西魏の実権を握ることとなる武川鎮出身の 宇文泰 が含まれてた(k.1931)

爾朱栄の誅殺後、洛陽の人々は 快哉 を叫んだといわれている。しかし、孝荘帝の栄華はあまりにも短かった。爾朱栄の死後、すぐさま爾朱一族が各地で蜂起したのである。特に晋陽で挙兵した 爾 朱 兆(爾朱栄の甥) は、 元 曄( 景 穆 太子拓跋晃の曽孫: 敬 帝) を擁立して次々に朝廷軍を破り、十二月には洛陽に進撃してきた。その鋭鋒の前になすすべもなく孝荘帝は捕えられ、晋陽に連行されて殺された(享年二十歳)(k.1981)

高歓は爾朱氏を滅ぼした後、孝荘帝の皇后であった爾朱栄の娘(大爾朱氏) と、元曄の皇后であった爾朱兆の娘(小爾朱氏)を側室に迎えている(k.2019)

高歓は、爾朱兆が擁立した元恭と自らが擁立した元朗をともに廃して、新たに孝文帝の孫の 元 脩 を擁立している(孝武帝)。孝文帝の血を引いている元脩を、わざわざ帝位につけたのは、孝文帝路線の継承を望む漢人官僚の支持を集めるため(k.2023)

高歓は軍事的にも経済的にも安定していた鄴に遷都したのである。これがいわゆる東魏の成立である。これにより北魏は分裂し、高歓が実権を握る東魏と、宇文泰が実権を握る西魏が華北の東西に対峙する(k.2043)

東魏は、漢人貴族の支持する孝文帝路線をベースとしつつも、北族重視路線が入り混じっている(k.2066)

高歓はすでに五十歳。病気がちだったこともあり、彼女の寝所に赴くことができなかった。しかし、阿那 が送り込んだお目付け役の圧力で、病をおして輿に乗って公主のもとに通ったと伝えられている。  なお、彼女は高歓が亡くなると、遊牧民の習慣であるレヴィレート婚を行って高澄に嫁いで一女を産んだが、五四八年(武定六年) に十九歳で没してしまった。近年、彼女の墓誌が発見されたが、外聞を憚ったためか、レヴィレート婚に関する記事は見えない(k.2094)

簒奪計画の密談中に、膳奴(配膳のための奴隷) の 蘭 京 によって刺殺されてしまった。享年二十九。蘭京は、梁の名将の 蘭 欽 の子で、東魏の俘虜となった際に、高澄の膳奴とされ、恨みを抱いていた(k.2126)

宇文泰の長兄は破落汗抜陵に抵抗した際に戦死、次兄は父とともに北魏に敗れて戦死、三兄はその才幹を恐れた爾朱栄によって殺害された(k.2140)

賀抜岳没後の混乱を鎮め、関中を掌握したのが宇文泰である。賀抜岳の配下の多くは武川鎮出身の中下層の北族であり、賀抜岳の後継者として同郷の宇文泰を推したのである。このとき宇文泰は三十歳(k.2148)

成立当初の西魏では、宇文泰の直属部隊は三万人程度にすぎず、主に六鎮出身の中下層の北族が軍事力を担っていた。なかでも、もともと宇文泰の同輩だった北族系の元勲が大きな影響力を持っていた。そのため宇文泰は彼らの統率に苦しんだ。河橋の戦いでも山の戦いでも、元勲が独断で撤退したため、総崩れを起こした(k.2178)

軍事体制を整えた西魏は、東魏への侵攻を一時的に諦め、南朝の梁に目を向けることとした。梁で侯景の乱が発生すると、折よく長江中流域をめぐって 蕭繹(梁の武帝第七子・後の元帝) と対立した 蕭(梁の武帝の孫) が西魏に支援を求めてきた。そこで宇文泰は、五四九年(大統十五年) に武川鎮出身の元勲である 普 六 茹忠(『周書』は 楊忠) を派遣し、漢水の東側を獲得した。この普六茹忠こそが後に隋を建国する 楊堅 の父である。その後、宇文泰は蕭 を傀儡として梁王に擁立(k.2189)

五四九年(大統十五年) には、孝文帝改革で中国風に改められた北族の姓をもとに戻す政策がとられた。このとき西魏皇帝も元から拓跋に改姓している。さらに漢人にも北族の姓が賜与された。特に多く与えられたのが宇文姓である。宇文泰は、漢人に宇文姓を賜与し、擬制的に同族とすることで、紐帯を深めようとした(k.2214)

k.2237
孝文帝路線に対する反発を踏まえ、北魏以前の鮮卑の制度(擬制的に部族復興) と漢人の理想である「周」制を再現し、北族・漢人を双方の制度に所属させることで、北族と漢人の融和を進め、団結させる意図があったと

西魏の中核を占めていたのは、宇文泰を筆頭に六鎮出身者を中心とする中下層出身の北族である。なかでも五五〇年(大統十六年) までに柱国大将軍と大将軍を拝受した元勲は、大きな影響力を持っていた。柱国大将軍を拝受した者が八人、大将軍を拝受した者が十二人程度いたので、前島 佳 孝(二〇一三) は「八柱国十二大将軍クラス」と呼んでいる。「八柱国クラス」には後に唐を建国する 李淵 の祖父の 大野 虎( 李 虎) が、「十二大将軍クラス」には先に紹介した楊堅の父の普六茹忠(楊忠) が含まれている( 図4‐5)。この「八柱国十二大将軍クラス」に次ぐ地位にあったのが北族系の功臣である。宇文泰は、頼れる親族が少なかったこともあり、「八柱国十二大将軍クラス」や北族系功臣と積極的に通婚し、紐帯の維持に努めた(k.2246)

一貫して北族優位の状況にあったこと、そして漢人の一流貴族が少なかったことがかえって効を奏し、北族と漢人の深刻な対立は発生しなかった(k.2264)

五四〇年代に柔然と東魏が結んだため、西魏は五四五年(大統十一年) に 突厥 に使者を派遣して 誼 を通じた。突厥は、柔然に服属していたテュルク系の遊牧民だが、このころ、勢力が盛んとなり、自立を図っていたのである。五四六年(大統十二年) になると、突厥は柔然と完全に対立状態に陥り、西魏に対して通婚を求めてきた。そこで宇文泰は、五五一年(大統十七年) に西魏の皇族の娘を突厥の首長である 阿 史 那 氏の 土門 に降嫁し、関係強化を図った(k.2269)

孝文帝が中国化政策を推し進めた結果、中下層の北族の不満が爆発し、最終的に北魏は分裂してしまった。東魏の実権を握った高歓は、漢人貴族と勲貴のバランスをとりつつも、孝文帝路線を継承した。一方、西魏の実権を握った宇文泰は、孝文帝路線を継承せず、復古的政策を展開した。しかし、その西魏でも孝文帝改革以前の体制に完全に戻すことはできなかった(k.2290)

孝文帝改革の反動で北魏が混乱状態に陥ったあげく東魏・西魏に分裂したのに対し、南朝の梁では約半世紀にわたって王朝が安定し、文化面で最盛期を迎えたのだ。その立役者が梁の武帝(k.2301)

仏教に傾倒し、皇帝菩薩として君臨し、対外的にも影響力を持った。しかし、その平和は東魏からの亡命者侯景によって打ちくだかれる(k.2303)

南朝の梁を建国したのは蕭衍である。その在位期間は、五〇二年から五四九年と約半世紀に及んでおり、南北朝時代で最も長い。事実上、彼は一代で建国から崩壊までを体験した稀有な人物(k.2306)

起家年齢を早めることは、より上位の官職に到達できる可能性が高まることを意味し、寒門層にとっては任官の機会そのものが増えることを意味したので、学問に励む風潮が生じてきたのである。この射策は、後の隋に始まる科挙の源流の一つ(k.2376)

宋では西晋末の混乱で失われた礼楽の再建が進められ、祖先を祀る宗廟と天地を祀る郊祀という異なる儀礼の間で同じ雅楽を演奏させ、皇統と天を結びつけることで王朝の正統性強化を図った(k.2396)

武帝の儒学振興策の下、漢から南朝までの『論語』注釈書を集大成した 皇侃 撰『 論語 義疏』が編纂されたのである。この書物は、中国では後に散逸してしまったが、日本に古写本が残されていたことで、現在でもその内容を知ることができる(k.2414)

皇太子の蕭統( 昭明太子と呼ばれる) とその側近たちによって編纂された『文選』は、中国古来の詩文のなかから奥深い内容と華麗な表現を備えた作品を精選したアンソロジーであり、唐以後の文学のみならず、日本・朝鮮の文学にも大きな影響を与えた(k.2421)

朝鮮半島諸国、なかでも百済はたびたび梁に遣使し、その文化を積極的に摂取している。六世紀半ばには、多くの百済人が倭国に渡来し、中国の学術・文化を伝えているが、その中身は梁代のもの(k.2431)

武帝は、五一九年(天監十八年) 四月八日に高僧から 菩薩戒 を受けた。菩薩戒とは、善法を実践し、人々を教化するという菩薩が持つべき戒で、在家・出家者に共通のものである。実は菩薩戒を初めて受けた皇帝は、梁の武帝ではなく、宋の明帝(k.2457)

群臣は多額の銭(『南史』巻七梁本紀中には銭一億万とある) を寺院に払って、武帝の身柄を買い戻すという形をとった。要するに手の込んだ 喜捨 である。こうして捨身から数日後に宮殿に帰り、 大赦 と改元を実施(k.2474)

船山徹(二〇一九) は、その発想の元になったのは、南朝と貿易や仏教面で往来があり、以前から捨身を行っていたスリランカ諸王ではないかとしている(k.2479)

武帝の崇仏事業や仏教外交を踏まえ、朝鮮半島の百済や 新羅 は王権主導で崇仏を進め、仏教を介して梁と良好な関係を築いている。倭国は斉建国直後の四八〇年(建元二年) 頃の遣使を最後に南朝との往来を絶っていたが、やはり六世紀前半には百済から仏教を導入している。その背景には、仏教の知識が国際関係構築に不可欠となっていたことがあったと考えられている(k.2495)

貨幣経済が活性化していた南朝では、梁以前から銅銭不足に悩んできた。領内で銅銭を大量に鋳造するための銅を確保できなかったためである。そこで武帝は、良質の貨幣発行を心がけ、通貨の安定を図った。しかし、五二三年(普通四年) に方針を大きく変更してしまった。なんと銅銭を廃止して、鋳造しやすい鉄銭に切り替えたのである。すると、銅に比べて鉄の入手が容易だったため、鉄銭の 私鋳(民間での銭の鋳造) が相次ぎ、貨幣の価値が下がってしまい、インフレが起きて経済が混乱してしまった。その結果、窮乏した農民が増加して都市部に流入し、深刻な社会問題が引き起こされた(k.2520)

北魏では、献文帝が孝文帝に譲位し、太上皇帝を称して政務を執った。これは中国の伝統と遊牧民の柔軟な思考が意外な化学反応を起こした結果であった。しかし、魏晋以来の正統な中華王朝を標榜していた南朝では、自発的意思による皇帝の生前譲位など選択肢になく、老齢であっても在位し続けるほかなかった。蕭綱は老いゆく武帝の補佐役として皇太子に選ばれた(k.2534)

朱は後述する侯景の乱への対応に失敗し、梁滅亡を招いた 佞臣 とみなされ、はなはだ評価が低い。日本でも『平家物語』の冒頭に「秦の 趙高、漢の 王莽、梁の 周 伊(朱)、唐の 禄 山(安禄山)」とあるように、王朝を傾けた悪臣の代表格として描かれている(k.2546)

武帝没後、侯景は武帝の皇太子の蕭綱を皇帝(簡文帝) に擁立し、その娘を妃に迎え、梁の実権を掌握し、長江下流域に勢力を拡大していった。彼は東魏の官制を一部採用し、側近の護衛官に鮮卑語由来の庫真の肩書を与えている。五五〇年(大宝元年) 七月、侯景は漢王となり、十月には宇宙大将軍・都督 六合 諸軍事を称した。この将軍号を聞いた簡文帝は、大いに驚き、「将軍に宇宙の号などあろうか」(『梁書』巻五六侯景伝) とつぶやいた(k.2627)

侯景は、官制は北朝(特に東魏)、儀礼は南朝というキメラのような体制構築を図ったようである(k.2657)

侯景の乱に始まる一連の動乱は、繁栄を誇っていた貴族社会に大きなダメージを与えた。激しい攻防戦と侯景軍・梁軍による略奪の横行で、絢爛たる大都市建康は荒廃し、貴族から庶民まで塗炭の苦しみを味わった(k.2743)

武帝が求めた才能とは儒学・文学といった教養面であり、一部の例外を除き一流貴族が行政・軍事面で活躍することはなかった(k.2747)

もともと北魏の孝文帝以後、漢人官僚が国史を編纂し、孝文帝の中国化政策を正当化していた。しかし、第4章で論じたように、五二〇年代半ばには孝文帝路線に反発する爾朱栄が北魏の実権を掌握し、北魏前期の体制を志向するようになった。これに合わせて、史官にも北族が就任するようになったため、一時、国史の編纂は停滞してしまった(k.2798)

『魏書』は北魏を中華王朝として宣揚するため、列伝に五胡諸政権と併せて東晋・南朝を収録している。北斉は、西晋→北魏(東魏も含む) →北斉という正統観を抱いていた(k.2805)

建国当初、政治・軍事に励み、漢人官僚・勲貴双方の支持を取りつけようと努めた文宣帝だが、そのストレスからか酒に溺れて暴君に変貌してしまった(k.2822)

五五八年(天保九年) には人望の厚かった弟の高浚・高渙を鉄籠にいれて自らめった刺しにした上で焼き殺している。さらに、五五九年(天保十年) には東魏の皇族であった元氏も虐殺し、斬殺された者七二一人、その他の死者三千人に及んだと伝えられている。
 こうした行為の一方で、文宣帝は僧侶と交遊し、菩薩戒を受け、多くの仏寺を建立し、座禅に励んだ熱心な仏教信者でもあった。信仰と行動のギャップには戸惑うばかりである(k.2828)

武成帝は、五六五年(河清四年) に二十九歳の若さで、十歳の皇太子 緯(後主) に譲位して太上皇帝となった。第1章で紹介した北魏の献文帝に続く二例目の太上皇帝(k.2876)

文宣帝以来、弟による事実上の帝位簒奪が続いていたことを踏まえ、帝位継承の安定化を図って行われた(k.2879)

レヴィレート婚も行われており、北族の気風も色濃く残っていた。五六三年(河清二年) には北周が突厥と連合して晋陽に来襲し、翌年には北周が洛陽に侵攻してきたが、いずれも撃退に成功している。特に洛陽の戦いで活躍したのが勲貴の斛律光(娘は後主の皇后)や皇族の高長恭(高澄の子:蘭陵王)(k.2887)

k.2911
ある。  そして祖 は「恩倖」との対決に踏みきった。ところが、この対決は皇帝の寵愛を受けている「恩倖」が勝利を収めた。五七三年(武平四年) 五月、祖 は失脚して病死し、十月には文林館に集った漢人官僚の多くも殺害された。この間、名将として知られる蘭陵王高長恭も、後主の猜疑心によって死を賜って

k.2949
北斉の政治動向を端的に要約すると、複雑な権力闘争が続いた果てに、北周に滅ぼされたということに

西魏時代と同様に仏教も厚く保護し、仏教信仰を利用して地方に北周の影響力浸透を図っていた。こうした配慮の結果、北周建国当初を除き、皇族・群臣による反乱や、諸勢力の深刻な対立は発生していない。ほとんどの北族・漢人が宇文護に協力して政権を支えていたのである(k.2996)

五八〇年(大象二年) 五月、天元皇帝は二十二歳の若さで急死した。彼の死により、天元皇帝号は自然消滅した。幼少の静帝にかわって実権を握ったのは宣帝の舅である普六茹堅、すなわち隋を建国することとなる楊堅(k.3118)

実権を握った楊堅に、元勲・漢人官僚の多くが従った。武帝・宣帝と続いた皇帝専権体制に対する不安、廃仏による人心の離反、華北統一後の北斉系官人の流入による混乱と危機感、突厥や陳との対立といった緊迫する国際情勢、幼君のカリスマ不足などの理由が重なったためである。そして、五八一年(大定元年) 二月、楊堅は静帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、開皇と改元して隋を建国し、北周の皇族を粛清(k.3151)

ユーラシア大陸東部に大帝国を築いた隋・唐は、孝文帝路線を継承した北斉と復古政策を展開した北周の双方を継承して成立した(k.3159)

妖姫臉は花の露を含むに似て、玉樹光を流して後庭を照らす。 と妖艶な張貴妃の美貌をうたいあげた後主の代表作「玉樹後庭花」もある(k.3253)

後主は井戸のなかに寵妃とともに隠れているところを捕えられたと伝えられている。長安に連行された後主は殺されることなく、六〇四年( 仁寿 四年) に天寿を全うした。享年五十二。  こうして、三国時代から数えて約四〇〇年続いた分裂時代は終わりを迎え、中華は再び統一された(k.3268)

南北朝時代は華北・江南・モンゴル高原が衝突と交渉を繰り返し、ダイナミックに連動した時代(k.3283)

その代表的事例には、草原と華北の中間地帯(農牧境界地帯) である六鎮に生まれ、柔然と北魏のせめぎ合いの過程で発生した六鎮の乱を生き抜き、北魏末・東魏の動乱のなかのしあがり、梁に亡命した後に反乱を起こして貴族社会を崩壊に導いた侯景があげられよう(k.3286)

さらに視野を広げれば、高車やエフタルといった中央ユーラシアの遊牧民の興衰と連動していたほか、朝貢国である高句麗・百済・倭といった東アジア諸国、林邑をはじめとする東南アジア諸国などとも結びつきをもっていたのである(k.3288)

近年はこれら諸勢力をつないだ存在として、シルクロード貿易を担ったソグド人に注目が集まっている(k.3292)

中国文化と遊牧民が接触・融合するなかで、意外な化学反応が生じ、それまで遊牧世界にも中国にも存在していなかった太上皇帝・子貴母死制・天元皇帝なども出現した(k.3303)

南北統一を果たした隋そして唐は、中国化を進めた北魏後期および北斉の制度・儀礼を国制の基軸に据え、遊牧的要素のある北周の制度も一部で取り入れた。さらに南朝の儀礼・学術・文化の影響も受けている。いわば南北朝の制度・文化が融合して成立した王朝なのである(k.3317)

東アジア諸国は、北朝と南朝の双方から制度・文化を摂取し、それぞれ国造りを進めていった。このうち倭・日本が南朝文化の影響を強く受けていることは、すでに多くの研究者が指摘している。しかし、意外なところで北朝の影響も受けている。例えば「太上天皇」である(k.3321)

古代日本は七世紀に徐々に中国の制度を導入していったが、その過程で漢籍輸入を通じて『魏書』に記されていた「太上皇帝」の知識を入手したのであろう。そして、唐の律令をもとに独自の律令を編纂して天皇制を確立するなか、時代状況に合わせて「太上天皇」制を創出したのである。すなわち、日本の「太上天皇」制は、中国文化と遊牧民の接触のなかで生まれた「太上皇帝」を日本の天皇制に巧みに取り込むことによって成立(k.3329)

総じていえば南朝は下からのエネルギーをうまく掬い取れなかったように思われる(k.3341)

基本は任子(官僚の子を登用) であり、元勲・功臣子弟が幅をきかせていたが、軍功をあげた兵士や文才を持つ庶民が官職を得られる可能性もあったのである。  こうした気風は隋に受け継がれ、中国統一後の科挙創出につながっている(k.3358)

科挙官僚が台頭してくるのは七世紀末の 聖 神 皇帝 武 照(いわゆる 則天武后) の時代(k.3362)

仏教は、北朝・南朝の双方で皇帝から庶民まで広く信仰されただけでなく、儒者との議論の応酬や、インド僧が次々に到来して経典翻訳を進めた結果、教学面も深化して諸学派が精緻な理論を競うようになった(k.3369)

北魏の馮太后(第1章・第3章)・胡太后(第3章・第4章)、北斉の婁太后(第4章・第6章) の事例をあげたように、北朝では女性権力者がたびたび出現した。儒教的価値観に基づく正史は彼女たちに批判的であるが、実際のところ、その能力は男性権力者となんら遜色ない。さらには権力者だけではなく、官僚の妻たちも実に活動的(k.3388)

南北朝時代は、ユーラシア大陸東部の諸勢力が連動し、制度や文化が融合・伝播した時代である。さらには下からのエネルギーが社会を揺り動かし、仏教と道教が相互に影響を与え合って活性化し、時代のうねりのなかで女性が活発化した時代(k.3421)

 

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December 14, 2021

『武田三代』平山優、PHP新書

Takeda-3dai

『武田三代』平山優、PHP新書

 国衆、大名とも代替わりは危機であり、必ず攻め込まれているな、と改めて感じる一冊でした。また、信玄は信虎の残した遺産をバックに、三国同盟で北方に領域を拡大したものの、今川氏が没落したため、今川氏の正室をもった嫡男が謀反。死後に家督を継いだ勝頼が傍流だったため家中がまとまらず滅亡、という流れが良く理解できました。

 信長が家中をスムーズにまとめられたのも、子飼いを育てたということもあったんでしょうけど、正室の父親だった斎藤道三が息子に殺されたため、斉藤氏の意向をあまり気にする必要がなかったのかな、とか?いらぬことまで想像してしまいました。

 この本は最初、信玄の西上から読み始め、一気に勝頼の滅亡=織豊時代の到来まで読んだ後、最初の信虎に戻って読んだんですが、読むペースは遅くなったものの、信虎は名門武田氏を戦国大名として生まれ変わらせたんだな、と理解できました。

 《信虎が、川田館を廃し、新たな居館と首都建設を決断した理由とは何であったのか。その理由は諸説ある。それらを列挙すると、以下のようになる。(1)川田館周辺は、洪水の常襲地帯であったことから、政治・軍事・経済の中心としての、安定した都市整備が困難だったこと、(2)甲府盆地の開発が進み、伝統的な東郡(ひがしごおり)だけでなく、中郡(なかごおり)や西郡(にしごおり)などの農業や商工業も発展してきており、それらを統合するためにも、甲府盆地中心部への進出を必要としたこと、(3)室町後期から戦国期にかけての、甲斐の市・町・宿の状況をみると、東郡だけでなく甲府盆地にほぼ万遍なく展開する状況になっており、(2)の状況が裏づけられた。このことなどから、政治都市甲府の建設を領国経済の統制の軸とすることで、戦国大名としての権力確固たるものにしようとしたこと、(4)川田では、城下拡大には手狭であり、しかも防衛などに課題があること、などである。
 この他にも、父祖以来、武田氏は守護代跡部氏(小田野城主)や、武田一門で有力国衆の栗原武田氏(栗原氏館、金吾屋敷など)の軍事力に支えられ、庇護される形で維持されてきた。信虎は、この状況を克服し、彼らに頼ることなく、自立した政治権力として国衆の上に君臨し、統治を果たすべく、新首都建設に踏み切った可能性が指摘されている》《武田信虎の甲府建設は、中世都市鎌倉や京都、奈良を意識した都市構想であることが指摘されるが、家臣の城下集住策といい、その先駆性は高く評価されるべきだろう》と筆者の平山優先生が「歴史街道」で首都としての甲府建設の重要性をまとめておられますが、国衆を甲府近隣に住まわせようとするが三国衆が同時叛乱されるとは…

 こうした国衆の動きを封じつつ、北条氏を打破して勢力を拡大しようとしたんですが、飢饉続きで無理をしたツケが回って途端に嫡男、信玄によって追放されるというんですから皮肉です。

 信玄(晴信)は父親の遺した遺産を活かして甲斐から信濃に領土を拡大したんですが、同盟を結んでいた今川氏の娘を正室としていた嫡男義信が、信長に今川義元が討たれて弱体化していたにも関わらず反織田の姿勢を変えず、謀反を企てて捕らえらてしまいます。本来は滅ぼした諏訪氏を継ぐ予定だった勝頼が浮上するも家中の信頼は得られず、没落すんですが、義信の廃嫡とニ年後の死という義信事件が《武田氏滅亡はな扉を開いた、と私は考えている》(p.203-)と。

 信玄篇の後半からはどんな歴史小説を読むよりも面白かった!信玄に攻め込まれて、義昭が焦って信長と家康を見限ったから足利幕府はなくなって、勝頼を滅ぼした2ヶ月後に信長と織田家も本能寺で事実上あっけなく滅び、統一国家へとトントン拍子で向かったのかな。

 足利義昭が信長包囲網を考えたのは、三方ヶ原の合戦で織田徳川軍が敗北したのをみて「武田、朝倉、本願寺で支配体制を再構築しよう」という結果論が今の定説となっていることも改めて確認できました。にしても、武田勝頼は子ども頃から諏訪に住んだことも祭りに参加したこともなかったとは…

 NHK「カルチャーラジオ 歴史再発見」の「武田信玄の生涯」も面白いですので、ぜひ!

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December 12, 2021

『俳優のノート』山崎努、文春文庫

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『俳優のノート』山崎努、文春文庫

 一世一代で同じ役は二度と演じないという山崎努が、シェイクスピアの『リア王』を新国立劇場の柿落としで演じるについての書き綴ったノートをまとめたもの。日記文学の傑作でもある。


 俳優が舞台を作り上げるため、役を掘り下げ寄り添い向き合い続けた記録であり、演技が苦手な生徒さんに送るために再読しました。リフォームの時に整理してしまったので文庫本で。
 
 稽古は実数34日間しかなく準備が大切ということで「準備」「稽古」「公演」の3部仕立。

 《まず、戯曲全体を隅々まで理解すること。一行たりとも分からない個所があってはならない。全体が分からなければ、自分の役がどのような役割りを課せられているかも分からないはずなのだ》《戯曲が素晴らしい、演出が斬新だ、演技が見事だと観客に感じさせたらそれは失敗なのである。舞台上に劇の世界を生き生きと存在させること。ただそれだけ》《演出の批評性などともてはやされるのは芝居の衰弱である。批評性も独創性も全て生身の登場人物の中に溶け込んでいなければならない》という文庫本の99頁は、山崎努による俳優のマニフェストみたい。

 ということで準備の中心は脚本の点検。全てのセリフを吹き込んで、それをひたすら聞くという手法は浪花千栄子さんもやっていたと聞くけど、やはりその方法が一番なのか。そうした過程でリア王の言動を支配しているのは女性嫌悪と見抜く。

 母親代わりの末娘コーディリアを捨てることで、王国そのものからも捨てられるリア王は「捨てていく男」となり、ストーリーの流れは「捨てていく旅」であることと看破、ターニングポイントを探していく。

 コーディリアを勘当したリア王と、父のグロスターに勘当されたエドガーが凶人となって嵐の中で出会う場面がクライマックスとなるが、これに道化という狂人も加わる。

 道化について、昔の王は「いけにえ」を常に抱え、災害があったら人身御供として捧げたのではないか、と考察。こうした犠牲になったのはハンディキャッパーやフリークス。ペラスケスの絵にスペイン王家の人々と一緒に描かれるハンディキャッパーは、犠牲になるまで大切に育てられた人々の名残りでそして、宮廷道化はその名残りかも、と(p.57-)。

 苦手な作家だったが、井上ひさしの演劇ジャンル分けが明快で面白かった(p.151-)。
・クライマックスが対話でなされるのが新劇
・涙、殺陣、「これまでのナントカは仮の姿です、じつはナントカ」と見顕(みあらわし)が山番になるのが大衆演劇
・前衛劇は山場をなくし、小劇場は照明、音楽、スモークを使って劇的にに時空間を変質させて山場をつくる、と

 このジャンル分けでいけば、いまの宝塚の主力作家では小池修一郎は大衆演劇、上田久美子は新劇、生田大和も新劇だが駄作は前衛、小柳奈穂子は大衆演劇、谷貴矢は小劇場みたいな感じがする。


 黒澤明の《映画つくりはね、自動販売機にコインを入れてジュースを買うようなわけにはいかないんだよ、目の前にある仕事を一つ一つ根気良くやって行くと、いつの間にか出来上がっているんだ》という言葉に感動(p.340-)。

 日本で2回公演を始めたのは美空ひばりだったのか(p.341-)

 7-8行の台詞をノーブレスで発声するためには《先ず横隔膜を横に拡げて息をストックし、その状態をキープしておいて更に背中と腹に空気を入れる。横に拡げた部分がタンクであり、前後がポンプの役割をする》というクラシック歌手の呼吸法を演劇用にアレンジするという具体的な説明にも感動(p.43-)。

香川照之の解説も素晴らしい。

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December 06, 2021

The lonely Century (邦訳『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』)

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The lonely Century : Coming Together in a World That's Pulling Apart by Noreena Hertz

 ジムで筋トレ後の有酸素運動でエアロバイクをこぎながら、英語のサビ落としを目的にAudibleで聞いている本の12冊目(邦訳は『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』ノリーナ・ハーツ、藤原朝子(訳)、ダイヤモンド社)。例によって聞き流しで、再読もしておりませんので、よろしくお願いします。

 とにかく、これはサブカルチャーに強い経済学者という感じのノリーナ・ハーツによるタイムリーな本。住宅価格の上昇の中でパンデミックが襲い、世界中の政府がステイホームをプロパガンダする以前から、我々の孤立、孤独、疎外は進んでいた、みたいな。それまでも他人との接触は、携帯電話やコンピュータネットワークを介して行われおり、やがては「思いやりのあるAI」とロボットが解決策になるかもしれないというディストピアっぽい未来さえも垣間見せてくれる。

 著者はスマホに夢中になっている大学生向けの「顔色をうかがうことによる実生活でのコミュニケーション方法」の授業やベルギーの極右集会から日本のロボット介護を採用している老人ホームまで幅広く事例を収集。そして、かつてはありふれたものであったカジュアルでありながら実は深かった人間関係が失われていることを報告します。

 孤独は精神だけでなく健康にも驚くほどダメージを与え、免疫力を下げて心臓病、脳卒中、認知症のリスクを高め、早死にする確率を3割も高めるともしています。統計的には、1日に15本のタバコを吸うのと同じくらい孤独は健康を害する、と。孤独や疎外は個人の健康や富、幸福を損なうだけでなく、ポピュリズムによって民主主義さえも脅かす例としては、オバマのクリーンコール法によって見捨てられたと感じた技師がとりあげられています。彼はトランプによって話しを聞いてもらえたと思い、「部外者(移民、エリート)」に対する怒りをかき立てられるようになります。

 つまり、孤独は個人だけでなく社会をも破壊する、と。

 著者のように新自由主義だけでなく、個人的な感想としては、リベラルな思想も「私」の要素を高めた個人主義を奨励することによって、かえって自分たちが市民ではなく消費者として理解されるように仕向けられた結果なのかもしれません。

 ネットワーク化されたホワイトカラーのオフィスやギグエコノミーに支配されるブルーカラーの職場環境からのがれようとしても、公共スペース(公園、図書館、地元の店)はますます減少しています。そして、Facebookで「いいね」と引き換えに、ありのままの自分ではないバージョンを提示するようになってしまう、と。

 ただし、解決策として提示されている「思いやりのあるAI」は、同僚とのおしゃべりだけでなく、トイレに行くことさえ監視されるハイテク企業の倉庫作業員に似ている感じがしなくもないのはどうなんでしょうか。

 以下、ざっと章ごとに。

[孤独な世紀]
私たちはコロナが蔓延する前からアプリでヨガのクラスに参加したり、人間の営業担当者の代わりにカスタマーサービスチャットボットを使用して話します、ライブストリーミングで宗教活動に参加したり、Amazonで他人と接触することなく買い物できました。非接触的な生き方は私たちの選択になっていた、と。緊縮財政の政策によって世界中の図書館、公園、遊び場、若者やコミュニティセンターが打撃を受け、英国では08~18年の間に800近くの公共図書館が、米国では08~19年の間に図書館の予算が40%以上減少した、と。

[孤独は殺人者]
孤独はな高いストレスを与えます。それは攻撃を受けた時に「戦うか逃げるか」の反応を引き出すために分泌されるホルモンと同じストレス反応です。そうした脅威が去った後、私たちの脈拍、血圧、呼吸などのバイタルサインは普通の水準に戻りますが、孤独はリセットされません。

[孤独な街]
匿名性は敵意と不注意を生み、人口密度の高い都市ほど無愛想さを生む。

[一人暮らし]
独身生活は積極的な選択であり、独立と経済的自立がもたらしたものですが、18年に発表されたEUの孤独に関するレポートによると、一人暮らしの人は、他の人と一緒に暮らしている人よりも孤独を感じるリスクが10パーセント近く高くなっている。一人暮らしの人は人生で最も困難な時期や脆弱な時期に孤独を感じることがある、と。

[自分はスクリーン]

私たちが毎日スマホをチェックする回数は平均221回だそうです。シドニー、テルアビブのでは歩行者がスマホ画面から目を離すことなく安全に横断できる信号が設置されています。
最近の調査では、見知らぬ人がスマートフォンを持っていると、お互いの笑顔が非常に少なくなるそうです。

[私のアバターが大好き]
Facebookで共有する私生活は意欲的な日常と美しい風景、美味しそうな食べ物であり、怠惰な日常ではありません。明るく健康的にフィルタリングされたバージョンを自分でも好きになってきており、整形外科医の55%がPhotoshopで撮影した自撮り写真を再現するように依頼され、そうした比率は年年、高まっている、と。本物の自分はデジタルでエンハウンスド拡張されたものになりつつある、と。

[一人のオフィス]
空気清浄機は設置されているものの全員が同じ空気を吸い込むオープンレイアウトのオフィスではバイオハザードのようにコロナのクラスタが発生しました。オープンプランのオフィスは精神面だけでなく、健康面でも働く人を疎外している、と。

[デジタルに乗っ取られた職場]
よそよそしいメールに支配された職場環境は、そこから離れても、人と適切に話したりコミュニケーションしたりするのに時間がかかり、切り替えに労力を要します。

[常にオン]
家族の時間、学校の遊び、深夜のベッドからでさえ上司、クライアント、同僚に応答しなければならない状況は異常だ、と。

[従業員ケアの支払い]
19年、日本のマイクロソフトは賃金を下げることなく休暇を与え、最大10万円を与えたところ会議が効率的になり、欠席が減少、生産性が向上。さらには電力などのコストダウンにもつながった、と。

以下でテキストが読めるハズです。

https://books.google.co.jp/books?id=jVacDwAAQBAJ&pg=PT9&lpg=PT9&dq=The+lonely+Century+Noreena+Hertz+Chapter&source=bl&ots=X3ELLWLUNL&sig=ACfU3U0Mlb_zzjz1E1grhtXNnFj3YWrF0g&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjbk8qG_s30AhVCG6YKHdKyBCsQ6AF6BAgjEAM#v=onepage&q=The%20lonely%20Century%20Noreena%20Hertz%20Chapter&f=false

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November 10, 2021

『解剖 日本維新の会』

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『解剖 日本維新の会 大阪発「新型政党」の軌跡 』塩田潮、平凡社新書

 今回の総選挙での維新の4倍増、大阪小選挙区での全勝には本当に驚きました。

 橋下代表の登場以来、維新は「勘弁してくれ」という感じでしたが、こうした圧倒的な結果を示されると、ぼくの見ていなかったものがあるとしか思えません。

 41議席(30増)には驚いたし、それよりも比例得票数には驚愕しました。

自民 19,914,883
立憲 11,491,737
維新  8,050,830
公明  7,114,282
共産  4,166,076
国民  2,593,203
れいわ 2,215,648
社民  1,018,588

 「現実の方が間違っている」という自称リベラルのような観念論者にはなりたくないので、『解剖 日本維新の会』塩田潮、平凡社新書を読んで勉強することにしました。表看板の大阪都構想で住民投票に二度失敗するなどしながらも生き延び、第三極として台頭てきたのは何かあるのかな、と(「小選挙区比例代表並立制」という今の選挙制度に一番、適合しているのが維新なのかもしれませんが)。

 『解剖 日本維新の会』によると橋下・維新が大阪の改革を目指したのはバブル崩壊による法人税収入が落ち込んでいるにも関わらず、公務員天国が改善されず、退職金を二重取りできる出資法人は79もあったからだ、としています。ノックも知事時代にもそれなりに取り組んだけど強制猥褻で辞任、その後の太田はやる気ナッシングで一向に進まず、昔ながらの区割りで家業化できてる地方議員も既得権益を守るだけで、現・松井代表はなんとかしなければならないと思った、と。

 大阪の財政問題はこうまとめられています(以下、kはkindleの位置番号)。

《大阪府はバブル崩壊による法人税収の落ち込みなどが影響して、中川和雄知事の時代の一九九三年に地方交付税の交付団体に転落した。次の横山ノック知事の時代の九八年、財政再建プログラムを策定して支出削減に努力した。それでも財源不足をカバーできず、将来の地方債返済の財源となる「減債基金」からの借り入れに頼らざるをえなかった。
二〇〇〇年二月にノックの後に太田房江知事が登場する。太田の後任の橋下は、〇八年の知事選で「大阪府は破綻会社」と強調し、就任直後の記者会見で真っ先に財政非常事態宣言を表明した》(k.425)と。

 また、石原都知事との連携も当時は野合だと感じたんですが《東京都は石原知事時代の二〇〇六(平成十八) 年四月から、従来の単式簿記・現金主義会計の官庁会計に、複式簿記・発生主義会計の考え方を取り入れた新しい公会計制度を導入した。橋下は手本にと思い、教えを請う》(k.1018)という背景もあったようです。

 橋下が立候補したのは《納めた税金が既得権益のところばかりに行くのを改めなければ、という思いで手を挙げた》(k.409)からだ、と。

 個人的には橋下・維新には拒絶反応が最初にきてしまっていたんですが、今回、この本を読んでみて、改めてその理由が分かりました。それは12年11月に石原元東京都知事らと一緒になった影響で極右団体のように感じたからです。

 個人的には一番気になる九条を含む憲法問題についても《「占領憲法打破」は、石原が「譲れない一線」と一貫して唱えてきた路線であった。維新も憲法改正には前向きだったが、理念や方向性では距離があった》(k.1068)《「必要があれば変える。いいところは残す」と唱える改憲容認派の片山はインタビューで、「われわれは、今、九条を変えるのは反対。緊急事態条項も現状では要らないと主張」》(k.1445)というのはホッとしました。少なくとも九条廃止のゴリゴリの右翼ではないな、と認識を新たにしました。

 また、BSでは、松井代表が維新が圧倒的に大阪で強く、自民党を小選挙区で全敗させた理由について「高校無償化、塾通いへの補助、子どものワンコイン診療というベーシック・サービスを実現したからだ」と語っていたんですが、これには不意を突かれました。

 そこでTwitterで大阪の有権者に《大阪で維新が強いのは「高校無償化、塾通いへの補助、子どものワンコイン診療というベーシック・サービスを実現したからだ」というのは実感として正しいのでしょうか?》と聞いてみたら、8割がYES、2割がNOという回答をいただきました。

 もちろん、ささやかな範囲でのアンケートですが、それでも、思ったよりYESが多かったな、という印象です。これが実質本当ならあれだけ大阪で強いのは理解できます。

 松井代表もこうしたベーシックサービスの成果について《大阪は、年収一〇〇〇万円を超える家庭を除いて、私立高校も全部、教育費を無償にしました。それで、選挙なんかで、若い高校生とか大学生から、『おかげで私学に通えて大学に行けた』『私、行きたい学校に行けてんや』と言われることがありますが、それが一番うれしい。子供なりに選択肢が増えて、喜んでくれているところがあります》(k.2153)としています。


 また、BSの討論番組によると、維新は自民党府議団を割った時は6名からスタートしたが、現在では地方議員だけで260人に達しているとのこと。維新の主張は歳費削減、議員が領収書不要で得られることから第二の給与と言われる文通費(文書通信交通滞在費)の削減、企業・団体献金の禁止というのはスジが通っていると思いました。

 また「資本主義だから格差は出るし、全てをなくすことは難しいというか解消は無理。しかし、固定化されるのはマズイ」というのが橋下の主張。

 ベーシックインカムの予算規模は30兆円を想定しているとのこと。

 選挙結果に驚き、改めて勉強した経験は小泉政権が郵政選挙で圧勝した時に「一度、清和会を岸、福田から辿ってみよう」と思った時以来です。

 国政選挙ではこれまで社会党、民主党、立憲民主党という野党第一党しか投票しておらず、今後も与党には投票するつもりはないのですが、大衆にこれだけ支持を受けているのには、それなりの理由があるはずで、吉本隆明さんの大衆の原像ではありません、そうしたものは確認しなければ、と思ったからです。

 また、子どもの頃から日本の政治をみてきた目からすると、日本では旧民社党のような中道左派は中途半端で大衆受けせず、自民党か社会党に結局、票は入るという図式がもしかしたら崩れたかもしれないと今回の選挙では感じました。それは国民民主党の増加です。

 今回、旧社会党な追求手法を得意としていた民主党の議員は軒並み苦戦し、実際にスキャンダルを起こした与党の議員もキッチリ選挙の洗礼を受けたわけで、国会ましてや予算委員会ではキチンと政策論議をやってくれ、という要求が高まっているとも感じました。

 また、実質、橋下元代表が維新のリーダーというのは変わっていないようです。《引退後、維新の法律政策顧問という立場で党外から支援する形となった橋下は、維新の党運営や政策策定などにどう関わったのか。
「党の大きな方針や政策を決める戦略会議というのがあるが、必ず出席する。というよりも、橋下さんに合わせて開いている。そこで議論を主導されている。みんなで決めるわけだけど、今も一番、影響力がありますよ」
維新の共同代表を務める片山虎之助は一六年五月、インタビューに答え、党内で重要な政策を決定する場面で、引退後も影響を及ぼす橋下の存在と役割を明かした》(k.1525)。

 単なる自民党の補完勢力と思っていましたが、もし《維新は与党ですか、野党ですかとよく聞かれます。私は地方議会の出身ですが、地方自治は首長と議員が別々の選挙で直接、住民から選ばれる『二元代表制』です。首長が出してくる議案に、必要なら賛成し、おかしければ修正をかけ、間違っていれば反対する。有権者が政党に求めている役割はそれだと思います》(k.2440)というのは本当ならば、もっと注目していかなければならないと思います。

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『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』

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『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤俊一、中公新書

 戦後マルクス主義史学を遠くから供養してくれたというか、下部組織から列島社会の変遷を古代から近世直前まで描いてくれた感じ。特に、年輪酸素同位体比によって明らかになった降水量の変動が荘園の歴史と対応するあたりは素晴らしかった。

 旱魃と豪雨が交互に訪れるような不安定な天候によって頻発する災害から荘園を復興するために、新しい用水を引こうとしたりすると、他の荘園の利害に抵触するようになるため、地域社会を領域型荘園という独立した小世界で区切った荘園の限界がみえてくる(p.244)という流れも素晴らしい。最初の方にも書いていた《小さな地域の自治権を最大に、国家や地方政府の役割を最小にした場合、何が起きるかという400年にわたる社会実験》というのが、よくわかります(p.262)。

 荘園という小世界の生産性をあげるためには、国人や戦国大名による強制力が必要になってきた、ということでしょうか。
 
 コジェーブは「人間の歴史を学びたいのであれば、日本の歴史を学べ」としているけど、日本史は気候、異民族支配などの影響がなく展開されたので、人間社会の発展史の教科書だな、とも改めて感じます。

 そでの内容紹介が素晴らしく簡潔で、ぜひ、読んでみてください。

 とにかく、今年、読んだ本のNo.1です。

 以下、箇条書きで。

はじめに
 《荘園の荘は建物、園は土地を指し、私有の農園のことだ》ではじまります。
 本書が主に扱う領域型荘園については《平安時代末には地方政府の役人を務めつつ大規模な農地開発を請け負った在地領主が成長し、上皇が専制権力を握った院政と結びついて、領域内の支配権が一括して与えられる領域型荘園が設置され》《領域型荘園には地方政府に納める税の免除と使節の立ち入りも拒否する特権が与えられた。荘園は外部の干渉を受けない独立した小世界となり、在地領主が務めた荘官のもとで、その土地に最適化した生産活動が行われた。荘園には、天皇家・摂関家の本家を頂点として、貴族や寺社などの都市領主が務め家、在地領主が務める荘官という重層的な支配関係が成立し、荘園から領家・本家に納める年貢・公事物が大量に京都に送られることになった》としています。
 《日本では荘園領主の大半が京都に住み、地方から年貢が送られてくる時代が長く続いたが、そのような荘園は西欧ではまれだ》というはなるほどな、と。荘園については下部構造を重視するマルクス主義の影響で50~70年代まで盛んに研究されたが、そうした全盛期から数十年を経て、研究成果へのアクセスが難しくなり、《多くの論者によってさまざまな議論が行われたため、全体像がつかみにくい》状態になっていた、と。それに古気候学の最新の研究成果によって、荘園の歴史を自然環境と人間社会の相互作用として描けるようになった、と。

二章 摂関政治と免田型荘園
 降水量・気温を図時した気候のグラフが初めて出てきます。これは年輪酸素同位体比を測定することで、列島の降水量が年単位で推定できるようになった中塚武氏の研究を元にしたもので、これによって、荘園の盛衰、制度変更の背景がより立体的にわかるようになります。p.27、p.60、p.116、p.175、p.234のグラフを追ってみるのも面白いと思います。
 郡司層の没落、浪人の増加によって、摂関期には人頭税から逃げることない土地への課税に切り替わっていったということですが、明治維新は、国民皆兵のために再び徴兵が人頭税として復活したんだろうか…などとも考えてしまいました(p.34)。

三章 中世の胎動
 こんなところも考古学の恩恵を受けているのか…と思ったのは、10世紀の極度に乾燥した気候の後の洪水などで開発意欲のそがれた農業経営も、11世紀半ばからは気候も安的し、新しい集落が出現したことが判明した、というあたり。とにかく、人々は水田を広く展開できる平野部の開発に乗り出した、と(p.60)。

第四章 院政と領域型荘園
 小さな荘園を寄進して、それを核として広大な土地を囲うという手法があったことに驚きました(p.84)。こうしたカラクリを使うことによって日本最大の荘園として有名な八条院領などが生まれます(p.94)。

五章 武家政権と荘園制
 源平騒乱って、清盛が院政を敷こうとしたことが原因というのが新鮮。平家と上皇・摂関家との関係は滋子と盛子の縁を介した危ういもので、二人の死後、荘園の管領が停止されると、焦って後白河法皇を清盛が幽閉。娘徳子の産んだ安徳天皇を即位させて院政で全権を掌握したことに怒った以仁王が挙兵したことが原因なのか。

七章 鎌倉後期の転換
 サブタイトルを意味する転換とは宋銭の流入による貨幣経済の発展。《13世紀後半には、日本の経済史を二分するとも云える出来事が起った。それは銅銭の大量輸入による本格的貨幣経済への移行だ》(p.181)。
 日本で宋銭が大量流通した要因のひとつが、モンゴルが紙幣を使わせるために江南地方で銅銭の使用を禁じたからだったというのは、日本史は東アジア史の中で考えないとダメだな、と改めて思いました。
 最初はバラストとして積んでいたとのことですが、モンゴルによって中国で不要にされた銅銭は毎年20万貫文(2億枚)前後の銭を輸入していたというんですから驚き(p.184-)。
 中国の紙幣(交鈔)は、モンゴル前の華北の覇者である金が、銅の不足に対応したものらしいけど、世界初の管理通貨制度の創始者?耶律楚材のこととか、色々考えました。

八章 南北朝・室町時代の荘園制
 鎌倉幕府が倒れた流れをあっけらかんと説明しているところが分かりやすい。曰く、畿内で悪党が暴れ回っていたから後醍醐天皇は倒幕へ向かった、と。
 建武新政で御家人制度が廃止、地頭は単なる職となり寺社や貴族が地頭になるなど上下関係がなくなった、と。
 そして守護の権力が強くなり、命じた軍務に就くものが国人となった、と。
 荘園代官には1)寺院、貴族、武士それぞれの組織内の人員2)僧侶や商人3)武士が登用されたが、組織内の人員は荘園経営の専門性に乏しく、裕福な僧侶や商人は最初こそ年貢を先払いするが忠誠心に欠けて2年目からは未進しがちで、武士は最初から未進で居直られるというのに笑いました(p.222)。

終章 日本の荘園とは何だったのか

 1963年からの圃場整備事業による区画変更や水路整備によって、中世から引き継がれた土地の形や地名、用水系などの手がかりが失われていることが嘆かれてします。
 『室町幕府と地方の社会』〈シリーズ日本中世史 3〉、榎原雅治、岩波新書の「おわりに」でも40年ぐらい前までは《七百年間、同じような用水が使われ、変わらぬ形をした田んぼが耕され、変わらぬ名前で呼ばれていた》ことがよくわったそうですが《今、私たちは十四、五世紀くらいに産声をあげた長い、一つの時代の終焉に立ち合っているといえるかもしれない》と書かれていましたことを思い出します(p.224)。

あとがき
荘園史は学会での流行のテーマではなく、大家による荘園史研究が膨大にあるため、刊行には5年かかったとしていますが《網野善彦氏によって切り開かれた非農業民の問題もほとんど取り入れる余裕はなかった。非農業民よりも前に、農業民のほうがわからなくなっているのが現状と思う》というのも印象的。
 在地領主の寄進によって成立したと考えられてきた中世荘園の形成に院政の権力が深く関わった「立荘論」の首唱者である川端新氏についても触れられています。

第一章 律令制と初期荘園
第二章 摂関政治と免田型荘園
第三章 中世の胎動
第四章 院政と領域型荘園
第五章 武家政権と荘園制
第六章 中世荘園の世界
第七章 鎌倉後期の転換
第八章 南北朝・室町時代の荘園制
第九章 荘園制の動揺と解体
終章  日本の荘園とは何だったのか

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"Blitzscaling: The Lightning-Fast Path to Building Massively Valuable Companies"

Blitzscaling

"Blitzscaling: The Lightning-Fast Path to Building Massively Valuable Companies" Reid Hoffman, Chris Yeh

ジムで筋トレ後の有酸素運動でエアロバイクをこぎながら、英語のサビ落としを目的にAudibleで聞いている本の11冊目。

Blitzscalingは成功したIT企業などが採用した、成長最優先で巨大な市場シェアと高い利益率を達成し、短期間で巨大企業になるための戦略です。第二次大戦のドイツ軍が採用した電撃戦(Blitzkrieg、ブリッツクリーク)を模したもの。

"TRANSACTION MAN: The Rise of the Deal and the Decline of the American Dream"Nicholas Lemannで紹介されていたPayPal、LinkedInの創始者でエンジェル投資家のリード・ホフマン(Reid Hoffman)の本ということで「聴いてみるか」と思ったのですが、正直、それほど面白くはなかったというか、中国のIT企業を礼賛していたりして、此の世の移り変わりのスピードの早さに改めて驚かされます。Chris Yehと共同執筆した本で、スタンフォード大学の授業に基づいています。

なにせ、PayPalはピーク時に1日あたり10%成長していたそうです。つまり、毎週、PayPalはユーザーベースを2倍にした、と。このような成長が1か月続けば、顧客は16倍に増加します。これが電撃的なBlitzscalingによる指数関数的成長です。

Blitzscalingは、急速な成長がもちろん含まれますが、企業は常に持続可能である必要もある、と。さらに、すぐに巨大企業に到達したい場合は、4つの成長要因を最大化する必要があり、製品と市場の適合性と運用の拡張可能性(scalability)という2つの障害もある、というのがサマリーでしょうか。

企業が数か月で1億人のユーザーを獲得すると副作用が発生する可能性があります。そのため、ホフマンは、この成長を生き残り、成功裏に成熟するために必要なことを説明するためにBlitzscalingという言葉をつくった、と。それは指数関数的成長中にも持続可能性を確保しながら、成長するプロセスだ、と。

以下の4つの成長因子をうまく組み合わせると、Blitzscalingにつながる可能性がある、と。

1)ネットワーク効果。ただし、ネットワーク効果は、製品が市場で広く採用されるまで機能しません。
2)市場規模。スタートアップ企業はニッチを選択して支配する必要があります。オンラインでない場合は、すぐに成長の限界に直面します。
3)流通(Distribution)Amazonは米国郵政公社など既存の流通ネットワークを選択したり、PayPalが10ドルのサインアップボーナスを行った、と。
4)粗利益率の高さ。取引後に残っているお金が多いほど、再投資することができます。

ユーザーが何を望んでいるかを推測するのは難しく、リリース後に製品を調整しなければならない可能性は高い。PayPalはコア戦略を4回切り替え、Instagramは画像共有だけに移行しましたが、創設者は進んでそうしたことを行う必要がある、と。

もうひとつの要素は運用の拡張可能性(scalability)。製品をより多くの人々に提供するためにはインフラストラクチャ、従業員、リソースが必要で、最初にこれらの問題に対処する必要がある、と。

サブスク、無料戦略(無料ほど安いものはないわけで)などをつかって、いまやBlitzscalingが可能になった、と。

そして、成長レベルは家族->部族-> 村-> 都市-> 国家という5つの段階があるとか、「顧客は常に正しい」という姿勢は採用すべきではなくカスタマーサービスはできる範囲で行うべきだ、なんていうのも印象的。

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『古代史講義【氏族篇】』

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『古代史講義【氏族篇】』佐藤信、ちくま新書

 勉強不足のせいで、不案内な情報が多く、遅々として読書は進まなかったのですが、読後は目からウロコの話しばかりだった印象。

 古代の列島は氏へ結集する豪族よりも官僚を重視する律令制度へと変わっていくわけですが、それにしても氏姓制度というのはイマイチ分かりにくい。氏(ウジ)の名は蘇我のように居住地によるものと、物部、中臣、忌部、土師など職業の名によるものとがあり、氏姓をない者は皇族と奴婢だった、と。でも氏は臣、連などの姓(カバネ)をもって政務に参加とか、いまひとつスッキリわからない。

 全15講の最初の大伴氏の説明では、氏族は族長を頂点として血縁集団としてまとまり、共通の祖を持つ氏であるとともに、王権から氏の名前と姓をもらって職掌を果たす政治的集団である、としています(p.12)。

 続いて皇別のウジには臣のカバネ、神別のウジには連のカバネが与えられたが例外も多いとして、物部氏の職掌の説明に入っていきます(p.36)。これよると物部氏は武器・祭器の製作にあたっていた生産技術集団で、そこから軍事・警察的役割を果たし、派生的に祭祀的性格も持った、と。

 物部氏と蘇我氏の対立は、通説では仏教をめぐるものとされていましたが《大臣系氏族と大連系氏族の派閥争い、政争》とみるべきだそうです(p.58)。また、乙巳の変で討たれたのは本宗氏だけだというのもなるほどな、と(p.60)。

 阿部氏では皇別が皇族から分かれ、神別は神々の後裔だと説明されます。畿内では平安以後は衰えるものの、東国や東北では名門の安倍氏となる、と。

 佐伯氏では宿禰(すくね)・連・直・造・首というカバネが説明され、宿禰が最も地位が高い、と。佐伯氏は宮城の警護などの大伴氏とセットになっていることが多く、元日朝賀では門の左に大伴氏、右に佐伯氏が配置された、と。乙巳の変では佐伯子麻呂が蘇我入鹿を斬るなど、様々な内乱・政変に絡んでいるのも印象的。

 紀直氏は紀伊国北部の豪族としての権威を持ちながら中世的荘園領主へと変貌します。伊勢が、軍団の集結場所だということを知りました。日本史のプロの方には常識なのかも知らないけど北畠親房ら劣勢の南朝勢が伊勢から船を出して東国を目指したというのはノスタルジーだけでなく、インフラ的にも昔から使われてきたからなのかな、と。

 摂関時代の藤原氏(九条流・小野宮流)では、中宮は皇后の別称であったり、今帝の正后を中宮、選帝の正后を皇后と称したり(p.217)、道長の娘彰子が一条天皇の女御となった時は、第一皇子を産んでいた定子が皇后、彰子が中宮に立てられていたとか、いろいろあったんだな、と(p.219)

 おわりに《律令国家のもとで律令官僚制が導入されても、前代からの氏姓制も社会的に遺り、氏族の存在は無視できないものがあった》(p.279)とあり、貴族たちは娘を入内させることに血道をあげ、軍事貴族たちは在地の有力者の娘を娶り、中央と往復して継続して受領してもらう、ようになったと。

第1講 大伴氏(伴氏)
第2講 物部氏
第3講 蘇我氏
第4講 阿倍氏
第5講 藤原氏(鎌足~奈良時代)
第6講 橘氏
第7講 佐伯氏
第8講 紀氏
第9講 東漢氏と西文氏
第10講 菅原氏(土師氏)
第11講 藤原北家
第12講 摂関時代の藤原氏(九条流・小野宮流)
第13講 源氏
第14講 平氏
第15講 奥州藤原氏

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『万葉集に出会う』

『万葉集に出会う』大谷雅夫、岩波新書

 万葉集でも名高い歌の読み方がいきなり違うという衝撃からスタート。

「石走る垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも」

 教科書にものっているいかにも万葉集らしい歌は、賀茂真淵が研究をまとめた江戸時代以前は、そのようには読まれてはおらず、定家も違って読んで実朝に教えていた、と。万葉集は時代が勝手に内容を解釈していた誤読の歴史があるとよく言われていましたが、それ以前の問題として読み方さえも違う、と。

 というのも万葉集は漢字でカナを表していているから。さわらびの歌も万葉仮名では「石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」と書かれています。「かも」が「鴨」なのは微笑ましいんですが、「つつ」をニワトリの鳴き声とみたてて「喚鶏」と表記するなんていうこともやっています(p.9)。まるでヤンキー漢字の「夜露死苦」のようにシャレを効かせて表現しようとしたりする例もあることに驚愕。

 で、問題は「石激」を「石ばしる」か「石そそく」と読むか。というより、古代の人たちが「激」という漢字ををどう読むか。

 鎌倉時代の写本には「ソソク」と訓点されている例などもあるのですが、江戸時代には、そうした読み方が忘れられていってた、と。つまり、江戸時代の賀茂真淵には「石そそく」感覚がなくなり、他の例から強引に「石ばしる」と読んでしまった、と。

 さらに、季節に沿って並べる古今的手法が未成熟だったので、天智天皇の志貴皇子という古人の歌を巻八の冒頭に置いてしまいその結果、滝を意味する垂井(たるい)を、つららの垂氷(たるひ)とさまざまな写本がつくられる過程で勘違いされ、年明け早々の歌としてさらに誤解が進んだという流れも素晴らしい。

 ただ、蕨がよく採れるのは初夏だから、その季節の歌というのはどうなんでしょう。京都の美山山荘などでは、春のかなり浅い時期から、出していたような気がしたんですが、どうなんでしょうか。早蕨(さわらび)だから、小さな早い時期の、みたいな…などと考えながら読んでると進まない。

 さらに柿本人麻呂の有名な歌「東野炎立所見而反見為者月西渡」も「東の野の 野のにかぎろいの 立つみえて かへり見すれば 月かたぶきぬ」という賀茂真淵の解釈で誤読が流布されているのです、こちらもが「ひむかしの 野らにけぶりの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」が正しい読み方だ、ということで驚愕。

 万葉集と古今和歌集の作品を対比させて「ますらをぶり」と「たをやめぶり」と単純化した賀茂真淵と本居宣長の批評以前の問題というか、読み方自体も誤読だったのか、ということになると、日本的ナショナリズムの根源が崩れるような話し。

 ということで《万葉人が読んでいた『万葉集』の形を求めて、追究はまだまだ続く》と。

 長歌は五七調で、歌舞伎のセリフは七五調。五音句の難しい言葉はたいてい枕詞。枕詞は語りを荘重にするのが狙いなので七音句だけで内容はわかるというあたりも目ウロコ(p.123)。

 防人の歌のように《親への思慕を詠うのは、じつは古代の詩と歌にはきわめてまれ》だったという指摘にも驚く(p.179-)。あと「母」を「あも」と読むこともあるのは朝鮮語のオモニと似ているというか、同じ系統なのかな?

 この本を読んでいて、宝塚の芸名で良いのも思いつきました!それは「水深千尋(みなわ・ちひろ)」

水沫(みなわ)なすもろき命も栲縄(たくなわ)の千尋(ちひろ)にもがと願ひ暮らしつ(山上憶良)

自分で使うあてはありませんが、友人から「娘が万が一入団したら使わせてくれ」と言われて嬉しかった。

楽しいな パリピピリピリ ピッピリピ 昨日の記憶一切ねぇわ

 俵万智さんなどが選んだ『ホスト万葉集』も、現代の市井の人たちの心を集めようとすると、百人一首でも古今、新古今でもなく万葉集とつけたくなるのは、本の中に紹介されている冗談のような歌、庶民の感情なども歌われているからでしょうか。

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