書籍・雑誌

January 27, 2021

『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』加藤陽子、朝日出版

Sensou-made

 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の続編という感じで、満州事変のリットン報告書、日独伊三国同盟、開戦前夜の日米交渉を取り上げ、一次史料を応募してきた中高生(一部、教諭)たちに事前に学習してもらい、研究者としての知見も披露した上で、質疑を交えながら加藤陽子先生が解説していくという講座をまとめたもの。

 2016年の8月に購入して読了、ざっくり面白かった3章を中心にレヴューをあげていたのですが、全体をまとめてるのは忘れていました。

 改めてドッグイヤーの箇所を拾い読みすると、最後の日米交渉が改めて出色の出来でした。ドイツが侵攻したことで、ソ連が瓦解しては困るユダヤ出自のモーゲンソー財務長官らの対日強硬派が「どうせ日本は仕掛けてはこない」として、日本と融和的なハルとローズベルトが夏期休暇中に管轄する外国資産管理委員会の権限で独断的に資産凍結と石油の対日輸出を全面禁止にしてしまったというあたりはスリリング。そして日本の国策を事実上、決めていた左官クラスが最悪の事態を考えていたようで、実は両論併記的に逃げているだけだったので、不意を突かれて対米英戦争に突き進んだ、みたいな構図が理解できましたた。つまり、真珠湾は日米双方の誤解が重なった結果だった、みたいな。

 そして、ペンタゴンのヨーダと呼ばれたアンドリュー・マーシャルは1)ドイツ軍はなぜ開戦当初。兵力で上まわる英仏連合軍に電撃戦で圧勝できたのか2)なぜ日米双方とも暗号を読み合っている中、真珠湾攻撃をふせげなかったのか、という二つの問題を考え続け、現実のソ連や中国の評価にフィードバックしていたそうです(p.279-)。このThe Last Warrior(邦題は『帝国の参謀』)は次に「聴いて」みようと思いました。

 現在にひきつけて読むと、日独伊三国同盟締結を承認する御前会議で天皇=原枢密院議長は米国が石油を禁輸したらどうする、と質問すると、松岡外相は国際連盟を脱退した時も日本に武器を売り込みにくる輩がたくさんいたと反論した、あたりが面白いかった(p.242)。確かに、最初の頃はそうだったかもしれないけど、本気を出されるとどうなるかまでは予想できていなかった、と。今の世界だと日本の石油=中国の半導体になるのかな、とか。

 この本の出た2016年は戦後70年でしたが、70年というのは、人間が健康で生きていることのできる平均値だみたいなことも書かれていて、妙なところで胸に迫るものもあったかな。

 以下、箇条書きで。

[国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき]

・日中関係が悪化していた時代、中華民国の憲法の大家となった張知本は、軍事権力を憲法でなんとか抑えようとして美濃部憲法学を批判的に受容していた(p.46)

・世界恐慌→列強のブロック化→日本も真似してブロック化するが失敗→武力を背景とした経済侵略という物語は、日本と植民地の関係を描いておらず、輸出など日本経済は強かった(p.54-)

・和辻哲郎は「国家は戦争において形成され、育成する」と書いているが、日本も白村江の戦いに負けて「日本書記」などを書いて国家として出発し、太平洋戦争に負けて新憲法を発布した(p.69)。そしてヘロドトスもトゥーキュデデースも戦争を描いて歴史の始まりとした(p.71)

・尊皇攘夷派は明治維新後「万国公法に従って交際を求めてくる相手を拒絶するのは古来の仁義に反する」と立場の変更を民衆に説明したが、こうした説明を国民にしなければならなくなったのが近代の証し(p.79)

[「選択」するとき、そこでなにが起きているのか リットン報告書を読む]

・人間が殺し合いをしてきた理由は恐怖と名誉心(p.108)

・リットン調査団が目指したのは日中が話し合いをする素地づくりで、それを国際連盟として提案すること(p.117)。ちなみにリットンは二人の息子を第二次世界大戦で戦死させている(p.131)。

・リットンは満洲への関東軍の無期限駐留はコスト的に高く付くとして、現在のPKOのような組織をつくってソ連や中国から守ることさえも提案している(p.173)。日本はこの提案をのんで、満州の権益を固持しながらも国際的により開放的な満州経営をしていく可能性はあった。

・昭和天皇は満州国のトップに張学良をおいてはどうかと荒木貞夫や真崎甚三郎に提案している(p.183)

・結果的に国際連盟を脱退する演説をしてしまった松岡洋右だが、当初は内田外相に「日本人の通弊は潔癖にあり」として八分目でこらえることが肝要だと電文(p.187)、日本の主張が受け入れられない場合は国際連盟がこの問題から面子を保って引き下がるように誘導することを目指した

・しかし、内田は国際連盟との妥協よりも、中国との直接交渉に活路を見出そうしてして失敗(p.194)

[軍事同盟とはなにか 二〇日間で結ばれた三国軍事同盟]

・1931年の満州事変とリットン報告書、1941年の日米交渉と太平洋戦争、その間になされた最も重要な決定が1940年の日独伊三国同盟で、その目的はヨーロッパと日中戦争にアメリカを介入させないこと

・同盟の必須要素は仮想敵国、参戦義務、勢力圏

・ソ連のポーランド、フィンランド侵攻とバルト三国の併合が行われる中で三国同盟は結ばれるが、ヒトラーの目的はイギリスへの圧迫強化。そのため9月からイギリスへの猛爆が始まり、日本にスターマーを使節として送り、20日間で条約完成

・日独伊三国同盟締結を承認する御前会議で天皇=原枢密院議長は米国が石油を禁輸したらどうする、と質問すると、松岡外相は国際連盟を脱退した時も日本に武器を売り込みにくる輩がたくさんいたと反論した、と(p.242)。今の世界だと日本の石油=中国の半導体になるのかな…

・日独伊三国同盟締結の前月(40年8月)、米国はようやく建国以来の志願兵から12ヵ月の徴兵を可決したばかりだった。しかも1年後に1票差で継続が決まるなど、戦争体制づくりは進んでおらず、共和党大統領候補は欧州派兵に反対していた。

・《日本やドイツなど、伝統的に徴兵制を採用していた軍隊を持つ国にとって、アメリカ陸軍は烏合の衆に見えてもおかしくはなかった》(p.249)。米国の準備不足が目立っていた上に、欧州戦争に巻き込まれるのを国民が嫌がっている最高の瞬間を狙ってたった20日で締結したのが日独伊三国同盟だった、と。

・日本は「バスに乗り遅れるな」ということでドイツとの同盟締結に走ったのではなく、その瞬間ならフランス、オランダ、イギリスが持っていた資源を手に入れられる=ドイツによる東南アジアの植民地再編を封じることが可能だったから(p.277)

・中共の勢力拡大を恐れた蒋介石は「桐工作」に乗って講和を進めようとするが、汪兆銘政権を承認しないという約束を交わしたのに、日本が承認してしまったためご破算に。

・ロンドン軍縮会議で5:3の海軍力をのんだ時点で、日本はアメリカと対抗する道を諦めなければならなかったし、その後の敗北を陸軍は明確に予想していた

・太平洋戦争末期、日本兵を南洋諸島で一方的に虐殺しまくった無敵の米軍というイメージが強すぎるために、烏合の衆というような見方はジョークとしても思いつきませんでした。また、当時の西部戦線でドイツと戦っているのはイギリスだけで、ドイツ空軍が英本土を爆撃しまくるバトル・オブ・ブリテンの真っ最中。誰の目にもイギリスの劣勢は明らかでした。

・そうした孤立無援の中で、チャーチルはローズベルトに英艦隊が独軍の手に落ちたら、それを使って米を脅すだろうと突きつけ、駆逐艦50隻の供与を勝ちとりました。凄腕です。もしそんなことになったら、太平洋には日本の帝国艦隊がいるわけですから、米国は挟み撃ちに遭うわけで、駆逐艦ぐらいは供与しますよね。また、三国同盟に関する関係官庁の課長級の会議(日本では課長級会議が実際上の政策決定を行います)で陸海軍、外務省の担当者が気にしていたのはほとんど、ドイツが進出して仏蘭インドシナを奪われないかなどの「戦後」対策。「バスに乗り遅れるな」という雰囲気はなかった、と。

・つまりこの同盟(1940年9月調印)はアメリカの参戦抑止を目的に締結されたものだが、アメリカを刺激し日本への石油、鉄の輸出禁止などの経済制裁が大いに懸念されており、陸海軍省の上層部や枢密院議長だけでなく、作戦を担当する統帥部の上層部も強い不安を抱いていた、と。その一方で陸海軍の左官級の実務を握る中堅層では彼らの考えでは、大戦終了後にイギリス、フランス、オランダの東南アジアにある植民地がすべてドイツのものになり大東亜共栄圏実現の支障になるので、今のうちに同盟を結び東南アジアは日本の勢力圏であることを明らかにしてドイツを牽制しておくべきとの考えが強く、日本からドイツに対して同盟の交渉を呼びかけてしまった、と。

[日本人が戦争に賭けたのはなぜか 日米交渉の厚み]

・日米交渉は1941年4月から最後通牒のハル・ノートの11月26日まで行われた。三国同盟締結の半年後に交渉が行われたのは、日中戦争の局面打開に米国の仲介を目論む日本と、ドイツの攻撃に苦しむイギリス支援のための作戦展開に向けた時間稼ぎという米国の思惑があったから(イギリス向け支援物資の援護に海軍を使わなければならず、太平洋方面は安定を望んでいた)。

・交渉はアメリカの交渉担当者であるハル国務長官による日米諒解案を元にスタート。日本は7月に松岡外相を更迭し元海軍大将で外相経験ありそしてローズベルト大統領と古い知己の間柄の駐米大使野村吉三郎を抜擢、場所は国家主義団体を警戒して終始ワシントンで行われた。ちなみに日米双方とも暗号はほとんど解読していた。

・日本は自ら戦争を仕掛けたとは思われたくないという行為を反復してきた。被動者の立場で、両論併記の文書を用意して状況が好転するのを待つというスタイルは日清戦争から(p.373)。

・7月には、米国は全面禁輸に踏み切らないだろうという目論見で南部仏領インドシナ進駐が行われた。これはドイツによるソ連攻撃の1ヵ月後で、ソ連が瓦解しては困るユダヤ出自のモーゲンソー財務長官らを刺激し、ハルやルーズベルトが不在の間に、自ら管轄する外国資産管理委員会の権限で独断で資産凍結と石油の対日輸出を全面禁止にしてしまった。

・事態打開のため近衛首相はローズベルト大統領にハワイでの首脳会談を打診し内諾を得たが、野村大使が米国メディアに会談のことを漏らしたために、日本の右翼国家主義団体が猛烈に反発。近衛暗殺や米国大使館襲撃事件計画などが発覚して、近衛とルーズベルトの会談は流れた。これは幕末に開国派の井伊大老が日米修交通商条約を無勅許で結んだ時に一気に爆発した尊王攘夷運動を似ている、と

・ハル・ノートの直前に日本が南部仏印から北部仏印まで退けば対日禁輸の一部を解除するという腹案をハルは持っていたが、チャーチルと蒋介石が反対したため諦めた

・最後通告の電報は全部で14通あり13通までは12月6日の早い時間にワシントンについたが、最後の大事な14通目は陸海軍の統帥部がぎりぎりの30分までは送るなと外務省に要求し外務省はその要求をのんだ。また、天皇宛のローズベルト大統領の12月6日午後9時の親電も陸軍は15時間も東京中央郵局に留め置くように指示し、アメリカ大使館に届く時間を引き延ばした。

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January 12, 2021

"Black Earth" Timothy Snyder(邦訳『ブラックアース ホロコーストの歴史と警告』)

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"Black Earth" Timothy Snyder(邦訳『ブラックアース ホロコーストの歴史と警告』)

 Audibleでエアロバイクこぎながら聞いた4冊目の本です。なんか邦訳は読まないでいたんですが、せっかくなんで原書を聞いてみました。

 なぜナチスドイツのように常軌を逸した残虐なユダヤ人虐殺が行えたかについては、官僚主義がそれを可能にしたという議論がありますが、スナイダーは「ヒトラーがユダヤ人との闘いはエコロジカルな問題だったと考えたから」と別な理解を試みます。そして、それが実際に行えたのは、ソヴィエトとドイツに二重に占領されて国家が機能を失った地域があったから、ということが歴史的経過とともに描かれています。

 ヒトラーの問題意識は、第一次世界大戦での連合国の封鎖中に50万人の死者を出したドイツの食糧供給不足を克服することでした。そのためには収穫量を改善するという、ある意味、自然に反する「緑の革命」よりも、広大な耕作地を持つアフリカと東ヨーロッパを征服する方がいい、というもの。そして、そこにはどちらも排除されるべき劣った人間以下が住んでいたと考え、東欧ではまずポーランド人、ウクライナ人、ベラルーシ人などスラブ人を従わせるような人種差別的な社会を作ろうとした、と。

 あるインタビュー記事でスナイダーは、ユダヤ人研究者による科学的な土地管理がドイツを肥沃にするという主張は、ヒトラーにとって「ユダヤ人が科学と政治を誤って分離したもので、進歩と人類のために紛らわしい約束をしていると考えた」としています*1。ヒトラーのエコロジカルな思想によれば、ドイツの自然環境が自分たちを養うことはできないから東部の肥沃な土地を必要としているだけなので、結果的にヒトラーは自然状態を血の海の中で作り出した、と。申し訳ないけど、こうした狂気は現代の環境ヲタクにもどこか通じるかも。

 そうした中でヒトラーにとってユダヤ人は普遍的でグローバルな敵であり、スラブ人のような単に劣った人種ではなく「非人種」であるという別のカテゴリーに分類されていたことも重要だった、と。バルバロッサ作戦の後、SS警備隊のタスクフォースとアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen、ドイツの保安警察 (SiPo) と保安部 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方でユダヤ人など敵性分子を銃殺するために組織した部隊)は占領地域に住むユダヤ人を銃殺し始め、それは移動式ガス車の導入とベルゼック、ソビボル、トレブリンカに固定式ガス車センター開設へとエスカレート。毒ガスを伴うアウシュビッツは、このプロセスの集大成でした。

 そして、こうしたことが効率的に実行できたのは東ヨーロッパに地元の協力者がいたからで、一部はナチスが来る前にソビエトの秘密警察とも働いていて、ウクライナでの大量虐殺などは「共同創造物」とさえ見なすことができる、と。ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国では、ソ連が地元の政治機関を弱体化させることによって、ユダヤ人虐殺を準備した、ということが時間経過とともに描かれていきます(こうした主張に対してキリスト教の反ユダヤ主義の伝統がホロコーストを生んだことを過小評価しているという非難も出てきているようですが)。

 スナイダーは国家の問題を強調し「無国籍地帯」が現出したことで殺害が盛んになったとしています。ほとんどのユダヤ人は、君主制が率いる国の機関が残っていたベルギーとデンマークでは殺害されることを免れ、反ユダヤ的なヴィシー政権でも戦争を生き延びました。とてつもない出来事であるホロコーストを理解しようとするあまり、それを引き起こしたのは官僚的な国家だという一見、冷静な主張に対して、スナイダーはホロコーストは国家の欠如がもたらした、と主張していきます。反ユダヤ主義のレベルが著しく低かった国よりも、戦前に反ユダヤ主義のレベルが最も高かった国で死亡したユダヤ人の数が少ないことを研究が示しているパラドックスは、反ユダヤ主義それ自体がホロコーストの原因ではなかったから、みたいな。実際、ソ連とナチスによる占領によって国家体制が破壊されたエストニアと形式的にも維持されたデンマークを比べると、どちらも根強い反ユダヤ主義はあったものの、エストニアでは居住していたユダヤ人の99%が殺害され、デンマークでは市民権のあったユダヤ人の99%が生き延びた、としています。

 倫理的に反ユダヤ主義を批判するよりも、形式的な国家のあり方を問題にした方がいい、みたいな。これは確かに秀逸な議論で、あるインタビューで、スナイダーは「パスポートは防弾チョッキみたいなものだ」とも語っていました(ただし、1944年の上陸作戦が失敗したり、バルジの反攻が成功して戦争が長引いた場合、どこでも殺害が起こった可能性はあるかな、とも思いますが)。

 ただし最後の章で、スナイダーがホロコーストを「エコロジカルなパニック」として説明し、地球温暖化などについて言及しているのは疑問。中国やロシアはヒトラーがそうであったように、アフリカやウクライナを侵略しているのかもしれませんが、それは本当にホロコーストから学ぶべき教訓でしょうか。歴史的な議論を「我らの環境」的な議論に結び付けることはスナイダーの価値を落としたかもしれない、と感じました。『赤い大公』には興奮したし、『ブラッドランド』は凄いと思い、トニー・ジャットの聞き手となった『20世紀を考える』には唸りましたが、『ブラックアース』はどうも海外の評判がイマイチだな、と感じた原因はここらあたりかも。高い上下巻の邦訳を読まなかったのは正解だったかもと感じましたが、ヒトラー的恐怖症、不安症候群は、中共などが主導する限られた資源をめぐる闘争として現代の世界にも残っているのも事実かな、と。

 前作『ブラッドランド』でもソ連が1930-40年代にウクライナで意図的な飢饉をつくり、ナチスによるヨーロッパのユダヤ人の虐殺を可能にした、としています。今思えば、大量殺戮を食糧不足と資源の減少に結び付ける最後の章は、こうした傾向が『ブラッドランド』の隠されたモチーフだったのかもしれない、と思わせます。スターリンの赤軍粛清も含めてソ連がつくった裏口からナチスは入ったんだ、と。

 そしてポーランドと反ユダヤ主義の歴史に関する章は詳細です(ここらあたりも伝統的なホロコスト研究者は不満なようです)。

 ポーランドはユダヤ人が人口のほぼ3分の1を占めていたため、問題をさまざまな方法で解決したいと考えていた多くのポーランドの政治家やシオニスト運動、第三国定住、ユダヤ人国家の創設を促進しようとした人々について語られます。

 1930年代後半のドイツとポーランドの関係、ポーランドとポーランドとユダヤの政治の複雑な問題、特にポーランドのシオニストの浮気(ウラジミール・ジャボチンスキーの修正主義運動)などはもっと知りたいと思いました。

 とにかく、こうした章でスナイダーは私たちをポーランド政府の指導者たちと共に、パレスチナに関するドイツとポーランドの政策に関する時代、ポーランドの右翼シオニズム、イスラエル国家の概念に対するポーランドの関心、そしてドイツの計画への対処をみせせてくれます。ポーランド警察はナチのユダヤ政策の先兵となり、最初に粛清されたのはポーランド人エリート。ユダヤ人は排除されただけでした。

 もちろん、ポーランドではすでにゲットーにユダヤ人が集められていたという条件が、ヘウムノでガス車の使用が始められ、ガス使用の技術的改良とベルゼック、ソビボル、トレブリンカでの死の工場設立につながりましたが、ヒトラーは1938年にマダガスタルを含む地域にユダヤ人を移住させる計画立案を裁可しています(オリジナルのアイデアはもっと古くからあります)。仏領マダガスタル移住には英国の協力が必要だったし、イギリス軍と自由フランス軍が1942年にヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことでこの計画は終焉を迎えましたが、その時、すでにポーランドでは、ユダヤ人はゲットーに集められていました。彼らをマダガスタルやシベリアに国外追放することが不可能になったことで、国外追放はの代わりに死の工場を作ることになった、という流れだ、と。

 イスラエルの戦争部隊、イルグン=エツェルは1931年に創設されましたが、最初はポーランドから支援受けていました。指導者は最初ジャボチンスキーでしたが、彼の死後は後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギンが後継者に。イルグンはパレスチナ内戦、第一次中東戦争では主流派ハガナーによるアラブ人住民追放計画の一端を担い、デイル・ヤシーン事件などアラブ人住民の虐殺も起こしたりします。

 また「ウクライナ人の中には、さまざまな方法でユダヤ人の根絶に参加した人もいました。ユダヤ人を集めてそれらの場所に連れて行った人もいれば、そこで銃撃した人や、ポグロムに参加した人もいました。そして、ウクライナ人の一部は、後にホロコーストの結果から生じるユダヤ人の財産または他のさまざまな方法を利用しました」というウクライナでの議論も印象的でした*2。

 結論での、ヒトラーはスラブはアメリカインディアンみたいなものだと思っていた、というのは驚きます。ヒトラーはヴォルガ川をミシシッピー川になぞらえ、ネイティヴアメリカンをスラブ人という図式を立てた、と。


*1
https://www.prospectmagazine.co.uk/arts-and-books/the-auschwitz-paradox-an-interview-with-timothy-snyder
さらにヒトラーの政策は「グローバリゼーションへの対応でした。ヒトラーは、限りある資源の世界で実際に起こっているのは、人種が土地を求めて、したがって食糧を求めて競争するべきだと言っていました。そしてこれが私たちの自然条件であり、これは自然の法則です」と語っています。そして「ますます無政府状態のゾーンがつくられていく中で、最終解決策が実際にできる方法を実験することになった」。ホロコーストは、人間が短い距離で人間を撃つ、ソ連での出来事から始まった、と。

また、ボルシェビキはユダヤ人であるというユダヤ・ボリシェビキの考えは、ヒトラーの妄想とソ連侵攻を結びつけた、と。


*2
https://ukrainianjewishencounter.org/en/timothy-snyder-double-occupation-eastern-europe-second-world-war-made-holocaust-possible/

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『テアイテトス』プラトン、渡辺邦夫、光文社古典新訳文庫

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『テアイテトス』プラトン、渡辺邦夫、光文社古典新訳文庫

 去年、コロナの流行り初めの頃、面白くないのでプラトンを光文社古典新訳文庫で読み直していたんですが、また、宣言などが出て、面白くない状況になってきましたので、まだ、まとめていなかた『テアイテトス』のことでも書いてみようか、と。

 小説ではないので、一度、読んだ本は気に入ったところの引用などをしつつ、まとめておかないと、何を読んだのかも忘れてしまうので書いているんですが、ここまで書かなかったのは、やっぱり、あまり面白くなかったから。

 本書は討論相手のテアイテトスの「知覚が知識だ」という提案が例によって否定されるんですが、それはプロタゴラスの相対主義だけでなく、ギリシャで支持を集めていたもうひとつの有力哲学説である「流動説」とも結びつく内容でしたので、それについての吟味がなされるというあたりまでは面白かったんですよ。

 しかし、有望だった「知識とは、説明規定つきの真の考えである」という考え方も否定され、結論は「したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる」という全否定。訳者の解説によると、議論は次の『ソフィスト』に持ち越されるという、随分、中途半端な幕切れなんですね(まあ、対話編はだいたいそうだと言われればそうなんですが)。

 この「説明規定」は「ロゴス」の訳語。「ロゴス」は《言語的な要素が深くからむ人間の歴史と、言語にかかわる側面が強い学問・知識の成り立ちを、語義に反映する言葉で》あり、「心のなかにつねに埋め込まれている、言語的な原初構造」という考え方にも関係してきます。「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という定義も否認されるのですが、その原因は《文字の読み書きや音楽といった、(話され、聞かれる)母語修得以後の初歩的学習からとられていたことにあります》。

 プラトンの原則《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《現代哲学の「ラッセルの原理」に相当する原理である。バートランド・ラッセルは、判断ないし想定について、判断者は判断の項すべてを知って(beacquaintedwith)いなければならない、と考えた》ことにも通じる、というあたりは面白かったかな。

以下は箇条書きで引用します。

[訳者まえがき]

《著者プラトンは、かつて自分が書いた初期の比較的短い作品群のなかで、「勇気とは何か?」(『ラケス』)、「節度(健全な思慮)とは何か?」(『カルミデス』)、「敬虔とは何か?」(『エウテュプロン』)、「美とは何か?」(『大ヒッピアス』)、「愛(友愛)とは何か?」(『リュシス』)、「徳とは何か?」(『メノン』)というように、もろもろの徳や徳に関係する価値を主題にして、ソクラテスを一方の対話者とし、かれが対話の相手に質問しながら議論するという趣向の対話篇を書きました》

《つぎにプラトンは、『パイドン』と『饗宴』に始まる中期作品群で、そのような否定的結論の作品と、いったん訣別しました。いわば一八〇度書き方を変えて、「プラトン主義」の源とみなされる数多くの積極的な(そして時に大胆な)主張を提出しました。しかし、その中期の最後の作品である本書『テアイテトス』は、もういちど初期の対話のスタイルに一時的に戻った作品です》

《自分が何をどの程度学ぶかで自分の運命全体が変動し、自分が社会に貢献できる事柄と、社会自体のあり方も変動しうるのです》

《中期の大著『ポリテイア(国家)』は、若者を段階ごとにどのように鍛えて、正しい知識に基づく人間形成と理想の共同体の建設を図るかということを、登場人物の「ソクラテス」に語らせる、壮大な作品です》

[導入部 テアイテトスとの対話]

《産婆は妊婦の身体に薬となるものをあたえ、まじない唄を歌って陣痛をひきおこし、必要を感じれば苦痛を和らげることもできる。また、産むのに難渋する女性が、なんとか産むようにすることもできるし、あるいは、胎児が早い時期で、流産させるのがよいと思われる場合には、流産させる》

註5《「かたち」と訳したのはeidosという名詞。日常的には「かたち」や「種類」という意味。プラトン初期では、たとえば徳目の「敬虔」について、「敬虔とは何か?」と対話相手のエウテュプロンし定義的説明を問うソクラテスは、さまざまな敬虔な行為など「多くの敬虔なもの」を一つにまとめあげる「かたち(エイドス)」を求めている、とエウテュプロンに説明した(『エウテュプロン』六D)。つづく『パイドン』『ポリテイア』などの中期のイデア論では、美や正義や等しさなどのイデアを表すひとつの表現として、このeidosが用いられる》

註7《プラトンの初期対話篇でソクラテスが主導する対話はほとんどの場合、対話の相手を難問(aporia)で困惑させ、主題となる徳や美や愛について、相手が「知っていたと思っていたが、じつは知らなかった」という消極的結末に至ることで終わる。「ソクラテス的論駁」と呼ばれ、積極的結論は導かれない》

註10《原語はeidola(eidolonの複数形)で、像のうち、実在の本質を映さないみせかけという意味》

[第1部 ]

《不思議に思うこと(タウマゼイン)は、知恵を愛する者に固有の経験》

《全体はそもそも動きであり、それ以外には何ものもない。しかし動きにも二つの種類があって、そのそれぞれが無数あるが、一方は作用しうる[生ませることができる]もの、他方は作用される[生むことができる]ものである。そして、[まったく新しいものを生み出す]これら同士の「交渉」と「相互の摩擦」から、数において無数の「子孫」が生じるのだが、それら子孫はすべて双子をなしており、一方は知覚されるもの[という子孫]、他方は知覚[という子孫]である》

《その一方で、知覚されるものの種類は、これらのそれぞれと生まれが同じであり、多種多様の視覚に対しては多種多様の色があり、多種多様の聴覚に対しては同様に、多種多様の音声がある。そしてこれら以外の知覚にも、それぞれ知覚されるものが、ペアとなるそれぞれの知覚と生まれを同じくするようなものとして、生じるのである》

《なにものも、それ自体としては一つのものではなく、「なにかにとって」つねに「なるところ」なのである》

註1《知覚している」の原語はaisthanesthaiで「感覚している」とも訳せる》

註2《「知覚」の原語はaisthesis。「感覚」とも》

註6《原語はphainetai(不定法はphainesthai)。「あらわれる」「みえる」「思われる」と訳せる動詞。これの名詞はphantasia「あらわれ」(ほかの哲学者の文脈では「表象」「想像力」という意味になることもある)で、ここでは知覚と区別されないが、つづく『ソフィスト』二六四A~Bでは、「知覚が関係するような考え(判断)(doxa)」という新解釈が示される》

註7《これは一五二C二で底本および旧版OCTに従ってgarという一語として読む読み方(有力写本はこの読み方である)による訳。議論の根拠と結論を逆転させ、g’ar(geara)のように、二つの小辞の組み合わせに読み直す提案も、複数の有力解釈者によってなされている。この提案に従えば、「したがって、温かいものやこの類いのすべてのものにおいて、あらわれと知覚は同一なのである。それゆえ、それぞれの者にとって、それぞれの者が知覚する、そのとおりに有りもするだろう」という意味になる》

註11《原語はkinesisで、「運動」「変化」を一般的に指す非常に広い意味の言葉。後に一八一B[二七節]以下で「場所の移動」と「性質の変化」に種類分けされる》

註12《原語の不定詞はgignesthaiで、「生成する」「生まれる」「つくられる」という意味の用法のほか、補語を取って「……になる」という意味の用法ももつ、きわめて広い意味の動詞。これの名詞はgenesisで、基本的に「生成」と訳すが、「何かになること」が適切な場合も多い》

註23《エウリピデスはアテナイの悲劇作家。ここで言及されているのは、かれの『ヒッポリュトス』六一二行にある「舌は誓ったが、心は誓っていない」という苦しい言い訳のせりふ。ソクラテスは皮肉を込めてテアイテトスに、ほんとうの矛盾ならば、単なる「口先で答えて逃げられる問題」では済まないと言っている》

註32《白いものを見るとき、ここでのプラトンの説明では、眼からも、見られる対象からも、何かが、互いのほうに向かうように動く。そして、一定の近さになったとき「視覚経験の成立」が起こり、視覚に白いものが見える》

註44《有」の原語はousiaで、この名詞は「ある」「有る」を意味するeinaiという動詞に対応する抽象名詞である。日常的には「財産」などの意味だが、プラトンとかれ以後、哲学用語として活用され、プラトン哲学では「有」「実有」などの日本語訳があてられる(アリストテレス哲学では「実体」「本質」「本質存在」などに訳される)。『テアイテトス』のこの箇所では、「有」は「真理」に近い意味内容であり、それが各人に相対化され、「太郎の有」「花子の有」などとされる。そして、太郎自身、花子自身にとって誤りえないものであり、それゆえ他人によっては反証されない「知識」だということが、結論的に述べられている》

註45《原語はamphidromiaで、新生児が誕生した数日後女性たちによっておこなわれた当時の儀式》

[第一定義の批判的検討]

《この世からあの世へと、できるだけ早く逃げようとしなければならないのです(51)。そして、逃げることとは、できるかぎり神に似ることです》←トマスのインド格言に似ている

《むしろ、この説を語る人々は、なにか別の言語をつくらなければなりません。現状ではかれらは、かれらの想定にかなうような言い回しをもっていないのですから》

註1《「判断する」の原語はdoxazeinで、名詞doxa(「考え」。次注参照)からできた動詞。doxaはまた、「第一部 一」注19の動詞dokein(「思える」)とも語源的につながる。プロタゴラス説は「万物の尺度は人間である。太郎にあらわれるものは太郎にとって有り、花子にあらわれるものは花子にとって有る」のように「あらわれる(phainesthai)」を使って表現されたが、「太郎に思える(dokein)ものは太郎にとって有る」というようにも言い換えられるとソクラテスたちには理解されている》

註2《「考え」と訳した原語はdoxa。「思いなし」「思わく」「判断」等に訳されうるが、『テアイテトス』では、「知識(episteme)」との強い対比を含む「思わく」「臆見」(英語ではopinion)の類いはふさわしくない。ここや第二部冒頭における議論から、動詞doxazein「判断する」との関係が強いと考えると「判断」だが、思考活動としての「判断」では、「知識」という状態との関係がみえにくい。そこで一般的な「考え」で訳す》

註3《原語はdialektike。対話的問答を通じて互いを吟味するソクラテス的方法。『ポリテイア』第六巻五一一Bとそれ以後では、哲学の代名詞のようにも扱われた》

註27《これがこの箇所の議論の大枠である。〔A〕プロタゴラスが言うように人間は全員、真を判断するとしても、人間は真と偽の双方を判断するし、〔B〕大多数の人間が前提とするように人間は真も偽も判断するとすれば、[当然]人間は真と偽の双方を判断する、ということ。〔A〕の部分は、プロタゴラス説が自分で自分に反対する結果となる(「自己論駁的」である)という趣旨である。非常に強力な反論にみえる。しかし、逆にあまりに強い議論にも思えるはずである。そこでその成否が論争の的になっている》

註29《原語はtaontadoxazein。最初「それぞれのものはわたしにあらわれる(phainetai)とおりに、わたしにとって有り、きみにあらわれるとおりにきみにとって有る、しかるにきみもわたしも人間である」(一五二A[八節])と、別の動詞で言われていたこと》

註36《「有益な」事柄(sumpheronta。一七七D[二六節]では同義語としてophelimaも用いられる)と、後の一七七Dの「善い」事柄(agatha)は、ほかの正しさや敬虔や美しさとは違って、万人が尺度になれる相対的なものではなく、(絶対的に)より正しい考えがありうる例外的な事柄であるとする。この部分的な理論修正により、善さと有益さについて知恵があるソフィストは、身体状態にかんする例外の「健康」と「病気」の専門家の医者と同じように、人々とポリスの善さについて特権的な知恵をもちうると主張できることになる》

註37《原語はousiaで、ほかの箇所では、おもに「有」と訳した言葉。ここでは意訳》

註42《原語はdeinosで、善い目的のための頭のよさ、ないし思慮深さも、邪道な目的のための「ずるがしこさ」「狡猾さ」もこの言葉で言える。「恐るべき才能の人」という含みの言葉》

註52《「人間は神の似像とならなければならない」という脱線議論の主題(『ポリテイア』第六巻五〇一B、『法律』第四巻七一六D参照)がここで明示される。「脱線」ではあっても、この議論で集約されるプラトン主義の趣旨はその後の古代世界に大きな影響を与え、アリストテレスも新プラトン主義も、またキリスト教プラトン主義も、ここの議論をプラトンの基本的な教えとして理解した》

註53《ホメロス『イリアス』第一八巻一〇四行などから多少変形して引き継がれた、「まったくのダメ人間」に当たる表現》

註54《『パイドロス』二四三E~二五七Aにおける神話的説明によれば、平凡な人々や悪徳の人の魂は死後、生きていたあいだ送っていた生にふさわしい地上の生活をそれぞれ送らざるをえないが、知恵を愛し徳のある生活を送った人は、死後のそうした輪廻転生を免れることができる》

註55《脱線部分以外の『テアイテトス』の議論が、プラトン周辺の当時の知識人にとっても新鮮で、きわめて高度であったことの示唆》

註74《プラトンのこの箇所は「運動変化の分類」の歴史上初めての試みのひとつ。アリストテレスは『自然学』第五巻第一章などにおいて、「動き(kinesis)」として、ここで分類された「変化(性質変化)」と「移動(場所移動)」のほか、「量的増減」を加え三種類とした。かれはその上で、実体そのものの生成と消滅をも、これらとともに広義の「生成消滅、運動変化(metabole)」の種類とみなした》

註76《原語はpoiotesで、ここ以後「性質」を意味する術語となった。疑問詞poios「いかなる?」からつくった抽象名詞で、原語を直訳すれば、「いかなるものであるかということ」程度の意味である。ラテン語でも対応する語源関係から、qualis「いかなる?」→qualitas「性質」という術語が使われた。そしてこれが、qualityなどの「質」「性質」を意味する現代欧米語の語源》

註81《ここに書かれた事情から、知識論の『テアイテトス』につづいて存在論の『ソフィスト』が書かれなければならなかったと推測》

[第二部]

《つまり、一言で言って、自分が知らない、また自分がかつて知覚しなかったものについて、今われわれがなにか健全なことを語るとすれば、だれも誤ることもなければ、虚偽の考えもないように思える。 しかしこれに対して、われわれが知っており、かつ知覚もしているものについて言えば、まさにこれらの対象の場合に、考えは、曲がりくねりながら、虚偽にもなり、真にもなる。すなわち、考えが結局、まっすぐ直線的に、固有の過去の経験の印章と固有の現在の印とを一つに合わせる場合には、真になるし、斜め方向に逸れた場合には虚偽になる》

註9《原語はdianoiaで、以下の一八九E~一九〇A[三二節]において、心のなかの無言の対話問答の過程として規定される。そして、その過程の結果出される心の結論が、考え(doxa)とされる》

註12《思考dianoia」という心の対話問答の過程の末に心が一つの結論をきめるときに、心のなかにある結論の「言葉logos」が「考えdoxa」である、という説明。『テアイテトス』のこの箇所と一見よく似た主張が、つぎの『ソフィスト』二六三E~二六四Aでも述べられる。ただし『ソフィスト』では、「logos」は「言明」ないし「文」であり、「なにかについて・なにかを・語る」という基本構造のもとで押さえられる。そして、自己との対話のような思考過程を経た「doxa」も、「なにかについて・なにかを・判断する」という主語と述語の構造をもつ「判断」であり、同じ基本構造という限定のもとで「言明logosの一種」だとされている》

註17《ムネモシュネは神ウラノス(天空)と女神ガイア(大地)の娘の女神で、その名は「記憶」を意味する》

註30《原語はhexisで、ekhein(英語のhaveにおおむね相当する動詞)の抽象名詞。ここは哲学用語としての用法の始まりの箇所の一つで、以後アリストテレスたちにより「状態」「性向」等の意味で術語的使用がなされる。ラテン語ではhabitus。以下の議論では「もっていること」という意味だが、「かつて獲得して、今所有していること」との対比で使われている。なお、hexisとekheinには「服を着ている」「手にもっている」など現に身にかかわってその活用ができるという含みがあり、この含みから、買ってすぐに衣装棚にしまい込まれた服や、ただ単に鳥小屋で飼っている自分の鳥を「もっている」とは言わない》

[第三部]

《それではきみには、この説は、気に入ったのだね? そしてきみは、「知識とは、説明規定つきの真の考えである」と定めるのだね》

[第三定義の批判的検討]

《三つのうち、少なくとも一つを「説明規定」と考えるのだろうと、われわれは主張したのである。テアイテトス はい、よく思い出させてくださいました。そのとおりでしたね。まだ一つ残りがありました。 一つは、声に映し出された、思考の像のようなもの、もう一つは、「字母を通じて事柄の全体に至る踏破」と今言われたばかりのもの》

《「知識とは何か?」と問われて、「差異性の知識がついた正しい考えである」と答えようとしているように思える。この説によれば、これが「説明規定の付加」になるからだ》

[結論]

《したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる》

註3《「バシレウス」は「王」を意味する言葉だが、王がいなくなった民主制のアテナイでは、「バシレウスの柱廊」は、司法の役所のことである。この一文は、ソクラテスが前三九九年に死刑判決を受け、処刑されることになる裁判への言及である。裁判と刑死にいたる過程の話としては、本対話篇『テアイテトス』(執筆時期としては中期最後の作品)のつぎに、バシレウスの役所前で出会った旧知のエウテュプロンとの、敬虔をめぐる初期対話篇『エウテュプロン』がきて、そのあとに被告ソクラテスの裁判弁論を描いた初期作品『ソクラテスの弁明』、そのつぎに獄中のソクラテスの処刑が迫った日の老友クリトンとの対話を描いた初期作品『クリトン』、そして最後に、処刑当日の親しい仲間たちとソクラテスによる、魂にかんする対話を描いた中期作品『パイドン』、という順番で並ぶ》

[解説]

[1「知識とは何か?」という問いの意味について]

《『テアイテトス』のテーマは「知識」です。「知識とは何か?」を西洋哲学の歴史ではじめて本格的に研究した書物とされます。この「知識」は、原語のギリシャ語では「エピステーメー」です》

《古代ギリシャ人が用いたギリシャ語の「エピステーメー」は、意味上、「学問的」知識、組織的な「理解」というニュアンスを、強く含んでいました》

《プラトンは『テアイテトス』で、今日確実なやり方とされるように、「知る」の意味や用法の分類からは、話を始めていません。方向としては逆に、組織的理解・知識すべてについて、その一般的本質をまず問います。問うなかで、「知識」と呼ばれるすべての事柄の内部に重大な違いや隔たりがあれば、おそらくそのいくつかは、発見されてくるはずです。そうした探究として、「知識(エピステーメー)とは何か?」という言葉で導かれる探究を考えることができる、と予想されるのです》

《つまり、「エピステーメー」という知識にかかわるプラトンの一般的態度は、組織的理解を重んじるものであり、善と諸価値への積極的荷担を含むものであるという二つの特色をもちます》

《ソクラテスは初めてテアイテトスに、「知識とは何か?」という問いを投げかけます。もっと詳しくみると、かれはつぎのようなステップを経て、「知識とは何か?」を対話に導入しています。(1)学ぶとは、人が学ぶ事柄をめぐって、より知恵のある者になることである。(2)「知恵のある者」が、知恵がある(賢い)のは、本人の内部にある知恵の力による。(3)知恵は知識(と同じ)である。(4)知識とは何か?》

《「知恵がある」という言葉は、人間として無条件にすぐれていて、徳があるという意味合いをもっていました。ギリシャでは知恵は、つねに代表的な徳でした。「徳」の原語の「アレテー」は一般に、はたらきがあるもののはたらきがすぐれているという意味の言葉です》《プラトンの議論以来、勇気、正義、節度と並んで、知恵は四つの代表的な徳のひとつとされました》

《ギリシャ人が知恵をとくに重視したことは、かれらがもろもろの古代文明のうちでも際立って教育熱心な民族であり、教育と学習の方法についてさまざまな工夫を重ねた人々であった、ということのひとつのあらわれです》

《「知恵」なあたるギリシャ語原語「ソフィア」は、人間としての端的な優秀性を示すような、抜群の「賢さ」ないし「知恵」という語義のほかに、「専門家(エキスパート)の知識」という意味をもっていました。『テアイテトス』ではこの二つの意味は、連続的に捉えられています》

《知識であるものをたくさん答えてほしいのではなく、知識か、それとも知識でないかをもともときめてくれる一般的規準が知りたかったということです》

《成功した学習に共通の「自分の内側の原因」を言うためには、自分を含む人間たちが(ほかの動物とは違って)なぜ「知識」を頼りに生きるのかという問いにも、正面から答えられなければなりません》《テアイテトスという人は、このおもしろいけれども特殊で、難しい研究に向いています。なぜならかれは、√2や√3やなどの個別的な無理数の列を見て、無理数とは一般に何かという問いに、歴史上初めて答えた人だからです》

《テアイテトスが、「知識とは知覚である」と一般的に定義し、そう言い切ることができるためには、かれは自分の単なる実感を超えて、なんらかの特別な哲学的立場に荷担しなければなりません。ソクラテスは、プロタゴラスの相対主義が、このテアイテトスの必要を満たしてくれる立場だと考えます。そしてテアイテトスも相対主義を、議論のために受け入れることにします》

《最終提案の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」が、初期の作品のころから中期最後の『テアイテトス』執筆時にいたるまでのプラトンの考え方に近いものだということは明らかです。動物と人間が共有するような単なる「知覚」では知識にならず、人間のみがもつ「考え」が知識には必要であること、そして、後に詳しくみるように、「説明規定」と訳した「ロゴス」が「真の考え」に付け加わったとき知識が得られるのではないかということ》

《そしてプラトン自身も『テアイテトス』以前の『ポリテイア』などの中期作品で、正しい説明を含むエピステーメー(知識)と、そのような説明のないドクサ(「考え・憶測」)を、互いにまったく違うものとして説明していました》

《第一定義の「知識とは知覚である」は、相対主義による補強を受けて、知覚という経験領域に「誤りのない真理」を見ようとします。プラトンは、知覚とは異なるもうひとつの経験領域(これをかれは、「考え(ドクサ)」と呼びます)にこそ「誤りのない真理」だけでなく「真理」と「虚偽」も全体的に含まれると結論づけたいのですが、この結論を得る過程で、プロタゴラスの相対主義哲学は格好の論敵として、プラトンの結論の確立に間接的に貢献してくれるのです。 第一の点を説明しましょう。プラトンによれば相対主義自体は、永遠に論駁不可能かもしれない、手ごわい論敵です。相対主義のはじめの例は、風が吹いていてAさんは温かいと感じ、Bさんは冷たいと感じるという、知覚における「相反するあらわれ」と呼ばれる事態でした。『テアイテトス』のその後の議論では、実際には現在形でだれかに現在風が温かい(あるいは、冷たい)とあらわれることが、その人にとっての相対的な真理というより、絶対的で客観的な規準から真理か虚偽かに分類できるという趣旨の、「反相対主義」の完成した主張は、なされません。 むしろ、一見すると小さなポイントに思える、未来の事柄のあらわれにおいて、知識の絶対的な優劣の差がある、とする反論のみが述べられます》

《『テアイテトス』では、相対主義との対決を、次作の『ソフィスト』になって最終解決をみるよう「継続審議」にします。しかし、その一方でかれは、『テアイテトス』のこの辺の議論では、知識を探すべき場所を確定するという目標に向かっており、このためには、未来の事柄のあらわれの絶対的差異が用意されれば十分なの
です》

《プラトンによれば知識は、知覚ではなく、知覚とともに「人間の心による経験」の二大分類をなす、「考え」のところで探されなければなりません》

《わたしの経験を束ねる何かを「魂」と呼んでよければ、単に「視覚により認識する」とか「味覚によって感じる」と言うより、「魂により感じる・知覚する」と言うほうが、誤解の余地は少ないでしょう。プラトンはこの一般的なポイントを明確にするために、人は感覚を通じて魂によって知覚の経験をする、と語法の整理をします》

《存在」と簡略にまとめた言葉は、「有・あること(ウーシア)」や「あること(エイナイ)」などです。「エイナイ」という不定詞の動詞は、「存在する」という用法と、「……である」という補完を要する用法の両方を含む、広い意味の動詞でした。プラトンが、これら二用法を含むウーシアは、知覚には関係なく、もっぱら考えに関係すると考えたことの意味は、つぎのようなものです》

《プラトンは、「知覚」と「考え」の二大区分をおこない、知覚を知識候補から完全に除外します。そして、考えの領域のどこかの部分に知識を発見するという方向へと一八〇度転換するわけです》

[2第1部の主要な哲学説の配置]

《第一部の全体は長大な議論ですが、これは、テアイテトスの「知覚が知識だ」という提案が、プロタゴラスの相対主義だけでなく、ギリシャで支持を集めていたもうひとつの有力哲学説である「流動説」とも結びつく内容であったためです》

[3プロタゴラスの相対主義と、その評価]

《(1)プロタゴラスは、人間はつねに真を判断する、と考えている。(2)(a)プロタゴラス自身にとってプロタゴラスは、真を判断しているが、(b)ほかの無数の者にとってプロタゴラスは、虚偽を判断している。(3)(1)より、プロタゴラスは、(2b)のようにプロタゴラスは虚偽を判断していると他人が判断するとき、この他人の判断が真である、と容認する。(4)(3)より、プロタゴラスは、自分の見解が虚偽である、と容認する。(5)(2b)および(4)より、プロタゴラスは、だれにとっても、虚偽を判断している》

《この議論の評価をおこなうときに重要なポイントは、(3)から(4)に進むのには、問題があると見抜くことです。まず(3)のなかの「プロタゴラスは虚偽を判断している(と他人が判断するとき……)」という部分は、正確には、「他人にとってプロタゴラスは虚偽を判断している」という内容でなければなりません。したがって、プロタゴラスのほうでは、(4)を導きたいだれかから、「きみは虚偽を判断しているのだね?」と問われたなら、自分は自分にとって真の判断をしている、と(2a)を繰り返し言っておけば、それでいいのです。ところが(4)では、「或る人にとって」という、相対主義の立場からは必ずつけておくべき限定を外して、無条件に「自分の見解が虚偽である」ことをプロタゴラスに認めさせようとしています。もちろんプロタゴラス本人はこれに同意しないでしょうし、予想されるプロタゴラスのこの態度は、正当なものです》

《アリストテレスも新プラトン主義の人々も、そしてキリスト教プラトン主義者たちも、みなここの「神の似像としての人間」という考え方に深く共鳴しながら、ここに、プラトン的な哲学の重要な基本があると考えました》

《未来の言明では相対主義は成り立たないというこの点は、対話篇全体のなかでももっとも重要な三、四個の主張のひとつ》

《脱線議論は、このような「時間の、過去と現在と未来の系列」のなかで知識と知恵の問題を考えるべきだという、話のそもそもの原点を示す役割を担っています。脱線議論中のおもしろいエピソードにおいてタレスが、天体を観測していて井戸に落ちたこと(一七四A~B[二四節])は、学問や知恵の真の意義を知らない人々からみれば、頭の悪い失敗として嘲笑すべきことでした》が《ソクラテスが裁判で被告になったときにも、ふつう人々がおこなう心理作戦や、「助かるためなら(善悪を問わず)とにかくなんでもやる」工夫をせずに、徹底的に正攻法で弁論したために敗訴し、死刑を宣告され処刑された「『頭の悪い』失敗」を読者に思い出させようとしています》

《白熱した議論をおこないながら知恵を愛し求める哲学(と諸学問)の道だけが、個人と人間集団の未来に向けて、実質的進歩の原動力となることができ、発展性があること――このようなメッセージが、脱線議論直後のプロタゴラス説への反論の趣旨であると思います》

[4ほんものの生成、ほんものの変化]

《プラトンによれば、説得されるならわれわれは、自分たちの言語を破壊しなければならないので、したがって流動説を信じてはならないことになります。 プラトンは議論の手がかりとして、「変化」とも「動き」とも訳せる「キネーシス」という広い意味の言葉の二つの意味を区別します。ひとつの意味は、或る地点から別の地点への単純な移動や、円運動で動きつづけるといった「場所の移動」です。もうひとつの意味は、色が白から青になるなどの「性質の変化」です。この意味の区別を道具にして、流動説を論駁できます》

《流動説を趣旨どおりにあくまで守ろうとすれば、場所の移動も性質の変化も全部同時に起こっているので「およそなにも確固として存在しない」、と言うしかありません》

相対主義と「知識とは知覚である」という第一定義の両方が必要とした説明機能をソクラテスは流動説にみようとしたのですが《すべてがいかなる意味でも安定せずに動きつづけているという趣旨に解釈するかぎり、われわれは、まさにそうした流動説を適切に表現する言語を、もてないということになったから》

《少なくともプラトンが『テアイテトス』で確立した、変化も生成も消滅も、そもそも言語的な記述と分類を受け入れる事柄だという論点は、かれの完全に積極的な主張であり、かれを離れても正しいと思われます》

《以前の『パイドン』において「見えるもの」、つまり肉体や物体について言われていた「たえざる生成消滅過程のなかにある」という論点は、「見えないもの」(魂、思考、イデア)との対比において主張されていました》

[5第一部最終議論 知覚は知識ではないこと]

《一言で言ってわたしは、わたし自身が見たことや聞いていることと、きわめて近い関係にいるのです。否、それは、「近い」と言うことさえ、もう遠すぎるくらい、それくらいわたしに「固有のこと」であって、わたしのいわば「一部」のようなものだと思えます》

《それでは、この関係は「物」同士の関係なのでしょうか? プラトンは、そうではないと答えます。眼で見るし、耳で聞くけれども、わたしが見ているのは、単に視覚「を通じて」なのであり、見聞きしているわたしの「魂」や「心」によりわたしは感覚的「経験」をしているはずだと言うのです》

《こう考えてゆくと、大きく分けて二種類の経験が、人間にはあることになります》
《(1)各感覚を経由する知覚経験。「『道具』を通じて・魂により・把握される」。例―赤い色が見える、塩辛い味がする》
《(2)感覚を通じてでない「共通なもの」の経験。「魂自身により把握される」。例―存在する(ある)と考える、二つであると数える》

そして《(2)のほうが存在の経験であり「真」と正当に言える領域なので、つねに真であるような「知識」もまた、この(2)のほうに属し(1)には属さない、と論じられます。こうして、「知覚こそ知識である」というテアイテトスの答えは最終的に否定されます》

これは、総合的な推理の力は教育などによって長い時間をかけてそなわるものであるから《多くの経験の領域において、われわれが初めからものを知っているわけではなく、それなりの学習・教育を経てようやく「真にいたる」「有(あるということ)を掴む」「知る」「有益さ(善)を理解する」という見解です》

《人間の人間としてのパワーがどこかにあるとすれば、それは、弱々しい存在でありつづけながらの長い学習期間を経て大人になるという、独特の成長過程と無関係ではありえません》

人間は《ほかの動物の幼児期と比べて「なにもできない」のですが、このような「無能性」は、やがてずっと後で、学習したことに基づいてほかの動物には不可能なことをおこないうること(ものを考えて行動できること)と表裏一体のことでしょう》

《「未来の事柄のあらわれ」のところで相対主義批判がおこなわれたのですが、時間における「過去と現在と未来の系列」で生きる人間の場合にのみ、「知恵という力」ないし「知恵の徳」として人に宿る「知識」が真の関連性をもつという観点が、相対主義に最終的に対抗するポイントだった、と言うことができるでしょう》

《初めからそなわっている、単にその場で可能なこと」としての「知覚」ではない力が、つまり過去の学習を反映して未来の事柄にその人なりに荷担するための「考える力」が、その場の経験における各人の優劣を示す実力になっているので、それで「知覚は知識ではない」とされることになります》

[6第二部の議論と虚偽不可能性の難問]

第二部は「知識とは真の考えである」という定義を論じるのですが《プラトンは、たとえば初期の『メノン』においても、考えが事実真であったとしても、それはまだ知識とは言えず、問題となる事柄にかかわる原因を正しく推測し特定して、その原因からの推論により正しい結論を導き出した「原因の推論」が入ってこないと知識にはならない、というアイデアを提出しています》

《『テアイテトス』でプラトンが真剣な検討に値する知識定義候補と考えたものは、後の第三部の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」だけです。ところで、第三部で扱われるこの定義にあらわれる「説明規定」とは、「ロゴス」の訳語です。「ロゴス」は言葉、言明(文)、分別、理由など豊かな意味内容をもつ語ですが、人間がもともと言語生活を営むこと、そしてその言語生活が個人のレベルでも文明の段階でも或る程度発展した形態になったときに学問探究や学問的説明も成り立つということは、明らかでしょう。この語はそうした、言語的な要素が深くからむ人間の歴史と、言語にかかわる側面が強い学問・知識の成り立ちを、語義に反映する言葉です》

《「考え」が知識を探究すべき場であることは第一部最終議論で確立しましたが、そこを場にしたこの先の「知識の探し方」の問いは、じつは「心」、「言語」、「認識」、「存在」をめぐる、現代理論哲学の大半の重要トピックもまたすべてそこに勢ぞろいする程度の、途方もなく大きな諸問題に囲まれた問いです》

《『テアイテトス』第二部のテアイテトスの素朴さは、「考え」は、考えという心的な営みだから、あくまで「心的なもの」として分析される、そして考えは事実真と偽に分かれるから、そうした真偽の区別も、たとえばわれわれの心で起こることと世界のなんらかの関係として簡単に見つかるはずだ、といった態度として言い表すことができます。しかし、以下の虚偽不可能性の難問は、じつは「心的なもの」を、「心のなかにつねに埋め込まれている、言語的な原初構造」としての「何かについて・何かを判断する(考える)こと」のもとでみる用意がないかぎり、「虚偽の考え」と、「考えにならない、『考え・意識』の無効な空回り」を適切な形で区別できないという、重要な教訓を含みます》

《第三部の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という定義は、前の二つの定義候補に比べてはるかに有望であり、後で「結び」でみるように、この第三定義にに似た説明をプラトンが自分の哲学の探究で活用していた証拠もあるのですが、しかし定義としては否認されます。この定義の挫折は、ひとつには「知識」の多義性によるものだと思われますが、挫折のもうひとつの原因は、『テアイテトス』第三部における「説明規定」のひな型が、文字の読み書きや音楽といった、(話され、聞かれる)母語修得以後の初歩的学習からとられていたことにあります》

プラトンの原則P《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》

《原則Pの趣旨を生かすように難問を正攻法で解決する方法は、虚偽が結果として出てきてしまった原因の間違いを、そもそもの知識とは別の種類、あるいは別の次元の「外れ」や「失敗」として説明することだと思われます。 対話のなかでソクラテスもテアイテトスも、原則Pは、虚偽の考えの場合に直ちに全面的に破られると、いとも簡単に考えています。かれらがこう考えるひとつの理由は、直接目的語を取る「判断する」や「考える」、あるいは「知っている」の用法で考えを理解していることにあります。「ソクラテスを(あるいは、ソクラテスと)判断する」、「美しいものを考える」、あるいは「十二を知っている」などの文が、この用法の例です。虚偽不可能性を論じる第二部の議論では、こうした直接目的語を取る構文が頻出しています。そのことがひとつの原因になって、難問の罠にはまってゆくソクラテスとテアイテトスの会話が、あたかも素直で自然であるかのような印象を、読者に与える》

《考えはいかなる場合であれ、ただ単に漠然と「何かを考えること」ではありません。われわれの考えはふつう、言葉でつくり上げられています。そして言葉は、主語と述語によって意味のまとまりとしての文をつくります。文や、文と同次元の言明や主張が、真と虚偽を担うものだと思われます。――このような筋道で考えてゆくなら、心に浮かぶ考えも、当人がさしあたり意識できることとしては「何かを考えること」であるときにも、じつは言語の構造としての「何かについて・何かを・考える」という仕組みをしっかり保っているということが、重要》

《『テアイテトス』第二部のいくつかの説明の試みは、一回の虚偽がもつこうした「皮肉にはたらく、積極的な意味」を理解できない、単調なものなので、学習による人間特有の「進歩の秘密」の全貌を衝くところには、まだいたっていないように感じられます》

《『テアイテトス』の後、後期第一作の『ソフィスト』が書かれます。その『ソフィスト』では、人間の知識の問題というより、言葉や考え(判断)の真偽の問題、ものや人の存在のほうが主題になります。しかし、多くの話題はこの二作品に共通のものです。そして、『テアイテトス』では読者に考えることのみを要求して、プラトンの側の答えを用意していないいくつかの問題が、『ソフィスト』では鮮やかな仕方で回答されます》

《われわれがものを言葉で「同一指定」して「指示」することが、言語を初めて習ったときにできるようになったということを振り返ってみれば、この事実の比類ない重要性に納得できるでしょう》←この事実とは人間が言語を持つ存在だということ

《『ソフィスト』二六二D~二六四Bでプラトンは、 何かについて・何かを・語る(もしくは、判断する)ことが人々の「基本形」であることをはっきりと確認します》

《『ソフィスト』では、人間だけがもっている、なにか変わった、皮肉な要因そのものに肉薄できていることが、納得できるように思われます。つまり、人間だけが言語をもっていて、それゆえに人間らしい心をもっています。そしてそれゆえにまた、心で真を把握することも、ときにまた虚偽に陥ることも、可能なのでしょう》《以上の検討によって、虚偽の考えの説明の可能性が、『テアイテトス』の本題であった、知識の探究に密接に関係していることもまた、明らかになっていると思います》

《知識と深い関係をもつけれども「間違い」であるもの、ただし間違いではあっても、完全に意味や有効性のない「ノイズ」ではない、有意味な(それどころか、多くの場合有意義でもある)間違いであるもの――これが虚偽であるとプラトンは考えていたのだと思います》

[7裁判員と知識]

《現に目撃した証人の事件体験をここで重んじていることの一解釈は、プラトンが学問や知性的経験の場面でも、「透視的能力」、「知的千里眼」のようなものを知識の力として考えていた、というものです。しかし、この一種の神秘主義的解釈は、苦労して学問を修めて、各分野で言葉の厳密な定義とそれに基づく知識を一歩一歩把握していくべきだという、プラトンが力説した基本的主張に反しています》

《われわれの「知識」は「伝播可能」なものである、と言えます。これに対し、プラトンや古代中世の西洋哲学では、同じ問題について、自分で計算して「九四」と答えられないかぎり、「知っている」とは言いませんでした。算数ができて知っているのでなければならず、正当化というより、そのつどの事柄に合った適切な説明能力(たとえば数学の場合であれば、証明能力)を伴うほんとうの理解がなければならなかったのです》

[第三部の議論 わたしは何を、どのように知っているのか?]

《「説明規定」と訳しました。「ロゴス」は学問の文脈では、ものごとの厳密な「定義」を意味します》

《「第一のもの」と言うだけではあまりに抽象的で分かりにくいので、字母(アルファベットの文字)にあたる「ストイケイオン」という語が同時に「要素」という意味ももちうることを活用して、「字母」とそれからなる「音節」を、「要素(第一のもの)」と、それらからなる「合成的な対象」の分かりやすいひな型として使っているのだと思います。ハートが使ったうまい表現では、『テアイテトス』の夢の理論とその検討で論じられる「字母と音節」は、「全体と部分の本格的議論」をつぎの『ソフィスト』でおこなうのに先立って、そうした議論で主題化される部分と全体の話のために「あらかじめ場所取りをしておいてくれるもの(place-holder)」です》

《たとえば手や足や諸臓器という「人間」全体の身体的部分が高度に有機的な結合(構造)をもっているので、それで生きている人間はばらばらの部分の集合体ではなく、一人の人間としての統一性と同一性をもちます》

《プラトンはつぎの『ソフィスト』で、根本的な構造を次々発見して、人類の歴史そのものに貢献したともいえる偉業を成し遂げました。ここの「夢の理論」はその発見の道を準備する、貴重な一歩です。そしてプラトンはその『ソフィスト』で、「宇宙の『母音』と『子音』の識別こそ問答法(『哲学』とほぼ同義)の課題である」とまで主張します》

《夢の理論では字母は「知られない」のに対し、音節は「知られる」ものだとされます。この主張全体をハートにならって、認識論的な「非対称テーゼ」と呼ぶことにしましょう》

《「so」という音節を「知る」ことは、「s」の音を識別して「o」も識別した上で(つまり、アルファベットの文字を「知った」上で)「so」全体を「つづり方の技術に沿って」聞き分ける(見分ける)ことで、これが学習の実際であるとされます》

《字母にかかわる能力自体が知識レベルにまでアップし、この新段階の能力が数多くの活動の基礎となって、以後の人生を豊かにしてくれています)。これは、音楽の学習でも同様です。音楽を学ぶことは「一つひとつの音の聞き方」自体が変わってしまうことを含んでいます》《「音楽の要素・『字母』としての音自体」が知識特有の仕方で識別されることであり、もう一面が「音楽の合成物・『音節』である音の列や和音」が「音感のある、音楽技術に通じた人」特有の仕方で聞きとられ、理解されることである、といえます》

説明規定の意味は《(一)「説明規定」の初めの意味は、この言葉の原語「ロゴス」が動詞「レゲイン(語る)」と語源的に結びついていることから、「語句(rhema)や名(onoma)を伴う声を通じて、考えを、(中略)口を通る流れの中へと映し、それを外に出して、自分自身の思考を表現すること」(二〇六D[四二節])という形で表現されます》

《つぎの『ソフィスト』では、ほぼ同じ表現で「ロゴス」がまず規定され(二六一D~二六三D)、考えないし判断を意味する「ドクサ」のほうは、ロゴスが心のなかでいわれる場合、とされます》《『ソフィスト』の一連の議論では「ロゴス」を、主語(onoma)と述語(rhema)の構造があるもの、つまり「(主語部分により)何かについて(を把握し)・(その上で述語部分により)何かを・語ること」としてみます。そして、同じ主述構造がドクサにもあり、あらわれにもあるので、結局、真のあらわれと同じように虚偽のあらわれも存在することが示されることになって、『テアイテトス』から長くつづいたプロタゴラス的相対主義の論駁は、この事実の確認をもって完結するのです》

《第二の意味の学問活動における「ロゴス・説明規定」が、知識の第三定義の「真の考えに説明規定が加わったもの」で言われる本命の候補だ》が、こうした能力は母語の修得が前提であり、それは《語(の意味)に対する「文の一次性」と呼ばれる論点》であり《初めの構造である「何かについて・何かを」を学んだことにより、関連するすべての構造にかかわる能力も、潜在的に修得できるようになったのだと思えます》

《したがって「言語的に言い表す」という「説明規定」の第一の意味は、「説明規定」の、つぎに登場する、より高次の「第二の意味」につながる、われわれの諸活動の原点を示唆するという意味合いをもっていたと言えると思います》

《プラトンのエピステーメーという知識は、今日の「知識」というより「理解」に近い意味合いをもっていました》

《「『考え』から『知識』へ」という全面二段階説は、漠然と語られる一般的な主張として言われると、なるほどそうかなとも思えますが、一つひとつの事例についてじっくり検討してみると、じつは成り立たないとしか言えない、そうした主張なのです》

[9結び]

《本書の結論は「したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる」》という全否定。

《さまざまな専門知、さまざまな学問と知識の多様性を超えて、それらをゆるやかに一まとめにする本質をも見極める(あるいは、見極めようとする)ことは、「『差異性の本性(違っているもの同士は、どう違っているかということの一般的本質)』を見極めること」に匹敵する困難を伴う探究であると、ここで示されています》

《ソクラテスの使命と真価は、あらゆる建設的議論に先立つべき「哲学におけるあれこれの事柄の重要度と、哲学探究の一般的困難の、すぐれた自覚の訓練」というところ》

註2《この連続性は従来の解釈では表現されていない。多くは、おもにエキスパート的知識の問題としてこの箇所の議論を理解する。しかし、テアイテトスは幾何学で「より知恵がある」ようになりつつあるのだが、同時に端的にもより知恵があるようになりたいと思っている若者だ、ということが非常に重要であるとわたしは考える》

註3《プラトンは後の近世の哲学の論争では知覚に基礎を置く経験主義のグループとは遠く、知性主義的な合理主義のグループに近い立場といえる。しかしそれとともに重要なのは、経験主義のバークリや合理主義のライプニッツなど、この一七~一八世紀の大論争に参加した哲学者たちが、『テアイテトス』第一部のもろもろの議論から、知覚経験にかんする哲学的考察の材料を得ていたという事実である》

註6《『パイドン』では「見えないもの」である善や正義や等しさのイデアのほうが実在であり、つねに自己同一性を保つものとされる。この部分は流動説のいかなる部分にも対応しない》

註18《「読解A」と呼ぶ解釈で、流動説をイデア論の立場から補うために、流動説の説明する知覚の世界に、中心的な魂とイデアが、ここで外付け的に登場するという解釈である(Burnyeat,TheTheaetetusofPlato,56;cf.Cornford,105)。もうひとつは「読解B」で、「共通なものの考え」とは、判断であるとする解釈である》

註24プラトンの原則P《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《現代哲学の「ラッセルの原理」に相当する原理である。バートランド・ラッセルは、判断ないし想定について、判断者は判断の項すべてを知って(beacquaintedwith)いなければならない、と考えた》ことにも通じる、と。

註26《第二部の虚偽不可能論はあらゆる「考え」ないし「判断」にかんするものか、それとも同一性判断に限定した難問なのかという解釈問題がある。多数派解釈(McDowell,195;Burnyeat,TheTheaetetusofPlato,71-73)は同一性判断に限定して解釈するが、わたしは考え一般にかかわるパズルだと解釈する》→註29《考えや判断にはそれぞれ、そこが問われることになる、真偽評価のポイントとなる項があり、そこの「取り違え」をすることが虚偽だ、という理解が背景にあるとわたしは考える。こう考えることができれば、ポイントとなる項にかんする同水準の誤答と正答の取り違えとみなすことから出発して、そのような真偽のポイントで説明すべき虚偽の考えは一般に不可能だ、という難問をつくることができる。また、こうすれば、多数派のように虚偽の同一性判断に話を限定しないで済む》

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January 03, 2021

『100分de名著ブルデュー『ディスタンクシオン』』


Distanction

『100分de名著ブルデュー『ディスタンクシオン』』岸政彦、NHK出版

 『ディスタンクシオン』はちょうど、流行りの哲学書を読まなくなってきた頃に「まあ、いいや」と放っておいた本です。今回『100分de名著』で取り上げられるということをSNSの社会学者の方から教えていただき、楽しみだったのですが、想像以上でした。

 生まれや環境によって趣味というか生き方の「ハビトゥス」が決められるというのは納得的といいますか、2000年代に読んで衝撃を受けたRobert Putnam "Bowlingalone" のソーシャル・キャピタル(Socialcapital、社会関係資本)という概念はブルデューが人が持つ資本を経済資本、文化資本、社会関係資本に分類したあたりに由来するんだな、と気がつく始末。今さら、自分の読書量の少なさと教養のなさは嘆きませんが、もうちょっと早く読んでおけばな、と。

 今でいうアンダークラスの再生産みたいな話しなんじゃないかとも思っていましたが、ますます格差の拡大が進む時代となっきた中で、一人ではどうしても読む気の起きなかった本だけにありがたい。

 また、個人的には吉本隆明さんの大衆の原像と比較しながら読んでいました。下層階級の人たちが自然に自分たちを目立たない存在として位置付けるハビトゥスは合理的であるというブルデューは、まるで現実は合理的だというヘーゲルを思い出させるのですが、同じようにヘーゲル/マルクスから影響を受けた吉本さんは、目覚めた大衆などはいないけど、その「大衆」を神として組みこまない社会の改革などあり得ないというのが「大衆の原像」だと考えていたと思います。いま思うと、それは階級が西欧ほどハッキリしていない日本の独自性なのかな、と。

 例えば、ヨーロッパでは庶民が愛好するサッカーを、日本では圧倒的な人気を誇っていた野球のアンチテーゼとして好むという傾向がいまやすっかりオールドになりつつ世代にあると思いますが、ジャンルが入り乱れている感じが日本にはあるのではないでしょうか。

第1回「ハビトゥス」

 《ブルデューは、今回紹介する『ディスタンクシオン』などの多数の著作のなかで、私たちが自然だと思っていること、当然だと思っていることが、いかに階級などの社会構造に規定され、条件付けられているかを明らかにしました。たとえば、聴く音楽、毎日の食事、好んでおこなうスポーツ。あるいはもっと微細な身のこなしや態度、歩き方や喋り方まで、こうした日常的な行為や認識が、いかに社会によって決定(と言うと言い過ぎですが)されているかを、執拗なまでに説き続けたのです》

《あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好は、まず教育水準(学歴資格あるいは通学年数によって測定される)に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついているということがわかる》

《純粋無垢な眼など存在しないというわけです。私たちの眼、つまり見たものに好感を持ったり嫌ったりする姿勢(性向)は、私たちそれぞれが享受してきた社会環境、つまり歴史によってつくられるとブルデューは主張します》

 ここで重要な概念が出てきます。それはハビトゥス。

《ハビトゥスとは私たちの評価や行動のさまざまな傾向性のことであり、同時にそれらを生み出す原理のことです。また、それは一回性のものではなく持続性があり、異なる分野においても同じ傾向を示す(移調可能)》もので《ハビトゥスは世界を分類していくものであると同時に、それによって行為者が分類されていくものでもあります。傾向性(dispositions)の体系としてのハビトゥスに分類されることによって、その人の位置(position)が確定され、同じハビトゥスを持つ者たちの集団(クラスター)ができていきます。こうして似た者同士の集団がつくられることによって、人びとは何者かに「なっていく」のです》

 個人的な経験からは「生まれ」の他にも環境が大きいんじゃないかな、と感じます。家は貧しかったですが、友人たちや親戚、それに渋谷という街に助けられましたね。60-70年代の映画とか名画座で見まくれました。歌舞伎は祖母、宝塚を含む商業演劇は叔母、落語は従兄弟からの広義の「家庭教育」で好きになったと思います。能、狂言、文楽は歌舞伎をより深く楽しむために勉強した感じ。だから、漫才は見たことないかな…まさに環境に支配されてます。音楽に関してはピアノを習わされましたが、小学校の高学年でやめてます。友人の兄たちから聞かせられたロックに凄く影響を受けて、クラシックなんて…という感じでした。でもパンク、クイーン、キッスみたいな商売を前面に出してきた企画モノが流行り始めて興醒めしてジャズに。そこからクラシックに戻ったという感じですかね。

 この庶民vs上流に関しては《一方で、ブルデューには特筆すべき特徴がありました。それは、彼が庶民階級に対してもほとんど幻想を持っていないことです。これはおそらく、ブルデュー自身が庶民階級出身の当事者だからでしょう。インテリ階級の学者は民衆に対するロマンが強く、ややもすると「民衆たちが立ち上がっていつか革命を起こす」と真顔で主張しますが、そのような庶民階級に対する幻想を、ブルデューはいっさい持っていませんでした》という見方が面白い。《ハビトゥスには、ひとりの人間の人生においても、またひとつの社会全体を巻き込む巨大な歴史的変動においても、常に組み換えが起こったり、変化したりすることがあるのです。おそらく、高度経済成長期の日本にも同じようなことがあったでしょう。『ディスタンクシオン』は階級システムの機械的な再生産論として読まれることもありますが、それはブルデューの本意ではないと思います》という感じで、やはり環境にも影響を与えられているという感じなのかな、と。

 とにかく《私たちの行為がどれくらい構造に規定されているのかを知ることは、言い換えれば、私たちがどれくらい「不自由か」を知る、ということに他なりません。ブルデューは、一見逆説的ですが、私たちがどれくらい不自由であるかを明確に知ることが、私たちが自由になるための条件であると主張したのです》と結びます。

第二回「界」

 人はハビトゥスによってクラスターに分けられ、そこで「否定」をテコに闘争するという世界観は凄いな、と思うし納得的です。

 《ブルデューによれば、私たちの好みは家庭や学校を含む社会生活において培われたハビトゥスによって方向づけられ、規定されています。そしてこのハビトゥスによって、私たち自身が、ある種のクラスターに分類されていきます》《私たちは、この空間のなかで、お互いの資本やハビトゥスを「武器」として、何らかの「ゲーム」に参加しているのです。ブルデューは、私たちがゲームに参加しているこの空間のことを、「界」と呼びます》

 こうした《趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなければならないときに、まったくネガティヴなしかたで、つまり他のさまざまな趣味にたいして拒否をつきつけるというかたちで自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である》とブルデューは書きます。《バッハを好む人はチャイコフスキーを嫌うといったように、必ず否定がセットになるのです》《そして趣味goutsとはおそらく、何よりもまず嫌悪degoutsなのだ》と。それは《社会階層と個人のあいだには、芸術という界、音楽という界が成り立っています。その界の中でバッハはどこに位置づけられるのか。私たちはそのことを実践感覚で捉え、自らを卓越化させるためにバッハを選んでいる(あるいは選ばない)のです。このように、二重、三重のプロセスを経て決まっているのが趣味》という複合的な要素を持っています。

 こうしたクラスターに属することによって、人は闘争することになります。

 《自分が好きな音楽も絵も食べ物も連鎖的に否定される可能性がある。ひいては自分そのものを否定されることにつながるわけです。 みなさんも映画や音楽の話をしていて、自分が好きな作品やアーティストを「まったく駄目だね」などと言われ、自分でも意外なほどに深く傷ついた経験があるのではないでしょうか》

 そして、こうした闘争で《界の中で立ち振る舞うには、必ず界全体の構造や局面に関する実践的な知識が伴う》という大きな視点を人に与えます。《そうすると、なんとなく、複数の界を貫いて、統一した自己というものができてきます。さまざまに異なりながらもひとつのまとまりのある自己ができ、同じような行為者たちが集まってきてクラスターができる。そして、ハビトゥスによる傾向づけがあるためその後も自己は再生産され、界の構造も再生産され、さらに大きな社会空間も再生産され》《このような界の構造は、ブルデューが想定する、もっともマクロな社会空間(階級)全体の構造と相似します。その構造を表したのが次の図です。これは『ディスタンクシオン』に載っている図を簡略化したものですが、縦軸が資本量(社会階層)、横軸が資本構造(資本の種類、たとえば文化資本か経済資本かの違い)を表します》《すべての趣味は、高級な/安っぽい、優しい/激しい、内省的/外交的、精神的/肉体的などの二項対立のなかに置かれ、他の趣味との関係のなかではじめて意味を持つようになります》。

 さらに芸術も、こうした否定による闘争の影響の中にあります。《わかりにくい作品というものは、言い換えれば、「わかりやすい作品への抵抗」としてつくられているのです。ですから逆に、ゴッホやピカソのような、すでに十分権威付けられていて、途方もない値段がついている、もっとも象徴的な利得を多く所有している作家や作品に対する反抗なのだということが理解できれば、現代アートの難解な作品も、とたんによくわかるものになります》

第3回「文化資本と階層」

 ブルデューは経済的な資本だけでなく文化資本、社会関係資本というものがあり、それぞれ蓄積し増やすことができるとしています。このうち《文化資本とは、経済資本と対比させることで社会や界の横幅を描くための概念です。ハビトゥスに近いものでもあるのですが、もうすこし具体的で、それは文化財、教養、学歴、文化実践、文化慣習、あるいはブルデューが言うところの美的性向などを指します》。

 《資本とは何か。それは投資され、増殖され、蓄積されます。そして所有する人々に「利得」をもたらします。音楽を聴くこと、絵を所有すること、映画を見ること、外国語を習うこと。それだけでなく、「よい大学」に行くこと、上流階級のマナーを身に付けること、すぐには役に立たないような「高級な」教養を身につけること。これらはすべて、投資され、蓄積され、そして利得をもたらす資本の一種なのです》と。

 ここからは簡単に。

 《美術館に行く回数には露骨な階級差があるといいます。上流階級ほど行く回数が多く、下層階級の人はあまり行かない》

 《映画館に足を運ぶ頻度は、収入や居住地に左右される割合が高い。しかし映画監督についての知識は、映画を見る頻度に関係なく、学歴が高い人ほど多い傾向がありました。つまり、それは「密接に文化資本の所有量と結びついている」のです》

 《ブルデューは、美的性向とは端的に言って、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受容する能力のことだと言っています。内容ではなく形式。絵画で言えば、描かれているテーマや対象ではなく、その「描き方」、つまりそれぞれの作品が持つ、描線や色彩のスタイル、技法、流派、「見せ方」を鑑賞し評価するための知識や態度のことです》

 《それらのスタイルや技法を十分に感受し価値づけするためには、美術界においてそのスタイルや技法がどのようなポジションにあり、ほかのスタイルや技法とどのような関係にあり、誰と連携して誰と闘っているのかについて、十分に詳しくなる必要があります》

 つまり、作品に対して距離を置くことで、冷静で客観的な態度を取ることができる、みたいな。そして、話しは文化的再生産論へ向かいます。学校教育は階級をシャッフルするためのものでもあるが、実際は階級を再生産している、と。

 《学歴という資本を得るためには勉強をしなければなりません。しかし、そもそも机に向かって勉強することができる、そうすることが当たり前であるという態度を持っていることが、学歴を得る場合には有利に働きます》《しかも、勉強することができる人はどのくらいのリターンが得られるかをおおむね予測できる》《学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化資本(身体化された文化資本)であるため、その資本が多いか少ないかによって学校での序列が決まり、ひいては社会での位置も再生産される》と。

 例えば、貧民街などで《ロールモデルになる学歴の高い人がいないとなれば、不良少年たちには、教室で我慢してみんなに合わせて勉強する意味がわからない。これはブルデュー的に言えば、知的能力ではなく、ハビトゥスのレベルでの排除》であり《不平等な階級格差が、むしろその下位の人々の「自由意志」によって再生産されているという、きわめて皮肉な現実があることを、ウィリスは詳細なエスノグラフィーによって見事に描き出したのです。教育社会学には、野心の冷却(クーリング・アウト)という概念があります。客観的なチャンスが存在しないところでは、主観的な野心も、はじめから存在しない》のであり、《学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本を、そのまま自動的に親と同じように高い地位に押し上げるための装置》だ、と。

 《東大生の親の年収を調べると、約六割が九百五十万円以上だといいます(東京大学「学生生活実態調査報告書2018年」)。全世帯のうち所得が一千万円以上のものはわずか十二パーセントですから(2019年「国民生活基礎調査」)、東大生の出身階層はものすごく偏っている》。

 こうした考えを進めると《文化資本がなければ社会を変えようとする発想そのものが生まれてこないとか、過酷で身もふたもない話になってしまう》が、幻想を持たずに他者を知ることを可能にしてくれる、と。

4回目「境界と境界感覚」

 こちらも簡単に。人は分けられていき、社会的にもそれが固定化されていきます。さらには内面にも境界線がひかれるようになって、排除されていると感じたら自分からそうした世界には近づかず、自主的に排除されていき、秩序を自然なものとして受け取る、と。自分に与えられているもので満足して、謙虚で慎ましく目立たない存在となる、と。

 《前回、学校での序列が社会的差異を再生産するという議論で見たように、その差異は中間層や下層階級の人びとにも内面化され、「これは自然なものだ」という見方を植えつけています。ブルデューは『ディスタンクシオン』の結論部分で、これを「客観的な境界」が「境界の感覚」になっていると説明》しているのですが、それは《デュルケームが「論理的適合性」と呼んでいたもの、すなわち社会界の多様な知覚カテゴリーの統一的編成が、社会秩序の維持にどれほど決定的な寄与をもたらしているかがこれで見てとれ》る、と。

 そして《ハビトゥスとは、もっとも広く捉えられた意味での「合理性」ではないでしょうか。冷静で客観的で科学的な合理性ではなく、もっと慣習的で、日常的で、実践的な合理性》だ、と。

 《人びとが圧政に苦しむ社会でも、楽天的に「やがて下からの革命が起こるだろう」とは考えません。逆に、民衆は「愚かな」人々だから、ただ苦しみに甘んじているのだ、とも考えません。そこには彼らのハビトゥスがあり、相応の合理性があるのだとブルデューは考えます。「いったいどうして民衆は革命を起こさないのだ?」ではなく、「革命を起こさないことの理由があるはずだ。まずはそれを丁寧に理解しよう」というのが、ブルデューを貫く信念》なのだ、と。

 《ブルデューは『世界の悲惨』の冒頭に収録されているインタビューで、人を理解するとはその人のハビトゥスを把握することだと述べています》《自分がどのくらい自由で何ができるのかよりも、自分の行為がどのくらい制限されているのか、どうやって制限されているのかを知るほうが、私たちを社会構造の鎖から解き放ってくれるのではないでしょうか。「重力の法則は飛ぶことを可能にする」とブルデューは言っています(『介入Ⅰ』)。幻想を持たずに希望を持つ。ブルデュー社会学が教えてくれるのは、その姿勢なのです》。

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December 30, 2020

2020年の一冊は『ブルシット・ジョブ』

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 岩波新書の「シリーズアメリカ合衆国史」が4巻で、「シリーズ中国史」が5巻で完結しましたが、今年の一冊はこれしかないなと思ったのは"Bullshit Jobs: A Theory" David Graeber(邦訳は『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店)。先進国のホワイトカラーの仕事はほとんど意味はなくなり、他人を助け利益をもたらし社会的価値が高い仕事ほど支払いは低くなった、というあたりは鮮烈。コロナで自分の生き方などを見つめ直した方も多いでしょうが、本当にいまやっている仕事に意味はあるのか、という問いかけは現役世代にはどう映るでしょうか。
 正確には読んだというより、Audibleでフィットネスジムの有酸素運動の間に聴いた本。シットジョブがブルーカラーの汚れ仕事であるのに対し、ブルシットジョブはホワイトカラーのどうでもいい仕事。どうでもいい仕事が多く、社会的な意味があるかどうか、働いている人が判断できないものがほとんど。現在の高度な資本主義社会の企業では公的部門も含めてそうした仕事が多くを占めているというのがアナキストでもあった著者の主張(2020年に逝去)。
 ソ連ではプロレタリアートを失業させないためにダミーな仕事を用意したのですが、現代資本主義社会でも、同じようにダミーな仕事が増加。社会主義政権や西欧の社会民主主義は90年代で終わったのに、現代資本主義でどうでもいい仕事が増えたのはサービス業の雇用が伸び、製造業の労働が開発途上国に輸出されたから。
 どうでもいい仕事を管理するタスクマスターの仕事も無駄な戦略づくりなどが多く無意味で、働いている人が本当に何のために働いているのかわからなくなるブルシットジョブが生み出され続ける、と。部下数と同じぐらい増えたマネージャーの数の問題などは誰が誰を詐欺しているのかという疑問となる。複雑なグローバルサプライチェーンを管理していると信じている人が実際には何もやっていない。
 従来も男は自分が物語をつくることができるような仕事を取って、残りを女性に割り当てていた。そしてプロテスタント的な倫理が無意味な仕事と思っていても、それに服従することは、より良い人にする道徳的な規律であるという考えを補強している。それは自分たちが信じるゲームをプレイしているようなサディズム。さらに右翼は産休などの新しい制度によって自分たちの権利が犯されていると感じ、左派は貧しく抑圧された人々は、自分たちが持っていないものはほとんど何でも受ける権利があると主張することが事態を悪化させている。左右両派とも無職は悪で、公の救済に値しない軽蔑的な寄生虫とみるというコンセンサスがあり、さらには「雇用創出」がすべてであるような政治文化がそのような結果を生み出している。オバマケアも不必要な管理職と管理職が無限に発生させている。
 政府の雇用の尊重は馬鹿げたショーであり、国連やブレトンウッズ体制で生み出された高額で快適な雇用は何の役立つのか。公務員は自分のしている仕事がいかに役に立たないばかりか、福祉の現場では破壊的であるかを理解している。
 芸術の世界でもキュレーターが台頭してきて、芸術家そのものと肩を並べ、ハリウッドでもメールを書いたりパワーランチをとったりすることが仕事の人間が多くなった。
 看護師、ごみ収集員、整備士く、バスの運転手、食料品店の労働者、消防士、シェフ、小学校の先生がいなくなったら大変だが、ファンドマネジャーがいなくなっても世界は困らないが、彼らは最も高い給与を得ている、と。

これも含めて、年末年始の読書にお勧めなのは以下です。

"Bullshit Jobs: A Theory" David Graeber(邦訳は『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店)
『ダーウィンの『種の起源』を漫画で読む』マイケル・ケラー (編・文)、ニコル・レージャー・フラー(絵)、夏目大(訳)、佐倉統 (監修), いそっぷ社
岩波新書の「シリーズアメリカ合衆国史」
同「シリーズ中国史」

『ダーウィンの『種の起源』を漫画で読む』マイケル・ケラー (編・文)、ニコル・レージャー・フラー(絵)、夏目大(訳)、佐倉統 (監修), いそっぷ社
須藤靖氏(東京大学教授・宇宙物理学)や垣添忠生日本対がん協会会長が激賞していたので読んでみて、感心。東大の先生たちが「難解で読み通せず、何度か挑戦したがダメだった」というのが理解できたというか、古典によくある書名だけが名高く実際は読まれない本だったんだな、と。1836年に帰国してから『種の起源』を発表する1859年まで23年もかかっていることにも驚いたが、自然淘汰という考え方は、マルサスの人口論に影響されていて、個体差の大きさが強調されていることがよくわかるとともに、当時から大型の絶滅哺乳類の標本資料とかよく整理されているのも驚き。営々として築かれてきた知識という巨人の肩の上に乗って学問というのは進むんだな、と。

『藤原定家 『明月記』の世界』 村井康彦、岩波新書
 「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」が「戦争などおれの知ったことか」というニヒリズムというより、平家滅亡、東国での権力出現から西国が圧倒されていくという日本史を画する大事件などは我関せずという姿勢だったというのは呆れるばかり。藤原氏などは治天の君への入内が依然として最大の関心事であり、それが兼実失脚という承久の変を生み、さらには東国の武士をみくびって承久の乱を引き起こしたというか。そうした中でも、政治的な危機感も抱かず、自分の官位を上げて家格を上げることだけを考えていた定家というのは、当時の王朝のイメージも含めてアップデートできました。当時は宮中ではなく里内裏だったことが前提というのは、なるほどな、と(p.11)。定家が子孫に故実を伝える部類化を行わなかったことが日記として残った理由(p.13)など最初から面白かった。

『グローバル時代のアメリカ』古矢旬、岩波新書
 1973年で南北戦争から続いた長い繁栄の時代が終わったという時代認識というか、65-73年のどこかが歴史の分水嶺になってるというのを最初に読んだのはドラッカーの『新しい現実』だったな、と思い出しました。また、70年代は「ポスト」の時代ではなかった、ともしています。ポスト市民運動、偉大な社会、ニューディール・リベラリズム、ベトナム、ウォーターゲートの時代だった、と(p.2)。その後、レーガンの政策を引継ぎ、ニューディールリベラリズムに終止符を打ったクリントンと、政党間対立を決定的にしたオバマケアが、ティーパーティーやトランプ産んだ、みたいな流れかな、と(p.263)。クリントン時代は経済格差の拡大と多文化主義的な自立集団の分立という二重の分断の危機をもたらした、みたいな(p.175)。

『古代史講義【宮都篇】』佐藤信、ちくま新書
 加藤陽子先生曰く「講義」本を早くから揃えてきたちくま新書ですが、古代史講義は【邪馬台国から平安時代まで】と【戦乱篇】に続く三冊目。白村江の戦いを指揮した唐の武将、劉仁願が664年に郭務宗を派遣してきたものの、入京を拒んだが、翌年、再び来航すると宴会を開いて遇し、遣唐使も送るなど動きが急になり、第3次高句麗討伐の命が下ると高句麗から使者が来るなど大津宮は白村江の戦いと切っても切れない関係にあった、というのは知らなかった(大津宮)。十世紀以降、国司となって赴任する者を受領と呼んだが、蓄財に余念のない受領層に目をつけ、造営させて、その成功報酬として官位を与える方式を定着させたのが院政期(p.237)などが印象に残る。

『中世史講義【戦乱篇】』高橋典幸編、ちくま新書
 武士による乱世は保元・平治の乱から始まるのですが、そうした暴力的な中世社会に挑戦し、克服した秀吉の偉大さを改めて実感するとともに、文禄・慶長の役の評価では、日本の軍事力をみたスペインが植民地化を諦めたという功績を見直す論議も出てきていることに驚きました。毛利が一時の覇者となった西国の争乱と、北条氏が籠城と外交で生き残る東国の「国郡境目相論」の地味さの対比が面白かった(第10講と11講)毛利は秀吉の中国大返しの追撃せず、関門海峡を挟んだ大友と戦いに備えたことで乱世を生き延び、さらには関ヶ原で負けても幕末には雄藩として明治維新を達成することに繋がったんですから、たいしたものです。


『「中国」の形成』岡本隆司、岩波新書
「シリーズ中国史」は、中国史を中原中心ではなく、草原と砂漠と海洋から見るという三次元的な歴史把握によって、新しい視点を得ることを目差しましたが、その完結編となる『「中国」の形成』は掉尾を飾るに相応しい印象的な一冊。中共は現在進行形でチベット、ウィグル、モンゴル、香港、台湾で問題が発生していますが、それは清代にたまたま確立された最大版図を維持する困難さを表していて、偶然がもたらした産物にほかならない、というのが著者陣の共通理解。そもそも新疆という言葉自体、1758年に服従しないオアシスのムスリムを征服し、天山南北路と合わせた「新しい彊地(境地、テリトリー)」。最終巻では、清朝が中原に覇をとなえられたのは偶然が重なったためだと何回も指摘し、明代までに山積した中央集権の制度疲労を改革できる能力もパワーもなかったと書いています。社会経済事態が外部需要で経済景況が上下する構造は明、清朝から克服されておらず、現代中国の経済発展も同じ構造、としています(p.187)。いま現在、アメリカが中共から資本を引き揚げさせようとしている狙いはここなのか、と思いました。

『陸海の交錯 明朝の興亡』壇上寛、岩波新書
 宋以降の1)中華と夷狄の抗争2)華北と江南の南北の対立3)草原を含む大陸と東南沿海の海洋中国の相克が元末で交錯して中国社会を激しく揺さぶり、その対応を迫られた明代を描きます。残念ながら、3つの対抗基軸を一元化するモチーフは儒教の論理だけで、極度に統制が強められたのみだったわけですが。モンゴルの制覇によってユーラシア大陸規模でヒト、モノ、カネ、情報が還流することになり、帝国崩壊後もオスマン朝、ティムール帝国、ムガール帝国、明・清のほとんどがチンギスハンの血統かモンゴルの権威を後ろ盾にした、と。しかし、その中で明だけはモンゴル色を排した、と。地球規模の寒冷化による災害・飢餓や社会動乱・戦争が続けざまに起こった14世紀と17世紀の狭間にあるのが明という時代だった、という書きだしからうなりました。秀吉の世界制覇プランは気宇壮大(p.180)。昭和陸軍と秀吉ぐらいじゃないのかな、こんなのは。

『草原の制覇 シリーズ中国の歴史3』古松崇志、岩波新書
 狩猟・放牧と農耕が可能なユーラシアのベルト地帯から多くの遊牧国家が勃興し、大きな勢力となったら南下して中原を支配する、という見方の方が、漢民族が中原を3000年間支配したという見方よりも現実的なんだろうな、と改めて思いました。モンゴル帝国によってユーラシアのベルトはヨーロッパまでつながり、それによって知識や技術が融合、「鉄の道」が再びつながり、それまで別々に進展していた知見も融合された、と。中共が進めようとしている一帯一路も、元はといえば遊牧国家が実現していたもの。当時、漢民族は家臣として遊牧民が建てた王朝に仕えていただけという図式を隠蔽したというか、西洋と遊牧民に対するコンプレックスの裏返しなのかも。考えてみれば中国の歴史で漢民族が支配する王朝は漢と宋、明だけで後はほとんど北方の騎馬民族の支配だったな、と。

『江南の発展 南宋まで』
 中国の古典国制が分裂国家から郡県制へ一本化されていく中で、一君万民思想が浸透していき、底辺においては「規制もないが保護もない」社会が生み出され、人々は「個人間の信頼関係」=「幇(ぱん)の関係」で身の保全を図っていく、という流れがよく理解できた一冊。特に5章は1980年代以降に解明されてきた副旋律である民衆や士大夫について深掘りしている。当時の南宋江南の地域社会にはボスである豪民、官庁の末端実務を担う下級役人「胥使(しょり)」が有力で、清明集ではそうした豪民、胥吏たちを地方官が裁判にかけて処罰する過程が詳しく書かれています。しかし、実際にはもちつもたれつの関係。歴代王朝は「小さな政府」で、地方官は地域の有力者の協力なしには実務を遂行することさえできなかった、と(p.164)。科挙に受かればオールマイティという「昇官発財」の広い門戸が開かれている一方、中間団体に属する人々は垂直・水平方向に激しく動くわけです(p.167)。西欧において議会制民主主義の基礎となった議会は、身分制に基づく団体が集まったものであり、身分制と議会制は相性が良かったが、中国では世襲的身分制の解体が戦国時代から始まり、これが日本や西欧と近代化の分岐の違いを生み、21世紀の中国でもエリートによる支配は変わらない、と(p.186)。

『関ヶ原大乱、本当の勝者』日本史史料研究会、白峰旬、朝日新書
 講談、小説、映画、テレビドラマなどで描かれてきた家康の問鉄砲は史実とは言いがたく、小早川秀秋は開戦当初から裏切ったたため西軍の右翼が崩壊し、山中に密集していた石田、宇喜多の主力は総崩れになり、島津義弘の敵中突破も午前中の早い段階だったという話し。さらには直江状も《実在したとは考えられない》というのに驚きました。もちろん「問い鉄砲」も後世の創作、と。

『戦国期足利将軍研究の最前線』山田康弘、日本史史料研究会、山川出版
 家系図をみると戦国期足利将軍はみな義教からの系譜なんだな、と改めて思います。義教が鎌倉公方を滅ぼすなど足利幕府の権力戦線を拡大した末に暗殺されて以降、足利将軍家は縮小再生産の道を歩むのかな、とか。義政と義視兄弟の子は短期間しか将軍の地位に就けなかったものの、その後は鎌倉まで辿り着けなかった末弟の政知の子が十一代将軍義澄となって義晴、義輝、義昭と続き、途中の義栄も阿波公方から生まれます。考えてみれば、「相伴衆」も義教期に成立した家柄・身分だそうで、いったんは幕府をリセットしようとした義教の研究を読みたいと思いました(p.125)。

『フットボール風土記』宇都宮徹壱、カンゼン
 Jリーグを目指すのではなく、地域密着で地元社会の健全な発展を最優先に考え時代のクラブづくりで大切なのは、生き残り。例えば三菱自動車はダイヤモンドサッカーのスポンサーだったのに、いまの三菱水島FCは不祥事を抱えた親会社の判断からJFLにも行かせてもらえないし、グラウンドは土で野球などと共有のまま。あきらかに撤退戦だけど、簡単には討死はしない、みたいな。FC今治も岡ちゃんがつくったのではなく、早稲田の先輩などが40年以上も守ってきたチームが母体になっているというのは初めて知りました。日本企業は発展を諦めているのでは?という外資からの厳しい視線が注がれることもあるのですが、ゴーイングコンサーン(継続)を選択する傾向が列島住民には強いし、その選択の可否はまだ決着していないのかもしれません。

『フランチェスコ・トッティ自伝「キャプテン魂」』トッティ、コンドー著、沖山ナオミ訳、東邦出版
 ASローマが優勝した00/01シーズン当時、セリエAは間違いなく世界最高リーグ。たった1回の優勝だけど、最高峰の選手が集まった中でのスクデットは大きな価値を持つだけでなく、ユベントスとの最後の頂上決戦で0-2と負けていた状況から中田英寿がみせた1ゴール1アシストの活躍は「よっしゃぁ!」と叫ぶ映像とともに日本人ファンに忘れられません。そしてホームでの優勝。終了前からファンがピッチに乱入し、ユニフォームを奪われパンツ一丁となるも《幸せは足し算するものではない。その重さに価値がある》と許すトッティ(p.144)。ティフォージの過剰な愛にたびたび困惑するものの、それでも「俺は彼らの愛に報いることをやったのか」と自問する姿勢こそ愛された理由。優勝直後のロッカールームで中田がみせたトッティ曰く火星人的な行動もさもありなん。少年サッカーの送り迎えで運転しながら勉強を教えてくれた母にはセレブ的に振る舞えないトッティ。彼が愛されたのはまっとうな中流家庭の躾を受けたからで、苛烈な育ちをしたカッサーノとの比較も印象的。

『まくらばな』柳亭小痴楽、ぴあ
 柳亭小痴楽は19年9月に落語芸術協会としては15年ぶりの単独真打昇進を果たした期待の若手。小痴楽の魅力はなんといっても様子の良さ。故歌丸師匠が次の芸協のスターはちー坊だと決めていたフシがあるぐらいの華がある。文楽師匠(もちろん先代)も様子が良くてモテていたらしいが、いま一番様子の良い落語家は小痴楽だと思う。

以下は旧刊。

『天皇と軍隊の近代史』加藤陽子、勁草書房
「総論 天皇と軍隊から考える近代史」では、上海事変の意義を満州事変から国際社会の目をそらすためという通説を見直し(p.46)、青年将校が積極的に極左派に指導されていた当時の日本共産党と連携を図り(p.28)、政党政治の存立基盤を危うくするとともに、列強経済に出血を強いることで、日本への干渉から手を引かせることにあったとしています。著者自ら《陰謀史観と見まがうような筆致》(p.44)と書きつつも、元老西園寺が陸軍を極左が動かしている、という観察を的確だと仮定。西園寺はこうした観察の上で、昭和天皇が求めた戦争の芽を鎮静化させるための御前会議開催を「会議の決定に従わない軍人が出たら、天皇の権威が決定的に失われる」として反対します。第二章「軍国主義の勃興」では、日本のヤマト王権成立には国内支配のための権威付けを行うためには朝鮮半島の王朝(新羅など)を日本が従属させているとの虚構、また、中国の歴代王朝と対等の関係を築いているとの虚構が必要だったとして、それは木戸孝允が王政復古がなされたならば、朝鮮は日本に服属すべきと言う認識を示すほどの長い影響力を持っていたとします。

『信長研究の最前線ここまでわかった「革新者」の実像』日本史史料研究会(編)、朝日文庫
 《楽市楽座令は地域住民の要望を受けて出されるもので、戦国大名のめざす立場は、都市や市場の強固な支配や搾取ではなく、これを復興・保護することにあったという見方が主流となっている》《不特定多数の人が集う市場では、商品の売買を強いる押売・押買や、質取などが横行したが、楽市楽座令の多くにはこれを禁ずる条文がみえることから、市場の治安維持を目的とした平和令》であり《戦国時代研究の第一人者である池上裕子氏は、信長の流通・都市政策について「信長のなしたことは、戦争を除けば、それらにつきる」と評価している。本章で取り上げた一部を概観するだけでも、その評価は的確といえよう。 だがこれまで述べたように、信長の政策はそのすべてが特別なものだったわけではない。市場や都市、商人を通じて物流を掌握しようと考えるのはごく自然で、それは他の戦国大名も同様である。信長の政策だけが「先進的」だったという実証はまだなされていない》というあたりはうなった。

『初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制』日本史史料研究会監修・亀田俊和編、歴史新書y
 新田義貞・北畠顕家らに敗れた足利尊氏が九州への下向を決めたと伝わる室津会議では、敗軍の将から将兵が去っていく中で最後まで従ったり、しんがりで戦ってくれるのは一門だろうというというリアルな考えを元に、一門大将を外様の守護に派遣した、と佐藤進一以来の通説を批判するあたりからスリリング(p.35)。日野業子、富子など娘が足利将軍家の正室になりまくっている日野家は義教に弾圧されたりしたけど、徳川家の家臣になったりして生き延びたり、一族から親鸞を出したり面白い一家だな、と。もっといえば、足利将軍家は日野家から正妻を娶り、赤松家から愛童を抱えるというか。室津会議では赤松則村の勧めに従って九州への下向を決めたと言われるけど、赤松家は美男の家系だったんでしょうか。

『南朝研究の最前線ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』日本史史料研究会、呉座勇一、朝日文庫
 研究者の方々には常識かもしれませんが《鎌倉幕府の後ろ盾により皇位を確保するなど、幕府への依存傾向がみられる持明院統に対して、大覚寺統は幕府から距離を置いていた》というのはハッとしました。同じように《天皇は、退位して上皇となることで初めて、積極的に仏教と関われるようになった》(k.3281)というあたりも単なる歴史ファンにはありがたい指摘。

『陰謀の日本中世史』呉座勇一、角川新書
 『応仁の乱』は畠山氏の家督争いを発端にした細川勝元と山名宗全の権力闘争で、義政の弟である足利義視が東から西に移ったことなどは二次的な問題であり、東軍勝利ということで居場所を失い、美濃に落ちのびただけ、というのを理解すれば、その後の展開もスッととける感じ。

『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫
 戦後史学などで《一揆がもてはやされたのも、民衆運動顕彰の一環である。このギャップが、人々のデモへの過剰な期待と、その後の幻滅を準備している》と書き始め、《デモがイマイチ盛り上がらない理由は色々と考えられるが、その一つとして、脱原発デモも戦後日本の諸々のデモと同様に、結局は「百姓一揆」の域を出ていない》として、百姓一揆は「武士は百姓の生活がきちんと成り立つようによい政治を行う義務がある」という「御百姓意識」に基づく待遇改善要求であるから、既存の社会秩序を否定するものではなく「政治はすべて武士にお任せ、ただし増税だけは一切拒否」という與那覇潤の言葉で説明。

『候景の乱始末記』吉川忠夫、志学社
 まさに名著復活という本。南北朝時代という混乱の時代区分は日中両国の歴史認識に深く根を下ろし、アメリカのCivil Warも「南北戦争」と思いっきり意訳しつつ、その本質をズバリと言い当てています。必ず勝つのは軍事力に秀でた北朝であり、南朝は日米中とも大義名分を唱えるだけで敗れさります。しかも文化、経済の画期となる分水嶺であり、事実上の今につながる領域での国家統一も南北朝と南北戦争はなしとげています。やがて中国は鮮卑属の北魏の将軍から身を起こした楊忠の子、楊堅が隋を建て、黄巾の乱以来と405年ぶりに統一を果たすのですが、そうした主要な政治勢力となる北朝から簒奪を受ける南朝、特に梁を中心とした話し。

 夏は光文社古典新訳文庫のプラトンを読んで過ごしました。Audibleは英語の、光文社古典新訳文庫のプラトンはギリシャ語のサビ落としに少しはなったかな、と。

『パイドン 魂について』プラトン、納富信留訳・解説、光文社古典新訳文庫
 エピクロスが《死は、悪いもののなかでもっとも震え上がらせるものだが、私たちにとっては無である。なぜかと言えば、私たちが存在する時、死は現に存在せず、死が現に存在する時、その時私たちは存在しないからである》と『メノイケウス宛書簡』一二五で書いたことは、その後の西洋哲学の死生観の基礎になっているのではないでしょうか。これはウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の《6.4311 死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間性が理解されているのなら、現在の中で生きる人は永遠に生きるのである。我々の視野が限界を欠くのと全く同様に、我々の生も終わりを欠いている》は有名なアフォリズムですが、そのオリジナルはエピクロスではないでしょうか。解説でも《死んでいくソクラテスこそ、「知を愛し求める者(フィロソフォス)」、つまり哲学者の究極モデル》というあたりは、福音書を思い出しましたし、ソクラテスの死が哲学の形成に大きな影響を与えたのは、哲学というのは、やはり死の解釈だからなのかな、と。

『メノン 徳(アレテー)について』プラトン、渡辺邦夫訳、光文社古典新訳文庫
 本文には「優れた」と訳されたアガトスαγαθοsという形容詞がよく出てきますが、それは《「アガトスな(優れた)」人はアレテー(徳・卓越性)をもつという関係が理解される。優れた建築家は、建築家のアレテーをもつ。優れた牛は、牛のアレテーをもつ。優れた人間も、人間のアレテーをもつ》からだ、と註が付けてられいます。さらに「美しい」ないし「立派な」の原語καλλοs「カロス」もよくでてきて、「よい」のagatosと共に良さ、悪さが議論の中心に。さらには「美しくて立派な(カロス)」と「優れた、よい(アガトス)」を「καi(英語でいえばandにあたる接続詞)」で結んだ形容句「カロスカーガトス」という単語も出てきます。καλοκαγαθοsはκαλοs καi αγαθοsという3つの言葉をまとめたもので《「善美の人」のようにも訳される。非の打ち所のない立派な人を褒めるときに使う、ギリシャ語表現》と註がつけられてます(3つにまとめられた単語は新約には出てきませんが、καλοs καi αγαθοsはルカ8:15の「立派な良い(心)」で出てきます。古典ギリシャ語ではお馴染みの表現を使うのはルカ的ですよね。

『ソクラテスの弁明』プラトン、納富信留訳、光文社古典新訳文庫
 《死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから》というあたりは西洋哲学の歴史全てに影響を与えてるんだろうな。さらには《ナザレのイエスが十字架に掛けられたことにより「キリスト教」が成立し、彼の教えが全世界に広まったように、ソクラテスの裁判とが「哲学」の意味を開示し、その営みを継承する人々によって西洋の哲学が成立して、今や日本をふくむ全世界で人々は哲学に従事しようとしているのである。彼の予言は、遺されたすべての人間へのメッセージとなった》という解説にもつながっていくのかも。《犬に誓って申しますが》というあたりの言いまわし、マルコ7:28の「食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」を思い出す。

『プロタゴラス あるソフィストとの対話』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫
 《われわれアテネ人が民会に集まるとき、わたしは次のようなことを目にします。たとえば、国が建築にかかわる何らかの事業をしなければならないとき、彼らは建築物に関する助言者として建築家を 招聘 するのです》の民会は新約では教会の意味のエクレシア(Ekklesia)。《正義と節度と敬虔、つまり、まとめてひとことで言うなら、人間の徳のことだとしよう》というので徳についての議論になりますが、同じギリシャでも新約の正義、節度、敬虔(ホシオン)、勇気の用法とは大分違うな、と。不安(Deos)も新約ではヘブ12:28だけで、意味は恐怖、畏敬。70人訳では第二マカバイに集中して出てきますが、やはり恐怖の意味で使われます。中澤務先生は註112で《不安(デオス)は比較的長期間にわたる認知的な気分であるのに対して、恐怖(フォボス)は瞬間的に感じる非認知的な感情》としています。

『饗宴』プラトン、中澤務訳、光文社古典新訳文庫
 少年愛(パイデラスティア)を中心としたエロスについての本。《愛する人が少年に対して愛情を示すときよりも、逆に、愛する人に対して少年が愛情を示すとき、神々はよりいっそう驚嘆し、賞賛し、よくしてくださるのです。じっさい、愛する人は神がかりの状態にあるがゆえに、そもそも少年よりも神に近い存在なのです》などの議論が続き、訳者による解説も《両者の関係は、少年が成人すれば解消される一時的なものでした。また、必ずしも相手が一人に限定されることはなく、複数と関係を持つことも可能でした。結婚することを期待され、大多数の成人男性は三〇歳を過ぎれば結婚して家庭を持ちました。しかし、結婚しても、少年との性的関係は並行して続いたのです。つまり、少年愛とは、女性との愛を排除するようなものではなく、並行して成立する別々の愛の形だったのです》と素晴らしい。。

 もう一冊読んだ『パイドン』もあとでまとめておきます。

『楽天の日々』古井由吉、キノブックス
 《記憶とは自分を相手にした八百長みたいなものだ》(空白の一日)。今年は古井由吉さんがお亡くなりになりました。眼は恐怖を対象化するが、耳は受け身であり、恐怖に押し入られるままになる、というのもわかるな(耳の記憶と恐怖)。

Robert Putnam "Our Kids"(邦訳『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』ロバート・D・パットナム)
 これもAudibleで聴いた本。
・人種差別や性差別はそれほど悪化はしていないけれども、階級格差は悪化している
・貧困家庭では異父兄弟がたくさんいる貧困の中で育つ子が多い
・上流階級の女性は嫡出で出産するが、下層階級の女性は独りで子供を産み離婚するする。これは下位3分の1の「家族の崩壊」。
・上流階級の家族の両親は教育に集中し、SATスコア(大学進学適性試験)に基づいて近所を選ぶ
・さらに家族の社会経済的地位(SES, socio economic status)は、アメリカの8年生が大学を卒業するかを予測する上でSATより重要
・貧しい十代の若者たちが過ごすのは、無関心で軽蔑的なスタッフしかいない、暴力と薬物乱用の子どもが蔓延する悪夢のような場所
・階級格差は各人種グループ内で拡大しているが、人種グループ間の格差は縮小
・上流階級はアメリカ史上初めて兵役を大幅に回避している

"Hillbilly Elegy: A Memoir of a Family and Culture in Crisis" J.D. Vance(邦訳は『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』光文社)
「バラク・オバマの存在は私たちの最も深い不安のど真ん中を叩く。私たちヒルビリーの多くはそうではないが、彼は良い父親だ。私たちが運が良く職にありついて、オーバーオールを着る間、彼は仕事に合ったスーツを着る。オバマの妻は、子供たちに特定の食べ物を与えるべきではないと語る。私たちは彼女が間違っているからではなく、正しいことを知っているから憎くらしく感じる」「バラク・オバマの存在は私たちの最も深い不安のど真ん中を叩く。私たちヒルビリーの多くはそうではないが、彼は良い父親だ。私たちが運が良く職にありついて、オーバーオールを着る間、彼は仕事に合ったスーツを着る。オバマの妻は、子供たちに特定の食べ物を与えるべきではないと語る。私たちは彼女が間違っているからではなく、正しいことを知っているから憎くらしく感じる」あたりが印象に残りました。

 コロナが酷かった頃には微分・積分に関する本をよく読んでいました。

『微分・積分を知らずに経営を語るな』内山力、PHP新書
 《「コンピュータで最大値、最小値を出す」というのは、ビジネスのありとあらゆるところで適用されており、微分の基本的な活用法》《成熟期の時間を長くしていくことの大切さがよくわかると思います。 また、衰退期も意外と面積(売上)が大きいことに気づきます。「日が経って売上が落ちても、企業への貢献度は高い」》《「偏差を2乗してその平均を取り、その平方根(ルート)を取る」――これが標準偏差の定義です》が、《この〝標準偏差を小さくして在庫を減らす方法〟は、あちらこちらでよく使われます》《ムダ(欠品、売れ残り)、ムリ(欠品率)、ムラ(標準偏差)》を減らすために微分・積分を用いる、というあたりは蒙を啓かれました。

『「ファインマン物理学」を読む 電磁気学を中心として』竹内薫、講談社
 これも一度、読みたかった本。「前提1 電流だけが存在するところには、磁場だけが存在する」「前提2 電荷だけが存在するところには、電場だけが存在する」というのにまず驚きました。コイルに電流が流れる時は動いている電荷だけしかないので磁場だけが存在する=「電荷と一緒に動く人が見ると、電荷は静止して見える」のが重要なポイントだ、と(p.40)。《電磁場は「モノ」(=実体)ではない。電磁場は「コト」(=現象)なのである》、と(p.64)。また《人類は、最初に時間変動が少ない電磁現象に気がついたために、長い間、電場と磁場を別々の現象と考えてきた。そのため、この2つが(本当は)切り離せない関係にあるなどとは、思いも寄らなかったのである》、と(p.78)。ニュートンの逆2乗則(物理量の大きさがその発生源からの距離の2乗に反比例するという法則)は、点電荷には大きさがないからR=0としなければならないが、それだと無限大になってしまうという問題があるというのもなるほどな、と。だから「くりこみ理論」が必要なんだな、という流れ(流れだけは理解できましたw。また、くりこみ理論は重力理論には使えないそうです。理解はまったくできませんが、凄いな、と)。

『小数と対数の発見』山本義隆、日本評論社
対数については、大航海時代に需要のあったサインやコサインのかけ算と割り算が面倒で、ネイピアが三角法の式を利用して積を和に直す方法を考えだしたあたりから発達した…ぐらいの理解が精いっぱいなのですが、今は当り前に使っている小数が長い年月をかけ改良されて来たというのは衝撃的でした。小数点(.)を使う表記はネイピアが対数を生み出す過程で考え出した副産物で、普及していった、というのが全体の流れでしょうか。

『モリソンの太平洋海戦史』サミュエル・E・モリソン、光文社、大谷内一夫訳
 これは一度、読みたかった本。特攻は、レイテ湾海戦で最初に使われたとは知っていましたが、沖縄戦の時にあれほど激しくなったのか、というのは不覚にも初めて知りました。どちらも、上陸を阻止するために、上陸部隊を援護するために沖合にいて無防備な船舶を狙ったんだな、と。同時に、虎の子の空母は護衛艦に守られて遠くにいたので、ほとんど打撃は与えられなかった、みたいな。それでも、ロケット推進の菊花は米国艦隊に対する最大の脅威で、ドイツのV1、V2ロケットに匹敵するとまで述べています(p.431)。また、原爆使用の理由を述べる流れで、本土決戦のために5000機以上の機体とパイロットが訓練中だったとしているのは初めて読みました(p.447)。ちなみに菊花は日本語の「馬鹿」にちなんだBaka Bombというコードネームをつけられていたんだなと。

『NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』』國分功一郎、NHK出版
 國分先生は『中動態の世界 意志と責任の考古学』を書くことで、ずっと読んできたスピノザの理解が深まったとして、100分de名著シリーズを引きうけたんですが、そもそも中動態(中動相)というのは日本語文法にはない概念。動詞の示す動作が主語に対し特別に深い関係をもっていることをあらわすもので、例えばλουω(洗う)の中動態λουομαιは「自分を洗う、入浴する」の意味となります。ぼくにとってスピノザとは、非哲学的な言いまわしが多かったデカルトを受け継いで、首尾一貫した理論へと仕上げたものの、神のうちで無限と有限が精神的に一体化するという東洋的な余韻が感じられる哲学者byヘーゲル『哲学史講義 下』長谷川宏訳、p.239-というイメージでした。ところが国分先生の理解は正反対。デカルトによって構築され近代科学の基礎にもなった「自由意志に基づく人間」観ではなく、スピノザはこれを批判して、多くの要因によって人が自分の意思で選択したようにみえるけれども、実は行為の原因は知らないのではないか、という点が重要だ、というんです。神という全体の内で原因は外にあるものの、個人はコナトゥス(自分の存在を維持しようとする力)のために自らの力を表現するのが自由につながる、みたいな流れになるのでしょうか。


『ざっくり分かるファイナンス~経営センスを磨くための財務』石野雄一、光文社新書
 今年はリフォームにあわせてリビングなどに乱立させていた本棚から5000冊を処分し、書斎に3000冊だけ入れる作業を完了させたので、あまり本を増やさないという方針で、kindleによる読書を増やしました。これからは、学術論文でもkindle位置ょ章を示すようなことになるんでしょうか。ハイライト箇所をコピーすればまとめる際にも便利。ざっくりいってこの本は期待収益率=WACCを評価基準にした企業財務の見方の解説と、キャッシュフローの重要性を強調したという感じでしょうか。最も大切な一節は《企業価値を高めるためには-中略-フリーキャッシュフローを極大化して、割引率であるWACCをできるだけ下げる。あとは余計な非事業資産があるなら、それを売却するなりしてキャッシュに変え、再投資に回す、あるいは投資家に還元する》というあたりで、経営者の使命はWACC以上のROIC(投下資本利益率、Return On Invested Capital)を上げることだ、と。そして、ファイナンスとは《事業活動を行うためには、何かにお金を投じること(投資)が必要です。この投資に関する意思決定》である、と。

『刑務所わず。 塀の中では言えないホントの話』堀江貴文、文藝春秋
扉で書かれている「人口の4%は受刑者」という数字は、国立大学の大学院の入学者のパーセンテージと同じだと思います(よく入学式で語られます)。なんつうか、きれいな対比だと思います。《「バブルは悪だから資本主義に代わる新しいイデオロギーが必要だ」っていう人がいるけど、「ウィルスや細菌は人間には悪だから撲滅しないといけない」ってのと同じ》というコロナ騒ぎの今にも通じる言葉を残しているのはさすがだな、と。

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December 25, 2020

『信長研究の最前線ここまでわかった「革新者」の実像』日本史史料研究会(編)、朝日文庫

Nobunaga-kenkyu

 復刊されている「研究の最前線」シリーズ、今回も勉強になりました。例えば《信長の家臣団は、与力・家来による二重構成をとっていたとされる》なんていうあたりも、研究者の方々には常識なんでしょうが、改めて言われてみると、なるほどな、と。《信長は贈物をみた後、他の人たちが贈物をした場合と同様に、そのうち三つをフロイスに返し、びろうどの帽子だけを受け取った。信長は、贈物のなかで気に入ったものだけを受け取ったのである》というあたりも印象的。当時の振る舞いがうかがわれますし、信長っぽいな、と。

 信長の革新性の否定というあたりでは、将軍権力との関係や楽市楽座のあたりが印象的でした。

 義昭と信長の権力構造は、けっしてこの二人にのみ見られた特異なものではなく、十五世紀以来の足利将軍家と細川京兆家の関係や、前述の第十代義稙期における大内義興・細川高国、第十二代義晴期の六角定頼などと似ていたし、信長の京都支配は発給文書の視点からは、信長独自のものではなく、従来の将軍と大名の関係の延長線上にあった、というあたり。

 また《楽市楽座令は地域住民の要望を受けて出されるもので、戦国大名のめざす立場は、都市や市場の強固な支配や搾取ではなく、これを復興・保護することにあったという見方が主流となっている》《不特定多数の人が集う市場では、商品の売買を強いる押売・押買や、質取などが横行したが、楽市楽座令の多くにはこれを禁ずる条文がみえることから、市場の治安維持を目的とした平和令》であり《戦国時代研究の第一人者である池上裕子氏は、信長の流通・都市政策について「信長のなしたことは、戦争を除けば、それらにつきる」と評価している。本章で取り上げた一部を概観するだけでも、その評価は的確といえよう。 だがこれまで述べたように、信長の政策はそのすべてが特別なものだったわけではない。市場や都市、商人を通じて物流を掌握しようと考えるのはごく自然で、それは他の戦国大名も同様である。信長の政策だけが「先進的」だったという実証はまだなされていない》というあたりはうなりました。

 さらには《天野忠幸氏によれば、信長による流通・都市支配の実態は、彼が上洛を果たす前の堺・尼崎や寺内町など、大坂湾一帯の港湾都市を経済基盤とした、三好氏の支配体制を再編継承したもの》であり《法華宗を対象とした宗教政策は、京の都という都市政策の一環でもあった。このように、信長の法華宗に対する政策は、単純な宗教政策では語れない一面をもってい》た、と。

 また《秀吉が甥の秀次に関白職を譲与しながら、秀頼誕生後の文禄四年(一五九五)に妻子も含めて粛清した理由について、織田氏の血を引く秀頼の正統性によって説明しようとする論説もあ》り、さらには、大坂冬の陣でも《強硬派の津田左門(長益子息)による秀頼追放・信雄擁立すら取沙汰された(『駿府記』)。慶長末年(一六一〇年代前半)に至っても、織田一族が高い権威を保持していたことを示す一幕だろう》というのは知らなかったな。

 武田氏との関係も知らないことがいっぱいだし、《信長の上洛と信玄の駿河侵攻は、両者の共同で行われた軍事作戦であったことが明らかにされている》とは驚きました。

 《岩村(岐阜県恵那市)城主の遠山景任・直廉兄弟には信長の叔母と妹が嫁ぎ、織田氏は遠山氏と姻戚関係を結んでいた。この遠山氏が、信長と信玄が同盟を結ぶ際に、重要な役割を果たすことになる》など深い関係があったとは知らなかった。《織田氏と武田氏の勢力が境を接するようになった状況では、互いの衝突を避けるために、間にいる遠山氏が緩衝材のような役割を果たすことが期待された》というもあったんだな、と。《信玄は信長の同盟者であった三河の徳川家康と「国分」(領土分割)を協議し、ほぼ同時期に双方から今川領国に侵攻する作戦を実行した》《この時期の信長と信玄は、将軍義昭を支える有力な戦国大名として協力する関係にあったが》《その後、信長と信玄が対立した背景には、徳川家康の存在があった》という流れは納得的。織田と武田《両者の同盟破綻を決定づけたのは、武田軍の織田・徳川領国への侵攻であった。元亀三年(一五七二)の八月から九月にかけて、信玄は義昭の命令で信長と本願寺との和睦を仲介したが、信玄は信長への「遺恨」を本願寺に伝えており》それは家康への鬱憤だった、と。さらには《これまでは将軍義昭が「信長包囲網」を作り上げ、信玄がその一翼を担ったと考えられていたが、逆に義昭が信玄の快進撃を受けて信長の没落を予見し、信長と敵対していた朝倉・浅井両氏や三好氏、本願寺などと手を結んで行動を起こしたのが真相だったようである》というのも凄いな、と。

 この後の武田氏滅亡の説明も最初につながります。《滅亡の原因は信玄が残した負の遺産(本来は諏方氏を継ぐはずだった勝頼の後継者問題、信長との抗争など)や、武田氏の外交政策の失敗(北条氏との同盟破棄)が挙げられている》《かつて東美濃の岩村城が武田方の手に落ちたとき、信長の子の御坊丸は人質として甲府に送られ、のちに武田氏の通字の「信」を与えられて信房と名乗っていた。勝頼はこの信房を信長の元に返し、和睦交渉の仲介役としての役割を期待したが、効果を挙げることはできなかった。 翌年には本願寺の門主顕如が信長と和睦して大坂(大阪市)を退去し、また関東の北条氏も信長に誼を通じて従属を申し出ていた》
 《とくに北条氏は、信長が勝頼を滅ぼすにあたって関東口から軍勢を出し、信長への従属を表明しており、さらに北条氏政は三島大社(静岡県三島市)に願文を捧げ、嫡男の氏直が信長の息女を娶り、信長の下で北条氏が関東を支配できるよう祈っている》と八方塞がりとなった、と。そして《武田氏の滅亡後に信長が東国の領土裁定(東国御仕置)を行い、現地の諸大名がそれに従った事実は、信長の政権が「天下」(畿内)とその周辺を支配する領域権力(織田権力)から、各地の領域権力(戦国大名)の上に君臨する中央政権(織田政権)になった》と。

 《信長の人材登用は能力主義といわれるが、けっして能力を発揮する機会が平等に与えられたわけでも、その能力が公正に評価されたわけでもなかった》《尾張出身者には、無残に改易された佐久間信盛のような末路しかなかった》というあたりから本能寺の変を説明するのも素晴らしい。《光秀は本能寺の変を藤孝の嫡男で娘婿の忠興を取り立てるために起こしたと述べ、畿内近国「天下」平定のうえは退き、自身の子息十五郎(実名を光慶とされる)や忠興に政務を委ねると記しているのである。つまり自身および一族に連なる配下の後裔たちのためとは、家の政治生命およびそれに伴う格の護持であり、本能寺の変はそのために起きたのであったことが、この光秀の証言よりわかる》と。

 さらに《このため近江国を平定し、安土城へ入城した光秀の早急な政治対応は、この摂津衆に対する制圧へと向けられることとなる。こうした事態に対して、摂津衆は明智氏へ屈強な敵対態度を示すとともに、自分たちの援護を各地の織田家臣に求めていく。そして、この摂津衆の働きかけにいち早く援護の対応を示した存在こそが、中国地方で安芸毛利勢と対陣を続けていた羽柴秀吉であった》というあたりから中国大返しが始まる、と。

 以下も印象に残ったところの引用を中心に。

《現在の信長観を植えつけたのは、戦前・戦後を通じて活躍した近世史家の今井林太郎氏(一九一〇~二〇〇三)なのかもしれない》

《さらに今谷氏は、天文年間以降(一五三二~)における細川京兆家(管領家であり細川惣領家にあたる)、三好長慶、松永久秀といった将軍以外の大名などの畿内における権力を検討し、戦国時代の将軍・幕府に対して、細川京兆家を中心とした「京兆専制体制」論を提起したのである。これらの研究が戦国時代の将軍・幕府研究に与えた影響は大きい》

《戦国時代の幕府の政務に関与し、将軍・幕府を支えた大名は、信長が最初ではなかった。これらの大名たちは、いわば信長の前提となるべき存在であり、大内氏や六角氏の権力との比較については、まとまった研究はまだなされていないが、信長が特別な存在でなかったことは確か》

《久野氏の提起した「二重政権」とはどのようなものであったのだろうか。久野氏は、義昭期の幕府は義輝死後、なかば停止されていた従来の幕府の諸機能を復活させており、幕府を再興したとされた。ここでいう幕府の諸機能とは、各種相論の裁許や安堵のほか、財政・守護補任権・軍事動員権などである。そして将軍義昭は、信長の「傀儡」でなく、その権力は信長の軍事力などによる権力と相互補完の関係にあり、そのような体制について「二重政権」であると規定された。また、久野氏は将軍義昭・幕府について、畿内(京都周辺の地域)を直接支配し、また権限の及ぶ範囲である「畿内における最大の政治権力であった」》

発給文書の《同じく「執申」を有する奉行人奉書は、第十代将軍義稙期には大内義興の、第十二代将軍義晴期には六角定頼の事例が存在し、そのほかにも十六世紀に発給された奉行人奉書には複数の事例が存在していた。「執申」の事例でも判明するように、信長の独自性と理解されていたものに、実際には先例があったことが続々と解明されている》

《「幕府」の定義として、藤田氏は将軍任官が絶対条件でなく、右近衛大将に就任した「公儀」と呼ばれた権力者による政権と定義された》

《現在では、戦国時代の将軍・幕府は諸大名と相互補完しながらその滅亡に至るまで、諸裁判などの案件の処理のほか、守護補任権や大名間の和平交渉、軍事動員権などの機能を継続して維持しており、「傀儡」ではなく、政務遂行に積極的に取り組んでいたことが知られるようになった。 結果、義昭の幕府はそれ以前の戦国時代の将軍・幕府と同様に機能していた》

天正改元と信長の権力については《天正改元は、信長が対立していた義昭を京都から追放した三日後の元亀四年七月二十一日に朝廷へ申し入れ、まもなく実施された(七月二十八日)ことから、これまで「織田政権発足のシンボル」と見なされてきた》《朝廷の改元希望を信長は承諾したが、義昭は聞き入れなかった。義昭は、将軍任官後に、自身と朝廷が歩み寄って実現した「元亀改元」に思い入れがあり、元亀年間の継続に執着していたのであろう》と。《改元には朝廷が武家権力者の正当性(誰が武家権力のトップたりうるか)を認定する意義もあった》

《なぜ、信長は二度にわたって閏月の有無、つまり宣明暦と地方暦の違いを問題視したのか。この理由は、信長が天下統一に向けて、各地でそれぞれ異なる暦を用いているという状況を改めるためだといえる。この年の三月、武田勝頼を討った信長は、東国を統合した存在と見なされていた》《本来ならば作暦は暦家の賀茂家が行う職務(家業)であるが、このとき、実際に暦を作成していたのは土御門家の久脩であった。これは、戦国時代、賀茂家に跡継ぎがおらず同家は一時断絶したことによる。そのため、土御門家が自身の家業である陰陽道に加え、賀茂家の家業の暦道も担うことになった》


《信長が上洛した際に麾下に属した松永久秀は、これより前に弾正少弼に任官していたが、これが弾正忠の上官にあたることから、信長を憚って山城守に改め》たほか《他者は、私称官途を認めればそのまま呼び、敵対するなどして認めない場合は、仮名や別の官途で呼んでいたのである》というあたりも面白かった。

《天正三年(一五七五)は、五月に長篠の合戦で武田勝頼に大勝し、八月には越前一向一揆を平定して一時的に本願寺と和すなど、信長にとって政治的安定がもたらされた年であった。七月には明智光秀ら一部の家臣の任官も行われている。信長の権大納言兼右大将は、これらの政治情勢を背景に行われたものであり、義昭をも上回る、新たな政治的立場を手に入れるために、朝廷から推認を受けた結果であろう》

《信長は豊後大友義統の左兵衛督や、常陸佐竹義重の常陸介をはじめ、地方の大名の叙任を朝廷に取り次ぐことをしていたが、こと織田家中に関しては、信長は自身および息子・一族と、家臣とのあいだに歴然とした格差を設け》たが、家臣には上位の官途は名乗らせなかった、と。


家康、秀吉との関係も興味深い。《信長と家康の軍事援助の実態をみると、元亀元年(一五七〇)以前と天正三年(一五七五)以降とでは質的に変化があることに気付く。元亀元年以前は、家康の信長への軍事援助が、将軍足利義昭の要請に基づいている。信長が家康に軍事援助を要請するには、将軍足利義昭を介さなければならなかったのである。信長と家康は、将軍足利義昭の下で対等な立場にあったと捉えられよう》

《天正八年当時の秀吉は、おもに中国地方で活動していたが、その声望は関東でも知られており、太田道誉は対織田氏外交を展開するうえで、織田家中の実力者である秀吉とも通信関係を構築しておくべきと見定めたのであろう。秀吉の存在感が、本来の活動範囲を超えて高まっていた証左となりうる》し《信長は中国地方の経略を浦上氏による間接支配から、秀吉を指揮官とする軍事制圧に路線転換したと位置付けることもできる》《こうした秀吉の権勢は、その才覚に加え、養子に迎えた秀勝の存在も作用していたと考えられる。秀勝は信長の五男であり、羽柴氏は次代以降に織田一門として遇されうる立場も確保した》《天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳合戦で信孝と結んだ柴田勝家が滅亡し、次いで信孝も自害すると、織田家中では、信雄ではなく秀吉から知行宛行を取得する事例が続出するようになり、信雄家督体制は急速に有名無実化した》《秀吉が信長五男の秀勝を養子にしていたことは、三法師・信孝や信雄の正統性を相対化する方向にも作用したのであろう。結局、小牧の陣で信雄は劣勢を覆せずに秀吉と和睦し、織田氏から羽柴氏への政権移行はほぼ確定》

四国戦略も勉強になりました。《信長は四国各地に目を配りつつ、九州地方へも関心を寄せていた。これは、とりもなおさず毛利氏攻略のための布石であって、冒頭で述べたように元親の動向のみを念頭においた政策ではなく、絶えず四国各地で複雑に絡み合う情勢に対応した政策であった》《従来の四国政策は、長宗我部氏側に対する四国領有の承認を反故にした信長の転換に激怒した元親の離反によって「四国攻め」が決定されたと理解されてきた。しかし、そこに信長と元親の対立でしか語られてこなかった傾向を危惧する研究も出はじめ、現在では、阿波三好氏を四国政策の中心に据える研究が主流になりつつある》とのこと。

信長と法華宗との関係も知りませんでした。《勧進が宗教行為であり、法華宗と町衆との信仰に基づく関係によって成立するものであった。したがって、信長の都における経済政策は、法華宗の存在がなければ成り立たなかった。信長は、都市政策において法華宗を利用したという側面を有した》というのも知らなかった。さらには《本能寺は法華宗の本山寺院である。たしかに、法華宗の寺院は堀がある要塞というような一面を持つ。それは、一向一揆や比叡山との攻防という歴史性も考慮しなければならない。ただし、信長の曽祖父である織田敏定は熱心な法華宗の信者で、とくに十五本山の一つである本圀寺に帰依していた。信長は、永禄十一年(一五六八)、将軍義昭を奉じて入京し、同年十月に本圀寺に入ったのである》というところまでつながっているとは。

文化面では《相撲が行われるときは、大々的に人が集められていることは共通したところであろう。そして、その場面において、知行を百石拝領するなどという人物も記事に書かれていることから、相撲という文化的な要素も含みながら、家臣の登用を行う目的も存在した》とか《能のあとで舞を舞うことは、正式ではないものの、信長が所望して、もう一番舞うようにと指示があり、幸若八郎九郎大夫は「和田酒盛」を舞っている。すぐれてよく舞い終えて、これで信長の機嫌は直ったという。型がある事柄について、それを破ってでも事を進めた様子》があり《信長は為政者として積極的に文化的な側面にかかわったことが明確になっている》と。

《尾張一国が約五十七万~五十九万石であったことから、織田・今川両氏の動員可能兵力に大差はなく、織田軍の実数は通説の二千~三千人より実際は多かったのでは》ないかという見方もあり《『信長公記』に出てくる今川軍へ正面攻撃を行った織田軍二千は、信長直轄の旗本で、援軍を含めた全織田軍の一部にすぎないとの説》もある、と。

武田氏との関係でも《輪番射撃を行ったとの記述が明の記録に残されていること、『長篠合戦図屏風』に銃兵が二列、前列が座った姿で、後列が立った姿で描かれていることから、移動を伴わない輪番射撃が行われた可能性を指摘している》というのも面白かった。

《信長は信秀没後の苦境を打開する過程で、勝幡織田氏という「イエ」ではなく、信長という「ヒト」との関係を存立の拠所とする家臣たちとの情誼的結合を深め、地位を引き立てたのである(成政・利家の場合は嫡流の継承)》

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『南朝研究の最前線ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』日本史史料研究会、呉座勇一、朝日文庫

Nanbokokucho

 《「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手である。Nodocument,nohistory(史料がなければ、歴史はない)という言葉を思い出すべき》(kindle位置1351、以下、k.1351)

 一番印象に残ったのは細川重雄先生による〈4 後醍醐と尊氏の関係 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?〉にあったこの言葉です。小説家や自称研究者が「偽史」とでもいうべき物語を、ありえたかもしれない日本近代を描き直そうとして書くケースが増えていますが、そうしたものは最初からアウト、ということで厳しく指弾する必要を改めて感じました。

 また、研究者の方々には常識かもしれませんが《鎌倉幕府の後ろ盾により皇位を確保するなど、幕府への依存傾向がみられる持明院統に対して、大覚寺統は幕府から距離を置いていた》というのはハッとしました。同じように《天皇は、退位して上皇となることで初めて、積極的に仏教と関われるようになった》(k.3281)というあたりも単なる歴史ファンにはありがたい指摘です。

 《関東の国々では守護の職権が、一国全体に満遍なく及んでいたわけではなかった》(k.3723)というあたりもクリアカット。こうしたことを前提に考えることができると中世史の本の読み方も違ってくるな、と、一般読者向けのこのシリーズに感謝。

 さらに、戦前の東大の研究者は国定教科書の編纂に携わっていたというのも知りませんでした。これは南北朝研究では、先進的な部分もあった平泉澄を皇国史観をつくりあげた張本人と切り捨てるだけで問題は解決できないという問題にもつながります。亀田俊和先生も《平泉の「研究史整理」が正しいことがわかる》と書いていますが、それ以上に《なぜなら、東京帝国大学に所属する研究者は、国定教科書の編纂にも携わっていた》(k.4491)ほど研究と歴史は切り離すことはできないから。個人的にはまったく問題はないと思うけど、今も東大の日本史研究は山川から雑誌を支援してもらっています。だから某本郷先生などは喉も裂けよとばかりに高校教科書の定説に反するような研究を否定するのだろうか…などとも考えてしまいました。

 以下、箇条書きで。

〈はじめに 建武政権・南朝の実像を見極める 呉座勇一〉

《後醍醐天皇の宗教政策は、鎌倉後期の歴代天皇、特に後醍醐の父である後宇多上皇(一二六七~一三二四)のそれをおおむね引き継いでおり、後醍醐の「異形」性には限界があったことが浮き彫りにされた》

《鎌倉幕府―建武政権―室町幕府の三者の間でスタッフの連続性が認められる(本書の森幸夫論考を参照)。公家官僚に関しても、後醍醐天皇が用いた者の多くは、後宇多上皇に仕えた廷臣たちの子孫であることが解明された(本書の杉山巖論考を参照)。建武政権・南朝は大覚寺統系の公家たちによって支えられた朝廷だった》

【第1部 建武政権とは何だったのか】

〈1 鎌倉時代後期の朝幕関係 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった! 中井裕子〉

《亀山は政治改革をどんどん進めた。先ほど述べたように、鎌倉時代後期の為政者たちは、徳政を意識して政治を行っていた。このころ徳政政策の代表格とされていたのが、増加する土地訴訟への対応であった。幕府では安達泰盛(一二三一~八五)が訴訟制度の改革に乗り出した。それに呼応するように、亀山も弘安八年(一二八五)に「新制」と呼ばれる朝廷政治の進め方を示した法令を制定した》ように亀山が上皇になっても《公武が手を携えて同じ方向へ進んでいた。その結果、朝廷と幕府の裁判制度が似通ったものになっていった。この素地があったからこそ、鎌倉幕府が倒れたあと、建武政権が曲がりなりにも緒に就くことができたのである》

両統迭立の中で《政権を勝ちとるために有効な方法と考えられたのが、訴訟制度の充実である。持明院統の伏見天皇(一二六五~一三一七)は記録所の改革を行った》が《鎌倉時代後期、荘園社会の動揺などで朝廷に持ち込まれる訴訟が増え、それを裁決する治天の君が果たす役割が大きくなった。しかし天皇家が分裂してしまったことで、治天の君の裁許が対抗する皇統の院・天皇により覆される可能性が出てきてしまう。そこで後醍醐は、治天の君に強い力を持たせようとした(市沢:一九九二)》《後宇多と後醍醐は不仲であったといわれているが、政治の手法に関しては、後醍醐が後宇多を見習っていたことがわかってきた》

〈2 建武政権の評価「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか 亀田俊和〉

『太平記』では《後醍醐に諫言した硬骨の廷臣万里小路藤房(までのこうじ・ふじふさ 一二九五~?)が、諫言が聞き入れられなかったために出家・遁世した事件が描写される》が、これが建武政権への普遍的イメージとなった。また、《平泉の「研究史整理」が正しいことがわかる》ほどで《戦後の建武政権研究も、まさに『太平記』史観の申し子であり、かつて平泉が嘆いた段階に先祖返りしていたのである。否、学術研究の世界では「忠臣」史観が後退した分、建武政権に対する評価はいっそう悪化したといえるだろう》とのこと。

《佐藤は、後醍醐が自ら発給する綸旨で政務のすべてを決裁することを目指したとする、いわゆる「綸旨万能主義」を提唱したことで著名である。加えて、後醍醐が目指した君主独裁体制が中国宋朝(九六〇~一二七九)の模倣であったとする見解も看過できない。後醍醐は、宋朝への志向に基づいて官司請負制・太政官制度を解体し、官僚制の構築を目指した。だが、日本においては官僚制をつくる基本条件が存在しなかったため、新政は挫折した(佐藤:一九六五)》

《古澤は、《「不公正な裁判にもとづく》即決主義、その在地への強制》という、倒幕勢力を形成した鎌倉幕府末期裁判の性格を、建武政権はまさに最悪のかたちで再現」したのであり、「むしろ得宗専制以上に政権としての新政の可能性は低い」と断じた(古澤:一九九》。現在の研究では《南北朝内乱に勝利し、曲がりなりにも安定した長期政権を築いた室町幕府が、建武政権の改革政策の多くを模倣・継承したことを根拠に、建武政権の現実性を再評価して》おり、《数百年にわたって日本人を束縛してきた『太平記』史観からようやく解放され、政治史的に建武政権を「前代鎌倉期朝廷―幕府」と「後代室町幕府」の中間に位置づけようとしている。皇国史観とは別の意味で、現実的・有効な改革政権として客観的に評価する機運が生じつつあるといえよう》

〈3 建武政権の官僚 建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち 森幸夫〉

《名和長年(?~一三三六)は、周知のように、鎌倉幕府が滅ぶ元弘の乱(一三三一~三三年)の際に、後醍醐天皇を配流地の隠岐から伯耆国船上山に迎えた武士である。いわゆる後醍醐の忠臣でもある。長年のような存在が、記録所職員としてみえていることは非常に興味深い。彼は上記三人と異なり官僚の家に生まれていないので、当然ながら後醍醐により取り立てられたと考えてよい》《長井氏は初代政所別当の大江広元流、大田氏は初代問注所執事の三善康信流、摂津氏は朝廷の下級官人中原氏流》《長井氏は初代政所別当の大江広元流、大田氏は初代問注所執事の三善康信流、摂津氏は朝廷の下級官人中原氏流である》

《関東と六波羅探題の官僚メンバーの大きな相違は、北条氏の有無である。例えば関東では、五番編成の引付のうち、一番から四番の引付頭人を北条氏が占めるようなことがよくあった。これは、引付頭人職が政治的地位を表すものとなっていたことによる》《六波羅探題出身の官僚が、雑訴決断所職員に最も多く採用されたのはなぜだろうか。建武政権が京都に置かれたという事情も無視できないが、六波羅の官僚たちが北条氏とあまり関係を持たない、純粋な官僚集団であったことが、建武政権による人材登用をもたらしたと考えられる》

《これは摂津親鑒(?~一三三三)・高親(同前)父子が、得宗北条高時(一三〇三~三三)とともに自害するなど、北条氏と密着した存在であったからだろう》

《皮肉にも、建武政権は、都に不慣れな旧関東関係者を京都に結集する役割をも果たし、のちに室町幕府官僚に連なる人々に、都での貴重な実習の機会を与えていた》

〈4 後醍醐と尊氏の関係 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか? 細川重雄〉

《後醍醐の命を受けた新田義貞が鎌倉に迫ると、尊氏は「もうナニもかもイヤだ!」とばかりに、浄光明寺に籠もってしまった。だが、兄に代わって出陣した直義の苦戦を知らされると、「直義が死んだら、自分が生きている意味はない!」と叫んで出陣し、義貞を撃破したのである。支離滅裂である》

《鎌倉後期になると、御家人には格差が生じ、執権・連署・六波羅探題(北方・南方)・引付頭人・評定衆・引付衆などの、幕府要職に世襲的に就任する家系(北条氏がその代表)の人々は、幕府の支配層といってよい状況となる》

足利氏は二代目から七代目までの当主《六人全員が国守に任官し五位に叙されており、鎌倉時代を通じて有力御家人の地位を保ちつづけている。 しかも、四代泰氏(一二一六~七〇)の丹後守任官は二十一歳、五代頼氏(一二四〇~六二)の叙爵は二十歳、六代家時は叙爵十七歳以前、伊予守任官は二十三歳と非常に若く、さすがに得宗には及ばないものの、幕府要職の就任者を出す北条氏有力庶家(前掲「足利氏当主の婚姻関係図」に載せた佐介・常葉・金沢・赤橋家はその一部)出身者に比肩する》

《頼朝と義兼は、熱田大宮司藤原氏・北条氏によって婚姻関係で二重に結ばれた》義兼は足利家二代目当主で、《北条氏以外の女性を母とした当主は、父頼氏の妻となった佐介時盛(一一九七~一二七七)の娘が男子をまなかったらしい家時、金沢顕時(一二四八~一三〇一)の娘が産んだ兄高義(一二九七~一三一七)が早世した尊氏の二名だけである。このような家はほかにない》ほど家格が高く、《尊氏が鎌倉幕府から離反した理由を、北条氏との関係の薄さに求める見解もあるが、足利氏の鎌倉幕府における地位はすでに安定しており、ことさらに強調すべきではない》と。ただし、《鎌倉時代における足利氏の立場は、「代々北条氏と婚姻関係を結び、鎌倉後期には北条氏の姻戚として北条氏有力庶家に匹敵する厚遇を受けたが、一方で源氏将軍家の一門とは周囲から意識されておらず、まして源氏嫡流には程遠い」といったところ》。

《もし、鎌倉幕府が滅びたならば、外部から見れば、ほとんど北条氏と一体化して繁栄してきた足利氏は、北条氏と運命をともにすることになる。「バスの乗り換えに遅れたなら、足利の家は滅びる」という危機感が尊氏を突き動かした》というのが六波羅を討った理由。

《後醍醐は武士たちを卑しい「戎夷」(獣のような野蛮人。後醍醐はかつて鎌倉幕府をこの言葉で呼び、「天下管領しかるべからず」〈天下を支配するなど、とんでもない〉と言ってのけている。『花園天皇日記』正中元年〈一三二四〉十一月十四日条)と見なしており、後醍醐にとって尊氏は、いわば駒の一つであった》。また、最初から尊氏は征夷大将軍を目指していたわけではなく《鎌倉幕府滅亡時点(一三三三年)では、源氏将軍よりも親王将軍のほうが人々になじみ深い存在だったのである。建武政権で征夷大将軍となったのも、後醍醐の皇子護良親王であった》《むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったといえよう。ゆえに護良は後醍醐に警戒され、失脚の憂き目に遭ったのである》が、北条時行に奪われた鎌倉を取り返しに行く時《「鎌倉を目指す自分を、東国武士たちが平維盛に見立てたなら、負ける」、この判断が尊氏に無理筋な征夷大将軍任官申請をさせたのではなかろうか》というのが見立て。

《建武政権期、北条氏を「先代」と称する史料が現れ、南北朝期には北条時行が「中先代」、尊氏をはじめとする足利氏が「当御代」と呼ばれるようになる》《鎌倉末期前後の武士たちにとって、「将軍家」は征夷大将軍を指す以前に、頼朝以来の武家政権の首長を意味していた(鈴木:二〇一四)》

【第二部 南朝に仕えた武士たち

〈5 北条氏と南朝 鎌倉幕府滅亡後も、戦い続けた北条一族 鈴木由美〉

《北条与党の乱は単に北条一族の残党が蜂起したものではなく、建武政権および足利氏に対する不満を持つ武士たちが、北条一族を擁立して起こした反乱という側面を持っていた。南北朝内乱史における北条与党の乱の影響を軽視すべきではなく、重要な研究対象として再評価する必要がある》

観応の擾乱では《最初に直義が、その後、尊氏が南朝と講和する(正平の一統。一三五一・五二年)。この状況を利用して、南朝方は京・鎌倉を同時制圧すべく軍事行動を起こす。南朝方は、正平七年(一三五二)閏二月二十日に京を制圧した》

〈6 新田氏と南朝 新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源氏嫡流」だったか? 谷口雄太〉

《新田と同じく足利との姻戚関係を構築した熱田大宮司・北条・上杉らも、足利一門化を果たしていなくてはならないことになる》がそうなっていないので、新田氏は足利一門ではなかった、と。

〈7 北畠氏と南朝 北畠親房は、保守的な人物だったのか? 大藪海〉

親房は《数え年一歳で叙爵(公家衆としてのスタート地点である従五位下に叙されること)されており、いわば生まれながらの公家衆であった。 しかし、北畠氏は公家社会のなかで、特に抜きんでた家柄だったわけではない。事実はむしろその逆で、村上源氏の本家である久我家の、分家の傍流にあたる家柄であった。その北畠氏が南朝において活躍することになるのは、親房よりも以前から、南朝の皇統である大覚寺統と北畠氏が深いつながりを有していたからである》

《鎌倉幕府の後ろ盾により皇位を確保するなど、幕府への依存傾向がみられる持明院統に対して、大覚寺統は幕府から距離を置いていた》

《後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府打倒の動きに、親房は参加していない》というのは知らなかった。また、東北に向かった《親房は、現地の統治に有益となる武士の能力を正しく評価して利用することで、「奥州小幕府」の基盤を固めようとしていたのである。 また親房は、後醍醐天皇の施策や方針をたびたび批判しており、その際に足利尊氏を擁護する発言をすることもあった》と。

《のち、親房らが伊勢国から出航して関東を目指すように、伊勢国が関東への窓口としての機能を有していたため、その掌握をもくろんでいたとする見方(大西:一九六〇)が穏当なところであろう》

伊勢神宮の神事に奉仕する未婚の皇女は《ついに持明院統の天皇治世下では一人も派遣されることがなかった。大覚寺統が、このような神宮に関わる伝統を守ろうとしていたことは明らかであり、そのことは神宮の人々にも意識されていた》

〈8 楠木氏と南朝 楠木正成は、本当に〈異端の武士〉だったのか? 生駒孝臣〉

《散所とは、耕作に適さない河原など、領主が年貢の徴収を予定しない土地を指す。そこに生活する住民は、年貢を免除される代わりに、領主の警護や交通運輸業務などの雑役にしたがい、商業的な権利を得ていた。この散所の統括を領主から任されたのが、「散所の長者」である》《戦後の悪党研究は、悪党が諸国を往来し、交通・流通路の掌握をとおして、神出鬼没の活動を可能とする存在であったことをその特質として論じた》


【第3部 建武政権・南朝の政策と人材】

〈9 建武政権・南朝の恩賞政策 建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか? 花田卓司〉

恩賞地を知行できない武士もしたため《後醍醐天皇は拝領者へ土地を引き渡すよう第三者(おもに国司・守護)に命じる雑訴決断所牒を発給し、綸旨の内容を確実に実行させる方式を案出した。 従来、これは綸旨の権威の後退と評価されてきた。しかし、近年では武士の権益保護を図ったものとして積極的に評価されるとともに、この雑訴決断所牒の機能は、室町幕府の執事(管領)施行状に継承され、幕府の恩賞政策を支える柱となっていくと指摘されている》

公家側から批判が出るほど《建武政権では大量の武士が従来の家格を超えた官位を手にしていたのである》

《武士の反発を招いたエピソードとして有名なのが、御家人制の廃止である》

《建武政権は、恩賞の前提となる勲功認定に難問を抱えていた。尊氏の六波羅攻略戦に参陣した証拠として御家人たちが提出した着到状を見ると、六波羅陥落後の日付がかなりある。ここからは、戦局が明らかになるまで去就に迷っていた御家人の姿が浮かび上がってくる》

《元弘三年四月まで朝敵だった大部分の御家人たちは、幕府滅亡直前に突如官軍へと変貌した。当初から奮戦した護良親王や楠木正成らの功績は誰の目にも明らかだが、最終段階で倒幕に参加した御家人たちの勲功をどこまで評価し、いかほどの恩賞を与えるか、これは難しい判断だったにちがいない》《武士たちが建武政権を見放した最大の原因は、恩賞給付が遅々として進まなかったところにある。だが、その全責任が後醍醐天皇・建武政権にあるかというとそうではなく、倒幕時の御家人の去就が、建武政権の恩賞給付を困難にさせていたのではないだろう》

室津の軍議で《尊氏と別行動をとる大将に行賞権を委ねることで、各国武士へのすみやかな恩賞給付を可能にしようという意図からなされたと考えられる》

《北畠親房が、関東執事の高師冬(?~一三五一)率いる幕府軍を苦戦させ、征西将軍府が大宰府を占領し、鎮西管領の一色氏を駆逐して九州全域を支配する勢いをみせたのは、南朝の分権策の成果にほかならない》《後醍醐天皇以来、恩賞は勅裁事項であり、天皇のみがこれを行ったと思われがちな南朝だが、室町幕府が大将や守護に恩賞を給付させたのと同じように、親王や軍事指揮者に行賞権を分与することで各地の武士たちの結集を図り、成果を挙げていたのである》南朝は地方分権を進めていたが《南朝が置かれた状況は厳しく、軍事面で主柱となるべき人材や各地の拠点を次々と失い、朝廷を維持するために、南朝を支えている武士たちに不利益を強いるという矛盾した行為もせざるをえなかった》

〈10 南朝に仕えた廷臣たち 文書行政からみた〈南朝の忠臣〉は誰か? 杉山厳〉

《政権にとっては、都市の荘園領主に対してその権利を保障するだけの軍事的・政治的勢力を確保することが重要であった。その際、軍事力の裏づけとなるのが、武士の帰趨であったことは言うまでもない》

〈11 中世の宗教と王権 後醍醐は、本当に〈異形〉の天皇だったのか? 大塚紀弘〉

《天皇は、退位して上皇となることで初めて、積極的に仏教と関われるようになった》《天皇位を退いたことで減退した宗教的な権威を補ったのである》

《中継ぎの天皇として即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、自らの皇統を築くことを目指して討幕へと舵を切った。当時の朝廷は直属の兵力をほとんど失っており、後醍醐は幕府に対抗するため、中央の有力寺院が持つ軍事的な力を頼った》

《後醍醐天皇の祖父である亀山上皇は、京都東山に禅院として南禅寺を創建し、後宇多上皇が鎌倉幕府の意向を確認したうえで、「五山」に準じる寺格を認めた。以後、南禅寺住持は天皇による任命が例となり、後醍醐も自ら好む禅僧を住持に呼び寄せた》

《当時、本地垂迹説に基づく神祇に対する仏教の優越化や皇統の分裂を背景に、神祇の祭祀者としての天皇の宗教的な権威は極度に低下していた。後醍醐には、密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるをえない切実な事情があったのである》《後醍醐は〈異形〉の天皇として振る舞うことで、たしかに一時の求心力を得ることはできた。だが結局のところ、新たな皇統や政権を宗教的に支える権威の源泉を掘り当てることはできなかったのである》

【第四部 南朝のその後】

〈12 関東・奥羽情勢と南北朝内乱 鎌倉府と「南朝方」の対立関係は、本当にあったのか? 石橋一展〉

《東国の南北朝動乱は、北畠親房(一二九三~一三五四)の常陸漂着・小田城(茨城県つくば市)入城によって長期化、本格化したといえる》《鎌倉期をとおしていわゆる「守護職」を維持してきた小山氏や千葉氏らの武家と、それに列することができなかった佐竹氏や宇都宮氏、常陸大掾氏などの武家とが、内乱を機会に、それぞれ所領の獲得に向かっていた》《しかし、小田氏も暦応四年(一三四一)、常陸合戦で高師冬(?~一三五一)の攻撃を受けて降伏し、同じく親房が頼りにしていた陸奥白河の結城親朝(?~一三四七)も康永二年(一三四三)、幕府方に通じてしまう。これらによって親房は東国での活動を断念し、吉野に帰還するのである》

《観応二年(一三五一)、尊氏と直義の表面的な講和は成るものの、八月、再び直義は京を出て兄への敵対姿勢を見せる。そして、今度は尊氏のほうがその対抗措置として十月、南朝に降ってしまうのである》《その後、尊氏は、鎌倉に入った直義と戦い、さった山(静岡市清水区)での合戦(一三五一年)に勝利する。これにより、尊氏は、南朝との関係を維持する必要がなくなった。南朝は勢力拡大の足がかりを失ったことを意味する》
《関東の国々では守護の職権が、一国全体に満遍なく及んでいたわけではなかった》。新田氏の発給文書の《花押形は、嘉吉の乱(一四四一年)前後に、播磨を中心に活動していた足利義尊(直冬の孫。一四一三~四二)のもの(『建内記』)とも似ていることが興味深い》

こうしたあと《十四世紀後半に鎌倉府と敵対した武士たちが、反乱の大義名分として「南朝方」を名乗った形跡は一次史料からは認められない。皮肉なことに、関東の南朝勢力の敵であった鎌倉府の側が、抵抗勢力の討伐を公戦として正当化するために「南朝方」というレッテルを利用したように思われる》

〈13 南朝と九州 「征夷大将軍府」は、独立王国を目指していたのか? 三浦龍昭〉

後醍醐天皇の復活プランは《奥州に義良親王(一三二八~六八。のちの後村上天皇)、遠江に宗良親王(一三一一~八五?)、そして九州へは懐良親王(一三二九?~八三)を「征西大将軍」として遣わし、それぞれが地方に軍事拠点を築くというものであった》

九州に遣わされた懐良《親王の年齢は、だいたい八歳前後であった。この幼少の親王を支えたのが、側近の五条頼元(一二九〇~一三六七)である。他の地域に派遣された親王の補佐役は、北陸が新田義貞、東国は北畠親房(一二九三~一三五四)であったが、これに比べると五条頼元はあまり名の知られた人物ではない》

こうした地方では府を通さない武士の「直奏」に悩まされており《実はこの問題には、東国にあった北畠親房も悩まされており、いわば遠方にある南朝の地方統治機関の宿命ともいえるものであった。もしこの「直奏」を認めてしまうと、征西府に与えられていた権限の形骸化は避けられなくなるだろう》

直冬は「第二将軍」として九州の在地武士の期待を集めていたが《一色氏に代わり鎮西探題になったことにより、武士たちは、結局、直冬も一色氏と同じく幕府方の「出先機関の長」にすぎなかった、と見なすようになった。彼にかけていた期待は急速に失われ、離反していった》。そして《征西府の自立化とは、実は、菊池氏を筆頭とする九州の武士たちがそれを自前の国家権力として換骨奪胎した結果であり、天皇の弟という懐良の尊貴性はむしろ南朝からの分離を促進した》という流れに。こうした《村井説が提言されたころ、日本中世史学界では「地域権力論」の研究が盛んとなり、在地領主法、在地徳政、惣国一揆などが熱心に議論されていた。村井の「九州国家」説は、そうした「地域」を重視する当時の研究動向と相まってしだいに受け入れられていった》と。

〈14 南北朝合一と、その後 「後南朝」の再興運動を利用した勢力とは? 久保木圭一〉

《当時の北朝は、大きく二つの系統に分かれていた。時代はやや遡るが、観応三年(一三五二)、南朝が一時優勢になって京都を掌握し、北朝の崇光天皇(一三三四~九八)をはじめ二上皇らが、南朝により吉野に連れ去られるという事態が発生した。 北朝側は、僧侶となる予定だった崇光の弟(後光厳天皇〈一三三八~七四〉)を擁立し、かろうじて断絶を免れた。南北朝の合一当時の天皇である後小松は、この後光厳の孫にあたる。 拉致された崇光らは後年帰京を許されたが、後光厳の系統に渡った皇位が崇光の側に戻ることはなかった。この崇光の系統が伏見宮家である。後光厳の系統の天皇たちは、血統的には嫡流である伏見宮家を事あるごとに敵視し、圧迫していた》

〈15 平泉澄と史学研究 戦前の南北朝時代研究と皇国史観 生駒哲郎〉

《明治維新後の日本の社会は、現在とは比べものにならないほど歴史に敏感であった。なかでも天皇家が分裂した十四世紀の南北朝時代に関しては、きわめて神経質に扱われていた》。例えば大逆事件の《裁判で秋水は、現在の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の子孫である、と発言し、裁判長が言葉に詰まるという事態が起こっていた》。

 そして平泉澄を切り捨てるだけで問題は解決できない。《なぜなら、東京帝国大学に所属する研究者は、国定教科書の編纂にも携わっていた》というように研究と歴史は切り離すことはできない。

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November 27, 2020

Robert Putnam "Our Kids"

Our-kids

 ジムでエアロバイクをこぎながらの3冊目の聴く読書は"Our Kids"でした。聞き流しですが、とりあえず、まとめてみます。

 Robert Putnamは"Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community"が有名で、ぼくは、この本でソーシャル・キャピタルという概念を知りました(原書を拾い読みしただけですが)。

 Bowling Aloneは「物的資本」や「人的資本」とともに「社会関係資本」が豊かな社会づくりには不可欠なのにもかかわらず、「善意のコミュニティー」が急速に失われていく歴史を描いていたのですが、"Our Kids"は過去半世紀にわたって所得の不平等が拡大し、経済格差によってもはやカースト制度のように分裂した子供たちの世代が増えているということをオハイオ州オタワ郡ポートクリントンの街を中心に描いています。

 クリアカットに言うと、人種差別や性差別はそれほど悪化はしていないけれども、階級格差は悪化している、という感じでしょうか。

 パットナムによると、ポートクリントンでは労働者階級が経済的に崩壊しただけではなく、新しい上流階級も誕生した、といいます。カトーバ湖岸からクルマの乗ると左右で貧困地帯と富裕層が暮らす場所の違いが分かり、それはほとんどアパルトヘイトだ、と。

 20世紀前半には社会的な階級を気にせず結婚することが一般的になりましたが、後半からはそうした傾向が逆転した、ともしています。そして、子どもたちの通う学校も違ってきた、と。

 オタワ郡のひとり親家庭は1970年から2010年にかけて2倍になり、離婚率は5倍になったことも原因のひとつでしょう。また、本来、階級が関係のない軍隊も、現在では裕福な家庭の子息は避けるようにになります(そういえば『ヒルビリー・エレジー』のヴァンスも貧困家庭から抜け出すために海兵隊に入隊しました)。

 大統領選挙もありましたがヴァンス、パットナムのように、米国の最大の問題が貧困、経済格差だとすると、国を分裂させたのはレーガンからクリントン時代に至る経済政策なのか(クリントンは民主党ながらニューディール政策に由来する制度を破壊した、と評価されています)、それともトランプなのか、という問題は別な見方もできるかもしれません。

2章は「家族」。

 ”Shotgun Marriage”「できちゃった婚」の悪影響がケイラという女性を中心に取り上げられています。

 高校卒業後、彼女はファーストフード店とガソリンスタンドガスで働き、20歳でDVな男と結婚して2人の子供をもうけて離婚。ピザハットに就職して上司と付き合って2ヶ月で妊娠しました。

 その上司はジョー。アル中の母親に育てられ、18歳の時に未成年の女の子が妊娠したため、刑務所に入るか結婚するかを迫られて結婚しますが、実は、その子の父は継父。継父との近親相姦的で虐待的な子供だった、とか、「うーん」としかいいようのない話しが続きます。

 Hillbilly Elegyもそうだけど、異父兄弟がたくさんいる貧困の中で育つ子が多いんですよね。

 上流の女性は20代後半または30代前半まで出産を遅らせるが、下層の女性は10代後半または20代前半に最初の子供を産み、次はには次には結婚せずにどんどん独りで子供を産む、みたいな。

 日本人女性の中絶経験率は10.4%で、米国の人工中絶率(人工中絶件数を人工中絶件数と出生児数の和で割ったもの)は20.1%と、日本とほぼ同程度と言われているんですが、どうなっているんですかね…

第3章は「家族」。

 3章の場所はオハイオ州ポートクリントンからオレゴン州ベンドの町に移り 、「より深い社会的断層線」の時代の家族構造を典型的な二つの家族から描きます。

 一方は経済発展に乗って子どもに牧場と馬を与えたりしますが、もう一方は早期の妊娠、繰り返される結婚と離婚、失業、欲求不満の学校教育、うつ病と絶望の人生となります。下層階級の家族は「脆弱」なのです。

 上流階級の女性は、避妊によって「20代後半または30代前半まで」出産を遅らせますが、下層階級の女性は避妊せず「10代後半または20代前半に最初の子供を産みます。上流階級の女性は嫡出で出産しますが、下層階級の女性は独りで子供を産み、離婚します。

 パットナムはこれをアメリカ社会の3分の1の下位の「家族の崩壊」と見なします。生活の崩壊は子供の発育に最悪の条件をもたらします。

 また、重要なのは1970年代以降、そうした問題が人種よりも親の社会階級との関連性が高まってきた、という洞察かな、と。

第4章は「学校教育」。

 21世紀が始まると、家族の社会経済的地位(SES, socio economic status)は、アメリカの8年生が大学を卒業するかを予測する上でテストスコアよりもさらに重要になってきたそうです。

 アメリカの義務教育期間は「K-12」と呼ばれ、K(幼稚園年長)からグレード12(高校3年生)までが義務教育期間。グレード6~8が中学校で、日本でいえば高校入学前の中学3年のテストが重要といわれていましたが、それよりもSESの方がものを言うというのは教育的アパルトヘイトであり、経済階級によって推進されるカースト制度のようなものだ、と。

 学校教育はさまざまな経済的クラスの子供たちに平等な競争の場を提供せず、その格差を反映している、というわけです。今日のアメリカの公立学校は、子供たちが学校に持ち込む長所や短所が影響を与えあうエコーチェンバーとなっている、と。

 4章はカリフォルニアのオレンジカウンティに物語の舞台を移します。それは極度の富と貧困が混在しています。第2章の主人公は白人、第3章は黒人、ここはラテン系ですが、そこでも経済的差異が競争に勝ると見ており、オレンジカウンティのラテンコミュニティ内の経済的不平等は過去40年間で大幅に拡大しています。

 上流階級の家族の両親は教育に集中し、SATスコア(大学進学適性試験)に基づいて近所を選び、子供を競争は激しいけれど魅力的な特別カリキュラムを持つ「マグネットスクール」に送るようになった、と。

 貧しい家庭では例えば姉が弟の唯一の保護者となったため、高校生活をきちんと進めることができなくなり、それは貧しい地区では典型的なパターンとなる、と。貧しい姉妹たちへのインタビューは痛切です。


「あなたの学校のAcademics(カリキュラム)はどんな感じですか?」ローラ「何もありませんでした」
ソフィア「そもそも、Academics(教養、カリキュラム)って何?」

 妹のソフィアは辞書を読むことが好きな子で、厳しい中でコミュニティカレッジに入り、教師を目指しますが、結局、卒業することができませんでした。

 ここに登場する貧しい十代の若者たちが過ごすのは、無関心で軽蔑的なスタッフしかいない、暴力と薬物乱用の子どもが蔓延する悪夢っています。そんな中でも金持ちの子供たちはSAT(大学進学適性試験)に備えます。貧しい子どもたちにはアイビーリーグの大学は視野に入らず、なんとか地元のコミュニティカレッジに入る可能性を残すような管理しかできません。

 高所得層の子供は、低所得層の子供よりも長く学校に通うことになります。それは幼年期の違い、居住地による階級の物理的分離、住宅の仕分けのためです。上昇志向の両親は学校に通い、裕福で、学校で子供たちを積極的に支援している親の多い可能性が高い地域の家を選びます。勉強をしない子どもが仲間となることは大きな影響を及ぼすからです。裕福な両親は、お金や時間でも学校に貢献します。そうした親は一世代前よりも子供を公立学校に通わせていますが、そうした学校への貢献によって公立学校は半私立になってきています。

 課外活動も経済的階級によって大きく異なり、社会的スキル、実践的な知識、大学への出願機会などを裕福な子供たちに与えます。要約すると、パットナムは「現場(Sites)としての学校はおそらく階級のギャップを広げる」と考えてい ます。大学の学位の重要性が高まっているということは、貧しい子供たちが高等教育を受けられないことが、従来よりも彼らを傷つけていることを意味します。学校教育を改善しても問題は解決しませんが、ギャップを狭めることはできるかもしれません。

 高等教育へのアクセスの格差は悪化しており、貧しい子供たちは「ますますコミュニティカレッジに集中している」ことをパットナムは発見します。アメリカで成功するための最良の機会は大学に進学することですが、階級ギャップは拡大し、貧しい学生ほど大学を卒業する可能性が低くなっているという最悪のニュースが拡大しています。

 上流階級のバックグラウンドを持つ子供たちは、最も重要なレースでリードを広げ、低所得家庭の子供たちも将来のために熱心に取り組んでいますが、どんなに才能があり勤勉であっても、せいぜいチェッカーでのプレーを改善している一方で、上流階級の子供たちは三次元チェスをプレイしているのが現状です。そして金持ちの愚かな子供は賢い貧しい子供よりも大学を卒業する可能性が高くなります。実際、テストで悪い成績を収めた裕福な子供たちが、よくテストした貧しい子供たちよりも大学を卒業している、とこの章を締めくくっています。

 そして学校の財政(生徒一人当たりの支出、教師の給与を含む)は学校の成績の重要な要素ではなく、低所得の学校と高所得の学校の間のパフォーマンスのギャップの拡大が、公的資源の配分の偏りに起因する可能性があるという証拠はほとんどありません。

 また、大学のための借金は裕福な家族にとっても大きな問題で、彼らも末っ子をアイビーリーグ以外の大学に送るようになります。

 とにかくパットナムは、階級格差は各人種グループ内で拡大しているが、人種グループ間の格差は縮小しているとしており、学校の選択は階級の分離にあまり影響を与えていません。

 1950年代と60年代の人種的不平等は非常に問題でしたが、所得の不平等は本当に低かったため、結果として教育の人種格差は非常に大きく、所得格差は小さくなった。しかし、60年代と70年代の人種的不平等は大きかったもの、所得の不平等が広がり始めたわけです。人種格差よりも、所得格差ははるかに大きくなっています。

 高所得世帯と低所得世帯の子供たちの間の達成のギャップは、2001年に生まれた子供たちの方が25年前に生まれた子供たちよりもおよそ30から40パーセント大きい。実際、所得達成のギャップは少なくとも50年間拡大している、と。

5章は「コミュニティ」。

 場所はフィラデルフィアに移動します。

 裕福な家族は、私立学校、乗馬、そして大規模な家庭スタッフの世界に住み、アイビーリーグの教育を受けられ、離婚やADHDなどのストレスに際してもお金と支援してくれる人々が周りにいます。

 犯罪、病気、依存症、計画外の早期妊娠、社会崩壊に囲まれた社会・経済的に下の地域に住んでいる家庭は地元の教会が助けになります。しかし、娘たちをアルコール、麻薬、妊娠から救おうとしたが失敗した母親の物語が語られます。

 裕福で教育水準の高い人々は広く、深い社会的ネットワークを持ち、教育水準の低いアメリカ人はまばらな社会的ネットワークの中で家族に孤立しています。また、裕福で教育水準の高い人は、り多くの「弱いつながり」「広く、多様なネットワーク」にアクセスできている。ソーシャルネットワーキングが優れているほど、逆境に対する防御が強化され、機会の範囲が広がるわけです。

 教育を受けた裕福な親とその子供たちは、このようなネットワークから、裕福でない親と子供たちが簡単にアクセスできない豊富な専門知識とサポートを利用できます。裕福な人々は技術的アクセスを持ち、デジタル世界を活用するための優れたスキルも持てます。インターネットは機会のギャップを広げる可能性が高いかもしれないと。
 
 こうしたソーシャルネットワークはメンターへのアクセスにつながり、これは自己啓発に影響を与えます。

 子供たちは、近所の地域が経済的ギャップによって分裂していることに気づきます。近隣地域間の不平等が大きければ大きいほど、上向きの社会的流動性の割合は低くなり、機会のギャップは大きくなります。

 こうして近隣でありながらも住む世界が違う人々の間で信頼関係は失われ、社会的結束と相互扶助は低所得層で崩壊、貧しい子供たちは孤立して育ちます。

 著者はFacebookで「愛はあなたを傷つけ、信頼はあなたを殺す(Love gets you hurt; trust gets you killed)」という投稿を見つけますが、宗教団体は多くの人々に支援サービスを提供しているものの、貧しい人々は教会への出席を減らし「耳を傾けると、アメリカで歌われる賛美歌は上流階級のアクセントで歌われるようになっている」(If you listen carefully, hymns in American houses of worship are increasingly sung in upper-class accents)。

 残りの章は繰り返しが多くなるので簡単に。

 不平等の拡大は、特に失われた機会の平等からアメリカ経済に悪影響を与える可能性があります。格差拡大は、政治参加と市民参加の減少につながる可能性があり、それが階級格差をさらに拡大させます。

 政治的不平等が継承されるとアメリカ独立戦争が戦われた政治体制に近づき、デマゴーグとファシズムの記憶を呼び起こし、パッテナムはハンナ・アーレントを引用して全体主義に結び付けています。

 裕福な人は単に下層階級の生活についてあまり知りませんし、上流階級はアメリカ史上初めて兵役を大幅に回避しています。こうして上流階級の親が利用できる資源は拡大し、下層階級の家庭の経済状況は着実に悪化していきます。そして、なすべきこととしては貧しい家庭への税額控除、父親の投獄を減らすこと、コミュニティスクールとカトリックスクールへの支援、課外活動の拡大、職業訓練コースの再構築、コミュニティカレッジへの資金提供、教会を含めたメンタリングプログラムの拡大のような政策を提案しています。

 面白いと思ったのはFacebookが、本の中で出てくる貧しい人々のインタビューをする上で、背景を知ったり、現状を確認できて、とても効率良かったと書いてあること。なるほどな、と。

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『ダーウィンの『種の起源』を漫画で読む』

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『ダーウィンの『種の起源』を漫画で読む』マイケル・ケラー (編・文)、ニコル・レージャー・フラー(絵)、夏目大(訳)、佐倉統 (監修), いそっぷ社

 実は(というほどのこともないのですが)『ビーグル号航海記』も『種の起源』も読んでなかったので、朝日の書評や日経書評の癌研の先生たちの激賞よって、この本を知ったことはありがたかったです。

 絵は酷いというか、初期の『進撃の巨人』のカラー版みたいな感じなんだが内容は素晴らしい。

全体は3部構成。第1部はビーグル号の航海から帰ってから進化論を整えるまで、第2部は『種の起源』の各章の要約、第3部はダーウィン以後の進化生物学の発展。

 1836年に帰国してから『種の起源』を発表する1859年まで23年もかかっていることにまず驚きます。

 『種の起源』の結論だけは誰でも知っている自然淘汰ですが
・マルサスの人口論に影響されている
・個体差の大きさが強調されている
・当時から大型の絶滅哺乳類の標本資料とかよく整理されている
 んだな、とわかりました。

 他の種類のアリを奴隷として使い、その奴隷がいないと餓死してしまう奴隷アリとか、擬態される側の蝶は鳥などにとって不味い蝶だとか、細かな議論も面白い。

 『種の起源』にはたった1枚の種の分岐パターンの図しかない論理の本であり、それ故に難しいんだろうな、と。

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『藤原定家 『明月記』の世界』

Megetsuki

『藤原定家 『明月記』の世界』 村井康彦、岩波新書

 『明月記』というと「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」を反射的に思い出してしまうのは堀田善衛の読みに影響されているんだな…と感じながら読み進みはじめていたんですが、『明月記』を全体として論じたのは堀田善衛『定家明月記私抄(正続)』ぐらいだったとは…。

 「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」が「戦争などおれの知ったことか」というニヒリズムというより、平家滅亡、東国での権力出現から西国が圧倒されていくという日本史を画する大事件などは我関せずという姿勢だったというのは呆れるばかり。

 藤原氏などは治天の君への入内が依然として最大の関心事であり、それが兼実失脚という承久の変を生み、さらには東国の武士をみくびって承久の乱を引き起こしたというか。そうした中でも、政治的な危機感も抱かず、自分の官位を上げて家格を上げることだけを考えていた定家というのは、当時の王朝のイメージも含めてアップデートできました。

 当時は宮中ではなく里内裏だったことが前提というのは、なるほどな、と(p.11)。定家が子孫に故実を伝える部類化を行わなかったことが日記として残った理由(p.13)など最初から面白かった。

 ちなみに、この本では言及されていませんが「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰にわかるる 横雲の空」という藤原定家の歌は、すべての詩の中で一番好きです。

 最初、写生だと思っていたんですが、つくっていたのは死屍累々の京都の街で、悪臭に悩まされながらも、こんな歌をまったくの想像と本歌取りで歌っていたという詩は、あまりないんじゃないかな、と。現実の悲惨さを幻想で凌駕しようとした藤原定家の凄さ、というより、現実がチープだったのは、つい最近までなかったんじゃないかな。

 この歌は本歌取りで

「風ふけば 峰にわかるる 白雲の たえてつれなき 君が心か」(壬生忠岑『古今和歌集』)

「霞たつ 末の松山 ほのぼのと 波にはなるる 横雲の空」(藤原家隆『六百番歌合』)

「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ」(周防内侍『千載和歌集』小倉百人一首67)

を元に、『源氏物語』の最後の帖である「夢浮橋」と『枕草子』冒頭の「春はあけぼの」も読み込む技巧の極北だと言われています。

ちなみに著者の村井康彦先生は90歳だそうで、素晴らしい。

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