書籍・雑誌

December 11, 2018

『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』

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『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書

 ある年代までの哲学書を読む層では、ドイツ観念論が哲学書のヒエラルヒーの最上段に置かれ、それこそ廣松渉さんではないですが、ヘーゲルの『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(『哲学者廣松渉の告白的回想録』p.125)というような経験をしていると勝手に思っています。

 その点、イギリス経験論は、その分かりやすさ、対象の卑近さなどが神々しさを感じさせないためか、ドイツ観念論がより高等なものだ、みたいな雰囲気がさらに増したと感じます

 ヘーゲルの主要な著作の翻訳を終えてから、丸山眞男批判、その延長としての『日本精神史』と書きついでた長谷川宏さんが、本業ではないイギリス経験論を中心に、幸福とは何かという概念規定しにくい問題を取り上げたのが『幸福とは何か』。本文でも、カントをわざとつまらなく取り上げたりして、ドイツ観念論中心の日本の哲学受容を相対化しているように感じたのはぼくだけでしょうか。

 ギリシャ哲学についても、観念論につながるイデア論よりも個と共同体の関係に注目し、ソクラテスは共同体秩序の弛緩を立て直すことに主眼が置かれ《個の世界と共同の世界との連続性に疑問をいだくこと》はなかった、としています(p.54)。

 これがマケドニア生まれでアレクサンドロスの家庭教師もつとめたアリストテレスになると、人間はポリス的動物であるとしながらも、アテネなどの衰退によって、個人は共同体とのつながりを実感しにくくなってきます。そして観想的生活こそが最高善である、と峻厳すぎる結論を出します。

 やがてアレクサンドロスも夭折すると、いよいよ共同体への信は揺らいできて、エピクロスなどの時代になってきますが、それはデモクリトスの原子論を基礎としたものに方向転換します(p.85)。それは人間を自然的存在としてとらえる方向でした。

 そしてセネカに至り、現実の政治経済活動から身をひきつつ、感覚も自分も支配するような、内面の理性へと向かいます(p.99)。

 ここで第1章〈古代ギリシャ・ローマの幸福感〉は終わり、第2章〈西洋近代の幸福論〉に入るのですが、著者は中世を抜かしてしていることについても言及します。それはあまりにも神中心の時代であり、自然界や人間界をも絶対的な神が支配するというような、インフレ気味の構図は《古代ギリシャ人もローマ人も思い描いたことのないもの》であり(p.107)、幸福が神からの授かり物だとしたら、真剣に取り組むべき対象ではないからだ、というわけです。

 第2章「西洋近代の幸福論」

 商品経済の発展、絶対君主制などによって超越神の支配から人々の心は解き放たれていくなか、大陸合理論がまだ神に捕らわれた論考を進める中、イギリス経験論はもっと神とゆるやかな関係をむすんでいきます。

 ヒューム『人性論』は題名が示しているように、問われているのは神の本性ではなく人間の本性。ベーコンが150年がたつと、人間とは何かを問うことが意味あることになっていった。ヒュームは生のみずみずしさを保つ知覚を出発点において思考を重ねていき、理性も非現実的な観念論として信頼しない。経験の断片を結びつけるものは人間の利己心やせせこましさ、私的利害、人為的な慣習などだった。

《わたしたちは、芽にもとまらぬ速さで次々と起こり、たえず流れ動くさまざまな知覚の束ないし集まり以外のなにものでもない》という言葉は、現代のクリックの「あなたはニューロンの塊にすぎない」という認識に通じるものがあるというか、ひょっとして古代ギリシャの原子論に匹敵するような先見性を持っているかもしれません(p.126)。

 しかし、ヒュームはさらに持続的な自己同一性を否定するところまでいってしまいます。そうなると幸福論そのものの前提が崩れてしまいます。

 これに対して宗教からも形而上学からも離れて人々の日常的な感情の動きに目を捉えようとしたのがアダム・スミス。道徳は個の存在の内部にあるのではなく、個と個のかかわる集団のうちにあ、人間は社会的存在であると考えた。彼は、くよくよ考えがちな隠遁者は普通の人々が社交と会話によって得ている気持ちの安定感はめったに持てないとして、凡庸な情念がなだらかに行き来する人づきあい=共感のうちに暮らしの基本があるとしている。『国富論』も著したスミスは、感情だけでなくものも含めて交換しあう性質が人間を発展させてきたとみる。

[カントのインターミッション]

 個の経験を重視しすぎた故に幸福論とのスリ合わせが難しかったヒューム、他者との関係を感情、経済の両分野で重視して幸福論への道を切り開いたスミスに続くのは、普通でしたらジェレミー・最大多数の最大幸福・ベンサムなわけですが、長谷川さんはここでカントを入れることで、日本のドイツ観念論に偏りすぎた西洋哲学受容史を批判的に俯瞰します。

 カントは『実践理性批判』で、理性が自身の中から道徳法則を紡ぎ出すところに《理性の自由と自律の証をみる。下界に触れ、下界に促されて道徳法則に思い至るのではなく、自らの力で道徳法則を生み出す理性は、まさにそのことによって下界から独立した自由な、自律的な存在である》ことをみます。

 ヘーゲルも行動に内在する意思こそが真に自由な存在であり、道徳法則はその自由の純粋な発現形態だ、とカントの道徳哲学をまとめています。

 しかしカントは、自由と幸福、道徳と幸福の間に楔を打ち込みます。

 西洋の近代思想では個の内部に向かうことによって、主体性、自主性、内発性など日常生活の経験とは違う動きに価値を置く考えが主流となっていきますが、これは幸福にまつわる事柄は実践哲学に届かない有限な心の動きであるというカントの考え方に影響を受けたものです。

 《幸福は、人間がなにかしら不足を感じる有限な存在であるがゆうにのしかかってくる課題》であり、幸福を求めることは《義務であり目的でもあるようなものだ、ということはできない》と。

[最大多数の最大幸福]

 カントの道徳理論のうちに幸福論の居場所はなかったことを確認して、著者は再びイギリス経験論に戻る。

 ベンサムは道徳と立法の原理を考察するなかから「最大多数の最大幸福」を導き出す。『道徳と立法の原理序説』でベンサムは苦痛と快楽が人間のすべての行為を支配するという根本原理を提示する。けっしてカントのように純粋理性や意思の内面などには思いを及ぼすことはない。そして、苦痛と快楽の大部分は経済活動のもたらす物質的な富の大小によってもたらされるとした。

 ベンサムは功利主義者といわれるが、「なにがしかの(あるいは誰かの)役に立つ」という視点を堅持して考察を進める。これによって幸福も快楽に取り込まれ、快楽、善、幸福の三位一体の図式が出来上がる。ベンサムは《人間が社会のなかで他人とともに行動し、快苦、憎悪、幸不幸のあるらゆる場面で他人と交わることこそ人間の本来のすがた》だととらえていた、と(p.181)。それは個人を独自の個としてとらえるよりも、平均的な個として社会のなかに投げ入れて生きる社会的存在とみていたことになる。

[20世紀の幸福論]

 《ベンサムの社会政策は個人の幸福と社会集団-家族、村、町、学校、職場、都市など-の幸福とが連続的につながるという前提のもとに考察された》ものでしたが、資本主義の進展と20世紀の2つの世界大戦はこうした楽天主義に疑問符を突きつけた、と。

 こうした20世紀の幸福論として著者はアランとラッセルの著書を紹介。近代は自分へと目を向けさせますが、ラッセルなどは自己自身への興味は幸福獲得のためになんとしても避けるべきものとまで考える、と。

 あとがきの《個として生きることと社会的存在として生きることとの矛盾こそが太古から現代に至るもっとも基本的な矛盾と考えられる》が著者のまとめ。

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November 23, 2018

『最終講義 分裂病私見』

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『最終講義 分裂病私見』中井久夫、みすず書房

 中井久夫先生が1998年に神戸大学退官時に行った『最終講義』は1998年に出たんですが、ちょうど、その年は公私ともに多忙で、全くメモの類やインターネットの書き込みも残していなかったんです。久々に中井先生の本を集めたコーナーを整理していて、この本を見つけてパラパラとめくっていたら、なんと!普段は全くこうしたことはやってなかったマーカーでのライン引きがたくさん見つかりました。自分でも時間がなくて、メモを残すことはできないけど、せめて将来、読み直す時の手がかりに…と思ったんだろうな、と当時の自分を抱きしめてやりたくなったんですが、さらには1999年の讀賣新聞のインタビュー記事まで挟んであって…これで、改めてご紹介できる、と思いました。

 《精神医学は目に見えないもの、語りにくいものを何とか目に見える形に表し、ことばで輪郭なりとも描こうとする試みでもあります》という言葉が印象的(p.2)。

 行間にあふれる弱者への暖かな視線は「患者さんと共に」という腰巻の言葉にも表れています。

 これは、中井久夫先生が1998年に神戸大学退官時に行った最終講義で、テーマは「精神分裂症」。当時はまだ分裂症という言葉が使われていたんですね。

 中井先生が分裂病に取り組んだ経緯は「あとがき」に書かれています。

 《分裂病は、研究者から転じて後、私の医師としての生涯を賭けた対象である。私は医師としての出発点において、実に多くの分裂病患者が病棟に呻吟していることを知った。精神科に転じてから最初に外来助手を勤めた若い女性が幻聴を訴えただけで、ろくすっぽ診察もされずに遠くの病院に入院するように指示されるということがあった。私は一ヵ月後、その病院を訪ねた、若い女性としての魅力がじゅうぶんあったその女性は僅かの期間中に慢性分裂病患者になり果てていた。
 当時は、分裂病でも目鼻のない混沌とした病気で、デルフォイの神託のような謎だと言われていた。分裂病に取り組んだら学位論文ができないぞと公然と言われていた。幸か不幸か、私はすでにウイルス学で学位は持っていたが、持っていようといまいと、もう少し何とかならないかと私は思った。私は、それまでの多少の科学者としての訓練や、生活体験や、文学などの文化的体験を投入して、何とかこれに取り組もうとした》(p.143-)

 分裂病は《患者を分けて収容した十九世紀の閉鎖的精神病院に入院している患者を診ることによって、数十年をかけて》発見されました(p.88)。現代病という見方もありますが、中国の文献をみると二千年このかた存在していたようにも見える、とのこと(中井先生の本で、一時はアルミニウムが原因ではないかということが疑われ、米国のアルコアあたりが全力でその研究を潰した、というような話しも読んだことがあります)。

 中井先生が学生時代には、石像のように何十年も同じ姿勢を保つ慢性緊張病が分裂病の典型と言われていましたが(p.88)、この緊張症は薬物による効果がもっとも大になったとのことで(p.49)、薬の効果は本当に高いな、と(ただし、重苦しい抑うつが残る場合が少なくない、とのこと)。

 中井先生はウィルス学からの転向者で、学園紛争の時代に一人でできるように個別研究を通じてモデルを作るというコースを考え、寛解過程のグラフを描けたらしめたもの、という方向で研究を進めます(これも別な本で書かれていたことですが、歴史学では年表が書ければしめたもの、という言葉を引用していたと思います)。

 分裂病の発症は、タンカーさえ沈めるという多くの波の周期が同期してできる合成波=三角波に当たってしまったような場合だと筆者は説明しています(p.48)。ぼくたちは、たまたま三角波に出くわさなかったのかもしれません。そういう周期の高まりにも関係しているんでしょうか、精神の能力が高まり、発病する1週間前に模擬テストで全国一位になった中クラスの高校の生徒がいたそうです(p.47)。

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 急性分裂病状態に入る時は自他・内外の区別が不明確となり、意識が青天井になるといい(p.52)、サリヴァンは分裂病をセルフ自体の崩壊だと考えていたそうです。急性期を語る患者は現在形で語るぐらい切迫したものですが、恐怖は覚醒度を高めるばかりで、眠りという癒しは訪れません。それが、やがて幻覚・妄想・知覚変容など、それほどでもないものに変わっていくのは生命がそうさせているのではないか、と(p.58)。しかし「ついに実存にふれた」という感覚が恐怖のただ中に起こることもあるそうで、サリヴァンはこうしたところに患者や治療者までも誘惑する性質があるとしています(p.61)。

 本に挟んであった1999/3/5読売新聞(夕刊)のインタビューで中井先生は、分裂病患者と詩人の心理には、どちらも医師が過剰に覚醒し、言葉の意味より連想が先走る、としていますが、なるほどな、と。

 こかから寛解過程の話しに入っていきますが、慢性分裂病から離脱するチャンスのひとつは身体病だそうで、それまでは心身症をも拒絶するほどだそうです。また、体温が38.5度以上になると抗精神薬はいらない、といわれている、と(p.75)。

 1日のうちで夕方の四時から七時までの間は不安や孤独感が高まる、というのも実感できますね。

 対人関係のつかりは決断の疲れ、という指摘にはなるほどな、と感じました(p.79)。

 キノコ中毒学はすべて死体の上に築かれてきたといわれている、というあたりも本論とは関係ないですが、面白い話しだな、と(p.7)。

 先にふれた読売新聞のインタビューでは「〈事態は悪くなります〉と悲観論を告げるのは、言う側にとっては安全なんですよ。悪くなればその通り、回復すればよくやった、と。楽観論はうまくいかなければ非難される(中略しかし)"実践的楽観主義"が悪循環を断ち切り、自信の回復、精神の復興につながる」という言葉も印象的でした。


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November 21, 2018

『中井久夫の臨床作法』

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『中井久夫の臨床作法』こころの科学増刊、日本評論社

 中井久夫先生の本で、これをまだご紹介していませんでした。

  『中井久夫の臨床作法』とタイトルは臨床作法となっていますが、統合失調症の患者さんに対してだけではなく、中井久夫先生の人との接し方の基本になる考え方を教えられた気がします。また、座談会の最後の方で中井先生が引用している「語らざれば憂いなきに似たり」(『禅林句集』白隠禅師)は、言語療法に対する慎重さを感じました。

 このムックは中井久夫先生の同僚、師事した多くの先生方の座談会を収録したものです。

 やや、理想的に描かれているような気もしますが、「頭のてっぺんから足のつま先まで分裂病の人はいない」「統合失調症の患者さんでも大学教授ぐらいだったらできるよね」というフラットな感覚を前提にした言葉を抜き書きしてみます。

 まず、幻覚中心の話題をはずします-中略-病的な話しでいっぱいになっていますから、こちらではむしろお通じの話とか、睡眠の話とか、寝心地の話とか、そんなことに話題を向けることも少なくありません(星野弘)

 診断は見事につけられる名医なのかもしれないけれど、患者さんは次回は来ないな思ってしまう先生もいました。
 ところが中井先生のところには、患者さんが次回必ずいらっしゃるのです(山中康裕)

 僕の経験では、僕の脈が患者さんに合うのです。初診の時は、脈を合わせるため診ているのだと思ったこともありました。
 往診するとなぜかペットがよく出て来るのです(中井久夫)

 患者さんと距離をとれというのがお題目のようになったのは、いわゆるボーダーラインの人たちのことが問題になった頃からだと思うのです。
 警察官というのは絶対に出身地は派遣しないのです。それだから「警官と市民」という限定された距離になってしまうのです(田中究)

 アメリカの学術誌に論文を受理させるためには、DSMの診断を使わないとだめといった事情があったようです(滝川一廣)

 医者に絵を描かされたことはあるけれども、医者が絵を描くのを見ていたことは初めてだと言っていました(中井久夫)

 中井先生は(僕は時々間違って描写することがあるのですが)おずおずと引かれた一本の線も、芸術家が描いたすごい塗りこめられて非常にきれいに形づくられたタブローも、哲学的には等価なのだ、ということをおっしゃったと思うのです(山中康裕)

 その人の生活が少しでもよくなったり、楽しみができたり、生活に潤いが出たりといったことが、実は病気の勢いを弱まることがわかってきます。
 今の治療は症状を捉えてやっつけて取ろうとする。その後、その人の人生がどうなっていくのか、生活がどうなっているのということを頭の中に描かずに(青木省三)

 ある国立大学で退院した患者さんがレセプト請求をして、入院精神療法1が週に三回とかついているけれど、僕はこんなに話を聴いてもらったことはないよということで、後で返還請求がきた。
 (保健師さんたちの世界でも)一歳六ヶ月健診とか三歳児健診の技術は、さまざまな業務があるために、うまく伝達ができていない(田中究)

 (日本で早期退院が多くなったのは)クロルプロマジンを日本で安く合成できるようになってからだよね(中井久夫、クロルプロマジンは興奮や妄想を抑えるドーパミン遮断薬)

 最近の精神科薬は効き目がシャープだから、症状が治まるのです(滝川典子)

 手紙は書きたくなりますから。
 風上はウィンドワード(windwad)、風上はリーワード(leeward)というのですが、その感覚は大事だと思ったのです(中井久夫)

 最近の統合失調症の患者さんも、よく居眠りできているので嬉しいですね(星野弘)

 日本語ができない人は翻訳などしないほうがいいと思います。読み手は余計に困りますから(山中康裕)

 「生活史なんか聞いて患者さんがよくなるというエビデンスがあるのですか」と聞かれたという話が、ある学界の会長講演で引用されていたのです(編集部)

 エビデンスがなければ裁判には勝てないわけで(対司法の中でDMSのような診断基準が必要になってきた、滝川一廣)

 アメリカの精神医学になぜ失望したかというと、ほとんど製薬資本と結託してしまっているからです(山中康裕)

 やはり人を支えたりということが必要な仕事をする人は、基本的には幸福感というか、自分だって捨てたものではない、自分の人生はそんなに惨めのかたまりではなかったという感覚を持っていることが必要なのです(滝川一廣)

 「語らざれば憂いなきに似たり」(『禅林句集』白隠禅師)です(中井久夫)

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November 16, 2018

『オペラ座の怪人』ガストン・ルルー

『オペラ座の怪人』ガストン・ルルー、平岡敦訳、光文社古典新訳文庫

 宝塚歌劇団の雪組公演『ファントム』(脚本アーサー・コピット、音楽モーリー・イェストン)の予習のため、原作であるガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』を読みました。すでに古典とも言える作品なので、手に入りやすい文庫版だけで3つの翻訳から選べますが、一番新しく、この手の翻訳ものでは信頼をおいている光文社古典新訳文庫版(平岡敦訳)を選択。ちなみに、2016年の第21回日仏翻訳文学賞受賞作品です。

 一読、これはフランスの横溝正史だな、と。『本陣殺人事件』が紅殻塗りの家屋だったことは、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』を影響を受けていると横溝正史自身もタネ明かしをしているようですが、ゴシック的背景で怪しい雰囲気を増幅させるという手法も『オペラ座の怪人』を連想させます。

 まがまがしい雰囲気を生んでいるのはパリのオペラ座(ガルニエ宮)そのもの。最初、地上17階と書かれていますが、その後25階に盛られいて、地下は5階という設定。

 小説の中でやたらグノーのオペラ『ファウスト』が上演されるんですが、日本で最初に上演されたのも『ファウスト』で11/24はオペラの日になっています。

 この時代はドイツ文芸のオペラ化が流行ってた時期で(ファウストはフランス語オペラ!)、そういえばCRYSTAL TAKARAZUKAのドールオペラの探偵ホフマン、人形にされたオランピアもオッフェンバックの『ホフマン物語』からとられてたなとか思い出しました。

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 原作でやたら『ファウスト』が使われるのは、クリスティーヌが連れ去られる時にこの歌詞を歌っていたからで、ファントムは彼女に歌のレッスンを与える「音楽の天使」だったからなのかな。『オペラ座の怪人』はファントムがメフィストテレス、クリスティーヌがマルグリート、伯爵がファウストという『ファウスト』の本歌取りなんだな…と感じます。

  原作を読むと、エリックの顔は鼻がなくガイコツみたいな感じで描かれているので、そりゃクリスティーヌだって拒絶するわな…という感じだけど、ハッと気付いたのが、この1925年版の映画のビジュアルは、日本の『黄金バット』がパクッたんだな、と。

 エリックがオペラ座で神出鬼没なのは、建設時にガルニエから工事を請け負った石工の一人で、パリ・コミューンなどで工事が中断していた時に勝手に作業を続けていたからなんだな…、パリ・コミューンの混乱という背景は想像以上にファントム(怪人、幽霊)に影響を与えてるとも感じました。

 『ファントム』=『オペラ座の怪人』の背景となっているパリ・コミューンは偉大だな、と。フランスという当時の最新国の首都を二ヶ月とはいえ労働者が占拠したんだか。だから、いろんな逸話もうまれたんだろうな。ジブリの『紅の豚』も含めて。

 以下はミュージカル『ファントム』との比較、

 原作の『オペラ座の怪人』は貴族のシャンドン兄弟、新旧支配人はみんなダブルなんだけど、ミュージカルはそれを半分にして、三人にして単純化したんだな、ということも分かります。クリスティーヌがスウェーデン・ウプサラ近郊の農家の生まれなのにも驚く。宝塚版『ファントム』では、そんなこと言及されていませんでしたし、原作では大きな役割を果たすペルシャ人男とジニーおばさんも出てこないかな。

 クリスティーヌとエリックが地下で昼食をとる場面では、文中にトカイワインにフォルスタッフが出てくるのがなんとも宝塚に縁のある作品なのかと思う。

 ポール・オースターのように、ずっとひとりで見張っていられないという問題と、ずっと見張られているかもしれないという文学かもしれないと思う場面が出てくる。

 パリのオペラ座でマニュエル・ルグリを篠山紀信が撮った写真集があったな…と思い出したけど、絶版かな"KISHIN VS. Manuel Legris"『ルグリ・イン・オペラ』。

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November 11, 2018

『アリアドネからの糸』

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『アリアドネからの糸』中井久夫、みすず書房

 97刊の第3エッセイ集。この時期もまだ、感想を備忘録的にまとめてはいない時期だったのですが、有名になった「いじめの政治学」はあまり印象に残りませんでした。

 これは中井先生自らが学童疎開でいじめられ、60歳を過ぎてからもトラウマに悩まされるというような体験を持っていないのと、今の時代のいじめはぼくたちが子どもの頃にあったようないじめとは質が違っていると感じたからなのかな、と。

 「いじめの政治学」によると、いじめには三段階があるとしています。それは孤立化、無力化、無価値化。

 まず加害者は被害者の身体、癖などの些細な差異を指摘して周囲から「孤立化」させる、と。次に被害者は暴力をふるい、抵抗しても無駄であると思い知らせる「無力化」の段階。この結果、被害者は「無価値化」され、自殺に至ってしまうまで追い詰められる、と。

 見事な分析だとは思いますが、そこまで図式化できるのかなと思うのと同時に、今の時代に仄聞するいじめについては、二次性徴の早まりが前思春期で育まれるべき純粋な友情関係を構築する時間を短くしているあたりが(『「昭和」を送る』p.156)、ぼくが子どもの頃のイジメと質が違ってくるのかな、と感じますがどうなんでしょうか。子ども時代の短さ、あるいは無さが深刻さを生んでたりして、と。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)はこのあたりから人口に膾炙してきたのかな。ヴァレリーの詩『若きパルク』への黄金比を用いた建築的考察も印象に残ります。

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November 10, 2018

『家族の深淵』

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『家族の深淵』中井久夫、みすず書房

 95年発刊の二冊目のエッセイ集。残念ながら、まとまった感想は残していない時期だったのですが、断片を寄せ集めてみました。当時はまだ、読んだ本の重要な箇所は開きさえすれば、すぐに引けると思っていた時期でした。

 《韓国と日本では知識人の基準が少し違う-中略-韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校でニヵ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である》(p.29)。

 1968年前後の世界的な学園紛争については、ベビーブーマーたちの就職問題がからんでいたということは、文化大革命の場合でも言えるということが通説になりつつあると思いますが、中井さんは「父の不在」しかも、二世代にわたる不在を指摘します。それは戦後の混乱の中で生活に追われて子育てをせざるを得なくなり、古い父の像を捨て去ったものの、新しい父を確立できなかった時代の子どもたちであり、さらに彼らが強く共感したのはカミュ、バルトなど第一次世界大戦の不遇な戦死者の子だった、と(p.73)。

 個人的な話しですが、どうみても回復しようがないほど親戚の間の関係がこじれていても、どうにか回復させたいという知り合いなどをみると、日本人が一所懸命で頑張れば報われるという歴史的自己救済を信じているからで、米国人などは故郷を捨て移動してきた地理的自己救済派だから、そんなことは考えないんだろうなという議論を思い出しました(p.128)。

 中井先生は治療に絵画を使うのですが、その理由のひとつは《患者にとって有害になりそうな場合には、自然に描けなくなるなるような工夫が比較的容易だからである。逆にいうと、言語的精神療法には、この自然的な歯止めが乏しいという欠点が現れる可能性がある-中略-語ることは一般によいことではなくて、ある条件下にのみよいことなのである》というところでは、言語の怖さに想いをいたしました(p.137)。

 中井先生は最後に神戸大学の精神病棟の設計に携わるのですが、そこで描かれたパース図が手慣れた感じなのには驚きました。もちろん才能もおありなんでしょうが、手慣れた感じを受けるのは、患者さんたちと一緒に絵を描くことからきているというのは後に知ることになります(病院関係者にみせるための口絵。ちなみに「先生も一緒に絵を描くのは初めてみた」という感想をもらす患者さんが多かったようです)。

 《執筆依頼が来ると、私はまず。折口信夫が弟子にかねがね〈心躍りのしない文章は書くものじゃないよ〉と言っていたことを思い出す-中略-自分の領域で、しかも今までにない新しい切り口をみせることができるものが私にはいちばんいい。20パーセントぐらいは冒険的要素があっても、つまり未知の領域に乗り出す冒険があってもいい》というのは、売文をしていた時には、時々、思い出していました(p.348)。

 日経の「私の履歴書」で利根川進先生が、恩師である渡辺格先生に米国留学の手はずを整えてもらったみたいな回があったのですが中井久夫さんも「分子生物学者を輩出させた渡辺格」と書いていたことも思い出します。《天才とは、個体の才能発露ではなくて、小集団現象ですよ》という言葉も。

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October 25, 2018

『文選 詩篇 三』

『文選 詩篇 三』岩波文庫、川合康三ほか訳注

 膨大な文選ですが、その詩篇だけを集めても六巻になります。2ヵ月に1回の刊行ペースに合わせ、日々の読書の合間の旅行先などに持ち出して楽しんでいるのですが、まったく漢字を読める特権を享受しています。

 三国志の時代から八王の乱など中華が大いに乱れた時代の作品が集められていますが、実は、この時期に「中華」の範囲が、特に経済活動を中心に南方に広がっていきます。それは「呉」出身の官僚たちの詩の多さにも、それは現れていると思います。

 そして詩をつくる中心だった官僚たち、あるいは曹植など皇帝の親族でさえも激動の時代に翻弄され、彷徨い、激しい政争の中で殺されていきます。

 以下、読んでいて記憶に残った作品を紹介していきます。

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 王粲の「贈士孫文始」の12行にある「比徳車補」という言葉。漢籍に明るい昔の経済人は「唇歯輔車」という言葉をよくお互いの連携を良くする意味で使いましたが、ここでは車補。学がないので車補の用法は始めて知りました。

 同じく王粲の詩の一節(p.45)にある「休」は「よろこび」とも読んですが、この「よろこび」のほか「うつくしい、憩う」などの意味もあるんだな、と。

 曹植の詩には泣きました。《曹操、曹丕、曹植の三曹と建安七子は中国文学に最初の黄金期を築いた》(p.74)わけですが、なかでも曹植は当時、最大の詩人と言われていました。八斗の才(天下の八割の才能を占有)と言われ、疎まれた兄曹丕に七歩歩く間に詩を作れと嫌がらせを受けるも、それに見事応えるなど、キレキレの才能をみせつけます。

 贈答ニに収められている曹植のものは、自らを皇帝に押した忠臣たちを励ます詩が続くのですが、多くは曹丕に殺されていきます。なんとも凄い大状況の中で書かれた詩。ギリシャ悲劇的というか。

人生まれて一世に処り
去るは朝露のかわくが若く

人がこの世に生きているのは、朝露がかわくようにはかないもの(p.101)というのは実感でしょう。

離別して永く会うこと無し
手を執るは将た何れの時ぞ

別れてしまえば、永遠に再会はかなわない。手を取り合うのはいつのことか(p.105)というのは、兄曹彰の急死後、共に追い詰められる弟曹彪に贈る詩。

 こうした曹植の『文選』贈答ニの一連の詩を核に、曹丕の詩も交えて、オペラとか書けそうだと思いました。マーラーの時代にドイツ語訳があれば『大地の歌』みたいな傑作を書いていたんじゃないか、とも。

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 司馬彪のこの詩は知り合いの警察官僚を思い出しました。その方はやり切れないことがあると、夜中に起きて木刀の素振りを繰り返したといいます。論語の「逝く者は斯くの如きか」を引用し、「剣を撫して起ち躑ちょくす」と。

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 あと、陸機、こんなに良かったっけ…。宮仕えの憤懣をこんなに優雅に表現しているのは三世紀では、セネカの通俗哲学をはるかに上回るし、マルクス・アウレリウスを三曹は凌駕しているのかも。

 潘尼(はんじ)がその陸機に送った詩。

予渉素秋
予(われ)は素秋(そしゅう)を渉(わた)り
わたしは人生の秋を過ぎ
もいい(p.244)。

 宝塚歌劇団の元星組トップスター北翔海莉さんが好きだと言っていた格言「尺蠖(しゃっかく)の屈(くっ)するは伸(の)びんが為(た)めなり」はは『周易』からとられたものだけど、『文選』に収められた潘尼(はんじ)の詩には、これを元にしたのもあります(p.258)。

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 また、劉琨の詩、なんというカッコいい無常感!

 『文選 四』川合康三 岩波文庫には陶淵明だけでなく、曹操、曹丕、曹植の詩も収録されています。腰巻きで紹介されている曹操の詩ですが、曹操は酒を歌ってもスカッとしているなぁと。

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October 17, 2018

『リスク・オン経済の衝撃』

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『リスク・オン経済の衝撃 日本再生の方程式』松元崇、日本経済新聞出版社

 松元崇さんの本をnoteにまとめておこうと思ったら、これをアップしていないことに気付きました。FBのnoteにはあげていて、複数のに書いておくリスクテイクは大切だな、とw
 
 大蔵官僚出身の元内閣府次官、松元崇著の本ですが、近著である『「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか』(中公文庫)と内容的にダブルところが多いので、簡単に紹介します。

 一番、納得したのが《先進国の中央銀行が新たに行うようになった「最後の買い手」としての業務》を「金融資産管理業務」と名付け、従来の「銀行券発行業務」と共に中央銀行の業務の柱として位置づけたことです。ヘッジ・ファンドなどの暴走によって金融市場の秩序が破壊され、実体経済に悪影響を及ぼすことがないように金融資産を買い入れ、増減をコントロールすることによって安定化を図るのが目的。

 グローバル経済が発達する前は、「銀行券発行業務」を運用することによってインフレを防止することが中央銀行の役割でしたが、発展途上国からの安価な製品の輸入によるデフレ圧力が加わった現在、新たに「金融資産管理業務」が必要になった、と。

 経済が好調さを取り戻し、中央銀行の放出する資産がヘッジ・ファンドに購入されていけば、マーケットに悪い影響を及ぼすことはない、と(出口戦略)。

 日本でもプラザ合意後、投資が期待されたような収益を生まなくなり、やがてバブルも崩壊し、地価と株価の下落スパイラルがとまらなくなりました。日本ではBIS規制も導入されたばかりだったので、銀行の貸し渋り、貸しはがしが行われるようになりましたが、今から振り返れば米FRBのような非伝統的な金融政策を断行すべきであった、と。

 当時恐れられていたのがインフレ懸念。しかし、ヘッジ・ファンドと同じように中央銀行が金融資産を買い入れたからといってインフレにならないことは、戦時中の日本銀行による国債の直接引き受けがハイパー・インフレを引き起こしたという誤った歴史認識によるものだった、と。敗戦直後のハイパー・インフレは米軍の絨毯爆撃によって生産設備が潰滅し、通貨と現物の需給関係が乖離したためで、有名なドイツのハイパー・インフレも戦後5年目にフランスとベルギーがルールを占領したことに対抗してゼネストが行われ、それによって生産がマヒしたためだった。

 実際、ドイツも第一次大戦直後は、激しい戦場がドイツ外だったので戦禍を受けず、物の供給がすぐに回復していた(ヒトラーによる速やかな再軍備が可能になった理由もこれ)。日本でもインフレが起こったのは軍票を大量発行した占領地域だけだった。

 こうして米FRBは日本のバブル崩壊を参考に、「銀行券発行業務」については市場との対話を進めるとともに、非伝統的な「資産管理業務」を新たに組み入れ、実行しました。

 しかし、日本にとって不幸なことに、リーマン・ショックによる日本の損失額は欧米と比べて極めて軽微だったために「金融資産管理業務」を行うタイミングが遅れ、それによって円の独歩高となり、企業の海外移転という最悪の結果を招くことになてしまいました。それは一国のファンダメンタルズに基づかない為替の変動が、ファンダメンタルズに大きな影響を与えることになった時代を象徴しており、42%も対円で下落した韓国ウォンの前に日本の電機メーカーはなすすべを失い、国土の均衡ある発展を目指して整備された地方の工場が閉鎖された、と。

 さらに、リーマンショック前の02~08年(小泉首相時代)は低いながらも日本経済は成長していたが、国内での賃上げは見送られ、消費拡大には結びつかなかった。

 黒田日銀は非伝統的な対策を果敢に打って出ているが、それは日銀DNA。

 第一次大戦期に日本経済は飛躍的に拡大し、貿易は4倍、工業生産高は5倍、GNPは3倍になったが、その反動恐慌に救済融資を実施。設立時にも通貨の制限外発行を認められるなど柔軟な体制だった。

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October 16, 2018

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集

Modern_and_contemporary

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版、2018

 物故者2人を含む6人との対談で、古いものも多いが、全く色褪せていないことに驚く。無産政党を含めたオポジションがなくなった時点で昭和陸軍の暴走を止める勢力がなくなってしまったということで、アジアで唯一といっていいほど長い複数政党による政党政治の意義を改めて見直す、みたいな論議が基層をなしているんでしょうか。

 ただし、これまでも、様々な利益は政党によって代表されてきたものもの「公共の利益」だけは代表されてこなかった、と。それはカントの『判断力批判 上』で書かれている《首尾一貫する考え方の格律に達することは最も困難である》(岩波文庫、p,231)ということなんでしょうか。

 敗戦後、日本人が必ずしも十分に考えてこなかった脱植民地帝国化(ディコロナイゼーション)の問題が問われているという視点も大切だな、と。

 韓国で三・一独立運動(1919年)が起きた時、日本の当局者に非常な衝撃を与え、伊藤博文が併合までは反対していたということも改めて議論されたそうです。欧米とは違って、かつての先進国である朝鮮を植民地化するという違いがあった、と(p.18-)。

 その結果、寺内正毅の武断支配が見直され、原敬の文化統治に移り、朝鮮語新聞の東亜日報の発行も認められた、と(p.21)。原敬はサハリンも陸軍直轄から内務省の管轄に変えるなどシビリアンコントロールを追求した、と。三・一独立運動後は日の丸掲揚も強制されなくなり、台湾でも教育勅語による教育方針をうたった文言が削除された、と(p.23)。

 衆議院議員で初めて首相になったのも原敬(p.35)。

 明治十年代に自由民権運動というオポジションが出来たということは、日本の複数政党制成立の前提となった(p.39)が、満州事変(1931年)前後で空気が変わり、新聞の熱狂が始まり、大政翼賛会につながり、戦争を終結させる反戦論がなくなっていく、と(p.41)。

 張作霖爆殺事件では田中義一を辞任させ、海軍軍縮条約の批准に枢密院が反対すると、枢密院首すげ替えを決意した浜口雄幸を昭和天皇は支持するが、満州事変ではクーデターも起こりかねなかった(p.45)。

 河本、板垣、石原らの満州事変の動機は、権益維持ではなく体制への朝鮮で、反体制のモデルを提示すること(p.61)

 昭和天皇にとって最大のショックは、統帥権干犯となる朝鮮軍の独断越境問題。すでに天皇をもってしても、如何ともし難い状況になっていた、と(p.65)。

 そうした中、無産政党の社会大衆党は第三党になり、2.26事件の将校たちの危機感を煽った、と(p.68)。

 戦前、マルクス主義に接近した部分ほど大政翼賛会に行ってしまったのは、ソ連による一党独裁を無産政党がモデルにしていたから、というあたりは膝を打ちました。

 実は、右派の無産政党を束ねようとしていたのが吉野作造。戦後の片山内閣は首相、西尾以下吉野の影響下にあった人間だった、というのはなるほど、と。同時に、祖母からは「片山内閣ほど嫌いなのはなかった」みたいな話しを何回も聞かされたこともあって、今のリベラルの不人気ぶりも昔からかな、とか…。

 第二次大戦後、太平洋諸島に張り巡らされた沖縄も含む基地網があればソ連の対日侵攻は阻止できるとケナンは考え、日本本土には大規模な軍事力は不要と考えたというあたりも面白かった。同時に日本を輸出経済で再建し、原料は非ドル地域のアジアから調達することで地域の共産化も防止できると考えた、と(p.81-)。

 あと、日露講和成立直前の桂・タフト協定では、アメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に認めあい、その財政的裏付けとして東拓米貨社債が発行されたというのは知りませんでした。しかし満洲支配のため井上準之助らが求めた満鉄米貨社債は米国が認めず、つまり、それは米国は日本の満洲支配を認めなかったことになるが、日本側はその意図を十分に理解できといなかったのかも、と。

 歴史認識問題の日韓共同研究での《韓国の学者は基本的にナショナリズムなのです》《非常に残念なのは、韓国の社会では反日的ではないと生きていけない》《個人レベルでは理解できるとは言うのですが、社会に向かってはそう言えないのです》というあたりも、なるほどな、と。

 そういえば、自衛艦の旭日旗掲揚問題で、寡聞ながら韓国の学者さんの意見というのはあまり読んだことはない。本来ならば、ナショナリズムに酔う人たちに待ったをかける役割が期待されると思うのだけど。コーランを文献学的的に研究ではないイスラム学者と同じで、韓国の歴史学者は勇気がないのかな、と。

 自民党政権は歴史問題は国家間で解決済みという立場なので、日本側が何かサービスするということはないから、韓国内で植民地となってしまった歴史的経緯、なぜ防げなかったのかなどの問題、日本の社会政策が与えた影響などについて議論してもらうしかないんだろうなと暗澹たる気持ちに。

 以下は箇条書きで。

 挑戦使節使は江戸まで来るのは1764年で終わっている(p.12-)
 外債を抑えるということは、経済面でのナショナリズムの現れ(p.15)。

 山県有朋のロシアに対する危機感は対馬占領(1861)が原点になっているが、日清戦争まではロシアの南下政策はそれほど具体的なものではなかった(p.28-)。

 明治天皇が帝国憲法体制をつくるプロセスに関与し、憲法発布で明治維新をひと区切りとして、西郷隆盛の名誉も回復、伊勢神宮などに勅使を派遣し、伊藤博文にだけ勲一等を授けた(p.31)。大名の政治参加を求める公議輿論からスタートした長い明治維新というステート・ビルディングのフロセスの到着点が明治憲法だった(p.33)。
 
 連合国が昭和天皇の責任を追及した場合、髪をおろして仁和寺に入って退位、裕仁(ゆうにん)法皇と名乗る計画もあった(p.57)。
 
 日本占領は米国国務省の中国派のイニシアチブで運営された(p.62)。

《総論、ジェネラル・セオリーの哲学的部分から素人は影響を受けるわけで、それが重要なことだと思うのですけれど、そういうものに対する関心がなくなってきています》《プロフェッショナルのアマチュアに対する影響力は細分化した分野の研究では生じない》なんて言葉も印象に残っています。
【主要目次】
I 日本の近代を考える
1 明治150年―どんな時代だったのか(×御厨貴)
一 3.11まで続いた戦後70年の「富国」路線
二 政治過程における明治天皇/国民国家形成の任務
2 日本の近代をどう捉えるか(×松尾尊兊)
はじめに――なぜ近代史を問題にするか
一 植民地とは何だったか
二 明治憲法とオポジション
三 対外侵略と天皇制
四 可能性としてのデモクラシー

II 政治と経済の間で
1 戦争・戦後と学者(×脇村義太郎)
はじめに
一 石油と戦争
二 人との出会い
三 財閥解体
四 石橋内閣のこと
2 財政金融・政治・学問(×神田眞人)
一 国際金融と世界秩序、そして内政
二 権力と知識人――時代との向き合い方
三 学問と現実との相克

III 吉野作造と現代
1 吉野作造の学問的生涯(×岡義武)
一 吉野における啓蒙の意味
二 吉野の講義
三 吉野の研究指導
四 教官食堂の吉野
五 晩年の吉野
六 人間と学問
2 戦後民主主義は終わらない――吉野作造の遺産を引き継ぐために(×樋口陽一)
一 吉野作造についての思い出と「憲政の本義」
二 ポツダム宣言にみる「民主主義的傾向の復活・強化」
三 憲法へのコンセンサスと緊急事態条項
四 日本政治の不安定要因

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October 13, 2018

『磁力と重力の発見 1~3』 山本義隆

『磁力と重力の発見 〈1〉 古代・中世』『磁力と重力の発見 〈2〉 ルネサンス』『磁力と重力の発見 〈3〉 近代の始まり』山本義隆、みすず書房

 noteで読書記録をまとめているんですが、山本義隆さんの科学史三部作のうち、後半の『一六世紀文化革命』と『世界の見方の転換』については、こちらで書いていたのですが、残念ながら、『磁力と重力の発見』が刊行された03年当時は、まだ読書の記録は分散してつけていました。PCのログを検索したのですが、部分ごとにしか見つけることができませんでした。

 以下は、一巻をある程度読んだ後に書いたものです。

 《この著者をみなさんご存知でしょうか?知っている人は動揺するでしょう、知らない人は興味もないかもしれません。東大全共闘(死語)の委員長をやっていた人です。当時、博士課程に在籍していた山本義隆さんは、本来なら世界の物理学をリードするような人だったともいわれています。
 安田講堂の攻防戦を最後に闘争は下火となり、69年の1回だけの入試中止しか「成果」はありませんでした。山本さんは指名手配され、逮捕、拘留を経て中退。なんと駿台の先生となりました。ぼくは文系でしたが、一度、講義を受けに教室にもぐりこんだことがあります。ミーハーっすね。でも、敬愛するヘーゲル研究者の長谷川宏さんといい、全共闘組で大学からおん出た人たちは、塾やったり予備校の先生になってたんですよね。
 その山本さんが近代物理学成立のキーとなった重力の発見について、磁力の認識から説き起こしているのが、この本です。キーワードは「遠隔力」。唯一、実感でるき磁力から、誰も実感することができなかった重力までの観念のジャンプを全3巻で説き起こすそうです。とりあえず1巻買ってきました。
 なぜ西洋にだけ近代科学が発達したのか、という問題を「アリストテレス的な不活発な塊」という認識から、ギルバートによる、多少オカルティックながら「自己運動を有する生命のある霊的存在である地球」という認識が、ケプラーの重力論へと道を開いたというのは、門外漢ながら目うろこでした。
 これなら、アリストテレス哲学の精緻化という方向に進んだアラブ社会で近代科学が構築されなかった、というのがうまく説明できるわな、とこれまた門外漢ながら感じます。にしても、これだけの本を独力でまとめあげた山本さん。20年かかったということだけど、久々に背中をどやしつけられたような気がしました》。

 そして、山本さんには、今も背中をどやしつけられている気がします。

 個人的に3巻にわたる本書のキーパースンはギルバートだったと思います。

 近代物理学はケプラーやフックの業績を引き継いだニュートンによる万有引力の法則ですが、ティコ・ブラーエの精緻な惑星の位置観測の記録から火星の公転軌道が楕円であることを導いたケプラーは、磁力に公転運動の理由を求めます。

 古代ギリシャでは力が生じるのは「近接」だとされていて、遠隔力である「磁力」は魔術師たちに親しまれていました。ギルバートの地球が巨大な磁石であるという発見は、職人による磁針の北が水平より下を向くという「伏角」の発見とその測定によるものでした。そして、地球が不活性で賤しい物質ではなく、能動的な活性原理を持つ物質であることを示した衝撃だったと思います。

 実際、1巻は古代ギリシャから中世キリスト教世界までの磁石に関しての記述に多くを割いています。1巻ではフリードリヒ2世を近代的な科学者である位置づけるあたりも驚きました。

 2巻では、大航海時代に羅針盤の「北」が北極星から地球上の点へと変化し、偏角の発見に続いく羅針儀製造職人ノーマンによる伏角の発見によって、地球認識の転換、地球が磁石であるという認識への道が切り開かれた、と。さらにデッラ・ポルタによる「力の作用圏」という概念により、力が数学的関数で表される端緒が開かれた、と。2巻では教会法で有名なニコラウス・クザーヌスを磁力を定量的に測定しようとしたと評価しされていたのにも驚きました。

 そして、3巻は最初の方で述べたように、ギルバート、ケプラー、ボイル、フックがニュートンの万有引力の法則を準備する過程が描かれます。そして電磁気学の味も素気もないクーロンの法則も見つけるには大変な努力がいった、と。

 すでに本書は大学においても科学史の教科書として使われているそうで、山本さんの歩みを仄聞する身としては時代の流れを感じます。

 中山茂先生の科学史『一科学史家の自伝』作品社によると、《日本で西洋の科学史家として知られたのは、圧倒的にマルキストであった。中略 正統派は大学のスコラの伝統の上にガリレオ、ニュートンも位置づけるのに対し、マルキストは職人の伝統の貢献を強調》するという指摘にはハッとしました(p.136-)。これって山本義隆さんの史学そのものだな、と。

 3巻ではイギリス人が大活躍するのですが、ヘーゲルの『哲学史講義 中』長谷川宏訳で《イギリス人は実験物理学や実験化学を哲学と名づけていて、そうした研究にたずさわり、化学や機械装置の理論的知識をもっている人が哲学者です》(p.29)という一節も思い出しました。

第1章 磁気学の始まり―古代ギリシャ
第2章 ヘレニズムの時代
第3章 ローマ帝国の時代
第4章 中世キリスト教世界
第5章 中世社会の転換と磁石の指向性の発見
第6章 トマス・アクィナスの磁力理解
第7章 ロジャー・ベーコンと磁力の伝播
第8章 ペトロス・ペレグリヌスと『磁気書簡』

第9章 ニコラウス・クザーヌスと磁力の量化
第10章 古代の発見と前期ルネサンスの魔術
第11章 大航海時代と偏角の発見
第12章 ロバート・ノーマンと『新しい引力』
第13章 鉱業の発展と磁力の特異性
第14章 パラケルススと磁気治療
第15章 後期ルネサンスの魔術思想とその変貌
第16章 デッラ・ポルタの磁力研究

第17章 ウィリアム・ギルバートの『磁石論』
第18章 磁気哲学とヨハネス・ケプラー
第19章 一七世紀機械論哲学と力
第20章 ロバート・ボイルとイギリスにおける機械論の変質
第21章 磁力と重力―フックとニュートン
第22章 エピローグ―磁力法則の測定と確定

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