書籍・雑誌

February 02, 2018

『棋士とAI』

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『棋士とAI』王銘琬、岩波新書

 岩波新書の新刊では、アルファ碁の振る舞いについても書いてありそうなので『棋士とAI』を購入。著者の王九段は本因坊2期の実力者。

 驚いたのはアルファ碁が部分の攻防という概念を持たずに、常に全体を見ながら過去の棋譜や自己対戦から一番勝率が高いと思われる場所に打っていること。この驚きを囲碁を知らない方々にどう説明したらいいのか…。個々の局面での攻防などは考慮せず、人間の最強棋士が部分で頑張っても、真綿で首を締めるよう感じで圧倒していくという。

 ぼくはまさかイ・セドル九段がAIに破れるとは思ってもみなかったんですが、そのをイ・セドル九段破ったアルファ碁を改良して汎用性を持たせたマスターバージョンは人類最強棋士の柯潔に圧勝。さらに、これまでは人間の棋譜などで学習してきたのをやめて、ゼロからの「教師なし学習」というディープラーニング手法に変更したアルファ碁ゼロは、柯潔を圧倒したマスターバージョンに100戦して89勝するまでになっています。少し安堵できるのは、その打ち手が人間が長年構築してきたものと似ていはいるんことですが、とにかく人間は師でなくなった、と。

 もう、囲碁を強くする方向では開発していないようですが、アルファ碁ゼロは人類最強棋士より3子強いと言われています。これは、100メートル7秒の記録だと王九段は喩えます。つまり、人類には到達不可能な領域だ、と。

 それ以上に重要なのは、アルファ碁によってAIの開発方向はディープラーニングに絞られたこと。

 さらに《説明ではないものを人間はだいたい「感覚」という言葉でそれを言い表しますが、ディープラーニングはその感覚を学習できる》らしいこと(p.5)。ただし「それをどうして覚えられたかが説明できない」というか、認識を獲得する過程は追跡できないそうです。

 これは ヴ ィトゲンシュタインの言語論に似ているな、と(数列の並びから規則=ルールを理解できれば、言葉が理解できたとことになり、数と言葉は同じ起原を持つ、みたいな。つまり、人間が数列を理解しなければ、数列は存在しない。規則=ルールは、この世界を世界たらしめている、究極の根拠となっている、みたいな)。

 アルファ碁ゼロは以前のバージョンと比べ、仕組みがさらにシンプルになって、そのアルゴリズムは美しいそうです。柯潔戦後、開発者であるハサビスはAIの能力が人間を超えたことで敵意を持たれることを警戒し、「人間とコンピュータが競わない時代」を強調し、世界は「どうAIを乗りこなすか」に視点が移った、と。

 ぼくは初段あるかないかのザル碁打ちですが『棋士とAI』で一番驚いたのは、アルファ碁が勝負を決める「地」の多さの予想(読み)で形勢を判断するのではなく、この局面は勝率n%である、と判断していること。局面の判断に、シミュレーションによる評価を加味して、勝率が一番近い手を選んで最後まで打つというんですが、実は人間の囲碁では確率は全く使われていなかったんです。

 逆に重視されていたのが部分。

 人類がアルファ碁に勝利した最後の戦いとして記録されるであろうイ・セドルとの第四戦。イ・セドルが放った予想外の割込みで、アルファ碁は唯一の敗北を喫したが、それは予測不能な事態が発生し、敗北が必至になった時に、ヒトがよくとる「いつか何とかなるかもしれない」という先送り戦略だった、というのも興味深い(p.62)。

 実はイ・セドルの割込みは成立していない手で、相手が人間ならばすぐに敗着につながる手だったんですが、アルファ碁はそれまで過去の棋譜を過学習していたので、見落としていた、と。都合の悪いことが起きたため、それを視野の外に追い出してしまったため、明らかに悪い手を連発してしまう「水平線効果」で負けた、と。

 人間は「ねばってもムダ」という常識を持っているから、囲碁ならばすぐに投了するんですが、実生活では違った「問題の先送り」的な態度をとりがちなのはセイラー行動経済学でも実証済み。つまり、AIにあらわれる「水平線効果」は実に人間的な態度だ、と。

 将来、量子コンピュータによって10の360乗という囲碁の変化が全解析されるかもしれないそうです(宇宙の原子数は10の80乗)。人間は囲碁に強さ求めてきましたが、それを極めた時の虚しさが見え始めたわけです。だれが必勝パターンがわかっているゲームを面白がってやるでしょう。だから、実は今こそ、勝利を目指す行動パターンを考え直す時がきていて、それは囲碁に限ったことではない、というあたりはなるほどな、と(p.164)。

 著者の王さんは台湾生まれで、14才で日本に来て、一番驚いたのは、日本人が考える人間の基本が「他人を築きつけてはいけない」と言われたことだとしています。それまで台湾では外敵をやっつけるのが使命だと教えられてきた、と。

 日本のプロ棋戦では終局後の検討で敗者に少し譲ります。「そう打たれていたら、こちらが悪かったかもしれませんね」と。それは囲碁の真相が分かってないことからくる自制なのかもしれない、と。

 『棋士とAI』読んでいて、アルファ碁から復活しつつあった囲碁愛が再燃。学生の頃から始めた囲碁だけど、今日、初めて日本棋院の会員となりました。kiin Editorで棋譜を並べるのが目的の無料の情報会員だけど、なんか感動。

 江戸時代の本因坊道策の棋譜を並べてみたくなりました。あと、高川格名誉本因坊の棋譜。

 韓流ドラマって観たことがないので、《御曹司の父が創業者で、囲碁が趣味というのが定番になっているように、碁を打つ人は「できる」イメージがもたれています》って知らなかった(p.31)。

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January 20, 2018

『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)』

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『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)』 川本芳昭、講談社

 今年は講談社の『中国の歴史 全12巻』のシリーズを読もうと思います。10年ぐらい前に完結したシリーズなんですが、現役時代は時間がなくて読めませんでした。

 最初に『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝) 中国の歴史5』川本芳昭から読み始めたのは、趣味で中国の南北朝を研究していた雰囲気のあるお偉いさんが、飲んでいる時に「南北朝には汲めども尽きせぬ魅力がある」と話してくれたことを覚えていたから。

 読み終えて、その面白さが実感できたのは、この時代はタイトルにもなっている「中華の崩壊と拡大」といいますか華夷秩序の変質と中華思想の浸透が日本、朝鮮半島を含めて起こっていたのが分かったから。

 ちなみに三国志の時代は邪馬台国に重なりますが、魏晋南北朝の時代を通じて日本列島の政権は中国の華夷秩序の中に組み込まれていきます。

建武中元2年(57年) 後漢の光武帝が奴国からの朝賀使へ冊封の印として金印を賜う
西暦107年 後漢に帥升が朝貢
中国は後漢崩壊の混乱。日本列島も大乱に。中国では魏晋によって収拾。日本列島と中国の交流を遮断していた遼東半島の公孫度が魏によって滅ぼされ交渉再開
西暦239年 魏の曹叡帝が邪馬台国の卑弥呼に対して「倭王」の封号を与える
正始8年(247年) 邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、宗主国の魏から張政が派遣され攻撃中止を命令
266年以降 中国王朝への使節派遣は413年まで途絶
西晋末に起こった八王の乱、永嘉の乱などにより混乱、五胡十六国時代に
413年 南燕が410年に滅び倭国が東晋に使節派遣再開。同じ年に高句麗も使節派遣再開。倭の五王は山東半島まで勢力の伸びた東晋に高句麗の牽制を期待。
420年 東晋が滅亡
421年 倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使

 ワカタケル(雄略天皇)に同定される武は達意の文章で「あなたの臣下としての私は身分は低く愚かですが(臣雖下劣)」と述べていますが、稲荷山鉄剣銘文では「治天下大王獲加多支鹵(ワカタケル)」と書いています。これは、中華思想が変質を伴いながら徐々に日本列島にも浸透、小さいながらも中華を支配しているという考え方をもらたした過程を表している、と(p.300)。

 また、倭の五王は高句麗や百済が大将軍の称号を得ていたのに対抗しようとして、安東大将軍の名称を求め、ワカタケルの時代になって、ようやく得ることができた、というのもなるほどな、と(p.304)。

 年表を見て、勝手に想像をたくましくしてみると、後漢が滅ぶキッカケとなった黄巾の乱が発生した184年頃は、全世界的に進んだ紀元後百年から気候の寒冷化によって、ローマでは疫病、中国では飢饉、日本列島でも倭国の大乱、朝鮮半島でも高句麗、新羅、百済が三つ巴の争いを続ける不安定な状況が生まれていることがわかります(ついでに書き加えますと、インドではナーガルジュナが現れて大乗仏教の中心的思想である「中論」を著しています)。

 中国史、東アジア史に引きつけますと、後漢が滅亡し、三国時代でも決着がつかなかった漢民族の中華思想は、実態として北方民族によって打ち砕かれ、夷狄をも中原の覇者となれるように変質していきます。そして、その中華思想は朝鮮半島、日本列島にも及び、周辺国でもこじんまりとした中華思想による支配が生まれるようになる。それが「中華の崩壊と拡大」なんだ、という感じ。

 三国~南北朝時代は北方の夷狄だけでなく、今のベトナムあたりの南方の諸民族も《戸籍につけられて税を納めさせられる良民としての身分を持つ新たな「漢民族」となった》といいます(p.186)。しかも、南方では貨幣経済が発達し、銅が不足するほどだった、と。日本はヤマト王権がやっと成立したぐらいの時代なのに中国は凄いと思うと同時に、今でも続く中国の南北問題の原因は、この時代からつくられるんだな、と。つまり、北京を中心とした政治、上海などを中心とした経済の分離。

 また、揚子江以南は漢民族の文化の揺り籠ともなります。梁の武帝は下級貴族の出で、深い学識と午前二時に起きて政務を行うという経世済民の責任感にあふれていたそうで。彼の編んだ『文選』は日本の文学や政治にも影響を与えています(十七条憲法も文選から引用されています)。

 朱子学の創始者、朱熹は福建省の生まれです(p.192)。福建の名は福州の「福」と、北西部の建州の「建」から成っており、その名称は福建の地における漢民族拡大の歴史過程を保存しています。朱熹は南宋時代の福建に生まれましたが、その福建は都が杭州臨安府に移されたこともあり発展していきます。福建は山がちだった地ですが、そうした地も朱熹を産む先進性を示すようになっていった、と。

 この時代まで、仏教は漢民族の社会に受けいれられておらず、かえって北方の夷狄の王朝が「外国の宗教だから、夷狄の我々が信仰しやすい」ということで広まっていきます。そして、南朝でも貴族出身である武帝が信仰(というより仏教狂い)したことで、公認化されていきます。

 仏教狂いになる前の武帝の時代は「南朝四百八十寺 多少の樓臺煙雨の中」と杜牧が歌う隆盛を誇っていました。先祖に対する祠祭の供物(血食)を、仏教における不殺生戒に反するとして果物などに変えるぐらいでしたらよかったのですが、やがて国家儀礼を仏教に則って行なおうとするだけでなく、仁政を単なる性善説で行なおうとするなど姿勢が弛緩。やがては裏切りにあって憤死します。

 日本の仏教は中国の仏教を輸入したもので、オリジナルのものではありません。それは中国の先祖崇拝と結びつけられ、儒教思想にも適合されて土着したんだな、ということが改めてよくわかります。実際、空海さえも、梵字が読めたわけではなさそうです。いわんや鎌倉仏教などの開祖をや、という感じでしょうが、あまり深くはしりません。

 ちなみに、先祖に対する祠祭の供物を果物とし、先祖崇拝に結びつけたのも武帝です(p.152-)。

 北の方に目を向けると、倭の五王が南宋に遣いを出した北に北魏があったわけですが、北魏の孝文帝はヤマト王朝が採用した班田収授制に影響を与えた均田制を創始したとか(p.102)。この北魏は漢族からすれば夷狄による建国なんですけど、どっちにしても中国からの影響は絶大すぎです。

 また、鮮卑が天を祀る「祀天」は匈奴の「龍会」、モンゴルのクリルタイにつながる儀式で、日本では大嘗祭にも関連するとか(p.218)。

 このほか、三国時代を終息させて中国を再統一に導いた西晋の司馬炎の息子、司馬衷は無能で、戦乱で穀物がなく民が飢えていると聞いて「なぜ肉入り粥を食べないのか」と言ったとか。「東洋のマリー・アントワネットかよ」と笑いました。バカな王族というのは洋の東西を問わずにいるな、とwつか、一応、こっちは皇帝なのにとか(p.54)。

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January 05, 2018

『ギリシャ人の物語』が「III 新しき力」で完結

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『ギリシャ人の物語III 新しき力』塩野七生、新潮社

 ローマ人の物語から毎年、年末は肩の凝らない塩野さんの本を読んで息抜きするのが楽しみでした。中世ヨーロッパを描いてデビューした塩野さんが、普遍のヨーロッパの原点ともいうべきグレコ・ローマンの歴史を描いて「歴史エッセイ」を閉じることになったわけですが、資料が多くのこっているとはいえ、その膨大な仕事量には改めて凄いな、と思います。

 この『ギリシャ人の物語III 新しき力』はアテネの凋落とペルシャの傭兵となってしまったスパルタ、それをいったんは打ち破ったテーベの没落で、ポリスとしての古代ギリシャに人材が枯渇したところに、僻地だったオリンポスの北にあったマケドニア王国がフィリッポスから隆盛となり、息子アレクサンドロスがインド王までをも征服する過程を描いいています。

 「新しき力」というのは、アレクサンドロスがペルシャからインダス河流域まで制服し、各地にアルキサンドリアと名付けた都市を建設、通貨も統一して(貨幣に横顔を彫らせたのは彼が最初とか)ギリシャ商人などが行き来することによって、ヘレニズムという新しい世界が現出したことをさすと思います。後にカエサルがブリタニアを征服しますが、大航海時代が来る前のヨーロッパ社会にとって、世界とはインドからイギリスまでのことを指していました。アレクサンドロスはそうした「世界」をつくりあげたことになります。

 それまでのアッティカ方言ではなく、コイネーがギリシャ語の共通語になり、オリエントの宗教であったユダヤ教も普遍と出会うことによって、変わっていくことになります。ユダヤ教社会は、いったんセレウコス朝が弱まった時にマカバイ戦争によって、その軛から逃れることはできましたが、やがてはローマというより組織的で合理的な普遍社会によって征服され、ユダヤ戦争によって神殿を中心とした旧来のユダヤ教は根拠を失い、1900年間はディアスポラの宗教となり、民俗宗教としての性格も元々の中近東から東欧などに広がることで変質していきます。もちろん、この過程でキリスト教も生まれるわけです。

 こうした変化は、アレクサンドロスのインフラ整備とともに、彼が奨励したギリシャ人部将とイラン人貴族の女性との結婚によって生まれます。セレウコス朝はギリシャ人武将のセレウコスが起こし、エジプトのプトレマイオス朝も現実主義者でエジプトを支配することだけに満足したプトレマイオスが建てます(クレオパトラはギリシャの女性の名前)。

 アレクサンドロスは彼の帝国の中心としたスーザとエジプトをペルシャ湾~インド洋~紅海で結ぶことを構想し、そのためにもアラビア半島を征服しようとしましたが、常に最前線で戦っていた彼の身体は満身創痍の状態となり、32歳で夭折します。彼が征服できなかったアラビア半島はグレコ・ローマンの世界には入ってこない状態が続きますが、やがて、そこからイスラムが生まれるというのも示唆的かな、と。

 情けないことに、ギリシャの古典にはまだまだ未読のものが多いのですが、そうした中でもソクラテスの弟子、クセノフォンがスパルタがそそのかされて大失敗したペルシャからの逃避行を描いた『アナバシス 敵中横断6000キロ』は未読なので、読んでみようかな、と。

 プラトンはアテネの市民だから土地を購入してアカデミアをつくることが出来たが、余所者のアリストテレスは土地を購入する資格がなく、リュケイオンの土地も借りていたというのは知りませんでした(リュケイオンが高等学校を意味するフランス語のリセ、イタリア語のリチュオに続いていることも)。

 テーベがマケドニアの父子が参考にする歩兵と騎兵の有機的運用を産みだしたというのも知りませんでした(p.77)。しかし、小国テーベはペロピンダスとエパミノンダスが死ぬと衰え、やがてはマケドニアに滅ぼされます。フィリッポスはマケドニアと同盟を結び、その証としてフィリッポスは人質としてテーベに赴き、こうした戦術を学びます。

 都市国家のポリスからすれば、王制のマケドニアは野蛮な国だったようですが、やがてフィリッポスが全ギリシャの盟主となります(フィリッポスが王となって3年後にローマは「リキニウス法」で貴族と平民の抗争に終止符を打ちます)。

 フィリッポスはホプリーテス(重装歩兵)の要員を農民層まで拡大、槍も長大化させファランクスとして大型化。ポリス連合国を打ち破ったカイロネアの戦いでは、アテネ軍に対するフィリッポス指揮軍、中小ポリス連合に対する副将パルメニオン軍とテーベ軍の間にできた隙間をくぐり抜け、弱冠18歳のアレクサンドロス率いる騎兵部隊が後ろに回り込んで挟み撃ちして勝利、マケドニアに覇権が確立されます。

 七海さんは、カエサルを描いた二巻で、畢竟、戦闘というものは、相手を挟み撃ちにすれば勝てるもので、そのためには敵の猛攻を耐える防御部隊が支えている間に、機動力を活かした騎兵が挟み撃ちにする、と書いていたと思います。この戦法は、基本的には第一次世界大戦まで続くことになります。そして、『ギリシャ人の物語III 新しき力』では《ミもフタもない言い方で言えば、戦闘で勝つ方法は一つしかない。味方はパニックに陥らないようにしながら、的をパニックに陥らせることにつきる、のである》(p.250)と書きます。つまり、挟み撃ちにして、背後を突かれた敵をパニックに陥らせる、と。

 グラニコス、イッソスの会戦で勝利したアレクサンドロスは、ギリシャとの補給路を万全のものとするため、フェニキア海軍を頼みにパレスチナ沿岸で唯一、降伏しなかったティロスを攻め落としシーレーンを確保します。

 ガウガメラで三度、ダリウスを破ったアレクサンドロスは現代でいえばアフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン。タジキスタンなど、ペルシャにとっても不安定要素となっていた難治の中央アジアの制覇に向かいます。アレキサンダーの時代から、難治というか腹面背従という土地柄らしいのは笑えます。変わらないな、と。その地で味方についた部族長の娘ロクサーヌと結婚しますが、子どもが生まれたのは死後で、この本には書かれていませんが、幼友達でもあったヘーファイスティオンを愛していたようです(父が破ったテーベの神聖部隊も全員がゲイみたいです)。

 アレクサンドロスはアリストテレスから教えを受けたことでも有名ですが「非ギリシャ人(野蛮人=バルバロイ)は動物か植物とでも思って接するべき」という教えには従いませんでした(p.187)。まあ、確かに「野蛮人どもをギリシア人が支配するは当然なり。 野蛮人と奴隷は本来同じだからである」( 政治学』第1巻第2章1252A31B9)と語っていますが、アレクサンドロスはアリストテレスの自己拡張的なフィリア(同胞愛)による閉鎖性の壁をも破ったのかもしれません。

 それにしても、アレクサンドロスの東征は父の暗殺による急死を受けた21歳からスタートし、しかも、資金繰りもままならない状態で進められたとは(p.203)。

 アレクサンドロスは父フィリッポスが創造したファランクスから、現代で言うならば海兵隊的な身軽な特殊部隊「ヒパスピスタイ」をつくり、機動力を活かした戦いで四度の会戦に勝利し続けます(p.206)。

 アレクサンドロスが東征でペルシャを滅ぼすのは、今はトルコ沿岸部となっているレスポス、ミレトス、エフェソス、ロードスなどがギリシャ文明の生みの親でもあるですが、当時は海岸部と内陸部は今のように有機的には結びついてはいなかったんでしょうね。アレクサンドロスが東征したルートは、300年後、パウロがキリスト教を携えて歩き、航海することになります。
 
 29歳でインド王ポロスをヒダスペスに破りますが、それ以上の東征は兵士たちに拒否され、テーベへの帰路につきます。アジア入りしたアレクサンドロスの第1戦はグラニコスの会戦は、グラニコス川の両岸に開けた平原で行われましたが、最後の会戦もヒダスペス河畔。といいますか、地形的に大軍同士の会戦は川が削った両岸とか、扇状地になんじゃないかな、どうなんでしょ。

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December 28, 2017

今年の一冊は『日本人のための第一次世界大戦史』

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 毎年、新刊書のベスト5ぐらいをアップしていたんですが、今年も点数はそう読んでいないのですが、年末の行事のようにやってみたいと思います。

 今年は日本中世史に関する本が脚光を浴びました。『応仁の乱』呉座勇一、『観応の擾乱』亀田俊和といった若手の研究者のほか、『享徳の乱』峰岸純夫などベテランの研究者の本も注目を集めました。ぼくが学生時代、中世史、特に室町時代は資料が少なく研究が進んでおらず、佐藤進一の著書が公認史観のようになっていたと思います。ところが、僧侶の日記などの読み込みが進み「国民国家の形成へのステップとして歴史を読みこむ」というヘーゲル以来の史観から自由になって、あるがままの出来事から再構成する、というスタンスが出てきたな、と。

 こうした傾向は『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎にも感じられたな、と。ロシア革命に関する本はトロツキー、カー、リードもレーニン無謬説が前提だったように思いますが、池田嘉郎さんは2月革命の可能性を検証するという立場。ぼくも昔ながらのロシア革命史観だったので、ケレンスキーはダース・ベイダーのような悪の権化のような印象を持ち続けていたのですが、当時、35歳だったというのに驚きました。子どもじゃないか、と。

 こうした流れと比べると、岩波新書のシリーズ中国近現代史シリーズの掉尾を飾る『中国の近現代史をどう見るか』西村成雄は、まだ中共史観の影響があるかな、と感じます。というか、まだ中共はブロセスの途中なんだな、と。

 ウィトゲンシュタインは相変わらず新刊が出れば読んでいます。今年は『秘密の日記』『ラスト・ライティングス』を読みました。論考7の「語ることができないことについては、沈黙するしかない」は"命題ではない"ということなのか、と最近よく見ているNHK高校講座の数I「命題と集合」でわかったぐらいですから、なさけないのですが、これからも読んでいくだろうな、と。

 あとは佐藤賢一『小説フランス革命』など、フランス革命の本も再読を含めて読みました。フランス革命史は明治維新と同じように付与曲折を経て進むんですが、整理すると内外の反革命勢力の脅威高まる→ブルジョワジーと民衆、農民の同盟を唱えたロベスピエールが山岳派独裁による徹底路線をとる→旧体制一掃→民衆や農民の要求を飲もうとしたロペピエールがテルミドールで葬られる→資本主義の発展に適合したブルジョワ革命完成、みたいな。王党派だけでなく、民衆の暴力にも対抗しなければならなかったブルジョワジーは結局、ナポレオンの武力に頼るわけです。しかし、「貧しい農民や手工業者の生きる権利が高く掲げられたフランス革命の93年の段階があったからこそ、その生存権という考え方は、日本国憲法の第二十五条「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条項にもつながっているのであり「現代日本の私たちは、あの恐怖政治の血まみれの手からの贈り物を受けているのです」(『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬、p.169)ということは忘れられてはいけないし、世界史からロベスピエールを削るなんていう話しは暴挙だな、と。

 ということですが、今年の一冊は『日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか』板谷敏彦、毎日新聞出版にします。帝国陸軍の暴走には統帥権が関わっていたということは多くの方が知っていると思いますが、その統帥権が生まれた背景には、明治政府が範としたプロイセンのモルトケ参謀総長による通信と鉄道を使った作戦が余りにも見事に決まったからだ、という背景を知りました。

 このほか年末年始に読まれるのでしたら、以下の新書五冊をあげたいと思います。

『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書
『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田俊和、中公新書
『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎
『ウニはすごい バッタもすごい』本川達雄、中公新書
『応仁の乱』呉座勇一、中公新書

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『享徳の乱』

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『享徳の乱』峰岸純夫、講談社選書メチエ

 ちょっと読みにくかったけど、三章から面白くなってきた。関東の大乱で都の寺社が所有する荘園が、在地領主の年貢未進で不知行化。武士でも遠くに散在している所領は失われるが、本領を中心とした一円所領化が進展し、結果的に兵農分離も進む、という構図が見えたから。

 とはいっても亀田俊和さんによると、寺社は遠方にある荘園を年貢の半分を与えるというような条件で経営していたということらしいんですが。

 また、豊島、太田、千葉、佐野、小山、宇都宮、那須、里見など現代にも続く地名は、当時の有力氏族の名字からとられたんだな、と。関東の場合、室町時代から、それまでの寺社の荘園という無名の地から、「戦国領主」が治める本当の歴史が始まったみたいな。

 応仁の乱は、享徳の乱を収拾できない義政・忠勝に、上野経営を通じて関東の情勢に詳しい宗全が和議を進言したのに聞き入れられず、衝突したのではないか、みたいなみたて(p.112)。京都在住で在地に問題を抱える大名家にも亀裂が入って、ということで…この後は下克上の世の中になっていくわけですが、太田道灌みたいに優秀だと主君に殺されたりして。

 鎌倉時代から続いた上部権力に頼ることができなくなった国衆は、実力を持って所領を支配、経営するようになり、世界に誇る封建領主たる戦国大名が誕生する、というわけですが、享徳の乱から戦国の終わりを画する小田原攻めまで140年なんですよね。

 この間、国衆が政治倫理を磨き、経営能力も高め、領民たる農民を保護していったわけですから、日本人の「お上」を信用する意識というのは長い歴史を持って射るんだな、と。

 江戸時代も農民は士農工商で二番目の地位だったわけですが、ロシアとかスウェーデンとか農民は君主の言いなりで兵隊にとられたりする農奴ですからね。

 明治維新では自らの特権を捨てて四民平等を形の上では整えたわけだし、太平洋戦争の一時期だけは酷かったけど、まあ、冷静に考えたら今につながる日本の歴史が始まった室町時代以降、政治はそう悪くなかったのかもしれないのかな、と。

 《旧約聖書(レビ記)によれば、西欧古代において人間の罪業の身代わりに選んだ山羊に罪を着せて荒野に放つことがおこなわれ》とあるのにはガッカリ。旧約が成立したユダヤの地はオリエント(p.61)。講談社メチエの編集者も訂正してあげればいいのに…。

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『日本史の内幕』

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『日本史の内幕』磯田道史、中公新書

 磯田道史さんには、現役時代にもお世話になったことがあります。『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)は奥付が14年11月25日になっているのに、その年の10月に発生した東海道線の土砂崩れのことにふれており、その現場が150年前に同じような土砂崩れが発生していたという古文書が残されていたと書いていました。さっそく、関係者にも、その内容を伝え、自治体を交えた対策がとれられたと思います。その旨を編集者に伝えると、磯田さんが役立ったことに喜んでいる、とのことでした。

 磯田さんのスタンスは、徹底した古文書読みに基づく、目的意識を持った実証的な研究。「まえがき」で《日本史の内幕を知りたい、そう思うなら、古文書を読むしかない》《(教科書などは学者さんたちの願望で)彼らが信じていてほしい歴史像が書いてあるだけ》《歴史観が身に付くものではない》とまで言い切ります。

 大文字の歴史観は、おそらく丸山眞男で完成されていると思います(丸山眞男は古代から明治時代までの日本通史の研究者だと思った方がいい)。それならば、日本に残されている膨大な古文書(動乱や近代戦で失われた中国、韓国、東南アジアとは違う圧倒的な量)を丁寧に読むこむことしかないんじゃないかな、というスタンス。

 網野善彦さんが漁村の古文書を集め、整理しきれずに返したという顛末を書いた『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣』中公新書の時代とは違って、整理するためのツールも完備されてきているし、古文書に基づく研究がどんどん進めばいいな、と思います。今年の室町ブームといいますか、中世史ブームも、こうした流れの中にあると思います。

 ということで、この本では、明治天皇の皇后のお付き世話係が付けていた日記によると、京都から東京に向かった時に、輿を担いだのは八瀬童子だっというのにいきなり驚かされました(p.9)。個人的には猪瀬直樹の『ミカドの肖像』以来の八瀬童子との邂逅です。本当に天皇家に何かあると出てきて輿や棺を担ぐんだな…と。

 沼津の高尾山古墳は、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳、纏向古墳群、岡山の楯築古墳と共に重要な初期巨大古墳で、狗奴国の王が埋葬されている可能性がある、というのにも、いきなり驚かされました(p.12-)。狗奴国は漠然と九州だと思っていたので…。沼津は近いので、ぜひ、見に行きたいと思います。この保存問題で、後に国交省事務次官となる徳山日出男技監に呼び出されたというんですが、徳山さんが技監をやっていたのは14年7月から15年7月なので、ちょうど東海道線の由比~興津で土砂崩れがあった時期に合っているんですよね。ちなみに徳山さんは東日本大震災時には東北地方整備局長として「櫛の歯作戦」を立案実行した人です。

 この他にも秀吉の薩摩征伐には本願寺門主・顕如の子教如が付き従って信徒に協力させ、その前にも柴田勝家領で一揆を起こすなど連携を深めていたとか(p.16-)、家の前に郵便ポストがある家は古いとか(p.38)、昭和天皇は桑野鋭から関ヶ原の時に小早川が裏切らなければ徳川の世にはならなかったということを繰り返し聞かされて育ったのでソ連軍の参戦を小早川の裏切りととらえ、報告を受けた30分後に降伏に向けての行動をとったのではないかとか(p.41)、水戸藩は徳川や織田に敵対した武将を山ほど召し抱えたとか(p.86)、美容整形で二重瞼の整形は目の小ささにコンプレックスを持つ日本人の発明とか(p.161)、聞いたことのない面白い話しが古文書ベースで読めます。

 また、日本の世界シェアに占める人口のピークは元禄期、軍事は日露戦争~満州事変、経済は1970~2000年で、後はもう質を高めるしかない、というあたりもなるほどな、と。

 新書にしては索引も充実していて、この人の本はたいしたもんだと思っています。

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December 23, 2017

『日本人のための第一次世界大戦史』

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 『日本人のための第一次世界大戦史』板谷敏彦、毎日新聞出版

 毎年、勝手に選んでいる新刊書の「今年の一冊」はこれにしようと思います。

 エコノミストの連載当時から熱心なファンだったけど、単行本となって読み返すと、図版こそ連載時の方が大きくて見やすかったな、とは思いますが、改めて本当に面白い本となりました。

 第一次世界大戦は日本本土が戦場になったわけではなく、青島のドイツ軍基地を攻略して大成功を収めたほか、大正の天佑とも言うべき好景気をもたらし、五大国として認められるなど、明治維新後の富国強兵策の集大成とも言うべき体験をもたらしました。

 しかし、これは他の本からの受け売りなんですが、日本の人口のピークは元禄時代で(世界人口の中の比率)、経済力は1970~2000年代だったのに大して、軍事力では日露戦争時代ではないかと言われているそうで、ピークをすぎた後の成功体験の振り返り的な恍惚感で見ていたためか、本当の総力戦の意味を見誤り、第二次大戦の破局へと向かうことになります。

 考えてみれば、日本列島では1877年の西南戦争から1942年のドーリットル隊所属のB-25による爆撃まで65年間、戦場となったことはなく、常に外地に出張っての戦争だったんですよね。だから、あまりにも苛烈な太平洋戦争の記憶だけが語り継がれ、記憶となっていったわけですが、太平洋戦争の失敗は第一次大戦を総括できなかったからだと思います。もちろん帝国陸海軍は詳細に研究しましたが、陸軍は仮想敵国のロシアがなくなり、近代的装備へのモチベーションを失い、国内における政治力拡大のため人員だけは大きくするという方向で国政そのものを誤らせます。また、海軍もドイツの経済封鎖の効果などシーレーン防衛の大切を学んだはずなのに、ワシントン条約で商船への無差別攻撃禁止が盛り込まれたことに満足して、対潜水艦作戦を怠っただけでなく、帝国海軍の潜水艦も商船狙いではなく、敵艦隊への攻撃を主眼とするなど、ニミッツがあきれるほどの誤運用で総力戦の基礎を失っていきます。

 また、帝国陸軍の暴走には統帥権が関わっていたということは多くの方が知っていると思いますが、その統帥権が生まれた背景は、『日本人のための第一次世界大戦史』を読むまで知りませんでした。

 今さら自分の勉強不足と読書量の少なさを嘆きはしませんが、プロイセンではモルトケ参謀総長による通信と鉄道を使った作戦が余りにも見事に決まってデンマーク、ハプスブルク帝国、フランス相手に三連勝したので、王直属の参謀本部が政府とは独立して命令を下せる帷幄奏上権を確立。陸軍はドイツ式を選んだ日本も西郷隆盛による西南戦争(西郷は陸軍大将として命令を下した)にこりて、軍令機関は天皇に直属する形が良いと判断して、統帥権を独立させたが、日本もドイツも統帥権の暴走で滅んだ、という関係は知りませんでした。

 とにかく、ドイツ参謀本部による動員と作戦があまりにも見事だったので、鉄道時代の近代戦争は短期間で決着が付くと印象づけられた、というらしんですわ(p.51)。これだから、第一次世界大戦が始まった秋、クリスマスには家に帰れると思っていたのか…。

 ウィリアム・H・マクニール 『戦争の世界史』中公文庫あたりは、塩野七生さんの『ギリシャ人の物語III』を読み終わったら、とりかかるかな、と。

 以下は、箇条書きで。

 第一次大戦の日本人戦死者はわずか415人と第二次大戦の5千分の1だったとか、『80日間世界一周』と明治維新との同時代性とか目ウロコの話しばかり。

 1870年代から1914年の第一次大戦までの半世紀は、交通や通信手段が急速に発達し、金本位制で為替リスクがなくなったので驚くほど貿易が拡大。世界が急速に接近した「第一次グローバリゼーション」の時代だった、と。

 グローバル化は世界中で経済的な格差を拡大し、それはいったん2つの大戦で終わり、社会主義的な福祉政策によって不平等も縮小したが、ソ連崩壊などで自由すぎる資本主義が復活。現在は第二次グローバル化の時代で、やはり格差は拡大している、と

 第一次大戦は覇権国イギリスに勃興国ドイツが挑戦して起きたが、今はアメリカに中国が挑戦している、と。第一次大戦当時の三番手はフランスで、今の日本と同じように人口増が停滞しており、グレアム・アリスンが言う「ツキュディデデスの罠」にはまるかも、と。

 フランス革命当時は凶作続きでフランス革命軍に入れば喰えるということで無職の若者を動員でき、国内で不足する食料を調達するためにも越境した、と。ナポレオンも同じ手法で勝ちまくったが、ロシアが焦土作戦に出て、兵力維持ができなくなり敗北、と(p.56)。

 薩英戦争で365発中28発が不発だった事故でアームストロング社は英海軍から切られ、他国へ売込まざるをえなくなり、独クルップ社なども参入して兵器市場がグローバル化。このため、日本も日清日露戦争で最新の戦艦を手に入れることができた、というの知らなかったな。

 『日本近代技術の形成』で中岡哲郎がメキシコの大学院で薩英戦争について講演したことを書いているんですが《戦闘開始後45分、油断したイギリス戦艦が桜島付近に錨をおろし砲撃を開始したとき、桜島からの薩摩藩の砲弾がイギリス旗艦ユーリアラス号に命中し、ジョスリング艦長ほか八名が戦死します。このことが最後まで尾を引き、イギリス艦隊は決定的勝利を収めないまま引き揚げます》《この戦闘でイギリス側も薩摩の実力をあなどれないと認識します。しかし薩摩の側もそれをはるかに上まわって、彼我の力の格差の大きさを認識します。それはサムライ工業の苦心にはじまり、学校としての長崎で育てられた彼らの現実認識に最後の仕上げを与える、決定的な事件でした》(pp.37-38)とまとめたんですが、《学生に異常な興奮が起こった。なぜ貴方は、薩摩が勝利したといわないのかという発言があり、全員を巻き込む討論になった。私は、薩摩はこの一撃によってかろうじて敗北を免れたのだ。大切なことはこの戦争をとおして、薩摩が敵の実力を認識したことなのだと応じたが学生たちは引かなかった。最後に「貴方は植民地化された国に住んだことがないから、この勝利の大切さがわからないのだ」という一撃を浴びた》《日本がこの時期に植民地化を免れたことの大切さを、彼らほどの切実な思いで受け止めてきたかという反省のきっかけとなった。その影響は本書にも示されてる》(pp.482-483)というくだりを思い出しました。
 アカデミックの世界で第零次世界大戦と呼ばれるようになった日露戦争では、弾薬消費量の増大で戦費が増大。安全保障上、露の弱体化を危惧する仏はパリでのロシア国債の起債を許可しなくなる。露はドイツに依存するが、この条件付き借財が大戦の原因に。

 シェル石油の創始者サミュエルは一人息子をフランスの塹壕戦で失い、各国のロスチャイルド家の若者も犠牲者となった。ユダヤ人にとって、第一次世界大戦は愛国心を見せられる数少ない機会だった(p.138)というあたりは、『炎のランナー』の冒頭のシーンを思い出します。

 大戦は国民として認められる絶好の機会だったので、ドイツに住む55万人のユダヤ人のうち10万人が軍務に服し、1万2000人が戦死し、3万1500人が鉄十字勲章を受けた。大戦は国民として認められる絶好の機会だったのでドイツに住む55万人のユダヤ人のうち10万人が軍務に服し、1万2000人が戦死し、3万1500人が鉄十字勲章を受けた、とあります(p.246)。各国社民党も労働者の普通選挙獲得を掲げたし、本当に虚しい奮闘…(p.246)。

 ここらあたりトニー・ジャット『20世紀を考える』の、累進課税、年金を可能にしたのは第一次世界大戦による政府の総支出の増大。大戦後、英仏ともデフレ政策によって支出を抑えようとした、というあたりを思い出しました(p.492)。

 とにかく、ぜひ、読んでみてください。

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December 17, 2017

『ギリシア人の物語III 新しき力』

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 『ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず』の初版は1992/7/1でした。

 やがて刊行ペースが遅れていったけど、だんだん年末に出すパターンが定着していったと思います。毎年、年末は肩の凝らない塩野さんの歴史物を読むのが好きでした。

 『ローマ人の物語』が完結した後に出したのは『ローマなき後の地中海世界』。ブローデル『地中海』をパクったとしか思えないこの上下二冊には少しガッカリしましたが、『地中海』の副読本だと思って読めば楽しかった。

 『十字軍物語』五巻は戦記モノとして読めば面白かったし、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』二巻は正直、勉強させてもらいました。

 『ギリシア人の物語 III』はどうやら著者の長編最後の作品となりそうで、寂しい限り。

 『ローマ人の物語』では圧倒的にカエサルの二巻が面白かったのですが、最後はアレキサンダー大王が主役。英雄大好きな塩野さんだけに楽しみです。

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 塩野さんの歴史物は宗教史としても読めると思います。アレキサンダーとその後継者がヘレニズム世界をつくり、そこでユダヤ教が「一国救済主義」の限界を迎え、キリスト教がローマ帝国を内部から侵食し、ヨーロッパはキリスト教共同体となって停滞。やがて勃興したイスラム教相手に十字軍という愚行までしでかしますが、ルネッサンスを先取りしたような皇帝フリードリッヒ二世などの現世勢力によって克服されていく、みたいな。

  『ギリシャ人の物語 III』では最後に『グラツィエ・ミッレ」と読者への感謝を述べて、50年に渡る「歴史エッセイ」の筆を置いています。

  《書き続けてこれたのは、私の作品を買って読むことで、私が仕事をつづける環境を整えてくれた読者がいたから》


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December 06, 2017

『ハプスブルク帝国』

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『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書

 世界史を国民国家への到達プロセスとして描く近代史学からハプスブルク統治は低い評価しか与えられなかったんですが、ヘーゲル以来のそうした史観が衰えた今《多様性・複合性・流動性》を通して諸国家のありようを考えるスタンスから見直しが始まっているのかな、ということで読んだのが『ハプスブルク帝国』(p.4)。

 こうした近現代史観の反省から《帝国を過度なナショナリズムを抑え、多様な国・民族を包含した「連邦国家」の先進事例とみる研究が盛んになった》というんですが、従来、ハプスブルクはアナクロニズムの最たるものというか、知り合いの美術の先生が口を極めて貶すように建築の趣味なども良くありません。ディズニーが密輸したシンデレラ城のような偽ハプスブルク調は確かにオリジナリティのなさ、貴族趣味の大衆迎合を表している感じ。

 スナイダー『赤い大公』『ブラッドランド』などを読むと、そうした貴族趣味、権威主義の下ではあるものの、ナショナリズムに目覚めた多民族をなだめすかしながら統治し、域内とヨーロッパを戦禍から守ってきたハプスブルクの姿が浮かびあがってきます。しかし、第一次大戦でハプスブルクが倒れてしまい、そこからユダヤ人大虐殺と東欧の大量餓死が発生、東欧には自由がなくなった、と。

 例えば、ハプスブルクのブタペストは人工的なモデルとしてつくられたからユダヤ人が同化できたとも言われています。逆に、国民国家成立以前のような農村の孤島として存在していたユダヤ人村では、周辺の風習に同化しなかったので、主の祈りを唱えられない、乗馬が出来ないなどから簡単に特定されてしまい、迫害された、と。

 にしても、1912年のウィーンフィルによるマーラー9番の初演は、ブルーノ・ワルターが指揮、コンサート・マスターがマーラーの妹を娶ったロゼというユダヤ色の濃さに驚きます。しかし、ハプスブルクのウィーンが狂気のナショナリズムから庇護しようとしたユダヤ人たちは、オーストリア併合で散り、ロゼの娘はアウシュビッツで死ぬことになります。

 以下、箇条書きで。

 ハプスブルグを隆盛に導いたルドルフ1世の没後、スイス永久同盟とハプスブルクとの関係は悪化、ゼンパハの会戦(1386)で矛槍を装備した軽装歩兵が地の利を生かして、ハプスブルクの封建重装騎士軍に勝利したそうです(p.53)。乗馬した重装兵をこうした軽装の槍兵が圧倒していくというのは、観応の擾乱以降、在地領主が馬に乗らない槍部隊を活用した日本史とパラレルなんじゃないかと思いました。

 ちなみに、ハプスブルク城は1020-30年にチューリヒ近郊に築かれ、ルドルフ1世がドイツ国王=神聖ローマ皇帝に選出されたのは1273年。ルドルフ1世は各地を移動する「巡幸王権」スタイルで利害を調整。《文武両道に秀でながらも謙虚さと敬虔さを失わず、気さくで機知にも富んでいた》といいます。また、ルードルフ一世が国王に選出されたのは、「諸侯が勢力拡大を図る都合から強力な王の登場を望まず、弱小な「貧乏伯」を良しとしたためとされてきた」(p.22)が、今日では、適当な国王候補が見当たらない中、フランス王やチェコ王に抗しえる人材と見込まれたことや、当時ヨーロッパ最大の政治勢力であったシュタウフェン朝から支持されていたことが根拠となっている、とのこと。

 ルドルフ1世の諸民族と王国の利害を調整して帝国の安寧をはかりながらも、ローマでの戴冠式は法王の相次ぐ交代でかなわなかったという姿は、ミュージカル『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフの姿に重なります。こうしたマジメな始祖の心意気は受け継がれる時もあるし、スペイン・ハプスブルグ家のように広げすぎて破産する場合もあるな、と。

 スペインはカール、フェリペ以来、オランダ支配継続のためフランスにちょっかいを出し続けるんですが、プルボン家はスペインだけでなくオーストリアのハプスブルクからも嫁を貰い続けるなど王族の婚姻戦略は闇が深いな、と。オートリア・ハプスブルク家もナポレオンに王女を差し出すし。

 にしても、30年戦争をハプスブルクがまだ再カトリック化を目指して戦っている同じ頃、徳川幕府は宗教的には一向宗、キリシタンの過激派をほぼ殲滅し、豊臣家も根絶やしにしたというのは日本はすごい現世主義だな、とも思いました。

 今日の研究では「絶対主義」という用語をあまり用いなくなっているとのこと。三十年戦争以降の近世後期でも、ヨーロッパ諸国は絶対主義ではなく複合(君主制)国家だった、と。例えばプロイセンでも王権は諸身分の了解の下、中央の諸制度に地域の伝統的諸制度を「接ぎ木」する形で支配を浸透させていった、と(p.168-)。

 近世ヨーロッパ諸国における「強国化」の成否は、政府と国内諸勢力との合意形成に大きく依存していた、と。君主を中心としつつも複数の権力(とりわけ貴族)か国政に参加する「穏和」な混合君主制を最良とする見方が一般で、絶対王政、専制の擁護は傍流だつた、と。

 三十年戦争で没収したプロテスタントの領地は、戦費調達のため、ハプスブルク家が貴族たちに売却したが、シュバルツエンベルグ家はこれを足がかりに帝国諸侯となったという記述にはうなりました。ミュージカル『エリザベート』を見てシュバルツエンベルグ公爵が出てきたら「成り上がり者」と思うことにしようかな、と(p,171)。

 中興の祖となったマリア・テレジア軍事勲章は、勇敢さのみが授与の案件とされ、身分、宗教、民族のいずれも問わないと明文化されたそうです(p.176)。死は平等という原則が確認されたから、どんな開発途上国でも、民主化は軍隊が模範となるんだな、と。

 マリア・テレジアは他国の外交官から、美しくはないと書かれました。だから、末娘のマリー・アントワネットにも、さほど美しくはなかったのかもしれません。だからマリア・テレジアはアントワネットに、王妃として身を入れろと手紙を書き、息子、ヨーゼフ二世には、強権的な態度では一人も友人を見つけられないと言っていたのかも(p.230-)。

 ヨーゼフ二世が「良き意図を持ちながら、何事もなさなかった」まま1790年に没した後、開明的な弟、レオポルト二世が即位。内政を立て直したが、アントワネットの兄としてフランス国王夫妻を心配するあまり、外交的にはプロイセンと共同でピルニッツ宣言を発して失敗、92年に没となったのはハプスブルグ家にとってアンラッキーだったな、と。

 カール六世の娘であったマリア・テレジアは君主となったが、夫フランツ1世は皇帝となったものの、ハプスブルクの家領の継承者ではなく、実業に精を出して、ゾンバルトから「真の天才実業家」と評されていたというのには驚きます(p.243)。

 フランツ・ヨーゼフ1世は革命で損なわれた権威回復を目指し、フィッシュホーフ曰く「立っている軍隊すなわち兵士、座っている軍隊すなわち官僚、跪く軍隊すなわち聖職者、隠密の軍隊すなわち密告者」によって支えられていたというんですが、これはエリザベートの中の台詞のオリジナルだった(p.286)。

 文化面では色々ありますが、バルトークはパリのピアノコンクールでヴィルヘルム・バックハウスに次いで2位になったことがあったのか…。つか、バックハウスはそんな時代から活躍していたのか…子供の頃、まだバックハウスは神格化されていて、古臭い演奏のどこが凄いのかわからなかった(p.350)。

 にしても、日本人はハプスブルク帝国生まれの音楽家が大好きだな…。サラエボ事件で殺されたフランツ・フェルディナントも来日してるし、お互い割と軽蔑してるのに、なんか親近感あったというか。カラヤンもフランツ・フェルディナントの遺体を乗せた戦艦をアドリア海から眺めたという(p.351)。

 スターリンとヒトラーはシェーンブルン宮殿の庭園を愛して散歩したというのも驚きました。二人のちょっとダサい趣味はハプスブルク文化好きが共通項かも。トロツキーはカフェ「ツェントラール」の常連で展覧会やアートギャラリー巡りをして、チトーは労働運動で帝国内を転々、としていたとか(p.356)。

 ユーゴスラヴィア内戦における凄絶な民族浄化は、ナショナリズムの問題を浮き彫りにし、「ハプスブルク君主国は、国民国家的プランが必ずしも最善の解決法ではないことを我々に思い出させてくれる」クリストファー・クラークというのはいいまとめかもしれません(p.406)。

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November 29, 2017

『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』

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『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田俊和、中公新書

 最近の室町ブームは、若い研究者たちが資料を佐藤進一、林屋辰三郎などが追いかけられかったような膨大な読み込んで、新たな視点から歴史を描いてくれているからだと思います。

 学生の頃から室町時代は資料が少ないので確定的なことが言えない、と言われていましたが、僧侶などが大量に残した日記や、地方に眠る資料などをから、自領安堵と恩賞目当てで離合集散する複雑な武士たちの動きが見てきた感じ。それは司馬遼的なワンパターン的な武士像ではなく、日本が世界に誇る、元はといえば農民が自らの権利を守るために台頭し、同時に統治能力もたかめていったというボトムアップ型の権力構造を実際の動きから垣間見せてくれる感じがします。

 観応の擾乱は、以下のようにダイナミックな攻守転換で推移します。

 《四條畷の戦いで難敵楠木正成に勝利して室町幕府の覇権確立に絶大な貢献を果たした(足利尊氏の)執事高師直が、わずか一年半後に執事を罷免されて失脚する。だがその直後に数万騎の軍勢を率いて主君の将軍足利尊氏邸を包囲し(御所巻)、逆に政敵の三条殿足利直義(尊氏の弟)を引退に追い込む。
 ところが直義は南朝と手を結ぶと直義に寝返る武将が続出し、尊氏軍は敗北して高一族は誅殺される。
 だがそのわずか五ヵ月後には何もしていないのに直義が失脚して北陸から関東へ没落し、今度は直義に造反して尊氏に帰参する武将が相次いで、尊氏が勝利する。そして、その後も南朝(主力は旧直義派)との激戦がしばらくはほぼ毎年繰り返されるのである。
 短期間で形成が極端に変動し、地滑り的な離合集散が続く印象である。このような戦乱は、日本史上でも類を見ないのではないか》(p.215-)

 恩賞を通じて師直が急進的に進めようとした在地領主優先主義を、直義が何故か待ったをかけて歴史の動きを止めてしまった、みたいな感じも受けますが、師直は領地をそれほど重視しておらず、綺麗な歴史的な解釈といいますか、観応の擾乱が幕藩体制で完成する荘園制解体にどう繋がったということを説明するのは難しいかもしれません。

 また、恩賞充行結果が出るのに時間がかかったことも、それが観応の擾乱の根本的な原因になったとという考えもあるようですが、寺社と公家の領地を守ろうとした足利直義が消え、所領や在地に執着しなかった高師直も消えた事もある意味象徴的。

 観応の擾乱後に、二人の代わりに表舞台に出てくるのが、在地を基盤にした細川、山名(どちらも応仁の乱の主役)だというのは、これからの荘園制社会の変化が読み取れるかもしれません。

 さらに、享徳の乱で鄙な関東から、こうした動きが拡大されるのかな、と。

 さらに、『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書を読むと、ルドルフ1世の没後、スイス永久同盟とハプスブルクとの関係は悪化、ゼンパハの会戦(1386)で矛槍を装備した軽装歩兵が地の利を生かして、ハプスブルクの封建重装騎士軍に勝利したという記述があるのですが(p.53)、これは観応の擾乱以降、在地領主が馬に乗らない槍部隊を活用した日本史とパラレルなのかな?

 また、守護大名は結構、足利将軍家からの命令で変わっていることもわかります。名誉職みたいな感じといますか、やはり、在地領主や戦国大名に取って代わられるわな、と。しかも、在京の守護大名だったわけですし。

 とにかく、この後、細川顕氏と山名時氏が重要なプレーヤーになるんですが、それにしても、山名はこの時から有力なのに、なんで管領になれなかったんだろ、とも感じます。まあ、その秩序感覚が守護大名の限界だったのかもしれませんが(p.34)。

 このほか、鎌倉期においては、下文や下知状は拝領者の自助努力によって実現するのが原則で(守護に強制執行を命じる機能はない)、沙汰付を命じるタイプの施行状は、基本的に武家政権では室町幕府になって初めて登場したというのは知りませんでした。執事執行権は鎌倉期と最も違っており、それを担当したのは高師直、と(p.21)。

 Eテレでも『観応の擾乱』が取り上げられましたが、中野サイコパス信子による「わかりやすさvsただしさは、必ずわかりやすさが勝つ」という話しはわかりやすかった。彼女は「インテリは秩序感覚を重視した直義を支持したろうが、バカな武士は『尊氏マジ神』で支持した」とも語っていて、わかりやいかな、と。

 また、足利家執事という立場のおかげで、師直自身が兵馬を養わなくても大軍を指揮することが出来てしまっていたのが、他の武士たちと価値観の相違を産み出した、ってのは頷ける話。

 それにしても、観応の擾乱は、今年の衆議院選挙に似ていました。民進右派の連中が結局は細野と一緒になって、今度は民進左派と戦い、かつてのボス前原は無所属になるったあたりの、もう訳がわからん状況から、希望の党が地滑り的に敗北。あの無節操な入り乱れ方はまさに観応の擾乱を目の当たりにしている気分でした。観応の擾乱、享徳の乱、応仁の乱で一番大切なことは、二世三世の守護大名が淘汰され、地元に根づいた地侍が世界に誇る戦国大名として自らを昇華させていったことだと思うし、そうした契機に、今回の観応の擾乱ならぬ「平成の擾乱」がなってほしいんと思います。ただ、終わった後は、まだ風まかせの空中戦やっているようで、丸山眞男が高く評価した朝倉は誰だろと思うことがあります。

 南北朝はいったん、正平の一統で和解しますが、それが尊氏の長年の目標と限りなく近いものだった、というのは、なるほどな、と。元々、尊氏は後醍醐天皇に叛意はなかったのに直義に引っ張られて挙兵したわけで、そもそも尊氏には北朝に強い思い入れなど抱いておらず、建武新政時代に持明院党の光厳天皇は敵だった、と(p.166)。

 尊氏は複雑というか、最終的にやる気になるというのは、40代になってからも人は変われる、ということまで教えられるとは!御家人同士の血で血を洗う鎌倉時代と違って、どっか守りに入った感じもある武士の姿は、現代のサラリーマンにも通じるというか、また、室町時代が身近になりました。

 後期の足利幕府の将軍たちは、実権を失って有力大名を頼って転々とするけど、尊氏、直義、義詮も戦いに敗れると逃げまくっているので、あまり、そうしたことは恥と考えてなかったというか、尊氏は敗走した後、なんか盛り返して勝つみたいなことをやっていたから、作風と考えてたりして。

 にしても、尊氏、直義の二頭政治論by佐藤進一を最初に批判したのは、『応仁の乱』の呉座勇一なのか(p.9)。


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