書籍・雑誌

May 18, 2020

『モリソンの太平洋海戦史』

Morison Morison-2

『モリソンの太平洋海戦史』サミュエル・E・モリソン、光文社、大谷内一夫訳

 一度通しで読みたかったので、こんな機会にでも、とじっくり読み進めました。

 太平洋戦争の戦史を読むと、日本軍は欧米の植民地軍に対しては圧倒的に強かったものの、米軍の本国軍が本格的に反抗してくると、ほぼ米軍による日本軍の虐殺となっていったみたいな書き方がされますが、海軍戦史をルーズベルトからまかされたモリソンの書き方をじっくり読むと、ニューギニアとマリアナを取られるまで帝国海軍は十分すぎる健闘していた感じをうけます。マリアナの七面鳥撃ちで三回目の空母喪失をして、サイパンが陥落した時点で戦いの帰趨は決したというのは確かでしょうが、レイテ湾で昭和天皇がマッカーサーに大打撃を与えてから講和したいと期待したのもわからないではないかな、と思うようになりました。

 もちろん、そんな奇跡に賭けること自体が国策としてダメすぎますが。また、レイテで活躍して米軍からも高く評価された小沢と西村は帝国海軍が圧勝したジャワ海海戦など対米英戦当初から大活躍していたんだなと思います。考えてみれば、太平洋戦争は3年半ちょっとの戦いであり、ハルゼー、スプルーアンスなど米国側の指揮官もずっと同じでした。

 また、カミカゼ特攻は、レイテ湾海戦で最初に使われたとは知っていましたが、沖縄戦の時にあれほど激しくなったのか、というのは不覚にも初めて知りました。どちらも、上陸を阻止するために、上陸部隊を援護するために沖合にいて無防備な船舶を狙ったんだな、と。同時に、虎の子の空母は護衛艦に守られて遠くにいたので、ほとんど打撃は与えられなかった、みたいな。それでも、ロケット推進の菊花は米国艦隊に対する最大の脅威で、ドイツのV1、V2ロケットに匹敵するとまで述べています(p.431)。また、原爆使用の理由を述べる流れで、本土決戦のために5000機以上の機体とパイロットが訓練中だったとしているのは初めて読みました(p.447)。ちなみに菊花は日本語の「馬鹿」にちなんだBaka Bombというコードネームをつけられていたんだなと。

 あとは、ざっと…。

 ワシントン条約に関して、ハーディング政権は、厭戦気分にあった米国民の世論に訴える、和平に向けてなにか目覚ましいことをやろうとして招集した、という見方は初めて知りしまた。ワシントン条約に関しては、日本側が深い不満を抱えたというのは知っていましたが、日本を5:3のレベルに抑えるため、米軍もグアム、マニラなどの海岸基地強化を断念したんだな、と。

 珊瑚海海戦の日本側の戦術指揮官は原ですが、これをモリソンは《アイルランド人のような名前の日本の提督》と書いていますが、これはオハラと言いたかったんだろうな(p.136)。

 モリソンは公平で正確だと言われていますが、日本人には兵力分散のクセが染み付いていて、ミッドウェーの敗戦は山本のそうした考え方とまで言われるとくやいな、と(p.141)。

 それにしても帝国海軍も第二次ソロモン海戦までは互角に戦っていたのに、本当にミッドウェーが痛すぎる。でも、逆に言えば、それまで米軍は不運続きだったのに、役満(大型空母撃沈)を三連続であがるような感じで帝国海軍の空母打撃群を三回も全滅させたんですから、勝てんわな、と。

 あと、連合国側も、帝国海軍の企図するFS作戦(フィジーとサモアを結ぶ線でNZ、オーストラリアを米国からの補給路から断ち、遠くインドを枯渇させ、英国の抗戦意識を挫き、枢軸vs米ソの戦いに持っていき、最終的にはソ連を孤立させる)を本気で心配していたんだな、というもわかります。

 日本海軍の夜間望遠鏡は開戦当初、常に米海軍を上回っていたので、先に日本軍が先に米軍を発見した、というのも知りませんでした。米軍がレーダーを多用したのは、これが原因かな。メーカー名は書いてないけどニコンは凄い(p.204)。

 ケネディが乗ったPT109を体当りで撃沈したのは、駆逐艦「天霧」の花見艦長(p.234)。1951年に下院議員として来日したケネディは「乗っていた魚雷艇を撃沈した駆逐艦の艦長を探してほしい」との依頼。上院議員への鞍替え選挙への激励の手紙を求めた、と。花見は自分と「天霧」の写真を添えて激励。陣営はこれを選挙選に使い、敵将からも賞賛される第二次大戦の英雄ケネディとして当選。ケネディは「昨日の敵は今日の友(Yesterday's Enemy Is Today's Friend)」と書いて返礼し、さらに1960年の大統領選挙では応援に来るよう求め、花見は渡米こそしなかったものの、乗員と共に色紙に寄せ書きを渡した、みたいな。

 マリアナの七面鳥狩りと言われるほど日本の戦闘機が打ち落とされたフィリピン沖海戦(日本名はマリアナ沖海戦)では、小沢艦隊の航空戦力の練度の低さが問題だったけど、グアムからの陸上攻撃機が破壊されたのも大きかったのか(p298)。とにかく、これで、三回目の空母部隊全滅と。

 ミズーリ号での降伏調印式では賛美歌32「この日も暮れゆき"The Day Thou Gavest, Lord, Is Ended | John Ellerton"」が式典の最後に演奏されたというんですが、第二次大戦はワスプの勝利だったんだな、と。

 モリソン編纂の海軍戦史は、1947年から1962年にかけて全15巻が刊行されたHistory of United States Naval Operations in World War IIを要約したものですが、この『モリソンの太平洋海戦史』の原著The Two-Ocean Warはそれをダイジェストしたもの。オリジナルは18章ですが、この本はそこから大西洋、北アフリカとシシリア、地中海と大西洋、フランス侵攻の4章分を省いた抄訳です。それでも500頁近い分量。第二次世界大戦の海戦はほぼ日米の戦いでしたので、意は尽くされていると思います。

1.The Twenty Years' Peace, 1919 - 1939
2.Short of War, 1939-1941
3.Disaster at Pearl Harbor, 7 December 1941
4.Disaster in the Far East, July 1941 - May 1942
5.Destruction in the Atlantic, 1942
6.Carrier Strikes, Coral Sea and Midway, December 1941 - April 1942
7.Guadalcanal, August 1942 - February 1943
8.North Africa and Sicily (Operations Torch and Husky), January 1942 - August 1943
9.Forward in the Pacific, March 1943 - April 1944
10.Gilberts and Marshalls, November 1943 - July 1944
11.New Guinea and the Marianas, April - August 1944
12.Mediterranean and Atlantic, August 1943 - June 1944
13.The Navy in the Invasion of France, 1944
14.Leyte, September - December 1944
15.The Philippines and Submarine Operations, 13 December 1944 to 15 August 1945
16.Iwo Jima and Okinawa, February - August 1945
17.The End of the War, November 1944 - September 1945
18.Conclusion

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May 13, 2020

『まくらばな』柳亭小痴楽、ぴあ

Makurabana

 柳亭小痴楽は昨年9月に落語芸術協会としては15年ぶりの単独真打昇進を果たした期待の若手。真打ちとなったいま本当は師匠とつけなければならないけど、まだ「小痴楽」「ちー坊」の方が本人も売れると思うので。

 小痴楽の魅力はなんといっても様子の良さ。故歌丸師匠が次の芸協のスターはちー坊だと決めていたフシがあるぐらいの華がある。文楽師匠(もちろん先代)も様子が良くてモテていたらしいが、いま一番様子の良い落語家は小痴楽だと思う。

 「枕花」は故人の枕元に飾る花のこと。亡き父の痴楽、歌丸師匠との思い出などを「マクラ(落語の前の小噺)」のように語る本です。単独昇進に合わせて上梓されたんだと思いますが、若いだけに家族の話しが中心。でも、単なる家族じゃなくて、父親が痴楽という落語家だったら、江戸の風が吹く、みたいな。

 なにしろ、小遣いをもらって、それを使わずに帰ると《「そんなセコい料簡の野郎だ」と方々に言いふらされて、ひと月はそれをネタにされる」》ような家庭。

 落語会の二次会で「昔から冬場にはこたつに四方から足をつっこんで家族四人で寝ていた」という話しを聞いたことあるんですが、今どき素晴らしいな、と。

 《「親父はよく、『仁義なき戦い』と『寅さん』さえ見てれば、学校なんか行かなくても人生大体わかんだよって言ってた」》というのも偉い!

 歌丸師匠との思い出話しはちゃんと落ちを付ける。嫌いな食べ物を回し回して誰が食べるかという場面で、最年少の小痴楽が指名される《ぐうの音も出なかった。そして勝ち誇った師匠が最後に言った決め台詞がすごいもんで ─私は会長です!  ここで香盤を出されるとは思わなかった》という呼吸はたいしたもの。 

 面白く読み切ったんですが、もう少し良さを紹介すると、例えば文楽師匠(先代)も当代小痴楽も『明烏』がいいんですよ。要するにオレはもてたよ、という噺だから様子がよくて少しチャラい感じのする噺家がやんないときまらない。いまどきの少し売れたと思ったら焼肉バクバク食べて太ってしまうような噺家がやってもシャレんならない(ちなみに、小痴楽の『明烏』はネタ下ろしの時に聞いているのが自慢)。

 噺家も落研出身の大卒が当たり前になってきた中、高校中退=中卒で古典中心というのも希少価値を高めている…なんていうけど、やっぱ、芸人なんでルックスが大切。文楽(先代)、円生、談志、志ん朝もみんな様子がよかった。様子が良ければ人気が出る。人気に溺れず精進していけば、評価が高まる、みたいな。

 閑話休題。

 愛する談志師匠が笑点の司会をやっていた頃のかけあいが強烈だった先々代?の小痴楽も破天荒で面白かった。
小痴楽「癲癇持ちの女との初夜とかけてビールととく」
談志「そのこころは?」
小痴楽「抜いたら泡吹いた」

なんてのも思い出します(当代の小痴楽と血縁関係はありません)。

ちなみに現役では入船亭扇辰、古今亭文菊の様子の良さが好きです。

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May 11, 2020

『「ファインマン物理学」を読む 電磁気学を中心として』竹内薫、講談社

Feynman

 これは二重に差し立てていた本棚に埋もれていた本。

 リフォームにあわせてリビングなどに乱立させていた本棚から5000冊を処分し、書斎に3000冊だけ入れるという作業をまだ細々と整理しているんですが、その中で、発掘した本です。

 奥付をみると04年10月の初版。割と話題になった本だから、買ってみたのかな(忘れた)。このシリーズの最初は「量子力学と相対性理論を中心として」で、二冊目がこれ、一番面白いと言われている「力学と熱力学を中心として」が三冊目という順番だったハズなので、健気にも「なんかとっかかりはあるんじゃないか」ということで手を伸ばしたのかな、と。で、コロナ禍の最中にちょうどいいんじゃないかということで、読んでみました。ええ、アホな文系脳ですから数式などわからないことだらけですが、「こんな考え方があるんだ」とか「こうして類推していったのか」と驚きあきれるというのは少なくともあって(勘違いかもしれないけど)、面白かった。

例えば、いきなり

前提1 電流だけが存在するところには、磁場だけが存在する
前提2 電荷だけが存在するところには、電場だけが存在する

というのにまず驚きました。

 コイルに電流が流れる時は動いている電荷だけしかないので磁場だけが存在する=「電荷と一緒に動く人が見ると、電荷は静止して見える」のが重要なポイントだ、と(p.40)。《電磁場は「モノ」(=実体)ではない。電磁場は「コト」(=現象)なのである》、と(p.64)。また《人類は、最初に時間変動が少ない電磁現象に気がついたために、長い間、電場と磁場を別々の現象と考えてきた。そのため、この2つが(本当は)切り離せない関係にあるなどとは、思いも寄らなかったのである》、と(p.78)。

 次に重力の問題。重力の難しい問題のひとつは、球状物質が球面外につくる引力はすべての物質が中心に集まるとしたときの力と同じことの証明で、ニュートンもこれに確信を持てなかったので重力理論を長く発表しなかった、というあたりからの展開も知らないことばかり。

 量子力学では電子は粒子であると同時に波動でもあるということは本で読んでいましたが、波動関数の二乗が「電子がそこにある確率」を表すのか、と(p.118)。あと、コンデンサーの中の電子は電場によって押されのであり、この電場ははるか遠くのどこかにある電場から得たものなのか、とか(p.130)。

 なぜ光は横波なのか、というのも面白かった。なぜなら、光は電磁波の一種であり、電磁波は常に一定速度(=光速)で進むから、縦方向の振動である縦波は原理的にありえない、と(p.139)。

 また、ニュートンの逆2乗則(物理量の大きさがその発生源からの距離の2乗に反比例するという法則)は、点電荷には大きさがないからR=0としなければならないが、それだと無限大になってしまうという問題があるというのもなるほどな、と。だから「くりこみ理論」が必要なんだな、という流れ(流れだけは理解できましたw。また、くりこみ理論は重力理論には使えないそうです。理解はまったくできませんが、凄いな、と)。

 フェルマーの定理(光は必ず最短距離をとる)も、量子はあるゆる可能な径路を試してから最短距離を通っているとか、どんだけ凄いのかな、と(p.157)。

 そして、そうなるとあらゆる電子が同じ電荷と質量を持っているのは、すべての電子が同じひとつの電子
すぎない、という考え方を披露する同僚にインスパイアされたとか、聞いてるだけでワクワクさせられました(p.165)。

 「力学と熱力学を中心として」も読んでみようかな…。

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May 07, 2020

『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫

Ikki

 kindleのセールで安かったので買っておいた『一揆の原理 (ちくま学芸文庫)』呉座勇一、ちくま学芸文庫を読みおわりました。kindle paper whidte(防水)を使ったオフロ読書にして、指でなぞったところを自分宛にメールしておきました。こうすれば、気に入ったところがまとまっちゃう。これからはkindle中心でもいいかも…と思えるほど。

 それはおいといて。

 戦後史学などで《一揆がもてはやされたのも、民衆運動顕彰の一環である。このギャップが、人々のデモへの過剰な期待と、その後の幻滅を準備している》と書き始め、《デモがイマイチ盛り上がらない理由は色々と考えられるが、その一つとして、脱原発デモも戦後日本の諸々のデモと同様に、結局は「百姓一揆」の域を出ていない、ということが挙げられるだろう。 本書でも詳しく述べたように、百姓一揆とは、「武士は百姓の生活がきちんと成り立つようによい政治を行う義務がある」という「御百姓意識」に基づく待遇改善要求であるから、既存の社会秩序を否定するものではない》と締めるように、3.11以降の脱原発デモのどこか予定調和的な雰囲気はなぜだろう、というあたりの問題意識を戦後史学批判をおりまぜて説明していきます。

 その背景は「政治はすべて武士にお任せ、ただし増税だけは一切拒否」という與那覇潤が百姓一揆を評した言葉で説明しています。例えば《脱原発を唱える場合、代替エネルギーをどうするかという問題(節電を含む)は避けては通れないはずだが、脱原発デモにおいて、現実的・具体的な解決策が提示されることはない。たぶん彼らは「それは政府が考えることだ」とでも思っているのだろう》と。

コロナ禍で湧き出てきた自粛ゲシュタポ、自粛憲兵たちの吐き気をもよおすような行動をみると《日本人の「和」の精神とは、果たして手放しで賞賛できるものなのだろうか。実のところ、「義理」「人情」など、明文化されていない暗黙のルールに縛られる「ムラ社会」の方が息苦しい》という、3.11後に湧き上がった自称「正義の声」の気持ち悪さはまだまだ克服できていないな、と感じます。

 勝俣鎮夫氏や網野善彦氏の研究において、一揆と無縁に積極的な意味が付与されたのは「進歩的文化人」の近代化志向であり、《本当は、暴動や革命より、むしろ「人のつながり」の一つのパターンと見た方が、一揆の実態に近いのだ》と。《革命を目的とする直接行動をことさらに神聖視するのではなく、そうした政治運動の基盤となった人々の連帯にこそ目を向けよう》《一揆を「階級闘争」ではなくソーシャル・ネットワークとして捉えた時、一揆は単なる〝昔の出来事〟ではなくなる》と。コロナ禍で顕在化した列島住民の同調圧力の醜さは、自分たちの行動が正義であると過信しているからだけど、その理由は単に「皆んな一緒に一生懸命やってるから」だ、というのも納得。

 ただ、せいぜい〝体制内改革〟だった温い一揆が、今の温いデモにつながってはいても、必ずしも全否定はしていないところがイデオロギッシュな戦後史学の方々とは違ったところ。ダメダメだけど、ま、いっか、みたいな。最後は《中世の一揆も突発的・衝動的な大衆闘争ではなく、「他人とつながる」という点に本質を持つ》ものだと結論付けます。

 また、逃散も完全に逃亡するもんだと思っていたけど《逃散とは、百姓たちが一斉に耕作を放棄して村を離れるという抵抗運動で、要はストライキである。ストライキであるから、逃散によって両者の交渉が途絶することはない。逃散後も両者の間で交渉が持たれる》ことだったとは。《まず領主に訴願して、その要求が容れられなかったら逃散する、という手順を踏めば、逃散は許容される》とは知りませんでした。

 以下、せっかま自分宛にメモをおくったので箇条書きにしてみます。まずは一章から。

 秀吉の刀狩りは《武装解除ではなく身分統制が眼目だったのである。それは武士なのか百姓なのかよく分からない中途半端な存在をなくす(教科書的に言うと「兵農分離」)ということだ。秀吉が刀狩りに加えて、浪人を村から追い出すよう命じたのも、そのためだった》

 江戸時代に個別の村単位でなく藩単位での大規模一揆が増えたのは《藩の農業政策は領内全体に統一的に実行されるから、藩内の村々は利害を共有する。ここに、一カ村にとどまらず藩領全体で百姓たちが連帯する全藩一揆の素地が作られたのである》

 姫路藩が百姓に威嚇射撃を行ったことをに対して幕府は、一揆側が飛び道具を持っていたかを問い糾し、持っていなかったという回答を得ると以後は「無用」と沙汰。《鉄砲を使用するには事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される》

 江戸時代の一揆(強訴)で農民は鉄砲や弓矢で武装しなかったのは《要するに鎌や鍬は百姓のシンボルであった。鎌や鍬を使っても鉄砲や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないということを幕府や藩に示すアピールだったと思われる(ちなみに旧ソ連の国旗は、農民の象徴である鎌と工員の象徴であるハンマーを組み合わせたデザインとなっていた)》。←ちなみにこの象徴はカマトンカチと呼ばれていたましたw

 初期藩政改革によって「百姓の生活が第一!」という考え方が浸透していた江戸時代の強訴は大きな暴力はともなわなかったが、明治維新は士農工商の身分制度を廃止したので一揆も暴力的となった。《新政反対一揆は、新政府に要求をつきつけるのではなく、新政府そのものを否定している。だから一揆の側も新政府の側も妥協することはできない。相手を倒すまで徹底的に戦うしかない。一揆は、竹槍はもちろんのこと、時には鉄砲や刀まで持ち出して戦った。いわば殺し合いだから、大勢の犠牲者が出るのは必然だった》。また、農民たちは平民となった部落民も襲撃した。《新政反対一揆の中には明治政府の解放令に反対して被差別民を襲撃したものもある。百姓も被差別民も平民とする「四民平等」に反発し、「天下の御百姓」としての身分的特権を維持しようとしたのである》

 幕府は当初《数千人規模の百姓一揆に対応した法律を用意していなかった。依拠すべき基準がないため、幕府・諸藩の百姓一揆への処罰は恣意的なものになってしまい、場合によっては、逮捕後に吟味もしないまま即座に斬首するなど非常に苛酷な処分が行われた》が、その後、江戸時代の一揆(強訴)では《百姓たちは敗訴した結果、処罰されたのであり、直訴や逃散という行為のみをもって処罰されたのではない。実際、直訴や逃散による百姓の要求が通り、かつ百姓たちにお咎めなし、というケースも多く見られる》

 そのキッカケは島原の乱《島原の乱が鎮圧(一六三八年)された後、百姓が「徒党」を結ぶことは原則的に禁止された。つまり寛永期以降、タテマエとしては「一揆」は禁止だったのである。 だから百姓たちは自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばない。「一揆」と名乗ってしまうと、幕藩体制に対する明確な反逆行為として厳しい処罰を受けるからである》

 《島原・天草一揆の鎮圧により幕藩体制が確立し、平和な時代が訪れると、百姓たちは多くの被害を出す「一揆」=武装蜂起という選択肢を捨てた。武器を使わない抗議活動に転換した》

 暴力的な一揆は中世が本場だが《中世の場合、百姓だけが一揆を結んだわけではない。武士も僧侶も一揆を結んだ》

 成功した土一揆の場合《百姓だけの一揆と見るのは難しいという意見が有力である。武士や牢人なども参加し、彼らが「大将」として土一揆を指揮していたケースが目立つのだ。ちなみに江戸時代初期に勃発した島原の乱でも、大名に仕えていたものの大名家の倒産・リストラにより職を失った武士たち、つまり牢人が多数参加していた。このため神田千里氏は島原の乱を「最後の土一揆」と評価している》ほどで、《戦国時代末期、具体的には十六世紀後半になると、「一揆なんてものは身分の低い百姓たちが結ぶもので、立派な武士は一揆には参加しない」という認識が広がっていく。この一揆を見下す考え方が近世の「一揆」禁止につながっていく》

 康暦の政変は細川頼之の退陣を求めて足利義満邸を包囲=御所巻したものだが、列島では百姓による庄屋の包囲、首相官邸の包囲デモまで連綿と「囲」戦術が受け継がれているたが《この種の「官邸包囲デモ」は暴動や革命ではない。どんなに大げさに表現したとしても、せいぜい〝体制内改革〟といったところ》。なせなら、悪代官の罷免を求めて行われるから、と。

 面白かったのは、山門などの強訴は暴力的なものでなく、今のデモみたいなもので、それを百姓がマネした、というあたり。逃散もストだったとか。日本人はカンパニア闘争に向いているw

 源義綱の流罪を求めるの強訴への弾圧に怒った《山門は堀河天皇と関白の藤原師通を呪詛する。すると、承徳三年(一〇九九)、三十八歳の壮年であった関白師通が急死する。師通は朝廷内で強訴弾圧を主導した人物であったから、当時の人たちは神の罰が下ったと考えた。すっかり怖くなった朝廷は、山僧を攻撃した源頼治を処罰した》ということから呪詛を恐れたのか…にしても、延暦寺、とんでもねぇなwオウム並みw

 《大衆の最大の強みは武力ではなく、「神威」すなわち人々に天罰を下す神の力であった。武士たちも直接攻撃は原則禁止なので、武力行使はできるだけ控えた。双方が戦闘回避を望んだので、強訴は平和的に推移することが多かった》

 《笠松宏至氏は、寺僧の専売特許であった強訴というスタイルが「土民」たちの武器として登場するようになった点に、時代の変化を見ている。従うべき見解であろう。月並みな言い方になるが、やはりそれは民衆の政治的成長の証だと考える》

 また、逃散も完全に逃亡するもんだと思っていたけど《逃散とは、百姓たちが一斉に耕作を放棄して村を離れるという抵抗運動で、要はストライキである。ストライキであるから、逃散によって両者の交渉が途絶することはない。逃散後も両者の間で交渉が持たれる》ことだったとは。《まず領主に訴願して、その要求が容れられなかったら逃散する、という手順を踏めば、逃散は許容される》

 《いずれにせよ、荘家の一揆も寺社の強訴と同様、反権力闘争ではない。年貢をまけてくれとか代官をクビにしてくれとか、そういう条件闘争は行うが、荘園領主を打倒する意図は持っていない》。しかし《鎌倉時代の人たちは強訴そのものを「一揆」とは呼ばなかったが、「強訴する」には「一揆する」ことが不可欠であると認識していた》。さらに《神田千里氏は、武士たちが戦国大名によってガッチリと組織されるようになり、戦闘のたびにいちいち一揆を結成する必要がなくなったからではないか、と推測している》

 《一揆は、まさにこのような運命共同体であった。永享五年(一四三三)、伏見宮家の荘園である伏見荘の百姓たちが、沙汰人たち(荘園の管理人)の指令を待たずに、前々から山の境界をめぐって争っていた醍醐寺三宝院の所領である炭山に押し寄せ、炭山の郷民三人を殺害してしまった。伏見荘の領主である伏見宮貞成親王はこの勝手な振る舞いに激怒し、沙汰人たちを呼び出して、張本(首謀者)として誰を捕らえればよいかを尋ねた。すると彼らはビビリながらも「土一揆のしわざなので、誰か一人を首謀者と特定することはできません(土一揆の所行の間、誰を張本とも申しがたし)」と返答した(『看聞日記』)

 《権勢のある大寺社だからとか神輿や神木の霊力がバックにあったからというだけではなく、「一味同心」という意思統一によって、自分たちの行動が〝正義〟であるという確信を得ていたからなのである》
まさに勘違いも甚だしいが、あとでコロッと忘れて反省もしないw

 《「一味同心」に基づく訴えは合理的な判断を超越した絶対の正義であり、その主張が正しいか否かを論理的に検討することすら許されなかった》というあたりは、まさに今の列島の状況がこれかも。まあ、そのためにコロナの感染が防げているのかもしれないけど、経済を浸蝕したり、副作用のことまでは考えないヒステリーも増長しているわけで。

 延暦寺の大衆僉議では大講堂に全員が破れ袈裟で頭と顔を覆い互いが誰かはわからなくして集まったと紹介して、三島由紀夫の日本理解の浅さを指摘しているところは、三島も江戸仕草を称揚したヒトたちと同じ中途半端な日本理解にとどまっていたんだな、と。

 《「三島由紀夫は全共闘を「まつたく日本人らしく思はれない」「あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである」と酷評したが、良くも悪くも全共闘のスタイルは日本の伝統に沿ったものであるように思われる》

 《鶴の一声で決まったのではなく参加者全員が対等な立場で主体的に意見を表明し議論を尽くした上での結論であるからこそ尊重すべきである、という強い信念が、中世社会に散見される》が、それこそ、格差を隠蔽するための仕掛けでもあった、みたいな。

 なぜなら《学侶集団内部にも階層があった。皇族・上級貴族出身の貴種僧、中下級貴族出身の良家僧、上級侍の家が実家の凡家僧である》からで《「一味和合」を強調しなければならなかったのは、現実には「一味和合」が風前の灯であったからに他ならない》

 また、そもそも一味同心の作法は仏教と関係ない《一味同心して何かを決定した場合、起請文という文書を作成することが多い》《延暦寺が強訴を行う時は日吉山王権現の神威を利用するし、興福寺の場合は春日大明神である。彼らの「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神なのだ》

 日本の神道は、仏教の概念を密輸入して構築したものだけど、日本の仏教も、漢語に翻訳された仏典の翻訳という二次的テキストを元にしているだけでなく、神道からも逆に影響受けていた、みたいな。山門で起請文をつくって団結を確認する時にご当地アイドル的な仏像に神罰を担保させるという仏教とは相容れないまがい物になっていった、みたいな。《ひとたび娑婆に下りてきて、仏像という可視的な肢体を持ち特定の場所に常駐するようになると、地域限定のローカルな存在=「神」へと転化する。この「神」は、篤く信仰する者には御利益を与え、逆に信心が足りない者には神罰を下すという、現世=現実世界に密着した存在である。これが中世人の宗教観の根本たる「本地垂迹」の本質である、と佐藤弘夫氏は主張する》《したがって起請文に登場する神々は、人々にとって地域に根差した身近な存在である。実際、起請文には伊勢神宮の天照大神や熊野三山の熊野権現など全国区の有名な神だけでなく〝ご当地〟神様が勧請されることが多い》

 《そもそも仏教の教義には、仏が仏敵に罰を下すという内容は含まれていない。「日本国仏神の御罰」によって実効性を担保しようとする「一味同心」観念が仏教本来の教えと無関係であることは明白》

四章では

 《江戸後期になると、村ぐるみでの百姓一揆への参加が少なくなってきたことが分かる。これは村役人・地主たちが藩と癒着した結果、彼らが百姓一揆を指導する立場から離れ、むしろ百姓一揆の攻撃対象になったからだ、と保坂氏は説く》。アトム化が江戸の農民にも波及していたのかw

 四章後半は徳政一揆は飢餓に耐えかねた農民が、施しを行わない富者に襲いかかったということで、貨幣経済の進展とは関係ない、と。中世の農民は土倉から借金などはほとんどせず、逆に貨幣経済のなかで日ごろから貸し借りをしていた都市住民たちは、土一揆による徳政でも債務を《帳消しにはせず、土倉に対して一部返済や後日の返済を約束した上で質草を請け出す者も少なくなかった。 したがって、近江国(現在の滋賀県)や南山城(現在の京都府南部)などの遠方から京都にやって来て土倉の蔵から物を取っていく百姓は、債務を破棄したというより、単に略奪をはたらいただけ》

 《中世の恐ろしさは、富者が自発的に喜捨を行わない場合はムリヤリ金を出させるという行為が社会的に容認されていたところにある。これこそが徳政一揆の本質》

 《徳政一揆が発生した時期と、飢饉が発生した時期はほぼ重なる。十五世紀は徳政一揆の時代であるが、同時に飢饉の時代でもあった》《惣村が確立したのも、飢饉が頻発した室町時代のことである。惣村とは自治権を持った村落のことで、その実態は百姓の一揆的結合である》

 《神様を喜ばせるというところから出発して、人間どもが楽しむことの方がメインになっていくというのが芸能の歴史》

五章は一揆のお作法から

 《一味神水は江戸時代の百姓一揆のオリジナルではなく、その歴史は中世に遡る。百姓たちが荘園単位で連合する際に一味神水が行われている》。参加者は起請文に血判して、神社の境内などでそれを焼いて飲むが、これは《嘘をついているのに起請文という誓約書を飲んだら身体に異変が起こる》という意味。

《一揆結成の際に、この種の同調圧力がはたらいたことは確実だろう。第三章で、大衆僉議においては強訴反対を主張することは難しいと論じたが、それと同じことである》

もちろん中には「神をも恐れぬ人間」もいて、裁判で不利になるとヤケになると湯に手を突っ込んで身の証をたてる湯起請を要求する者もいるが、これも《多くの人々が神の意志の存在を信じているがゆえに湯起請という神判が成立しているわけだが、一方で周囲の人々の信仰心を利用する「罰当たり」な不届き者も中世社会に少なからず存在した》

一揆勢が焼いた起請文を水に溶かして共飲したというんですが、思いだしたのがユダヤ聖書(キリスト教の旧約聖書)レビ記。焼き尽くす捧げもの(燔祭)がこう書かれています《1:15 祭司はこれを祭壇に携えて行き、その首を摘み破り、祭壇の上で焼かなければならない。その血は絞り出して祭壇の側面に塗らなければならない(レビ記1:15)》

この焼き尽くすの語源は「上る」という意味ですが、『一揆の原理』では《起請文を飲みこむことだけが求められているならば、焼かずに、そのままちぎって飲んでも構わないはずである。この問題については、千々和到氏が面白い仮説を提示している。文書を焼いて煙を天に届けることは、自分の誓約を神に伝えることを意味しているというのである。つまり、人と神を煙がつなぐ、ということである》と書いてあってなるほどな、と。

 ユダヤ聖書(旧約)は1回しか読み通したことがなく、ヘブライ語で再読することはないでしょうが、なんで焼き尽くすのかというのが、初めてよく分かりました。それは煙が上ることによって「人と神を煙がつなぐ」という象徴だったんだろうな、と。

 《正文(写しや控えに対して、もとになる文書原本)は神前において麗水で呑んだ」といった断り書きのある起請文が現存していることを踏まえると、「焼く起請文」と「残す起請文」をセットで作成することが一般的なあり方だったと考えられる》《鎌倉幕府の法廷では、民事裁判の一方当事者が、主張の正しさを証明するために自ら起請文を提出することがあった。佐藤雄基氏はこれについて、起請文を提出するという行為自体に、自分はウソを言っていないので神罰を恐れる必要がないと幕府にアピールする意味合いがこめられていたと推理》

第六章は《起請文が意味するもの 「一揆契状」という文書》を解説

 《中世の日本は訴訟社会であり、裁判には証文(証拠文書)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達したのであり、起請文を未開的な呪術意識とのみ関連づけて理解するのは正しくない》
《石井進氏によれば一揆契状とは、「人々が一揆することを契約した文書で、ほとんどの場合、神仏に一揆を誓約する起請文の形式をとった上、参加者おのおのが連署を加えるのが普通である」》

 《大隅国の有力国人で禰寝氏という武士の家がある。江戸時代には薩摩藩に仕えた。余談であるが、禰寝氏は江戸中期になると「小松殿」、すなわち平清盛の長男、重盛の末裔と主張しだし、小松氏に改姓した。そして幕末に肝付尚五郎が小松清猷の養子となり》小松帯刀になったというのは驚きました。そして南北朝時代、《一揆契状の写しも同様の意味をこめて、了俊が禰寝氏に送ったのではないか。「この一揆にはこんなに大勢の方々に加わっていただいております。あなたもいかがですか?」》と。

 また、山門の僧兵による暴力沙汰は、それほどでもなかった可能性があるというのも思しかった
《『平家物語』の成立には延暦寺関係者が関与していることが古くから指摘されている。彼らが『平家物語』の中で誇張と脚色を交えて、強訴の神がかり的な性質、非日常性を喧伝した可能性は否定できない》

 つまり、一揆は革命的な行動ではなく訴訟のようなもの。《規律正しい交渉」の要素と、「放火、略奪などの暴力行為」の要素とは、二者択一的なものなのだろうか。かえって、両者が矛盾することなく併存している点にこそ、徳政一揆の特質がある》《徳政一揆を原告、土倉を被告、幕府を裁判所とみなせば、三者の関係がよく分かるだろう》。

 しかし、《従来の研究は、徳政一揆を中世民衆運動の輝かしい達成として高く評価してきた。だが規模や暴力性において違いはあるものの、徳政一揆は大寺社の強訴や荘家の一揆と本質的には変わらない。やはり権力側との〝なれ合い〟が見てとれるのである》。

 さらに山城一揆の実情もかくの如し。《戦後も山城国一揆を「自治共和国」として賛美する傾向が続いたが、一九八〇年代以降は、山城国一揆は国人たちの自発的な運動ではなく、幕府の実力者である細川政元が背後から操っていた、という見解が一定の支持を集めた》《交渉戦術のツールという点で、山城国衆の「申状」は荘家の一揆の百姓申状に通底する性格を持っていると言えるだろう。実は山城国一揆は革命ではなく「強訴」だった》《守護軍と一揆軍との戦いの末、応永十三年に山名満氏は罷免されて帰京、新たに山名熙重が守護に就任した。一揆の中心メンバーは起請文を提出して幕府に降参し、幕府は彼らを赦免した。まあ痛み分け》ということで、《一揆の反守護の姿勢は反幕府、反体制を意味しない。逆に、幕府への忠誠をことさらに強調するところに反守護国人一揆の特徴がある》。

 つまり《一揆イコール反権力、反体制という「階級闘争史観」的な思いこみにすぎない》《村で悪政を敷く地元の共産党幹部たち=悪代官を、村民の自治組織が実力で追放し、広東省共産党委書記=殿様の汪洋が慈悲深くもこれを追認した、中国の「烏坎蜂起」(二〇一一年十二月)に近い》と。

 第七章 「人のつながり」は一対一から 国人一揆と百姓

 7章では《国人一揆を上部権力との関係から捉えようとする見方がそもそもおかしい》というところまでいきます。

 《国人一揆は、室町幕府や守護といった〝上〟からの編成によって成立したのではなく、農民たちの〝下〟からのつきあげに対抗することを目的に誕生した》《佐藤氏らは、百姓の逃亡を領主権力に対する抵抗運動=農民闘争の一種と位置づけ、これを「人返法」によって抑止することが国人一揆の最大の目的であると考えた》が《南北朝期の一揆契状においては、百姓を統制する規定は一般的には存在しなかった。したがって、南北朝期に成立した国人一揆の目的を、農民闘争の弾圧に求めることはできない》と。

 さらに《全ての一揆が「強訴」を目的としているわけでない以上、もっとノーマルでソフトな「一味同心」があっても不思議ではない。複数の人間が心を一つにして共に行動することに一揆の本質があるとしたら、二人でも一揆は十分に成立し得る》と。「一味神水」という儀式を伴わない《一揆契状の交換によって結成される一揆は〈集合しない一揆〉》であり《一揆の本質が偉大な革命運動ではなく等身大の「人のつながり」にある》と。だから《もしデマ情報が流れて、一揆を結んだ相手に対して疑いが芽生えた時は、顔と顔を合わせて話し合い、不信感を解消しろ」という》ことになっていた、と。

 《一九八〇年代の「社会史ブーム」以降の諸研究によって、中世社会は人と人との「契約」によって回っていたことが解明されつつある。中世史研究で自明視されてきた、農民が荘園領主の苛酷な支配の下に置かれていてカワイソウという構図も見直された》、と。例えば年貢も農民が決める「地下請」「百姓請」などと呼ぶ制度も実現している、と。それは《村の側が「契約」に基づいて年貢を納める限り、荘園領主が村の運営に関与しない体制が成立し、荘園領主が好き勝手に年貢を取り立てることはできなくなったのである。荘園領主と村は「契約」によって結びついており、支配─被支配関係として単純に理解すべきではない》と。

 さらに《「契約」とは「上」と「下」との間でのみ結ばれるものではない。むしろ、水平的な関係において「契約」が結ばれることの方が一般的》として《第六章で検討した一味神水のための一揆契状は起請文的性格が強く、第七章で検討した交換する一揆契状は契約状的性格が強い、と整理することができ》るとし《二人や三人で結成する一揆があるという歴史的事実を念頭に置けば、一揆契約と義兄弟の契りとの距離は非常に近い》と。

 《ヨーロッパの市民革命の起源として市民の文化的な交流があったことは、ユルゲン・ハーバーマスの研究以降、広く知られている事実である。俗に言う「フランス革命は、パリのカフェから始まった」というやつだ。そこでは、革命家が大衆を鼓舞し、政治的に指導するというステレオタイプな革命像が相対化されている。  東島誠氏は、「高邁な思想、思想家が社会を変えるのではなく、社会的な結集極、人と人との〈つなぎ目〉の再組織化こそが社会を変えていくのだ」という〈市民的公共圏〉の考え方は今日においてこそ有効であると説いている》

 このほか、《大蔵館に住んでいた義賢の次男の駒王丸は、からくも信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れた。彼こそが後の木曾義仲である。源義朝の子である源頼朝と、源義賢の子である木曾義仲との対決は、この時点で運命づけられていたのかもしれない》《義朝と為義─頼賢の関係は修復せず、結局、一年後の保元の乱で激突することになる。同乱によって為義らを葬り去ることで、義朝は長年にわたる河内源氏の内紛を解決し、平清盛と並ぶ武家の棟梁としての地位を確立した》《為義の後継者となった義賢であったが、不祥事によって官職を失ってしまう。この結果、左衛門尉に任官した頼賢が次の後継者として浮上することになる。為義は、為義義賢頼賢という順に家を相続することを決め、この路線を確定させるために義賢と頼賢に「父子の約」を結ばせたのではないだろうか》というのは知らなかったな…。

《十世紀後半には、摂政藤原実頼摂政藤原伊尹(実頼の甥)関白藤原兼通(伊尹の弟)関白藤原頼忠(兼通の従兄弟)摂政藤原兼家(兼通の弟、道長の父)関白藤原道隆(兼家の子)関白藤原道兼(道隆の弟、道長の兄)といった形で摂政・関白はコロコロと入れ替わり、親子間での継承はほとんど見られない》

しかし、「家」が成立すると《跡継ぎ=次期当主を確保することが不可欠である。もし実子がいなければ、よそから連れてきてでも「家」を相続してもらわなければならない。かくして親子契約の必要性が生じ》《窮状にある人間が有力者と親子契約を結んで「親」となり、自らの財産を「子」となった有力者に譲渡するかわりに有力者の庇護を受ける、というパターンがしばしば見られる》ようにもなる、と。

 《無縁」の産物として語られることの多い一揆であるが、実はその根底に、擬制的な親子兄弟という「縁」を秘め》ようになった、と。中世ではこうした実利的な契約が増え、一揆にも親子関係を契約するようなものも出てきたが、農民の一揆を特別なものとする考え方も根強く《社会史研究では、この問題に対する答えとして、信仰の力を想定していた。「一味神水」という神秘体験を通じて、神と一体化した、もしくは神に変身したという意識を各人が共有することで、一揆としての結束が生まれた、というわけだ》。しかし、《マルクス流の「唯物史観」をしりぞけて宗教的側面を重視した勝俣「無縁」論も、一揆に自由と平等、個人の尊厳、さらには身分制を突き崩す革命的な要素を求めるという根っこの部分では、「階級闘争史観」とつながっている》と否定。《一揆契約は親子契約・兄弟契約の延長上に位置づけられる。したがって一揆の本質は、呪術的な〈神への誓約〉ではなく現実的な〈人と人との契約〉という点に存在する》とします。

 

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May 04, 2020

『論註と喩』吉本隆明、言叢社

Ronchu-yu

 ここを始めるずっと前に読んでいた本なので、書いてみます。

 これは『最後の親鸞』と『マチウ書試論』のあとがきのような本。特に惹かれたのは「喩」。

《それなくしては教義が存在しえない最高の唯一の〈神〉への媒介者でさえ〈罪〉の意識の権化として死んでしまう異様さがマルコ伝》

 というあたりはいま読んでも凄いな、と。

 当時、なんで吉本さんが親鸞や新約などの宗教批判にそれほど入れ込むのか、正直、分かりませんでした。中途半端に「もっと下部構造の分析やれよ」みたいな感じで。

 でも、ヘーゲルやマルクス、ニーチェなどを元にした善悪の起源の考察は、宗教以外の形態では思想が不可能だった時代に考えついた極限が、浄土真宗と原始キリスト教に示されている、という見取り図はどうにか理解できるようになっていきました。

 《宗教はいわばこの親和性と禁忌とを超越者との関係におきかえることを強いるために、もっとも近親との関係に背反するということができよう》というあたりは「関係の絶対性」の註にもなっているかな、とか(p.126-)。
 マルコ13:31の「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」に対する解釈も素晴らしいと思いました。

 それは書かれた言葉は生きつづけていくという意味でも、人々の記憶として残るという意味でもない、と。それなら語られても瞬時に過ぎゆくといっても同じだ、と。そうではなく《言葉はある〈信〉の状態に支えられていると、成就されないかわりに滅びることもなく永続するといっているのだ》というあたりは、宗教やそれの変形である国家、あるいは近代的な思想すべて同じだという意味です(p.162)。国家や近代的な思想も〈信〉という状態(盲信)に支えられている。まあ、共同幻想に支えられいるにすぎない、みたいな。

 そして《ある普遍的な水位にとどいたとき言葉は生きるのだという仮定に促されてわたしたちは、遠い時間を隔てた言葉に相対している》と評価する吉本さんによるマルコ伝の革命性はおそらく、次のあたりだと思います。

 《人間を支配する能力に欠けていることが「神の国」に流通する資格であることを教義的にくりかえした。これこそがユダヤ的自然宗教に異議をとなえた主人公の特異な思想だった》(p.171)。

 原始キリスト教の純粋性をパウロが…なんてつまらないことを言わず、あっけなく種明かしをすれば、これは共同幻想は自己幻想に必ず逆立することを示しています。

 マルコの主人公がわかりにくい喩で語るのは、その喩が「共同幻想」と「自己幻想」が逆立せずに接続している原始的な段階の喩であるからで、喩がわかるということは、共同幻想に浸蝕されていない自己幻想をキチンと確立しているからだ、というわけです。

 マルコ7章で娘から悪霊を追い出してくれとすがる異邦人の女に対して、主人公は「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」といったんは、ユダヤ教的教義の構造の上にたって拒絶するのですが、その女は「食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と答えると「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」となるのは、ユダヤ的自然宗教からは阻害されている異邦人でも主人公を信じれば救われるという話しではなく、そうした共同幻想が虚構である気づいてさえいれば力強く生きていけるではないか、という意味ではないかと思っています。

 キリスト教がユダヤ人や異教徒をいざとなったら徹底的に差別、迫害するのも、2000年たってもマルコ7章のこの喩を「異教徒にも教えは開かれているんです」といい加減なことを言ってすませている、キリスト教という〈信〉の上にたった、相対的な善悪の構造から抜け出られていないからなのかな、と。

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May 01, 2020

『『室内』40年』山本夏彦

Shitunai

#7日間ブックカバーチャレンジ
#BookCoverChallenge

でこの時期に読める、気楽な本を紹介させていただいているのですが、『『室内』40年』はblogをつけはじめる前に読んだ本で、テキストにまとめていなかったので書いておきます。

 売文家業にありつくことができ、なんとか生き残るため、文章の勉強で写経のように文章を写したのは山口瞳さんと山本夏彦さん、それにコピーライターの方々のボディコピーです。

 山本夏彦さんのこの本は、自ら主催していたインテリア雑誌「室内」の40年を美人才媛ぞろいの女性社員との対談で振り返るという内容。「命は旦夕にせまっているんですぞ」「メイハタンセキって、なんですか。胆石をわずらってるんですか」というかみ合わぬ会話に味わいが。タイトルおそらく柳宗悦の『民藝四十年』にインスパイヤされたものだと思っています。

 ちなみに刑務所内では刑務作業に木工があるため、所内で『室内』が自由に読め、安部譲二さんは山本夏彦のコラムを愛し、弟子入りし、デビュー作『塀の中の懲りない面々』は『室内』に連載されました。

 安部譲二さんは「ヤクザは街の潤滑油」と組の事務所に大書していたといいますが、コロナ騒ぎに乗じてヤクザ顔負けの恫喝でカタギの商売をやめさせた首長がもてはやされたり、芸人が深夜ラジオの失言で干されそうになったりするコロナヒステリーが蔓延する状況にも想いを致しますね。

 《町にはその町の歴史がある。神保町は古本屋の町、彦根は仏壇の町、富山県の井波は透彫の町-中略-昔はねそういうふうに分業になっていたんですよ》というあたりは、永井荷風の日和下駄を思い出します。小さな木工といいますか不断使いの品物、例えば「よのや」の櫛、「さるや」の楊枝、「榛原(はいばら)」の和紙、「阿波屋」のはきものなどは街のシンボルでした。

 以下、気に入ったところを。

《創元社の経理にいたというので信用したら、半年たらずで筑摩書房へ移ったのはいいが、帳面をひとつもつけていませんでした。私が見ないのをいいことに一行もつけてないとは驚きです。のちにその筑摩はつぶれました(今あるのは新社)》

《歳をとったぶんだけ利口になったと思うのは思いたいからで、老人が教えたがるのはそのせいで、歳とったことを自慢するのは、ほかに自慢するものがないからです。人生教師になるなかれ》

《人間の根本的な疑問に答えることはできません。いわんや教え導くことなんかできるわけがありません。どんな商売も「いかさまの才」がなければ成功しません。いかさまの才は売れなくなれば何でもします》

《日光は日本中の腕におぼえがある職人が集まって作ったものです。だからあそこには技術の粋が集まっている-中略-あんまり腕ばかりふるったので、全体の調和を忘れた-中略-ブルーノ・タウトは左甚五郎の龍の彫物なんかには感心しないからね》

《明治三十年代に三浦環って声楽家がいただろう?「お蝶夫人」で有名なプリマドンナ、彼女が上野の音楽学校(いまの東京芸大)へ通ったとき十七、八かな。大振袖を着て自転車に乗って通学したんだって。東京中の評判になった。そのあと、下谷の芸者でさかえ(栄)っていう美人が負けずに自転車に乗った-中略-彼女はのちに、二代目市川左団次と思い思われて一緒になった》

《「摩訶止観」なんて読破したのは比叡山でも大僧正ひとりだったと言います。けれど幸田露伴は読んだ-中略-幸田露伴は文士で仏典を読める最後の人でしたね》(そして「五重塔」の話しに)

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April 19, 2020

『草原の制覇 シリーズ中国の歴史3』古松崇志、岩波新書

Kittan

 やっと飲み終えたというか苦労しました。騎馬民族の歴史について、あまり知らなかったわけで、いちいち、確認しながら読んでいったので、思ったより時間がかかりました。

 狩猟・放牧と農耕が可能なユーラシアのベルト地帯から多くの遊牧国家が勃興し、大きな勢力となったら南下して中原を支配する、という見方の方が、漢民族が中原を3000年間支配したという見方よりも現実的なんだろうな、と改めて思います。

 しかも、モンゴル帝国の出現によってこのベルトはヨーロッパまでつながり、それによって知識や技術が融合する、と。いま「鉄の道」の研究が進んでいますが、トルコから東西に分かれた鉄の道は、東は列島まで到達し、西はヨーロッパをつくったわけですが、モンゴルによって「鉄の道」が再びつながり、それまで別々に進展していた知見も融合された、みたいな感じでしょうか。

 中共が進めようとしている一帯一路も、元はといえば遊牧国家が実現していたもの。当時、漢民族は家臣として遊牧民が建てた王朝に仕えていただけという図式を隠蔽したというか、西洋と遊牧民に対するコンプレックスの裏返しなのかも。

 また、日本史も中原、半島の歴史だけをみた理解はありえなくなるかも。中国はもとより半島との関わりを考えないと、列島の歴史を動かす要因は見えてこないというのは常識でしょうが、さらにヨーロッパまで横断可能は機動力と戦闘力を持つ草原の騎馬民族の興亡史が背景にない各国史は意味なくなるかも。それにしても、モンゴルはたいてい脅して「酷い目に遭いたくなかったらていこうやめたら?」という宣伝がうまくいってユーラシアを席巻できたと言われていますけど、なんでも日本に攻め込もうとおもったんでしょう…陸続きでもないのに。

 とにかく第1章の「拓跋(タブガチ)とチュルク」から知らなかったというか明確になったことばかり。

 隋唐は騎馬民族出自の皇帝だとは知っていたけど、もう少しちゃんと北部の遊牧王朝の興亡史との連携で捉えれば、中国の歴史で漢民族が支配する王朝は漢と宋、明だけで後はほとんど北方の騎馬民族の支配だったな、と。

 騎馬民族出自の皇帝が秦・漢以来の中央集権制度をうまく使い、中原以南の農民を抑えるという図式は、以前から理解できてはいたけど、北方から見たら、強くなった騎馬民族が草原を統一し、中原の王朝が弱体化したとみるや素早く侵攻して王朝を立てるという歴史が中国の歴史なのかも。

 さらにいえば、易姓革命説は漢民族よりも、遊牧王朝にとってありがたかったのかもしれない。習近平の「中国の夢」のどこがダメかというと、そうした視点がないところなのもしれないな、とか。

 話しを本に戻しますと、匈奴亡き後のモンゴル高原では鮮卑と呼ばれる新たな遊牧王朝が勃興した、と。鮮卑の中核部隊は、匈奴と並立した東方の遊牧民東胡の後裔と考えられ、もともとは大興安嶺南部にあって匈奴に服属していた遊牧集団。檀石槐が統合したあと、モンゴル高原を中心とする草原地帯は混乱期に入るが、四世紀華北の混乱を収束に導いたのは鮮卑拓跋部の立てた北魏だった、と。

 北魏政権の中核は想定以上に遊牧王朝としての性格が強かった。魏書に載っていない「可寒」「可敦」と言う鮮卑語で君主とその妃を意味する言葉が用いられたことが洞窟に刻まれた文字からわかっている。河寒と言う鮮卑語で君主とその妃を意味する言葉が用いられていた、と。

 北魏皇帝は季節移動し、平城北部の鹿苑という土地は貢納として受け取った家畜の再配分の場所で、遊牧民には賜与として与え、農民には牛を農地開発用に投入するなど、二つの生業の濃さを象徴する空間だった。北魏は平城郊外に雲崗石窟も造営したというのはなるほどな、と。

 北魏には北方の柔然に備え六鎮を置いたが、不満を持った六鎮の乱がその後のユーラシア東方の歴史に及ぼした影響は甚大に。まず高歓が実権を握り次に匈奴系の軍人である宇文泰が支配者となる。宇文泰は長安で西魏の実質的な建国者となったが、隋の楊氏、唐の李氏は同じ武川鎮出身で西魏の建国に参画していたそうです。もっといえば北斉、北周、隋、唐はいずれも六鎮の部族集団に由来する騎馬遊牧民の軍事力を柱としていた、と。

 中央ユーラシアをそれまでにない規模で統合したのは突厥(チュルク)で、北斉と北周は東突厥を見方につけようと貢ぎ物を献じて属国となったほど。隋の統一で東突厥は一時、隋に服属したが、煬帝の高句麗遠征失敗で再び強大化。唐を建国した李淵も突厥の大可汗に臣従した小可汗だったが、鉄勒の反乱で滅亡。唐が突厥を滅ぼすと、太宗李世民をチュルク系遊牧民は天可汗(テングリ=カガン)の称号をたてまつった。これによって唐の皇帝は拓跋のカガンとして草原世界の遊牧民集団に君臨した、と。

 安史の乱を起こした安緑山はソグド人であり、ソグド人は漢語の姓を選んで名乗るようになったことが知られており、安はブハラ出身を意味するというのも知りませんでした。

 また、契丹は強大で長い歴史を持ち、北宋は敗戦による澶淵の盟(1004年)で契丹に銀・絹布を歳幣として納めるなど、下に立つわけです。しかし、この澶淵の盟は、盟約による和平という新しい段階をユーラシアにもたらした、と。

第1巻『中華の成立 唐代まで』渡辺信一郎
第2巻『江南の発展 南宋まで』丸橋充拓
第3巻『草原の制覇 大モンゴルまで』古松崇志
第4巻『陸海の交錯 明朝の興亡』檀上寛
第5巻『「中国」の形成 現代への展望』岡本隆司

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April 16, 2020

『ざっくり分かるファイナンス~経営センスを磨くための財務~』

Kindle-share

 kindleのMailによるシェア機能を今さらながら知って、オフロでは、ふだん、あまり読まないような本を読むようにしています。紙ベースの本みたいにドッグイヤーや付箋が使えない不便をおぎなってあまりある機能ですが、唯一、難点なのは、引用箇所の頁指定ができないことでしょうか。これからは、学術論文でも章ぐらいを示すようなことになるんでしょうか。

 シェア機能のMailで自分宛に参考になった箇所をメールできるんですから、まとめる際には本当に便利(kindleの画面を指でなぞって部分が自分宛にメールできます)。

 ということで『ざっくり分かるファイナンス~経営センスを磨くための財務~』石野雄一著、光文社新書を読み終わりました。

 ざっくりいってこの本は期待収益率=WACCを評価基準にした企業財務の見方の解説と、キャッシュフローの重要性を強調したという感じでしょうか。

 だから、最も大切な一節は《企業価値を高めるためには-中略-フリーキャッシュフローを極大化して、割引率であるWACCをできるだけ下げる。あとは余計な非事業資産があるなら、それを売却するなりしてキャッシュに変え、再投資に回す、あるいは投資家に還元する》というあたりでしょう。そして、経営者の使命はWACC以上のROIC(投下資本利益率、Return On Invested Capital)を上げることだ、と。

 そして、ファイナンスとは《事業活動を行うためには、何かにお金を投じること(投資)が必要です。この投資に関する意思決定》である、と。

 以下、自分宛にメールした箇所です。

投資の《「見返り」を企業は、配当(インカムゲイン)なり、株価上昇による売買益(キャピタルゲイン)という形で株主に還元しなければなりません》

《ファイナンスとは、ひと言でいうと、「企業価値の最大化」をはかるための意思決定に役立つツール(道具)。その意思決定には、投資・資金調達、配当の三つがあります。いずれも企業の将来を見据えた上で行われるものです》

《会計はあくまでも過去のことを表しているのであって、いまの時点の状態を表すものではない》

《社長さんが使えるお金はどこにあるのか。それは、バランスシート上の流動資産のところにある現金・預金》

《フリーキャッシュフローは、企業が事業活動を行った後に、企業への資金提供者である投資家(株主と債権者)に自由に分配することができるキャッシュフローのことをいいます。この「フリー」は、投資家にとってフリー、つまり「このキャッシュは、もう好きに使っていいですよ」》

《この二つを合わせてプラスになれば、この企業は、投資活動を補ってあまりあるほど営業活動で十分なキャッシュを稼いでいることになりますから、有利子負債の削減や配当、自社株買いなどによって、株主へ還元することもできるわけです》

《「投資活動によるキャッシュフロー」に出てくる有形固定資産を取得するための支出額と減価償却費(第4章で説明します)とを比較することによって、その企業が投資活動に対して積極的かどうかが分かる》

《事業活動を行うためには、何かにお金を投じること(投資)が必要です。この投資に関する意思決定、これがファイナンス》

《投資家でも、成長性を重視する株主と、安定性を重視する債権者という図式が生じること》

《銀行は企業に対して、融資という名の投資をしているわけです。これは預金についても同様で、「預金」=「投資」、つまり預金者は銀行に対して投資をしている》

《リスクを避けることではなく、実際にリスクに見合ったリターンを上げているのか」を考えることです。リスクに見合った、あるいはそれ以上のリターンを上げる》

リスクの本質を最も表しているのは漢字《リスクというのは、危険、つまりデンジャーと、機会、つまりオポチュニティというものを、両方表している》とMBAでも教えられるという

《会計は、企業の「過去」に視点を置いているのに対して、ファイナンスは、「現在から未来」に視点を置いています》

《ファイナンスにおける企業価値、それは「投資家にとっての企業価値」です。しつこくくりかえしますが、投資家とは株主と債権者》

《ファイナンスとは、投資に関する意思決定(投資の決定)と、その投資に必要な資金調達に関する意思決定(資金の調達)と、そして運用して得たお金をどう配分するかという意思決定(配当政策)、これら三つの意思決定に関わるもの》

《βというのは、株式市場全体の変動に対して、その会社の株式がどれだけ連動するかというものを表した数字です(株式市場とまったく同じ値動きをする株式のβを1と考えます)》

《「経常利益」という概念がなぜ欧米にないのか、ということを考えると、負債コストしか反映していない利益など意味がない―理由はそんなところではないかと思います。かつての日本のようにメインバンク制度があって、資金調達の大部分を銀行融資という形で賄っていた時代には、確かに株主資本コストを意識する必要性は少なかった》

《「WACCは、企業の資金調達コストです」》

《経営者の使命とは何か? これについてはいろいろ述べてきましたが、ひと言でいえば、WACC以上のROICを上げる》

《ROICとWACCとの差を、EVAスプレッドと呼びます。このEVAスプレッドをプラスにする、そしてさらに拡大させることが経営者の使命といえます。 ちなみに、このEVAスプレッドに投下資本を掛けることによって、EVA(Economic Value Added)を計算することができます》

《永久に毎年100万円の利息をもらえるといって遠い将来の100万円の価値は、限りなくゼロに近い》

《設備投資というのは、土地建物や機械設備に対する投資のことで、在庫投資よりも、お金になって戻ってくるのに時間がかかります。一方、在庫投資というのは、製品や商品を作るための原材料など在庫に投資するということ》

《企業価値を高めるためにはどうしたらいいのか、これについて考えてみましょう。結論から申し上げますと、フリーキャッシュフローを極大化して、割引率であるWACCをできるだけ下げる。あとは余計な非事業資産があるなら、それを売却するなりしてキャッシュに変え、再投資に回す、あるいは投資家に還元する》

《私が通ったビジネススクールのファイナンスの教授は、よく「在庫は現金だ!」と叫んでいました。たとえば、いままでは商品在庫が1個だったのが10個に増えているということは、その分だけお金が必要になっているということです。したがって、どこかからその分のお金を用立ててこなければいけない、ということになります。このように在庫の増加も、運転資金の増加につながるわけです。  あとは、支払サイト(=支払までの期間)が変わることも、運転資金の増減に影響します》

《運転資金が増えると、フリーキャッシュフローが減少する。これは、企業価値の減少につながります。運転資金が増える理由はいろいろあるのですが、ケースとしては、資産サイドが膨らむ、つまり売上債権や在庫が膨らむことによって増えることが多い》

ゴーン時代の日産では、《NPV法をちょっと変形したものをNPV‐Rと名づけて使用し、数字が、1・5以上を目にしていた。これは言い換えれば、100円という価格を支払うのであれば、それによって手に入れるものの価値、つまり、キャッシュインフローの現在価値が150円以上ないとダメ、ということ》

《プロジェクトの投資判断に使用する割引率(=ハードルレート)の設定には、なかなか難しいものがあります。少なくとも、資金提供者である投資家(株主と債権者)の要求するリターン(=期待収益率=WACC)以上にする必要がある》

《そしてプロジェクトのIRRを計算して、WACCと比べて高ければ投資実行、低ければ投資を見送るわけですが、プロジェクトの利回りが単純に高くても、企業価値に与えるインパクトが小さくては意味がありません》

《収益性の高い企業は負債比率が低い傾向にあります。そういう企業は倒産する可能性が低いので負債の節税効果を活用すべきなのですが、実際には逆のオペレーションが行われているケースが多いが、負債が増えすぎると格付けが下がる》

《事業リスクの高い企業は言い換えれば、事業活動から生み出されるキャッシュフローの変動が大きい会社》

《格付け機関が最も重視するのは債務償還能力です。つまり、その社債を期日までにきちんと返してくれる能力があるかどうか》

《マイクロソフトが二〇〇三年まで無配を貫いた》のは正しい選択だった。

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March 16, 2020

『NHK 100分 de 名著 スピノザ 『エチカ』』國分功一郎、NHK出版

 

Ethica  水回りをリフォームして、最近ではオフロに入りながら防水のkindle Paperwhiteで読書しています。浴槽に肘を支える出っ張りがつき、お湯に浸かりながらkindleを肘で支えて読むのにちょうどいいので、むかし随分ムダに買ったコンテンツの中で読んでいないのを読もうかな、ということで、最初に読了したのが國分・中動態・功一郎先生によるNHKの100分de名著シリーズのスピノザ編。

 國分先生は『中動態の世界 意志と責任の考古学』を書くことで、ずっと読んできたスピノザの理解が深まったとして、100分de名著シリーズを引きうけたんですが、そもそも中動態(中動相)というのは日本語文法にはない概念。動詞の示す動作が主語に対し特別に深い関係をもっていることをあらわすもので、オフロつながりでいいますと、λουω(洗う)の中動態λουομαιは「自分を洗う、入浴する」の意味となります。

 この中動態について、國分先生はリストカットなどの自傷行為が知らぬ間にやってしまっていることが多いことなどをあげ、こうした行為は能動態でもなく、受動態でもない中動態が表現できる、みたいなことを書いていると思います。個人的には中井久夫先生が『徴候・記憶・外傷』で紹介していた行動の0.5秒前に実は意思されているというリベの実験で初めて「自由意志は万能ではないんだ」と知ったあたりと似ているのかな、と感じました。その後、『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰、中公新書で、意識は単なる電気の流れでシナプスが発火するためには一定程度の閾値に達しなければならず、0.5秒とは考えてから行動を制御するには時間がかかることを意味する、みたいなこととして今は理解しています。

 ぼくにとってスピノザとは、非哲学的な言いまわしが多かったデカルトを受け継いで、首尾一貫した理論へと仕上げたものの、神のうちで無限と有限が精神的に一体化するという東洋的な余韻が感じられる哲学者byヘーゲル『哲学史講義 下』長谷川宏訳、p.239-というイメージでした。

 ところが国分先生の理解は正反対。デカルトによって構築され近代科学の基礎にもなった「自由意志に基づく人間」観ではなく、スピノザはこれを批判して、多くの要因によって人が自分の意思で選択したようにみえるけれども、実は行為の原因は知らないのではないか、という点が重要だ、というんです。

 「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志"の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志"の存在を前提とした“常識"が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」というあたりは、経済の領域において合理的な存在であるホモ・エコノミクスが疑われていることとパラレルかな、と。

 また、「すべては神の中にある」「神には外部がない」などの考え方からスピノザは汎神論的だとヘーゲルなども考えているんですが、100分 de 名著では八百万の神を連想するとまで書いています。

 国分先生は「自分の存在を維持しようとする力」としてコナトゥス(ラテン語 conatus)を考え、そのコナトゥスが状況により変化することを「変状」と呼ぶのですが、「うまく生きていくためには、自分のコナトゥスの性質を知ることがとても大切になります」として、スピノザは「自由であるとは、必然の中で自分が原因になること」だと自由を重視しているとみているようです。

 そしてスピノザのさまざまな概念を「組み合わせとしての善悪、力としての本質、必然性としての自由、力の表現としての能動、主体の変容をもたらす真理の獲得、認識する力の認識」とに分類してとらえるべきだ、と。

 つまり神という全体の内で、原因は外にあるものの、個人はコナトゥスをのために自らの力を表現するのが自由につながる、みたいな流れになるのでしょうか。

 もちろん、こうしたスピノザの哲学に関する見方には蒙を啓かれたのですが、kindleで「今私が読んでいる本の一節を紹介します」とメールで線を引っ張った部分を送信できるのを知ったのも、ありがたかったな、とw

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March 14, 2020

『フランチェスコ・トッティ自伝「キャプテン魂」』

 

『フランチェスコ・トッティ自伝「キャプテン魂」』トッティ、コンドー著、沖山ナオミ訳、東邦出版

 ASローマが優勝した00/01シーズン当時、セリエAは間違いなく世界最高のリーグでした。悲願だった98年のフランスワールドカップ出場から02年の日韓W杯を控え、日本でも欧州サッカーブームが巻き起こっていた中でしたんで、眠い目をこすりながら一生懸命スカパーで見ていましたよ。

 その中でもトッティはイタリアだけでなく欧州全体でも最も人気と実力を兼ね備えた選手で、日本のヒーローだった中田英寿の同僚にして、同じポジションを争うライバルでした。週明けのスポーツ紙は中田が得点したら一面でしたし、カペッロが毎回、日本人メディアから「なんで中田が先発じゃないんですか」という質問にうんざり答えているような熱気がありました。04年のユーロ直前には『トッティ王子のちょっぴしおバカな笑い話』なんて本までも翻訳、出版されたほど(ちなみに訳者はその本も訳しています)。そんなトッティの自伝が出たので、本当に様々なことを思いだしながら一気読みしてしまいました。

 莫大な本の収益をバチカン市国の幼子イエス病院に寄付するというのをガゼッタあたりで読んだ時もトッティらしいと感じましたが、自分の育った街のクラブでリーグ優勝し、ワールドカップでも勝ち、そのクラブでキャリアを終えるという、選手たちがセレブになりすぎた現在、これからはあまり出ない選手なんだろうな、と。自分を笑い者にできる大らかさと、シャイな感じ、いささか古い考えが同居している感じも自然でいい。しかし、多少古い考え方でも頑なじゃないからメディア出身の奥さんが仕事を続けることも許すんだな、とか。

 中田がプレミアに去り、ユーヴェがスキャンダルに二部に落ちた後は、個人的にセリエAへの興味は薄くなり、スパレッティのゼロトップぐらいの時にはローマの試合を少し見たけど、トッティは本当に長い間やってたんだな、とも思いました。その後のリーガ二強時代、プレミアへのアジア資本充実、セリエAの衰弱とアメリカ資本の進出などの欧州サッカー現代史も学べました。

 トッティはアメリカ人にとってのジョー・ディマジオ、日本の長嶋みたいな存在なのかもしれませんね。トッティにはまだ、カネまみれになっていない幸せな感じも少しは残っていて、選手がそれほどセレブでもなかった良き時代の象徴なのかも。ファンの目にはいつも知り合いの少年のように見えるというか。

 とにかく00/01シーズンのセリエAにはユーヴェにデル・ピエロとジダン、インテルにはロナウド、パルマにすらブッフォン、カンナヴァーロ、テュラムがいて、ビッグチーム同士の対戦はW杯やユーロ並みの豪華さ。トッティの優勝回数は1回だけど、最高の選手たちが集まった中でのスクデット獲得は価値が高いのですが、日本のサッカーファンにとってもユベントスとの直接対決で0-2と負けていた中で中田英寿がみせた1ゴール1アシストの活躍は忘れられません。テレビで何回も「よっしゃぁ」と叫ぶ中田のバストショットのスローモーション が流れましたっけ。

 中田の活躍はトッティとの交代。キャプテンだった本人は不満だったでしょうが《これまで数多くの"奇跡の交代劇"があったが、この中田との交代は記憶する限りでは最も驚くべきものだった。79分、ヒデはゴール上部隅に見事なミドルシュートを決めたんだ。ローマは蘇った》と素直に礼賛するのがトッティらしい(p.127)。

 そしてホームでの優勝。終了前からファンがピッチに乱入して芝生を持ち去り、選手のユニフォームを引きちぎる騒ぎも《幸せは足し算するものではない》とあくまでファン思い(p.144)。ティフォージの過剰な愛情に接するたびに困惑するトッティですが、そういう時にも「彼らの愛に報いることができたのか」と自問する姿勢は凄い。優勝後のロッカールームで中田がみせた常人には理解しがたい行動は初めて読みました。ぜひ、本を手に取って確かめてみてください。

 レアルへの移籍を断ったのは、寂しくなったママンにプライベートジェットを手配するみたいなことはやりたくない、というのも印象的。練習の送り迎えでクルマを運転しながら勉強を教えてくれた母に、そんなセレブっぽいことはできない、というのはジーンときました(ライターが記者出身なので、淡々と書きすぎていて、そこは泣かし所だろと思ったけどw)。

 トッティは幸福な中流家庭で両親とも健在の中で育ち、まっとうな躾を受けていたから愛されたのかな、と。苛烈な育ち方したカッサーノとの比較をもってきたのは意図的じゃないかもしれないけど、両者の対比も見事。カッサーノは、その性格故に「実力の30%しかみせることができなかった」というのは実感なんだろうな。ズラタンとバロテッリは同じ代理人なんだから口を慎めぐらい教えたらいいのにみたいなのところも笑えました。

 試合描写など冗長な部分も感じましたが、それでも「あの時代」を思い出しました。『トッティ王子のちょっぴしおバカな笑い話』が実は描いていたのは、英語の侵食であり、EUという屋上屋の行政組織に対する居心地の悪さであり、南北格差だと今でも思うのですが、ついにASローマもセンシ一族からアメリカ資本に渡り、トッティはクラブから追い出されてしまいました。だから、この本はまだ、ヨーロッパのサッカーにおカネだけではない本当の「夢」があった頃の記憶の断片なのかもしれません。

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