書籍・雑誌

August 08, 2018

『水底の女』

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『水底の女』チャンドラー、村上春樹訳、早川書房

 村上春樹さんによるチャンドラー長編小説の翻訳もこれが最後。

 第二次世界大戦中のカルフォルニアが舞台。ダムを防衛する州兵、合成ゴムが大量に生産される前ということもあって徴用されるゴムなど、戦時中ということがわかる部分もあるが、基本的にマーロウものの雰囲気は戦前、戦中、戦後を通じて変わらない。

 《医師というのはだいたいにおいて他人にはほとんど好奇心を抱かない人種であるからだ》(p.39)、《太陽は朝には年代物のシェリー酒のように軽くドライになり、真っ昼間には燃えさかる火炉のように熱くなり、黄昏時には怒った煉瓦となって沈んでいく》(p.343)などの人物、風景描写は相変わらず素晴らしい。

 それにしても、旧版ではまったく触れられていなかった複雑な警察制度は、なぜこんな風になったのか、ということも含めて知りたくなるほど面白い。そして『ロング・グッドバイ』などにも通じる麻薬医者(ドープ・ドクター)の存在も。

 07年の『ロング・グッドバイ』から10年かけて7作を翻訳しおえた村上さんはチャンドラー・ロスになりそうだ、と後書きに書いているけど、読者としては村上春樹訳のチャンドラー・ロスになりそうです。

 フィッツジェラルドのように短編の翻訳も読みたいんですが、やってくれないかな。

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August 01, 2018

『プレイバック』

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『プレイバック』レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳

 ほとんど小説を読まなくなった後も、最後まで読んでいたのは村上春樹訳のマーロウものでした。

 個人的には隠遁生活を送っていたような気分で過ごしていた大学時代は、サブカルチャーの小説を読むようなサークルに居場所を確保していたのですが、そこではチャンドラーやマクドナルド、ハメットなどのハードボイルドものを一応、守備範囲としていました。

 日本にもミッキースピレーンなどのブームもあったようですが、最後まで残ったロス・マクドナルドも76年の『ブルー・ハンマー』を最後に作品を発表しなくなり(なぜか、ポール・ニューマンがリュー・アーチャーものの自身二作目として『魔のプール』を75年に公開しましたが、ヒットにはなりませんでした)、完全に廃れていた感じもします。

 組織を持たない私立探偵が、インターネットもない時代に特定の個人を探したりするという世界観は、ポール・オースターに引き継がれたんじゃないかと思うのですが、とにかく、巨大な世界に、寄る辺ない個人が仕方なく立ち向かってゆく、という構図は、なんとなく当時の気分にもあっていたような気がします。

 『プレイバック』はチャンドラーのマーロウものの最後の長編ですが、作品の評価はあまり高くありませんでした。なんかマーロウがやたらカネとオンナに汚く描かれているというか。

 あと、日本では角川が「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」をキャッチコピーとして広告展開したのも、どこかチャンドラーを汚されたような気がして、作品の評価が低位安定となっていた要因かもしれません。

 ちなみに"If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive."を村上春樹さんは〈厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないうなら、生きるに値しない〉と訳しています。

 昨年、柴田元幸さんとの「本当の翻訳の話をしよう」というトークイベントでも、「ハード(hard)とタフ(tough)は違う」「アライブ(alive)というのは、生きている“長い状態”だから『生きていけない』というよりは、『生き続けてはいけない』」「『タフじゃなければ生きていけない』というのはそういう面ではかなりの意訳なんですよね。でも響きとしてはいい」と語っていたようで、後書きでは、正確な訳としては〈冷徹な心なくしては生きてこられなかっただろう。(しかし時に応じて)優しくなれないようなら、生きるには値しない」を提示していますが、同時に、これではパンチラインにはなりにくい、とも書いてます。

 しかし、不思議なのは、この部分が人口に膾炙しているのはどうも日本だけというか、米英の書籍を読んでも、この部分への言及はなかったそうです。

 個人的には《小道(レーン)というより裏通り(アレー)という方があっているな」というところにハッとしてしまいました(p.189)。Rod Stewartの古い曲に"Gasoline Alley"というのがあって、昔からずっと小道みたいに思い込んでいたんですけど、そうじゃなくて裏通りなんだよな、と(そういえば浅川マキさんの訳もそんな感じだったかな…)。

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July 31, 2018

『大いなる眠り』

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『大いなる眠り』レイモンド・チャンドラー、村上春樹訳

 ノンフィクションというか論文っぽいのしか読めなくなっていたけど、『秘密の花園』を読んで、物語に身をまかせる心地よさを久々に思い出しました。

 ということで、積んでおいた村上春樹訳『大いなる眠り』チャンドラーでも読んでみるか、と。

 12年末に『ロング・グッドバイ』『さよなら、愛しい人』『リトル・シスター』に続いて村上春樹訳のマーロウものの第四弾として『大いなる眠り』が出たのですが、チャンドラーのマーロウものとしてしはこれが第一弾。

 処女作には作家の全てがつまっていると言われていますが、『大いなる眠り』はマーロウのキャラクター、語り口、物語のドライブ感どれをとっても一級品の出来映え。日本では翻訳の問題があったのか、他の作品ほど評価が高くはありせんでした。

 改めて村上版で読んでみると、風景、情景描写、台詞の切れ味が素晴らしく感じます。

 今は、気になった原文をすぐに読めるというのもいいよな、と。

 “I haven't noticed that you suffer from many inhibitions, Mr. Marlowe.”

 「君はおとなしく人の言うことを聞くような人間ではあるまい、ミスタ・マローウ」

 あたりはんまいな、と。

 16章の註で《原文はGo----yourself。当時はfuckという言葉は禁句だった》としてあるが、今もって----のままでした(まあ、当然かもしれませんがw)。

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July 27, 2018

『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』

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『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』森保 一、西岡 明彦 (著)、フロムワン

 代表監督に就任したポイチの自伝。絶版で、おそらく重版もされていないでしょうから、ぜひ店頭に並べて欲しい本です。未読の方にAmazonに載せた書評が少しでも参考になれば。

 ちなみに、「マツダ運輸(現マロックス)」とある会社は現在は「マツダロジスティクス」です。

「まっとうなサッカー選手のまっとうな半生」

 03シーズンのベガルタ仙台でユニフォームを脱いだ、ドーハ組の中心選手のひとり、ポイチこと森保選手の自伝。誰からも愛されるキャラクターというか、テレビの画面からも誠実さが伝わってくるような選手でした。

 長崎出身の森保選手は、小嶺監督が島原高校から国見へ移る時期に高校入学を決めなければならなかったことで、結局、長崎日大高校に入ってしまい、ほとんど中央では無名の存在で過ごした、というが彼らしい。高校の就学旅行は中国への船旅だったらしいけど、その船内で後に結婚することになる同級生と撮った写真がなんともいえない(p.52)。高校2年生の頃からマジメにつきあっていたと書いていたけど、「ああ、こういうまっとうな人生もあるんだなぁ」みたいな。

 当時は冬の全国選手権から大学サッカーというのがエリートコースだったんですが、島原と国見に阻まれて全国大会への出場経験がない彼には大学からの誘いはなく、けっこう偶然に練習を見に来ていたオフトにひろわれる形で広島のマツダに入社することになります。しかも、マツダの本社採用ではなく、マツダ運輸(現マロックス)という子会社の採用だったというのも泣かせる。オフトが正式に監督となり、たまたまサテライト(マツダサッカークラブ東洋)で守備的MFとしてプレーしていたのを気に入られ、トップチームに昇格。マンチェスターユナイテッドへの短期留学なども経験しプロへの意識を高めていたときに、代表監督に就任したオフトから代表に呼ばれる、という経緯を書いてみただけで、オフトと森保選手にはドーハへと続く切っても切れない関係があったんだと思う。おっかなびっくりで参加した初の代表合宿では、周りの有名選手にビビリながらも、なぜか直後のアルゼンチン戦でいきなり先発出場。いいプレーを披露して相手監督にも誉められてレギュラー定着とトントン拍子でドーハに向かって駆け上がっていくところなんかは躍動感があってよかった。

 森保選手は若手に「試合前どうしても緊張して困るんですが」と相談されると「それはお前が試合のことをいろいろ考えて準備している証拠だ」と答えて安心させていたそうですが、なんと、その言葉は代表合宿で同部屋となった柱谷から聞いた言葉そのものだったそうです。でも、柱谷から聞いたということは完全に忘れていて、そのことが本をつくる過程でわかってビックリしたと森保選手は書いているんですが(p.182)、代表合宿というのは様々なことが受け継がれていく場所なんだな、と思います。

 肝心のドーハは「なにもかも記憶がほとんど飛んでしまっている」(p.120)ため、あまり詳しくないのは残念だけど、そこまでのショックとは知らなかった。ドーハ組の選手たちは、一様に「これまでドーハの悲劇のビデオは見ていないし、これからも絶対に見ない」と語っていますが、その言葉の重みを改めて感じました。ユニフォームを脱いだ現在、広島に戻って小学生を教えながらS級ライセンス取得に向けて頑張っているというのも好感がもてます。

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July 05, 2018

『文選 一』

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『文選 一』岩波文庫川合康三、富永一登、釜谷武志、和田英信その他

 読み飛ばした『文選 一』を旅行の最中に読み直していました。

 永井荷風が一時期、文選だけを読みながら日を送っていたらしいのですが、収められた透明な詩を読んでいると、こういうのしか受付られなかったような時期もあったのかな、と。

 もっとも荷風はおそらく白文で読んでたんでしょうけど、学のない小生は解説に助けられてます。さらに川合先生の解説も素晴らしい。「文選という書物」「早秋編纂の典範」「文選の尊重と浸透」「編纂の時期と同時期の書物」「編者昭明太子」「文選の体裁」「文学の範囲」「作品選択の基準」「文選の詩の分類」「文選詩の作者たち」「受容の変化」という11項目について41頁にわたって解説してくれています。

 強調されているのは、当時の詩が《他者との関係性を持つ開かれた場で書かれ、社会性をもっていたこと》(p.394)、曹丕の建てた魏王朝から司馬氏が晋を建国したものの、北方民族によって崩壊し、東晋から南宋に変わった時代を背景にしていたこと。詩人は曹丕、曹植から阮籍、嵆康、謝霊運などに移るが、孤高の陶淵明は特異な存在だったこと。

 こうした背景を読み込むと、社会性ということの逆のパターンになるのかもしれませんが、魏から帝位を簒奪した晋を褒めまくっている陸機、陸雲の兄弟が共に司馬えいに殺されるのは哀れな感じも受けます。

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June 08, 2018

『文選 詩篇(二)』

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『文選 詩篇(二)』岩波文庫

 勉強不足で情けないけど、謝恵連のこの詩は岩波文庫の『文選 二』を読むまで知りませんでした。秋懐(二)の29、30(p.316-)。

各勉玄髪歓 無貽白首嘆
各おの玄髪の歓に勉め 白首の嘆を貽す無かれ
おのおの髪の黒い間にせいぜい楽しもう 白髪になって嘆いていては遅い

 古今の詩のアンソロジーでは『和漢朗詠集』が個人的には最も素晴らしいものだと思っていますが、東洋的な詩のアンソロジーの嚆矢となったのが『文選』。大部なために、これまで文庫化されていなかった作品ですが、その詩篇だけを六巻にまとめて岩波が出してくれていて、その二巻を読み終えました。

 二巻の途中で、詠史から哀傷に移ってきます。中国史批判みたいな詠詩から隠遁願望みたいなのが多くなり、感情移入しやすくなり、じっくり味わって読みました。

 左思の招隠(二)や「先を萬里の塗(みち)に争い 各おの百年の身を事とす」なんていう鮑照の詩は、分かりやすい(p.220)。《唐詩の先声》という評価がなんか分かるような気がする。名高い顔延之よりよほど鮑照の方が感情移入しやすい。

 「繁華」という言葉を生んだ阮籍によるBL賛歌なども入っていて、多様性を感じさせます。

 それにしても『文選』に収録されている詩人の多くは政争に巻き込まれて処刑されたり、殺害されています。漢詩の詩人には官僚が多く、三国から南北朝という時代かもしれないが、それにしても多すぎ。

 永井荷風が一時期、文選だけを読みながら日を送っていたらしいのですが、詩経の透明な詩を読んでいると、こういうのしか受付られなかったような時期もあったのかな、と。

 もっとも荷風はおそらく白文で読んでたんでしょうけど、学のないぼくは解説に助けられながら、やっと読みすすめています。

 とにかく、せっかく漢字文化に生まれたのに『文選』読まないのはもったいない。

 カッコ良いフレーズだな、と思ったのを抜き出してみると。

賤子實空虚 賤子実(まこと)に空虚なり 応璩(p.76)

臨源捐清波 源に臨みて清波を捐(く)み 郭璞(p.85)

翡翠戯蘭苕 翡翠、蘭苕(らんちょう)に戯れ 郭璞(p.91)

靜嘯撫清絃 靜嘯して清絃を撫す 郭璞(p.92)

安得運呑舟 安(いずくん)んぞ呑舟を運(めぐ)らすを得んや 郭璞(p.97)

聊欲投吾簪 聊(いささか)吾が簪を投ぜんと欲す 左思(p.115)

小隱隱陵薮、大隱隱朝市 小隠は陵藪に隠れ、大隠は朝市に隠る 王康(王+居)きょ(p.129)

保己終百年 己を保ちて百年を終えん 魏・文帝=曹丕(p.135)*1

美人愆歳月、遅暮獨如何 美人歳月を愆(あやま)つ遅暮獨り如何せん 謝混(p.145)

進徳智所拙 徳を進めんとするも智の拙なき所 謝霊運(p.163)

遊子憺忘歸 遊子憺(たん)として帰るを忘れる 謝霊運(p.179)

沈冥豈別理 沈冥豈に別理あらんや 謝霊運(p.184)

花上露猶泫 花上露猶を泫(したた)る 謝霊運(p.193)

流眄發姿媚、言笑吐芬芳 流眄(りゅうへん)して姿媚を發し 言笑して芬芳を吐く 阮籍(p.274)

朝爲媚少年、夕暮成醜老 朝には媚少年爲れども 夕暮には醜老と成る 阮籍(p.278)

明月照高楼、流光正徘徊 明月高楼を照し 流光正に徘徊す 曹植(p.344)

ちょっと気付いたこと…。

*1
 渋谷に塙保己一記念館がありまして、子ども頃から時々行ったりしていたんですが、塙保己一の名(保己一)はこの曹丕の詩からとられています。


鮑照の詠史(p.64-)の13, 14

寒暑在一時
繁華及春媚

は「暑さ寒さも一時のもの、移り変わる季節のなかで花咲き誇る今こそが春」と訳されているが、この繁華は阮籍の用例(p.275)からしてBLのことではないかと問合せしたんですが《文選詩篇2』の鮑照「詠史」の「繁華」は、花の盛り、世の栄華の意味のようです。阮籍「詠懐詩十七首」三の「繁華」も同じ。ただご指摘の通り、「詠懐詩十七首」四以降、「繁華」は「男色/美少年」の意味も含むようになったそう》で、『中国の恋のうた 『詩経』から李商隠まで』を紹介していただきました。


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June 07, 2018

『秘密の花園』

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『秘密の花園』バーネット(著)、土屋京子(訳)、光文社古典新訳文庫

 バーネット『秘密の花園』を原作としたミュージカル『シークレット・ガーデン』の初日が来週ということで、小学生以来ぶりに光文社古典新訳文庫で読みんでみました。

 物語の原型のような『巻き毛のリケ』の話しは岩波のジュブナイル版にあったかな…とか全英オープンのリンクスコースで有名なハリエニシダは「針金雀枝」なのかとか、色々感動していたんですが、個人的にも思い出すことが多い作品でした。

 著者の後書きを読むと、『秘密の花園』はフェミニズム運動によって、主人公メアリのふるまいが「女の子らしさの規範を破るもの」として再評価されたとのことで、1991年につくられたミュージカル『シークレット・ガーデン』も女性ばかりのスタッフで製作されたそうです。

 そういうのはおいておいても、『秘密の花園』は昔から単語としても素敵だな、と思っていて、二子玉の駅前にオープンスペースのお店があった時は、お気に入りの場所を『秘密の花園』と呼んで、野球やサッカーの後、よく確保していたんです。今はドッグウッドプラザになってるライズビルは、再開発前はペットを連れてこられるオープンスペースだったんすよ。河川敷の野球、サッカーをやった後、ペットの犬も連れてきてビールを呑んで、周りのお店からおつまみを頼んでダラダラと過ごしていた場所は、個人的な「秘密の花園」でした。

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May 10, 2018

『倭の五王』

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『倭の五王』中公新書、河内春人

中国の五胡十六国、朝鮮半島の三国鼎立時代と、連合王国であった倭との関係がダイナミックに描かれています。

 地理的に重要なのは楽浪郡なのか、ということも改めて知りました。

 楽浪郡(平壌)は前108年に衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝が設置、朝鮮支配の拠点でした。一時、公孫氏が支配下に置くも、魏が238年に楽浪・帯方郡を接収。卑弥呼も楽浪郡の南方にあった帯方郡を通じて通じたが、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼす、と。

 朝鮮半島では高句麗と百済が激しく争い、高句麗は魏の後の東晋に入朝。420年に宋が建国されると、宋は高句麗、百済に進号。すると負けじと421年に倭王讃が宋に遣使。高句麗、百済は大将軍、倭は将軍号が与えるとともに、原初的な官僚組織を与えた、と。

 こうした原初的な官僚組織は宋が高句麗、百済、倭を柵封し、外藩の国として承認され、将軍号を与えたがきっかけ。これは宋から各国に対して「幕府」を開いてもいいよ、というお墨付きを与えたということ。大将軍の高句麗、百済の場合、文官の長の長吏、軍は長である司馬のふたつが与えられたが、ただの将軍の倭は司馬のみ。

 倭王讃が二度目に宋へ派遣した人物は司馬曹達。これは軍トップの司馬である曹達という意味。曹は一文字の名前だからおそらく中国系。高句麗、百済も楽浪郡が消滅した後、中国本土に帰れなかった現地の中国人を官僚として雇い、組織をつくっていった。

 日本列島には《朝鮮系の技術者が集団で渡来し集落を集落を形成したのに比べて、中国系知識人は小規模で列島内でも拠点を持つことができなかった可能性が高い》(p.71)。

 そうした中、讃の後の倭王珍は連合王国の長として、権威付けのため大将軍の称号を求める、と。

 この本は五世紀の倭国について、宋書などを元に讃、珍、済、興、武の時代の権力構造まで推察する、本当に面白い本です。浅学非才なので日本書記の記述などをみ直しながら読んでいるんですが、履中天皇から清寧天皇までの凄絶な継承争いが反映されていそう。

 履中天皇は仁徳天皇死去後、住吉仲皇子の叛乱を同母弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じて誅殺させて即位。在位6年で死去、反正天皇が即位したが5年で死去。豪族が允恭天皇を推したので、大草香皇子との間で問題は生じなかったが、42年後に大混乱。

 皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の疑いで豪族が従わず、同母弟の穴穂皇子が安康天皇に即位。後に木梨軽皇子を誅殺したが、今度は木梨軽皇子の子、眉輪王によって暗殺される。ここから、雄略天皇となる大泊瀬皇子は允恭天皇の子である白彦・黒彦と眉輪王を焼殺。

 大泊瀬皇子は従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)を狩りにかこつけて射殺、弟の御馬皇子も処刑するなど政敵を一掃して即位。これが讃、珍、済、興、武。しかし、星川皇子は死後に反乱を起こして、大伴室屋によって焼殺。讃、珍、済、興、武の後に清寧天皇が即位。

 讃=履中、珍=反正、済=允恭として《珍の近親の係累が珍の次の倭国王として後を継がなかったことは事実》であり、宋から済が国王として認めもらうには、前任の珍から将軍号を得た人物だった必要がある。倭王珍は連合王国の長として、自身の他に倭隋にも将軍号を求め、与えられた(p.96-)。

 倭珍は讃以来の安東将軍で倭隋は平西将軍に号されたが、この時期、畿内には古市と百舌鳥に古墳群があり、大王を出すことのできる王族集団は2つあった。こう考えると《倭隋と倭済は同じ集団と捉えた方が理解しやすい》《済は珍と勢力を二分した倭隋の近親で》《珍から王位を移行させた可能性を見ておきたい》としています。

 済は433年に続いて451年に宋へ使者を派遣。444年に新羅へ侵攻した際に功があった23人に官爵を仮授したが、その正式任命を求めたが、これは王としての地位を固めつつあったことになる(p.103)、と。

 朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』でも、日本書紀でも倭国は新羅に侵攻した。日本書紀では加耶国に矛先を変えたが、これは豪族たちがそれぞれ朝鮮半島との関係を構築していたことを示す。対高句麗では統一的に行動したが、新羅や加羅との関係では意思統一は困難だった可能性がある、と(p.92)。

 つまり連合王国である倭国には大王を出せる2つの勢力があったほか、朝鮮半島と独自の関係を持っており、《新羅が倭国軍の中の関係の深い豪族に働きかけて自国への攻撃を阻害したことは十分にある得る》(p.92)、と。
  三章は「倭王武の目指したもの」

 山東半島を奪取した北魏の膨張と宋の劣勢という中国メインランドの情勢が朝鮮半島、日本列島に影響を与える中、朝鮮半島では百済が高句麗に事実上、滅ぼされます。こうした事態に、倭の五王の最後に名を連ねる倭王武は宋に遣いを出し、高句麗を非難するとともに、高句麗と同格の大将軍号を求めます。

 その際の上表文は中国古典を踏まえた上色の出来映えで、楽浪郡が消滅した後の中国人が倭で外交文書の作成などの官僚として活躍していたことがうかがえます。

 また、考古学的な立場から、最近では古墳時代に列島では大きな戦争は確認できないとされているというのには驚きました(防御集落、武器、殺傷人骨、戦士・戦争場面の造形などがない p.156)。高句麗との対決は衰えた百済に変わって倭国が盟主となって戦わざるを得ない状況だったことは事実にせよ、上表文の「東征」「西服」も中国古典からとった文学的なものだったともいえる、と(p.161)。

  『倭の五王』は初期の倭国は巨大古墳を造営できる2つの有力グループから大王が選ばれたという説明がなされますが、四章「倭の五王とは誰か」では、その次の段階が語られます。よく知られているように、その後の遠縁の継体天皇の即位には、五王たちと始祖を同じくするいう認識があったからではないかとして、その始祖こそホムタワケ(応神)であり、七支刀と七子鏡が贈られてきたのも応神の事績であったと考えることが合理的だ、と。こうした《百済との外交開始こそがホムタワケを始祖の地位に押し上げたと考えることもできる》と(p.196-)。これは記紀で応神の子である仁徳から傍系継承が語られていることにも対応します。

 これをこれまでの議論にあてはめると、五王のうち始祖王ホムタワケから讃・珍に連なる地位継承次第を保有していたが讃グループから、済グループの歴代リーダーが王位継承次第に組み込まれていった、とものと考える、と(p.202)。
 
 そして、倭国内の有力者たちに称号を与えてもらうという機能を「倭の五王」たちは重要だと考えていたんですが、倭国内の安定とともに、武として有力視されている雄略天皇は南朝への遣使だけでなく、朝鮮半島との交渉も低下させていきます。

 五世紀末に雄略が死去すると、混乱の後、ホムタワケ五世の子孫と称する継体大王が507年に即位しますが、五世紀に倭姓を名乗っていた王族集団の出身と認めてもいいだろう、と(p.223)。しかし、継体大王を受けいれない勢力もあり、そのためヤマト入りするのは即位して20年後になったのではないか、と。継体は自身の継承が不安定であると感じ、大兄という制度を創出、それまでの複数の王統から最有力者が即位する方式から、近親者が引き継ぐ方式に変え、世襲化が強まった、と(p.224)。

 こうした変更を日本書紀では武烈天皇の暴虐がもたらしたものとしているが、百舌鳥と古市の古墳群を造営した王族グループ(讃・珍グループと済グループ)は婚姻によって統合されていったのではないかとしています(p.225)。

 《五王は倭姓を名乗る王権が無姓の人々を治める体制を作り上げた。それに対して六世紀の王権は大王が姓を持たず、豪族以下民衆までの人々に姓を授けて、その上に君臨するという体制への一大変革を実現した》《それと軌を一にするのが継体大王の即位と世襲する王権の成立》だった、というのが結語(p.228)。

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April 30, 2018

『素顔の西郷隆盛』

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『素顔の西郷隆盛』磯田道史、新潮新書

 以前、触れたら版元経由で著者からの反応があって、その「腰の軽さ」は素晴らしいな、と思っている著者の本ですが、肩のこらない本を、ということで読んでみました。

 別なインタビュー記事で、明治維新百五十年というより、《江戸百五十年忌という視点を持つ》ことが大切だと語っていた著者ですが、西郷たちが目指した合理性は、太平洋戦争による蹉跌はあったものの、まがりなりにも一時は世界二位の経済大国まで日本を押し上げました。

 その経済重視の考え方は、西郷が斉彬に引き上げられる前に、先代の島津斉興は調所広郷を抜擢し、薩摩藩の財政を一気に改善したあたりから始まります(この本には書いていませんが)。斉興と斉彬は反目する父子でしたが、その目指したところは富国による強兵だったわけで、薩長の藩閥が駆逐された後の陸軍によって、まるで今の北鮮のような「先軍」思想による軍事重視によって葬り去られるまで、明治維新後の基本的な方針だったようにも思えます。

 いろいろ面白かったのですが、ハッとしたのは、幕藩体制の殿様は国元の生活が嫌いで、江戸に住む方が楽しいし、財政難で百姓一揆も起きる地元を治めるのは面倒だった、という指摘。廃藩置県で天皇の朝臣となって《江戸東京に住んで生活が保障され、国を治めなくてもいいならその方が良いというのが、旧殿様たちの本音の気分》だった、と(p.205)。

 実は廃藩置県で困るのは国元にいる武士たちで、殿様を引き留めようとして不測のことを言い出す藩もあるかもしれず、薩長土から御親兵を集め軍事力を背景にして、廃藩置県を断行しようとしたわけはこれ、だという指摘はハッとしました。

 確かに武士たちの叛乱は相次ぐわけですが、藩主が先頭にたって立ち上がったという例はないですもんね。

 僧月照との心中事件の後遠島された西郷は奄美大島の奴隷「ヒザ」の解放を進め、シャーマンであったユタ征伐も実施するなど、合理主義に基づく社会改良も行ったというのは知りませんでした(p.94-)。

 明治の留守政府を預かっている時にも被差別と身分を廃止、隷属農民にも職業自由を宣言したんですが(p.213)、それが貫徹されなかったのが地元鹿児島というのが悲劇なところで。丸山眞男は明治の元勲を『忠誠と叛逆』と呼びましたが、西郷もいくら英雄とはいえ、髷を切らない久光のいる地元では明治政府の方針を貫徹できなかった、みたいな。

 藩からの支出で最新の軍備を整えて江戸幕府を倒したのに、結果的に裏切られた久光など薩長土肥の殿様だけでなく、庶民も政府の人間をいかがわしいと感じていたわけですが、それが一変したのは、そんな政府が大国、中国を破った日清戦争から。維新の新政府は対外戦勝利でようやく固い支持を得た、と(p.219)。日本人だけではないと思いますが、やはり人間、勝者は好きなんですよね。

 フランス革命も単にブルボン王朝を倒しただけでは国民の不満は高まりまくって、ロベスピエールが恐怖政治で一時的には抑え込むんだけど、山岳派が排除された後、ブルジョワジーたちによる革命が貫徹されたのは、英雄ナポレオンが対外戦争に勝ちまくったからなのかな、とか。

 あと、西郷は征韓論ではなく、「アジア各国が協力して西欧の脅威に立ち向かおう」という斉彬以来の理想を実現するために自分を遣わせてくれ、という遣韓論であり、実は大久保の方が面倒くさい同盟よりも、手っ取り早く植民地にしてロシアにそなえようという積極的な征韓論者だったというのもなるほどな、と。事実、1873年の西郷下野後、すぐ翌74年には台湾出兵、75年の江華島事件などを起こすわけで。

 征韓論での下野で決着する明治6年の政変については《2年近くも国を留守にしていた岩倉、大久保、伊藤たちによる主権回復運動だったように思えるのです》というのはなるほどな、と(p.225)。また、留守政府という言い方はおかしく、西郷たちが本来の政府、大久保たちは政府の派遣視察団という指摘もハッとさせられました。留守政府という言い方は、政争に勝った側の言い方だ、と。

 大久保は実に偉大な政治家だったと思うのですが、民意を聞いたり、儒教国家からの脱皮を促して同盟したりするといったまどろっこしいことをせず、官僚と軍がさっさと実行するというやり方は《日本の政府が今もいま一つ国民にとって自分たちの政府と感じられない部分をつくった》という言い方は素晴らしいと感じました。

 また、一橋慶喜を将軍にして幕藩体制の改革を目指した勢力が、斉彬の死と安政の大獄で挫折。当事者の水戸藩が直弼を暗殺したまではよかったが、藤田東湖を安政地震で失っていた水戸藩は有効な手を打てず、薩長にやられたのかな、とも思いました。

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April 17, 2018

『三国志の世界』

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『三国志の世界』金文京、講談社

 講談社「中国の歴史シリーズ」の第四巻『三国志の世界』。

 『三国志演義』は中国だけでなく、朝鮮半島、日本でも大人気で、日本に翻訳された初の海外小説だと言われています。しかし、もちろん、それはフィクションであり「史実は三割、七割が創作」と言われているそうです。明代になって書かれた『三国志演義』は正史を元にしてはいますが、同じ明代の朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことに影響を受けているため、最も国力が劣り、最初に滅んだ蜀を中心に描かれることになります。これは、金などの"夷狄"によって南に押し込まれた明代の朱熹が主張した正当性を巡る観念的な議論を反映したものですが、観念的であるということは、それだけ現実を無視して伝播するわけで、日本、朝鮮、ベトナムにも大きな影響を与えました。また、三国志のリアルタイムの時代史も、日本、朝鮮、ベトナムにミニ中華意識を与えることにもなりました。

 陳寿の正史『三国志』に付けた裴松之の註を基にした羅貫中の『三国志演義』は、湖南文山によって元禄期に和訳され、それは完訳され出版された初の外国小説であり、世界でも満州語訳に続くもので、日本人に最も親しまれている小説なりました。また、歌舞伎などに出てくる「白浪五人男」は5人組の盗賊ですが、「白浪」という言葉も『三国志』にも出てくる「黄巾賊」に由来しています(黄巾の賊張角の残党が西河の白波谷こもり白波賊と呼ばれた)。

 ということで東アジアの歴史全体に三国志は大きな影響を与えたのですが、本書の特徴は以下の三点を重視して書かれたことだと思います。

・日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性
・呉の重要性
・中華意識の日本と朝鮮半島への影響

[日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性]

 後漢時代から、大学に学んで儒教的教養を身につけた豪族と官僚が一体となった存在が進み、それが支配層の門閥貴族になっていたことが三国志の時代背景となります。さらに、後代の隋唐時代に門閥貴族制が機能しなくなると、科挙に合格した士大夫が現れますが、そこでも実体は地方勢力でした。しかし、この過程で儒教的な父権的家族制度の普及で外戚勢力は姿を消すそうです(p.33-)。つまり儒教倫理の進展で、母系の重要性が中国では薄れていったわけで、この点が、儒教を表面的にしか受容しなかった朝鮮、日本との違いでしょうか。

 だいたい日本は宦官が存在しなかったし、朝鮮は導入したものの政治的に大きな問題を起こしたことはありません。しかし、外戚はどちらも重要な勢力であり続けました。輸入された儒教の父権的な家族制度は、日本と朝鮮の母権的家族制度を変えるほどの影響力を持たなかった、というのはクリアカットな言い方だな、と(p.38)。

 日本は科挙制度を導入せず、中国の士大夫が文士なのに対し、日本の士は武士です。朝鮮は高麗時代に科挙が同されましたが、両班は世襲的性格が強く、中国の六朝以前の門閥貴族に近いとのこと。つまり、日本も朝鮮も中国の政治制度を導入したが皮相的レベルだった、と(p.39)。

 しかし、中国でも母系の基層は残っていたかもしれません。例えば曹操の娘、何晏(かあん)は金郷公主と結婚したのですが、その母は何晏自身の母。つまり同母兄妹。儒教倫理が伝来する以前の朝鮮半島の王族や日本の天皇家では、近親婚がむしろ原則で、儒教というベールをとってしまえば、中国と朝鮮、日本には多くの共通性があるのかもしれない、と(p.223)。

 ちなみに曹操は三国志の中で最も魅力的な人物だと思います。

 曹操の墓と遺骨が2009年に見つかった件について、つい最近、河南省文物考古研究院が墓の建築構造などから遺骨はほぼ間違えなく曹操であると発表したそうですが、本人の曹操は宦官の養子の息子です。

 後漢の権力は宦官、外戚、豪族知識人が対立しましたが、曹操は漢王朝最後の皇帝となる献帝に娘を嫁がせて外戚となり、才能本位の人材登用で知識人も味方につけ、三つの相反する勢力全てを手に入れたたそうで、後漢王朝の簒奪こそ息子の曹丕の時代を待たなければならなかったものの、三国志の勝利者となったのは必然だと本書ではしています(p.46)。

[呉の重要性]

 『三国志演義』では最も軽い扱いの呉ですが、現在の「政治の中心は黄河流域の北部、経済の中心は揚子江流域の南部」という中国の国のかたちをつくったのは呉です。

 呉の孫権は夷州と亶州を探検させ失敗に終わっているのですが、夷州は台湾、亶州は倭国のどこかであった可能性がある、と。魏志倭人伝で魏が倭国に格別の対応をしているのは、万が一にも呉と倭国から挟み撃ちにされたらかなわん、という思惑があったハズという説は読んだことあるのですが、呉の影響は日本にも及んだ可能性はあるんだな、と(p.155)。

 呉の孫権は南方の山越(さんえつ)討伐に悩まされました。魏にいったんは臣従したり、その後の魏との対決では蜀との共同作戦を十全に行えなかったのもこれが原因。呉の軍隊に編入された山越の兵士は15-6万人に登るそうです。山越の同化は唐代までにほぼ完了し、江南地方は穀倉地帯だけでなく、文化的先進地帯になっていった、と(p.194)。

 著者が最初の方で、三国志演義では魏と蜀の対決がフィクショナルに語られるが、真に重要なのは呉だったというのが、ここら辺でやっとわかりました。孫権は南方を開拓し、海を通じて倭国と交流しようとした結果、中華が拡大。五胡十六国時代を経て隋唐の統一まで向かうわけですから。

 ちにみに、当時の「世論」は名士たちのネットワークで決まっていて、劉備も数少ない名士を優遇したが、名士たちは軍人を軽んじ、張飛などとは口も聞かなかったという話しは有名。漢代に官吏を曹と言ったのは曹氏が天下を取る予兆というような予言も出て(現在の日本でも「法曹」に曹の名残りが)、国力を削いだ、というのは知りませんでした(p.211)。

[中華意識の日本と朝鮮半島への影響]

 中華思想は「夜郎自大的に」華夷秩序を強調し、夷狄にけものへんの漢字をあてたりしますが、ブッダへの浮屠というのは強烈だな、と改めて感じました(p.265)。おそらく「日の巫女」を卑弥呼にしたのも、ヤンキー漢字並の知性だと思いますし。

 五斗米道を起こした張魯の母は「鬼道」をよくした、ということですが(p.103)、こうしたところでも卑弥呼といいますかアミニズムの残滓を感じます。辺境の地の益州で「鬼道」などは大目に見られていた、とのこと。

 ちなみに五斗米道の創始者、張魯の子孫は張天師を名乗って、中共成立後は台湾に移り、64代に。孔子の子孫も77代が台湾に移った。中国は革命の国で王朝は長続きしないが、宗教指導者は万世一系だとしています(p.260-)。天皇家も特に今上陛下の光格天皇系は傍流と言うこともあり自覚的に学問に専念している感じですかね。

 中国は東と南に大海が広がり、北と西は砂漠と山脈によって遮られています。中華思想はこうした外部世界から隔絶した地理環境から生まれた、というのが著者の見立て。そうした中、朝鮮とベトナムは比較的簡単に到達できましたが、このうちベトナムからはインド文化の仏教が入ってきたりしますが、東はそれに匹敵する文化はなく儒教が進出した、と。

 中国皇帝は唯一無二の支配者なので外国の君主とは対等の関係はありえなかったので、朝貢を求めることで平和な外交関係を築きます。朝貢は正統な皇帝の証として重要で、向こうからやってこなければ、中国側から働きかけることも辞さなかったそうです(p.319)。

 現代でも、どんな小国の元首であっても、中国の指導者との会見はトップで報道されるそうで、ひとつの中国を巡って中共と台湾の激しい外交戦も、唯一無二の皇帝への朝貢が重視された伝統による、と。朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことは日本、朝鮮、ベトナムにはミニ中華意識を与えることにもなります。朝鮮では清朝に朝貢しつつ夷狄視し、韓国は中共をオランケ(韓国語で夷狄)と呼ぶなど自家撞着的な対応をみせますが、とにかく互いに相手を見下す態度となっていった、と(p.354)。

 卑弥呼に与えられた親魏倭王は外夷の称号としては最高のものです。倭が魏、晋と親密な関係だったのは呉との対立、朝鮮半島情勢から利用されたもので、朝鮮半島の三国時代、日本での畿内政権の成立に発展していきます。これが現代の中国と台湾、南北朝鮮と日本との東アジア情勢にもつながる、と(p.340-)。

 世界で最も長い交流の歴史を持ち、漢字も共有する日本、朝鮮・韓国がEUのような連合化に進まない理由は日中戦争、朝鮮の植民地化などではない《問題の根は、それほど浅くはない。1800年前の三国時代の歴史を、今日的な視点からもう一度見つめ直す必要がある》というのが結語(p.357)。

 ちなみに、篆書、隷書は木簡、竹簡用で、行書、楷書は紙の文字。初期の紙は表面がなめらかではなく物を包むためものだったが、書写に適したなめらかなものがつくられたそうで、紙の普及で手紙も頻繁にやりとりされるようになり、筆跡の認識により手紙の偽造も始まったとのこと(p.310-)。

 紙の発明で書物や手紙が普及したことによる情報革命で、社会全体の構造的変革が起こった、とも考えられるわけです。中国社会では唐宋交代期による印刷術の発明、清末の西洋印刷術の導入によっても知識が普及したが、三国時代は情報革命が政治革命をもたらした初めての時代だった、と(p.314-)。

 このシリーズは本当に面白い。

 出て10年ぐらいたちますが、中国本土でも翻訳されるほどだそうで、こうした本をじっくり読むことができるのは、リタイアできたことの特権かな、と。

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