書籍・雑誌

April 17, 2018

『三国志の世界』

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『三国志の世界』金文京、講談社

 講談社「中国の歴史シリーズ」の第四巻『三国志の世界』。

 『三国志演義』は中国だけでなく、朝鮮半島、日本でも大人気で、日本に翻訳された初の海外小説だと言われています。しかし、もちろん、それはフィクションであり「史実は三割、七割が創作」と言われているそうです。明代になって書かれた『三国志演義』は正史を元にしてはいますが、同じ明代の朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことに影響を受けているため、最も国力が劣り、最初に滅んだ蜀を中心に描かれることになります。これは、金などの"夷狄"によって南に押し込まれた明代の朱熹が主張した正当性を巡る観念的な議論を反映したものですが、観念的であるということは、それだけ現実を無視して伝播するわけで、日本、朝鮮、ベトナムにも大きな影響を与えました。また、三国志のリアルタイムの時代史も、日本、朝鮮、ベトナムにミニ中華意識を与えることにもなりました。

 陳寿の正史『三国志』に付けた裴松之の註を基にした羅貫中の『三国志演義』は、湖南文山によって元禄期に和訳され、それは完訳され出版された初の外国小説であり、世界でも満州語訳に続くもので、日本人に最も親しまれている小説なりました。また、歌舞伎などに出てくる「白浪五人男」は5人組の盗賊ですが、「白浪」という言葉も『三国志』にも出てくる「黄巾賊」に由来しています(黄巾の賊張角の残党が西河の白波谷こもり白波賊と呼ばれた)。

 ということで東アジアの歴史全体に三国志は大きな影響を与えたのですが、本書の特徴は以下の三点を重視して書かれたことだと思います。

・日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性
・呉の重要性
・中華意識の日本と朝鮮半島への影響

[日本と朝鮮半島の儒教の受容と特殊性、異質性]

 後漢時代から、大学に学んで儒教的教養を身につけた豪族と官僚が一体となった存在が進み、それが支配層の門閥貴族になっていたことが三国志の時代背景となります。さらに、後代の隋唐時代に門閥貴族制が機能しなくなると、科挙に合格した士大夫が現れますが、そこでも実体は地方勢力でした。しかし、この過程で儒教的な父権的家族制度の普及で外戚勢力は姿を消すそうです(p.33-)。つまり儒教倫理の進展で、母系の重要性が中国では薄れていったわけで、この点が、儒教を表面的にしか受容しなかった朝鮮、日本との違いでしょうか。

 だいたい日本は宦官が存在しなかったし、朝鮮は導入したものの政治的に大きな問題を起こしたことはありません。しかし、外戚はどちらも重要な勢力であり続けました。輸入された儒教の父権的な家族制度は、日本と朝鮮の母権的家族制度を変えるほどの影響力を持たなかった、というのはクリアカットな言い方だな、と(p.38)。

 日本は科挙制度を導入せず、中国の士大夫が文士なのに対し、日本の士は武士です。朝鮮は高麗時代に科挙が同されましたが、両班は世襲的性格が強く、中国の六朝以前の門閥貴族に近いとのこと。つまり、日本も朝鮮も中国の政治制度を導入したが皮相的レベルだった、と(p.39)。

 しかし、中国でも母系の基層は残っていたかもしれません。例えば曹操の娘、何晏(かあん)は金郷公主と結婚したのですが、その母は何晏自身の母。つまり同母兄妹。儒教倫理が伝来する以前の朝鮮半島の王族や日本の天皇家では、近親婚がむしろ原則で、儒教というベールをとってしまえば、中国と朝鮮、日本には多くの共通性があるのかもしれない、と(p.223)。

 ちなみに曹操は三国志の中で最も魅力的な人物だと思います。

 曹操の墓と遺骨が2009年に見つかった件について、つい最近、河南省文物考古研究院が墓の建築構造などから遺骨はほぼ間違えなく曹操であると発表したそうですが、本人の曹操は宦官の養子の息子です。

 後漢の権力は宦官、外戚、豪族知識人が対立しましたが、曹操は漢王朝最後の皇帝となる献帝に娘を嫁がせて外戚となり、才能本位の人材登用で知識人も味方につけ、三つの相反する勢力全てを手に入れたたそうで、後漢王朝の簒奪こそ息子の曹丕の時代を待たなければならなかったものの、三国志の勝利者となったのは必然だと本書ではしています(p.46)。

[呉の重要性]

 『三国志演義』では最も軽い扱いの呉ですが、現在の「政治の中心は黄河流域の北部、経済の中心は揚子江流域の南部」という中国の国のかたちをつくったのは呉です。

 呉の孫権は夷州と亶州を探検させ失敗に終わっているのですが、夷州は台湾、亶州は倭国のどこかであった可能性がある、と。魏志倭人伝で魏が倭国に格別の対応をしているのは、万が一にも呉と倭国から挟み撃ちにされたらかなわん、という思惑があったハズという説は読んだことあるのですが、呉の影響は日本にも及んだ可能性はあるんだな、と(p.155)。

 呉の孫権は南方の山越(さんえつ)討伐に悩まされました。魏にいったんは臣従したり、その後の魏との対決では蜀との共同作戦を十全に行えなかったのもこれが原因。呉の軍隊に編入された山越の兵士は15-6万人に登るそうです。山越の同化は唐代までにほぼ完了し、江南地方は穀倉地帯だけでなく、文化的先進地帯になっていった、と(p.194)。

 著者が最初の方で、三国志演義では魏と蜀の対決がフィクショナルに語られるが、真に重要なのは呉だったというのが、ここら辺でやっとわかりました。孫権は南方を開拓し、海を通じて倭国と交流しようとした結果、中華が拡大。五胡十六国時代を経て隋唐の統一まで向かうわけですから。

 ちにみに、当時の「世論」は名士たちのネットワークで決まっていて、劉備も数少ない名士を優遇したが、名士たちは軍人を軽んじ、張飛などとは口も聞かなかったという話しは有名。漢代に官吏を曹と言ったのは曹氏が天下を取る予兆というような予言も出て(現在の日本でも「法曹」に曹の名残りが)、国力を削いだ、というのは知りませんでした(p.211)。

[中華意識の日本と朝鮮半島への影響]

 中華思想は「夜郎自大的に」華夷秩序を強調し、夷狄にけものへんの漢字をあてたりしますが、ブッダへの浮屠というのは強烈だな、と改めて感じました(p.265)。おそらく「日の巫女」を卑弥呼にしたのも、ヤンキー漢字並の知性だと思いますし。

 五斗米道を起こした張魯の母は「鬼道」をよくした、ということですが(p.103)、こうしたところでも卑弥呼といいますかアミニズムの残滓を感じます。辺境の地の益州で「鬼道」などは大目に見られていた、とのこと。

 ちなみに五斗米道の創始者、張魯の子孫は張天師を名乗って、中共成立後は台湾に移り、64代に。孔子の子孫も77代が台湾に移った。中国は革命の国で王朝は長続きしないが、宗教指導者は万世一系だとしています(p.260-)。天皇家も特に今上陛下の光格天皇系は傍流と言うこともあり自覚的に学問に専念している感じですかね。

 中国は東と南に大海が広がり、北と西は砂漠と山脈によって遮られています。中華思想はこうした外部世界から隔絶した地理環境から生まれた、というのが著者の見立て。そうした中、朝鮮とベトナムは比較的簡単に到達できましたが、このうちベトナムからはインド文化の仏教が入ってきたりしますが、東はそれに匹敵する文化はなく儒教が進出した、と。

 中国皇帝は唯一無二の支配者なので外国の君主とは対等の関係はありえなかったので、朝貢を求めることで平和な外交関係を築きます。朝貢は正統な皇帝の証として重要で、向こうからやってこなければ、中国側から働きかけることも辞さなかったそうです(p.319)。

 現代でも、どんな小国の元首であっても、中国の指導者との会見はトップで報道されるそうで、ひとつの中国を巡って中共と台湾の激しい外交戦も、唯一無二の皇帝への朝貢が重視された伝統による、と。朱熹が『通鑑項目』で蜀を正統として尊皇攘夷を打ち出したことは日本、朝鮮、ベトナムにはミニ中華意識を与えることにもなります。朝鮮では清朝に朝貢しつつ夷狄視し、韓国は中共をオランケ(韓国語で夷狄)と呼ぶなど自家撞着的な対応をみせますが、とにかく互いに相手を見下す態度となっていった、と(p.354)。

 卑弥呼に与えられた親魏倭王は外夷の称号としては最高のものです。倭が魏、晋と親密な関係だったのは呉との対立、朝鮮半島情勢から利用されたもので、朝鮮半島の三国時代、日本での畿内政権の成立に発展していきます。これが現代の中国と台湾、南北朝鮮と日本との東アジア情勢にもつながる、と(p.340-)。

 世界で最も長い交流の歴史を持ち、漢字も共有する日本、朝鮮・韓国がEUのような連合化に進まない理由は日中戦争、朝鮮の植民地化などではない《問題の根は、それほど浅くはない。1800年前の三国時代の歴史を、今日的な視点からもう一度見つめ直す必要がある》というのが結語(p.357)。

 ちなみに、篆書、隷書は木簡、竹簡用で、行書、楷書は紙の文字。初期の紙は表面がなめらかではなく物を包むためものだったが、書写に適したなめらかなものがつくられたそうで、紙の普及で手紙も頻繁にやりとりされるようになり、筆跡の認識により手紙の偽造も始まったとのこと(p.310-)。

 紙の発明で書物や手紙が普及したことによる情報革命で、社会全体の構造的変革が起こった、とも考えられるわけです。中国社会では唐宋交代期による印刷術の発明、清末の西洋印刷術の導入によっても知識が普及したが、三国時代は情報革命が政治革命をもたらした初めての時代だった、と(p.314-)。

 このシリーズは本当に面白い。

 出て10年ぐらいたちますが、中国本土でも翻訳されるほどだそうで、こうした本をじっくり読むことができるのは、リタイアできたことの特権かな、と。

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April 16, 2018

『鉄道貨物 再生、そして躍進』

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『鉄道貨物 再生、そして躍進』伊藤直彦、日本経済新聞出版社

 昨年、日経産業に連載されていたインタビューも読んでいましたが、JR貨物の社長会長をつとめた伊藤直彦さんの『鉄道貨物 再生、そして躍進』を読みました。一読、最初に想いをいたしたのは貨物が1000億円近い長期債務を背負わされたこと。国鉄末期には赤字の元凶とまで言われ、赤字必至とみられた貨物会社にしては、随分、ハードルの高い船出だったなと改めて思います。

 長期債務を負わせられたのは、この本でも書いている通り、いずれ経営が立ちゆかなくなり、5年後ぐらいに本州3社を中心に再統合する構想があったことが遠因かもしれないな、と。本州3社は三島・貨物とは比べものにならないほどの優良資産を継承していたわけですが、大都市に広大な土地を保有する貨物の資産もいずれ自分たちのものになると考えれば、多少はハードルを高く発足させた方が後々、早く回収できるし、自分たちの会社の長期債務も少なくてすむ、という考えもあったのかもしれない。

 『国鉄改革の真実「宮廷革命」と「啓蒙運動」』でJR東海の葛西さんは、JR東日本には東海道新幹線も入っているのに東京駅などの分割で重要資産を軒並み持っていかれたと不満をぶつけていますが、国鉄改革の最終局面では、時間がなかったということもあり、資産の振り分けなどは、相当、恣意的に行われていたようです。

 それを考えると、バブルとともに発足したことは天佑だったのかもしれない。

 当時は「人手不足のトラックからこぼれ落ちた貨物が鉄道に回ってきたただけ」という現実を経営陣が認識しないまま緊張感を失い、本来は機関車や貨車などの取り替えに利益を使うべきところを、一時期はまことしやすにささやかれていた「貨物を上場一番手にして、株高を誘って東日本、東海を高値で売る」という構想に乗って、税金を払うためだけに利益を積み重ねていたのは残念だと思っていました。

 しかし、それでも、旅客会社からは独立した全国一本の会社としてやっていけるという方向がハッキリし、黒字続きということで荷主や代理店である通運会社からも「これなら使っていける」と認識されたのは、長い目でみれば本当に運が良かったのかも。バブルの恩恵に浴することなく、最初からギリギリの経営が続いていたら、阪神大震災あたりの時点で貨物は地域分割されていたかもしれません。

 本書は貨物会社の発足に関しては伝聞調で書き、それよりもなぜ国鉄が大幅赤字に陥ったかということについて詳しく書いているな、という印象。

 国鉄は同じ公社でも市場を独占していた専売公社や電電とは違っていたとか、敗戦処理で満鉄の引き揚げ者を24万人を受けいれたため、ピーク時の職員は62万人に達し、定員削減に伴い下山・三鷹・松川事件も発生したというあたりから書かれても…とも思ったが、こうした事実を知らない世代も多くなっているのかもしれない。また、戦後、国鉄が新規投資を抑えざるを得なかったというあたりは、JR貨物の姿ともダブった。機動的な投資を怠り、それが後々、ツケとして回ってくる、という問題は貨物だけでなく北海道も抱え、後に大きな問題になることも。

 また、国鉄時代の職場規律の問題を最近の類書より大きくとりあげているのも特徴。第二章で、現場での「説明事項」が「定員交渉」という名に変わってしまい、怒号と喧噪の集団交渉になっていったというあたりを詳しく書いるが、伊藤氏など労務畑の幹部が貨物に多かったのは、北海道と比べてラッキーだったな、と(総連系の組合のコントロールなど)。
 
 順法闘争に怒った乗客が暴れた際、北局人事課長として警視庁に赴き、現場に対して「足止めされた乗客には後日タクシー代を国鉄が支払う証明書を出して対処しろ」と権限もないのに指示を出して収拾させたが、「機転がよく利いた」と褒められたというあたりは、この程度のカネは国鉄にとって何でもないということだったんだろうな、と改めて思います。JRグループの大物だった人が「国鉄末期の年度末には、毎年、多額の利子を支払わなければならず、その時は百億円以下のカネはカネとは思わなかった」と語っていたことを思い出す。

 「第二臨調と国鉄再建監理委員会」の章では「国鉄は、第二臨調の高度の政治性に気がついていなかった」というあたりは新鮮というか「マジかよ」と。やはり、当時の田中派の力を信頼しきっていたのだろうか。葛西氏の本でも、この本でも政治がらみというか、田中派についてはほとんど書かれていないのが特徴。

 p.61の分割論に関しては電力を参考にした、というあたりは、葛西氏も分割・民営化で推進派の立場の朝日の大谷健『興亡』と、分割反対の立場から書かれた近藤良貞『電力再編成日記抄』を参考にしたと書いていたことを思い出した。

 正直、就業規定の改正がどれほど大きかったということについては知らなかったが、これが出来ていなかったら余剰員対策もできなかったというあたりは、そうなのかな、と(p.99)。

 四章「国鉄改革と鉄道貨物輸送」で、国鉄貨物部門を残せと後輩の事務次官だった再建監理委員を事実上取り仕切っていた、後に東日本社長となる住田正二さんに広瀬真一日通会長が指示を出したとまでは書かれていないものの、広瀬さんの役割に触れているのも、こうした本では初めてのこと。八章「JR貨物、ついに出発」で、貨物はどうせ赤字で立ちゆかなくなるので、旅客に分割することが暗黙の了解だったということも、この手の本では初めて。

 貨物会社が引き継ぐ資産を圧縮したことについては、第八次石炭政策で国内炭生産の段階的縮小を図ることことが決まり、貨物会社の石炭輸送に係る資産も圧縮されたというあたりが抜けているかな、と。

  58年6月に日通で信澤専務が子会社の日通総研社長となり、8月に広瀬、住田、信澤氏と国会議員の三塚博、鹿野道彦それに後に運輸事務次官となる林淳二監理委員会事務局長が貨物をどうするかの協議を行ったことについて、国鉄は知らなかったというのは、どうなんでしょう。 信沢委員会の発足当初は知らなかったのか、あるいは知っていても、そんなものは無視するという感じではなかったのか、と言いたかったのか。

 60年4月に運輸省が国鉄改革推進本部を発足させ、貨物については熊代審議官のチームを設けたわけですが、本当にあの頃になると国鉄は急速に当事者能力を失っていたな、という印象。8月に須田さんが中心となった貨物プロジェクトがつくられたけど、やっぱり貨物局が中心となってやるべきとなったというあたりは混乱というか。

 六章「貨物輸送と線路使用料」については、回避可能原価と追加発生コストの名称に固執しすぎたかな、と感じます。

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April 15, 2018

『近代日本150年 科学技術総力戦体制の破綻』

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『近代日本150年 科学技術総力戦体制の破綻』山本義隆、岩波新書

 腰巻の「黒船から福島まで」が効いている。山本さんは反原発で、その理由として過酷事故の時にECCSが働くかどうか分からないなんて言ってるわけですが、ま、そうした部分は置いといて、まだ、駿台予備校で頑張っているんだな、と。偉いもんです。

 この本は東大全共闘時代からの「自己否定」を、日本の理系研究者に向けて問うた印象。その前提となっているのは、戦前の革新官僚によって道筋がつけられた国家総動員体制が、戦後は高度成長に向けられたという見立て。この見立ては現代史の研究成果の上に立っていると思うので、日本近現代史を技術史から補強する、という本になっているな、と。

 山本さんらしく、前書きからラジカル。

 個人的に、映画『この世の片隅で』みたいな作品を原爆レクイエムとしてとらえる一般の日本人に「ああした映画をいつまでもありがたがっているのはいかがなものか」と書いたら猛烈なクレームつけられて辟易としたことがあるのですが、原爆に関しては《1945年に原子爆弾二発で大日本帝国は崩壊した》というのがクリアカットな見方なんだろうな、と改めて思いますね(p.v)。

 そして本文。

 西洋でも19世紀までは客観的法則性を考究するアカデミズムと無関係に技術は営まれてきた、と。錬金術みたいなものの失敗と、その中から得られるたまたま素晴らしい成果や、なんでこうなっているのか分からないけど、その現実の上に論理展開していくという、職人技みたいな積み重ねで技術は発展していったわけです。

 当時はアタマの中で考えたイデアがアカデミックな世界では全てだったわけですが、19世紀後半になって学問と技術の相互依存関係が初めて生まれたわけですが、その時に文明開化した日本は、技術を厳密な学問に裏付けられたものと誤解し、もっぱら科学を「実用の学」として評価するようになった、という指摘はなるほどな、と(p.29-)。

 日清戦争の賠償金で京都大学が創られ、帝大が東京帝国大学にかわった1897年の頃には、理系の教育もほとんど邦人が当たるようになった。『物理学述語和英仏独対訳字書』の発行も88年。西洋で神学の素養がなくても物理学が習得できるようになったのも19世紀後半だった(p.57-)というあたりの連関も面白いな、と。

 電信は西南戦争で圧倒的な威力を発揮、薩摩軍の動きを大本営は前線から受け取ることができたわけですが、このため日清戦争前に釜山~九州の電信線を敷設。勝利後は釜山、京城、仁川、平壌を鉄道で結び日露戦争の兵站を確保したそうです(p.94-)。旧軍はモルトケに影響受けてたから、電信、鉄道の利用を進めたんだな、ということが分かります。

 京都大学は日清戦争の賠償金で創られたが、九州と東北の帝国大学は、足尾銅山鉱毒問題の非難をかわすため、古河鉱業が寄付したのもの、というのは知らなかったな(p.105)。

 今でも間組はトンネル工事で有名ですが、そのルーツが地理的には北朝鮮での水力発電だったというのも知らなかった(p.141)。朝鮮半島の北の分水嶺の西側にダムをつくり、山脈を貫通する水路で勾配の急な東側に水を落として発電、チッソを中心とする重化学工業コンビナートに送電する、と。工業面での当初の北朝鮮の優位性はここらへんにあったな、と。

 とにかく、日本が1941年に鴨緑河で稼働させた水豊ダムの最大出力は70万kwというのに驚きました。この発電量は原発並み。日本が世界銀行から借金して建設した黒四ダムの発電量は33.5万kwだから、その2倍の規模なわけですから。にしても、北朝鮮では日本語マニュアルで運用していると言われているけど、どうなんでしょ(p.141)。

 この水豊ダムなど、併合期のインフラは北に偏重していました。南は北への通過点みたいな感じのインフラ整備政策だったから、しばらくは北の方が優位だったわけだし、北朝鮮に投資が可能になったら、日本の資本がドーンと行くんじゃないかという予想も、ここら辺があるから…。

 南部=韓国側のインフラ整備は、釜山~平壌などの鉄道敷設とか、通過点みたいなものが多く、著者は鄭在貞の「国民経済の形成を歪曲し、現地人の主体的成長を抑圧」という部分を引用していたけど、南北一体で考えれば、整合性はなくもないというか。まあ、中国東北部が本命だったわけですけど。

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 哲学者とも思えない粗雑で主観的な一節と批判された船山信一は西田左派に属して治安維持法で逮捕されているから、この文章(写真参照)は転向後に昭和研究会で近衛に協力していた時期かな。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』はこの人の訳で読んだ。弟の子供が新しい歴史教科書の藤岡某なんですが…。

 1938年に厚生省が陸軍の主導で内務省から独立し、X線検査など結核予防システムが翌年から採用されたのですが、これも戦争が健民皆兵を必要としていたから(p.192)。

 食糧管理制度と国民健康保険制度が総力戦への動員を目的に導入されるなど、日本型経済システムは戦前から継承され、官僚制度も内務省以外は無傷で残った。産学に対する官の指導性という思想も引き継がれ、高度成長を実現、と(p.216-)。官の優位性思想は戦前の革新官僚から?なんて感じました。

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March 09, 2018

『ナポレオン』

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『ナポレオン』杉本淑彦、岩波新書

 なぜかバカ売れしている岩波文化の象徴のような『君たちはどう生きるか』に便乗してきたのかな、と一瞬思うほど岩波新書の新刊に『ナポレオン』が登場(『君たちはどう生きるか』を読んだことのある方には、なんでそう思ったかわかると思います)。マンガのように一気読みしてしまいました。

 ナポレオンの父はコルシカ独立派から転向したことで貴族となったという経歴を持ち、そのことにナポレオンはコンプレックスを持っていたとか、応用数学が得意だから弾道計算の必要な砲兵科に進んだとか、なるほどな、と。

 ジョセフィーヌは英雄としてのナポレオンをアピールするために有名画家に肖像画を依頼するなどで内助の功を発揮するのですが、一番有名なダヴィッドの肖像画『グラン・サン・ベルナール峠を越えるナポレオン』のサン・ベルナールは、英語読みでは「セント・バーナード」なのかと知る。

 本当のアルプス越えはラバに乗っていたらしいんですが、ダヴィッドの肖像画では、急斜面を馬が後ろ脚で立ち、岩にはハンニバル、カール大帝と並んでボナパルトの名前を刻むなど「徹頭徹尾、格好良くナポレオンを描いている」、と(p.147)。

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 また、イギリス経済に打撃を与えるために行った大陸封鎖は、かえってイギリスにアメリカとの交易を促して成長させてしまったとか。

  ナポレオンが派遣した遠征軍を撃退したハイチの黒人たちは、1804年、独立を成し遂げ、それによってナポレオンはルイジアナを売却するというつながりも。

 にしても、ハプスブルク贔屓からすると、ナポレオン強すぎて嫌い。しかし、ナポレオン率いるフランス軍に簡単に負けても、王妃を差し出して懐柔して、ナポレオンより100年以上、帝国を維持するのは流石といかいいようがないかも。「戦争は他の国にまかせ、幸福なオーストリーは結婚を」という有名な話しを思い出す。

 皇帝となって正妻、ジョセフィーヌに世継ぎを求めたナポレオンにはその時点で庶子が2人いたが、自らの法典で庶子の相続権を制限されていたので、ハプスブルク家のマリー=ルイーズと結婚、皇太子を得ることになります。

 東洋的には後宮をつくれば…と思うが、昔からの王権神授の伝統で、教会が祝福した結婚じゃないと厳しかったのかな、と。

 花組公演『カリスタの風に吹かれて』は、ほぼナポレオンがフランス革命前期において出身地コルシカ島に戻って果たした役割を元にしていることがよく分かる。フランス革命好きの宝塚ファンにはお勧めというか、宝塚にフランス革命の種は尽きない感じ。

 エルバ島に流されることが決まった時、いったん自殺を図っているというのは知らなかったな。

 本とは関係ない話しですが、ナポレオンのエルバ島脱出も2月26日だったとか。 あと、 ナポレオン3世、ボナパルト家の血筋ではないって結果がDNA鑑定によって出てしまったとのこと。ジョセフィーヌもナポレオンの不倫しまくりだからさもありなんだけど、全く似てなかったからな…。

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March 08, 2018

『脳の意識 機械の意識』

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『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰、中公新書

 なかなかスッキリ理解できないので、読んだままにしていたけど、このままにしておくと、さらに忘れるだけだと思い、書いてみます。

 この本は「意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いない」ということを言いたいために書かれ、その手法は左右の脳半球を外科的に分離して、片側に電算機を接続することだということで話題になりました。

 正直、そこまで来たのか、と。

 ただ、一読、ぼくのような素人が読んで、その驚きを縦横に味わえるかというと疑問。

 本書の前半はクオリアって凄い!ってことで、意識はクオリアがあることで担保されるみたいな言い方。しかし、そのクオリアも知覚がそのまま反映されるのではなく、脳が造り出したものであるということを、様々な錯視の例をあげながら説明します。

 中盤では、その意識がどこで発生しているかを脳の操作実験で探究していくわけですが、研究途中の課題のためか、とても整理されているとはいえないし、結論も出ていないが、意識の存在場所として提唱するのは情報ではなく、アルゴリズムという感じ。

 終盤はいきなり、意識の機械への移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるなるのはほぼ間違いないという主張のもと(脳科学は発展途上段階だから言ったもん勝ち、という感じで)、左右の脳半球を外科的に分離して、片側に電算機を接続することで二段階に分けて意識をコンピュータに移植することが可能だという手順が示されます。

 クリックの「あなたはニューロンの塊にすぎない」という言葉を噛みしめるべきというあたりは、なるほどな、と。感覚意識体験は原始的だが本質を全て内包しており、脳も所詮は電気回路にすぎないのに、なぜ脳を持つものだけにクオリアが生起するのか、という問いかけは新鮮でした。

 コンピュータには未来永劫実装され得ないと考えられる人もいる「クオリア」ですが、哲学と科学のあいだをさまよっていた意識を科学のまな板に乗せ、意識の自然則を解き明かそうという実験が日々行われていることの重さを実感します。

 といいますか、脳のどこにもブラックボックス(未知の仕組み)が隠されていないのに意識が宿ることが衝撃です。単に電気の流れ。

 だから機械の意識をテストする手法を示し、機械への意識の移植を見据えることができ、情報が意識を生むのだ、と。

 単なる電気の流れということでは、有名なリベットの自由意識の問題(行動の0.5秒前に実は意思されている)が、シナプスの発火量に原因があったということを知ったのが、この本で得た最大の知見です(p.146)。つまり、ある閾値に達して意思するには時間がかかるけど、その前にしばし行動が先んじる、と。

 これは別の本で読んだことですが、老人の痴漢は、対象を知覚して行動を起こしたしまったのを中断させるという決定が遅れるために発生するとか。

 とにかくセンス・オブ・ワンダーは感じさせてもらえました。

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February 02, 2018

『棋士とAI』

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『棋士とAI』王銘琬、岩波新書

 岩波新書の新刊では、アルファ碁の振る舞いについても書いてありそうなので『棋士とAI』を購入。著者の王九段は本因坊2期の実力者。

 驚いたのはアルファ碁が部分の攻防という概念を持たずに、常に全体を見ながら過去の棋譜や自己対戦から一番勝率が高いと思われる場所に打っていること。この驚きを囲碁を知らない方々にどう説明したらいいのか…。個々の局面での攻防などは考慮せず、人間の最強棋士が部分で頑張っても、真綿で首を締めるよう感じで圧倒していくという。

 ぼくはまさかイ・セドル九段がAIに破れるとは思ってもみなかったんですが、そのをイ・セドル九段破ったアルファ碁を改良して汎用性を持たせたマスターバージョンは人類最強棋士の柯潔に圧勝。さらに、これまでは人間の棋譜などで学習してきたのをやめて、ゼロからの「教師なし学習」というディープラーニング手法に変更したアルファ碁ゼロは、柯潔を圧倒したマスターバージョンに100戦して89勝するまでになっています。少し安堵できるのは、その打ち手が人間が長年構築してきたものと似ていはいるんことですが、とにかく人間は師でなくなった、と。

 もう、囲碁を強くする方向では開発していないようですが、アルファ碁ゼロは人類最強棋士より3子強いと言われています。これは、100メートル7秒の記録だと王九段は喩えます。つまり、人類には到達不可能な領域だ、と。

 それ以上に重要なのは、アルファ碁によってAIの開発方向はディープラーニングに絞られたこと。

 さらに《説明ではないものを人間はだいたい「感覚」という言葉でそれを言い表しますが、ディープラーニングはその感覚を学習できる》らしいこと(p.5)。ただし「それをどうして覚えられたかが説明できない」というか、認識を獲得する過程は追跡できないそうです。

 これは ヴ ィトゲンシュタインの言語論に似ているな、と(数列の並びから規則=ルールを理解できれば、言葉が理解できたとことになり、数と言葉は同じ起原を持つ、みたいな。つまり、人間が数列を理解しなければ、数列は存在しない。規則=ルールは、この世界を世界たらしめている、究極の根拠となっている、みたいな)。

 アルファ碁ゼロは以前のバージョンと比べ、仕組みがさらにシンプルになって、そのアルゴリズムは美しいそうです。柯潔戦後、開発者であるハサビスはAIの能力が人間を超えたことで敵意を持たれることを警戒し、「人間とコンピュータが競わない時代」を強調し、世界は「どうAIを乗りこなすか」に視点が移った、と。

 ぼくは初段あるかないかのザル碁打ちですが『棋士とAI』で一番驚いたのは、アルファ碁が勝負を決める「地」の多さの予想(読み)で形勢を判断するのではなく、この局面は勝率n%である、と判断していること。局面の判断に、シミュレーションによる評価を加味して、勝率が一番近い手を選んで最後まで打つというんですが、実は人間の囲碁では確率は全く使われていなかったんです。

 逆に重視されていたのが部分。

 人類がアルファ碁に勝利した最後の戦いとして記録されるであろうイ・セドルとの第四戦。イ・セドルが放った予想外の割込みで、アルファ碁は唯一の敗北を喫したが、それは予測不能な事態が発生し、敗北が必至になった時に、ヒトがよくとる「いつか何とかなるかもしれない」という先送り戦略だった、というのも興味深い(p.62)。

 実はイ・セドルの割込みは成立していない手で、相手が人間ならばすぐに敗着につながる手だったんですが、アルファ碁はそれまで過去の棋譜を過学習していたので、見落としていた、と。都合の悪いことが起きたため、それを視野の外に追い出してしまったため、明らかに悪い手を連発してしまう「水平線効果」で負けた、と。

 人間は「ねばってもムダ」という常識を持っているから、囲碁ならばすぐに投了するんですが、実生活では違った「問題の先送り」的な態度をとりがちなのはセイラー行動経済学でも実証済み。つまり、AIにあらわれる「水平線効果」は実に人間的な態度だ、と。

 将来、量子コンピュータによって10の360乗という囲碁の変化が全解析されるかもしれないそうです(宇宙の原子数は10の80乗)。人間は囲碁に強さ求めてきましたが、それを極めた時の虚しさが見え始めたわけです。だれが必勝パターンがわかっているゲームを面白がってやるでしょう。だから、実は今こそ、勝利を目指す行動パターンを考え直す時がきていて、それは囲碁に限ったことではない、というあたりはなるほどな、と(p.164)。

 著者の王さんは台湾生まれで、14才で日本に来て、一番驚いたのは、日本人が考える人間の基本が「他人を築きつけてはいけない」と言われたことだとしています。それまで台湾では外敵をやっつけるのが使命だと教えられてきた、と。

 日本のプロ棋戦では終局後の検討で敗者に少し譲ります。「そう打たれていたら、こちらが悪かったかもしれませんね」と。それは囲碁の真相が分かってないことからくる自制なのかもしれない、と。

 『棋士とAI』読んでいて、アルファ碁から復活しつつあった囲碁愛が再燃。学生の頃から始めた囲碁だけど、今日、初めて日本棋院の会員となりました。kiin Editorで棋譜を並べるのが目的の無料の情報会員だけど、なんか感動。

 江戸時代の本因坊道策の棋譜を並べてみたくなりました。あと、高川格名誉本因坊の棋譜。

 韓流ドラマって観たことがないので、《御曹司の父が創業者で、囲碁が趣味というのが定番になっているように、碁を打つ人は「できる」イメージがもたれています》って知らなかった(p.31)。

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January 20, 2018

『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)』

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『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)』 川本芳昭、講談社

 今年は講談社の『中国の歴史 全12巻』のシリーズを読もうと思います。10年ぐらい前に完結したシリーズなんですが、現役時代は時間がなくて読めませんでした。

 最初に『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝) 中国の歴史5』川本芳昭から読み始めたのは、趣味で中国の南北朝を研究していた雰囲気のあるお偉いさんが、飲んでいる時に「南北朝には汲めども尽きせぬ魅力がある」と話してくれたことを覚えていたから。

 読み終えて、その面白さが実感できたのは、この時代はタイトルにもなっている「中華の崩壊と拡大」といいますか華夷秩序の変質と中華思想の浸透が日本、朝鮮半島を含めて起こっていたのが分かったから。

 ちなみに三国志の時代は邪馬台国に重なりますが、魏晋南北朝の時代を通じて日本列島の政権は中国の華夷秩序の中に組み込まれていきます。

建武中元2年(57年) 後漢の光武帝が奴国からの朝賀使へ冊封の印として金印を賜う
西暦107年 後漢に帥升が朝貢
中国は後漢崩壊の混乱。日本列島も大乱に。中国では魏晋によって収拾。日本列島と中国の交流を遮断していた遼東半島の公孫度が魏によって滅ぼされ交渉再開
西暦239年 魏の曹叡帝が邪馬台国の卑弥呼に対して「倭王」の封号を与える
正始8年(247年) 邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、宗主国の魏から張政が派遣され攻撃中止を命令
266年以降 中国王朝への使節派遣は413年まで途絶
西晋末に起こった八王の乱、永嘉の乱などにより混乱、五胡十六国時代に
413年 南燕が410年に滅び倭国が東晋に使節派遣再開。同じ年に高句麗も使節派遣再開。倭の五王は山東半島まで勢力の伸びた東晋に高句麗の牽制を期待。
420年 東晋が滅亡
421年 倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使

 ワカタケル(雄略天皇)に同定される武は達意の文章で「あなたの臣下としての私は身分は低く愚かですが(臣雖下劣)」と述べていますが、稲荷山鉄剣銘文では「治天下大王獲加多支鹵(ワカタケル)」と書いています。これは、中華思想が変質を伴いながら徐々に日本列島にも浸透、小さいながらも中華を支配しているという考え方をもらたした過程を表している、と(p.300)。

 また、倭の五王は高句麗や百済が大将軍の称号を得ていたのに対抗しようとして、安東大将軍の名称を求め、ワカタケルの時代になって、ようやく得ることができた、というのもなるほどな、と(p.304)。

 年表を見て、勝手に想像をたくましくしてみると、後漢が滅ぶキッカケとなった黄巾の乱が発生した184年頃は、全世界的に進んだ紀元後百年から気候の寒冷化によって、ローマでは疫病、中国では飢饉、日本列島でも倭国の大乱、朝鮮半島でも高句麗、新羅、百済が三つ巴の争いを続ける不安定な状況が生まれていることがわかります(ついでに書き加えますと、インドではナーガルジュナが現れて大乗仏教の中心的思想である「中論」を著しています)。

 中国史、東アジア史に引きつけますと、後漢が滅亡し、三国時代でも決着がつかなかった漢民族の中華思想は、実態として北方民族によって打ち砕かれ、夷狄をも中原の覇者となれるように変質していきます。そして、その中華思想は朝鮮半島、日本列島にも及び、周辺国でもこじんまりとした中華思想による支配が生まれるようになる。それが「中華の崩壊と拡大」なんだ、という感じ。

 三国~南北朝時代は北方の夷狄だけでなく、今のベトナムあたりの南方の諸民族も《戸籍につけられて税を納めさせられる良民としての身分を持つ新たな「漢民族」となった》といいます(p.186)。しかも、南方では貨幣経済が発達し、銅が不足するほどだった、と。日本はヤマト王権がやっと成立したぐらいの時代なのに中国は凄いと思うと同時に、今でも続く中国の南北問題の原因は、この時代からつくられるんだな、と。つまり、北京を中心とした政治、上海などを中心とした経済の分離。

 また、揚子江以南は漢民族の文化の揺り籠ともなります。梁の武帝は下級貴族の出で、深い学識と午前二時に起きて政務を行うという経世済民の責任感にあふれていたそうで。彼の編んだ『文選』は日本の文学や政治にも影響を与えています(十七条憲法も文選から引用されています)。

 朱子学の創始者、朱熹は福建省の生まれです(p.192)。福建の名は福州の「福」と、北西部の建州の「建」から成っており、その名称は福建の地における漢民族拡大の歴史過程を保存しています。朱熹は南宋時代の福建に生まれましたが、その福建は都が杭州臨安府に移されたこともあり発展していきます。福建は山がちだった地ですが、そうした地も朱熹を産む先進性を示すようになっていった、と。

 この時代まで、仏教は漢民族の社会に受けいれられておらず、かえって北方の夷狄の王朝が「外国の宗教だから、夷狄の我々が信仰しやすい」ということで広まっていきます。そして、南朝でも貴族出身である武帝が信仰(というより仏教狂い)したことで、公認化されていきます。

 仏教狂いになる前の武帝の時代は「南朝四百八十寺 多少の樓臺煙雨の中」と杜牧が歌う隆盛を誇っていました。先祖に対する祠祭の供物(血食)を、仏教における不殺生戒に反するとして果物などに変えるぐらいでしたらよかったのですが、やがて国家儀礼を仏教に則って行なおうとするだけでなく、仁政を単なる性善説で行なおうとするなど姿勢が弛緩。やがては裏切りにあって憤死します。

 日本の仏教は中国の仏教を輸入したもので、オリジナルのものではありません。それは中国の先祖崇拝と結びつけられ、儒教思想にも適合されて土着したんだな、ということが改めてよくわかります。実際、空海さえも、梵字が読めたわけではなさそうです。いわんや鎌倉仏教などの開祖をや、という感じでしょうが、あまり深くはしりません。

 ちなみに、先祖に対する祠祭の供物を果物とし、先祖崇拝に結びつけたのも武帝です(p.152-)。

 北の方に目を向けると、倭の五王が南宋に遣いを出した北に北魏があったわけですが、北魏の孝文帝はヤマト王朝が採用した班田収授制に影響を与えた均田制を創始したとか(p.102)。この北魏は漢族からすれば夷狄による建国なんですけど、どっちにしても中国からの影響は絶大すぎです。

 また、鮮卑が天を祀る「祀天」は匈奴の「龍会」、モンゴルのクリルタイにつながる儀式で、日本では大嘗祭にも関連するとか(p.218)。

 このほか、三国時代を終息させて中国を再統一に導いた西晋の司馬炎の息子、司馬衷は無能で、戦乱で穀物がなく民が飢えていると聞いて「なぜ肉入り粥を食べないのか」と言ったとか。「東洋のマリー・アントワネットかよ」と笑いました。バカな王族というのは洋の東西を問わずにいるな、とwつか、一応、こっちは皇帝なのにとか(p.54)。

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January 05, 2018

『ギリシャ人の物語』が「III 新しき力」で完結

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『ギリシャ人の物語III 新しき力』塩野七生、新潮社

 ローマ人の物語から毎年、年末は肩の凝らない塩野さんの本を読んで息抜きするのが楽しみでした。中世ヨーロッパを描いてデビューした塩野さんが、普遍のヨーロッパの原点ともいうべきグレコ・ローマンの歴史を描いて「歴史エッセイ」を閉じることになったわけですが、資料が多くのこっているとはいえ、その膨大な仕事量には改めて凄いな、と思います。

 この『ギリシャ人の物語III 新しき力』はアテネの凋落とペルシャの傭兵となってしまったスパルタ、それをいったんは打ち破ったテーベの没落で、ポリスとしての古代ギリシャに人材が枯渇したところに、僻地だったオリンポスの北にあったマケドニア王国がフィリッポスから隆盛となり、息子アレクサンドロスがインド王までをも征服する過程を描いいています。

 「新しき力」というのは、アレクサンドロスがペルシャからインダス河流域まで制服し、各地にアルキサンドリアと名付けた都市を建設、通貨も統一して(貨幣に横顔を彫らせたのは彼が最初とか)ギリシャ商人などが行き来することによって、ヘレニズムという新しい世界が現出したことをさすと思います。後にカエサルがブリタニアを征服しますが、大航海時代が来る前のヨーロッパ社会にとって、世界とはインドからイギリスまでのことを指していました。アレクサンドロスはそうした「世界」をつくりあげたことになります。

 それまでのアッティカ方言ではなく、コイネーがギリシャ語の共通語になり、オリエントの宗教であったユダヤ教も普遍と出会うことによって、変わっていくことになります。ユダヤ教社会は、いったんセレウコス朝が弱まった時にマカバイ戦争によって、その軛から逃れることはできましたが、やがてはローマというより組織的で合理的な普遍社会によって征服され、ユダヤ戦争によって神殿を中心とした旧来のユダヤ教は根拠を失い、1900年間はディアスポラの宗教となり、民俗宗教としての性格も元々の中近東から東欧などに広がることで変質していきます。もちろん、この過程でキリスト教も生まれるわけです。

 こうした変化は、アレクサンドロスのインフラ整備とともに、彼が奨励したギリシャ人部将とイラン人貴族の女性との結婚によって生まれます。セレウコス朝はギリシャ人武将のセレウコスが起こし、エジプトのプトレマイオス朝も現実主義者でエジプトを支配することだけに満足したプトレマイオスが建てます(クレオパトラはギリシャの女性の名前)。

 アレクサンドロスは彼の帝国の中心としたスーザとエジプトをペルシャ湾~インド洋~紅海で結ぶことを構想し、そのためにもアラビア半島を征服しようとしましたが、常に最前線で戦っていた彼の身体は満身創痍の状態となり、32歳で夭折します。彼が征服できなかったアラビア半島はグレコ・ローマンの世界には入ってこない状態が続きますが、やがて、そこからイスラムが生まれるというのも示唆的かな、と。

 情けないことに、ギリシャの古典にはまだまだ未読のものが多いのですが、そうした中でもソクラテスの弟子、クセノフォンがスパルタがそそのかされて大失敗したペルシャからの逃避行を描いた『アナバシス 敵中横断6000キロ』は未読なので、読んでみようかな、と。

 プラトンはアテネの市民だから土地を購入してアカデミアをつくることが出来たが、余所者のアリストテレスは土地を購入する資格がなく、リュケイオンの土地も借りていたというのは知りませんでした(リュケイオンが高等学校を意味するフランス語のリセ、イタリア語のリチュオに続いていることも)。

 テーベがマケドニアの父子が参考にする歩兵と騎兵の有機的運用を産みだしたというのも知りませんでした(p.77)。しかし、小国テーベはペロピンダスとエパミノンダスが死ぬと衰え、やがてはマケドニアに滅ぼされます。フィリッポスはマケドニアと同盟を結び、その証としてフィリッポスは人質としてテーベに赴き、こうした戦術を学びます。

 都市国家のポリスからすれば、王制のマケドニアは野蛮な国だったようですが、やがてフィリッポスが全ギリシャの盟主となります(フィリッポスが王となって3年後にローマは「リキニウス法」で貴族と平民の抗争に終止符を打ちます)。

 フィリッポスはホプリーテス(重装歩兵)の要員を農民層まで拡大、槍も長大化させファランクスとして大型化。ポリス連合国を打ち破ったカイロネアの戦いでは、アテネ軍に対するフィリッポス指揮軍、中小ポリス連合に対する副将パルメニオン軍とテーベ軍の間にできた隙間をくぐり抜け、弱冠18歳のアレクサンドロス率いる騎兵部隊が後ろに回り込んで挟み撃ちして勝利、マケドニアに覇権が確立されます。

 七海さんは、カエサルを描いた二巻で、畢竟、戦闘というものは、相手を挟み撃ちにすれば勝てるもので、そのためには敵の猛攻を耐える防御部隊が支えている間に、機動力を活かした騎兵が挟み撃ちにする、と書いていたと思います。この戦法は、基本的には第一次世界大戦まで続くことになります。そして、『ギリシャ人の物語III 新しき力』では《ミもフタもない言い方で言えば、戦闘で勝つ方法は一つしかない。味方はパニックに陥らないようにしながら、的をパニックに陥らせることにつきる、のである》(p.250)と書きます。つまり、挟み撃ちにして、背後を突かれた敵をパニックに陥らせる、と。

 グラニコス、イッソスの会戦で勝利したアレクサンドロスは、ギリシャとの補給路を万全のものとするため、フェニキア海軍を頼みにパレスチナ沿岸で唯一、降伏しなかったティロスを攻め落としシーレーンを確保します。

 ガウガメラで三度、ダリウスを破ったアレクサンドロスは現代でいえばアフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン。タジキスタンなど、ペルシャにとっても不安定要素となっていた難治の中央アジアの制覇に向かいます。アレキサンダーの時代から、難治というか腹面背従という土地柄らしいのは笑えます。変わらないな、と。その地で味方についた部族長の娘ロクサーヌと結婚しますが、子どもが生まれたのは死後で、この本には書かれていませんが、幼友達でもあったヘーファイスティオンを愛していたようです(父が破ったテーベの神聖部隊も全員がゲイみたいです)。

 アレクサンドロスはアリストテレスから教えを受けたことでも有名ですが「非ギリシャ人(野蛮人=バルバロイ)は動物か植物とでも思って接するべき」という教えには従いませんでした(p.187)。まあ、確かに「野蛮人どもをギリシア人が支配するは当然なり。 野蛮人と奴隷は本来同じだからである」( 政治学』第1巻第2章1252A31B9)と語っていますが、アレクサンドロスはアリストテレスの自己拡張的なフィリア(同胞愛)による閉鎖性の壁をも破ったのかもしれません。

 それにしても、アレクサンドロスの東征は父の暗殺による急死を受けた21歳からスタートし、しかも、資金繰りもままならない状態で進められたとは(p.203)。

 アレクサンドロスは父フィリッポスが創造したファランクスから、現代で言うならば海兵隊的な身軽な特殊部隊「ヒパスピスタイ」をつくり、機動力を活かした戦いで四度の会戦に勝利し続けます(p.206)。

 アレクサンドロスが東征でペルシャを滅ぼすのは、今はトルコ沿岸部となっているレスポス、ミレトス、エフェソス、ロードスなどがギリシャ文明の生みの親でもあるですが、当時は海岸部と内陸部は今のように有機的には結びついてはいなかったんでしょうね。アレクサンドロスが東征したルートは、300年後、パウロがキリスト教を携えて歩き、航海することになります。
 
 29歳でインド王ポロスをヒダスペスに破りますが、それ以上の東征は兵士たちに拒否され、テーベへの帰路につきます。アジア入りしたアレクサンドロスの第1戦はグラニコスの会戦は、グラニコス川の両岸に開けた平原で行われましたが、最後の会戦もヒダスペス河畔。といいますか、地形的に大軍同士の会戦は川が削った両岸とか、扇状地になんじゃないかな、どうなんでしょ。

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December 28, 2017

今年の一冊は『日本人のための第一次世界大戦史』

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 毎年、新刊書のベスト5ぐらいをアップしていたんですが、今年も点数はそう読んでいないのですが、年末の行事のようにやってみたいと思います。

 今年は日本中世史に関する本が脚光を浴びました。『応仁の乱』呉座勇一、『観応の擾乱』亀田俊和といった若手の研究者のほか、『享徳の乱』峰岸純夫などベテランの研究者の本も注目を集めました。ぼくが学生時代、中世史、特に室町時代は資料が少なく研究が進んでおらず、佐藤進一の著書が公認史観のようになっていたと思います。ところが、僧侶の日記などの読み込みが進み「国民国家の形成へのステップとして歴史を読みこむ」というヘーゲル以来の史観から自由になって、あるがままの出来事から再構成する、というスタンスが出てきたな、と。

 こうした傾向は『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎にも感じられたな、と。ロシア革命に関する本はトロツキー、カー、リードもレーニン無謬説が前提だったように思いますが、池田嘉郎さんは2月革命の可能性を検証するという立場。ぼくも昔ながらのロシア革命史観だったので、ケレンスキーはダース・ベイダーのような悪の権化のような印象を持ち続けていたのですが、当時、35歳だったというのに驚きました。子どもじゃないか、と。

 こうした流れと比べると、岩波新書のシリーズ中国近現代史シリーズの掉尾を飾る『中国の近現代史をどう見るか』西村成雄は、まだ中共史観の影響があるかな、と感じます。というか、まだ中共はブロセスの途中なんだな、と。

 ウィトゲンシュタインは相変わらず新刊が出れば読んでいます。今年は『秘密の日記』『ラスト・ライティングス』を読みました。論考7の「語ることができないことについては、沈黙するしかない」は"命題ではない"ということなのか、と最近よく見ているNHK高校講座の数I「命題と集合」でわかったぐらいですから、なさけないのですが、これからも読んでいくだろうな、と。

 あとは佐藤賢一『小説フランス革命』など、フランス革命の本も再読を含めて読みました。フランス革命史は明治維新と同じように付与曲折を経て進むんですが、整理すると内外の反革命勢力の脅威高まる→ブルジョワジーと民衆、農民の同盟を唱えたロベスピエールが山岳派独裁による徹底路線をとる→旧体制一掃→民衆や農民の要求を飲もうとしたロペピエールがテルミドールで葬られる→資本主義の発展に適合したブルジョワ革命完成、みたいな。王党派だけでなく、民衆の暴力にも対抗しなければならなかったブルジョワジーは結局、ナポレオンの武力に頼るわけです。しかし、「貧しい農民や手工業者の生きる権利が高く掲げられたフランス革命の93年の段階があったからこそ、その生存権という考え方は、日本国憲法の第二十五条「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条項にもつながっているのであり「現代日本の私たちは、あの恐怖政治の血まみれの手からの贈り物を受けているのです」(『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬、p.169)ということは忘れられてはいけないし、世界史からロベスピエールを削るなんていう話しは暴挙だな、と。

 ということですが、今年の一冊は『日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか』板谷敏彦、毎日新聞出版にします。帝国陸軍の暴走には統帥権が関わっていたということは多くの方が知っていると思いますが、その統帥権が生まれた背景には、明治政府が範としたプロイセンのモルトケ参謀総長による通信と鉄道を使った作戦が余りにも見事に決まったからだ、という背景を知りました。

 このほか年末年始に読まれるのでしたら、以下の新書五冊をあげたいと思います。

『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書
『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田俊和、中公新書
『ロシア革命』岩波新書、池田嘉郎
『ウニはすごい バッタもすごい』本川達雄、中公新書
『応仁の乱』呉座勇一、中公新書

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『享徳の乱』

Kyoutoku
『享徳の乱』峰岸純夫、講談社選書メチエ

 ちょっと読みにくかったけど、三章から面白くなってきた。関東の大乱で都の寺社が所有する荘園が、在地領主の年貢未進で不知行化。武士でも遠くに散在している所領は失われるが、本領を中心とした一円所領化が進展し、結果的に兵農分離も進む、という構図が見えたから。

 とはいっても亀田俊和さんによると、寺社は遠方にある荘園を年貢の半分を与えるというような条件で経営していたということらしいんですが。

 また、豊島、太田、千葉、佐野、小山、宇都宮、那須、里見など現代にも続く地名は、当時の有力氏族の名字からとられたんだな、と。関東の場合、室町時代から、それまでの寺社の荘園という無名の地から、「戦国領主」が治める本当の歴史が始まったみたいな。

 応仁の乱は、享徳の乱を収拾できない義政・忠勝に、上野経営を通じて関東の情勢に詳しい宗全が和議を進言したのに聞き入れられず、衝突したのではないか、みたいなみたて(p.112)。京都在住で在地に問題を抱える大名家にも亀裂が入って、ということで…この後は下克上の世の中になっていくわけですが、太田道灌みたいに優秀だと主君に殺されたりして。

 鎌倉時代から続いた上部権力に頼ることができなくなった国衆は、実力を持って所領を支配、経営するようになり、世界に誇る封建領主たる戦国大名が誕生する、というわけですが、享徳の乱から戦国の終わりを画する小田原攻めまで140年なんですよね。

 この間、国衆が政治倫理を磨き、経営能力も高め、領民たる農民を保護していったわけですから、日本人の「お上」を信用する意識というのは長い歴史を持って射るんだな、と。

 江戸時代も農民は士農工商で二番目の地位だったわけですが、ロシアとかスウェーデンとか農民は君主の言いなりで兵隊にとられたりする農奴ですからね。

 明治維新では自らの特権を捨てて四民平等を形の上では整えたわけだし、太平洋戦争の一時期だけは酷かったけど、まあ、冷静に考えたら今につながる日本の歴史が始まった室町時代以降、政治はそう悪くなかったのかもしれないのかな、と。

 《旧約聖書(レビ記)によれば、西欧古代において人間の罪業の身代わりに選んだ山羊に罪を着せて荒野に放つことがおこなわれ》とあるのにはガッカリ。旧約が成立したユダヤの地はオリエント(p.61)。講談社メチエの編集者も訂正してあげればいいのに…。

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