書籍・雑誌

March 21, 2019

『軍事の日本史』

『軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル』本郷和人、朝日新書
 遠征に備えて花粉症の季節でも肩の凝らない本を、ということで、新書を量産している本郷先生の『軍事の日本史』をチョイス。
 相変わらず、東大史料編纂所で『大日本史料』を編纂している史学保守本流の大教授とは思えない軽妙な書き出し。
 史料編纂所で講義、ゼミを持たなくていいという特権を確保しているから、執筆、テレビ出演などもこなせるんだな、と思うと同時に、本郷さんへの嫉妬をたぎらす先生方の気持ちもわかるw
 戦国時代は生き残ればしめたもので、信玄のように一生かけて信濃一国を奪えば後世に名を残す。しかし、信長は尾張をまとめるのに時間はかかったが、34歳までに美濃、北伊勢という列島の中でも生産性の高い土地を領地に組み込んだ。信玄の60万石に対し合わせて150万石というあたりは説得力があります(p.79-)。
 武田信玄がやったことといえば、北信濃の領有を巡って謙信と戦ってなんとか確保した、という感じですから。しかも、生産性はあまり高くないという。
 戦国時代の兵力は百石で2.5人が養えるから、40万石でざっくり1万人。しかし、それは農閑期の農民も動員してのことだから、幕末のように兵農分離が進んで250年もたつと薩摩でも4000人程度になるという数字のリアリティは説得力があります。
 東大史学で佐藤進一、石井進の系譜を継ぎ五味文彦先生に師事した本郷和人さんですから、観応の擾乱から「将軍権力の二元論」(軍事と政治の二つから成り立っているが軍事の方が優先される)についてページを割いてキッチリ説明しているのは、最近の若手研究者たちからの批判への苛立ちか?と微笑ましくなります(p.107-)。
 さらに呉座『応仁の乱』について《地味な戦いが、何の目的もなくただダラダラ続いた》と要約。《戦国時代の戦いに比べて、室町時代の戦いは、一言で言って「ぬるかった」》と亀田『観応の擾乱』に続いて、中世史のベストセラーをdisり気味に紹介してから持論展開。なんとも面白い(p.139-)。
 確かに本郷先生は毎月のように新書を出していて、さすがに書きすぎなんじゃないかとは思いますが、例えば、曳馬という地名を不吉として浜松に名を変えた家康は、湿地帯で「汚れた土」という意味の「江戸」は変えなかった。それは厭離「穢土」の旗印に通じるから(p.243)というあたりはうなりました。家康は利根川を付け替えて銚子に流すようにして広大な水田地帯を作ったんですけど、そこには経済合理性とは別の精神性もあったんだな、と。
 とにかく呉座、亀田という若手研究者の著作をdisり気味に紹介して佐藤進一、石井進の本流への批判を再批判しているんですが、あとがきではさらに網野善彦先生の『無縁・公界・楽』を実は「あ、これは『強い人』の歴史観だ!」と網野財閥出身の善彦先生が一番嫌うような批判の仕方で切って捨てています。
 東大史学への批判は許さじということでしょうか。
 そんな下世話なことも含めて実に面白い本であることは間違いありません。

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March 02, 2019

『記憶の肖像』

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『記憶の肖像』中井久夫、みすず書房

 中井久夫さんのエッセイ集で唯一、未読だった『記憶の肖像』を読み終えました。これで中井さんのエッセイは全て読了。これまで、何回か読もうと思ったけど、最初のエッセイ集ということで、まだ、文章が硬い感じがして、敬して遠ざけていたんですが、やはり面白かった。

 白眉は「意地の場について」の考察でしょうか(p.251-)。

 《精神科医が「意地」に出会うのは、なぜか、私の場合、遺産分配に関係していることが多かった》というかき出しから、遺産配分は遺体解剖の雰囲気に似ていて、それは故人の遺体を共食するという儀礼が多くの民族にあり、葬式の際の食事はその名残りだ、というあたりから引きつけられました(喪失感、別離感の処理作業として共食は発生したのではないか、とのこと)。

 日本の場合に多い父の遺産配分はカイン・アベル的葛藤の場であり、パラノイア、強迫症、抑うつというエディプス期以前の力動態勢が前面に引き出されやすくなる、と(エディプス期を成功裡に突破した人は病理を露呈する確率は低いとも)。それは損得という、正義や善悪にもとづく議論より、成熟したものだから。

 さらに、夫の妻など《分配に対する発言権はないが、分配を受ける者に対する発言権を持っている配偶者》など陰の人間関係もつきまとうことで事態は混沌としていきます。

 《フロイトは、貰う資格がないのに巨額の遺産が舞い込む幻想をユダヤ人にはあると指摘して》いるそうですが、《宝くじなどを買う心理には、それに通じるものがあるだろう》というあたりはうなりました。

 普段、自分はお人よしで強く自己主張ができないと思っているような夫が妻から「誰それさんにしてやられないようにね」などとハッパをかけられると、意地を発動しやすくなる、そうですが、まるで目に浮かびます。こうした《人を操作したい人が。遺産分配だけでなく、多くの、例えば損害賠償の場にいて、事態を途方もなく紛糾させ》る、と。

 江戸時代に『忠臣蔵』や『佐倉惣五郎』は、意地を浄化(カタルシス)したいという民衆の願望に支えられて繰り返し上演されたのだろう、と。

 遺産分配の場で「もう損得ではない、意地だ」と言い出されたら、賢明な仲裁者は手を引くだろうし、精神衛生を考えたら、多少損をしても、これ以上は骨折り損だと考えて早々に場を去る人間がもっとも賢明だ、というも納得。

 逆に高額を得た人間は小さな会社を設立してすぐ破産したりするのは、罪悪感を拙劣に消費することで精神的安定を得ようとするからではないか、というあたりも納得的。後は大きな庭石を買う人もいるそうで、なんとなく気持ちは分かります。

 落語「三方一両損」の話しは、大岡越前が紛争に介入することによって心理的水準では当事者になったことで、わざと一両を損することによって帳尻をあわせるという高度な心理的理解がある、というあたりの議論にもうなりました。

 ぼく自身の体験からしても《一年を越えたら紛糾にメドがなくなり》弁護士費用の方が多くなる、というのは遺産分配だけでなく当てはまると感じます。

 また、調停者は「時の氏神」という言葉のようにタイミングが大切だとか、意地には「甘え」の否認を誇示している面があるというのも納得的。「無言電話」などの嫌がらせは、天罰が信じられなくなった現代において、「あなたに恨みを持っている人間がいる」というのをわからせるためとか、精神科医には患者が「離婚したい」と言ってきたら「それは精神科医の問題ではない」と突っぱねるという申し送りがあるとか、意地は江戸時代の話しが多いのは絶対の強者がいない状況では颯爽とした自己主張ができなかったので、屈折した美学として共感されたのだろうとか、というあたりも。

 そして最後は、日本が外交下手なのは意地の文化があり、日露戦争でたまたま成功してしまったという体験があるのもよくない
というあたりの話しになっていきます。日本の意地は片意地であり《太平洋戦争などは、片意地で始まったもの》というのも納得的。

 さらに「治療にみる意地」が続きます(p.268-)。

 《われわれにおける意地は西欧における自我というのに近い》という佐藤忠男さんの言葉を紹介し、どこか江戸の風が吹くような感じのする意地は、「こだわり」というプラスの意味を持つようにもなった、と。
 
 また、意地というのは元来、茨の道を行く自分を励ますなど窮地を正面突破するための心理的技術で、そのために視野狭窄も起こるのだろう、と。

何回も苦痛を訴えて同じ手術を受けるような人は、漢方医学で壊病(えびょう)と呼ばれる、治療をあれこれ加えた結果、何が何だかんだ分からなくなってしまった病気。始まりの病理さえ見当もつかなくなり、精神科で(境界例」と診断されてしまう可能性も(p.274)。

 このほか、「私の入院」で《人間には自由を奪われると子供に近づくということがある》という話しの中で、日本社会の合意は《箇々の条文をはっきり挙げてではなく、まったく包括的なものだ。していいこととしていけないことの一線は微妙だ。その上、建て前としての規定と絶対許されぬこととがある》として、子供はそこがわからない、というあたりも面白かった(p.208)。

 《医者(あるいはナース)とは、患者に愛をむけるのではなく、愛の対象となることに耐える存在である》。患者は《「愛」を是認し受容してほしいのである。「愛」といえばわかりにくいだろうが、「甘え」》《是認し受けとめたという微かなサインをもらうだけで十分》というあたりは、ファン心理を見事に説明してもらった感じ(p.209)。

 ロシア人のプーシキンに対する畏敬はほとんど神に近いというあたりを読んで、そういえば、プーシキンの娘が『アンナ・カレーニナ』だったな、と思い出しました。プーシキンの妻、ナターリアはロシアでも歴史に残る美人。そうした妻を持ったことも伝説を生んだ要因なのかも、とか。

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February 27, 2019

『承久の乱 日本史のターニングポイント』

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『承久の乱 日本史のターニングポイント』本郷和人、文春新書

 ぼくみたいな素人からすると、本郷和人さんの議論は東大の先生らしからぬ素晴らしく分かりやすさだと思うんですが、呉座さんとか若手の研究者からなんで目の敵にされるのかわからない感じがします。

 鎌倉幕府といいますか、関東における武士政権の成立というのは、在地領主による支配によって、日本の歴史を他のアジア諸国から画する出来事だと思います。

 それは「武士の、武士による、武士のための政権」であり、当初の「源頼朝とその仲間たち」から承久の乱を経て「北条義時とその仲間たち」という政治体制に変わっていった、というのがサマリー。

 当時の関東はホッブス的な「万人の万人に対する闘争」であり、在地領主=農民である武士たちは深刻に安全保障を求めていた、と。それは、朝廷の役人である国司や寺社などとは違って領地争いの時など《困ったときにすぐ駆けつけてくれ、実力行使を厭わない「上司」》。頼朝の傘下に入れば、土地が安堵され、さらには領地を広げていくことも可能かもしれないから関東の武士たちは団結したわけです。

 頼朝が挙兵して、伊豆の目代を打ち取った時の総勢は90人。北条時政も命をかけた戦いだったので目一杯頑張って掻き集めたのですが、時政が動員できたのは50人だったそうです(p.33-)。しかし、それでも、関東の武士たちは頼朝に賭けたわけです。

 それは関東の在地領主である武士にとって、大切なのは、領地争いの困った時に大勢の仲間と駆けつけてくれる親分グループだったから。富士川の戦いの後、京都を目指す頼朝を諫言した関東武士たちは、同じ源氏の佐竹氏などを平らげて、東国の新秩序を樹立することを求めました。それは朝廷=国衙の排斥。親の敵である平家討伐よりも、頼朝は関東の在地領主たちのニーズに応えて鎌倉にとどまることを選択しました。

 p.37-で紹介されている男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)は知りませんでした。武士は庭先に生首を絶やすなと言われ、屋敷の前を乞食や修行者などが通ると、狩の獲物のように矢で射たり、追いかけて捕まるものだ、と書かれています。武士の野蛮さとともに、まさに「万人の万人に対する闘争」状態をあらわしていると思います。

 坂井孝一先生の『承久の乱』でも中宮(皇后とほぼ同格の天皇の后)とか、乳母子(めのご、乳母の実子)などの母系の固有名詞の多さから日本は母系社会だな、と感じたのですが、本郷先生の『承久の乱』でも、この時代における結婚によって生じる結びつきは重く《ある家が幕府に対して謀反を起こしたら、その家から嫁をもらった武士もいっしょに幕府と戦わねばなりません。娘を誰と結婚させるかは究極の人事でもあり、同盟の締結でもあった》という指摘にはうなりました(p.67)。

 土地制度に関しては、源平の乱以前に後三条天皇の親政で摂関政治は終了したという指摘もなるほどな、と。その決め手は荘園整理令。きちんとした手続きを経ていない荘園は公地公民に組み入れられ、藤原氏は1/3を失ったそうです。この脅威から逃れる術は、上皇への寄進。しかし、公地公民の原則からは天皇は荘園を持てないので、後鳥羽上皇は六勝寺といういわばトンネル会社をつくったというあたりもなるほどな、と(p.101)。これによって後鳥羽上皇は文化面だけでなく経済面でも「治天の君」となるわけです。

 院政の特徴は理念がなく自分が贅沢したいだけ。人事も側近で固め、信西などは政治力はあったが、その信西を倒して政権を握った藤原信頼は、後白河上皇との男色関係によって気に入られただけの存在。後白河はしたたかな政治家ではなく、台頭した武士に空手形を出してごまかしただけ、というあたりの院政への評価も明快。これでは在地領主のリアリティには負けるな、と。

 それはさておき、上皇や天皇の娘である内親王は独身のまま荘園の番人として贅沢な暮らしを与えられたそうです。子供が出来ると荘園は分割されますが、独身の内親王を荘園領主とすると大規模なまま維持できる、と。後鳥羽上皇の時代には皇室関連の荘園がほとんど後鳥羽の支配下になるなど抜群の経済力になった、と(p.106)。

 中世史は黒田俊夫の天皇中心の「権門体制論」、佐藤進一の「東国国家論」という2つの見方があるそうで、なんと学界で多いのは天皇と将軍は上下関係にあるという表面的な権門体制論だそうです。本郷さんは東国国家論で二つの権力が存在したと考える立場(p.147-)。東国派の本郷さんに対して呉座さん、亀田さんなどは権門体制論派?

 中公新書の著者が文学系統ならば、本郷さんは《鎌倉幕府とは何か、をずっと考え続けていた》研究者であり、坂井孝一先生の『承久の乱』のように、後鳥羽上皇は単に義時を討つことが目的でない点も明確です。

 1)当時はそもそも幕府という言葉自体がなく、敵は「北条義時とその仲間たち」2)朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのが通例、という指摘からも、後鳥羽上皇は「北条義時とその仲間たち」というシステムを破壊することを目的としていたんだろうな、と。

 このほか、北条政子の名は、天皇、上皇の前に出るときに時政の一字をとってつけられたもので、頼朝は政子とは呼んでいなかったハズというあたりも面白かったです(p.32)。

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February 11, 2019

『吉本隆明の経済学』中沢新一編著、筑摩選書

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『吉本隆明の経済学』中沢新一編著、筑摩選書

 この本は『超西欧的まで』に収録された「経済の記述と立場 スミス・リカード・マルクス」、『ハイ・イメージ論 III』に収録された「エコノミー論」「消費論」、『母系論』に収録された「贈与論」、『マルクス 読みかえの方法』に収録された「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」などをそのまま収録した論文集のようなつくりの本で、各章ごとに中沢新一さんが短いコメントを付し、最後に「経済の詩的構造」というもとめで締めくくります。

 「経済の詩的構造」というタイトルで察せられるように、これまで何回も書いてきた、『資本論』の価値形態論の使用価値と交換価値からインスパイアされた、言語の指示表出と自己表出という『言語にとって美とは何か』を発展させた経済論の可能性について中沢さんは留意しています。

 《人間は自由であることの代償に、無意識というものを手放せなくなっているとも言える》と中沢さんは書いていますが、これは「経済は自由であることの代償に、貨幣というものを手放せなくなっているとも言える」のかもしれないと個人的には感じています。

 中沢さんは、おそらく脳科学の発展を意識しながら《想像界(とさらにその上につくられた象徴界)をもつことによって人間の心では、たえまない意味の増殖が起こるようになる -中略- それは生起と喩の過程の結合として、その輪郭を描くことができる》とまとめています(p.350)。


 中沢さんは、こうした「詩的構造」を持つ吉本さんの経済学が、失われた無償の贈与という起源を取り戻すことが超資本主義の課題ではないか、という方向に議論をもっていきますが、残念ながらそれは伊豆の海で溺れた後の吉本さんの展開力に限定されたものに終わっているかなと感じます。

 ただし、これまで何回もふれた「アフリカ的段階」という概念の有効性については以下のような見事な評価をしています。

 《レーニンは革命をつうじて、国家の先にある世界を実現しようとした(『国家と革命』)。レーニンはそれが「遅れたロシア」だからこそ実現できると考えてその考えを実行に移したのだが、まもなく失敗であったことがあきらかとなる。なぜレーニンは失敗したのか。この問題を深く考え抜いた吉本隆明は、ロシアの革命がアジア的段階という土台の上におこなわれたがゆえに、革命のなかから近代科学技術と結合した恐るべきアジア的専制国家を生み出さざるをえなかった必然をあきらかにした。
 未来の革命は吉本隆明が考えていたように、超資本主義の先か、アフリカ的段階の先にしかあらわれない》(p.373)

 レーニンが「遅れたロシア」でなぜ、革命が実現できると思ったのか、という問題はマルクスが『ベラ・ズサーリッチへの手紙』で考えた延長線上にあるものだといえると中沢新一さんは考え、『僕の叔父さん、網野善彦』でも新書という体裁の中では異例の頁を割き、今村仁司さんも『マルクス・コレクション』の中にふたつしか入れていない書簡で取り上げ、自身で訳出しています。

 アジア的段階の農奴的コミューンではなく、アフリカ的段階の先にしか、未来の労働が自己目的化されない生産手段を共にする自由人たちの共同体(コミューン)は築くことはできない、というのが中沢さんの考える〈最後の吉本隆明〉だったのかな、と感じます。

 ということで、長く振り返ってきた四人の方々の著作についてのまとめは、これでいったん終わります。

第1部 吉本隆明の経済学
第1章 言語論と経済学
第2章 原生的疎外と経済
第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
第4章 労働価値論から贈与価値論へ
第5章 生産と消費
第6章 都市経済論
第7章 農業問題
第8章 超資本主義論

第2部 経済の詩的構造

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February 01, 2019

『評伝菊田一夫』

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『評伝菊田一夫』小幡欣治、岩波書店

 宝塚星組公演『霧深きエルベのほとり』に感動してしまい、改めて菊田一夫とはどういう人だったか調べてみようと思って、この評伝を読んでみました。

 複雑な生い立ち、あくまで大衆的であろうとした姿勢、無尽蔵の発想と多作、その根底にあるリリシズムなど、ある程度、菊田一夫の背景は知っているつもりでしたが、もっと凄い演劇人でした。そして、宝塚の若手作家No.1の上田久美子がいま1963年初演という50年以上前に書かれたこの作品を取り上げた理由もなんとなく理解できました。

 それは物語が構成がほぼ完璧で、その上に昭和な義理人情の世界が描かれているから。

 「昭和な義理人情の世界」の世界観は悲劇でも喜劇でも、日本の大衆が反応しチケットを買ってくれるほぼ唯一のジャンルであり続けました。まだ喜劇を看板にした劇団もあるぐらいですが、さすがに飽きられたかもしれません。個人的には最も苦手なジャンルです。

 自分は悲劇しか書かないと言っていた上田久美子が、このジャンルの作品の潤色に乗り出したのは、完璧な構造ならば、今ではファンタジーのような内容も受けいれられるからなのかな、と思っていましたが、この評伝を読めば、それだけでなく、菊田一夫の生きた時代、生い立ちも含めた苦闘がリアルを支えているからなんだろう、と思うようになります。そうしたリアルを喜劇の背景に見つめてみようか、ということなのかな、と。

 菊田一夫の影響を知らぬ間に受けていると思ったのは、『鐘の鳴る丘』が彼の作詞だと知ったから。曲というかメロディは聞いたことあったんですど、太平洋戦争による戦争孤児をテーマにしたラジオドラマの主題歌だったんですね。しかも、それは軍部からの依頼で戦意高揚の芝居を書いてしまい、戦後は戦犯として告発を受けそうだったという贖罪意識から手掛けたというのも初めて知りました。

 ♪とんがり帽子の時計台♪という歌詞とメロディは有名ですが、その三番の歌詞がこうなっているとは知りませんでした。

♪とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
俺らはかえる屋根の下
父さん母さんいないけど
丘のあの窓俺らの家よ♪

 社会的なテーマを取り上げる際にも、それは表に出さず、裏に隠すという計算が感じられます。そして、次に手掛けた『君の名は』は、戦争の悲劇を『鐘の鳴る丘』では子どもを通して描いたのに対し、大人の目を通して描こうとした、というのも言われてみればなるほどな、と。しかし、そうした社会性を表に出した連続ドラマの最初の頃はまったく受けず、男女のすれ違いに絞ったあたりから爆発的な人気を博すのを目の当たりにして、以降、社会性は絶対に表に出さないようになる、と。

 『霧深きエルベのほとり』から評伝を読んだり菊田一夫のいろいろな資料を読んできて、やっぱり分かりやすさ、親しみやすさ、暖かさを抜きに商業演劇は考えられないし、商業抜きに演劇の発展もないだろうな、と改めて感じます。だいたい、『鐘の鳴る丘』『君の名は』もGHQの指示でNHKが制作したものでした。それを考えると第二次大戦後、アメリカ文化が世界を席巻したのも、分かりやすさが決めてだったのかな、と改めて感じます。

 『評伝菊田一夫』で最初に驚いたのは商店で働いていた時代、美しい女性に恋をしたが振られたという経験を持っていること。義理の父親に捨てられるように丁稚に出された大阪の修行時代、店にやってきたお嬢様に恋をして、その美也子さんが関西のお嬢様らしく宝塚が好きで、気を引くために「歌劇」に詩を投稿していたというんですから健気ですよね。しかも、その内容がまるで『霧深きエルベのほとり』のハンブルグ港のシーンみたい!

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石段に腰を下ろした一人のマドロスは
背中をまるめてパイプをふかしながら
じっと沖を見つめてゐた

というのがその詩のラスト。

 時代背景は日本の戦前。身分違いのお嬢様の気を引くために「歌劇」に投稿した詩が掲載されるなんていう厳しい時代のリアリティが『霧深きエルベのほとり』の主人公カールに投影されているんだろうな、と。

 また、『霧深きエルベのほとり』では、カールが酒場の女性ヴェロニカ相手に泣くシーンがベタで凄いな、と思ったんだですが、菊田一夫は、主人公が最後に泣く芝居を得意としていた、とも『菊田一夫評伝』岩波書店では書かれています(p.68)。

 さらにはエルベに出てくる子どものこそ泥ヨニ公ことヨーニーも割と重要な役を与えられています。これは、親に捨てられ丁稚に出された頃の自身だと分かりました。菊田一夫は「余りに悲惨だとリアルじゃないと言われる」と後年語っていますが、そうしたあまりにも悲惨な自身の境遇がエルベには反映されているんだな、と。

 とにかく《菊田さんにとって演劇とは、同時代の観客、それも芝居など見たこともない一般の大衆にも楽しんでもらえるような作品を書くことが第一義であって -中略- アチャラカの芝居から戦意高揚劇、そして中間演劇、ミージカルと領域をひろげながらも、菊田さんの視座は常に大衆にあった》(p.274)ということがよくわかる評伝でした。

 ちなみに著者の小幡欣治は『恍惚の人』の脚本家です。

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January 31, 2019

『ハイ・イメージ論 III』

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『ハイ・イメージ論 III』吉本隆明、福武書店

 随分前に読んだ本で、当時はテキストで感想なども残してはいなかったのですが、吉本さんの著作では三部作に次いで重要な著作といいますか、中でも「消費」についての考え方は、いまだ有効ではないかと感じているので、思い出しながら書いてみます。

 吉本さんの資本論理解では価値形態論を重視するのですが、何回か書きましたが、ぼくは循環論法だと思っていまして、価値の増大はクリアカットでありがたくもないアメリカンな生産性向上の仕組みで幾何級数的に伸びるたのだと思っています。

 ただ、『ハイ・イメージ論 III』の「エコノミー論」と「消費論」では、金利がゼロあるいは一時マイナスも記録した超資本主義段階の経済を予言しているところが凄かったな、と感じています。

 『資本論』3巻の「利子生み資本」では、産業資本家は貨幣資本家(銀行など)から借り受けて事業を運営するという図式で展開されるのですが、もし、利子がゼロに近づいたとしたらどうなるでしょう。

 資本は、マルクス的用語でいえば、貨幣資本家の手にある限り利子を生まず、資本としては作用しません。だから産業資本家に貸し出して利子を増殖させて利ざやを稼ぐのですが、利子がゼロなら「資本によって生み出される剰余価値の完成した下位形態として実存する」という生産過程において生み出された剰余価値が、利潤、利子、地代といった現実的諸形態に変化していくマルクスの想定した論理サイクルが途切れてしまいます。

 問題はこの利子ゼロという想定が、1990年に公定歩合が8%台にも達していた余韻もある中で書かれたということです。

 『ハイ・イメージ論』は吉本さんの著作の中でも不遇の作品といいますか、「振り切られた」読者が多かったり、初めから無視するような読者も少なくなかったと思います。

 そのひとつの要因が剰余価値を資本主義的生産様式の中で生み出しにくくなってきているという予想を、この時期に見通し、しかも資本主義は「消費資本主義」と吉本さんが呼ぶ段階に入ってきたという見立てが、なぜか清貧思想を好む判断停止状態のリベラレル・レフトの人たちから毛嫌いされたからなのかな、と感じています。

 個人的な話しで恐縮ですが、貨幣資本家が浮かない感じをするのはなぜか、という吉本さんの指摘は鋭いな、と感じました(p.145)。それは資本が、資本家の手にあるかぎり利子を生まずに資本としては作用せず、利子を生んで資本として作用するかぎりは彼の手ではなく産業資本家という他者の手にあるから、です。

 資本家は浮かない顔をしていなければならない。もし、浮かれていたら、とたんに足元をすくわれるのかな、と個人的に感じています。

 宇野弘蔵は『資本論に学ぶ』で「原理的にそれ自身に利子を生む資本、それは具体的に株式相場や土地価格という擬制資本となる。原理的には、それはただイデーとして資本の物神性をなす。貨幣市場では資本の需給で利子率は動きながら決定されるが、株式市場ではその反映を援用する。ここに資本の物神性が完成される」と書いていますが、資本が利子を産むということが原理ではなくなった時代を吉本さんは見通していたんでしょう。

 リカードは労働力を希少価値として理解していたという過ちを犯したと言われていますが、もしかしたらマルクスは貨幣を希少価値だという仮定に置いたことが間違ったのかもしれません。そうなるとG

 吉本さんは、さらに「消費論」で一歩出ます。

 ヘーゲルは自分以外の自然にも全面的で普遍的な関係を持ちうるものを人間(ヒト)と読んだのですが、マルクスは抽象的人間労働が自分以外の自然にも全面的で普遍的な関係を持つことで、自然を非有機的な肉体に変化させる、という議論にもっていまきす(p.217)。

 個人的には貨幣は自分以外の商品に対しても全面的で普遍的な関係を持ちうるもの、と定義することからの議論の方が面白いと思ったのですが、吉本さんは、消費は遅延された生産だというマルクスの主張が、消費資本主義の段階でどこまで有効かの議論を進めます。そして、それは高次の自然と(人工)と高次の人間(情報機械化)の間にあるのではないか、と結論付けます(p.228)。

 正直「消費論」の後半はボードリヤール批判に終わっていて、独自の展開は僅かなのですが、それでも「消費社会では、マス・コミュニケーションが三面記事的性格をもつ -中略- 扇情的、非現実的な記号を、その表面に氾濫させて実像をわからなくさせてい」というあたりは、これまた予言になっているな、と(p.241-)。

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January 06, 2019

『フランス現代史』

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『フランス現代史』小田中直樹、岩波新書

 12月4日、黄色いベスト運動の抗議デモの広がりを受けてマクロン政権は燃料税増税の棚上げや最低賃金を月額100ユーロ引き上げることなどを発表しましたが、フランスの為政者は民衆蜂起に弱いな、と改めて思いました。ルイ16世以来の伝統なのかな、と思ったんですが、もっと根源的な問題として、安全保障としてドイツと組んだEUから抜けられないから、ハイパーインフレにトラウマを持つドイツが求める緊縮的な経済政策というEUのコルセットを外せないという問題があるかな、と。だから財政出動という庶民に優しい政策も取れず、基本的には抜本的な対策を先送りし、目新しい政治家が現れて改革を進めようとすると庶民が暴動を起こして引っ込めさせるということを繰り返してきたのかな、と。

 経済成長の続いた「栄光の30年」の後は1995年の「ジュッペ・プラン(社会保障制度改革)」反対運動、2006年の社会保障制度改革や初期雇用契約法反対運動、2018年の黄色いベスト(ジレ・ジョーヌ)とほぼ10年ごとに庶民が大暴れして、政府が政策を撤回することが続いています。

 財政出動も出来ず、年金制度改革なども先送りされ、失業率も高止まりしているという経済情勢の中、政治は経済改革を諦め、ポピュリズムに走らざるを得ないのかもしれません。重層的な非決定といいますか。

 それにしても《エコロジー運動をはじめとする新しい社会運動は基本、フランスでは、基本的に左翼に分類されている。ただし、それは、アイデンティティ・ポリティクスに土台を置く点を、国民戦線と共有する。その意味で、両者は、経済成長と近代化が完了した時代に登場して広まった新しい思想潮流の体現者として、コインの表と裏をなしているのかもしれない》という指摘に膝を打ちました(p.122)。

 といいますか、このまとめはエコロジーや文化的多元主義のみを声高に叫ぶような左翼的アイデンティティ・ポリティクスに対する批判として、過不足なく問題点を指摘していて痛快です。

 アイデンティティ・ポリティクスはアイデンティティも所詮は幻想ということを忘れて上から目線で啓蒙しようとしていることが最大の欠点だと思うのですが、自分たちが信じている幻想を元に社会正義を語る欺瞞性が綺麗に批判されている感じ。

 さらには、どうせ実現できない「庶民にやさしい経済政策」の代わりに「文化的多元主義」という阿片を勧めている感じもして、マルクスも「そうじゃない」と草場の陰で泣いているんじゃないでしょうか。

 小田中先生も「『フランス現代史』を書きおえて」の中で、社会的リベラリズムは《経済的困窮に苦しむ民衆層には届かない。彼らは、緊縮政策に反対する「左翼の左翼」か、経済的困窮の原因を「統合欧州」や「移民」に求める「極右」を支持》しているとブログで書かれていますが、結局、有権者のボリュームゾーンは庶民ということで、アイデンティティ・ポリティクスで勝負する限り、普通の人々の嫌悪感をうまくすくい取ったトランプなどに今後も敗れていくんじゃないでしょうか。

 いわゆるリベラル・レフトは文化的多元主義というコルセットを外せない限り、庶民との対話も難しいし、強迫観念のように「社会的差異」にこだわれば、ますます大衆との距離は拡大していきそうです。彼らがトランプや安倍政権の反文化的多元主義的側面の問題ばかりに言及するのは、実は自分たちが無謬だというエスノセントリズム(自民族中心主義、自文化中心主義)的なバイアスがかかっていることにさえ気付いていないのかもしれない、と愕然としながら読み終えました。

 あと、人々が社会的ルールさえ守って自由に行動して豊かになればいいという自由主義者サルコジでさえも、《重要な輸出産業である自動車産業を保護するためには、積極的に介入することをためらわなかった》というんですから、今回の日産問題はどれほど重要かということも改めてわかります(p.191)。とはいっても、直近のブルームバーグでは筆頭株主であるフランス政府とルノーは会長職の後任人事について検討を開始した、とのことで、こうした問題も少しずつですが前進していくのかな、と。

 いきなり、序章からいいんです。一人当たりのGDP、平均寿命、スーパーの品揃えや雰囲気、高齢化など日仏は似ている、と。しかし失業率や難民受入数はフランスが高い、と。米英とともに日本のモデルだったフランスは問題点の先行者であり、しかも深く重層的な分裂を抱えている、と。

 戦後のフランスは当初、中間層からエリートを支持基盤とする保守層(ドゴール含む)と庶民を支持基盤とする左翼が対立する構図でしたが、その萌芽は戦時中にあった、みたいな話しは総動員体制が戦後の経済成長を準備したという日本と似ているな、とも感じました。仏でも第二次対戦前に国主体の経済の組織化を求める声が支配層に広がっており、ヴィシー政権もテクノクラートが経営者と「組織委員会」をつくったほどです。また、反独派も労働者のアクセス権といった語を用いつつ、CNR綱領で計画経済を提唱。戦後もその流れをくむCNRが主導したというんですが、これは戦前の新官僚が社会保障制度なども完備した総動員体制をつくり、戦後は岸信介など政治家としてもリードした、という構造に似ていると感じました(p.27-)。

 戦後、CNRは生産材の生産に資金と資源を優先的に割り当てるなど《同時期の日本と同じく、一種の傾斜生産方式が採用》したのですが、投資資金を捻出する体力はフランスになく、最後に救ったのは米のマーシャルプランという顛末も似ている。消費財の供給不足でインフレも惹起したなんてあたりも日本と同じだな、と(p.32)。

 ここらへんで『官僚病の起源』岸田秀、新書館、1997を思い出しました。それは、フランスが実は独裁者が好き、というあたり。その原因は200万人が死んだのに、実のところ、あまり成果らしい成果がなかったフランス革命に対する自信のなさとか。

 日本と違うなと感じたのは、バンリュー(郊外)の集合住宅の失敗。日本で団地は憧れをもって迎えられましたが、フランスでは不評で、メンテナンスも不十分となり、1973年以降、大規模団地の建設は禁止されます(p.80)。やが荒廃したバンリューでは若者が警官と衝突するように事態にもなり、《貧しい失業者としてゲットーに隔離された》(p.135)、と。ブールの行進やスカーフ事件などにも言及されますが、個人的にはこうした郊外の団地からティガナ、ジダン、アンリ、アネルカ、デサイーなどのサッカーの代表選手が出てきたことに触れてほしかったかな、と。一時にせよ「フランスの多民族の共存の象徴」と賞賛されたわけですから。

 1950年代に新中間層は社会的上昇の可能性が、小農民、職人、商人には下降の恐怖が広がるんですが、そうしたことを背景に文具店主プジャードは「商人・職人防衛連合」をつくり税務署、商工会議所、スーパーマーケットへ破壊活動などを展開。56年の選挙では50議席以上を獲得。その中でルペンも当選して政界デビューしたということまでは知りませんでした(p.56-)。ルペン一族は根っからの庶民派といいますか、庶民向きの顔を持っていたんですね。

 普仏戦争に敗れたフランス国民のナショナリズムを満足させるために獲得された植民地は1960年代に独立し、第五共和制で発足した「フランス共同体」は名目上の存在となり、脱植民地化が進められます。フランスは植民地帝国ではなく統合欧州の盟主を選択した、というあたりも知りませんでした(p.68)。だから、古くからの植民地だったアルジェリアを除き、インドシナやアフリカの植民地などは戦争が泥沼となる前にアッサリと独立を認めるたんだな、と。

 英仏は第一次と第二次のオイルショックを乗り切ることができなかったというか、資源がないために省エネを進めていた日本が同じように景気は悪くても、いつのまにか追い抜いたいたんだよな、ということも思い出しました。フランスの新中間層というのは、日本でいえば無党派層のことなんでしょうけど、彼らの投票行動についても知りたかったな、と。

 ミッテランが大統領に当選して左翼政権が誕生し「財政規模の拡大と通貨フランの切り下げ」という経済政策を進めたのですが、おりから経済統合を進めようとしていたEUの方針に反していて、それを貫徹できなかった、というミッテランの失敗というか、ミッテランのパラドクスはどうしようもなかったんですかね。

 ミッテランもシラクも改革を掲げて登場しますが、すぐに大反対にあって、ネジレ状態の中、反対派を首相につけざるを得なくなります(コアビタシオン、事実婚)。公務員の賃金凍結や年金支給年齢の引き下げを目指したジュッペ・プランが失敗した後、1997年にシラク大統領のもとでねじれ的に首相となった社会党のリオネル・ジョスパンは、「多元的左翼」を掲げますが、緊縮財政は維持せざるを得ません。こうして重要なのは移民・女性・性的少数派などマイリリティ擁護のアイデンティティ的な主張となっていく、と。

 そしてシラク後の大統領選挙でジョスパンはルペンにも負けて決選投票に進めませんでした。

 経済政策がEUというコルセットを外せないので、ルペン率いる国民戦線も、緑の党も文化的な問題にアイデンティティーを求める政策を掲げることになり、実は庶民の生活が忘れ去られているという状況が続きます。

 にしても、テレビ局が建設業と水道局、新聞は防衛産業(ダッソー)やヴィトンなどのグループの支配下にあるというのは知らなかったな…(p.197-)。

 なお、サポートページも開設されています。こうしたところは素晴らしい。

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December 28, 2018

今年の一冊は『初期仏教』

 今は現役時代に読みきれなかった古典などを中心に読み返していて、その合間に新刊を読んでいる感じでしょうか。

 とはいうものの、ずっと続けているので2018年の書評年度の新刊から今年の一冊を決めようかと思います。

 いろいろ考えましたが『文選』は全巻が完結してからにしたいので、『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書にしようと思います。

 『初期仏教』で得た知見はインドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文だったということ。改めて言語は数多くあるにしても、文字を持つものは少ないということがわかります。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、というのを知った時は胸が熱くなりました。ユダヤ教徒もユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書いていたけど、後の世代には、例えば古典を読むような感じで読まれていて、ローマ時代の話し言葉はアラム語やギリシャ語だったという説が有力ですし、ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われています。ゾロアスター教の終末観はユダヤ教、キリスト教にも影響を与えているでしょうし弥勒、人の子は光の概念なのかな、とか。

 このほか年末年始に読まれるのでしたら、以下の新書五冊をあげたいと思います。

『古代史講義』佐藤信(編)、ちくま新書
『倭の五王』中公新書、河内春人
『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書
『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版
『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰、中公新書

 以下はざっとした紹介です。

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December 21, 2018

『思索の淵にて』

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『思索の淵にて』茨木のり子、長谷川宏、河出文庫

 長谷川宏さんが、「わたしが一番きれいだったとき」などで知られる茨木のり子さんの二十八篇の詩から触発されたエッセイをつけるという形でまとめた本。

 刊行されたのは茨木さんがお亡くなりになる直前で、長谷川さんは結局、一回も茨木さんに会えないままだった、というのが、いかにも在野の研究者という感じを思わせて痛切。

 茨木さんはエリュアールの一節を最初に引用します。

《年をとる それは青春を
歳月のなかで組織することだ    ポール・エリュアール
                  大岡信訳
長詩の一部らしいのだが、そしてポール・エリュアールというフランスの詩人のこともよく知らないのだが、若い時に読んで、いまだに記憶に焼きついているのだから、とても好きな二行といっていいだろう。短いのに、なんという深さを湛えていることか、〈組織する〉という硬い言葉がここではひどく艶のある使われ方で、たぶん翻訳もいいのだろう》

 これは700行近い長編詩「よそにもここにもいずこにも」の中にある二行で、大岡信さんが全てを訳するのに挫折したものの『折々のうた 第十』に収めた一節のようです。

 エリュアールは第二次大戦中に出した「自由(Liberte)」も有名ですが、やはり全体が長く、一般的にはパンチラインだけが記憶されているようです。

《そして、ひとつの言葉の力で
ぼくはまた人生を始める
ほくは君を知るために生まれた
君に名づけるために

自由(Liberte)と。》

 長谷川さんの部では「名前によって、対象は、まさしく存在するものとして自我から生まれでる。名づけは、精神の行使する最初の想像力である。アダムはすべてのものに名前をあたえた。それは、全自然を支配下に置き、全自然を掌握する最初の行為であり、全自然を精神から創造する行為である」と名づけの行為が自然支配と結びつく、とヘーゲルを引用するあたりもよかった(p.57)。

 《まわりに森や和泉がなくても、眠りが安らかであれば眠りのなかに森や和泉や清水がある》というのは眠りに関する至言のように感じます(p.90)。

 《日本の詩歌は政治と相性がわるい》(p.160)というのもなるほどな、と。

 長谷川さんは、この本の中で《人類社会の歴史を人間の一生にたとえてみるならば、いまや人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない》(『「日本とは何か』講談社・日本の歴史 第00巻)と網野さんを引用し、《どこかから肌寒い風がわたしにも吹いてくるようで、それに耐えながら足を地につけて歴史を考えなければ、という思いは切実である》としています(p.174)。

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December 20, 2018

『古代史講義』

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『古代史講義』佐藤信(編)、ちくま新書

 古墳時代から奥州藤原氏まで15のテーマでの古代史を概説した本。アンソロジーにありがちな散漫さはなく、自身も「地方官衙と地方豪族」を担当して書いた佐藤信先生のもと、バランスのとれた編集で古代史研究を知ることができる。

1講 邪馬台国から古墳の時代へ

 邪馬台国の位置は三万五千里四方という中国王朝の世界観の東端に位置づけられたもので、距離は遠方からの朝貢を強調するもの(p.19)。

 列島と朝鮮半島との交易は壱岐対馬と北九州が中心だったが、山陰地方にも列島側の拠点が拡大するなど《多極的ネットワークが形成された》(p.27)。

 楽浪・帯方郡の滅亡によって九州中心の交易ネットワークは終焉、畿内のヤマト王権が伽耶地域と交易を行うようになる(宗像・沖ノ島の祭祀が開始される)。

2講 倭の大王と地方豪族

 卑弥呼の墓と有力視されている箸墓古墳を含むオオヤマト古墳群でも、二系統に分ける見解がある。初期の高句麗王は五つの部族から交互に出ていたり、新羅でも二人の王が役割を分担して併存していた。草創期や初期段階の王位のあり方は《もはや「一系統の王朝」の存否だけを議論する状況ではない(p.33)。

 巨大な盟主墓を含む古墳はオオヤマト、佐紀、馬見(大和)、古市(河内)、百舌鳥(和泉)、三島(摂津)に別れているが、有力首長たちは通婚を重ねて血縁的に近しかったと推測される(p.39)。

 421年 倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使、478年までに7回の朝貢は奈良時代の遣唐使を上回る頻度(p.41)。

 古墳の規模規制は制度に基づく統治の先駆け(p.44)。

3講 蘇我氏とヤマト王権

 蘇我氏を滅亡させた645年の乙巳の変の前年、高句麗でも似たようなクーデターが勃発、百済と新羅でも混乱が生じており、朝鮮半島情勢が緊迫していた(p.68-)。

 初期段階の王位のあり方を含めて(部族からの交互選出、王位の役割分担、p.32)など、半島と列島の政治はクロスしてる。

7講 地方官衙と地方豪族

 ヤマト王権時代には国造として直接的な関係を持っていた地方豪族は、律令制下では国司の下位に位置する地方官となり、同盟関係から支配・従属関係へと変化。

 しかし、壬申の乱で大海人皇子が勝利できたのは東国出身の舎人のお陰で、采女の子も皇位継承候補となった(p.138-)。

8講 遣唐使と天平文化

 遣唐使は皇帝からの朝貢への回賜品を売り払い、その代金全てで書籍を購入して船に積み込んで帰っていった。不要な高級品よりも直接役立つ書籍を求める姿勢、なんか泣ける(p.159)。

 正倉院宝物のうち、唐や海外から舶載されたものは9千点のうち5%で、残りは国内での模倣品。 世界文化の中心だった唐から一部分を継受したに過ぎず、シルクロードの終着駅という言い方は誤解を与える。唐との交流の核心は書籍・仏典の移入であり、シルクロードならぬブックロードとして重要だった、と(p.160)。

11講 摂関政治の実像

光仁→桓武の即位で天武系の皇統は途絶えて天智系のみとなり、桓武系も三統から嵯峨→仁明王統が皇位継承を担った。しかし、承和の変、応天門の変と即位を巡る政変はその前の平城太上天皇の変(昔は薬子の変と呼ばれていた)含めて頻発。皇統のイエ化と摂関政治を生み出した、と。

 律令制による中央集権体制の構築にあたって、中国の皇帝制を手本に日本の天皇制は制度化されたが、ヤマト王権以来の大王の性格との矛盾も孕むことになった。中国的な嫡系主義によって皇位継承者が限定されて、皇統断絶や政治能力のないものが即位する問題が生まれた(p.211)。

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 称徳天皇の崩御による天武皇統の断絶を目にした光仁・桓武天皇は、皇統を複数に分けたが、複数化は承和の変という皇位継承を巡る争いを引き起こすと、再び一本化が図られた。しかし、清和天皇という幼帝や陽成天皇という素行に問題のある天皇が即位。摂政・関白・内覧が創出された、と

 無能な天皇であっても問題なく機能する摂関政治によって天皇・貴族は経済的に豊かになり、華やかな宮廷文化を生む。『源氏物語』『枕草子』が摂関政治の最盛期に生まれたのは必然。身内や臣下が政務を代行・補佐し天皇制を補完するシステムは院政、幕府から内閣制度まで続く(p.212)。

14講 平将門・藤原純友の乱の再検討

 嵯峨天皇の治世、812年に始まった宮中観桜会の記録から9~10世紀代の桜の満開日は現代より5日早いなど現在よりむしろ温暖だった(山本武夫『気候の語る日本の歴史』)。また、温暖化によって8世紀以降海水面は上昇し、12世紀初頭にピークを迎えた。奈良時代から平安末期にかけて少しずつ温暖化に向かうなど「ロットネスト海進」があった(p.259-)。

1講 邪馬台国から古墳の時代へ
2講 倭の大王と地方豪族
3講 蘇我氏とヤマト王権
4講 飛鳥・藤原の時代と東アジア
5講 平城京の実像
6講 奈良時代の争乱
7講 地方官衙と地方豪族
8講 遣唐使と天平文化
9講 平安遷都と対蝦夷戦争
10講 平安京の成熟と都市王権の展開
11講 摂関政治の実像
12講 国風文化と唐物の世界
13講 受領と地方社会
14講 平将門・藤原純友の乱の再検討
15講 平泉と奥州藤原氏

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