書籍・雑誌

October 24, 2016

『「持たざる国」からの脱却』

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『「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか』松元 崇、中公文庫

 元内閣府次官の松元崇さんは鈴木幸一IIJ会長の書評で知ったのですが、これまで『「持たざる国」への道  「あの戦争」と大日本帝国の破綻』(中公文庫) 、『恐慌に立ち向かった男 高橋是清』 (中公文庫) 、『山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社)と読んできて、財務分析から戦前の日本の問題点を明らかにしていく、という切り口が新鮮でした。

 この三冊をサマリーすると、日清戦争は、その償金によって金本位制の基礎をつくることができるなど、資本主義の発展をもたらしましたが、日露戦争は国家予算の7倍にも達する戦費をかけながら賠償が取れませんでした。日本の農村部は豊かで担税余力があったので、軍備を整えることができたわけですが、賠償を元にした農村へのテコ入れもできず、さらには潤った都市の財政を農村に入れる改革もできずに農村の貧窮化を招き、軍部が台頭してしまった、という史観になるでしょうか。

 今回の『「持たざる国」からの脱却』は、そうした財務官として行ってきた過去の分析から、内閣府次官となって以降、現代日本の問題に関する処方箋を示す内容となっています。ただ、内容は働き方に関する「北風の改革」ばかりで「南風の改革」は少なめ。

 とにかく、著者の示す処方箋は働き方改革と生産性向上。

 今の安倍内閣を進めようとしている大きな政策は労働基準法の改正と省庁横断で進めようとしている生産性向上、それに女性・高齢者・障害者の労働参加が三本柱になっていますが、そのうちの前2つを説明しようとした本いうか、元々、松元崇さんたちによる政策提言があったんですしょうかね。

 しかし、改めてみてみると、いずれも働き方に関するものだ、ということに驚きます。

 それもそのはず、松元崇さんによると「失われた20年」による日本の停滞は、労働市場がモジュール化されていないからだといいます。

 IT革命によってグローバルに生産がモジュール化されましたが、アメリカは労働力や経営もモジュール化できていたから、後進国の成長を取り込めた、と。しかし、日本は労働市場がモジュール化されていなかったから、円の独歩高が続くと、産業の空洞化が起こってしまい、結果として高い技術や技術開発力がありながらも、それを成長に結びつけられていない、と。

 日本がIT革命後のこうした生産構造の激変に対処できていないのは、企業は倒産するほどの事態でなければ従業員を解雇できないという慣行を裁判所が判例でつくったからだといいます(1975年の日本食塩製造事件)。

 企業は解雇できない従業員を定年まで手厚く面倒を見て、国は企業が従業員の面倒を見なくなる後半生の社会保障を充実させるという構造でやってきたのが高度成長以降の日本の姿だった、と。

 ところが、「失われた20年」で企業は不採算部門に社内失業者を大量に抱え、しかも、高度成長期のように景気が回復しないため、負担を人件費削減で従業員に求めることになります。

 幸せな人の生産性は37%、クリエティビティは300%高いのに、「失われた20年」の中で日本の正社員は労働密度が上昇し、一方、非正規社員もワークライフバランスの崩れた働き方を強いられて生産性が低下、経済成長も阻まれた、みたいな。

 国は「失われた20年」で雇用調整助成金を出して企業に余剰人員を抱えさせてましたが、これよる賃金抑制がデフレを招きましたが、さらにIT革命による世界の生産構造の激変によって世界中にモノが溢れデフレになってしまった、と。それまで世界の15%の先進国がハイテク製品を生産していたが、IT革命による生産構造の変化によって、残り85%の発展途上国がモノを生産するようになった。

 「デフレは日本の人口減だからやむをえない」という論調がほとんどだが、真の理由は世界の生産構造に対応できなくなったから、というのが著者のモチーフ。

 企業はベアゼロを続ければ、従業員の退職による世代ローテーションで全体の支払い賃金の総額は変わらず、さらに不補充によって正社員のやっていた仕事を非正規にやらせればグロスで人件費を減らすこともできるようになりました。また、個々の正社員は定期昇給があるので年々上昇していたので問題はないように感じていたので、大きな不満も出なかった、と。

 さらなに不採算部門の従業員を抱えるリスクを日本企業が学んだのがリーマンショック後の円の独歩高による空洞化。

 景気後退期には早めにレイオフする代わりに、景気が回復した時に思い切った投資を行えないと、伸ばせたハズの新たな雇用が失われることにもなります。

 世界中の経済関係者や投資家などが、一番注目しているのは、米国で毎月何万人の雇用が増加したかという統計です。毎月第一週金曜日(米国東部時間8:30)に発表されるのでJob Fridayと呼ばれますが、これによって株価、為替、コモディティ価格なども大きく変動します(週休二日制を導入した大統領に感謝状を送ったマルクスが見たら本当に喜ぶんじゃないかと思います)

 また、同じ生産性向上でも、ロボットによる置き換えは人と違って消費しないので、人を雇った場合のような消費拡大効果が出てこないので、大切なのは人間の生産性向上というあたりから、生産性の問題をクローズアップしていきます。

 日本ではローカル経済の大半を占めている第3次産業の低い付加価値が日本全体の生産性を引き下げ、好況時にはコストプッシュインフレで内外価格差を生んでいました。

 高度成長期にはトリクルダウンによって、そうした不合理も吸収できていましたが、いまや国内の生産性向上がみられないローカル企業の賃金抑制がグローバル企業の賃上げの足を引っ張っています。

 また、現在のような少子化による人手不足でコスト・プッシュ・インフレになっても高齢者の年金は物価スライドで伸びていくので実質購買力は落ちず、現役世代の可処分所得が減るだけという問題も引き起こしそうです。

 現在の発展途上国の格差拡大は、成金と貧しい工場労働者や農民の格差が拡大した第一次世界大戦後の日本と同じだと松元さんはみています。実は、日本の年功序列型賃金体系が一般化したのは先の大戦の戦時体制下。賃金統制による生活給の考え方は、1960年の所得倍増計画時に克服しようとしたんですが、高度成長が長く続き、企業は労働力の囲い込みを優先したため、制度が生き延びてしまった、と。

 裁判所は企業が解雇できるのは経営危機に陥った時だけという判例を確立すると同時に、残業命令に従わない従業員は懲戒解雇できるとして、こうした制度をより強固なものとします。しかし、これは裁判所によって会社が従業員の生活を保障するかわりに無限定に働かせるという日本独自の雇用慣行を正しいものとした、という問題点もはらみます。

 新規学卒一括採用制度が始まったのも戦時体制下。従来、日本の女性の労働参加率は高く、米国に追い越されるのは戦後の第一次石油危機以降。ただし、寿退社が前提。その後、女性の大卒は増えたが、多くの女性は派遣社員として低賃金で補助的な働き方に甘んじているのが現状です。

 戦前の総動員体制が実は現在の原型となっているのは、官僚たちの実感なんでしょうね。

 とにかくバブル崩壊後の1992年に167万人あった新規高卒求人は01年には1/6の27万人に、大卒も91年の84万人が01年には46万人に半減。いまでは若い男性の非正規問題も出てきました。

 アベノミクスによって、有効求人倍率は1.36と24年ぶりの高水準になりましたが、現在でも正社員は0.87にすぎません。
 
 中途採用の市場が十分機能していない日本では管理職での再就職は至難の業なので会社にしがみつくことになります。しかも、雇用の内容を明確に定めないメンバーシップ制の雇用形態のため、形だけの成果主義の賃金体系も導入され、正社員といっても給与も低く、定期昇給もない「名ばかり正社員」も登場する始末。

 子どもを産んで育てる代わりに、企業での昇進をあきらめるという「マミートラック」を選択した女性や、離婚して子どもを抱えた女性は非正規の職にしかつけない日本の状況は、19世紀の救貧法時代の英国に生まれたようなもの。IT企業でも、ベンチャー経営者のような昼夜を問わない働き方を社員にも押しつけるケースもあるといいます。

 とにかく、日本企業の採用方針は「地頭」さえ良ければいいというものだった。しかし、その後の環境変化で
、非正規社員がOJTをまともに受けられなくなると、教育が学校と職場をつなぐ仕組みとして機能しないことが問題になり、大学の文系不要論につながった、と。

 後半の様々な処方箋に関してはいいとこどりかな、と思いましたが、ドイツで導入しているんだから、日本でもぜひ「労働時間貯蓄制度」なんか導入したらいいんじゃないかと思います。

 これによって不況下でもレイオフを避けながら生産調整もできますし。

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August 26, 2016

『蓮如 聖俗具有の人間像』

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『蓮如 聖俗具有の人間像』五木寛之、岩波新書

 20年前に出た本で、読んだのも忘れかけていたのですが、丸山眞男講義録で真宗と蓮如に関して書いていたら、いろいろ思い出しました。

 著者は蓮如のことを聖俗具有のモンスターと呼びます。

 蓮如はうち捨てられたような本願寺に父・存如と「いずこの人なるを知らず」という女性との間に生まれました。親鸞の血は引きますが、生まれからすると卑種栄達の人生を歩むことになります。

 貧しい部屋住みのような生活が続き、庶子ながら法主となったのは43歳。当時、最大のサポーターだった関東の信者たちは、親鸞の血縁というだけで本願寺を頂点とした組織化を図ろうとしていた親鸞一族に反発ししており、寄進も減り、寺もボロボロだったようです。

 法主となった蓮如は他力信仰の純粋さを保つため、存如の正妻とその子たちが接近した延暦寺との関係を断ち、それによって僧兵の襲撃を受けて最初の本願寺は破却されてしまいます。これは応仁の乱の起こる2年前というのですから、世のすさみ具合もわかろうというもの。

 身を寄せたのは琵琶湖一帯での運送を担っていた堅田(かただ)衆。ここでも延暦寺とは一進一退の攻防を繰り返しますが、日本史的にも惣村が成立した時期でもあり(この当時にできた村が現在でも続いています=現在は600年前に形成された風景が失われつつある時代)、この惣を基板として目につけ、信徒たちが寄り合って話しながら他力信仰を語る「講」で布教を行います。

 堅田衆と延暦寺との抗争が続く中、蓮如は堅田を立ち去ります。うろ覚えですが、ここらあたりは親鸞の「仏縁つきたと思ったら、その地を去れ」という言葉や、新約聖書の「また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」を思い出します。

 マルコなどの「足の裏のちりを払い落とせ」という命令は、一見、潔い感じも受けますが、蓮如のケースなどをみると、やっかいなことにならない間に静かに立ち去る、というイメージなのかな、なんて考えたりして。

 向かったの北陸の吉崎。ここで蓮如は真宗の大ブームを巻き起こしますが、あまりにも急激に広がった組織は蓮如の統制が効かなくなり、他の念仏集団(仏光寺派、高田派、三門徒派)との内ゲバなどが激化。アジテーターではあっても組織者ではなかった蓮如は嫌気がさし吉崎を離れては戻されたり、門徒から逆ネジを食わされたりします。

 やがて1474年(文明6年)には守護富樫政親の要請を受けて門徒衆は合戦に参加して勝利しますが、2000人の死者を出し、様々な批判を受けた蓮如は1475年に吉崎を去り、山科から石山(何回も書きますが現在の大阪城)に拠点を移します。

 その後、門徒衆は1488年には20万人で富樫を囲んで自害させ、約百年にわたって「百姓の持ちたる国」をつくりますが、それを蓮如はどのように見ていたんでしょうか。

 蓮如は28歳の時に初めての妻を迎えましたが、その後、妻たちは次々と蓮如を残して死にます。まったく信じられないのですが、蓮如は5人の女性に13男14女あわせて27人の子を産ませて、最後の蓮能という若い女性が子どもを産んだのは84歳の時という性生活を送ります。

 こうしたことも含めて蓮如というのはモンスターだな、と。

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July 29, 2016

岩波新書の日本史シリーズ完結

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 岩波新書から出ていた日本史シリーズが近現代史、古代史、近世史ときて、最後の中世史が『分裂から天下統一へ』で完結しました。

 最後の『分裂から天下統一へ』でも日本史を東アジア史、世界史の中で語るというスタンスが貫かれていたと思います。新書ということで、シリーズ中国近現代史を含めた30冊は夏休みの読書にお勧めします。

 ということで、これまで書いてきたのをノートにまとめます。


シリーズ日本古代史

『農耕社会の成立』石川日出志

『ヤマト王権』吉村武彦

『飛鳥の都』吉川真司

『平城京の時代』坂上康俊

『平安京遷都』川尻秋生

『摂関政治』古瀬奈津子

シリーズ日本中世史

『中世社会のはじまり』五味文彦

『鎌倉幕府と朝廷』近藤成一

『室町幕府と地方の社会』榎原雅治

『分裂から天下統一へ』村井章介


シリーズ日本近世史

『戦国乱世から太平の世へ』藤井讓治

『村 百姓たちの近世』水本邦彦

『天下泰平の時代』高埜利彦

『都市 江戸に生きる』吉田伸之

『幕末から維新へ』藤田覚


シリーズ日本近現代史

『幕末・維新』井上勝生

『民権と憲法』牧原憲夫

『日清・日露戦争』原田敬一

『大正デモクラシー』成田龍一

『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子

『アジア・太平洋戦争』吉田裕

『占領と改革』雨宮昭一

『高度成長』武田晴人

『ポスト戦後社会』吉見俊哉

『日本の近現代史をどう見るか』岩波新書編集部編

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『分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史4〉』

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『分裂から天下統一へ〈シリーズ日本中世史4〉』村井章介、岩波新書

 これで岩波新書の日本史シリーズが25冊目の『分裂から天下統一へ』で完結しました。日本史の中でもダイナミズム溢れる戦国時代から織豊政権、そして徳川幕府の成立までを描きます。

 丸山眞男によると、応仁の乱を生き残った守護大名はほとんどなく、下克上で戦国大名にとって代わられました。それは荘園制に寄生した存在だった武士が、最初はその支配を京都と距離をとって進めるとともに政権運営能力を高め、元はといえば農民だった自分たちの「武士のエートス(行動様式)」を磨きながら、荘園制を最終的に浸食する過程で起きたことです。

 室町時代の守護大名は在京が原則でしたが、地元を離れているうちに、さらに土着的だけれども農民の生活に気を配るような層に下克上で取って代わられ、そうした中から長宗我部、島津、北条、伊達などのように四国、九州、関東、東北ではそれぞれの地域国家の王のように君臨する戦国大名まで現れます。織田信長の改革が頓挫し、分裂がさらに進むかと見えた瞬間に、秀吉の軍隊が現れ、彼らの前に立ちはだかり、あっという間に屈服させ、魔法のように天下統一が達成されてしまいます。

 これをもう少し大きな視点でみると、15世紀、中国大陸中央部で目覚ましく経済が拡大し、その結果、周辺の豊臣秀吉やヌルハチの辺境軍事勢力が活性化されたと見ることができる、というのが本書で得られた最大の知見です。

 《1572年から始まる張居正の財政改革で、さまざまな租税・徭役を一本化・銀納化して土地に賦課する一条鞭法が、全国に拡大された。こうなると全国の土地所有者は、納税のために毎年銀を入手しなければならない。こうして膨大な銀需要が生じたが、国内生産ではまったく足りず、海外からの巨大な銀の流れを呼び起こした(p.92)》のですが、そうした中国の銀需要に応えたのが石見などの日本の銀山とスペインからもたらされるボリビア銀山からの銀でした。

 こうした経済のダイナミクスが東シナ海と南シナ海と中国沿岸部を中心に巻き起こり、それが秀吉やヌルハチの台頭の背景ともなるんですが、彼らは二人とも夷に甘んじず華を飲み込み、自身が世界の中心になろうとします。そして、国内を統一した秀吉は全く躊躇することなく中国とインドを征服しようと構想し、まず朝鮮に出兵して失敗します。しかし秀吉が蒔いた種は、やがて1644年の明清交替で華夷変態をもたらすことになります。

 その遠因となったが、中国内部の経済発展によって台頭した郷紳勢力からの納税を確実にし、複雑になりすぎていた両税法を実態にあわせて簡素化して銀納に一本化した張居正の改革かな、と。しかし、張居正が幼い頃から仕えた万暦帝は、経済発展とともに豊かになった国庫の銀を寵姫鄭貴のために使い込んで25年も後宮に籠もっているうちに秀吉の朝鮮出兵などを招いてしまうんですから、なんとも盛者必滅の感を強くします。

 また、丸山眞男が強調するように、ポルトガル人が日本に来て西洋と東洋の両端の文化が出会ったことは、本当の意味での世界史がそこから始まったともいえるわけですが、こうしたポルトガル人はザビエルも含めて中国人主体の密貿易集団=倭寇の一員に加えてもらい、ジャンク舟に乗って日本にやって来たというのは知りませんでした。そして、ポルトガルによって開発されたマラッカ~マカオ~平戸の定期航路は日本の銀が中国に流れ込むルートとなり、ボリビアの銀はスペイン人がメキシコ~マニラルートで中国に流れ込むことになります。

 圧倒的な軍事力と経済力を背景にあっという間に実現された「秀吉の平和」ですが、秀吉はその平和に地理的限界を意識しておらず、唐,天竺までも日本の「国割」感覚で押し通そうとしました。本書では、明朝=中華の世界秩序をひっくり返し、自分が世界の中心に座るというビジョンで朝鮮侵略は遂行されたことが何回も強調されます。実際、秀吉の朝鮮出兵は世界的に見ても十六世紀最大の戦争だといいます。しかし動員された武将は撤兵を望み、そうした日本軍の最大の障害は清正で、行長は朝鮮側と図って謀殺しようとしたが、李舜臣が躊躇して失敗というのは知りませんでした。しかも李舜臣は罷免されたとは。そして、漁夫の利を得て明を倒したヌルハチは明との接触経験が豊富だったのがよかったとか。

 初期の江戸幕府の政策は明清交替による広範な華夷変態のインパクトに対応したもの、という説をよく読んでいましたが、明清交替のキッカケは秀吉で、さらにいえば、海禁を国是としていた明の経済政策失敗=東南アジアを中心とした経済発展を取り込めなかったからなのかとも感じます

 ということで、以下はいつものように印象に残ったところを箇条書きで。

[第1章 戦国]

 対馬の対岸の朝鮮半島には、三浦(さんぽ)と呼ばれる倭人の居留地があったが(釜山など)、1510年に倭人が海賊と誤認されて斬られた事件を発端に倭人たちが騒擾を起こしたのが制圧され、長年にわたって築いてきた居留地を失ったとか(p.6)。

 日本と中国の勘合貿易は細川氏と大内氏が交互に船を出し合っていたが、1521に寧波で両者が衝突するという事件が起きます。これは柵封体制が機能不全を起こししていることを示し、倭寇などの海上勢力が主役となる時代の起点となった、と(p.12)。また、この頃から対中国の外交は朝鮮、琉球が仲立ちとなっていた、と。

 当時の戦国大名の分国法をみると、領国支配は当主個人を離れて非人格化されはじめ、超越的な国家権力へと上昇をとげつつあることが見てとれますが、そうした近世へとつながる支配の質を備えていたのは東国大名だった、と(p.16)。

 自己完結的な発給文書体系と国法・法度を持ち、検地を行い、全住民を動員しうる名分(大途)と体制を備えていた大名は中世ドイツの「領邦国家」になぞらえて「地域国家」と呼べる、と(p.26)。

 琉球は朝貢の見返りとして賜った中国の産物を東南アジア諸国にもたらし、代価として受け取った東南アジアの産物を明に朝貢品として捧げた。明はこの物流システムを維持するために、朝貢用の船を与えたり、琉球人の子弟を国立大学である国子監に受け入れるなどの手厚い助成措置をほどこした(p.28-)。しかし、当時から琉球の公用文字は「ひらがな」だったし、国家事業として集成された歌謡集『おもしろさうし』もひらがな表記の琉球語で書かれていた。また、肥後の相良氏を臣下として扱うなど南九州をも影響下に収めていたそうです(p.37-)。

 鎌倉幕府は十三世紀初頭から蝦夷地を流刑地として利用しており、アイヌと混血することで「渡党集団」が形成されていったとも(p.42)。

[第2章 銀と鉄砲とキリスト教]

 この章が本書の白眉。世界経済システムと日本の結びつきが見事に描かれています。

 最初の倭寇の棟梁は福建のトウリョウという脱獄囚。次いで許棟、王直と続き、王直は博多の倭人とネットワークをつくります。明は海禁を国是としていたが、中国人、日本人、東南アジア人、ポルトガル以下のヨーロッパ勢も含む多種多様な民族が加わって後期倭寇となっていく、と。

 ポルトガル人の乗った王直のジャンク船が嵐に遭って種子島に漂着したことは偶然の事件だったが、種子島は良質な砂鉄資源と熱源となる木材に恵まれ、高度な技術を持つ刀鍛冶もいるなど、鉄砲の生産基地となったことは必然だったとのこと(p.76)。

 火薬と弾丸の原料である硝石と鉛は輸入に頼らざるをえなかったこともあり、貿易の盛んだった九州勢がいちはやく鉄砲を導入。

 ザビエルを日本の運んだのも、東南アジアと東アジアを繋ぐ密貿易ルートを行き交うジャンク船(p.80)。
 
 カトリック勢は「商教分離」を認容しなかったので、キリシタン弾圧の後はそれを受け入れたプロテスタント国に貿易が許可される。

 キリシタン弾圧を招いたのはイエズス会の「わが身を不利にしてまで安息日を守る必要はない」「利子徴収も仕方ない」などの適応主義を、托鉢系のドメニコ、フランシスコ会が原理主義的に批判したことも原因とか(p.84)。もちろん、ポルトガルvsスペインの問題もあるでしょうが。

 石見銀山は博多の商人、神谷寿禎が1526年に海上から光輝く山(仙ノ山)を見て銀鉱脈の存在を確信して採掘を開始。寿禎は宋丹と桂寿(一説には朝鮮人)を呼んで灰吹法で純銀に近いものを取り出せるようになりました。銀の搬出は朝鮮半島経由から、東シナ海の横断ルートが主流になり、ポルトガル人、イスラム教徒、中国人密貿易商が入り乱れての争奪戦も繰り広げられます(p.90)。

 日本国内でも大内、尼子、毛利が石見銀山の争奪戦となり、毛利が勝利したあと、豊臣、徳川の統一権力のものとなります。Fibuk(灰吹銀)と呼ばれた日本の銀は世界通貨だったスペインのレアル銀貨よりも品位が高かったとか(p.90-)。

[第3章 天下統一から世界制覇へ]

 フロイスは『日本史』で信長が「毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を子息たちに分け与える考えであった」と伝えています(p.107)。信長は銀と銭との交換レートを定めるなど統一政権として通交貿易を公的支配下に置こうとしましたが、畿内ではかえって通貨が銭から米に替わってしまい、功を奏しなかった(p.110)。

 信長の跡を継いだ秀吉は、四国統一の勢いを示した長宗我部に対して三方から攻め込み、元親には土佐一国を安堵。九州統一を目指す島津が大友に領土を返還しないことを受けて、秀吉は自ら出陣して薩摩にいたり義久を屈服させ、さらに北条は半年以上の籠城戦で全滅させました。東北をうかがっていた伊達政宗は北条攻めに遅れて参陣することで屈服し、征服した会津を蒲生氏郷に与えられることになります。秀吉は、相手を軍事的に叩きつぶすよりは、圧倒的な軍事力と経済力を背景に「秀吉の平和」を強制した、と。そして、国の内外をほとんど自覚していなかった秀吉は、この論理を唐・天竺までおよぼそうとした、と(p.115-)。

 秀吉の朝鮮出兵は《圧倒的な軍事力に対する強烈な自負を原動力として、明朝=中華を中心とする世界秩序をひっくり返して、自分こそが世界の中心に座るのだ、というビジョンに基づいて遂行された》(p.117-)。ちなみに天正長大判は通貨としては世界最大級だった。また、宣教師追放令は出したものの、商教分離の曖昧さを残したままポルトガル船の来航は奨励したとのこと。

 秀吉の朝鮮出兵は琉球政府からも明に伝えられていたが、朝鮮側はやや規模の大きい倭寇ぐらいにしか考えておらず、十六万の秀吉軍は釜山から二週間でソウルに到達した。また、秀吉は琉球は薩摩に、朝鮮は対馬に従属していると認識していた。また、蝦夷の向こうにいる韃靼=女真族を警戒し、蠣崎氏(のちの松前氏)の臣従を歓迎した。秀吉の「日輪受胎」説話は、中国の歴代王朝、とくに遊牧系の北方民族王朝に類例があるそうです。

[第4章 16世紀末の「大東亜戦争」]

 秀吉は「高麗国」を、北条氏支配下の関東と同様の、かつて征服してきた国内諸地域とまったく同じ感覚で捉えており、禁制を地元民に伝える文書の内容も同じだった。九州が手に入ればすぐに「高麗」に手を伸ばすという感覚にためらいはなかった(p.135-)。唐津の名護屋城は豊臣政権の権力配置の小宇宙で、秀吉滞在中は首都そのものだった(p.138-)。短期間に整備できたのは、中世末からの国内産業の急成長と生産力の向上、物流ネットワークがあったから。

 「日本弓箭きびしき国が大明の長袖国に負けるはずがない」というのが秀吉の口ぐせだったが、講和条件には明皇帝と日本国王との家族ぐるみの関係を国際関係のなかに定着しようとする指向もうかがえた(p.147)。

 小西行長は平壌に進駐してきた明軍に敗れたが、ソウルに撤退した日本軍を追った明軍はソウル郊外の碧蹄館で破れ、戦意を喪失、講和の話しが持ち上がります(ちなみに、碧蹄館の戦いは戦国武将の中で、個人的に最も戦術的力量に長けていたと思う立花宗茂が大活躍します)。また、朝鮮軍は交渉当事者の席は与えられませんでした。

 この講和の動きに反対したのは加藤清正で、いったん蟄居の身となりますが、小西行長はさらに朝鮮側と共謀して暗殺を図ろうとします。しかし、なんと李舜臣が躊躇して失敗。舜臣は罷免されます。

 また、鼻削ぎは日本軍の残虐行為として喧伝されていますが、切り落とした首数で戦功をカウントするのは世界の慣習で、鼻に代えたのはかさばるから。李舜臣も左耳の切り落としを行っているそうです(p.157)。

 講和の失敗の後、ふたたび慶長の役となって泥沼化したものの、秀吉の病死で諸将は帰国。秀吉の野望は女真族ヌルハチに受け継がれます。ヌルハチは毛皮の交易を通じて明の辺境官僚と接触する経験を積み、八旗など民族固有の制度と中華帝国の制度を組み合わせる支配体制をとります。対する秀吉は、国内の「国割」を持ち出したにすぎず、そもそも異文化の中で戦うという感覚が欠如していた、と。

 ヌルハチが後金を建てたのは1616年。配下の兵力は五万人、人口は数十万人だったが、1619年にはサルフで10万の明軍を大敗させて明に動揺を与えます。1636年太宗ホンタイジは後金の国号を大清に改め、朝鮮に宗主国として仰ぐよう求めた。朝鮮はこれを黙殺したが、13万の侵入を招き、臣下の礼をとらさるをえなくなった。

[江戸開府と国際関係の再建]

 秀吉の朝鮮出兵は十六世紀を通じて世界的にも最大の戦争だったが、全力を注ぎ込んだ対外戦争がなんの成果もなく終結したことで、豊臣政権は弱体化。家康がなし崩し的に天下人に上りつめたが、戦争が突然終わったことで、経済が一気に不況に陥った。

 民間貿易は回復したものの、家康は日明関係の修復を目指したが、相手の警戒は緩められず、清の成立後、1682年に日本でも呼称が「韃靼」から「大清」に改められ、共存の相手となった。

 中国人商人が日本に求めたものは銀で、もたらしたものは生糸だった。

 朝鮮通信使に対する日本からの外交使節は釜山の倭館から一歩も外に出ることは許されず、釜山からソウルへの快進撃は善隣外交でも払拭できなかった(p.211)

 統一政権によって鉱山の開発、耕地の造成、治水や利水などが進み、権力の分散した中世には考えられなかった増産が日本にもたらされ、国際的にも自立できる条件がつくられた。しかし、十七世紀末~十八世紀に生産力は飽和状態となり、以後はそれを食いつぶしていった。

 《最終的に鉄砲はを有効に使い切ったのは、織田・豊臣・徳川の「天下人」だった》。

 最も効率の良い物流システムも戦争とともに発展した(P.195)。

 南米の銀が中国に殺到したことで、日本への銅銭搬出基地だった福建地方が銀経済圏となり、銅銭供給が途絶。日本では私鋳銭が大量に出回ったことから、取引が米遣いになった。日本に残る銀もほとんどなくなり、海禁によって流出は止められたが、江戸幕府が寛永十三年から発行した寛永通宝は、自国鋳貨不足の中世的状況に終止符を打つ画期的事業だった(P.197)。

 薩摩の三千の兵による琉球侵攻に対して抵抗の規模が小さかったのは、大交易時代の繁栄を謳歌していたのは琉球王家を中心とする支配層と中国系商人に限られ、農村社会は厳しい生産条件に束縛されていたから(p.212)。

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July 21, 2016

『サッカーと愛国』発売記念イベントin 渋谷LOFT

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 清義明『サッカーと愛国』発売記念イベントに参加しました。二部は時間も遅くなってしまったので、途中で帰らせてもらいましたが、第1部のトークは非常に印象的でしたので、振り返りたいと思います。

 第1部はMCタツさんを司会に清義明×木村元彦さんで始まり、途中から李忠成選手の父親で本の中で印象的なインタビューを残している李鉄泰さんが加わりました。

 冒頭、木村さんからだった。「サッカー界には『日本代表が弱くてはこの業界が持たないし、メディアも潰れる。だから応援しろ』というロジックが広がっていて、ジャーナリズムの世界も基本である批判することではなく応援するのが当たり前になってきた。そこから(レイシズムなどの)大きな問題出てきたんじゃないか。そうしたことが、信じられないことにレイシストが大手を振って選挙に立候補するという事態にまで至っている」という日本代表にひそむ"愛国者ビジネス"の構図が問題提起されました。2002年の日韓ワールドカップは共催国として盛り上げなければならず、批判することは「ガンバレ日本に水を差すことになりかねないということになった。しかし、70~80年代からの書き手は、当時のサポーターがいくら渋谷の交差点でハイタッチしたいだけとは分かっていても『日の丸を振ることが愛国心というのは勘違いだ』と感じていたはずで、それを誰かが書かなければならなかった」。

 これを受けて清さんは「職業的サッカーライターとしては書きづらい問題だとは思ったけど、基本は書きたいことを書いた。正直、使命感もあったがさまざまな出来事に興味というか、もうちょっと踏み込みたいという気持ちが強かった。そして、浦和レッズの無観客試合で感傷的で無内容なことばかり書いている記事に呆れたということもあった。仮にもジャーナリストなら、もっと問題を掘り下げていくべきで、感動的で綺麗な話しとして『不幸なあれはなかったことにしよう』という記事にはならないだろうと思った。しかも、浦和レッズのサポーターグループにああいう傾向(嫌韓)があるのは誰でも知っていたこと、それを知らないと語るライターまでいるのは信じられなかった」と執筆のモチベーションを語り、木村さんは「差別のグロテスクさにくらべれば、無観客試合でのボールの音なんかどうでもいい。きっちり向き合わないかぎり、また同じような問題が起きる」と補足。以下、このような感じで進行しました。

清「トルコでクーデター未遂事件があったが、フットボール映画祭で上演させてもらった『イスタンブール・ユナイテッド』を見てもらったら、トルコのクーデターは見え方違ったと思う。一見すると、民衆が出て軍隊に抗議したという構図は違う。エルドアンの反対派はリベラルであり、不当に排除しようとした公園を、抗議のために占拠したのがあの映画。サッカーのサポーターは政治的にも大きな役割を担っている」

木村「(エジプトでも)ムバラク退陣を求めた時、機動隊との対峙のスキルはサッカーのサポーターが最も優れていた。きっかけさえあれば、大きな力となる。天安門事件は、(社会主義の開放路線の象徴となっていた)ゴルバチョフが中国に来るので、空港で出迎えようということでスタートしたが、あまりにも人数が多くなって、当局が天安門に引っ張っていったら、最後は戦車まで出さざるをえなくなってしまった。最初はワンイシューでも大きくなることはこれからも考えられる」

タツ「バナナを食べるサッカー選手たちの章で印象的だったのは、差別を理解していないようなグループが悪ふざけでやったら、でかいことになったこと」

清「サッカー界は、こうした問題では日本でも先端的を行っている。自分たちビジネスのテリトリー内でこれをやったらダメで、しかも処罰するということを明確に打ち出している。ついこの間まで、市役所でレイシストが集会をやっても大丈夫な社会だったことを思えば進んでいた。それは、差別行為にはゼロトレランス(無慈悲)でのぞむという姿勢をFIFA、UEFAが打ち上げてからでもある。ブラッターは金権問題で批判されたけれど、アウトサイダーの国にも目を向けていたという一面もある」

木村「その点、野球は酷い。相手ベンチからも酷い言葉が投げかけられる。クロマティなどは、広島との試合で、呉に上陸した米軍のネイビーから『ニガー』と言われたと書いている。また、1975年に、それまで日本人純血主義だった巨人がデーブ・ジョンソンを獲ったのも『白人だからOK』みたいなことが新聞にも堂々と書かれていた。サッカーは、サッカー村全体がそうした問題には厳しいから、そんなことさすがに起こらない」

清「サッカー協会は日本のロールモデルになってもいいなと思う。差別は悪いことで、やったら処罰されることなんだと確かに伝わっている」

木村「村井チェアマンはマトモで、いい仕事をしている」

 ここで、李忠成選手の父親である李鉄泰さんが参加、4人のトークに。

木村「日本のサッカー史で触れられていないのが、朝鮮高校サッカー部の歴史。朝高は信じられないぐらいモダンなサッカーやっていた。キムミョンシク(金明植)などが在日蹴球界を引っ張り、練習試合では習志野、帝京なども歯がたたなかった」

李「40年前に、いまのJリーグでやっていたようなサッカーをやっていた。当時の朝高と今のJのサッカーは非常に似ているというのが実感です」

木村「オフトなどによってシステマチックなサッカーが広まってアイコンタクトなども一般的になったが、サッカーは将棋やチェスのようなスポーツであり、相手が動いたら、守備は2人でこう動く、というセオリーがその前から朝高にはあった」

李「高校3年の時、読売クラブの二軍と練習試合をやりました。勝負なので負けましたが、内容からすれば圧勝していたと感じていました」

木村「高校サッカーには『朝高詣で』という言葉もあったぐらいで、強豪が朝高の胸を借りにきていた」

李「帝京ともずっと練習試合をやっていたんですが、日本一になってからは、なぜかやらなくなりました」(会場爆笑=だから弱くなった、みたいな)

木村「昔、FIFAは旧社会主義国との親和性が高く、平壌でサッカースクールをやった時に来ていたのは、後にロサンゼルスオリンピックで(三位になった)ユーゴ代表のスタッフをつとめていた人物だとオシムさんから聞いている。なんと朝高は多色のビブスをつかったオシム流というか、ユーゴ流の練習を70年代からやっていた。高校サッカーの強豪が朝高とやって8-0で負けたという歴史も日本サッカーにはあるんだということをぜひ残したい」

清「李さんは、東海大学でサッカーをやった後、フリューゲルスの前身であるロッキード・トライスターに参加しています」

李「後に町田ゼルビアを立ち上げたりするような人物も出るような、一匹狼的な選手が多かった。カルバリオなんかもいた」

清「フリューゲルスはユース大切にしていた」

木村「名古屋グランパスで、大学の無名選手を追いかけて入団させて、ピクシーの時の優勝につなげたような名スカウトも朝高からは出ている」

 ここまでトークが進んだあと行われた会場からの質問は、ほとんど李さんに集中した。

李「ぼくらは日本で生まれて故郷が日本だと思っている。韓国は先祖の国。韓国に旅行はするけど、日本に帰ることができる、と感じる。日系アメリカ人みたいな感じ。ナショナリズムの問題でいろいろあったが、わたしは日本を日本人より愛している。忠成がサザンプトンに行った時も、持っていったウォシュレットをチームメイトに使わせたら『こんな凄いのを日本はつくっているのか』と感動していて誇らしかった。ただ国籍は違う」

木村「シラクとミッテランが大統領選挙を争った時、フランス人の定義が議論になった。シラクは何代前からフランスに住み…と細かなことを言っていたが、ミッテランは『フランス語が話せてフランスに税金払っていればフランス人だ』と明快な答えだった」

李「私も外国人に国籍について聞かれたら『Almost Japanese』と答えている。『Japanese Only』の事件は忠成が移籍して起こったと言われて辛かったが、今ではやっとチャントもできている。電車に乗っていて忠成の名前が出てビックリしたのは、オリンピックの時と、『Japanese Only』の時の東スポに出た見だし」

李「レッズに移籍するときは『大変だよ』と周りからも言われていた。忠成にも『普通の日本選手の2倍、3倍やらないと認められないぞ』と伝えている。いったん地獄に落とされたが、そこから這い上がり、いつかタイトル取ってほしい。あの時は、周りからは『出た方がいい。他のチームでも受け入れる準備はあるんじゃないのか』という話しもあったみたいだが、私は『乗りかけた船から降りるのはどうなのか。他に行っても同じような問題が起こるぞ。逆境を乗り越えないとどこに行っても同じだ』と伝えた。イギリスでは怪我して結果がでなかったが、腐っても我慢してやるしかない。また、事件の後は、すぐに警察が来て、家の警備を強化してくれた(のは嬉しかった)」

李「(様々な差別をどう乗り越えてきたのか、という質問に)もう免疫ができてしまって、悲しいかな無感情になっているのかもしれない。日光東照宮の『見ざる言わざる聞かざる』方式でやり過ごすしかない」

木村「差別は日本人の問題。こういう思いをさせてはいけない」

李「人間は自分、家族、郷里、ナショナリティが大事。国と国との戦いになると感情が抑えられない。気持ちが燃えるから、そこから差別も出てくるのかもしれない。日本代表で盛り上がる渋谷のスクランブル交差点は『たったひとつのアースに、みんな人間として立って、喜び合っている。そこには国籍などないかもしれない』と思ったこともあった。しかし、もし他の星と戦うようになったら『火星に空気はあるのか?鳥は飛んでいるのか?』などと言い出すかもしれない。差別をなくすために努力するのは本当に大切。今日は少しでもそうしたアクが抜ければと思ってやってきた」

 以上です。

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July 20, 2016

『サッカーと愛国』

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『サッカーと愛国』清義明、イースト・プレス

 代表にもあまり人気がなかった頃からサッカーを見て、日本代表を応援してきたわけですが、著者と同じように香山リカさんの『ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義』には、その素晴らしいネーミングセンスも含めて「ちゃんと世の中を見ている人というのはいるんだ」と思いました。

 渋谷のスクランブル交差点ではしゃぐにわか日本代表サポーターは、「にわかが一番カネ離れがいい」というマーケティングの法則に基づいて、サッカー関連グッズの購買層として大切にされ、サッカー業界からは好意的な扱いを受けましたが、違和感がぬぐえませんでした。

 個人的には、日韓ワールドカップの前後から、エディプス期がないような、抑圧と対峙せずに目の前の現実への批判意識に乏しい人間が増えてきたように感じていて、その無自覚で無邪気なナルシス的人間類型の分析が痛快でした。

 しかし、分類が痛快で笑えると思っていたら、こうしたぷちナショ層がネットを中心に増えていき、ついには在特会のようなモンスターまで生むようになり、笑い事ではすまなくなりました。

 「健全なナショナリズム」はちょっとした弾みで「排他的ナショナリズム」に衣替えしてしまうことは、『サッカーと愛国』でも、無邪気な側面もあったぷちナショナリズムがグレムリンのようなレイシストを生む過程としてリアルに描かれています。

 DJポリスとして人気となった警官が、翌週には在特会のデモに抗議する人々に対して「警告する」「検挙する」と装甲車の上から威圧していたというのは、この本によって知りました。ヘイトスピーチ法ができる前は、こうした在特会などに対する抗議自体が警察から威圧されていたというのは、薄ら寒さを覚えました。

 韓国ホームの日韓戦で旭日旗をヤンキーノリで振った事件の顛末も、知っていた部分もあったけれど、その人物のお坊ちゃまであり「腕っぷしは弱いくせに、トラブルを起こすことが多い。極めつきの変わり者」という描写にはうなりました。じっさい、そうした困ったちゃんはどうしてもいますもんね。

 また、スタジアムで激昂して問題を起こし、出入禁止となったサポーターたちは半年とか1年ぐらい試合後のスタジアムや道すがらのゴミ拾いなどのボランティアなどに精を出して、事件が忘れられた頃、解除されるという過程も初めて知りました。

 著者は韓国や中国のサポーターに「旭日旗は自衛隊も使っている普通の旗だ」と説明しますが、話しはかみ合わず、最終的にはサッカースタジアムにおけるこうした煽り行為は、これまでも世界では実際に発生した「戦争に発展しかねない危険な行為」だとして、やめるべきだとしています。

 帯びには「スタジアムには日本人が知らない世界基準がある」として欧州、アジアのサポーターに具体的事件に対して意見を聞いてて、流儀の背景には国民国家や欧州ではそれ以前の都市国家間の流儀があるのかな、と。そこがNational Passtimeとして野球との違いかなとか考えました。

 皆さん書いてるけど李忠成の父親のインタビューが秀逸。忠成の祖父は特攻隊の生き残りだったとは…。中央大学法学部で弁護士になりたかったけど、親類が帰国運動で北朝鮮に渡っているので日本国籍にすると弾圧されるおそれがあったから日本国籍をとって法曹の道を進むことを断念したとか。父親は各種学校扱いでも入学できた東海大でサッカーをやっていたというリアルは凄かった。

 また、北朝鮮代表として南アのワールドカップにも出場したチョン・テセが韓国籍というのもこの本によって教えられました。父が韓国籍、母が朝鮮総連の活動家で、父が本人と母に無断で韓国籍に。北朝鮮代表なのはパスポートを持っているから。FIFAは世界中でばらばらな国籍概念を考慮して、所属はパスポートを優先、と(p.168)。

 イングランドの黒人選手の扱いについて、86年W杯綬決勝で黒人のスタメンはひとりもいない、というのは正しいけど、スーパーサブのバーンズが後半から出て、リネカーにアシストしているんですよね(バーンズはイングランド代表でぼくが初めてみた黒人選手でした。いい選手だった)。

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June 04, 2016

『室町幕府と地方の社会』#2

『室町幕府と地方の社会』〈シリーズ日本中世史 3〉、榎原雅治、岩波新書

「第1章 建武政権と南北朝の内乱」

 『室町幕府と地方の社会』は鎌倉幕府の滅亡から始まります。モンゴル襲来後も各地で所領紛争が続き、得宗が強権化を図って御家人たちと対立し、朝廷でも大覚寺統と持明院統という二つの皇統が争い、鎌倉幕府の意向がなければ次の天皇も決められない状態の中で後醍醐は倒幕を画策。二度目の時には隠岐に配流となりますが、壱岐を脱出すると山陰の武士たちが集結した、と。1333年、幕府は足利尊氏(当時は高氏)に攻撃を命じますが、自分自身の目で京都の現状を見た結果、逆に倒幕を決断するに至った、と。

 幕府の京都出先機関である六波羅探題の仲時は5月7日から始まった尊氏の攻撃により一族とともに自害、新田義貞が22日に鎌倉を総攻撃すると得宗の高時は数百人の郎党とともに自害してあっけなく滅亡。六波羅、鎌倉に続き、九州の鎮西探題である英時も大友氏らの攻撃で25日に自害し、半月あまりで建武政権が成立します。

 後醍醐は皇子や側近の公家を関東や奥州に送り込む遠隔地統治を構想しますが、武士たちは一連の戦いによる軍功の認定を尊氏に求めます。倒幕の功労者は自分であると勘違いする後醍醐の子・護良親王は尊氏と対立、捕らえられ、鎌倉に送られます。

 そこで発生したのが高時の子時行による挙兵。尊氏の弟、直義は鎌倉脱出の際に護良親王を殺害します。勅許を得ないまま鎌倉に向けて出発し、これ落とした尊氏に驚いた後醍醐は尊氏に征夷大将軍の名を与えます。そして弟の直義は尊氏に鎌倉で幕府を開くことを勧めたので、尊氏もとどまる、と。

 尊氏は新田義貞の所領を武士たちに与えます。これに怒った後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じますが、京都で敗走。後醍醐は比叡山に逃げ、尊氏は京都に入ります。

 しかし、後醍醐から奥州の支配を任されていた北畠顕家の軍が京都に迫り、これに僧兵や楠木正成が加わった攻撃で尊氏は京都を脱出、海路九州に向かいます。そこで大友氏らを従えて立て直し、湊川で義貞・正成を破り、後醍醐は再度、比叡山にという目まぐるしい動きが1336年まで続きます。尊氏は1336年に建武式目を定めて事実上の幕府を成立させますが、このあと半世紀も混乱は収まらなかった、と。

 最初、室町幕府は尊氏と直義の兄弟が政権を主導しますが、そこに足利家の家宰をつとめていた高師直が割って入り、直義と師直の関係は悪化します。

 1349年~52年の「観応の擾乱」では、師直が直義排除を求めて幕府を軍勢で取り囲んだことで、尊氏は要求を受け入れます。直義派の有力武将も殺害され、直義も出家を決意しますが、政治生命が終わったかと思われた時に子の直冬が太宰府に入り、九州で一大勢力を打ち立てる、と。これを討つべく師直・尊氏は進撃しますが、その留守中に直義は南朝に接近して尊氏追討の宣旨を受け、摂津打出浜で師直・師泰兄弟を破り、高一門は滅亡。

 高一門の滅亡で直義の執政が再開されますが、彼はなぜか公家や寺社の荘園領主たちを擁護。こうした直義の方針は不安定さを増し、反発する武士たちを制御できなくなって京都を出奔。ここで尊氏はすかさず南朝と講和。京都を子の義詮(よしあきら)にまかせて出陣し、薩田山で勝利。捕縛された直義は翌日、急死(毒殺と推定)。

 しかし、九州に残っていた直冬は南朝から義詮追討の綸旨を得て、再起を図る、と。この勢いに義詮はいったん京都を脱出するも、尊氏・義詮が再び京都を奪回して足利家内部の争いはようやく収まる、という訳の分からない戦いが続きます。

 なんで、南北朝が続いたというか、南朝が続いたのか、という疑問について、著者は、その原因を北朝を擁する幕府内部の争いで劣勢となった勢力が南朝を呼び起こしたからだ、と説明しています(p.25)。また、足利家は鎌倉幕府の最有力の御家人ではあったが、一門の中では宗家としての隔絶した権威を確立できておらず、後醍醐の倒幕計画という外的要因によって政治の表舞台に出たのも要因だった、と。

 とにかく、こうした動乱によって《南北朝時代というのは、数万、数十万もの人々が列島を東西に移動した時代でもあった》と(p.29)。

 武士たちが戦場に向かったのは軍功を立て、恩賞としての所領が欲しいから。すでに当時の技術では耕作可能地はほぼなくなり、そうなると新たな所領を得るためには勝ち馬に乗ることが重要で、そうしたダイナミックな動きが根底にある中で鎌倉幕府は半月で滅亡した、と。数々の困難に遭っても尊氏が復活したのは、こうした武士の意志があったからだ、と(p.33)。

 こうした抗争の中で足利一門も淘汰され、斯波義将と細川賴之が勝ち残りますが、三代将軍義満の育ての親でもあった賴之は、幕府を取り囲んだ兵から罷免を要求されて守護国である讃岐に去り、結果的に22歳となっていた義満の自立が促され、ようやく政局も落ち着きます。

 室町幕府が複雑なのは、関東には鎌倉府、東北には奥州探題が置かれていたほか、九州の九州探題は南朝側の勢力が盛んで斯波氏は九州に入ることもできませんでした。島津氏も暴れ、ようやく帰順したはの1381年、というのが第1章。

 凄い歴史ですよねw

 しかし、鎌倉幕府の得宗家も、足利直義も、所領安堵の訴えがあまりにも多く、それに対して矛盾しない一定の方針を出して処理しようとしたのが裏目に出て滅亡させられ、という印象です。「昔に返れ」ということは、荘園制度を認めることにり、そうなると直義のように武士から反発を喰らいます。家康が1世紀以上の戦乱をへて幕藩体制を確立できたのは、荘園制度の崩壊過程にとどめを刺すことができたから、なんて感じでしょうか。鎌倉、室町の時代は、そうした下部構造から来る矛盾を解決できる手法をまだ持ち合わせていなかった、みたいな。

「第2章 建武政権と南北朝の内乱」

 足利直義の敗北と死は大きな影響を残しましたが、尊氏と南朝との講和が崩れたため、南朝軍は京都から引上る際に、光厳・光明・崇光の三上皇と前東宮の直仁親王を吉野に連れ去ってしまいました。窮した幕府と北朝が引っ張り出してきたのが15歳の少年で、三種の神器もないまま即位して後光厳天皇となります。北朝の公家たちは継体天皇の例を出して自らを納得させたとか。

 しかし、代役感はいなめず、蹴鞠を見物されたり、延暦寺と興福寺の僧侶たちの喧嘩が紫宸殿にも及ぶなど権威はガタ落ち。在位中、三度に渡って京都を侵される始末。後光厳天皇は退位して子の緒仁親王が後円融天皇に即位しますが、帰京していた上皇たちは自分の子が天皇となれず反発を強めます。

 こうした事態に摂関家の二条良基が考え出したのが義満への接近。将軍を公卿として宮廷に呼び込み、資金難で滞っていた神事などへの支援も頼もうという一石二鳥の考え。これには、対立者たちがことあるごとに南朝の名を借りて挙兵するのに困っていた義満側も渡りに船と応じた、と。こうした義満の公家化は、かつて「王権簒奪」と呼ばれたこともありましたが、公家と武家の意図が《一致したところで実行されたというのが実際であろう》と(p.55)。

 義満はまだ若い頃、大名たちの兵に囲まれて信頼する細川頼之を罷免せざるを得なくなったことから、数ヵ国の守護を兼ねるような土岐、山名、大内など大名の淘汰に乗り出します。

 また、南朝に対しては、二代目の義詮の時代から将軍の代始めにともない、セレモニー的に攻撃を仕掛けることが行われていきます。山名を討った1392年には後亀山が帰京して南朝を接収しますが、待遇の悪さに出奔。規模は縮小しつつも、不満分子が南朝を担ぐことはなくならなかったけれども、義満は武家に対してだけでなく公家や大寺社の荘園の安堵を与えるようにもなり《従来の治天の君に相当する機能を獲得した》と(p.64)。

 尊氏も権威のなさに悩んでいたみたいだけど、室町幕府の将軍たちは、諸大名から同格と見られていたんだろうな、と。で、同格だと思っていたから、応仁の乱であれほど京都をメチャクチャにできたんだろうし、最後は自らも潰れてしまい、戦国時代を生き延びた守護大名は少数ほとんどいない状態にまでなったのかも。
 シリーズ日本中世史の1巻『中世社会のはじまり』では、荘園など所有物に価値が高まり、それを子孫に間違いなく残すため氏から家への変化が生まれ、院政も天皇が自分の子供に位を譲るために始まり王家となっていくことが描かれていましたが、公家でもイエが成立して、上級の公家と下級の公家の間には主従関係が結ばれるようになります。こうした中で、義満は公家たち家礼として登用するようにもなりますし(p.65)、武家も公家と婚姻関係を結ぶようになります(p.83)。

 一方、武家たちは九州と東国除き、守護の在京制がとられました。大きな権力を持った義満亡き後、在京の大名たちは、義持の諮問に応じて審議を開くようになる、と。

 また、この時代は「郷に入っては郷に従い」とか「師の影を踏むべからず」などの典拠となった『童子教』が成立したほか(p.87)、猿楽によって庶民が歴史を学ぶことが多くなります(p.91)。義政は《賤民出身とされる庭師善阿弥を重用》したりします(p.96)。

「第3章 南北朝・室町時代の地方社会」

 鎌倉幕府の守護は《同一国での世襲は顕著でなく、官吏としての性格の強いものであった》が、内乱状態が続く中、室町幕府は《守護に内乱に立ち向かう軍事統率者としての役割を発揮》することを期待し、刈田狼藉の取締権限と、使節遵行(所領紛争の強制執行)の権限が付与されたほか、恩賞として与えられる土地の処分権限も委ねられるようになった、というんですね(p.118-)。

 日本の封建制は、鎌倉幕府の時には官吏に近く、それが室町から戦国時代にかけて一国一城の主となって国を治めるようになり、織豊政権、特に秀吉によって再び官吏化が志向され、家康から綱吉にかけて幕藩体制(幕府と藩による統治)という日本的な封建制といいますか、契約によって成立する封主(ヘル)と封臣関係としてのレーエン封建制は幕府と旗本、外様はそれまでの既得権=私物化された官職「プフリュンデ」を持つもの官吏が地方を治めるという体制で落ち着いた、ということなんでしょうか。

 とにかく、幕府の権力が及ばないために、守護と武士たちとの間に主従関係が結ばれていく契機となった、と(p.120)。さらに守護たちは流通、宗教の拠点も掌握するよにうになった、と。

《近年の研究でとりわけ重視されているのは、室町時代には、武家領荘園を支配している守護、奉行衆などの有力な武家が在京していた点》で、武家領を内包した荘園制の新たな段階としてとらえられる、というのはなるほどな、と(p.129)。

 中世は神仏習合の時代であり、鎮守の社は寺院と一体化しており、大般若経は雨乞いなどの祈祷に用いられるために保管された、というのは面白いな、と(p.135)。

「第4章 室町公方の理想と現実」

 義満が没し、義持は「仁政」という言葉で、寺社領保護の方針を打ち出しますが、義持が後継者を決めないまま没した後、籤にによって選出された義教は訴訟に対して公正な態度で臨む方針を明らかにしますが、いささか専横がすぎた、ようです。

 室町幕府は、東国武士たちをおさえるために鎌倉公方を置いていました。たびたび叛乱を起こされた鎌倉公方持氏に対して室町幕府は恩を売りますが、そうなるとかえって鎌倉公方である持氏は関東管領である上杉氏の補佐から脱し、関東の武士たちを主導する体制を志向するようになるのは人の世の常なんでしょうか。これに対して、義教は富士見旅行を兼ねた示威行動をとり、いったんは大人しくなります。しかし、鎌倉との関係が小康状態となった後、比叡山で問題が起き、義教の管領細川持之が月輪院らを斬首したことで、怒った山徒たちは根本中堂に籠もって火を放ち、堂もとろも自害して抗議する事件が発生。

 これに動揺した義教を見透かすように鎌倉公方の持氏が動き始めますが、これは討伐されます。しかし、義教はささいなことで大名を取りつぶして殺害するようなことを続け、こうした義教に恐怖した赤松満祐によって暗殺されてしまう、と。

 義教の死後、嫡子が公方になりますが、弟なども含めて早死にが相次ぎ、13年も幼君の時代が続きます。こうした中、管領家の後継問題や、関東の動揺(古河公方の成立)で軍事行動が活発化して、兵糧を確保するための略奪が横行するなど幕府の根幹は大きくきしむ、と。

「第5章 動乱の始まり」

 鎌倉時代も含めて中世の「徳政」はあるべき秩序の回復を意味していましたし、改革が常に古の善政に戻ろうとするのは洋の東西を問わないようです。中世は荘園など所有物に価値が高まり、それを子孫に間違いなく残すため氏から家への変化が生まれ、院政も天皇が自分の子供に位を譲るために始まり王家となっていく、というのは〈シリーズ日本中世史 1〉の『中世社会のはじまり』から、繰り返し語られてきましたが、それでも当時は《本来の持ち主の強い権利を求める観念があり、売却すら仮の姿であって、為政者の代替わりや大きな天災のような変事があれば、元の持ち主に戻って当然とする期待があった》そうで、義教が籤によって公方となった正長元年(1428年)にも、徳政を求めて一揆参加者が土蔵や酒屋を襲って略奪を行う「私徳政」が発生したそうです。そして義教が暗殺された1441年には大規模な徳政一揆が発生、幕府が初めて徳政を発布します。

 この後、徳政一揆は連年化していきますが、応仁の乱中にはほとんど蜂起がなく、《徳政一揆参加者と応仁の乱における足軽たちは、実はおなじ人々だったのではないか、彼らは生きていくために都に流入してきた飢民》ではなかった、という研究もあるそうです(p.193)。このため、大将の統制もきかずに11年も応仁の乱が続いたのではないか、と。

 また、飢えた人々の京都への流入は、畿内では常時、戦闘が行われて、軍勢によって荘園の田畠が刈り取られてしまい、非常用の粟・稗も奪われてしまったことが原因でした。最悪の飢饉となった寛正の飢饉(1461年)には、京都は数万の乞食があふれるようになっていたそうですか、広汎な天候不順というよりも人災の側面が大きかった、と。

 関東では鎌倉公方が古河に逃げて古河公方となっていましたが、義政がその追討を目指す足元で、《内紛で沈む斯波・畠山両家を後目に、細川勝元と山名持豊(宗全)の発言力が高まって》いき、この二大勢力を斯波・畠山両管領家などが頼っていくことによって応仁の乱は発生した、と。

 政治に倦んだ義政は一貫性のない対応を行い、応仁元年の1467年に応仁の乱が始まる、と。西軍、東軍とも幕府の体裁を整えるに至り、東幕府と西幕府と呼ぶ研究者もいるそうです(p.204)。

 だらだらと戦闘が続く中で参加者たちの分国では国人たちの争いが始まり、放置できなくなった大名たちは京都を離れ、室町幕府の基本体制だった守護在京の原則も崩れた、と(p.209)。

 義政は政治に倦んで、将軍の座を弟の義視に譲りますが、富子との間に子(義尚)が生まれて跡目争いが生じます。義視は山名、富子と義尚は細川につきます。義尚も当初は善政を目指したと言われていますが、愛人関係にあった結城尚豊を近江守護に任じたりして一貫性はなく、将軍の威光を示そうとした六角攻めが長引き病死。その後、明応の政変など将軍の跡継ぎ問題も起きますが、北条早雲など戦国大名が台頭してくる、と。

 室町幕府は、建武年間の戦乱で荒廃した京都から始まったが、応仁の乱で荒廃した京都は都市城を縮小させるも町人の力で祇園祭の山鉾巡業が明応九年に復活するなど、新たな時代への動きも出てきた、というところで、本書は終わります。

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May 29, 2016

『室町幕府と地方の社会』#1

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『室町幕府と地方の社会』〈シリーズ日本中世史 3〉、榎原雅治、岩波新書

 全25巻で完結する岩波新書の日本史シリーズの掉尾を飾る中世史シリーズの3巻目『室町幕府と地方の社会』は、思っていたより、遥かに印象的な一冊でした。

 室町時代について、一般的に考えられている1)意外と知られていない2)資料が少ない3)足利幕府の将軍に印象的な人物がいない4)「応仁の乱」は始まりも途中経過も終わりもわからない5)なのに今に残る日本の伝統文化はだいたいが室町時代から続いている理由がわからない―という疑問に全て答えてくれたと感じています。

 足利幕府に対するネガティブなイメージは、明治政府が庶民に天皇制の絶対性をマインドコントロールさせたためですが、将軍が暗殺されたり、両立したりする混乱は、二度目の武士政権(農民政権)である室町幕府の統治能力が高められなかったからであり、織豊政権を経て250年の泰平の世をまがりなりにも実現した徳川幕藩体制というのは、当時の技術・社会基盤の許す限りにおいて、そうした失敗から学んで精緻な支配体制を整えた結果なのかな、なんてことを思いました。丸山眞男が江戸時代について「江戸幕藩体制の成立=荘園の完全な消滅」とクリアカットすぎる説明をしていることも思い出しました。

 だいた義満の皇室への接近も、南北朝の混乱の中で即位した後光厳天皇が、蹴鞠しているところを周りで見物されたり、延暦寺と興福寺の僧侶たちの喧嘩が紫宸殿にも及んで食事に血が飛ぶなど権威がガタ落ちとなったことが遠因。摂関家の二条良基が義満への接近を考え出し、義満側も幕府の対立者たちが南朝の名を借りるのに困っていたので渡りに船とばかりに乗ったというのが見取り図でしょう。

 シリーズ日本中世史では「鎌倉時代に耕地開発の飽和期を迎えた」という基本認識が共有されています。そうしたゼロサム社会の中で、荘園の実質的な所有者として武士(武装農民)が公家や寺社に対して一定の権益を確保することで安定したわけですが、著者が〈おわりに〉で書いているように、地方の武士たちの所領確保の欲求は低減するわけはありません。また、飽和段階にあった耕地開発もさらに進められたわけですが、それは災害への脆弱性もはらみ、社会の不安定さを増します。

 しかし、この時代に形づくられた土地台帳は、現在でもほぼ確認できるそうです。フィールドワークを行うと40年ぐらい前までは《七百年間、同じような用水が使われ、変わらぬ形をした田んぼが耕され、変わらぬ名前で呼ばれていた》ことがよくわったそうです。

 しかし、そうした土地も宅地化、道路建設、圃場整備事業などで形は変わっただけでなく、少子化によって七百年間続いてきた農村、漁村の存続自体も危うくなってきています。また、畳や襖、障子に囲まれた日本家屋での生活も当たり前ではなくなり、お茶やお花なども日常生活から縁遠くなってきています。著者にかわってさらに付け加えれば、能・狂言も国が補助金を出さなければ存続できない状況です。

 《そのように考えれば、今、私たちは十四、五世紀くらいに産声をあげた長い、一つの時代の終焉に立ち合っているといえるかもしれない》という言葉は印象に残ります(p.224)。

 以下は箇条書きで後から面白かったところを追加していきます。

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April 12, 2016

『鎌倉幕府と朝廷』

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シリーズ日本近世史2『鎌倉幕府と朝廷』近藤成一、岩波新書

 「はじめに」で、強調されているのは頼朝が日本全国を統治することを意図していたなら幕府を創設しなくても、朝廷の主導権を握ったり、自ら天皇になるなど様々な方法がありえたはずだ、というあたり。後述されるように幕府側は京都の政治とは極力、距離を置き、朝廷の方から次は誰が天皇となるかなどについての「お墨付き」を貰いにくるという具合であり、しかも鎌倉は京都のような種と機構を引き受けられるほどの規模ではないし、三方を山に囲まれている、と。

 頼朝は東日本政権のようなものを目指していた、という話しは定説になりつつあると思いますが、《京都から百里以上を隔てた僻遠の地に、三方を山に囲まれ》た幕府と書かれてみると『ワルシャワ労働歌』の最後を思い出します。

「砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく」

 というあたり。

 鎌倉幕府は百姓が独自の倫理観で自前の権力をつくり、地頭の設置から承久の変を経て全国に支配権を広げたという東アジアでは燦然と輝く歴史的意義を持ちます。それを成し遂げた坂東武者は凄いな、と思うと同時に、全てを自分たちで決めなければならない自前の権力ならではの疑心暗鬼、それが高じての内部での権力闘争から生け贄を見つけての陰惨な集団テロといいますか内ゲバに走るという暗黒面は、タガが外れるとヒトは類人猿の暴力性からは逃れられないんだな、とも感じます。

 もっとも、頼朝が権力基盤を強化できたのは、平家追討によって、その所領を恩賞として与えられた、という事情もあって、幕府による白色テロが起こるのは得宗家の代替わりの時期であることを考えると、目をつけられた家が滅ぼされ、それを恩賞として与えるためなのかな、なんてことも考えました。

 それにしても面白いです。日本史の中でも明治維新、織豊政権から徳川幕府の成立あたりと並ぶ面白い時代なので、ある程度は分かっていたつもりだったんですけど、凄い情報量を整理して伝えてくれているから、分かりやすくて面白い。頼朝の直系が絶えた後も、女系や立太子されなかった皇族の就職先として将軍が鎌倉に向かったあたりの話しも。

 これまで刊行された岩波新書の23冊の新しい日本史シリーズの中でも、加藤陽子先生の『満州事変から日中戦争へ』と並ぶ、単独で読んでも十分面白い、筆者である近藤成一先生によればGeschichteというか歴史物語だと思います。まあ、時代が面白いというのもあるんでしょうけど。

 頼朝は1194年に征夷大将軍を辞しており、賴家が後継になっても朝廷からこの職に補せられたのは1年7ヵ月後であり、征夷大将軍に補せられることが幕府の首長であることを意味するようになったのは、実朝からだ、というのも知らなかったな(p.27)。

 後鳥羽上皇が命名した実朝が暗殺されたことは朝幕関係を変化させて承久の乱になるのですが、その後は皇位継承を巡る混乱が続き、後高倉は皇位を経験せずに院政を行ったり、そのため即位後わずか78日で廃された仲恭天皇に諡号が贈られたのは明治時代になってからとか(p.39)。

 ここまでが幕府成立から執権が確立するまでの話し。

 長谷川宏さんの『日本精神史』やそのモチーフとなった丸山眞男さんの著作からも、御成敗式目は日本史史上に燦然と輝く理性の法というか、朝廷が律令制を中国から取り入れたのに対して、農民出身の武士が自ら考え抜いた自前の法だと改めて感じているんですが、それが太陽歴で7月~8月に雪が降り、霜が降って大飢饉になった寛喜の飢饉の最中に制定されたというのは知りませんでした(p.48-)。

 御成敗式目の制定時期は幕府の成立根拠であり権力基盤となった本領安堵から一定期間が過ぎ、相続が問題となりはじめたことに対応しているのかもしれませんが。

 また、貴族や寺院などの荘園は従来、荘園領主(本所)のもとで下司が行っていたのですが、源頼朝が地頭を置いたために、下司が地頭に置き換わっていき、本所が下司のように解任できなくなったことから、幕府に訴えざるをえなくなった、ということもあるようです。

 蒙古襲来が苦労した時宗が弘安七年(1284年)に34歳で死去すると安達泰盛が政局を主導し、弘安徳政が行われます。研究概念として整理するならば、「徳政」は中世における理想の政治という広義の意味を有するのに対して、「徳政令」は質流れ・売却地取り戻しとう狭義の意味で用いられるといいますが(p.175)、泰盛が目指した源氏将軍回帰は翌年、霜月騒動で一族500人が滅ぼされることで否定されます。

 鎌倉幕府は頼朝という玉を抱えて関東の百姓侍が自分たちの所領を朝廷から守ろうとした地域権力で、御成敗式目などの草の根的発想の法律も自らの手でつくった偉大な政権だと思うんですが、伝統もなく野蛮な性格から十分には抜けきることでできず、執権・得宗が変わる度に誰かが追討されて滅ぼされるという剥き出しの暴力が繰り返される印象。

 鎌倉時代の訴訟のやり方も面白かった。鎌倉幕府の裁判は訴状と陳状を引付を通して交換することで行われるんですが、訴訟を継続する財力を考えて三回までで打ちきられ、これを三問三問という、と。その後、訴人・論人に出頭が命じら口頭で質問され、引付は判決原案に相当する勘録を作成し、評定で決する。プラグマチックだよなぁ。

 十二世紀に展開した大規模開発が本所と下司・地頭という重層的な領有構造と分割相続という相続形態を生み出したが、開発が限界に近づくと、その二つの構造が二つながらに社会矛盾となり、訴訟を続発させたという構図もあったようです(p.212-)。

 以前は鎌倉幕府滅亡を蒙古襲来→勝ったが恩賞を与えられず武士困窮→幕府が徳政令→幕府の信頼が失墜→救済された御家人以外の武士が悪党化→後醍醐天皇の倒幕計画大成功と説明されていたが、徳政令は当時としては正当化されていたし、武士の困窮化が進展したのは分割相続が原因、としているのはなるほどな、と。

 あとがきによると近藤成一先生は34年間東大史料編纂室に在職し『大日本史』の編纂を進めたが刊行できたのはわずか3年分だという。しかし、その作業ですら百年以上、先輩の研究者たちが蓄積してきた材料を前提としている、と。いまや、未完部分もデータベースで公開されている、というのはありがたいかぎりです。

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April 06, 2016

『おひとりさまの最期』

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『おひとりさまの最期』上野千鶴子、朝日新聞出版

 社会学者というのは調査報道にたずさわるジャーナリストのような一面、しかも、かなり主観的な側面を持ち合わせると思うのですが、上野千鶴子さんには、特にそうした資質を感じます(ポジティブな意味で)。

 上野さんのおひとりさまシリーズは『おひとりさまの老後』で感心し、『男おひとりさま道』では自分のライフスタイルを少し見直したんですが、三部作の完結編となる本書のタイトルはズバリ『おひとりさまの最期』。

 ちなみに『おひとりさまの老後』をサマリーすると、本当に自分が望む介護は金では買えないし、家族も最期まで気持ち良く面倒をみてくれるとは限らず、老後のクオリティは自分がメンテナンスしてきたすべての交友関係などのnetworkで決まる、みたいな感じ。印象的に残っている言葉は「個室を経験した身体は、もとのように雑魚寝文化へは戻れない」(文春文庫版、p.85)。最後の最後にカーテンいち枚で仕切られたような大部屋に押し込められたらつらい…みたいな。

 『男おひとりさま道』のサマリーは、男おひとりさまの生活は「女っ気」がなければ潤いが生まれない、みたいな感じでしょうか(法研、p.93)。印象に残っているは、女性の輪に入っていけた場合でも、自分の特技やノウハウは相手から要求があったときにだけ発揮すべし、というアドバイス(p.195)。《必要もない能力をひけらかしても、イヤミなだけ。要求があったときに発揮すれば、重宝がられるし、頼りにされる。「男のひとがいるって、いいものね」と、大事にもされる》と。

 老人施設は死体にならなければ出られない「出口のない家」のようなゾッとするところが多く、民間の高額な物件でも倒産リスクを抱えているというあたり。なので、持ち家をバリアフリーに改造して、ヘルパーさんに来てもらうという選択肢を勧めています。

 そして完結編となる『おひとりさまの最期』では、いよいよ、どうやって、その持ち家で最期を迎えられるかという問題を扱います。上野さんが理想とするのは住み慣れた家での「在宅ひとり死」。

 なにせ、東京都港区のデータで1000人のうち「生存子」がいるという答えは04年の段階で5割を切っているんですから。さらに高齢化が増えると子が先立つ「高齢逆縁」も増え、パートナーがいる場合でも、熟年離婚やいずれどちらかがなくなることで「おひとりさま」になる可能性が高くなる、わけですから「おひとりさま」がひとりで最期を迎えるというのは大きな社会的な課題でもあるわけです。

 その場合でも、女性の方が貧困率は高いという別な問題はありそうですが、運良く夫と添い遂げれば、かなり違ってくるそうです。

 離婚で年金を分割しても最大1/2、それより夫を看取って遺族年金3/4をもらった方がずっとよい、と。しかも団塊の世代は日生のおばちゃんが活躍していた時代で、失われた20年を持ちこたえられたら夫の死亡時にまとまったカネが入る、と。これは妻の退職金だというわけです(p.66)。

 そして、目出度く「おひとりさま」となった後、最後に残るのが最期をどう迎えるか、という問題。

 この中で、上野さんは、病院での死を迎えることが一般的になりつつある現状に疑問を呈します。本来、病院は「キュア(治療)」の場、在宅は「ケア(看護・介護)」の場。病院は死と闘う場、在宅は死を受け容れる場であるはずだ、と(p.80)。

 その場合、特養などの施設は特に、大都会では建設・維持費が高すぎて、運良く入れた人間と入れなかった場合との差が多すぎて公平性にかける、と。財政難の地方自治体にとってはもはやムリな選択肢となっているわけですが、いまや女性の持ち家も遺産相続などで高くなっているため、これを使わない手はない、と。「女三界に家なし」といわれた時代ではなくなった、と(p.66)。

 生まれるのも死ぬのもひとりではできません。生まれたときには、産んでくれた母や父がいるだけでなく、助産婦さんやお手伝いの親族や縁者たちがいました。死ぬときも、ゆっくり死に向かう道程を、共にしてくれる介護職や看護職、医師たちがいます、というあたりは説得力あるな、と(p.157)。

 05年の頃、ぼくが老後を意識しはじめた時に、最初に出会った本は『高齢者グループリビング「COCO湘南台」 10人10色の虹のマーチ』西条節子でした。

 ぼくもグループホームをつくろうかな…なんて空想したこともあったのですが、仲たがいや、入居者が痴呆になった時の決断、月々の料金が払えなくなった人への対処などは、とてもじゃないけど自分には荷が重すぎると思うようになりました。

 上野さんが「COCO湘南台」で聞き取り調査したところ、10人ぐらいの定員で男は1~2人が最適容量とされているようです(『男おひとりさま道』p.111-)。とにかく男が老後に「女っ気」のある生活を確保するのは大変です…。

 グループホームCOCO湘南台へ上野千鶴子さんは96年の建設時から一年に一度訪ねているとのことですが、上野さんのグループホームではなく自分の家で最後まで過ごすという考え方はこうした実践から導き出されている感じがします。

 しかし、「COCO湘南台」と西条節子さんによる「福祉 for Myself」という発想には教えられるところ大で、いまでも感謝しています。

 どういう死に方をするかは、どういう生き方をしてきたか、ということにほかならず、50代で逝った竹村さんという友人の例をあげながら、ガンとなった後チーム竹村というバックアップチームを友人たちでつくりあげ、最期はホスピスで逝った彼女をうらやむヒマがあったら自分でも「人持ち」になるための努力をしましょう、というのが上野さんの三作を通じた結論でしょうか。人間関係は天から降ってくるわけではありませんから(p.183)。

 何回も書いてきたことですが、ぼくが00年代に読んで一番印象に残っている本は"bowling alone: The Collapse and Revival of American Community"Robert D. Putnam, Simon & Schuster, 2001。そこで語られていたsocial capitalについて、邦訳が出てからも、小難しい理論ばかり語られていたけど、それって上野千鶴子さんが言うように、友だちってことですから(p.183-)。

 そして友人のネットワークは種をまいて、水をやるなどコストをかけなかければ育っていきません。

 終末期にある人からの「死んだらどこに行くんでしょうね」「さみしいわぁ」という言葉は、答えを求める問いではなく、つながりを求める呼びかけというあたりも印象に残りました(p.266)。

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