書籍・雑誌

July 09, 2019

『人生で大切なことは泥酔に学んだ』

『人生で大切なことは泥酔に学んだ』栗下直也、左右社

 扱っているのは大きく分けて歴史的人物、スポーツ選手、文壇の人々だが、ダントツに面白いのは文学者、評論家、出版人など。やはり屈折が入っているからだろう。歴史上の人物やスポーツ選手の場合、酒の上の失敗エピソードは豪快だが、ほとんど記憶喪失としてしか処理されていないというか、忘れさるしかないので屈折として残らないが、文壇の人々は引きずる感じ。そこが面白い。
 《酒をやめたら、もしかしたら健康になるかもしれない。長生きするかもしれない。しかし、それは、もうひとつの健康を損ってしまうのだと思わないわけにはいかない》というのは山口瞳の『酒飲みの自己弁護』というタイトルそのままの言い訳ですが、文学者は《かんがへて飲みはじめたる一合の. 二合の酒の夏のゆふぐれ》(牧水)のはずがいつの間にか度を過ごしてしまい、ウジウジと自己弁護をしながら、毎晩飲みまくります。
 しかも、その自己弁護っぷりが面白い。例えば河上徹太郎。日本芸術院会員、文化功労者で小林秀雄などと近代の超克などを語りながら《足し算も引き算も要らない典型的な「ザ・酔っ払い」》となりトラ箱のお世話になります。《もう、河上などと書かずに「てっちゃん」と親しみを込めて呼びたい》ほど可愛い酔っ払いぶりの河上は、自分を保護してくれた上に家族を呼んでくれた警察に《「あそこのおまわりさんはホテルのボーイさんみたいに親切だね」とよくわからない分析を示》し、さらには御礼にウィスキーで乾杯したいとまで言い出す。これには《斬新すぎて盟友の小林秀雄も言葉を失うであろう》と近代を意外な方向で超越してしまったという筆者の評価には深く頷かざるをえません。《知識人にはときに独特の世間ずれが見え隠れするが、てっちゃんはもはや読み手がリアクションに困る域まで昇華させている》から。
 そのすぐ次に紹介されているのが小林秀雄。水道橋のホームから酔っ払って10メートルほど転落、奇跡的にかすり傷ひとつ負わずに助かった事件の顛末が笑えます。小林秀雄は《母親が助けてくれた、と考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである》とベルグソンを論じた「感想」に書くのですが、《どうだろう。前提を踏まえて、ありのままを語ってもらっても全くわからないではないか》という文章の呼吸には笑わせてもらいました。小林は落下したあと、助けてくれた駅員など《相手の善意を全て撥ね付けて爆睡》したあげく《いろいろ反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近附かぬ事を確かめただけであった》と記します。これには筆者ならずとも《「ごめんなさいもいえないのか」と叱ってやりたい》と思うばかり。
 河上、小林に共通するのは面倒臭さでしょうか。しかし、二人を紹介したあとで《人間振り幅が大事なのである。意外な一面を見せれば「こいつ、実はしょーもない」と思われるかもしれないが、親近感は増す。職場での好感度が上がることは間違いない》と結ぶ筆者。新たな文壇のスター誕生を予感させます。童貞を捨てたいと路上で寝そべって駄々をこねた梶井基次郞、同居女性の首をしめ「俺は天狗になったぞ!」と二階から飛び降りた辻潤なども素晴らしいのですが、個人的には連載時から筑摩書房・古田晁社長のエピソードが好きです。
 名文なので引用してみると。
《ある日、馴染みの居酒屋でできあがっていた古田は店の前を屋台のラーメンが通ったので外に出た。酔っ払っていたとはいえ、腹が減っていたのだろう。食べながら、しばらくすると、一緒に出ていた板前に紙を要求する。口の周りでもふくのかと我々のような凡人は思うし板前も想像したのだが、古田は紙を腰より下に持っていく。どうしたのだろうか。のぞいてみると何と脱糞していたのだ。ラーメン食いながらクソである》
 酔い潰れてズボンを濡らしてしまった、なんていうエピソードまではよく聞くが、その上空はるか成層圏を超音速で翔け抜けるような見事さです。
 酔うと誰彼かまわず寝込みを襲い、出版社社長や文人をたたき起こして拉致、ついでに隣人の家に配達されていた牛乳を飲み干す古田。そんな古田が経営していた筑摩書房の社員旅行は、女子従業員の部屋に突入し、全裸でエレベーターに乗る乱れっぷりだったといいます。一度でいいから、古田時代の筑摩書房で働きたいと思ったけど、やっぱり実際に対応するのは面倒臭いかもしれない。でも、素晴らしい。最高です。

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July 03, 2019

『文選 詩篇 五』川合康三(訳)他、岩波文庫

 「第五冊」は楽府の後半、挽歌、雑歌、雑誌の前半が収められています。その雑歌は古詩十九首から始まりますが、「はじめに」で《叙情や人生のはかなさから生じる悲しみと満たされない恋の悲しみ-中略-それは日本や中国に限らず、どの国の叙情詩においても見られるものでしょう。ただ中国の士大夫の文学はそうした感傷に浸ることなく、悲しみを乗り越え、人間の力を肯定し、生きる意欲をうたおうとする、そこに中国古典詩の特質があるように思われます。そうして登場したのが建安の文学であり、建安文学こそ中国の詩の始まりといってよいものです》とあります。

 昨年末、東洋大学で川合康三先生の講演を拝聴したのですが、そこでも「隠逸への憧れや、厭世観などなどではなく、曹操の『歩出夏門行』の、老驥(ろうき)は櫪(うまや)に伏すも、志千里にあり、烈士暮年、壮心不已(やまず)などの悲観主義を乗り越える詩が上等とされた」と、説明しておられたのを思い出します。

 先日の北海道旅行のお供に読ませていただいたのですが美しいな、と思ったのは謝朓の鼓吹曲(p.148)。

飛甍夾馳道 垂楊蔭御溝
飛甍(ひぼう)馳道(ちどう)を夾み 垂楊(すいよう)、御溝(ぎょこう)を蔭(おお)う
あたりは素晴らしいな、と

最初の陸機のもカッコ良いな、と思いました。

陸機『楽府十七首』の崇雲臨岸駭、鳴條随風吟 崇雲岸に臨みて駭(お)き、鳴條(めいじょう=)風に随いて吟ず

飛鋒無絶影鳴鏑自相和 飛鋒(ひほう)影を絶つこと無く、鳴鏑(めいてき)は自ら相い和す

守一不足矜、歧路良可遵 一を守るは矜るに足らず,歧路(きろ)には良に遵うべし

我酒既旨、我肴既臧 我が酒既に旨し、我が肴既に臧し(料理よしの「臧し」はこの漢字を使うんだ…)

鮑照も勉強させてもらいました(p.121)。

撃鍾陳鼎食、方駕自相求 鍾を撃ちて鼎を陳(つら)ねて食らい、駕を方べて自ら相い求む(鼎食という言葉は史記にもあるのか)

雑歌は名歌のアンソロジー。

風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還 風蕭蕭として易水寒く、壮士一たび去って復た還らず

子瑕矯後駕、安陵泣前魚 子瑕は後駕を矯(いつわ)り、安陵は前魚に泣く(男色をもって魏の安釐王に寵愛された龍陽君が、容色が衰えると捨てられると嘆いた歌)

雑詩も名歌のアンソロジー。

所遇無故物 焉得不速老 遇う所故物無し、焉んぞ速やかに老いざるを得ん(いつの時代も変わらぬ感慨)

雑歌十四の一、五、六句は『徒然草』に引かれ、日本の無常観にも影響を与えた、と

漢詩は大好きですが、素人なので、『文選 詩篇』の解説の最後に《『詩品』上品》とか書かれているのを素人なんで、最初は何だろうと思ってたけど、梁の鍾嶸が編纂した文学評論なんすね。で、『詩品』では曹植が上品、曹丕が中品、曹操が下品。これはわざとなのかな?

四海皆兄弟、誰爲行路人 四海皆な兄弟、誰か行路の人と爲らん(蘇武のこの詩は、開戦を決定した1941年9月6日の御前会議で昭和天皇が詠んだ明治天皇の御製「四海兄弟 よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」に影響を与えているのかな?p.259)

蘇武はこのフレーズもカッコ良いな、と(p.258)

燭燭晨明月、馥馥我蘭芳 燭燭(しょくしょく)たり晨明の月、馥馥(ふくふく)たり我が蘭の芳り

『詩品』上品の曹植はこんな詩も(p.313)

烈士多悲心、小人偷自閒 烈士 悲心多く、小人自ら閒なるを偷しむ(これは曹操の烈士暮年、壮心不已へのオマージュですかね?)

張華のこの詩も素晴らしい(p.331)
清風動帷簾、晨月照幽房 清風 帷簾(いれん)を動かし、晨月(しんげつ)幽房を照らす

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June 17, 2019

『中世史講義 院政期から戦国時代まで』高橋典幸、五味文彦(編)

 白眉は[室町幕府と明・朝鮮]。ここは本当に面白くて、日本史は東アジア史とリンクさせないと実相はみえてこないな、と改めて感じました。それにしても宋も明も漢民族の王朝は弱すぎるな、と。漢民族が統一しても、だいたいすぐに騎馬民族にやられてしまう。結局、各地で実質的に面倒をみる官僚層が民衆から尊敬を受ける基盤がつくられていくんじゃないのかな…どうなんでしょ。旧仏教=顕密仏教が、《依然として鎌倉時代の仏教の主流だったという理解は、研究者の間で広く認められ》(p.86)ているという指摘や、《ここまで東班衆と美術との関わりについて見てきたが、歴史に詳しい方はこれに若干の意外さを感じるかもしれない》というあたりは、抹香臭い仏教などにはあまり興味がなかったので蒙を啓かれました。

[中世史総論]

商人や職人たちの「座」、農村でも惣村など庶民にも団結する動きが広がる
「古代の氏(ウジ)から中世の家(イエ)への転換」
武士のアイデンティティーは氏文よみ(武勲を重ねてきたイエの継承者であることを戦場での名乗りで伝えること)
武家政権は「将軍のイエ」と「武士のイエ」が主従関係で結ばれることによって成立
後白河天皇は全ての土地は天皇のものと宣言するが、これは整理しなければならない荘園という空間があることを認めたこと
私徳政や「公方」の展開は、様々な公権力が中世社会にあったことを示す
中国の毛利氏の起源は安芸国の国人一揆
係争地の問題で施行状が出されても、それだけでは権利は守れず、僧兵を持つ延暦寺などは出訴委託の「寄沙汰」の常連に
インフラ整備や病人など弱者救済を訴えて勧進する聖は、個々の組織・集団の手に負えない事業の「すきま」を担った

[院政期の政治と社会]

院政期こそが新たな中世の始まり
中世に国家があったのかが問われるほど、中世社会は多元的・分権的で、地方と地域が成長した
武士は地方で土地を開発した在地領主が武装したものというより、武芸を専業とする中下級貴族が起源
中世武士は京都と地方に拠点を持ち、兄は在京、弟は地方にとどまる兄弟分業も一般的だった
奥州藤原氏、越後の城氏も国衙から相対的に自立した「一国棟梁」に
鎌倉幕府は平氏だけでなく、奥州藤原氏など各地の地域権力を圧殺した
院政期に成長した地方権力は、東国武士によって征服された
藤原氏を外戚にもたない後三条天皇が親政を開始、荘園整理などの政治改革が行われ、白河天皇に譲位
白河天皇は後三条の兄弟ではなく自分の実子に皇位を継承させるために譲位
道長の嫡流が継承するようになった摂関家も実は院政期に成立
荘園は開発領主が寄進して成立したのではなく、寺の造営費捻出のための「立荘」が多かった

[日宋・日元貿易の展開]

モンゴルの進出に伴い、南宋では貿易関係のあった日本の重要性が認識され、優遇措置によってさらに活発に
元は南宋制圧以前からクビライ没まで日本に12次にわたって遣使して服属を求めた
クビライから代替わりした孫のテムルは、日本に形式的な服属関係を求めたが、使者も返されなかった
テムルは服属を問わず、日本の貿易船を受けいれ、日宋貿易の活況が戻った

[武家政権の展開]

武士の発生は地方・中央の両方から考えられるようになってきた
地方の武士は官職・位階を求めて中央と結びつき、中央の武士は受領として地方に下り、婚姻で地方と中央がネットワーク化
奥州藤原氏は京下りの文筆官僚を抱え、行政文書も把握していた
頼朝は反乱軍として出発したため、所領支配を自らの実力で行った
鎌倉幕府は源平騒乱で平氏の荘園を、承久の乱でも3000箇所以上の没収地を獲得。朝廷の軍事力も崩壊したので治安維持でも重要に

[鎌倉仏教と蒙古襲来]
モンゴル襲来では寺社の神仏が総動員されたが、祈祷は「旧仏教」が圧倒した
黒田俊雄の顕密体制論は、仏教の教えを顕教と密教に分け、古い顕密仏教は鎌倉時代に生まれた新仏教より影響は大きかったとする
モンゴルに反感を持つ南宋出身の無学祖元は来日後も情報収集を続けモンゴル襲来を時宗に予言
禅宗の集団は元の支配となった後も関係は絶たず、体制仏教の座を勝ちえた

[荘園村落と武士]
地頭が耳や鼻を削ぐ行為は、女性の処刑が忌避されていた結果
ある土地(下地)の富は本家-領家-預所がそれぞれ得るが、公領の知行国主-受領-郡郷司という重層性にならっている
畿内周辺での近隣住民間の連帯の誕生が村落につながっていった
武士が館を構える場所は、以前からの交通の要衝
鎌倉の御家人たちは関東だけでなく、西方の平家と上皇の所領の支配も迫られたが、遠隔地の往来などでは荘園公領制のシステムを利用
京下りの官人など「できる」被官たちが既存の交通・流通体系を活用して全国に散在する所領の管理にあたった
代官として下向して送り込まれた一族は独立の傾向を強めた
鎌倉幕府の滅亡で新補地頭はその地位を失うことが多かった
御家人は検断権(警察権)を通じて交通・流通を支配するほか、検断権の不法行使などによって支配を拡大
日本の中世社会は自力救済社会
百姓はサボタージュなどによって御家人に従わず、御家人が幕府に訴えることも
逃散は年貢をきっちり納めた上で行われる正当な抵抗運動で、領主はなんとしても避けたかった
武士は検断権の行使など横暴だったが、荘園公領制の破壊には働いていない

[朝廷の政治と文化]
公家社会では徳政(善政)は人事と裁判と認識されていた
職務の遂行にあたっては同じ職務の経験者である父祖の記録が最も有効な参考書となり蓄積された
中世の役所は細分化が進み、家ごとに担う「官司知行制」ともいえべきものになった
12世紀には特定のイエと特定の学問分野の結びつきが深まる
勅撰和歌集は治天の君による編纂による示威と位置づけられた

[南北朝動乱期の社会]
鎌倉後期から貴族社会で分家が見られなくなり、嫡子による単独相続へ以降(註・確か武士のイエもそうだった)
武家の惣領と庶子の対立を一気に加速したのは南北朝の動乱で、恩賞獲得を目指して戦った
武士は戦場でも「恩賞を与えてくれそうな側」について戦った
負けても所領の半分または1/3を安堵して降参すればよかった
各地では武士たちによる国人一揆が結ばれるようになった
野伏の活躍は、モンゴル襲来以降の騎馬武者中心の編成からの変化をうかがわせる
惣村の実力は武士も注目して協力を求めた
14世紀から現在につながる集落が形成

[室町文化と宗教]
・東班衆と美術との関わりは意外だった
・道元の『典座教訓』のエピソードを引いて《日常生活(作務)のすべてがそのまま修行になるのだ、という中国禅の考え方》を示す
・学問をもっぱらとするスタッフ部門である西班衆にライン部門である東班衆は次第に押されていくが、角倉了以などの土木事業や《江戸の「科学」にも結実する》

[中世経済を俯瞰する]
・古代は国衙に調庸などが集められて都に送られ、国家機構の維持費用などに分配したが、このシステムが機能しなくなり、現地から年貢を直接徴収するようになったのが中世荘園
・国衙で使用していた調度品などをつくっていた職人たちは、自立を強いられ、普及品生産にシフトし、新興の武士層に販売
・年貢輸送はアウトソーシングされ、そのおかげで航路網が構築された
・12世紀に唐坊というチャインタウンが形成されると、そこでやり取りされた宋銭が日本国内でも普及
・国家保証もない銅銭だが、タイミングがよかったためかなぜか普及
・銅銭は持ち運びも容易でないので、替銭=為替のシステムが利用されるようになる
・これによって京都に全国の物資が集まる求心的経済構造が活気づく
・しかし、混乱の中で不知行が増えて中央へ向かう物資が細くなり、その結果、地域経済の分立化が進展
・日用品の量産化、地域経済の発展は近世の豊かな消費生活を支える経済構造となった

[室町幕府と明・朝鮮]
・1350年頃から活動を活発化させた前期倭寇は、16世紀の後期倭寇とは区別して考えなければならない
・蒙古襲来の後、高麗は前期倭寇の禁圧を室町幕府に求めたが、九州を回復した後、対処すると僧侶を介して返信
・南朝側に奪われていた九州探題を攻略した今川了俊は、高麗の使者と接触して独自の交渉を行い、李氏朝鮮が成立しても交渉を継続。さらに、大内氏とも協力して前期倭寇を鎮圧。了俊解任後は大内義弘も李氏朝鮮と通交。
・中国本土では洪武帝が明を建国。九州に朝貢を促す使者を送ったが、当時、九州を制圧していたのは南朝の後醍醐天皇の皇子懐良。懐良は日本国王に柵封された。
・こうした事実を知った義満は、南朝側に明が味方されると困るので、自らの使節を派遣したが、洪武帝は日本国王は懐良で、義満は臣下だと判断。さらに、洪武帝はねつ造クーデターで臣下を粛清し、日本が加担したとして断交
・明では靖難の変でいったん建文帝が即位。建文帝は自らの正当性をアピールするために、義満の使節を受容して、義満を日本国王に柵封。その後、即位した永楽帝にも「日本国王臣源義満」で上表文を送って柵封された。
・「日本国王」号は国内で用いられたことはなく、あくまで南朝対策の対外交渉上の称号
・義満は李氏朝鮮とも「日本国王」を名乗って通交したが、朝鮮との通交は大内氏、対馬宗氏、少弐氏など多元的だった
・しかし、こうした外交姿勢には批判も多く、義時は日明関係を断交したが、義教時代には復活。勘合貿易がスタート。しかし、将軍権力の弱体化で、詐称した使節が横行
・1547年で室町殿名義の朝貢使節は途絶え、後期倭寇が盛んに
・石見銀山の銀目当てに荒唐船も朝鮮近海で横行
・1590年に秀吉が150年ぶりに朝鮮に使節を送った時、李氏朝鮮はそれまで通交を続けてきた大内氏、少弐氏など諸大名の滅亡を知る

[室町幕府と天皇・上皇]
・観応の擾乱以降、義詮は、足利将軍家家長のみが院参・参内できるようにして、皇位継承プロセスにも参与できるしくみをつくった
・後花園天皇が義教邸に行幸した際の天盃拝受の儀礼にはカワラケが用いられ、足利将軍家と天皇家との間に主従関係、ミウチ化も認められる
・義満は鎌倉幕府がなしえなかった門跡寺院への子息の入室も果たす。山門側も義満を「聖君」「君」と称す

[戦国の動乱と一揆]
・江戸時代の一揆は3710件発生したが、竹槍で役人を殺したのは1件だけで、竹槍一揆は明治以降のもの
・中世の一揆は「結ぶ一揆」
・浄土真宗は一向宗という呼び名を嫌い、一向一揆という言葉も江戸時代に出現して明治以降に学術用語として利用
・事実、本願寺は証如(蓮如のひ孫)以降、既存の権力・秩序との共存へと舵を切り、一向一揆を担った地侍や百姓とは方向性を変える
・一向宗は本願寺教団の教えから逸脱して呪術的・土俗的な信仰だった
・蓮如は往生を約束してくれた阿弥陀如来への感謝として念仏をとなえるように教えを変更したが、本願寺はやがてこの「報謝行」を軍事費として求めるように
・惣国一揆は土豪=小領主と農民の「統一戦線」

[戦国大名の徳政]
・新たな領主の代替わりの際には「世改め」が行われるべきという中世民衆の観念があった
・逃散もいったん年貢を納めてから行うものだけど、徳政を受ける際には、今後は年貢をキチンと納めるという誓約が必要

[中世から近世へ]
・鎌倉時代後期、社会が安定すると名主や百姓が力をつけ、開発した土地への権利意識を強め、近畿など先進地帯では荘園領主や地頭と争った
・平家は厳島神社、奥州藤原氏は中尊寺や毛越寺などイエのための寺社を造営したが、鎌倉幕府はさらに南都仏教も取り入れた八幡や寺院を造営

[目次]
中世史総論
院政期の政治と社会
日宋・日元貿易の展開
武家政権の展開
鎌倉仏教と蒙古襲来
荘園村落と武士
朝廷の政治と文化
南北朝動乱期の社会
室町文化と宗教
中世経済を俯瞰する
室町幕府と明・朝鮮
室町幕府と天皇・上皇
戦国の動乱と一揆
戦国大名の徳政
中世から近世へ

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June 01, 2019

『囲碁 こういう人は上達しにくい 《限られた時間で強くなる考え方》 』内田知見

 

Go-tsuyoi

 ザル碁ですが、囲碁は学生時代から打っていまして、棋譜を並べたりするのも好きでしたが、初段ぐらいからは上達しませんでした。

 「まあ、こんなもんが実力だろう」と思っていたんですが、この本を読んでハッとしたのが《囲碁で遊んだ時間は、囲碁の勉強時間には含みません》という箇所。囲碁はとてつもなく面白いので、いったんハマると勉強してすぐ初段ぐらいになってしまいます。けれども、そこから都道府県代表大会に出るようなクラスに、どう勉強してなったらいいのかは、独学ではわからず、勉強することを放棄していたんですね(まあ、他に面白いこともいっぱいありましたし…)。

 この本は、囲碁が上達する=囲碁が強くなると定義して、そのためには中盤で相手の弱点を発見し、そこを攻めることで有利を拡大して勝利する、という戦略で効率的な勉強方法を提案しています。

 細かな勉強方法は省きますが、以下の強調点は様々な分野にも応用できるのではないかと考えました(kindleで読んだので頁数は省き、また、多少アレンジしています)。

・大切なのは「勉強時間」で、勉強時間とは「勝つための訓練」
・強さは相対的なもので、勝つことによって強さを示すことができる
・序盤の布石は重要ではないので時間を使わず、布石を固定化した方が実戦では有利(黒番なら中国流、白番なら向かい小目などで10-20手を暗記してしまう。あるいはスミは33に打ってしまう)
・重要なのは中盤の手筋のトレーニング。勝つチャンスというは、勝つための手筋がある局面。そこでは非常に大きな得が生まれる。死活よりも手筋のトレーニングの方が優先度は高い
・終盤はハイリスク・ハイリターンな手は残っていない。中盤の戦闘時にハイリスク・ハイリターンな手がたくさん存在するから、中盤の形勢判断が重要
・中盤で「手になりそうなところ」に突っ込んでいって手にする「破壊力」こそアマチュアレベルの強さ

 ハッとしたのは、囲碁の上達は勝つことにあり、強さは相対的なもの、というクリアカットな考え方です。

 どんな世界でも上達とは勝つことで、そこに絶対的な意味はないけれど、相対な評価でしかランク付けはできないというのは「ナンバーワンにならなくてもオンリーワンでいい」みたいな言い方よりも遥かに使える局面は多いだろうなと思います。

 個人的なことを言えば、囲碁は1)友人や親戚の人たちの性格が分かる2)棋譜を並べて芸術的な一手に感動できる3)アルファ碁のようにテクノロジーの進化を実感できた-という素晴らしいエンターテイメントをぼくに与えてくれました。

 ゲームによって性格を判断するという場合、例えば麻雀など運不運に左右されるようなゲームでは、その人のダークな側面が浮かび上がるような気がします。また、将棋など盤面が狭く目的が相手玉を詰ませるというハッキリしすぎるゲームでは、強さだけが際立って性格まではわからない感じ。囲碁はその点、相手の良い面(辛抱強い、意外と積極的、粘り腰がある、大局が読めるなど)が見えてくる感じがしました。

 ぼくは教えてもらった師匠から「プロになるわけではないのだから、上品に打つことを心がけなさい」と言われ、布石では高川格先生の「星打ち」だけを勉強するようにと言われ、その通りやってきました。ゲームでは勝負にこだわるタイプではないので、それで十分というか、そういう性格を見抜いた上でのアドバイスだったのかな、と今となっては思いますが、以後、数十年、星打ちで序盤は固く打って模様を張り、相手が攻めてきたら、そこで戦って勝負という碁を打ってきました。ヨセが苦手というか覚えるのが面倒だったということもあり、中押しで決まることが多く「なかなかスジがいいね」と言ってもらえれば十分、という感じでした。

 この本を読んで「戦わない人も伸び悩む」「勝てる局面でも戦闘を起こさないからチャンスを逃すのでは強くなれない」というあたりは、まるで自分の棋譜を見られたような気さえしまた。

 この本では中盤の局面で、大きいリターンが期待できる手を打って戦闘に勝利することで勝つことを眼目にしていますが、もちろん勝てるかどうかわからない局面では戦わないことを勧めています。

 《勝つために戦う。勝つために戦わない。それを選択できること》が重要だ、と。

 ここ数年、朝は詰碁を4問解いて頭を起こすことにしているんですが、この程度の「勉強」で

 これはどんな世界にも応用できるかな、と思います。も、なんにもしなかった時よりも、遥かに棋力はついてきたかな、と。 

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May 16, 2019

『砂糖の世界史』川北稔、岩波ジュニア文庫

 シリーズアメリカ合衆国史1『植民地から建国へ』で大西洋貿易のことが書かれていたのですが、8レアル銀貨など通貨に関して以外は岩波ジュニア新書の『砂糖の世界史』川北稔で書かれていたこととあまり変わっていないのかな、と思い再読してみることに。ちょうど、この本を読んだ頃は、大学院に行く準備やNiftyや草の根BBSの退潮などもあってメモなどもネットに残していなかったので、ちょうどいいかな、と。

 この本は「世界商品」である砂糖の生産から消費までを大航海時代、植民地、プランテーション、奴隷制度、三角貿易、産業革命と関連させて描いたもので、キーワードはトリニダード・トバゴの初代首相であったエリック・ウィリアムズの「砂糖のあるところに奴隷あり」でしょうか。

 反対に世界商品(Staple)でないのは例えば中世ヨーロッパの毛織物。イギリス人はアジアやアフリカまで毛織物を持っていっても売れませんでしたが、こうした地域に鉱山、農産物に「世界商品」があったので産業革命に偶然つながった、と(p.6-)。

 当時、最も進んでいた《イスラムの医学では、砂糖はもっともよく使われる薬のひとつで《結核など10種類以上の効能が期待され》(p.9)《「砂糖はコーランとともに」西へ西へと旅をした》(p.14)そうです。しかし、砂糖きびの栽培は土地が荒れ、原液となるジュースを素早く絞り出さなければならない精糖の加工過程も奴隷労働が必要なほど規則正しい集団労働が必要だった、と。

 また、スペインには南北アメリカに広大な植民地を持っていたものの、奴隷はアフリカに植民地を持つポルトガル、イギリス、フランスから買うしかないという構造から大西洋を結ぶ三角貿易が生まれました。イギリスの場合、黒人のベニン王国が求める鉄砲などと引き換えに、狩った黒人を奴隷として購入し、南北アメリカやカリブ海の島々で売り、そこで取れた砂糖をリバプールに持って帰る二か月以上の航海が盛んになります(p.54)。それは《無事にアジアから帰還すると、船ごと売り飛ばして売上金を山分けしてしのうような、一時的な性格のつよいもの》だったそうです(p.83)。

 また、砂糖がヨーロッパで広まるにはトマス・アクィナスが断食の際にも食べることができるとしたことも影響したといいます(p.65)。さら
に、後にチョコレートも同じ論法で是認されますが(p.134)、当時は超高価だった砂糖で城のミニチュアをつくり、それをパーティで披露した後、壊して食べるということが流行ったといいます(p.68)。まるでポトラッチ。人間の根源的な欲望の姿を感じます。

 紅茶に砂糖を入れて飲むことはイギリスで始まり、ジェイムズ一世が身分によって消費生活を規制する法律を全廃することで上流階級から労働者まで広まっていきます(p.77)。こうした結果《イギリスでは茶は葉っぱ一枚も採れないのに、私たち自身、紅茶といえばイギリスやイギリス人を思い浮かべるようになったのです》(p.81)。このことは「世界が近代世界システムでひとつになった」ことを意味し(p.171)、商業革命、産業革命は、こうした世界システムの上に成立した、と(p.172)。

 紅茶は家庭でも簡単に入れられるたことがイギリスでひろまった原因というのも笑えますが(p.129)、いまでもイギリス人はカロリーの15-20%を砂糖からとっているそうです(p.157)。砂糖入りの紅茶はカフェインを含む即効性のカロリー源として労働者にも広まっていった、わけです(p.167)。

 とにかく、世界商品は莫大な利益を生み、18世紀を通じてイギリスとフランスは第2次百年戦争とも呼ばれるような戦いを繰り返します(p.143)。

 クロムウェルがカトリックのスペイン王室に一泡吹かせるために1655年に占領したジャマイカは砂糖きび栽培で莫大な利益を生みましたが、精製過程の残りかすを使ってラム酒もつくられます(p.148)。

 アメリカ独立と砂糖、奴隷禁止をめぐるみにくい争いなどの「第8章 奴隷と砂糖をめぐる政治」も必読でしょう。

 人物を中心とした歴史はいくらでも書かれていますが、本書のようにモノや世界のつながりで歴史をみることは大切だな、と(p.206)。百田某のハチャメチャな日本国〇などが読まれて、岩波ジュニア新書の遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』や本書などがなかなかチョイスされないのは寂しい限りですが、高校に入学するような知り合いのお子さんがいたら、ぜひプレゼントしてあげてほしいな、と。

 また、川北稔先生はalicで「世界の砂糖史」を13回にわたって連載しています。こちらもぜひ。

https://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0504.htm

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May 09, 2019

シリーズアメリカ合衆国史 1『植民地から建国へ』

シリーズアメリカ合衆国史 1『植民地から建国へ』和田光弘、岩波新書

 

 岩波新書の各国史シリーズは日本、中国(近現代)に続いてアメリカ合衆国史が刊行され始めました。つい、アメリカは歴史が浅いと思いがちですが、「あとがき」にもあるように合衆国憲法制定からは230年たっており、日本国憲法よりも3倍もの歳月にわたり《連邦と国家を運営し、初代から第45第まで44人の大統領を、憲法二条にもとづいて途切れることなく選び続けてきたこの国は、もはや決して若い国でも、歴史の浅い国でもない》といえるかもしれません。

 第1巻となる『植民地から建国へ』は、先住民の世界から植民地期、独立革命と憲法制定、そして新共和国としての試練まで、初期アメリカの歴史像を、大西洋史や記憶史(建国神話、星条旗神話)の知見もふまえて書かれています。

 大西洋史という観点からは、奴隷や砂糖などの三角貿易の説明のほか、当時は現代の管理通貨制度と異なり18世紀の大西洋貿易では様々な金銀貨が使われ、そのうちもっとも広く通用したのはスペインの8レアル銀貨だったというあたりはなるほどな、と(p.76-)。8レアル銀貨の意匠にはヘラクレスの柱が描かれているものもあって、スペインがいま英国にジブラルタルを占領されてるのは相当、腹立たしいことなんだろうな、と改めて思います。

 独立戦争に向かう流れはだいたいこんなもんかな、という感じですが、考えてみれば《寄せ集めの13邦が、当時最強のイギリス軍に果敢に挑んだ戦い》だったという視点は忘れてはならないな、と。イギリスはドイツからも傭兵部隊を送り込んだわけですし、よく勝ったな、と(p.123)。

 また、最初13州は13の独立した国(邦)という意味のSTATEだった、という視点も大切だな、と思いました。

 だから、独立戦争終結後の13州の連合会議に認められた目的は規約改正とされていたんですが、いったん集まると秘密会議にして、一気に憲法制定へ(p.155)という流れは日本の幕末を思い出しました。州(邦)の独立という志向の強い人々にとって、憲法を制定してアメリカ合衆国をつくる話しを秘密会議でやられたというのは、倒幕が終わったらいつのまにか攘夷がなくなったことに驚く尊皇派志士たちの姿を思い出しましたが、いつの時代にも先が見えるのは少数だから仕方ないのかな、と。

 初代大統領には周りから強く推されればやむなく立つというスタンスが求められたとして筆者は老子67章の「不敢爲天下先、故能成器長」を引いて「敢えて天下の先と為らず、故に能く器の長と成る」という蜂屋邦夫の読み下し文を紹介しています。しかし、老子は様々な訳が可能でテキストも多層的な成立過程が想定されており、例えば蜂屋訳は「人の前を行かないようにしなさい、そうすれば人を導く者になれる」ですし、他にも「世界の先頭に立とうとしないからこそ、人物をうまく働かせてその首長となることができる」(金谷治訳)、「無為の聖人が人と争わず、人後に甘んずる謙虚さ故に却って既成の人材を統率する最高の地位をものにする」(福永光司訳)「また先に立つのが嫌いなので、逆に代表の地位につかされることもあった」(保立道久訳)などもあります。ここは老子が自分自身の性格を語っているところであり、個人的には最後をとりたいと思いました(p.165)。

 初代のワシントン、二代目のアダムズに続き、三代目の大統領となったジェファソンは1782年に妻をなくし再婚することはなかったが、妻が連れてきた混血の黒人奴隷サリー・ヘミングス(写真)と深い仲にあったといわれます。サリーは妻の父ジョン・ウェイルズを同じ父とする異母姉妹で3/4白人。つまり、ジェファソンは亡き妻の面影をサリーにみていたわけです。奴隷制度では、所有する黒人女性との関係は「慣行」とされていました。生まれた子どもは原則奴隷なので、財産も増える仕組みというのはおぞましいかぎりです。

 1808年に奴隷貿易が禁止されたのは、ハイチ革命の影響もあるが、黒人奴隷の自然増で米国国内での調達・維持が可能となっていたからだとされています(p.204-)。サリーは6人の子を産み、4人が成人。その中の3人は見かけ上、白人として通り、「ワン・ドロップ・ルール」にもかかわらず白人として生きたそうです(パッシングと呼ばれる)。ちにみに、ハイチを革命で失ったナポレオンは、ルイジアナを維持するよりも戦費調達のため、最初はニューオリンズの購入をもちかけたジェファソンに対し、逆に全体の売却を逆提案したそうです(p.197)。

 ジェファソンは色々活躍したわけですが、それにしてもOne-drop ruleとは《黒人の血が一滴でも入っていれば黒人とされるという原則》で(p.62)あり、外見上白人ならPassing for whiteとすることで、他の黒人と区別させることは、黒人を弱体化させ社会のより低い位置に追いやるシステムを維持するための最良の方法だった、というあたりは醜い規定だな、と。

 ジェファソンの子孫たちは1990年代になってDNA鑑定を求めましたが、彼ら全員は弟を含むジェファソン一家の子孫である可能性が高いものの、全容解明は難しいとのことです。しかし、逆にシェファソンとサリーの関係を否定することも難しい、としています(p.204-)。にしても、弟も…凄い話しですが、日本が一夫一妻制になったのも1898年ですし、人様のことは言えた義理はないのかな、と(明治31年に民法で親族が規定がされ、重婚の禁止と戸籍法でも妾が削除。しかし奴隷制よりはマシですか…)。

 ワシントンから五代目のモンローまで、二代目のアダムズを除く4名は南部ヴァージニア出身だったというのは重要かな、と(p.208)。かれらは皆、奴隷制の大プランテーションの経営者であったわけですから。ちなみに、最初の首都はニューヨークに置かれましたが、ハミルトンとジェファソンによる交渉で 、南部のワシントンを首都にするかわりに連邦政府による州の肩代わりを認めるという妥協がなされたそうです(p.174)。

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May 02, 2019

『乱と変の日本史』

 本郷先生の素晴らしさはどの中世史家よりも分かりやすく、才気煥発な文章で日本史を面白く紹介してくれる能力だと思うのですが、実は、大きな前提に乗っています。この本も中世史の見方のひとつである佐藤進一先生の東国国家論で読み解く武家の歴史という感じ。尊氏、直義の関係も佐藤先生の「将軍の二つの機能論」で押し切っている感じで、結論は日本では時流に乗った奴が勝つ、と。

 本郷先生は佐藤進一先生の流れをくむ石井進先生と五味文彦先生に師事し、現在は東京大学史料編纂所教授。つまり公式な日本史を書いている立場の先生で、中世史に関しては権門体制論を批判して東国国家論(二つの王権論)に立っています。ということで、この本でも最近の日本史ブームをつくったと紹介し、実証派=権門体制論の立場に立っている呉座勇一『応仁の乱』と亀田俊和『観応の擾乱』に関してはライバル心を燃やしている感じ。いきなり観応の擾乱は他に擾乱を使った事例がないので観応の乱にすべきだし、応仁の乱は11年も続いたのだから、応仁の大乱にすべき、と軽くジャブを放ってから描き始めています(p.18-)。

 本郷先生は、ヘーゲルを継ぐ歴史哲学者であるコジェーブが「人間の歴史を学びたいのであれば、日本の歴史を学べ」と述べていることを「はじめに」で紹介し、日本は気候、異民族支配などの影響がないところで歴史が展開されたので、人間がどのように発展するかを見る上で、もっともいい教科書になるとしています(p.22-)。つまり、通史志向なのかな、と。

 また、何をもって乱、変、陣、役、合戦というか学問上の定義はなく、学術的に分類していくべきだとして、規模別に戦争、役、乱、変、戦いとすべきとしています(p.20)。

 本郷先生は『軍事の日本史』で《学問とは、理念を明らかにすることだと言えます》と書かれていて(p.52)、至極まっとうなことだなと読み飛ばしましたが、紛争を分類して序列化したいというあたりを含めて、戦後史学の発展史観がベースなのかなと門外漢ながら観じました。

 また、現在では非主流派になっている東国国家論を堅持するために、呉座『応仁の乱』については《土岐康行の乱、明徳の乱、応永の乱の時とほぼ同じ構図を引きずり、負け組(山名氏・大内氏・土岐氏)が勝ち組(細川氏・赤松氏・京極氏)に再び挑んだリベンジの戦い》であり《それは「宿命的なもの」だった》として、細川頼之の役割を大きく取り上げて反論しています。

 一方の観応の擾乱については「将軍権力の二元論」で主従的支配権(軍事)を握った尊氏と統治的支配権を保持した直義という関係を説明するばかりで、直義が軍事催促状と感状を一元的に発給していたという問題には触れていません(亀田隆和『観応の擾乱』p.11)。本書では《佐藤進一先生が提唱しましたが、実は尊氏と直義の二党政治を根拠として論証されたものです》として、ずっと「将軍権力の二元論」で二人の関係を説明し、後は直義が東国国家論的に鎌倉に帰りたかったという感じに終始しておられます。

 ということで『乱と変の日本史』は呉座先生をターゲットに、頼之を大きく取り上げて反論してますが、次あたりはキチンと反論して欲しいところです。

 また、これはTwitterでご指摘いただいたのですが《ほかに「擾乱」という言葉を使った事例がない》とまで書くと問題かな、と。「事例が少ない」「馴染みがない」ぐらいにしておけば良かったのに、これは亀田先生から教えていただいたのですが、中世の島津氏の歴史を叙述した『三国擾乱記』という書物もあるし、『大日本国語辞典』の「擾乱」項を見ても、これが本来は一般名詞であったそうです。

 あと、山川の日本史広辞典で観応の擾乱を引いてみると、ほぼ本郷先生は広辞典の記述から出てないし、直義は殺害されたとしている研究者が多いとして、自然死だったのではないかという亀田先生の説をわざわざ否定しています。山川は史学雑誌の発行元を引き受けて以来、教科書を東大の先生方が執筆してもらっているという大人の事情もあるだけに、本郷先生もこうした定説から出られないんだろうか、なんていうことまで考えてしまいました(念のため「擾乱」も引いてみましたが項目はありませんでした)。

 ぼくなんかは網野善彦先生から中世史の本に興味を持ったクチで、だから東国国家論の方が権門体制論よりしっくりくるな…と思っていたんですが、それは、やはり戦後史学とバックのマルクス主義的発展史観に慣れていたからなのかな、と改めて色々、考えさせられました。

 ちなみに鎌倉幕府を東国において朝廷から独立した中世国家と見なすのが佐藤進一先生の系譜である「東国国家論または二つの王権論」。公家、寺社、武家がそれぞれ荘園を経済的基盤とし、対立点を抱えながらも相互補完的に分業に近い形で権力を行使したというのが権門体制論です。

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April 29, 2019

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』加藤陽子責任編集、歴史学研究会編、績文堂出版

 この手のアンソロジーは例えば哲学の分野などでは凡庸なものに終わることが多い印象ですが、日本史の場合は、執筆者が協力して、全体としても統一感のある読み物になっています。監修した加藤陽子先生による、全体のサマリー「はじめに」だけでも読む価値はあります。

 列島では古来から比較的王殺しが少なく、禅譲=上皇が突出して多いというのは、例えば総理大臣など政治のトップの逮捕・起訴などが少ないというのにも通じるかな、というのが第一印象。

 「はじめに」で加藤先生は、朝幕関係についての議論が活況を呈しており、さらに現在の皇統が始まった光格天皇以来の譲位で多くの人が興味をいだいているとした上で、殺害される王が稀で譲位する王がこれほど多いのは珍しいと紹介。さらに、八人十代にも及ぶ女性天皇は東アジアでも珍しいとも。列島では皇位継承の明確な準則がなかったため、継承方式は推移し「擬制的な直系」の創出が目指されたが、それもほとんど異質だ、と。

 また、近世期の改元は践祚から一、二年後になされるのが普通だったとも。中国でも崩御後一年は前の皇帝の年号が使われていました。さらに、秋篠宮の問題提起でも話題になった大嘗祭も中世以来、霊元天皇まで行われず、東山天皇の時に二百数十年ぶりに再興されたものです。

 もっといえば、欧州の王政は世襲と選挙があるが、日本は世襲を疑わなさすぎだ、とも。

 池亨先生の《官位叙任機能は天皇制の本質というよりは、天皇制維持のための必要条件、天皇による生き残り戦略》という考え方は、マルクス主義の尻尾を引きずるぼくにはしっくりきます。中世史でも、どうしても権門体制論より東国国家論の方がしっくり来ます。

 天皇にとっては「退位」ぐらいしか人間としての意思を示す場所はない、という河西先生の論考は、天皇と皇室メンバーの自由のなさなど、深刻な人権侵害を考えると、任期付の選挙天皇制への途も日本国憲法と皇室法の擦り合わせで可能という奥平、長谷川の指摘につながるかな、と。

 天皇の職は祭祀儀礼などの公事遂行と内廷経営。さらに治天の君となった時には《天皇の周囲に構築された国政処理のための政務全般》が核になるというあたりも、なるほどな、と。

 ということで古代から箇条書きでみていきます。

「古代の天皇」

 禅譲と対をなす放伐(王の追放)という言葉は日本書紀などでは使用されなかったそうです。中国でも放伐の代わりに禅譲の形式をとった王朝の簒奪が増えていきましたが、日本の禅譲の多さは東アジアでも突出しており、それは「退位させられる強制禅譲」とみることも可能だ、と(p.7)。

 例えば大王崇峻は蘇我氏によって殺害されましたが(フレイザー的王殺し)、その後の皇極から孝徳への王の交代は、王殺しによる事態打開の途を避ける日本の特徴となっていった、と。世界でも日本は王殺しが少なく、譲位が逆に多すぎるのですが、これは世界史的にも意義あるとのことです(p.11)。

 中国唐代では、退位した皇帝が「太上皇」の尊号を付与されたが、令文に「太上天皇」の語はみえず、日本独特のもの。淳仁を廃した孝謙天皇は、道鏡を随伴した大嘗祭で称徳天皇と重祚。道鏡の即位を企てるが失敗。称徳には太上天皇や皇后、皇太后、皇太子がおらず、老齢の白壁王を光仁天皇を立太子します。

 天皇と太上天皇のどちらが偉いか、太上天皇は降りたのかなどの矛盾を抱えることも。天皇と上皇は激突することもあったが、王権を分裂される危険を内包しつつも制度化されていきます。今後、新羅やベトナムとの比較研究が進めばさらに特色は際立ちそうだ、と(p.23)。

 日本の女帝は八人十代に及ぶが、中国では唐代の則天武后だけで、朝鮮半島でも新羅善徳、真徳、真聖の三人だけ。日本の場合、律令にも規定があったほど(p.29)。

 日本古代の女帝の必要十分条件は「内親王(皇女)」。道鏡事件の後に践祚した光仁天皇は、内親王皇后の井上内親王を廃する。それは、産んだ子供だけでなく、自分も皇位継承者となる危険性があったから。その後は、女帝の影響力が大きくなってきたため、藤原氏などの臣下皇后が相次いで立てられることになります(p.37)。

「中世の天皇」

 室町期になると官位授与が買官としておこなわれ、天皇は家業としてそれを営みます。もうひとつの重要な収入源は改元。京都周辺の天下を制した武家が、その宣言として改元を行わせた。細川高国の大永、足利義昭の元亀、信長の天正などの勘文、難陳の費用は武家が出資しました(p.94-)。

 戦国期になると天皇の葬儀、践祚の費用は将軍から得られくなり、近場の大名から調達するようになります。禁裏小番衆は天皇の最期の藩屏となったが、経済基盤の狭小化で出仕しなくなる者も出てきたほど。そこに現れたのが信長。御所警護、経済援助で信長への依存を高め、秀吉には聚楽第行幸までして最悪期を切り抜けたことになります。

 信長の上洛時、御所を荒らされると思ったけど、郷民を雇うぐらいしか出来なかった正親町天皇。最悪の事態を覚悟しただろうけど、警固の兵を送られた時には本当にホッとしたろうな、と。この時期は譲位の費用も出せないので、行き当たりばったりの崩御→践祚に戻ったという指摘は可哀想すぎ。

 11世紀に神鏡とアマテラスが同一視されて伊勢神宮は宗廟となったのですが、古代の天皇は神聖性を保持していたが、中世では、神仏という超越者他者に保証される象徴的権威に変化したという指摘はなるほどな、と(p.105)。

 中国・朝鮮の儒教的社会では「異姓不養」の原則から、他家から養子を迎えて継嗣とすることはできないといいます(p.66)。このことは、日本社会が中世に、経済的発展を遂げていたからなのかな?

 南北朝の対立は、皇統に連動したさまざまなレベルの家督争いによって構成される、と(p.64)。応仁の乱の畠山とかまさにそうだったな、と。それが朝倉的解決に収斂していくのかなと思いました。

 皇位継承は1)傍系継承や兄弟叔甥の争いから候補者を絞り込むために2)皇族出身の妃所生の男子とする六世紀型から3)藤原氏出身の妃所生とする八世紀型へ推移していきます。さらに荘園の拡大など経済発展で資産が増加したため、皇位を子孫に伝えるために譲位&院政が生まれた、と(p.58)。

「近世の皇位継承」

 室町幕府が弱体化して畿内政権になると、天皇の葬儀→践祚の費用を幕府が出し渋るようになって、夏場などには遺体がひどい状態になってしまうことがあったそうで。天皇家の「家業」化の進展で制度化された譲位→受禅という安定的な継承もできなくなり、崩御→践祚という行き当たりばったりの継承に戻る、と。天皇家は最後の頼みの綱となった禁裏小番衆の権益確保のため鷹司家から塩漬魚の徴税権も奪ったりもした。織豊政権が破格に天皇家を大事にしてくれてホッとしたのもつかの間、徳川時代になると突然、天皇が病弱となり早死にし始めます。

 桃園天皇は脚気にもかかわらず酒を飲んで行水するなどして急性心不全で死去。天皇の継承は幕府の許可をもらわなければならなかった当時、桃園天皇の死は関白近衛内前によって伏せられました。それは桃園の子・英仁親王が五歳で病弱だったから。幕府には桃園の姉の智子内親王が践祚し、5-6年で英仁親王に譲位するという方向で許可を得て、7/9の死去の後、21日になって践祚が実現。桃園の姉・後桜町の譲位により、後桃園は13歳で皇位についたが9年後に父・桃園と同じ22歳で死去。当初から病弱で、この時は1歳になる皇女しか子がいなかったため、再び死は秘匿されました。

 しかし元々、後桃園は病弱だったため、公家たちも準備万端。今の皇統となる閑院宮家には王子が多かったので得度してない九歳の裕宮が光格天皇に。この時は死んでいる後桃園が裕宮を養子として践祚させるという叡慮が幕府側に打診されて了承をもらった。聞くも涙の物語で、昭和天皇の時も何ミリの下血があったなどの病状まで公表されたり、秘匿と公表が極端で可哀相すぎ。今上陛下が生前譲位を望んだのも、昭和天皇崩御時の国民生活の混乱も含めて宜なるかな、と。

 昭和天皇の病状が悪化していった当時、駆け出しの記者だったんですが、JRのダイヤ改正の発表も「Xデイがあったら繰り延べ」という条件付だったことを思い出す。今上陛下の譲位は昭和天皇崩御時の混乱とローマ法王の生前退位(これも驚愕だった)を受けて実現したんだろうな、と改めて思います。

「戦後天皇制と天皇」

 神なき国で天皇と皇室を機軸とした西洋近代化を目指した明治国家は、19世紀後半のドイツで確立した国家法人説を導入し、天皇と国家の関係を人体に喩えて説明する途が開いた。天皇の位置付けについてキリスト教の神学に代わって援用されたのは「歴史」だった、と(p.183)。

 昭和天皇にとって欧州歴訪は人生の花だったが、帰朝に際し、米国への訪問を果たせなかったことを残念に思うという令辞があったとは知らなかった(p.195)。歴史にIFは禁物だが、宮中某重大事件に訪欧問題がリンクされず、もっと見聞を広める機会があれば大平洋戦争への道も違ってものになったかもしれない。昭和天皇は訪欧時、初めて切符を自分で買って列車に乗ったが、降りる時、それを渡すとは知らず持ち帰ってしまう。しかし、生涯、その切符を大切に持っていたという話しは、天皇の孤独を感じさせるエピソードとして印象に残っています。

 5.15事件のあった1932年7月、昭和天皇は陸軍士官学校の卒業式に出席できなかった。天皇に対する生徒の態度に学校側が自信を持てないほど悪化していた証左かもしれないというのは初めて読みました。2.26に続く陸軍の叛乱は昭和天皇に対する不満、異議申し立てから再考する必要があるかも(p.209-)。


「戦後天皇制と天皇」

 GHQは占領を円滑に進めるために天皇の権威を欲していたので、日本側の「象徴」の内実を曖昧化。このため敗戦後の天皇制の存立根拠が憲法にあるのか歴史にあるのかハッキリしなくなっていった、と。

 敗戦直後、近衛文麿は昭和天皇退位を主張したが、これは支配層が天皇制を継続維持するためには天皇個人の身体をある程度、犠牲にしても構わないという発想があったから。

 新しい皇室典範に退位規定が入らなかったのは、退位の自由を認めたら、天皇にならないという不就任の自由も認めなければならなくなるから。

 三笠宮は基本的人権を謳う憲法の精神からして、退位など人間としての意思を発露できないのはおかしいと指摘していた。天皇の意思は発露できないが、人々の自由は保証されるというのは矛盾だ、と。

 初代の「象徴皇太子」となった今上陛下は、憲法にも皇室典範にもその職務が規定されていなかったので、自らの存在意義を模索していきます。

その際、戦国時代にあって疫病や飢餓を祈りによって克服できなかったことに後奈良天皇が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」と写経の奥書に書いたことに共感したとインタビューで答えていいます。

今上陛下は、戦国時代にあって疫病や飢餓を祈りによって克服できなかったことに後奈良天皇が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」と写経の奥書に書いたことに共感していることをインタビューで答えている


「中国皇帝の譲位と年号」

 中国ではある年の途中で皇帝が亡くなって次の皇帝が即位してももその年は亡くなった皇帝の年として、新年を迎えて初めて新しい年号を発布し、自身の治世を開始する「踰年(ゆねん)改元」が原則。また、皇帝が翌年の正月を迎える前に亡くなると皇帝とは扱われません。

 前漢で即位儀礼は祖先の位牌を安置する宗廟で行われたが、武帝からは先帝の棺の前で即位する「棺前即位」に。また、年号も前漢の武帝の途中から始まります。

 唐代では則天武后が周朝を開くまでは皇太子の即位が通例だったが、則天武后の子で皇太子から即位した中宗が韋皇后に毒殺された後は睿宗-玄宗-粛宗と異例の即位が続きます。

 日本の院政期と違い、中国の皇帝の譲位は政争をともなう。隋の煬帝だけ「ようだい」と呼ばれるのは暴君だったからで、日本でも反乱に加担したとして廃位された淳仁天皇と仲恭天皇の二人の廃帝も「はいたい」と呼んで区別した、と。

 前漢では皇后の出自はほとんど考慮されず、歌手が見そめられたこともあったが、やがて有力臣下の娘が皇后になっていき、後漢では外戚が権力を握います。

 「前代自り以来、未だ人君(君主)即位の後に皇后の太子を産むことあらず」という言葉があるように、例外は紂王。唐代でも皇后の実子が皇太子から皇帝となるのは例外だったが、その時代に遣唐使が送られていて影響された?

「ヨーロッパの王制と王位継承」

ベルばらファンなら王家打倒後、マリー・アントワネットが「カペー未亡人」と呼ばれるるようになったとは知っていると思いますけど、中世フランスは「カペーの奇跡」と呼ばれる長子による直系相続が続いたが、カペー直系はシャルル四世の死によって1328に断絶。しかし、ヴァロワ朝、ブルボン朝ともカペー家とは男系でつながっている。男系男子の相続が続いたのはヨーロッパの世襲王制国家の中でも極端に珍しく、イギリスは男女系男女世襲王制だし、ポーランドなどの東欧は選挙王制だった。米ワシントン大統領と同時代のポーランド王の参政権の割合はほぼ同等。

 日本では世襲の男系による皇位継承が自明のものとされており、王制と共和制は別個のものと考えられているが、ポーランドのように「王のいる共和国」も存在したほど。神聖ローマ帝国皇帝はハプスブルグ家の当主が15世紀以降、選挙で世襲王として選ばれたが、それは結婚政策で反対派と縁結びしていたから。

 こうした「世襲的選挙王制」はハンガリー王国でもみられた、と。

 さらに、これも本になるのが楽しみな歴研のシンポ!

「天皇と皇位継承のコスモロジー」では《明治に形成された近代国家としての日本が、新たに創出した天皇にまつわる制度や儀礼につき、古代史から無媒介に援用し遡及させようとした試みを、古代史の立場から批判的に論ずる》とのことです。Tennoh-katoh

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April 12, 2019

『世界史の新常識』

 

Shijoshiki-0 Shijoshiki-0 Shijoshiki Shijoshiki-0 『世界史の新常識』文藝春秋編、文春新書

 古代、中世・近世、近現代にブックガイドも加えたところが良心的だな、と感じるアンソロジー。出版社というか季刊文藝春秋SPECIALに掲載された原稿が中心。加藤隆、佐々木毅、樺山紘一先生など宗教学、政治学、歴史学などの研究者のほか、アカデミックな世界の著者だけではありませんが、退屈せずに読み進められました。

 年代別に少しずつ紹介していきたいと思います。

[古代]では、やはり加藤隆「キリスト教」はイエスの死後につくられた」が面白かった。

 ユダヤ民族は「出エジプト」で約束の地を得ることができたが、北王国の滅亡などの際にヤーヴェの沈黙が問題になった、と。ここで、ヤーヴェが沈黙しているのは民の態度がダメだから、という合理的な解釈が出てきた。しかし、人間が義しい状態を実現したとして、神はその者を救わなければならないとすれば、神は人の操り人形のようなものになってしう。そこで「人が何をしても救われないし、神を動かせない」という認識が熟すとともに、罪の概念も希薄になってきたのがイエスの頃のユダヤ教だ、と。

 イエスの流れで重要なのは、こうした状態の中で「神が、一方的に動いた」ということ。イエスの福音=良き知らせは「神が動く」可能性が実際的になったということですが、イエスは神を都合よく動かす力まではなかった、と(神の国が近づいたというメッセージの意味は神が動く可能性が出てきたということなのでしょうか)。

 十字架事件の後、ペトロたちの行動をローマ側が黙認したのは、民族を分断支配するという原則に従ったから、というあたりは、加藤先生の師事されたトロクメ先生が『聖パウロ』文庫クセジュで書いておられた「ローマ殉教はパウロvsペトロの使徒内ゲバ対決だった!?」ようなことに通じるかな、と感じました。

 こうしたこともあってペトロは初期共同体をエルサレムでつくることができたのですが、そこではペトロが指導者になり《「人(指導者)による人(従属者)の支配」というべき事態が生じた》のですが、アナニアとサッピラの事件で明白な財産処分をめぐる躓きから「すべての財産を寄付する」という教えが変更されてしまいます。しかし、教えが変更可能なものだという軽さは、逆に社会的に有効だと考えられる教えによって様々な指導者が信者を集めることも可能になり、初期キリスト教の様々な文書も生まれた、と。

 これは同時に教会が様々な分派に分かれて鋭く対立するという構造も生むのですが、個々の共同体のメンバーであり続けるためには「いい加減なメンバー」でも構わないという柔軟性も生み、それはローマ帝国を支え、やがては中世ヨーロッパの信仰共同体にもつながっていったんだめろうな、と。

 また、イエスの出現によって示された神の小規模な介入は、ユダヤ民族の枠に捕らわれず、使徒行伝の記述などからも非ユダヤ人からも対象となる者を選んだことが注目されます。

 ここまで加藤先生は書いておられませんが、トロクメ-加藤の使徒行伝を含むルカ文書のざっくりみてみると、イエスに降りそそいだ聖霊は初期エルサレム共同体からパウロ、ローマ兵などへと次々と降りそそぐという構造があります。そして、神の介入がこの程度の小規模なものであるから、守れない律法は避けた「人による人の支配」の有効性が示され、それが2000年も続いた姿になっているのかな、と。

 このほか、森谷公俊「古代ギリシアはペルシア帝国に操られていた」では、ペルシア戦争の背景には東方世界の豊かさとスパルタに代表されるギリシア世界の貧しさがあったというクリアカットの指摘にはなるほどな、と。だからアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者だ、というあたりが面白かった。

呉智英「どうして釈迦は仏教を開いたか」では、禅宗は、六世紀支那で荘子思想を読み換えて成立というのはなるほどな、と。


[中世・近世]以下は箇条書きで。

山内昌之「預言者ムハンマドのリーダーシップ」
《イスラームでは、合法的婚姻関係以外で性的交渉をもつのはすべて姦通とされる。婚姻をしているムスリムは男女問わずに、石打ちの刑となる。未婚者の場合は、100回の鞭打ちと1年間の追放》

宮崎正勝「中世グローバル経済をつくったのは遊牧民とムスリム商人」
《広域ネットワークというと、「大航海時代」ばかりが目につきやすいが、世界史で、先駆的にそれを作り上げたのが、ムスリム商人と遊牧民》
ユーラシア大陸で《ムギに依存する「南」と馬に依存する「北」の分離、つまり経済と軍事の分裂が、世界史のダイナミズムを生み出していく》
《大航海時代は、ユーラシアの陸の世界史(小さな世界史)から3つの大洋が五大陸を結ぶ世界史(大きな世界史)への転換をもたらした》
遊牧民とムスリム商人が定住農民を支配するシステムは1)7世紀のウマイヤ朝(アラブ)からアッバース朝(イラク)、11世紀のセルジューク朝(トルコが実権)2)トルコ人のセルジューク朝に移るが、イスラム帝国のセンターはシリアからイラン高原寄りにずれて商業圏を膨張させた。これは主導勢力が砂漠の遊牧民から、草原の騎馬遊牧民に移ったことを意味する
さらに13世紀のチンギス・ハーンから始まるモンゴル帝国がつながる
18世紀になると、ともにトルコ人が支配するオスマンとムガル帝国、女真族が支配する清帝国とロシアがユーラシアを分けた
一帯一路は中華思想によるモンゴル帝国の円環ネットワークの組替え

杉山正明「異民族を活用したチンギス・カン」
チンギスはいろいろな遊牧民を自分たちの騎馬軍団として組織したが、出身や人種でわけへだてなかった。それは在地支配への関心が薄かったから
(遊牧民の在地支配欲の薄さは、日本中世の武士による在地支配欲と好対照かな。日本中世史の素晴らしさは、武士による地に足のついた在地支配欲が貴族や寺社の荘園支配を打破したことだと思うのですが、他のアジア諸国では、在地支配欲の少ない遊牧民が軍事支配してるが日々の生活には干渉しなかったから武士のような存在が育たなかったのかな。つか中国などの武装勢力はうまく利用・再編されたのかな?)
4つに分かれたモンゴル帝国は、全体として眺めれば比較的仲は悪くなかったというより、エリート意識からモンゴル人は殺さないなど仲間内の紐帯は強かった

樺山紘一「ルネサンスは魔術の最盛期」
現存する最古の木版印刷は法隆寺などにある奈良朝の「百万塔曼荼羅」だが、紙のないヨーロッパではルネサンス直前まで印刷技術がなかった

久芳崇「明を揺るがした日本の火縄銃」
朝鮮に到着した明軍に浴びせかけられたのは火縄銃の一斉射撃。明では倭寇の捕虜から火縄銃の製法は伝わっていたが、鋳銅なので暴発の恐れがあった。
朝鮮の役以来、明朝は火器の導入を図るが、それは軍団単位にとどまった。一度、解任された劉ていは火縄銃部隊を失い、女真族とのサルフの戦いに敗れる。保守的な官僚はそれでも積極的な火器導入に踏み切れず、ホンタイジによって火器受容を行った女真族に圧倒されていく。

柳谷晃「戦争と疫病がニュートン、ライプニッツを生んだ」
『三銃士』のダルタニャンはやたら「オレはガスコンだ」と誇らしげに語るが、ワインで有名なボルドーもあるガスコーニュ地方からは多くの人々が十字軍に参加し、進んだイスラムの文化や科学と出会ったからデカルトやフェルマーなども生まれた


[近現代]
小野塚知二「産業革命がイギリス料理をまずくした」
 囲い込みによって、入会地を失った農民たちは果実、ジビエ、魚、キノコなどを入手できなくなり、自営農家は季節労働者となっ村祭もすたれ、保持されてきた食の能力を失った、という説明は納得的。

中野剛志「保護貿易が生み出した産業資本主義」
英仏は近世、ずっと戦争ばかりしている感じですが、1689-97の対仏戦争の際、イングランド銀行は政府に戦費を貸し付けるかわりに銀行券を発行する組織として設立された、というのは知りませんでした。イタリアのバルディ、パルッツィ家は百年戦争を始めた英国王エドワード3世(1312年 - 1377年)の借金踏み倒しにあって破綻したんですが、銀行券を発行できる権利とバーターなら安心なのかも。
他の銀行はイングランド銀行に口座をつくるようになり、こうした信用制度によって工業地域は資本の調達が可能となった、と。
さらに、保護貿易によって自国産業を育成したのですが、供給過剰と資源不足が起こって、帝国主義的な紛争も激化した、と。

平野聡「アヘン戦争 大清帝国VS大英帝国」
領事裁判権は清の皇帝からすれば、夷狄は彼らの法律で管理すればいいということで容認されたというのは、なるほどな、と。
イギリスはインドからチベットを経由する対清貿易ルートを築こうとして北京に協力を要請し、北京もチベットを説得しようとしたが、頑迷なチベットは仏教徒ではないイギリス人を嫌い、それがチベット問題の源流になっている、と。
総じて英国は要求しつつ利益をえる対中関与を続けている、と。

脇村孝平「インド グローバルな亜大陸」
ガンジス文明は紀元前6世紀に、モンスーンと大河に支えられた稲作によって人類史上初めて熱帯における人口稠密社会をつくった、と。
イギリスが少数でプラッシーの戦いなどに勝利し、その後も支配が可能になったのは、商人・軍人・官僚などに「協力者」を得たから。商人たちはイギリス資本と結びついてインド洋を取り囲む交易網をつくった、と。

竹森俊平「世界大戦の負債が起こした大恐慌」
《「過去」を振り返ることで、「現在」の意味が分かるというのが歴史研究の醍醐味だが、その反対の論理も働く。つまり「現在」を見つめると、「過去」に起こったことの意味がはっきりする》というのはなるほどな、と。
ワイマール政府の賠償金支払いが行き詰まったことで、ドーズ案による猶予と(1924年)アメリカのJPモルガンなどが立て替え計画をまとめ、危機を脱出。その支払い期限は1988年だったというの知らなかったな。
アメリカ資本はドイツに貸して貸して貸しまくり、貸し先がなくなると中欧や東欧まで貸しまくった、というのも知らなかった。
これによって米国の民間貸出に極度に依存する体質が生まれ、と。
ワイマール文化の不健全な感じは、こうした経済構造からなのかな、と思うと同時に、フィッツジェラルドなどの小説で、ヨーロッパがアメリカ人によって支配されたような感じに描かれるのも、こうしたことが背景なのかな、と。
米国のNY連銀のストロング総裁は、金利引き下げを行い、利ざやを稼ぐために資本がイギリスに流入するようにして、イギリスが金本位制の金を拡充できる仕組みをつくったが、連銀保守派はバブルを煽る行為だと批判。ストロングが1928年に死去すると金利を引き上げたのが翌29年の大恐慌につながり、あわてて今度は利下げしたにもかかわらず、中東欧の経済は悪化。31年にはオーストリアのクレディットアンシュタルトが経営破綻。クレディットアンシュタルトは31年6月に支払いを停止し、連鎖的に大銀行の支払停止が拡大してゆく、と。

渡辺惣樹「共和党対民主党 日本人が知らないアメリカ史」
南北戦争前の共和党と民主党の今とのネジレ感を、共和党→英語に伍していこうと志向vs民主党→英国に追随していけばOKという感じでスッキリと説明。
リンカーンの奴隷解放宣言は奴隷貿易法を禁止していたイギリスが、南部同盟に肩入れしないようにする奇策だったにせよ、共和党はKKKを抑え込むなどの対策は続けた、と。しかし、黒人差別を続けたい民主党では地盤の南部で州法による分離政策を続け、これが公民権運動まで続いた、と。
ウィルソン大統領の父親は奴隷制は神がつくったとする長老派牧師で、差別の日常の中に育ち、共和党大統領が続いた開放的なワシントンで白人と黒人の職場分離を行ったほど。民主党のウィルソンが大統領に当選できたのは大恐慌時のフーバーの不人気が原因だった、と。
日系人を収容所に送り込んだルーズヴェルトもNY出身だが、人種差別意識の強い典型的な民主党の政治家(ルーズヴェルト一族は中国に阿片売って財をなした)。副大統領のトルーマンは南部のミズーリ出身でさらに人種差別意識が強く、原爆使用もためらわなかった、と。
戦後、南部の白人層が豊かになって共和党支持に傾くと、民主党は「アメリカ全てが人種差別的だった」というレトリックで、マイノリティ票を獲得していった、と。

このほか、ブックガイドも充実しています。

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April 03, 2019

『日本中世史を見直す』

『日本中世史を見直す』佐藤進一、網野善彦、笠松宏至、平凡社

 このところの日本中世史を研究する方々のご著書の面白さは本当に素晴らしいのですが、一歩下がって佐藤進一先生の議論から読んでみようと思い、この鼎談を開きました。

 一読、日本の中世史は

[ファンタジー左派]マルクス主義歴史学の立場から南北朝の争乱が封建革命であると主張した松本新八郎
[左派]マルクス主義歴史学は観念的すぎるとは思いつつ人民の力のベクトルを保ち続けた石母田正、網野善彦
[中庸]法制史の立場から基礎的研究を行った佐藤進一による、鎌倉幕府は京都と別の権力をつくり並立したという「東国国家論」
[右派]中世の国家天皇家、公家、大寺社、武家が対立しつつも相互補完していたとみる平泉澄に端を発する「権門体制論」
[ファンタジー右派]平泉澄の皇国史観

の間のグラデーションで説明できるかな…と感じるようになりました。

 現在、日本中世史は大きな研究の広がりと、そうした成果の一般書籍への反映が起きていますけど、それはあくまで、このグラデーションの中にあるかな、と。

 学界で多いのは天皇と将軍は上下関係にあるという黒田俊夫の天皇中心の「権門体制論」らしく、若手研究者も意外と平泉澄の見直しを進めているらしいのですが(権門体制論は平泉の『中世に於ける社寺と社会との関係』1926で提示)、個人的には二つの権力が並立したと考える佐藤進一の「東国国家論」が穏当ではないかと思っているので、改めてと網野善彦などとの議論を読む意義はあるかな、と。

『日本中世史を見直す』佐藤進一、網野善彦、笠松宏至、平凡社

 ところが、三人の先生方の問題意識がわかるまで64頁かかってしまいました。

 この本は『平政連諌草』の議論から始まりますが、これは北条得宗家が没収した所領を自分のものにしてしまうのを諌めた書。得宗家があっけなく滅んだのは、専制を目指したものの、そうした専制を支える基盤が作れなかったからだ、ということになっています。さらに言えば、中世における社会の変化が訴訟制度・主従制を変化させ、鎌倉幕府では矛盾を解消するために得宗専制に走らざるを得なかった、ということが原因なのかな、と。

 網野善彦はこうした変化の原因を宋元銭など貨幣経済の浸透による商業・金融の発展に求め、それを担ったのがアウトサイダーである神人や悪党であるという立場。後醍醐政権はこうした神人や悪党などを一天万民の思想の元で動員したことを強調し、こうした人々は貨幣・信用経済を保証するネットワークになって紙幣も作ろうとしたと指摘する網野さんに対して、「しかし、結局、なにも造らなかったでしょ」と佐藤進一先生は法制史的に軽く切り替えします。

 本書は『平政連諌草』のほか、花園上皇が皇太子の量仁親王(後の光厳天皇)のために記した訓戒書『誡太子書』、後醍醐天皇に徳政と倒幕を諌める吉田定房の『吉田定房奏状』、後醍醐天皇を痛烈に批判する北畠顕家の『北畠顕家奏状』という四つの文書を元に議論するという構成をとっています。

 このうち『吉田定房奏状』と『北畠顕家奏状』は醍醐寺三宝院に所蔵されています。

 亀田俊和先生の『観応の擾乱』を読んだ直後、醍醐寺展で尊氏―師直と共に討ち死にする覚悟を示した賢俊の書状を見たんですが『日本中世史を見直す』によると幕府の正当性を示すために北畠親房の息子で21歳で討ち死にする直前に北畠顕家が後醍醐天皇を痛烈に批判する文書を集めて持ち出していたんすね。

 ちなみに、愛児顕家を失って「時や至らざりけん。苔の下にうづもれぬ、ただいたづらに名をのみぞとどめてし、心うき世にもはべるかな」と嘆くところは神皇正統記でも《もっとも感動的なくだりと言えるだろう》と笠原宏至は語っています(p.257)。こうしたあたりは、素人なので新鮮でした。

 また、佐藤進一先生が室町幕府の権力構造は細川が瀬戸内海、山名は山陰、斯波は越前~尾張、畠山は河内・紀伊を一族で抑える地方総督みたいなものだったが、九州は一族支配ができなかったと語っているあたりは佐藤直系の本郷和人先生の九州と東北はちょっと違うという二国論の元ネタ?かな、と思いますが、どんなもんでしょうか(p.99)。

 ちなみに、元号は大化改新後に制定されるようになったけど、南北朝時代は《幕府=北朝の元号、南朝の元号、北陸=南朝方の元号、それに観応の擾乱ののちの北朝、南朝の元号と足利直冬の元号など、元号の併立・鼎立》があったというのは、新しい元号が発表される前日には覚えておたいところ(p.188)。

 素人は史料を読めないので、活字に直された著書でしか語れませんが、戦国時代までの日本中世史がわかりにくいのは、乳母を含む複合的な母系社会という下部構造の上で、権力闘争が行われていたからじゃないかな、と改めて感じる部分もありました。戦国時代以降が分かりやすいのは、実力一本で、話しがつくからかな、と。

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