丸山眞男講義録

December 28, 2017

『丸山眞男講義録1』

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『丸山眞男講義録1』丸山眞男、東京大学出版会

 去年は『丸山眞男講義録』を逆から読んでいたんですが、1だけ抜けていました。メモがなくなってしまって…。不完全ですが、忘れないうちにアップしておきます。

 講義録を読む前は、正直、丸山眞男に関しては断片的な理解しかできていませんでした。主著と見なされている『日本政治思想史研究』は江戸時代の儒家に関するものですし、 岩波新書の『日本の思想』を除けば、読書家と呼ばれる人ならばこれぐらいは読んでいると思われる『現代政治の思想と行動』は論文集であったりと全体像が掴みにくい。

 こうした感覚を変わるキッカケを与えられたのは、長谷川宏『日本精神史(上下)』と『丸山眞男をどう読むか』を読んでからでした。長谷川宏はヘーゲルの翻訳を終えた後、丸山眞男批判に向かいます。『日本精神史(上下)』はいま思えば講義録7巻の批判的註解だと思いますし、長谷川宏の丸山批判の出発点だった『丸山眞男をどう読むか』では、吉本隆明の共同幻想論が丸山眞男の日本史古層論と柳田國男の民俗学のハイブリッドという構造を持っていることも初めて理解できました。

 講義録七巻を読み終わって、丸山眞男が解き明かしたかったことは、改めて日本史の特殊性だったんだろうと思います。そして、そのモチベーションは自身が従軍中に被爆まで体験した(そのことを明かすのは最晩年でした)、太平洋戦争の敗北に向かう昭和史に対する情けなさだったんだろうな、と。

 講義録1は1948年度の講義をまとめたものですが、それは1940年から44年にかけて発表された『日本政治思想史研究』を構成する三つの論文のうち、前半の二つを引き継いだもので、最後の『「国民主義」の前期的形成』は義録2で講じられています。

 『日本政治思想史研究』は戦前のファシズム的歴史学に対抗し、《周囲の「近代の超克」や「否定」の高唱に対して、「明治維新の近代的側面、ひいては徳川社会における近代的要素の成熟に着目」》し、そこを《必死の拠点》としようとした問題意識に支えられています(この引用は『日本政治思想史研究』の「あとがき」にあったものですが、以前はまったく目に止まりませんでした)。

 講義録1の《いかなる歴史的認識も一つの自己認識である》という開講の辞の言葉は、後年の大家という目線で発せられたものではなく、抵抗宣言として読むべきなのかもしれません。

 48年度講義は、歴史意識が思想史における決定的契機として強調され、こうした歴史意識の台頭は「西欧的思惟の体験した最大の精神革命」であるという引用もなされていますが、それは《「日本の儒教内部に於ける歴史意識の成熟」は、それだけに「マイネッケのいう以上に、全東洋的思惟世界に於ける最大の精神革命」》であると同時に、そうした偉大な歴史意識を形成したにもかかわらず《「日本に於ける歴史意識が、歴史的現実(status quo)の維持に結びついていることは、ザッハリヒに物を見るために、その歴史的事実を肯定することになるということであり(cf.本居宣長)、他方これに反し、変革的思想は、抽象的公式主義の形で推進されることになり、この二面の特殊性こそは、日本的歴史意識の宿命を端的に示すものである》とも語っています(解題にも引用された本書p.288)。

 それはもっと具体的にいうと《歴史意識は保守的感覚と結びつき、自然法的思惟と革命思想とが結びつく》《進歩の立場が抽象的なものと結びつくと公式主義に堕するのである》ということでしょうか。講義録に沿っていえば、自由民権運動がナショナリズムとインターナショナリズムに分裂し、前者は昭和の超国家主義につながり、後者は大衆的な広がりを持つことなく霧散します。こうしたことは日本だけでなく、リベラルレフトの考え方は、どこから抽象的で広がりを持てず、いつの間にかポリティカル・コレクトネスをめぐって仲間内のつぶし合いに終始するようなことに反映されているのかもしれない、と感じます。

 丸山の戦後初の試験問題は以下でした。

 《諸君は我国が思想史的な意味での「近代」を既に通過したと考へられるや、将来の方向と関連して諸君の自由な見解をうかがひたい》

 戦後、保守勢力以外が権力を握ったのは敗戦直後の片山・芦田内閣、高度成長期が終わった後の細川連立内閣、失われた20年が続いている中での民主党政権だけで、しかも、いずれも短命に終わっています。これらの政権にしても、本当の変革を掲げられていたのか、という疑問は発足当初からありましたが、その崩壊後の嫌悪感の蔓延たるや、江戸時代から続く歴史的現実の維持と結びついた大衆教育の強さを思い知らされます。

 開講の辞で丸山眞男は『ヘーゲル法哲学批判序説』の「理論(Theorie)も大衆(Masse)を把握すれば、物質的(material)な力に転化する」というマルクスの言葉を引いていますが、批判的精神をもって歴史的感覚と歴史という二重の構造において捉える歴史的認識を得ることは、まだ、ぼくたちの課題ではないでしょうか。

 目次は以下の通り。

序 開講の辞 思想史の方法論について
第一章 徳川封建制の機構と精神
第二章 伝統的イデオロギーの諸形態
第三章 近世儒教の興隆とその社会的基礎
第四章 初期朱子学者の政治思想
第五章 朱子学的世界像の分解
第六章 元禄・享保期の社会と文化
第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成
第八章 石門心学の勃興とその展開
第九章 近世後半期の社会及び思想の大勢
第十章 国学思想の発展
付章一 中期朱子学派の景況
付章二 安藤昌益
付章三 結論

 『講義録1』は朱子学が徳川幕藩体制を支えるイデオロギーとして朱子学が採用されたが、やがて徂徠などによって克服され、日本独自の歴史意識の成熟を生むという東洋世界における最大の精神革命をなし、その中には、原始共産制への回帰をも連想させる安藤昌益などもいた、という流れになっていると思います。

[第一章 徳川封建制の機構と精神]

[第一節 徳川封建体制の歴史的位置づけ]

 丸山眞男の講義録では目から何枚も鱗が落ちましたが、その一つは徳川幕藩体制によって中世からの荘園が解体された、というクリアカットな指摘でしたが、それは鎌倉時代からの武家一円支配の完成を意味していました。

 中世荘園は公家と武家が重畳的支配を行っていました(上地・下地)が、やがて荘園の自足性の崩壊、経済圏の拡大とともに、地頭一円支配へと進展。織豊体制の集権制は大名支配を破壊できませんでしたが、徳川幕府は、旧勢力を無力化するとともに、農民と都市商人の勃興をも抑圧して封建的支配体制を完成させました。農民や都市が負けたのは《「西洋以外のどこにおいて、領主の軍隊が都市よりも起源が古いということのため」》(ウェーバー、経済史、s.275)です。

 封土(レーン)を家臣に分配して、その代償として忠誠義務を負わせるという徳川体制は封建的生産関係を揚棄できず、上層に若干の絶対主義的な外見を纏っていました。

 また、農民は土地に対する用益権(プレケース=請願に基づいて譲渡される恩恵的土地貸与および貸与地をさすプレカリウム)を持つだけの存在ではなく、収益権を私的な所有権にまで高め、領主も知行権を公的色彩の強い徴税権に昇華させていった。

 徳川幕府は、人民に対する直接的支配は天領に限られていたが、大名を自己の地方行政官のように駆使した。こうした権力の集中は欧州の封建国家には見られず、近世の専制国家に傾斜しており、多くの武士は土地との直接的牽連を喪失、サラリーマン化した。

 城下町に集中した武士は消費生活のために、扶持米を貨幣に替えなければならず、それは都市の発展に伴い《札差、掛屋、蔵元等を先頭とする高利貸資本、土木請負業者、貨幣鋳造業者、運送業者等々を先頭とする商業資本へ、ますます多くの貨幣資本が蓄積されることを意味した》。

 また、《農民の手に余剰生産物を蓄積することが不可能な場合、貨幣経済の浸透は、決して農村を近代化するのではなく、東エルベのが典型的に示すように、逆に封建的反動を生じせしめる》(Grundherrschaft=領主制支配)。

 日本の農村の停滞は著しく、相対的過剰人口は家族的奴隷に転化して生産性の向上は阻まれるか、城下で浮浪人や乞食、博徒となって治安を脅かした。

 丸山眞男は『剰余価値学説史』から《自由労働、世界市場、旧社会の解消、一定段階への労働の発展、諸科学の発展―が存在するに至った時期において初めて、高利は新生産方法形成手段の一つとして現れ…要するに資本としての労働諸条件の集中手段として現れるのである》というところなどを引いて、江戸自体の町人階級は、社会的価値を移転するのみで、なんら価値の生産者ではなく賤民資本だ、としています。明治時代の苛酷な原始資本の蓄積をみても、徳川時代のマヌファクチュアの発展を過大視できない、と。

 また、「権力なく権威」としての天皇は古くから存在しており、農村における家族共同体の存続と家族主義イデオロギーは、天皇崇拝の根拠を提供した、とも。こうして幕末までマヌファクチュアはさほど発展せず、封建制に真正面から対立する政治力の成長も阻まれた、と。

[第二節 徳川社会の社会・精神構造]

 武士・僧侶・神官、そのた一切の不耕貧食階級を否定し、万人耕作の理想社会建設を説いた安藤昌益を除いて、体系的に封建体制に対立した思想は皆無に近い。

 《われわれは思想構造の内面に深く立ち入って、下部構造の解体に媒介されながら隠微のうちに新公していくところの封建的思惟方法の腐蝕と崩壊を辿らなければならぬ》。

 愚かな政治家が出ても差し支えない機構をつくることが近代政治思想の問題ならば、悪い制度機構の下でも賢明に支配する政治家をつくることが封建的思想の第一の課題。

 江戸時代は一定の場で起こったことはできるだけ、その場で解決させることを特色としますが、近代国家は平均化された国家公民に直接対峙せしめるところに成り立ちます。封建社会の袋小路に分散化された政治的価値が中央に擬集されるにつれて、市民生活の活動は個人の生活へ沈下しますが、それは「国家のイデアリズムの完成は同時に市民社会のマテリアリスムの完成であった」というマルクスの言葉も引かれます。近代国家の特質は、特殊なものを一般的なものにまで還元し、法を媒介に間接的に階級支配する点にあるのだ、と。

[第二章 伝統的イデオロギーの諸形態]

 第一章では徳川封建制の機構と精神形態が語られましたが、その支配的イデオロギーはもちろん儒教思想でした。第二章では、なぜ儒教、特に朱子学以外のイデオロギーが、適格性を欠くことによって圧倒されていったを明かして消去法的に儒教による制覇を語ります。その後、積極的な分析は三章で行われます。

[第一節 神道]

 神道が教義としての構造を持つに至ったのは、平安末期に仏教の教理によって基礎づけられた習合神道からであり、常に仏教に思想的基礎を仰ぎ、核心は本地垂迹説でした。鎌倉時代に入ってからの外宮神道と北畠親房などの神道も基本的には仏教に依存しており、思想的な独立は復古神道によって成し遂げられます。

 仏教に教義内容を負っていた神道は、吉田神道によって仏教から解放されますが、なんと儒教擡頭に対応して、廃仏論を展開するに至ります。

 神道はその時代の主流的イデオロギーを基礎に仰いできましたが、近世の神道は神儒合一なのが共通点となります。

 しかし、そのようにうまく儒教へ乗り換えたことにより、神道は宗教的特質を希薄化させていきます。仏教の末法思想に対する此岸的な生活倫理を強調するという役割は、儒教という徹底的に此岸的なイデオロギーの前に意味を失うのですが、やかで宣長から始まる国学思想によって、初めて注目すべきイデオロギーてき迫力を発揮するに至る、と。

[第二節 仏教]

 仏教は中世であらゆる生活、文化領域を支配していましたが、徳川時代にはその権威を失います。

 それは《仏教の持つ末法観に漂う本質的なペシミズムが、近世初期に社会的安定の回復とともに現実主義的、楽天的、肯定的な生活態度によって反発を受けた》からであり、《近世になって武士が都市に集住し官僚としての生活態度が一般的になっていくと、そこで必要とされるのはノーマルな状況での集団倫理》となった、と(p.58)。

 しかし、ひたすら来世を求めるという彼岸性は、実は蓮如による浄土真宗の世俗化などをみても薄れてきており、世俗的な勢力の失墜が思想的勢力の無力化に拍車をかたともいえる、と。

 仏教の興隆をもたらしたものは、俗的権力との結びつき(特に公家勢力、荘園所有者)であって、純宗教的なものではなく、思想的没落も俗的権力の没落を反映したものとなった、と。さらに破戒僧の存在は、儒者の廃仏論に実質的根拠も与えることになった、と。

[第三節 キリスト教]

 1549年にザビエルから伝えられたキリスト教が急速に普及したのは1)封建領主をキリシタンが獲得することに努力を集中したのと同時に2)封建領主側も仏教や寺院勢力に対抗するためにキリシタンの力を借りたから。

 その思想的影響は学校教育と出版によって行われ、禅僧出身のファビアン(修道女と駆け落ちして棄教した後はキリシタン迫害に廻る)の『妙貞問答』のような高度な神学も展開されたが、一般民衆に受けいれやすいように十戒などをアレンジした『とが除き規則』の第四条では「父母ニ孝行スヘシ」など上下関係の倫理を包括していました。

 『とが除き規則』の第一条では「御一体ノ君ヲ「天主」(万事に超えて深く)大切ニ敬ヒ奉ルベシトノ事」のように対既成宗教では妥協を拒否するものの、対社会関係では円滑化を図る内容になっています。

 ここらへんを少し補足すれば、 福音書では「わが母、わが兄弟とは誰ぞ」(マルコ3:33)とラジカルに親子関係を相対化した言葉をイエスに語らせていた原始キリスト教が、布教期に入るとパウロのように「凡ての人、上にある權威に服ふべし。そは神によらぬ權威なく、あらゆる權威は神によりて立てらる」(ローマ13:1)のように訓えたということとパラレルになっています。

 丸山眞男の評価は《支配層には民衆に対する過当の搾取をいましめ、非支配層には、支配層に対する義務の遵守を説き、かくして全体として、当時の社会関係の円満化をはかったということである。日本に入ったキリシタンはヨーロッパ中世に於けるカトリックが然りし如く、封建的支配関係をば、むしろその政治的前提としていたのである》(p.70)というもの。

 キリシタン禁圧の原因は複雑ですが、荘園支配を打破するための廃仏の手段として利用されていたものが、統一政権の確立で不要となると同時に、大名の分離主義的傾向が警戒されたためではないか、と。

 《かくてひとり儒教が、とくに鎌倉時代に入り来った宋学が、近世封建社会の確立と共に急激に蔓延して殆ど思想界を独占するに至る》(p.74)わけです。

[第三章 近世儒教の興隆とその社会的基盤]

[第一節 徳川封建社会の儒教的適格性=徳川社会の体質]

 儒教は欽明天皇の頃には仏教と並ぶ影響力を持ち、十七条憲法にもそれはみられる。しかし、漢以後は五経の訓詁学となり思想的に低調の一路を辿り、唐代には仏教に圧倒されていた。

 中国では宋学が起こって訓詁学を一変させ、仏教哲学を摂取することで初めて雄大な思想体系を立てた。日本にも鎌倉に入ってきて、『資治通鑑』に代表される名分論は、南北時代にマッチして北畠親房の『神皇正統記』に影響を与えた。そして戦国末期に藤原惺窩が朱子学の新鮮な体系を解放し、それを林羅山が継いだ。

 儒教はシナの読書人(官人=マンダリン)のイデオロギーであり、本来、武人を支配者とする封建社会に適合しないはずだが、文治官僚的側面が幕藩体制の創始者たちに重視された。それは武士が《ちょうどシナの読書人と同じく、自らの生産的基礎をもたず、庶民の勤労の上に徒食する階級に転化したからして、戦争が終焉するかぎり、武士そのものの社会的存在根拠が失われた》から。また、民を教化することにも適合した。《従ってそこでは政治は必ず道徳学問に連なり、道徳学問は必ず外からの、もしくは上からの教えという形態をとった》(p.78)。

 ギリシャ以来の西洋ではロゴスが客観的真理であり、真理の前には教師も弟子も平等だが、儒教はその逆。《かくて道徳は良心に基礎づけられずして権威に基礎づけられる》(p.79)。

 天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民(農工商)という儒教のヒエラルヒーは将軍(大君)・大名・家老・その他一般武士・庶民となり、大名は諸侯、家老は大夫、武士は士と呼ばれた。儒教が日本に入って以来、徳川時代ほどその社会倫理が図式的に適合した時代はない。

[第二節 儒教に於ける朱子学の支配的地位]

[一 朱子学発展の沿革外観(通説的解説)]

 朱子学は五経(易経、書経、詩経、礼楽、春秋)中心の訓詁学とは異なり、四書(論語、孟子、中庸、大学)を中心とする義理の学を前面に押しだした。中でも重視されたのは大学。
 
 周茂叔(周敦頤)の『大極図説』は易に基づいて展開された宇宙生成論であり、こうした形而上学は仏教との対抗上、要請され、その弟子である程明道・程伊川の二程子はさらに哲学的に発展させた。

[二 根本原因=大極=理]

 大極という根本原理から万物が派生するという構造で、伊川から朱子に至って「理」となる。それは「真実無妄の誠」として倫理的性格を帯び、西洋哲学とすでに根本的に異なる。理はアプリオリなものだから、経験的存在は「気」によって形を賦される。根本静である理から万物が生ずるのは気の作用。これが理一分殊。

 宇宙は万物に理を内在した一大有機体であり、もっとも秀なる気を受けた聖人を最上位として、社会の位階的秩序が成り立っている、と説明される。これは倫理性を度外視すれば、ヨーロッパ中世の神学におけるアリストテレス的論理(形相と質料のヒエラルヒッシュな体系)が中世身分的秩序の基礎付けになったことと似ている。

[人性(人間)論]

 宇宙の根本原理であり大極=理は本質である以上、人間をも規定し、大極=理を人間精神についていう時は「本然の性」と呼ばれる。ここにも運動を理そのものと見ないキエティスムス(静寂主義)が存在するが、これは仏教の影響。《人欲は情から起こり、情は動くところに発するから、静坐して内省すれば、未発の中を養い、天理が顕現する》(p.85)。

 天下のものに理のないものはないので、『大学』に由来する格物窮理(理を窮め性を尽くし以て命に至る)から客観的対象への志向も生まれるが、仏教的悟りを狙っているので不徹底とみなされるようになる。このため、直截に倫理的修養の途をとる陸王学、仁斎学と、客体に即する態度を主張する山鹿素行・荻生徂徠に分かれていく。

 また、窮理は近代合理主義と程遠いにしても、徳川中期には自然科学を刺激し、幕末にはも西洋自然科学が窮理の思想によって紹介された。

[四 陽明学の思想的性格略説]

 気のモメントが希薄化し、主観的色彩が濃くなり「心学」と称される。心=理の考え方から、宇宙は心の中にあるとされ、客観的なものが軽視された。中江藤樹も陽明学的色彩を明白にしたのは晩年であり、日本で陽明学は系統的な発展は遂げなかった。

[第三節 朱子学的世界像の社会的意義]

 ウェーバーによれば儒教は「世界に対する分裂を、世界の宗教的蔑視の意味でも、世界の実践的排斥という意味でも、絶対的ミニマムに縮小した合理的倫理」。善=道=自然的秩序=礼を通しての社会的秩序への順応であり、悪は社会秩序への背反であるとして根本悪を知らない。

 封建社会に於いては何人も客観的環境の中に没入し、主体的意識を持たない。

 これに対してヨーロッパのアウグスチヌス主義は世界を罪悪視するので自然法成立の余地はなく、規範的なものは神や支配者の外部的命令として来るので、人間の本性に内在しない。
 
 それに対してトマス主義は神的法則を人間理性に内在せしめ、世界を罪悪の場所から神によって祝福された調和的秩序へと転回させた。アリストテレスに倣って人間は生まれながらに社会的・ポリス的(政治的)動物であるとして、原罪による堕落的産物ではなくなった。

 ウェーバー流に言えば「トマス主義は、嘗てキリスト教が有したなかで、世界に対する対抗・緊張関係をミニマムに縮めたところの、最も雄大な体系」。

 上下関係から把握された自然秩序を以て社会秩序を根拠づけるという循環論法は似ており、スコラ哲学が崩壊に至る過程は日本において朱子学が解体される過程と類似する。

[第四章 初期朱子学者の政治思想]

[序説]

 初期の朱子学者は経典のみを学問として、リアルなものに直接目を向けようとしない東洋的学者の伝統を継承し、独創性に乏しかった。

 修身斉家治国平天下の論理的必然連関を説き、政治を個人修養の問題としてしまう朱子学では厳密には政治思想はなく、客観的制度は軽視される。こうした政治的メカニズムへの蔑視は東洋社会では根強いが、封建社会とともに崩壊する。

[第一節 制度論・機構論の欠如]

 初期朱子学者には政治的支配者の個人的人格の問題が前面に出てくる反面、制度論・機構論は全く見られず、非合理性に対する認識が欠如している。これは社会的分業が極めて低位にあることと関連する。

[第二節 「職分」思想]

 位階制的社会秩序観には職分の観念が内在している。個物が全体の中に有機的に組み入れられている。職分は個物を個物たらしめているものであり、下層部には分限思想が、統治者には仁政思想が生まれる。仁政主義は君主としての職分にほかならない。

[一 被治者の職分としての「分限」思想]

 家康の「うへをみな、みのほどをしれ」は分限思想の最も圧縮的な表現。そして分限思想は朱子学的自然法のうちに最も強固な理論的基礎付けを持っている。

 中江藤樹は「気」に精粗を区別するという理論から人間の社会的差別、政治的支配関係の合理化を試みる。一方、林羅山は正反対に「元はといえば同じ」という理一分殊から差別を基礎づけており、《大極=天理の万物内在が平等の理論でないことがこれでよくわかる(近世自然法との相違)》。また、雨森芳洲の社会的分業からの封建支配の基礎付けは『孟子』に由来する。

 個人の人格形成は、人欲を天理によって抑圧することでなされるが、そのイデアールなものは超越性を持っていない。

 また、天理に従うことは、《法に服従することが人間精神の本質であり、人間の内面的価値の実現なりとするヘーゲルの考え方に、現象的には一致しているように見える。しかし両者を決定的に分かつものは、「自由」の概念の有無にある。ヘーゲルにあっては、法は自由の対象化、具体化であり、それ故にこそ法への服従はすなわち、抽象的自由のヨリ高度の段階に於ける実現とされるのである》。

 朱子学では、社会生活への順応が道となり、社会的習俗伝統に内在する非合理性はかえってそのまま肯定される。かくて朱子学は一方ではイデアリズムへ、他方は自然主義へと分裂していく。

[二 統治者の職分(義務)としての仁政]

 慈悲慈愛の政治は民衆に対する苛斂誅求の否定、為政者の私的享楽の抑制の教説となってあらわれる。

 封建的農業はせいぜい同一規模の再生産であり、商品貨幣流通に伴う武士の生活費の騰貴に対処するためには絶えざる消費の抑制しかなく、結果的に私的享楽の否定が達成された。

 また、有徳君主思想が説かれる時にも「天」の地位に皇室が置かれ、武家政治の交替を儒教的革命思想によって合理化されたが、これは彼らが日本の現実と儒教的革命論のギャップを看取できなかった証拠となっている。しかし、だからこそ、その彼らが尊皇論の最初の提示者となるというパラドクスをも生む。

[第三節 儒教思想と尊皇論]

 林羅山、藤原惺窩は排仏論を展開して神儒一致を基礎づけようとした。徳川幕府の御用学者である林羅山は尊皇論の祖でもあるが、尊皇論が反幕となるのは、幕末の逼迫した政治社会情勢によって。

 日本主義的ウルトラ・ナショナリズムは垂加神道と平田篤胤系の神道がある。垂加神道は禁欲主義のファナティシズム。後者は感覚的解放が国家に投影されたものとして汎日本主義に通じるが、両者のあざなえる縄が後年のウルトラ・ナショナリズムとなる。

 山崎闇斎は天皇に対する倫理的価値判断を一切しりぞけて、敬虔主義に徹底するので、儒教的規範主義とは相容れなくなる。言語学的こじつけ分析こそ、狂熱的日本主義の特質であり、平泉澄は山崎闇斎型だった。

[第五章 朱子学的世界像の分解]

[第一節 斯界の大勢]

 元禄までに儒教は興隆の一途を辿り、会津の保科の下には山崎闇斎、岡山の池田には熊沢蕃山、水戸には水戸学が生まれた。

 しかし、最盛期において没落が準備されるように朱子学的世界観と近世封建社会とのギャップは拡大。

 それに対応して、朱子学的世界観に固執して現実を斥ける佐藤直方、朱子学を現実にひきつけて解釈する貝原益軒、経験的現実を尊重して朱子学に拘泥しなくなる熊沢蕃山などに分かれ、やがては朱子学に対立する古学派を生む。これらは合理主義と歴史主義、自然法主義と実定法思想の対立という普遍的な問題が徳川時代に生起したものにほかならない。

[第二節 朱子学的思惟構造の分析過程]

 《朱子学的思惟方補の分解はまず形而上学の領域で開始された。それは、脂油史学に於ける理=大極の実態的仕様越的性格が漸次後方に退いて、気=陰陽五行が前面に出て来て、理はむしろ気の理として経験的自然に内在する条理という意味に推移した》ex.伊藤仁斎。朱子学的思惟方法の全面的崩壊に最初の衝撃を与えたのはまさにこの気理論だった。

 理=大極の超越より内在への変化は、ヨーロッパ中世の普遍は実在すという考え方(universalia ante rem)より、実在するは個物にして、普遍は抽象的な名目にすぎぬという考え方(universalia post rem)の推移と共通している。

 朱子学では

1)アプリオリな理から万物を演繹する立場から、経験的事物すものに即するようになり、徂徠学のような実証主義を生む
2)静の理から動の気に優位が移ったことは動態観への展開をもたらした
3)道徳も動的実践において把握されるようになり、貝原益軒に朱子学へ反旗をひるがえさし、山鹿素行もドグマへの執着から自由を説くようになる
4)性善説を基礎づけていた理の気に対する優位が崩れることで、善悪相混じた人間性が気質の性として認められることに至る。これにより、朱子学の根本構造である人間に妥当する規範と宇宙法則との自同性が破壊される
5)赤貧洗うがごとき生涯を送った伊藤仁斎からも人欲を滅尽することは人間の感覚的存在を否定することにつながる、という批判が生まれ、朱子学の歴史書に見られる歴史的人物に対する峻厳無比な道徳的批判にも反発が生まれる。そこには元禄~亨保で高まっていく貨幣経済の進展に伴う生活の動態化、欲望の多様化が反映されている
6)人はみな成仏できるという大乗仏教に対抗して、朱子学は「人はみな聖人たるべし」と主張したが、人欲の滅尽はこの命題の否定につながり、そこから原始儒教に復帰してVirtuoseとしての聖人君子を一般人から異質化していく方向に帰結する。ここに「礼」が重要な意味を帯びてくる。
7)それは律令という法律制度の尊重に結びつく。熊沢蕃山は参勤交代や米の大都市への集中による輸送費高騰が困窮を生むと指摘するに至り、古代農兵制を理想とした。
8)自然法思想では移ろいゆくものは仮象と考えられたが、ヨーロッパにおいては十九世紀に歴史意識が台頭した。それはマイネッケにいわせると「西洋的思惟の体験した最大の精神革命」だった。
 ヨーロッパ思想史は、空間的、円環的、完結的、幾何学的なギリシャ思想と、人間的、時間的、内面的なヘブライズムのおりなす綾だったが、東洋では精神に対する自然の優位が古来圧倒的だった。
 従って日本の儒教思想の内部に於ける歴史意識の成熟は、中国思想史の単なる複写を免れた精神革命だった(しかし、歴史主義は全てを相対化する。ニーチェが人間的生の峻厳を主張したのも歴史主義への反発だった)。
 日本での歴史意識は主に保守的面のみを表出した(Status quoの維持)。原始儒教に帰れと朱子学を批判した古学派は、反復古主義的な形をとる。熊沢蕃山は王政より武家政への歴史的必然を説くことで武家レジームを合理化した。これを精緻化したのが山鹿素行。
9)公的図式主義の破壊、個体性の尊重、人欲の解放がパラレルに起こる

[第六章 元禄・亨保期の社会と文化]

[第一節 問題の意味]

 幕府創立から元禄まで100年足らず、元禄~亨保は50年、元文~慶応までは120年と年代的にも徳川時代の分水嶺であり、最盛期から下りはじめる時代。

 間引きが広く行われるということも元禄以前にはなかった。

 百姓一揆は亨保の頃から度数を増し、規模も急激に大きくなっている。

[第二節 元禄文化の社会的意義]

 米による自然経済と貨幣経済の矛盾も元禄時代から露わになった。

 荻生徂徠の蘐園学派(けいえん、蘐園は徂徠の号)は、それ以前の思想とは質的な断絶がある、としていますが、徂徠の言葉に「自分の小さい時は田舎で銭を見ることは稀であった」というものがある。

 財政が窮乏した幕府は元禄八年に貨幣改鋳のインフレーション政策を行うが、一部の巨商が暴利を貪るのみで武士は窮乏するだけだった。

 元禄=亨保時代は混沌たるアナルヒー(anarchie)が現出した。《閉鎖的固定化による窒息を免れんとする国民精神の大きないぶきであった。従って元禄文化を共通に位置づけるものは束縛よりの解放を求める個性的精神》であり、自主的、創造的なものの発生が認められ、それはこれまで辿ってきた儒学においても朱子学に対する古学派の勃興にみられる、と。

 西鶴、芭蕉、近松、歌舞伎、光琳や浮世絵などは庶民、町民が担い手だった。

 支配層を代表する狩野派が支那画に覊束されていたのに対し、菱川師宣は自ら大和絵と称したように日本的でもあった。

 日本主義を最も高唱した闇斎派や、後の水戸学がその思想構造において最も朱子学の模倣を脱していないのに対し、徂徠の蘐園学派は道の普遍的妥当性を信じ、思惟を規定した素材は現実の元禄社会だった。

 それは浮世絵や浄瑠璃が題材を庶民の日常生活からとっていたのと同じ。芭蕉が客体への没入を求めるのは、古学派における即物主義的方法論と照応している。

[第三節 町人道徳の思想的意義]

 町人の精神は、ヨーロッパ中世におる賤民資本主義の精神であり、朱子学がアンチテーゼにおいた人欲の二大領域に栖家を見出した。

 近世初期の思想において、町人は蔑視されたが憎悪はされなかった。しかし、元禄以降は徂徠のように抹殺論を唱える者も出て来た。

 『永代蔵』のように犬の死骸を黒焼きにして疳(かん)の薬として売り歩くようなことはもっての他となり、やがて石門心学のように堅気に律儀に、始末と才覚をもって業にはげみ、色にふけらず情を解し、わびさびを楽しむのが真の商人である、ということになる。

 しかし、町人は最後まで商業資本として封建社会に寄生する存在にとどまり、町人道の独立はならなず、儒教に基礎づけられた分限を守る道徳が流れ込んできた。もちろん、武士階級においてする外面化されつつあった規範は、町人階級でも内面化はされなかった。

[第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成]

[第一節 転換期の思想と徂徠の二元的性格]

 第六章「元禄・亨保期の社会と文化」で見たとおり、この時代の社会的変動に真正面から取り組んだのは徂徠学であり、同時に没落する運命も有していた。

 徂徠は非儒教的要素を導入することで原始儒教の精神を復活させた。また、封建的な支配関係を基礎づけるのに、本来は対立物である利益社会的(gesellschaftich)な論理を以てするという悲劇的な役割を演じた。君主制の基礎としてウェーバーはカリスマ的、伝統的権威をいい、カール・シュミットは名誉(Ehre)を源泉とするが、実用的価値(utility)を以て論ずれば、それは君主制の末期。

 思想家の本来の意図と、それが拠って立つ論理が矛盾することはホッブスなど過渡期の思想にもみられる。

 徂徠が天下国家を論じ、儒教を観念的な思索の世界から生々しい政治性の世界に引き入れ(儒教の政治化!)、時代の趨勢に深刻な憂慮を抱いた。同時に世俗を超越して詩を論じる非政治性もみられる。《それは、徂徠自身が、規範拘束性と不羈奔放性の両面性を合わせ持っていたことの現れでもあった》。

[第二節 徂徠に於ける社会改革論]


 儒教は出発点となるのは個人道徳で、政治的なものは最後の帰結だが、徂徠では逆に政治が出発点となる。古文辞学研究も、熾烈な政治的関心が、儒教の理論的改造を思い出させ、原始儒教へと赴かせたものと考えられる。

 徂徠は問題を1)機構と2)それを具体的に運営している人間の面に分けた。

 機構の問題は「旅宿の境界」と呼んだ武士の生活の矛盾だった。それは城下町に集中した武士階級が商品経済に巻き込まれながらも、知行地を離れることで、農民との情誼的な結びつきが失われる搾取、被搾取のみが表面に現れるなど寄って立つ経済的基礎は自然経済という矛盾。

 徂徠は『政談』で「一切ノ物、各々其限リ」があり、地位身分に応じて欲望を制限してゆく基準を設けなければならなず、それが「制度」であるとした。また、武士は領地に帰るとともに、人々の移動を旅行証明書で統制する策も提案している。例えば関八州の米産額を調べ、余剰の人口を「人返し」によって外域に疎開させるなどの統制経済によって幕府の絶対的支配権を確立しようとした。

 こうした原始封建制を理想とし、制度改革のためには人材登用が不可欠とした。しかし、徳川幕府の家筋を重んじることと、人才をとりたてることは裏腹の関係にある。理想的な封建社会の危機を救治する方策として、近代的な絶対主義国家に於ける官僚制の原理を採用せざるをえなかったことに、転換期の政治思想の特色が端的に表れている。


[第三節 徂徠学の思惟構造=その方法論的基礎]

 徂徠は封建社会再建のために、原始封建制の理想に基づく制度を求めた。しかし、当時の儒教思想は政治を個人道徳に還元してしまい、朱子学は抽象的な思弁に終始していた。朱子学が観念的思弁に陥ったのは「大極」を「理」とする儒教的自然法思想に胚胎する。

 徂徠が「制度ノ代替」という場合、その担い手となるのは、従来の制度や規範の客体ではなく、そこから超越した主体的な人格となる。つまり、制度をつくる主体"Wer?"の問題が、従来の何が真理であるか"Was?"の問題にとって代わって関心の中心点となる。

 そして「道を作為した聖人」が強く前面に押しだされ、道の普遍妥当性は人格から導き出されるようになる。これによって、儒教の道徳規範はアプリオリに決したものでなく、本然の性という命題も否定される。道は則るべきもので、人間性の内面は改造されるべきではない、とされる。

 人間の気質は変わらないとする『答問書』の一説は、逆にいえば個性の尊重と結びついている。そして、それによって社会的分業による個性の有機的統合が可能になる。

 道が先王によって作為されたものならば、社会規範たる道が自然法則ではなくなる。そして道を具体的な制度文物(Sttlichkeit)に限定することで儒教の政治性がはっきり出てくるとして、古文辞の微細な研究がなされる。

 徂徠は古代はあくまで古代から理解されるべきとして、ザッハリヒ(客観的)な帰納的研究方法が、古代聖人の宗教的な尊崇と結びついていった。また、古代を古代から理解していこうとする態度は、現代を現代として理解していこうとする態度も生む。

 「人皆聖人たるべし」という宋学の要請が否定され、聖人は古代中国に一回的に現れた経験的具体的人格となった。また、孔子に続く子思(孔子の孫で『中庸』は子思の作と伝わっていた)、孟子は諸子百家の時代に現れた論争家として相対化された。

 《言い換えれば、彼岸的なものへの非合理性からして此岸的な経験的実証性が生まれた》。

 自然法則は繰り返しという考え方に立つが、この同一性も破壊され、歴史の個体的把握が今や可能となる。朱子の『通鑑綱目』的な勧善懲悪観は決定的に批判される。

 《この意味で、古学派・古文辞学の主張は、その名称とは逆に、復古主義的傾向に対する反抗として生まれてくるというパラドックスを含んでいた》


[第四節 けい園学派の思想的意義及び帰結]

 徂徠において、全体が革命的転回をとげ、公的あるいは政治的なものは個人道徳から分離され、治国平天下は修身斉家から独立した。かくして、個人の私的な社会生活は、いかなる規範からも自由となり、公と私は分離併存することになる。これは次に公的なものよりも私的なものの優位を主張する立場を生む。

 徂徠学における私的な側面は、元禄文化の反映に他ならない。儒教を政治化した徂徠は、思索に耽り、文辞をもてあそぶという非政治的行動に逃避する。

 徂徠学における聖人に対する絶対的な信仰は、親鸞の阿弥陀に対する絶対的帰依に通じるものがある。

 カール・シュミットは法的思惟を1)規範主義2)決断主義3)具体的秩序思想の3つに分類したが、徂徠は第2の思惟形態に属する。それはホッブスのような「真理でなく、権威が法を制定する」立場に立つ。

 徂徠によって儒教は「礼楽刑政」という社会規範体系として把握されるようになったが、これにより「礼に常法なきことを知るべし」ということになるが、それは将軍がいかなることでも自由に支配(制度化)することができるようになることにつながった。

 徂徠の治国平天下の面は太宰春台、山県周南が継承し、文学や歴史、詩歌を継いだのは安藤東野、服部南郭などだが、優位に立ったのは文人墨客的方向だった。危機意識は忘れ去られ、逃避的な文人気質が支配的となり、思想界におけるヘゲモニーも失うが、安藤昌益や本居宣長などが徂徠学に含まれた革命性を利用することになる。

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October 23, 2016

『丸山眞男講義録2』#7

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 征韓論で内乱を収束させた明治政府は国会開設(1890年11月に第1回議会)、日清戦争(1894年7月~1895年3月)を経て、小日本主義は「世界の中の日本」を意識する大日本主義となり、日露戦争(1904年2月~1905年9月)にも勝利します。

 しかし、日露戦争は国家予算の7倍にも達する戦費をかけながら賠償が取れず、財政的には負け戦でした。

 しかし、明治政府はこのことを国民に説明できませんでした。このため、本来ならば日露戦争後に行うべきであった国内改革を行えずに農村部が疲弊。その結果、台頭してきた軍部の誤った政治・経済運営で破綻へと向かう、というのが現代におけるこの時代に対する認識なのではないかと思いますが、丸山眞男のナショナリズムを切り口とした分析はどうなっているでしょうか。

[附論 その後の歴史的概観]

 日露戦争後、資本主義の発展と国家的栄光の発揚は《ナショナリズムのイズムとしての擬集性を解きほぐして、これをいわば気体化せしめた。国家主義はいわば日本帝国の精神的支柱として確立されたので、思想ないし運動としてのナショナリズムは明治四十年以後むしろ退化していった》。

 国会開設後に、地主層の反動化によって自由民権論者は単なる国権論者に転化していき、玄洋社も藩閥政府の吏党となり、政府に暴力を提供するようになります。

 こうした転換は日清戦争がキッカケ。

1)日清戦争の償金は金本位制の基礎となり、資本主義の発展をもたらしたこと
2)日本にとって理想国家の雛形を提供してきたアメリカが帝国主義に転じたこと
3)三国干渉によって民権論者も帝国主義者へと変貌されられたこと

 などがその要因。

 特にアメリカは帝国主義列強としては立ち後れていたので、門戸開放と領土保全を原則として、日本をロシアに対抗させてきたが、中国をもり立てて日本帝国主義を阻止する方向に転じていったことは大きかった、と。こうしたことで日本のセキュリティが動揺しはじめ、再びナショナリズムの擬集現象をもたらしします。

 悪いことは、悪い時期に起こるものですね。

[附論1 草稿断簡]

 ナポレオンによって神聖ローマ帝国は解体されてライン同盟、プロイセン王国、オーストリア帝国に3分割されます。ライン左岸はフランスに組み込まれ、ライン同盟はフランスの衛星国なり、オーストリア帝国の皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズはナポレオンと結婚して同盟国となりました。

 こうした中、反フランス勢力はドイツ解放をプロイセン王国に託し、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を反フランスの中心地となりつつあったベルリンで連続講義という形で行いました。

 この時のドイツを敗戦直後に日本に仮託して、「国家の運命を自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」の確立を求め、ナショナルなものの積極的意義を説く未完成、未発表の断簡がこれ。

 《われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかしあてがはれた自由、強制された自由とは本質的な矛盾―contraction in adjecto―である》という書きだしは好きです。

[附論1 雑誌「日本人」及び新聞「日本」グループ]

 《明治20年初頭の日本主義の中核をなす「国民」観念は、一方では外国に対する国民的独立を意味すると同時に、他方では、国内における政治・経済・文化の国民化、即ち民衆化を意味し》ており、それはドイツやイタリアの近代化運動のような外からの独立と内部の解放、ナショナリズムとデモクラシーとの結合として現れた先例を追おうとしたもので、この時点の日本主義は健康性と進歩性があった、と。

 「日本」新聞の陸羯南は「他人に向ひて奴眼する者は必ず家人に向ひて鬼面するものなり」と政府を攻撃します。また、政治を抽象的なイデオロギーとしてではなく、具体的・歴史的な問題と関連させ、経済を重視していた、と。

 さらには前期的な暴利資本主義に対する中産階級的資本主義精神をつくろうとして、下からの殖産興業を目指し、民力休養と租税軽減を主張。政府の軍備拡張と増税政策に対抗します。こうした流れのなかで、三菱の高島炭鉱における坑夫虐待をルポルタージュしたりしますが、それは坑夫虐待が労働力の再生産を不可能にし、殖産興業を阻害するから、という理由でした。

 しかし、こうした先進性にもかかわらず、反動的国粋主義の流入を拒むことはできず、ナショナリズムはロマン主義に流れます。

 ロマン主義は《歴史的形象のなかに直接自己との生命的つながりを認めることによって、対象に対する理性的批判の眼を曇らせてしまう。ロマン主義の国家観たる有機的国家観の弱点もまさにそこにある》と丸山眞男は分析します。

 フィヒテで言及したナポレオン侵攻によって生まれた《ドイツの自由主義運動は、ロマン主義をもってドイツ・ブルジョアジーの革命思想を正当化したが、そのロマン主義がやがて封建的反動の正当化に転化》するなど正反対の政治的意味を持つようになります。

 そして「日本」グループも《反動的・国粋主義的傾向と自由主義ないし社会主義的傾向との二極に分化》していった、というのが結論。

 ということで『講義録2』もこれで終了。

 次からは、逆から読んできたので、最後の「講義録1」となりますが、すでに読了しています。

 とにかく、この後は残る一巻をまとめるだけとなりました。

 フィレンツェから追放されたマキャベリは昼間は、ならず者のような生活を送りながらも夜、執筆活動をするときには、いつも官服に着替えたと伝えられていますが、そんな気持ちで久々に読んでいました。

 一巻の最後は理想社会としての「自然の世」をたったひとりで構想した安藤昌益。

 講義録の最後に「終講に当たり、卒業の諸君に贈る」と語り、付章でも解説していたのも安藤昌益訓でした。
一、人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ
一、世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ
一、朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし

 安藤昌益の思想については素朴な唯物論にともなう運命論的色彩が濃いとはしながらも、「朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし」は親疎の別に基づく朋友観念に対して博愛を説き、「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」「世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ」は後の福沢諭吉の不羈独立の高唱を思わせるとして、孤独な思想家である彼を《日本だけでなく殆ど東洋に比肩する思想家を見出しえない》《封建社会の人間であることを疑う》とまで評価しています。

 とりあえず「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」というのは、いいな、と。

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October 20, 2016

『丸山眞男講義録2』#6

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第4章 自由民権運動におけるナショナリズム]

 幕末から明治維新にかけて、海外の脅威に対応して、海防論や尊皇攘夷が唱えられ、明治維新後も政権のヘゲモニーを巡って征韓論を軸に、対外進出から国権論、帝国主義へと進んでいきました。

 その中で福沢諭吉による古典的なナショリズムも生まれましたが、日本のナショナリズムが、単なる国権論の中に埋没していったのは、カウンターパートであるべき自由民権運動が常に国権論と結びついていたからではないか、というのが4章。

 そうなったのも19世紀のドイツやイタリアに似た環境から生まれた自由主義運動だったからであり、維新当初のナショリズムと何ら変わらず、そうしたものを継承していたからだ、というのが出だし。

 2章でも言及されていましたが、ナポレオンによる征服を経験したドイツなど、歴史的諸条件を忘れて論じることはできない、という言葉を思い出します。

 『丸山眞男話文集』では自由民権運動の活動家たちは集会の後、剣舞を舞った、と語っていました。

 その活動家たちの主張は《もし国民が国内の政治的支配者に対して卑屈な奴隷的服従しか知らないならば、そうした奴隷的屈従は必ずや外国からの支配者に対しても向けられるであろう》というものでした。したがって、政治的自由を国民に与えよ、と。

[1 十年代民権論の三つの国際的背景]

 この時代の民権論が念頭においていたのは1)朝鮮問題2)条約改正問題3)列強のアジア進出、という3つの国際的な要因でした。

 当時は、英国人ハルトレーが阿片を密輸しようとして税関に発見されたが、英国領事はハルトレーの行為を違法としない判決を下すような時代でした。

 また、レーニンが「帝国主義時代開幕の年」としたのも1876年で、アジアやアフリカでの植民地化の動きは明治20年後半から激化します。

[2 自由民権運動のナショナリズム:理論と実践]

イ)自由民権論と朝鮮問題
 1885年に起こった自由民権運動家たちによる大阪事件は、朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づくもので、これは外に紛争を起こして内を改革するという点で、征韓論の踏襲。

ロ)自由民権論と条約改正問題
 国会を開いて国民の力で外人の邪説を破り、裁判征税の権を回復せよ、というのがその主張。

ハ)自由民権論の国際政治論
 民権論者の多くは、国内の社会関係についてはどこまでも天賦人権論に依拠していたが、国際関係は赤裸々な実力闘争、弱肉強食の関係としてみていた。このため、おのずと国権論の内容も軍事的性格を帯びざるをえなくなり、それは特に自由党系に強く現れていた。

 一方、改進党系はより経済的であり、内治改良と商権の海外発展を強く打ち出していた。

 自由、改進両党とも富国強兵論だが、自由党はより強兵的ナショナリズムで、改進党系は富国的ナショナリズムだった。

 また、自由党系の国際意識は、東洋豪傑的な国権拡張論と、ナイーブなインターナショナリズムという相反した内容を持ち、それを良くあらわしているのが中江兆民の『三酔人経綸問答』。

[3 民権論のナショナリズムにおけるイデオロギー的混乱]

 一般的に改進党系のナショナリズムの方が、不徹底ではあるがより一貫していて動揺が少ない。自由党的ナショナリズムは一極から他極に急転する。

 これは、両者の社会的基盤による。

 改進党は都市ブルジョワや知識階級、殖産興業の担い手、交詢社(福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ)のナショナル・リベラリズム→犬養の国民党。

 自由党は地主、小市民、貧農、失業士族など。また、自由党系ナショナリズムには他国のナショナリズムへの尊重の契機を欠いており、それが帝国主義への転化の素地となった。

イ)民権的ナショナリズムと前近代的国粋主義との混合
 自由党壮士と玄洋社的浪人は宮崎滔天のようにほとんど見分けがつかない。

ロ)郷土主義とナショナリズムの混合
 本来、国民的統一と独立の経済的条件を政治権力によって造り出していかなければならなかったが、征韓論当時の反政府運動に旧藩的対立感情が作用し、連携が拒まれたように、自由民権運動の国民的な組織化を妨げたのも、郷党的虚栄だった。

 こうしてナショナリズム的動向は帝国主義・国粋主義へ、デモクラシー的動向はインターナショナリズムの方向へと分岐していく。

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October 15, 2016

『丸山眞男講義録2』#5

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第3章 征韓論(と征台論)]

 日本のナショナリズムの特徴は、福沢諭吉的な古典的内容を持ち得た期間が短く、すぐに帝国主義へのメタモルフォーゼを開始し、sui generis(独特)な日本的国家主義を生み出したこと。そうした契機となった征韓論は《近代日本思想史の上に人が考える以上に大きな意味をもっている》として一章を割いてます。

[1 維新前後の対韓関係 廟議分裂まで]

 韓国は大院君が極端な排外主義をとり、1867年(慶応3年)に宣教師やカトリックに対する大規模な虐殺を行ったため、フランス東洋艦隊と戦闘。徳川慶喜は使節を朝鮮に送って攘夷の中止を勧告しようとしましたが、その直前に王政復古となってしまいました。

 明治四年にはアメリカ東洋艦隊が米船乗組員虐殺事件の責を問うて陸戦隊を上陸させたが、京城に進撃できずに退去したので、大院君の息はあがっていきます。

 日本政府は明治維新にともない対馬の宋氏の私的貿易を禁止するなどしたため、韓国側は反発。明治六年には日本人を接客した娼妓を罰する法律などをつくり、日本人密貿易の取締を強化したため、廟議で対策を協議することになった、と。

 この際、外務卿の副島種臣は清国と台湾及び韓国との関係について質し、台湾蛮地は化外の地であり、韓国の内治・外交には干渉しないことを報告していた、と。西郷辞職までは省略します。

[2 イデオロギーとしての征韓論]

 征韓論は幕末から唱えられていました。

 勝海舟は反幕的な攘夷の動きを兵庫、対馬、朝鮮、支那に海軍の営所を置いて西洋に対抗するという大陸進出に転じようとしていました。これは欧州帝国主義の圧力を、東洋の弱小国家への帝国主義的進出に転化しようというもの。

 西郷の征韓論にも、対外進出を契機として国内改革を行うという目的が潜在しており《軍部有力者の間にも対韓進出を機会に武断派の革命を行い、政府内部の文治派を一掃しようとする動機があった》(p.131)と。これは大久保が秩禄処分で武士の大リストラを行うと共に大軍縮を断行しようとしていたことに反発したためでしょうか。

 木戸孝允は幕末時代から勝海舟と征韓を策していましたが、維新直後も征韓を利用して天皇直属の兵を徴募して全国の大名などによる内乱を抑圧しようと目論んでいました。しかし、同じく征韓論者である長州の大村益次郎が暗殺されて失望、その主張はしばらく薄らいだ、と。木戸は大久保と感情的に対立していたが、武権派の西郷とはさらに対立していました。また、農民暴動を恐れていたため、西郷の征韓論には反対することになります。しかし、征韓論によって大久保利通が権力を強化したことについて日記で愚痴を吐くなど、木戸はなんともいえない性格をもっていましたよね。

 こうした中で議論をリードしていたのは大久保です。孝明天皇は欧米列強の兵庫沖への艦隊派遣という威嚇を受けて、それまでの鎖国攘夷を投げ捨てた後、大久保に第二次長州征伐への勅命を非義の勅命と非難されて政治生命を失ったんですが、こんなところも含めて大久保は、たいしたものだと思っています。

 大久保の考え方は《英仏の如きは、悍然、護兵を我地に置き、殆ど属国の如し。然るをこれをこれ恥じずして独り朝鮮に咎む、大に忍びて小に忍びず、遠きに察し近きに察せず》というものでした。

 このほか、岩倉は西郷が行けば殺されが、それで兵を挙げたらロシアが黙過しないので、まずロシアに了解を求める工作が必要だ、という立場でした。

 丸山眞男は《面白いと思われることは、不平士族の暴動を恐れた者が征韓論の主張者となり、農民暴動を恐れた者が反征韓論を主張した》としています(p.135)。

[3 征韓論を惹起したリアクション(征韓論が国内問題であっことの証示)]

 征韓論は1)国内テロと暴動叛乱2)自由民権運動(土佐の民権運動と西郷らの動向は初期において一体性を保持していた)3)後の玄洋社に発展していく福岡の結社などによる国権運動―を呼び起こしました。

 この中で頁を割いているのが3)の国権運動。

 佐賀、熊本、秋月、萩、西郷による西南戦争、福岡と続く乱は、旧藩意識が強いというか相互不信が強く、連携がまったく取れていませんでした。板垣は西南戦争後、挙兵をあきらめ民撰議院を目指しますが、萩の乱で逮捕されていた頭山もこれに感じ、向陽社を設立、明治14年には玄洋社に改称します。

 さらに4)政府のリアクションとしては、台湾征討がありますが、これはもちろん征韓論の代用物で、征韓論と台湾征討に一貫して反対したのは木戸のみでした。

 政府は明治6年10月に西郷らが下野した翌7年には台湾出兵を行ういますが、そのイニシアティブをとったのは大久保利通、西郷従道、樺山資紀など薩摩藩出身者。

 大久保は台湾出兵で清から五十万両の賠償金を得て権威を高め、懸案となっていた横浜に駐屯していた英仏の外人部隊の撤退まで実現してしまいます。

 さらにロシアとの樺太千島交換条約では弱腰とされた政府も5)明治8年には江華島事件を機に日韓修好条約まで結びます。

[4 結論]

 丸山眞男は征韓論に、その後の日本の大陸政策が包含した全ての問題が圧縮されて表現されている、として、以下のようにまとめます。

1)内乱を外戦に。内の不満を排外的雰囲気の高揚によってそらす(レーニンは「対外戦争を内乱へ」だったが、日本は「革命よりは常に対外戦争」を選んだ)

2)外戦(国際紛争)を起こすことによって国内改造を行う(満州事変では桜会を中心に国内改造が同時に目論まれ、十月事件も類似した事件)

3)政治の軍事に対する統制の弱さ。西郷隆盛自身が急進論に押されたこと。また西郷従道の征台論における動き(出先軍部の独断専行、強硬論)

4)対外的な国威発揚(なるべく抵抗の少ない海外進出を試みようという考え方が、この後も引き続き、日本の政治支配層には強く流れていた)

5)東アジアをヨーロッパ帝国主義から防止する意味と、日本自身がヨーロッパと互して進出するという意味が重なり合っていること

 こうして膨張主義と平和主義の厳密な区分が溶解していきます。それは征韓論に反対した大久保が台湾出兵を行ったことは、後年の幣原外交と田中外交の「対立」と同じ性格を持っていた、と。

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October 10, 2016

『丸山眞男講義録2』#4

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 丸山眞男はフィヒテに仮託して「国家の運命を自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」が重要だと語ったことがありました。フィヒテはナポレオン占領下のベルリン大学での連続講演『ドイツ国民に告ぐ』で「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています」として、教育を抜本的に変革する必要を説きました。

 これは福沢諭吉の歩みとパラレルのように感じます。それは、フィヒテも福沢も外国勢力による支配という脅威に対応したからでしょう。そして、丸山眞男は福沢の健全なナショナリズムを驚くほど高く評価し、《敗戦がもたらした国民の私的領域への一斉復員現象のなかで丸山が改めて要請しようとした》のも「国民的(ナショナル)なもの」でした(解題、p.204)。

 フィヒテの教育論の内容をサマライズすると、全てのドイツ国民を対象にした教育を共通のドイツ語で行うことという民族観念や言語と結びつけていること、だと思います。今では当たり前かもしれませんが、当時としては画期的なものだったようです。

 そして福沢諭吉も幕藩体制を否定して、新たなナショナリズムを教育を核にして進めていこうとします。

 こうした考え方はナポレオンによる占領、ロシアのグレートゲームに触発された米英の動きに翻弄された日本という歴史的諸条件を忘れては語れない、とも語っています。

[第2章 近代国民主義の古典形成]

[1 全体的問題状況]

 19世紀の東洋において、全く異質な外来者に対する本能的な自己防衛メンタリティは、旧来の世界を保持する欲求としてあらわれましたが、守られるべき古い世界は、身分的=地域的な分裂によって、対外防衛の能力をもたなくなっていたという矛盾がありました。

 かくて東洋諸国は古い世界を防衛するためには古い世界を変革し、新しい世界のプリンシプルを取り入れなければならなくなります。

 この後の日中の比較が興味深い。

 《日本の支配階級は自己変革への適応性があったがため、かえって古典的国民主義の形成がゆがめられたのに対し、中国は半植民地的な境涯に陥ったが、日本の場合より旧支配体制の破壊が徹底的であり、支配層に自己変革への適応性がなかった分、それだけ庶民のエネルギーがナショナリズムの担い手として動員された。したがって中国では国民的独立・近代化という課題が、日本に比べて密接に関連しながら発展していった》という相違の指摘はなるほどな、と(p.104)。

 いまの中共の怒れる若者(憤青)は、尊皇攘夷で駆け回った草莽の志士たちのようなナイーブなナショナリズムが、大衆化されたようにも感じます。

 とにかく明治維新は幕藩体制を瓦解させて国民的統一を阻害する要因を除去し、版籍奉還・廃藩置県による地域的群居性の解消、被差別部落の解放、廃刀令・秩禄処分などの旧武士階級特権の解消による身分的分裂を解消させました。それは、古い世界を根本的に変革しなければ当時の国際環境のなかでやっていけないという危機意識があったためですが、どうしていいのか見当がつかない様々な可能性もあるような思想的真空の時代もあった、といいます。

 こうした可能性を含んだ中に福沢諭吉という近代的ナショナリズムの最初で最後の形成者が現れた、と。

[2 福沢諭吉]

 維新前の福沢の主張は国際法(万国公法)思想を吹聴し、日本の島国根性を打破するというインターナショナルな契機が強く出ていました。それは外国人を追いはらうとシナと同様の目にあって、国を貴ぶ心がかえってそれを貶める結果になってしまうとして排外的自国至上主義をいましめた、というようなものでした(未刊の『唐人往来』)。

 そこには、すでに《視圏の拡大によって前近代的な自国中心的世界像が打破されることが、かえって近代的な国民意識の発生する前提であり、開国=外に向かって国を開くことが同時に、外に対する自己のゲシュロッセンハイト(限界性)を自覚する契機となるというパラドキシカルな関係がすでに暗示されている》と丸山眞男は評価しています(p.109-)。

 これによって自国の政権を保持するためには、人民の智力の増進以外にはなく、そこにヨーロッパ近代文明の採用ということが国民的独立の立場から根拠づけられた、と。東洋諸国の人民が自主独立の精神なく権威に隷従し被治者意識に沈淪していたことが、ヨーロッパ勢力に圧倒された最大の原因だ、と。

 また、「国体を保つとは自国の政権を失わざる事なり」「日本人の義務は唯この国体を保つの一箇条のみ」と語る国体とは、外人に政権を奪われないことであり、もしそうなった場合、皇統が連綿でも国体は断絶したんだ、というあたりを含めて、福沢においてはリベラリズムとナショナリズムは、必然的な内面的連関において結合されていました。決して、無知蒙昧なものではなかった、と。

 そして初期のナイーブなインターナショナリズムは「宗教の高遠な見地から見れば、各国対立して政治は商売を競い、事あるときは武器をとって殺戮する状態はあまりにも鄙劣粗野なものたるを免れない。しかしこれがまさにわれわれの回避するを許されぬ現実であり、そうした現実のなかにあって一国独立のために奮闘することなしに、抽象的に世界主義をあこがれることは結局、日本の置かれた現実をいよいよみじめな低劣なものにするだけのことだ」というリアリズムに変化していきます(『文明論之概略』)。

 しかし、愛国心は畢竟、集団的エゴイズムであり「永遠微妙の奥蘊に非ず」とも認識していました。このように福沢諭吉の《リアリズムがシニシズムに陥らなかったことが、そのナショナリズムを根本的に健康ならしめた》と丸山眞男は評価しています。

 なぜなら《近代ナショナリズムは、その置かれた歴史的諸条件を忘れて論じることはできない》から。

 たとえば《ナポレオンによる征服を経験したドイツでは、国家による、権力による統一を離れて自由ということはありえない。そこに権力と自由を如何にして媒介するかという問題がドイツ・ナショナリズムの正面からの課題となった》ように。

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October 09, 2016

『丸山眞男講義録3』#4

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

[第四講 政党および代表制]

 第四講以降は、この政党論こそしっかり講義されていますが、「第五講 統治構造論」「第六講 政治体の均衡と変動」「結語」はあわせても8頁ぐらい。丸山眞男が学生に語りたかったのは心理的要素を重視し、自らがactorとなって働きかけ、しかも「安保闘争ぐらいで挫折しても無関心にならず、政治オンチにもなるな」ということだったと思います。

 ここでも民主政は本質的に矛盾概念であり《governするものとされるものの機能分化、さらに統治機構内部の階層的機能分化は、あらゆる社会価値(欲求対象)をすべての人間が無限に獲得・享受しえない限り、避けることはできないから》永久革命的な努力が必要なんだ、ということが語られています。

 丸山眞男が60年安保でシトワイヤン的側面(公民、政治的共同体の一員)の重要性を強調しすぎた、という批判も読みますが、そのオリジナルの吉本隆明さんにしても、闘争直後の熱気で書かされた部分はあったのかな、と今となっては思います。また、吉本さんの知り合いの兄で労働事務次官になった丸山眞男主義者がいて、そういうところからも丸山眞男の理念はかなり実現されている、と『吉本隆明が語る戦後55年』で語っています(p.75)。今後、講義録が出る前のこうした議論は変わっていくのかな、と感じます。

[政治的なるもの 政治体あるいは政治システム]

 《これまで、自我の世の中に対するイメージから出発して、態度形成の問題、集団化のプロセスを経て、リーダーシップへと、観点を下から上へと順次上昇させ》、その際《政治的状況を出来事―actorのイメージ―反応のプロセスとして、また、actor-相互作用として説明してきた》と。

 そしていよいよもっとも本来的な政治集団、政治組織である政党がテーマになる、と。

 政党の相互作用は「あらそうこと、まとめること、うごかすこと、きめること」で、それらが政治的なるものの構成要素だが、非政治的な出来事が政治的システムに入ると政治的出来事になる。

1)紛争・対立・闘争→極限では生殺与奪権
2)統合・調整・妥協→極限では友愛・団欒
3)運動・組織化
4)決定・裁定

 という政治システムの中でactorの相互作用が

a)社会、世の中の全体性のイメージに関連し
b)社会的価値の生産と配給についてのついての優先順位の決定に関連し
c)物理的強制の行使もしくは行使の威嚇を最後手段とすことについての正当・合法性のイメージに関連し
d)普通の、しかし限定された人間または集団のアウトプットをゴール達成に向かって組合せ、構造化することに関連するとき

 政治システムを語ることができる、と。

 このうちa)は政治的なるものの展望が、公共性にあることを示しb)は政治的なもののobjectiveが政策にあることを示しc)は政治の最終手段が物理的強制にあることを示しd)は政治の方法が一定範囲の人間行動の統制と組織化にあることを示す、と。

 東洋的な政治思想はa)にアクセントを置き、民の教育を重視した。また、国家はabcdのいずれかにアクセントをおいて発展してきた。

 また、カール・シュミットをこんどは否定的に引用します。それは彼の有名な「友と敵を区別するのが政治である。友敵関係を決定するのは国家の自主性にまかせられる。政治は主として国際関係にある。外交が内政に優先する」という言葉。

 仲正昌樹『カール・シュミット入門講座』の363頁によると、この言葉は「決定的な政治単位である国家は交戦権を持っているので、内外の多くの人の生殺与奪権を持っており、規範=正義を創出することと友/敵を分離することは表裏一体の関係にある。つまり、友/敵を分離することは、規範が通用し、正常性の基準が定まる内部空間を作り出すことになる」という意味だと思います。

 カール・シュミットは「ナチスの御用学者」というイメージが強く、扱いは難しいのですが、第三講では肯定的に引用していましたが、ここでは国内的な対立が過小評価され、全体性、統合性、目的性がはたらいていない「肉食獣的政治観」だと批判します。

 トマス・ペインは『コモン・センス』の中で《社会はわれわれの必要から生じ、政府は我々の悪徳(を抑えることによって消極的に幸福を増進させること)から生じる》と述べていますし、マルクス主義の政治観も「友/敵」論理に従っていますが、こうしたダークな議論はなかなか好きです。

 もっとも丸山眞男はどちらも、ひとつにアクセントをおきすぎるてバランスを欠いているという感じで、コミュニズムについては「対立と全体性の概念が統一されていない」としています。

[2 政党の本質と発展]

 日本において公共性を象徴するのは共同体と同一化された国家であり、天皇制国家と直結する官僚制は、政党に比して、ヨリ全体的なもの、したがったpublicなものを代表するとみなされていた。

 《山縣有朋が地方自治制を設けたのも、まさに地方農村を政争から超然とした「春風和気、子を育し孫を長ぜしめるの地たらしめる」という口実の下に、政党の浸潤を排して、官僚勢力の農村把握を確保するところに、根本意図があったのである》としています*1。

 ユンカーと官僚の強かったドイツでも、国家=全体、政党=部分というイメージがあり、これが大衆民主政の洗礼をうけて、ナチの民族共同体思想につながった、と。

 日本とドイツのように国家意識が強いところでは、国民の価値(一人ひとりの価値、究極には生命)が極端に低下い超国家主義に流れやすいというかファシズムにつながりやすいのかな、と思いますが《現代の政党に帰せられる自明的な地位は、19世紀の中頃までは、西欧諸国においてさえ、決して自明ではなかった》そうです。

 政党の起源はイギリスのToriesとWhigs。議会に対して責任を負う内閣制は、両党の対立のなかから、ウォルポール率いるWhigsが議会に安定した多数を確保しようとした努力の成果として生まれた。

 イギリスの二大政党制と責任内閣制の特徴は1)カトリックとnon-conformist(非国教徒)を政治的に排除して、宗教を中心とした政党形成の可能性が事実上消滅したという背景に確立し2)憲法政治のルールが長い慣行で確立した後に産業革命を迎えたという条件があった。

 ヨーロッパ大陸には1)宗教政党、特にカトリック政党をめぐる教権と俗権の関係が長く政治闘争のissue(争点)になり2)議会政治の確率過程が産業革命後の社会的大激動と時期的に重なりあって、階級対立の問題が初めから議会の深刻なissueとなった。

 本当の保守主義はイギリスだけにみられ、本当に議院内閣制が成功したのもイギリスだけといわれるのは偶然ではない。

 イギリスではWhips(院内幹事)に対して、選挙権が民主化されてcaucus(党員集会)を根拠とした職業政治家が党務に関与するようになった。また、この結果、代議士に対する規律が強化され、「代議士の独立性」は失われていった。

 1945年の敗北は伝統敵支配階級による支配を揺るがし、まさに革命だった。しかし、保守党青年部を中心に、選挙ごとに産業計画を説明するIndustrial Charterが発行され(40頁で6ペンス)、政策立案にたずさわるback-room boysを中心する政務調査に力を煎れるなどして立ち直った。

 近代政党の概念 政党は、政治的システムのなかのサブシステムとして、社会と当該政治的システム間に行われる産出投入関係の通常もっとも基本的な媒体をなすところの自発的組織。

a)政党は政治システムのなかのサブシステム。競争する他党派の存在を前提としているという意味でも部分partだが
b)政治システムを動かす主体たろうとする志向を持つ
c)そのため集団固有の利害をこえて社会についてのpublicな展望をもち、全体としての価値配分の決定に参加する
d)しかし、完全に公的決定の組織(統治機構)には吸収されない側面を持つ

 政党の機能は

イ)個別のactorの欲求・意思・情熱・利益・見解を政治システムに伝達し、政治体の動向や政策を社会に伝達するarticulation(声にする機能)
ロ)無限に文化した意思・利益・見解を共通項にくっつけて集中し、争点issueを単純化するaggregation(集約する機能)
ハ)社会の全体像の提供と長期的プランの提示

 競争的政党制の下では、政党の選択は政策の選択であると同時に、リーダーの選択でもある。

*1 『山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革』松元崇、日本経済新聞出版社によると、山縣は日本の伝統的なコミュニティを土台にして西洋諸国のいいとこ取りをして地方自治の基礎をつくったんですが、これによって日清戦争後の臥薪嘗胆の時期に地租増微という大増税を行って帝国海軍をつくることができたんだ、としています。松元さんによると、これは高橋是清の外債による満州派兵軍への食糧弾薬の補給と合わせて日露戦争の立役者的な功績だった、と。しかし、明治31年の隈板内閣で行われた猟官活動(あたかも群犬の肉を争うがごとくby徳富蘇峰)を懸念した山縣が文官任用令を改正することでこうした動きを封じると同時に、地方政治への興味を失っていき、明治32年の改正では郡を山縣閥による支配の道具としていきます(p.138)。こうした変身は星亨による利権政治に反発したたためで、山縣は政党政治の堕落から立憲政治を守ることを優先していくようになります(p.161)。

[3 政党とデモクラシー 政党論のむすび]

 戦前の日本の政党が大衆政党へ発展できなかったのは、天皇に直結する官僚制が公的決定者としての正統性を独占していたから。戦後でも高級官僚出身の政治家が優位で、社会的名誉も高い。そうした官僚機構への陳情は国家の慈恵への期待。

 議会制民主主義は政党の存在と活動なしには考えられない。

 民主政は本質的に矛盾概念。《governするものとされるものの機能分化、さらに統治機構内部の階層的機能分化は、あらゆる社会価値(欲求対象)をすべての人間が無限に獲得・享受しえない限り、避けることはできないから》《民主政が本質的に矛盾概念であるからこそ、それは不断の、また無限の過程または運動としての分裂のディレンマ、(公的)政策形成と(私的)利害実現のディレンマに不断に直面しつつ、これを打開していかねばならぬ》。

 しかし、本来、私的なクラブから発した政党はますます公的な組織に転化した、と。

 政党の大衆政党への発展、組織化は、闘争団体という本来の性格からくる内部統制によって国家(imperium in imperio)たらしめる。

 ドイツではワイマール期に、各々の政党が党員に制服を着せ、軍隊的規律と訓練を課し、ついには公然と武装した。その後、ナチはそれ自体が帝国となった。

 《一党独裁の出現は、前世紀からはじまる政党の国家浸透の極限形態》

 《ナチ党は、体制政党になって以後、特に占領地域を拡大して以後は、それ自体巨大な独占企業体であった》

 《民主政への信頼は、ある意味ではアマチュアが統治のエキスパートをコントロールする能力への信頼(「われわれは皆が皆必ずしも政策の立案者ではないが、それを判断する力をもっている」ペリクレス)》

 このため、革命家も含めたあらゆる職業政治家の危険は、普通人の感覚から離れること。

 「ドイツ人には党派的狂信性と党派的猫かぶりという一見矛盾した行動様式があるが、両者は同じ感覚、即ちuberparteiish(超党派的)な政治がありうるという根強い錯覚の上に立っている」byラートブルフ

 競争と闘争はロスを生むが、ロスは社会のヴァイタリティーの保持がはらわなければならぬ代償。

[代表の理論とその諸形態]

 カール・シュミットによるとrepresentareとは原義において、そこに現存していないものを現存させること。代表のディアレクティーク(弁証法)はa)代表されるものが見えないこと、つまりそこにないことb)それが代表によってそこにあらしめられること。

 単一性としてそこにない、つまり多数性としてしかないものが、代表によって単数として現れる。

 サンディカリズムの職能代表思想は、イタリアでは、ファシズム組合国家という反民主主義的な政治体制のなかに摂取され、フランコのスペイン、サラザールのポルトガル、ヴィシー治下でのフランスで試みられた。

 ファシズムでは労資を協同組合の中に統合してコントロールしようとするか、職業の社会的比重をいかに計量するかという問題で、致命的な困難に陥る。

 1918年のドイツ革命の際、ロシアのソビエト組織のような労兵協議会が各地に結成されたが、急進派は破れた。これは社民党という組織が帝政下で形成されていたから。

 コミューン的代表制であるソビエトは1870-71のパリコミューンで立法と行政を兼ね、人民によっていつでもリコールされるものとしてつくられ、半世紀後、レーニンによって着想が復活される。これルソー的な直接民主制の思想を背景にしている。ソビエトが当初、議会、官僚を否定していたのはレーニンが世界革命と国家の死滅を日程にのせていたから。しかし、これはユートピアだった。

 全体としての人民を誰が代表するかという問題は、ブルジョワ革命ではじめて鋭く意識された。

 マルクスは『ユダヤ人問題によせて』で人間は政治的共同体の一員(公民、シトワイヤン)としての性格と、市民社会の一員として(私人、ブルジョワ)の分裂を指摘していますが、ルソー的人民概念は、経済的人間が区別され、日常的欲求を持ち、privateな生活をもち、それをエンジョイする人間が軽蔑される。

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『丸山眞男講義録2』#3

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第1章 前期的国民主義の諸形態]

 東洋のナショナリズムはヨーロッパとの接触で国際社会に引き入れられたことから発生し、当時はアジアでもイギリスが主役を占めていました。

[1 海防論の登場]

 《日本における脅威は、まず北方から来た》が海防論の書きだしですが、これは今風に言えば、ロシアのグレートゲームが日本にも影響を与え始めた、ということでしょうか。ロシア国民は神によって選ばれた新しきイスラエルの子であり、「聖なるロシア」だったというロシアナショナリズムの解説を思い起こせば、19世紀半ばから、今の時代にいたるまで、ロシアによるグレートゲームは世界を揺らし続けているのかもしれません。

 近代的ナショナリズムは幕藩体制の崩壊が前提となりますが、江戸時代も後半になると生産と交通の発達によって、封建的な閉鎖性が打破されつつあったことが、対外脅威に関する関心が挙国的なものになる素地を提供していた、と。

 オランダ国王は幕府に開国を勧告したのに謝絶されますが、こうした対応には、日本だけでなく中国でも異質な他者に対するプリミティブな猜疑心や恐怖心があり、相手を対等の人間としてみない態度がみてとれます。

 こうした感情が抽象化されたのが海防論。

 林子平や大原左金吾の海防論は横の地域的な割拠、縦の身分的格差の否定につながることが萌芽的に示されており、国際的脅威を排除するためにはまず国内の経済的安定による国防強化を求める思想的動向が生まれ、それはやがて富国強兵論にもつながっていく、と。

[2 富国強兵の制度的改革論]

 問題は軍事的充実よりも国内体制にあるという反省に比較的早く到達できたのは蘭学者のおかげ。《彼らは決して抽象的な世界主義者ではなく、むしろヨーロッパ勢力の真の脅威を彼らほど痛切に意識した者はなかった》。杉田玄白も『野叟独語』でロシアの脅威は公益を許した後、10~15年で軍備を充実すべきとしています。

 高野長英はイギリスが「民を富し国を強くすることを先務」とするとしていますが、これは富国強兵。
 
 渡辺崋山も含めて弾圧を受けた彼らは、国際社会における日本の地位に深い関心を持っていました。やがて攘夷論に呑み込まれはしましたが、こうした中で富国強兵論を体系的に提示したのは本多利明と佐藤信淵。

 本多利明は「国を治むるの本は渡海運送交易にあり」とし、佐藤信淵の『垂統秘録』詳細なユートピア国家論となっています。

 二人に共通しているのは絶対主義への傾向。

 絶対主義の二大支柱は常備軍と官僚層の形成。《封建制の多元的権力を一元化し、政治的正統性を最高の君主が独占することによって、いわゆる中間勢力を解消し、唯一の国法の支配に服する同質的=平均的な国民を造り出すことにある》(p.77)

 信淵や利明の議論は東洋的デスポチズムが絶対主義と重なっているところもある、と。

 信淵の『大同書』には世界国家建設による民族差別の撤廃、戦争揚棄の構想が示されています。この「大同」は『礼記』礼連篇が典拠となっているが、日本には国家を超越する天下観念がないので、いち早く近代国家主義が芽生えても、素早く帝国主義に転化することになります。

[3 尊皇攘夷論]

 [外観]

 尊皇、攘夷、佐幕、開国という四つの契機は縦横に結合されるもので、「佐幕攘夷」も「尊皇開国」もありえたといいます。井伊直弼らの開国論も実質的には鎖国で、思想的には保守的な性格でした。実際、尊王論が倒幕論にまで到達したのは、幕末の最終段階。吉田松陰の尊王論も、皇室の下における諸侯並立状態を目的としていました。尊皇佐幕から公武合体を経て、尊皇倒幕にいたるまでにはさまざまなニュアンスがあり、主観的な用法は問題ではなかった。

 井伊直弼が勅許を待たずにハリスと通商条約に調印したのを草莽の志士が弾劾したのは戦術上の見地からという面もあり、不満のイデオロギー的な焦点となったものだ、と。

 開港以来の生活必需品の高騰、農村手工業の解体は攘夷の要求をある程度まで国民的な運動たらしめた要因となります。このため、下級武士とともに、上層部の村方地主も尊皇攘夷のもっともラジカルな担い手になった、と。

 尊皇攘夷の第1段階は、特定の藩に独占されてきた幕府権力に、西南雄藩などが割り込もうとしたもの。

 第二段階は激派と公武合体派の抗争。そして幕府改革派が権力につくと、激派の弾圧を開始。

 長州再征の失敗後の尊皇攘夷派は、攘夷を戦術的な意味でしか用いなくなり、これが第三段階(すでに外国との条約が天皇によって許可されていた)。

[公武合体論または諸侯的攘夷論の思想]

 水戸、越前、西南諸藩によって唱えられた公武合体論はナショナリズムの基本的要請である政治力の集中とその底辺への拡大という法則が貫徹されていた。もっとも明確なのは会沢正志斉の『新論』だが、庶民層が外国勢力を恃んで封建的支配関係を揺るがす恐怖が根底にあり、それは中間勢力の排除を意味する尊皇論ではなく、上からの内部的編成替えのイデオロギーだった。

 こうした後期水戸学が影響を持ったのは、尊王論と富国強兵論が一体として説かれ、美文をもって綴られたからであり、具体的内容が問われる前に政治的スローガンとして人心を捉えた。

 越前、薩摩の公武合体論は、外国の脅威にさらされた中で出てきたものなので、『新論』のような海外進出的な意味を持った攘夷論は姿を消し、消極的な海防論まで後退。しかし、徳川斉昭でも庶民の組織化や、商人からの自発的献金を考えざるをえなかった。

 島津久光は幕府での発言権を大にするとともに、過激派を朝廷の名において弾圧。

[急進的尊王攘夷論]

 この担い手となった激派は実践活動に多忙を極め、思想を体系的に残す暇はなかった。その例外である吉田松陰の攘夷論には、ヨーロッパ諸国の制度を歪みなく見ようとする努力があり、この反省的態度は、封建的支配関係の上に安住することを許さず、水戸学の身分的隔離は打倒対象となった。こうした考え方は断片的だが梅田雲浜や、公家の中山忠光にもみられる。

[総括]

 前期的ナショナリズムにも「政治的集中」と「政治力の拡散」という対立する要素が存在する。

 幕末の政治過程は対外危機に対して封建的政治力を集中させようとする契機が終始圧倒的に優位だった。

 心理的な挙国一致のためにできるだけ広い範囲の国民を動員するという課題は遅れがちで、人材登用にも超えてはならない一線があった。

 封建勢力は末期的段階で近代産業と技術に依存しなければならなくなり、絶対主義の樹立は朝幕どちらでも普遍的な課題となったが、庶民層の参与はなんら意味をもたなかった。

 庶民が政治的主体として能動的・自発的な関心を有していなかったことは、明治維新後のナショナリズムの解決すべき課題となった、というのが結論。

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September 30, 2016

『丸山眞男講義録2』#2

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[序説 国民(ネーション)および国民主義(ナショナリズム)についての若干の予備的考察]

 丸山眞男はナショナリズムを《きわめてデリケートな、ヨーロッパの学会でも最も難問とされているイデオロギー》として認識しています(『集5』p.78)。

 ドイツ語でnationalというのは、きわめてエモーショナルな響きをもった、憧憬をふくんだ言葉だから、英語のように散文的に乱用せず、くっつけられる言葉は偉大とか特性とかのシンボルを含むものに限定される、と。ナショナリズムの多義性は、このネーションの言葉の曖昧性と相互に規定しあっている、と。

 しかし、ネーションあるいはナショナリティーという社会的統一体を可能にするエレメントを支えているものは究極において、矛盾するようだがナショナリティの意識、いわゆる民族意識以外にありません。

 《だから国民とは同一の国民に属するという意識によって結びあわされた集団としか規定できない》(p.18)

 この循環論法のような構造は『日本政治思想史研究』でも、「国民」たるためには自らを政治的統一体として意識、意欲する国民意識の成立が必要だということで触れられています。

[近代的国民主義の特性]

 郷土愛とは畢竟環境愛にほかならず、環境愛は自己の外なるものへの伝習的な依存であるのに対し、国民の国家への結集はどこまでも一つの決断的な行為として表現されます。

 通常、この転換を決意せしめる外的刺激となるのが外国勢力。

 ローマ帝国も支那帝国も共属意識を起こさせられなかったのは、コミュニケーション手段の未発達が原因で、これは国民及び国民主義が広義において近代の所産であることを物語っている、と。

 《ナショナリズムは拡大された自我意識である。自我の発展が国家へと膨張する》

 このためナショナリズムは必然的に自分の内部に人民の政治参与への意向を含まざるを得ない。

 ナショナリズムは他国民の支配からの政治的独立と、自国内における政治的自己決定要求という二重の意味での政治的い゛こけってい要求として現れる。

 《その意味で、ナショナリズムは人間のかつて到達した最も高貴な意識、最も高度の精神的理性的な自己責任、決断の協働意識である。しかもこの意識が、同時に他方の極にもっと原始的な心情に根を下ろしているのである》

[ナショナリズムの変容(メタモルフォーゼ)]

 ナショナリズムの最も純粋な論理は「一民族一国家」の主張であり、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパをそれ以前の状態に戻すことを目的として1814から翌年にかけて行われたウィーン会議後、欧州各地で民族主義運動の嵐が吹きまくりました。

 一民族一国家は

1)各民族はそれぞれ一つの民族国家を形成すべきという主張(ドイツ)
2)同じ民族に属するあらゆる人間と土地が一つの民族国家に編入されなければならないというイレデンティズム。Irredentismはイタリア語の「未回収のイタリア」 (Italia irredenta)からくる。
3)一国家は同じ一民族のみにより成るべき

 という三つの形態からなり、論理的には少数民族の解放も出てくるハズだが、一民族一国家は統一国家をつくるまでの段階で主張されるものの、非合理的なエモーションに根ざしているのでいったん成立した国民国家は少数民族を圧迫する、と。

 ファシズムはナショナリズムのメタモルフォーゼであり、悪貨が良貨を駆逐した最終形態。

[イ 国家(至上)主義]

 近代的国民主義は統治機構を少数の人間の独占から奪い、広く国民化すると主張する。

 しかし、半封建勢力と野合したブルジョワや独占段階の資本主義が政治力の中心的擬集点となって官府が対外的に国民的自覚を代表したり、対外危機を挑発することで、国民的自負は《内においては奴隷的支配者の神化に、外に対しては下劣なジンゴイズム(好戦主義)へと歪められていくのである》

[ロ 人種的民族主義(Racism, Volk als Rasse)]

 イタリアとドイツはともに国民国家としては新しい国ですが、このうちイタリア的国家主義は、イレデンティズムの影響もあって、民族ないし国民をもって、国家によって創造されたものとして国家に対し副次的な地位に置き、逆にドイツ・ナチズムは生物学的意味でのミンぞに第一義的価値を置く、と・

 これは、ファッショ・イタリアは植民地を領有していたので民族主義の強調は有害であったが、ナチス・ドイツはオーストリアとの合邦が禁止されるなど、民族主義の高唱が有利だったから。

 どちらにしても《世界中どこにも生物学的に純一な、つまり単一の遺伝性をもつ人種などは存在しない。民族というのは歴史的概念であって、自然科学的範疇ではない》(p.30)。

 これは拾いネタですが、ナチスドイツ時代の笑い話は面白い。

 「純粋なアーリア人とは何でしょう?」「それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッベルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそりとしていて、その名前はローゼンベルクという」というのがあったそうで、これは、ヒトラーが黒髪で、ゲッベルスは背が低く、ゲーリングは肥満型、ローゼンベルクは典型的なユダヤ人の名前であったことへの皮肉です。

[ハ 帝国主義]

 19世紀ヨーロッパ型ナショナリズムは結局においてことごとく20世紀において帝国主義に転化した。しかし、帝国主義はナショナリズムの原則の否定であり矛盾であり、帝国主義的実践は必ず植民地などでの民族解放運動を呼び起こした。

 帝国主義よる交通などの発達によって、中国では閉鎖的な共同体的諸関係が破壊され、単なる中華的排外意識が近代国家形成へのエネルギーへと転化された。

 これは「民族国家」は、世界的な生産交通技術の発展段階に対してあまりにも狭隘なニユットになりつつあったと同時に、バルカンなどでの独立国も、経済的・軍事的裏付けが伴わない限り単なる名目的なものにすぎないことも明らかになった。

 また、第一次大戦時のベルギーの奮闘と比べ、第二次世界大戦では圧倒的な機械化部隊の機動力の前には抵抗も無力となったが、これも民族国家の独立が名目化してきた証拠。

 逆に日本が植民地解放を唱えたり、ドイツのように民族自決主義を逆手にとって侵略が正当化された。

[ナショナリズムの類型]

 アジア諸国はヨーロッパに全体として開国を迫られたでナショナリズムとインターナショナリズムとの調和が困難だった。

 [英仏]統一国家の形成が民族意識に先行し、むしろ後者を造り出す槓杆となった。国民意識は第一義的には政治的、二義的・三義的に文化的。国際主義とも鋭く対立せず、教会による強い妨害を受けることもなかった。

 イギリスはコモンローの普及で英国民の共通意識が養われ、ヨーマンリーの成長はイギリス国民の原基体となった。

 フランスはイギリスよりも地方的割拠、社会的分裂は甚だしいが、13世紀までに労働地代から生産物地代へと変わり、小土地所有農民paysans propriétairesが形成された。ラ・マルセイエーズの「進め祖国の子ら」の歌詞のように、祖国という概念はフランス革命によって初めて強力に発展。三色旗という国旗も含めてnational symbolsの使い始めでもある(p.44)。

 英仏とも農民の解放が下からのナショナリズム成長の決定的な条件となった。

 [ドイツ]民族意識はナポレオン的世界主義との対抗観念として生成され、啓蒙思想に対するロマン主義の反逆という形をとった。

 また、宗教改革はドイツをカトリックとプロテスタントに分裂させ、宗教や教会は政治的統一の癌となった。カトリックに対するビスマルクのkulturkampf(文化闘争)、ナチとの紛争。

 1848年はドイツ民主主義の敗北であると同時に下からの国民的統一の失敗となり、ビスマルクによる上からの政治的統一(自由の圧殺)となった。

 四分五裂していた祖国はへの愛は、空中の夢の世界での統一国家を歌った。

 [ロシア]教会がナショナリズムの障害どころか決定的な市中となり、ナショナリズムが最初から帝国主義的形態(世界統一)をとっており、目的において西欧化を排しつつ、手段としては西欧化を試みた。ロシア教会はコンスタンチノープルの羈絆を脱し、モスクワの大公は全世界の王で、ロシア国民は神によって選ばれた新しきイスラエルの子であり、「聖なるロシア」だった。

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『丸山眞男講義録2』#1

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『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 あと、1冊で終わってしまうので、少し丁寧に。

 『丸山眞男講義録1』と『丸山眞男講義録2』はセットのような構成となっており、主著『日本政治思想史研究』と重なります。

 『日本政治思想史研究』の章立ては

第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連
第二章 近世日本政治思想における「自然」と「作為」
第三章 国民主義の「前期的」形成

 サマリーすると、徳川時代の儒教はいったん朱子学を受容した後、「道」の目的を「治国平天下」という政治的な側面に限定することで朱子学を解体した国学がヘゲモニーを握ります。その中心となった徂徠は朱子学を批判し、自然と人間を分離、社会規範を聖人の作為の産物としますが、それによって社会変革の可能性を示しました。それは明治維新で証明されたとになるが、自然的秩序思想は個人より自然的な国家を優先する考えとして残ることにもつながります。集団が国民となるためには国民意識が必要だが、明治維新は武士と庶民の上層部に担われ、大部分の庶民は傍観したため、政治の集権化が強調された、という感じでしょうか。

 『丸山眞男講義録2』の章立ては

序説 国民(ネーション)および国民主義(ナショナリズム)についての若干の予備的考察
第1章 前期的国民主義の諸形態
第2章 近代国民主義の古典的形成
第3章 征韓論(と征台論)
第4章 自由民権論におけるナショナリズム
附論 その後の歴史的概観

 となっています。

 『講義録2』は『日本政治思想史研究』に征韓論(と征台論)、自由民権論におけるナショナリズムを加えて、徳川時代だけでなく、明治期も含めて日本のナショナリズムを総合的に俯瞰する内容となっています。

 つまり、『日本政治思想史研究』の1~2章が『講義録1』、3章に加筆したものが『講義録2』という感じでしょうか。

 『日本政治思想史研究』は戦前に書かれた3本の論文が元になっていますが、『講義録2』の解題で講義におけるラインホルト・ニーバーの影響が強調されるのは、戦前の問題意識に新しく加わったからかな、と。

 丸山眞男は1965年の講義を北畠親房の『神皇正統記』にEternal Now Theologyを見る、というようなことを語っています(講義録5)。神学には現在、あまり興味はないのですが、この時期には、大塚史学につながる方にも、なぜかEternal Nowという言葉が、そのカッコ良さのためか、誤解気味に影響を与えていたんじゃないかと思っていたんですが、なんとこの講義録2ではラインホルト・ニーバーが大きな影響を与えています。

 ニーバーについては『丸山眞男集4』でインタビューと書評が載せられていまして、丸山眞男や大塚久雄などが敗戦直後に、なぜアメリカやドイツの神学者に対する興味を示し、そしてアッサリと忘れ去ったのか、という問題は充分、研究テーマになるというか雑誌論文ぐらいになるかな、なんて思いました(少なくとも取り合わせの妙があるな、と)。

 『丸山眞男集4』でも、ヨーロッパ精神的の中核としてカトリシズム復興を唱え、『ヨーロッパの形成』でヨーロッパはグレコローマンの文化、キリスト教、ゲルマン民族という三つの要素が融合してできたものというクリストファー・ドウソン(Christopher Henry Dawson)も言及されていて、驚いたのですが、敗戦直後の援助物資などによる一時的なキリスト教ブームも影響していたんでしょうかね。

 個人的にニーバーを最初に知ったのはカート・ヴォネガット『スローターハウス5』に引用されていた「祈り」です(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、p.76)。

神よ願わくばわたしに
変えることののできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵を
さずけたまえ

 こうした文章には《ユートピア主義とシニシズムという左右の断崖にはさまれた峰を歩みつづける彼の強靱な思惟方法》(『丸山眞男集4』p.258)があらわれていると思いますし、《普通は理性は衝動を統制するものと考えるけれども、実は理性は衝動をリファイン(洗練)するにすぎない》など《平坦な合理主義やアイディアリズムをつきぬけていくパラドキシカル(逆説的)な思索の方法》(ibid, p.151)が感じられます。

 講義録2はナショナリズムを中心としています。

 解題によると「国家の偽善」などの強調は《最も理想的な企図、最も普遍的な目的、そのような最高の理性的態度をもって目されたもののなかにさえ、自己の利害が潜入するということは、偽善なるものが、あらゆる善なる努力の副産物として出てくることを不可避ならしめる》(『道徳的人間と非道徳的社会』、p.63)などニーバー著作によって影響を受けている、としており、その存在は《「参考文献」の域を超えて、ウェーバー、マイネッケらとともに、その政治的思索の中核そのものにかかわる重さをもっていた》(解題、p.218)としています。

 ということで次は「まえがき」は省略して「序説」から。

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September 08, 2016

『丸山眞男講義録3』#3

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 この講義が行われたのは60年安保闘争の後の秋から冬にかけての半年間です。岸内閣の強行採決などに対して、丸山眞男は珍しく集会に参加して発言などをしています。

 それは、今から考えれば、安保条約の可否よりも、永久革命としての民主主義を守れ、というもの。当時の学生運動のリーダーたちからすれば物足りないものでしたが、決戦を叫んでも安保条約を阻止することはできませんでした。

 続く70年安保は学生と対立して研究室は破壊され、再開された授業は妨害されて早期退官に追い込まれました。丸山眞男は全学連に対して嫌悪感を持っていたんじゃないかと思うんですが、それは、やはり展望もなく決戦を叫び、しかも自己否定の論理(最終的には連赤の共産主義化論理につながる)という生活感のない心理を嫌ったのかな、と感じます。

 『講義録3』の結語では、安保闘争で敗れた学生たちに、克服されるべき思考法として既存制度の絶対化と共に、一切の制度的なものを敵視する混乱と同一化された運動を上げています。そして、この第三講では群衆(multitude)を否定的に語っています。

 70年安保の学生たちを丸山眞男が否定的に見ていたわけは、この第三講を読むとよくわかります。

 と同時に米国のトランプ現象や日本のB層なども遠く言い当てているんじゃないかとさえ感じます。

 また、ファシズムなど沸騰するマスの感情に依存する運動は、反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にするとしていますが、現代日本でもヘイトなどはまったく同じだな、と感じます。

 明るく清らかな自己否定も否定し、もちろんファシズムにつながるようなのも嫌悪する、みたいな。

 同時に「ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない」という言葉も印象的。なんでもワンセットで反対するような、今のゆとりっぽい運動家の姿も思い浮かんできます。

 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物だというあたりで思い出したのは、映画『Do the right thing』ですかね。

[第三講 集団とリーダーシップの政治過程]

[序説 集団関係への接近角度]

 同じ集団でありながら、共同体と組織は違う。氏族tribe・同族団・部落などの地域共同体は成員丸抱え集団であって機能分化が低いのに対し、組織はもっと明確に機能分化した集団であるから。

 しかし、日本ではコミュニティに擬制される伝統が強く、天皇制のように無限責任原理となる。そして無限責任は結果的に無責任になる。

[集団化の諸形態]

 群衆(multitude)に混乱がおきないのは、個々のactorが成長する過程で身につけたより大きなsocialization(しつけ)・instutution(制度)の規範が作用しているから。しかし、ある出来事によるイメージを共有することで集団を形成することがあるとして、マスの危険性について語ります。

 例えば扇情的な見出しやテレビの映像に晒された者たちは街頭のマスと似た心理状態になる。マスは組織と違い役割意識がないから暗示にかかりやすく爆発的に行動する。しかもマスのエモーションはネガティヴで他律的。抑制する組織がないために、出来事の呼び起こした恐怖、敵に対する憎悪は無限に増幅する。

 群衆(multitude)、マスのエモーションはネガティブであり、わけのわからない「うっぷん」など他律的。恐怖や憎悪が先行してテコになる。ファシズムなどマスに依存する運動が反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にする所以はそこにある(p.91)。

 マスはそれ自体が全体で、限界の外は意識しない。他集団との折衝とか問題を解決しようとかいう意図がそもそもない。

 社会における自分の場(position)がなくなり、あるいは分からなくなると、アウトカーストoutcasteの意識がはぐくまれる。その個人生活の無意味さ、卑小さを大群衆の中で忘却する。
 
 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物。

 だから、革命の歴史的意味と価値は、街頭分子を新たに編成された社会集団の中に吸収し、部署において責任意識をもって建設的な仕事にあたらせる第二段階へ移行したときに明らかになる、と。

 ヴォランタリー・アソシエイションが多様であり、またそれが不断に結成される社会は、本来のpublicな関心が下からたえず上昇する社会であり、その伝統のない社会では、閉鎖的共同体と、国家の官僚制・軍隊のような非自発的組織体の両者にpublicなものが吸い取られる。

 これに関連して丸山眞男は、自由討議・寛容による多様の中での一致という考え方でアメリカの開拓を進めたロードアイランドの建設者、ロジャー・ウィリアムズ牧師のことを紹介します。個人的にロジャー・ウィリアムズといえば、その子孫のロックフェラー副大統領(フォード時代)を思い出します。彼はホワイトハウスを去った後、愛人宅で腹上死したので有名です。鎌倉仏教で触れた蓮如が82歳で子どもをつくったのも驚かされますが「どうも、この手の話しが多いよな、宗教関係者には」という印象が個人的にはぬぐえません。

 脱線はこれぐらいにしておいて、この後は定義集みたいになっていきます。

 ムラには組織というイメージはない。

 国家とは特定地域を基盤とするorgnisiere Einheit(組織された一体性)。

 組織は意志や感情の一致体では必ずしもない、行動統一体。

 統一を確保ではないところに組織はない。

 支配とは服従を調達すること。

 集団化の極はmultitudes(群衆)と制度(institution)。

 制度とは制度的行動様式で、慣習、伝統、モーレス(破れば村八分になるような暗示的な強い集団の規範byサムナー)、儀式、法律はいずれも制度。

 人間の環境適応の決断と選択の労を最小限にし、心理的安定を確保するのが制度。

 制度が人間行動を定型化する機能が弱まると、actorは環境と自己の間に亀裂ができ、いかに行動するか分からなくなる。この心理状態をデュルケームはアノミーanomieと呼んだ。アノミックな状況は大衆運動の出発点となる。

 また、multitudesと、その対極である人間行動があますところなく制度化された閉鎖的共同体ではリーダーシップの問題は登場しない。

 カール・シュミットは「主権とは例外状態の決断である」と定義している。

[3 リーダーシップの課題と機能]

 どういうtraits(資質)をもった政治家がリーダーになる傾向があるかということは、カルチャーと密接に関連している。イギリスやアメリカがファシズムの政治体制下におかれたとしても、ヒトラーのようなタイプが指導者になるかどうかは疑問。

 また、ケネディとニクソンのテレビ討論をみても、肌触りがなめらかになり、大きな思想よりも経済や技術についての具体的なプランや数字について語ることを得意とするタイプがリーダーになってきているとしているのは意外。

 しかし「弱体な指導とは、第一義的には相剋する利害(quarrelling interests)の産物であって、その逆ではない」byベントレー。

 また、イギリスの伝統的governing classのようにリーダーの訓練を受けるチャンスに恵まれているとと、ますます統治能力がみがかれる。

 リーダーの問題は、具体的な人間に則していうならば、sub-leadershipの問題となる。これと密接な関係にあるのが、組織内のinformal groupの問題。もちろん、こうした組織によって、既存の法的な手続きで吸い上げられない底辺の感情や要求を上げることはできる。

 informal groupが革命の温床となった例も多い。

 一方、リーダーはつとめて共属感と組織のpublic imageを培養しようとする。リーダーシップの一般的課題と機能は以下の4点。

1)状況の定義を与えること、状況を再定義すること。
2)組織のゴールと戦術の提示(優先順位など)。《ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない》
3)内部の決定過程の組織化
4)Leadership selection(sub-leader含む)

 また、組織は人間行動の組織化であって、人間の組織化ではない。

 リーダーの消極的な統合手段として、もっとも重要なのは、集団が外的危機に直面しているというイメージを造り出すこと。友/敵の区別はどんな場合にもリーダーの不可欠な課題。また、反動的リーダーシップは積極的ゴールよりも、ネガティブな恐怖と憎悪をセメント剤とする。

 組織の過程は役割(権限)期待関係および情報(通信)伝達過程(関係)としてあらわれる。民主的指導と権威的指導の違いは、リーダーの権威が随行者の側からのrole(役割)の信託(trust)に基づいているか、つまり随行者によるtrustの撤回=指導者の変更が制度化されているかどうか

 ミヘルスは戦闘的な民主主義政党ほどOligarchie(寡頭制=オリガルヒ。元のολιγαρχiαというギリシャ語の意味は支配する選ばれし者。少ないという意味のオリゴ+首長という意味のアルケ)の傾向が強化されるなど、ヨーロッパの社会主義政党の研究から少数者による多数者に対する支配が必然的に実現される「寡頭政治の鉄則」(Das ehernes Gesetz der Oligarchie)を提唱した(p.123)。

 このあたりを読みながら、難航している参院合区解消へ向けて総裁直属機関の設置を検討するという自民党なども、ますますその傾向にあるな、と感じます。

 ラスウェルはリーダーのタイプをCrowd compeller(強制者), Crowd exponent(主導者、解釈者), Crowd representativeに分けているが、ガリバルディ、ナセルなどはCrowd exponent(主導者、解釈者)でリーダーシップの統合過程を通じて、Latent(潜在的な)、また漠然とした感情・要求を顕在化させ、より高い集団意志に統合した。そうした過程を通じて成員の集団への帰属意識を強め、指導者との同一化(われわれのリーダーだという意識)が促進される。

 Crowd compeller(強制者)は創造的リーダーシップで、マホメット、カルヴィン、トマス・ミンツァー、クロムウェル、ナポレオン、カンジー、レーニン、孫文、毛沢東などで、彼らは世の中のイメージの核を変えた、とも。

[結語]

 リーダーシップへの要請が指導者主義(特定指導者の神化、万能化)に転落する危険性と、逆に民主的政治過程がリーダーシップ抜きの無責任とindecision(優柔不断)に陥る危険性に対処することが重要。

 指導者主義の発生は根本的に随行者、卒伍の責任。

 また、悪しき指導者への糾弾は、これを更迭し、自らの集団内からこれに代える良き指導を生み出す能力と責任によって裏付けられないかぎり、積極的市民の政治的批判とはいえない。

 指導者個人にたいする悪口がいくら盛んでも、民主的な言論の自由が行使されているとはいえないし、そこからはリーダーシップを他人事でなく、自己の問題として打開していく姿勢は生まれない。

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