丸山眞男講義録

October 23, 2016

『丸山眞男講義録2』#7

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 征韓論で内乱を収束させた明治政府は国会開設(1890年11月に第1回議会)、日清戦争(1894年7月~1895年3月)を経て、小日本主義は「世界の中の日本」を意識する大日本主義となり、日露戦争(1904年2月~1905年9月)にも勝利します。

 しかし、日露戦争は国家予算の7倍にも達する戦費をかけながら賠償が取れず、財政的には負け戦でした。

 しかし、明治政府はこのことを国民に説明できませんでした。このため、本来ならば日露戦争後に行うべきであった国内改革を行えずに農村部が疲弊。その結果、台頭してきた軍部の誤った政治・経済運営で破綻へと向かう、というのが現代におけるこの時代に対する認識なのではないかと思いますが、丸山眞男のナショナリズムを切り口とした分析はどうなっているでしょうか。

[附論 その後の歴史的概観]

 日露戦争後、資本主義の発展と国家的栄光の発揚は《ナショナリズムのイズムとしての擬集性を解きほぐして、これをいわば気体化せしめた。国家主義はいわば日本帝国の精神的支柱として確立されたので、思想ないし運動としてのナショナリズムは明治四十年以後むしろ退化していった》。

 国会開設後に、地主層の反動化によって自由民権論者は単なる国権論者に転化していき、玄洋社も藩閥政府の吏党となり、政府に暴力を提供するようになります。

 こうした転換は日清戦争がキッカケ。

1)日清戦争の償金は金本位制の基礎となり、資本主義の発展をもたらしたこと
2)日本にとって理想国家の雛形を提供してきたアメリカが帝国主義に転じたこと
3)三国干渉によって民権論者も帝国主義者へと変貌されられたこと

 などがその要因。

 特にアメリカは帝国主義列強としては立ち後れていたので、門戸開放と領土保全を原則として、日本をロシアに対抗させてきたが、中国をもり立てて日本帝国主義を阻止する方向に転じていったことは大きかった、と。こうしたことで日本のセキュリティが動揺しはじめ、再びナショナリズムの擬集現象をもたらしします。

 悪いことは、悪い時期に起こるものですね。

[附論1 草稿断簡]

 ナポレオンによって神聖ローマ帝国は解体されてライン同盟、プロイセン王国、オーストリア帝国に3分割されます。ライン左岸はフランスに組み込まれ、ライン同盟はフランスの衛星国なり、オーストリア帝国の皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズはナポレオンと結婚して同盟国となりました。

 こうした中、反フランス勢力はドイツ解放をプロイセン王国に託し、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を反フランスの中心地となりつつあったベルリンで連続講義という形で行いました。

 この時のドイツを敗戦直後に日本に仮託して、「国家の運命を自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」の確立を求め、ナショナルなものの積極的意義を説く未完成、未発表の断簡がこれ。

 《われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかしあてがはれた自由、強制された自由とは本質的な矛盾―contraction in adjecto―である》という書きだしは好きです。

[附論1 雑誌「日本人」及び新聞「日本」グループ]

 《明治20年初頭の日本主義の中核をなす「国民」観念は、一方では外国に対する国民的独立を意味すると同時に、他方では、国内における政治・経済・文化の国民化、即ち民衆化を意味し》ており、それはドイツやイタリアの近代化運動のような外からの独立と内部の解放、ナショナリズムとデモクラシーとの結合として現れた先例を追おうとしたもので、この時点の日本主義は健康性と進歩性があった、と。

 「日本」新聞の陸羯南は「他人に向ひて奴眼する者は必ず家人に向ひて鬼面するものなり」と政府を攻撃します。また、政治を抽象的なイデオロギーとしてではなく、具体的・歴史的な問題と関連させ、経済を重視していた、と。

 さらには前期的な暴利資本主義に対する中産階級的資本主義精神をつくろうとして、下からの殖産興業を目指し、民力休養と租税軽減を主張。政府の軍備拡張と増税政策に対抗します。こうした流れのなかで、三菱の高島炭鉱における坑夫虐待をルポルタージュしたりしますが、それは坑夫虐待が労働力の再生産を不可能にし、殖産興業を阻害するから、という理由でした。

 しかし、こうした先進性にもかかわらず、反動的国粋主義の流入を拒むことはできず、ナショナリズムはロマン主義に流れます。

 ロマン主義は《歴史的形象のなかに直接自己との生命的つながりを認めることによって、対象に対する理性的批判の眼を曇らせてしまう。ロマン主義の国家観たる有機的国家観の弱点もまさにそこにある》と丸山眞男は分析します。

 フィヒテで言及したナポレオン侵攻によって生まれた《ドイツの自由主義運動は、ロマン主義をもってドイツ・ブルジョアジーの革命思想を正当化したが、そのロマン主義がやがて封建的反動の正当化に転化》するなど正反対の政治的意味を持つようになります。

 そして「日本」グループも《反動的・国粋主義的傾向と自由主義ないし社会主義的傾向との二極に分化》していった、というのが結論。

 ということで『講義録2』もこれで終了。

 次からは、逆から読んできたので、最後の「講義録1」となりますが、すでに読了しています。

 とにかく、この後は残る一巻をまとめるだけとなりました。

 フィレンツェから追放されたマキャベリは昼間は、ならず者のような生活を送りながらも夜、執筆活動をするときには、いつも官服に着替えたと伝えられていますが、そんな気持ちで久々に読んでいました。

 一巻の最後は理想社会としての「自然の世」をたったひとりで構想した安藤昌益。

 講義録の最後に「終講に当たり、卒業の諸君に贈る」と語り、付章でも解説していたのも安藤昌益訓でした。
一、人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ
一、世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ
一、朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし

 安藤昌益の思想については素朴な唯物論にともなう運命論的色彩が濃いとはしながらも、「朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし」は親疎の別に基づく朋友観念に対して博愛を説き、「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」「世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ」は後の福沢諭吉の不羈独立の高唱を思わせるとして、孤独な思想家である彼を《日本だけでなく殆ど東洋に比肩する思想家を見出しえない》《封建社会の人間であることを疑う》とまで評価しています。

 とりあえず「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」というのは、いいな、と。

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October 20, 2016

『丸山眞男講義録2』#6

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第4章 自由民権運動におけるナショナリズム]

 幕末から明治維新にかけて、海外の脅威に対応して、海防論や尊皇攘夷が唱えられ、明治維新後も政権のヘゲモニーを巡って征韓論を軸に、対外進出から国権論、帝国主義へと進んでいきました。

 その中で福沢諭吉による古典的なナショリズムも生まれましたが、日本のナショナリズムが、単なる国権論の中に埋没していったのは、カウンターパートであるべき自由民権運動が常に国権論と結びついていたからではないか、というのが4章。

 そうなったのも19世紀のドイツやイタリアに似た環境から生まれた自由主義運動だったからであり、維新当初のナショリズムと何ら変わらず、そうしたものを継承していたからだ、というのが出だし。

 2章でも言及されていましたが、ナポレオンによる征服を経験したドイツなど、歴史的諸条件を忘れて論じることはできない、という言葉を思い出します。

 『丸山眞男話文集』では自由民権運動の活動家たちは集会の後、剣舞を舞った、と語っていました。

 その活動家たちの主張は《もし国民が国内の政治的支配者に対して卑屈な奴隷的服従しか知らないならば、そうした奴隷的屈従は必ずや外国からの支配者に対しても向けられるであろう》というものでした。したがって、政治的自由を国民に与えよ、と。

[1 十年代民権論の三つの国際的背景]

 この時代の民権論が念頭においていたのは1)朝鮮問題2)条約改正問題3)列強のアジア進出、という3つの国際的な要因でした。

 当時は、英国人ハルトレーが阿片を密輸しようとして税関に発見されたが、英国領事はハルトレーの行為を違法としない判決を下すような時代でした。

 また、レーニンが「帝国主義時代開幕の年」としたのも1876年で、アジアやアフリカでの植民地化の動きは明治20年後半から激化します。

[2 自由民権運動のナショナリズム:理論と実践]

イ)自由民権論と朝鮮問題
 1885年に起こった自由民権運動家たちによる大阪事件は、朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づくもので、これは外に紛争を起こして内を改革するという点で、征韓論の踏襲。

ロ)自由民権論と条約改正問題
 国会を開いて国民の力で外人の邪説を破り、裁判征税の権を回復せよ、というのがその主張。

ハ)自由民権論の国際政治論
 民権論者の多くは、国内の社会関係についてはどこまでも天賦人権論に依拠していたが、国際関係は赤裸々な実力闘争、弱肉強食の関係としてみていた。このため、おのずと国権論の内容も軍事的性格を帯びざるをえなくなり、それは特に自由党系に強く現れていた。

 一方、改進党系はより経済的であり、内治改良と商権の海外発展を強く打ち出していた。

 自由、改進両党とも富国強兵論だが、自由党はより強兵的ナショナリズムで、改進党系は富国的ナショナリズムだった。

 また、自由党系の国際意識は、東洋豪傑的な国権拡張論と、ナイーブなインターナショナリズムという相反した内容を持ち、それを良くあらわしているのが中江兆民の『三酔人経綸問答』。

[3 民権論のナショナリズムにおけるイデオロギー的混乱]

 一般的に改進党系のナショナリズムの方が、不徹底ではあるがより一貫していて動揺が少ない。自由党的ナショナリズムは一極から他極に急転する。

 これは、両者の社会的基盤による。

 改進党は都市ブルジョワや知識階級、殖産興業の担い手、交詢社(福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ)のナショナル・リベラリズム→犬養の国民党。

 自由党は地主、小市民、貧農、失業士族など。また、自由党系ナショナリズムには他国のナショナリズムへの尊重の契機を欠いており、それが帝国主義への転化の素地となった。

イ)民権的ナショナリズムと前近代的国粋主義との混合
 自由党壮士と玄洋社的浪人は宮崎滔天のようにほとんど見分けがつかない。

ロ)郷土主義とナショナリズムの混合
 本来、国民的統一と独立の経済的条件を政治権力によって造り出していかなければならなかったが、征韓論当時の反政府運動に旧藩的対立感情が作用し、連携が拒まれたように、自由民権運動の国民的な組織化を妨げたのも、郷党的虚栄だった。

 こうしてナショナリズム的動向は帝国主義・国粋主義へ、デモクラシー的動向はインターナショナリズムの方向へと分岐していく。

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October 15, 2016

『丸山眞男講義録2』#5

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第3章 征韓論(と征台論)]

 日本のナショナリズムの特徴は、福沢諭吉的な古典的内容を持ち得た期間が短く、すぐに帝国主義へのメタモルフォーゼを開始し、sui generis(独特)な日本的国家主義を生み出したこと。そうした契機となった征韓論は《近代日本思想史の上に人が考える以上に大きな意味をもっている》として一章を割いてます。

[1 維新前後の対韓関係 廟議分裂まで]

 韓国は大院君が極端な排外主義をとり、1867年(慶応3年)に宣教師やカトリックに対する大規模な虐殺を行ったため、フランス東洋艦隊と戦闘。徳川慶喜は使節を朝鮮に送って攘夷の中止を勧告しようとしましたが、その直前に王政復古となってしまいました。

 明治四年にはアメリカ東洋艦隊が米船乗組員虐殺事件の責を問うて陸戦隊を上陸させたが、京城に進撃できずに退去したので、大院君の息はあがっていきます。

 日本政府は明治維新にともない対馬の宋氏の私的貿易を禁止するなどしたため、韓国側は反発。明治六年には日本人を接客した娼妓を罰する法律などをつくり、日本人密貿易の取締を強化したため、廟議で対策を協議することになった、と。

 この際、外務卿の副島種臣は清国と台湾及び韓国との関係について質し、台湾蛮地は化外の地であり、韓国の内治・外交には干渉しないことを報告していた、と。西郷辞職までは省略します。

[2 イデオロギーとしての征韓論]

 征韓論は幕末から唱えられていました。

 勝海舟は反幕的な攘夷の動きを兵庫、対馬、朝鮮、支那に海軍の営所を置いて西洋に対抗するという大陸進出に転じようとしていました。これは欧州帝国主義の圧力を、東洋の弱小国家への帝国主義的進出に転化しようというもの。

 西郷の征韓論にも、対外進出を契機として国内改革を行うという目的が潜在しており《軍部有力者の間にも対韓進出を機会に武断派の革命を行い、政府内部の文治派を一掃しようとする動機があった》(p.131)と。これは大久保が秩禄処分で武士の大リストラを行うと共に大軍縮を断行しようとしていたことに反発したためでしょうか。

 木戸孝允は幕末時代から勝海舟と征韓を策していましたが、維新直後も征韓を利用して天皇直属の兵を徴募して全国の大名などによる内乱を抑圧しようと目論んでいました。しかし、同じく征韓論者である長州の大村益次郎が暗殺されて失望、その主張はしばらく薄らいだ、と。木戸は大久保と感情的に対立していたが、武権派の西郷とはさらに対立していました。また、農民暴動を恐れていたため、西郷の征韓論には反対することになります。しかし、征韓論によって大久保利通が権力を強化したことについて日記で愚痴を吐くなど、木戸はなんともいえない性格をもっていましたよね。

 こうした中で議論をリードしていたのは大久保です。孝明天皇は欧米列強の兵庫沖への艦隊派遣という威嚇を受けて、それまでの鎖国攘夷を投げ捨てた後、大久保に第二次長州征伐への勅命を非義の勅命と非難されて政治生命を失ったんですが、こんなところも含めて大久保は、たいしたものだと思っています。

 大久保の考え方は《英仏の如きは、悍然、護兵を我地に置き、殆ど属国の如し。然るをこれをこれ恥じずして独り朝鮮に咎む、大に忍びて小に忍びず、遠きに察し近きに察せず》というものでした。

 このほか、岩倉は西郷が行けば殺されが、それで兵を挙げたらロシアが黙過しないので、まずロシアに了解を求める工作が必要だ、という立場でした。

 丸山眞男は《面白いと思われることは、不平士族の暴動を恐れた者が征韓論の主張者となり、農民暴動を恐れた者が反征韓論を主張した》としています(p.135)。

[3 征韓論を惹起したリアクション(征韓論が国内問題であっことの証示)]

 征韓論は1)国内テロと暴動叛乱2)自由民権運動(土佐の民権運動と西郷らの動向は初期において一体性を保持していた)3)後の玄洋社に発展していく福岡の結社などによる国権運動―を呼び起こしました。

 この中で頁を割いているのが3)の国権運動。

 佐賀、熊本、秋月、萩、西郷による西南戦争、福岡と続く乱は、旧藩意識が強いというか相互不信が強く、連携がまったく取れていませんでした。板垣は西南戦争後、挙兵をあきらめ民撰議院を目指しますが、萩の乱で逮捕されていた頭山もこれに感じ、向陽社を設立、明治14年には玄洋社に改称します。

 さらに4)政府のリアクションとしては、台湾征討がありますが、これはもちろん征韓論の代用物で、征韓論と台湾征討に一貫して反対したのは木戸のみでした。

 政府は明治6年10月に西郷らが下野した翌7年には台湾出兵を行ういますが、そのイニシアティブをとったのは大久保利通、西郷従道、樺山資紀など薩摩藩出身者。

 大久保は台湾出兵で清から五十万両の賠償金を得て権威を高め、懸案となっていた横浜に駐屯していた英仏の外人部隊の撤退まで実現してしまいます。

 さらにロシアとの樺太千島交換条約では弱腰とされた政府も5)明治8年には江華島事件を機に日韓修好条約まで結びます。

[4 結論]

 丸山眞男は征韓論に、その後の日本の大陸政策が包含した全ての問題が圧縮されて表現されている、として、以下のようにまとめます。

1)内乱を外戦に。内の不満を排外的雰囲気の高揚によってそらす(レーニンは「対外戦争を内乱へ」だったが、日本は「革命よりは常に対外戦争」を選んだ)

2)外戦(国際紛争)を起こすことによって国内改造を行う(満州事変では桜会を中心に国内改造が同時に目論まれ、十月事件も類似した事件)

3)政治の軍事に対する統制の弱さ。西郷隆盛自身が急進論に押されたこと。また西郷従道の征台論における動き(出先軍部の独断専行、強硬論)

4)対外的な国威発揚(なるべく抵抗の少ない海外進出を試みようという考え方が、この後も引き続き、日本の政治支配層には強く流れていた)

5)東アジアをヨーロッパ帝国主義から防止する意味と、日本自身がヨーロッパと互して進出するという意味が重なり合っていること

 こうして膨張主義と平和主義の厳密な区分が溶解していきます。それは征韓論に反対した大久保が台湾出兵を行ったことは、後年の幣原外交と田中外交の「対立」と同じ性格を持っていた、と。

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October 10, 2016

『丸山眞男講義録2』#4

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 丸山眞男はフィヒテに仮託して「国家の運命を自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」が重要だと語ったことがありました。フィヒテはナポレオン占領下のベルリン大学での連続講演『ドイツ国民に告ぐ』で「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています」として、教育を抜本的に変革する必要を説きました。

 これは福沢諭吉の歩みとパラレルのように感じます。それは、フィヒテも福沢も外国勢力による支配という脅威に対応したからでしょう。そして、丸山眞男は福沢の健全なナショナリズムを驚くほど高く評価し、《敗戦がもたらした国民の私的領域への一斉復員現象のなかで丸山が改めて要請しようとした》のも「国民的(ナショナル)なもの」でした(解題、p.204)。

 フィヒテの教育論の内容をサマライズすると、全てのドイツ国民を対象にした教育を共通のドイツ語で行うことという民族観念や言語と結びつけていること、だと思います。今では当たり前かもしれませんが、当時としては画期的なものだったようです。

 そして福沢諭吉も幕藩体制を否定して、新たなナショナリズムを教育を核にして進めていこうとします。

 こうした考え方はナポレオンによる占領、ロシアのグレートゲームに触発された米英の動きに翻弄された日本という歴史的諸条件を忘れては語れない、とも語っています。

[第2章 近代国民主義の古典形成]

[1 全体的問題状況]

 19世紀の東洋において、全く異質な外来者に対する本能的な自己防衛メンタリティは、旧来の世界を保持する欲求としてあらわれましたが、守られるべき古い世界は、身分的=地域的な分裂によって、対外防衛の能力をもたなくなっていたという矛盾がありました。

 かくて東洋諸国は古い世界を防衛するためには古い世界を変革し、新しい世界のプリンシプルを取り入れなければならなくなります。

 この後の日中の比較が興味深い。

 《日本の支配階級は自己変革への適応性があったがため、かえって古典的国民主義の形成がゆがめられたのに対し、中国は半植民地的な境涯に陥ったが、日本の場合より旧支配体制の破壊が徹底的であり、支配層に自己変革への適応性がなかった分、それだけ庶民のエネルギーがナショナリズムの担い手として動員された。したがって中国では国民的独立・近代化という課題が、日本に比べて密接に関連しながら発展していった》という相違の指摘はなるほどな、と(p.104)。

 いまの中共の怒れる若者(憤青)は、尊皇攘夷で駆け回った草莽の志士たちのようなナイーブなナショナリズムが、大衆化されたようにも感じます。

 とにかく明治維新は幕藩体制を瓦解させて国民的統一を阻害する要因を除去し、版籍奉還・廃藩置県による地域的群居性の解消、被差別部落の解放、廃刀令・秩禄処分などの旧武士階級特権の解消による身分的分裂を解消させました。それは、古い世界を根本的に変革しなければ当時の国際環境のなかでやっていけないという危機意識があったためですが、どうしていいのか見当がつかない様々な可能性もあるような思想的真空の時代もあった、といいます。

 こうした可能性を含んだ中に福沢諭吉という近代的ナショナリズムの最初で最後の形成者が現れた、と。

[2 福沢諭吉]

 維新前の福沢の主張は国際法(万国公法)思想を吹聴し、日本の島国根性を打破するというインターナショナルな契機が強く出ていました。それは外国人を追いはらうとシナと同様の目にあって、国を貴ぶ心がかえってそれを貶める結果になってしまうとして排外的自国至上主義をいましめた、というようなものでした(未刊の『唐人往来』)。

 そこには、すでに《視圏の拡大によって前近代的な自国中心的世界像が打破されることが、かえって近代的な国民意識の発生する前提であり、開国=外に向かって国を開くことが同時に、外に対する自己のゲシュロッセンハイト(限界性)を自覚する契機となるというパラドキシカルな関係がすでに暗示されている》と丸山眞男は評価しています(p.109-)。

 これによって自国の政権を保持するためには、人民の智力の増進以外にはなく、そこにヨーロッパ近代文明の採用ということが国民的独立の立場から根拠づけられた、と。東洋諸国の人民が自主独立の精神なく権威に隷従し被治者意識に沈淪していたことが、ヨーロッパ勢力に圧倒された最大の原因だ、と。

 また、「国体を保つとは自国の政権を失わざる事なり」「日本人の義務は唯この国体を保つの一箇条のみ」と語る国体とは、外人に政権を奪われないことであり、もしそうなった場合、皇統が連綿でも国体は断絶したんだ、というあたりを含めて、福沢においてはリベラリズムとナショナリズムは、必然的な内面的連関において結合されていました。決して、無知蒙昧なものではなかった、と。

 そして初期のナイーブなインターナショナリズムは「宗教の高遠な見地から見れば、各国対立して政治は商売を競い、事あるときは武器をとって殺戮する状態はあまりにも鄙劣粗野なものたるを免れない。しかしこれがまさにわれわれの回避するを許されぬ現実であり、そうした現実のなかにあって一国独立のために奮闘することなしに、抽象的に世界主義をあこがれることは結局、日本の置かれた現実をいよいよみじめな低劣なものにするだけのことだ」というリアリズムに変化していきます(『文明論之概略』)。

 しかし、愛国心は畢竟、集団的エゴイズムであり「永遠微妙の奥蘊に非ず」とも認識していました。このように福沢諭吉の《リアリズムがシニシズムに陥らなかったことが、そのナショナリズムを根本的に健康ならしめた》と丸山眞男は評価しています。

 なぜなら《近代ナショナリズムは、その置かれた歴史的諸条件を忘れて論じることはできない》から。

 たとえば《ナポレオンによる征服を経験したドイツでは、国家による、権力による統一を離れて自由ということはありえない。そこに権力と自由を如何にして媒介するかという問題がドイツ・ナショナリズムの正面からの課題となった》ように。

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October 09, 2016

『丸山眞男講義録3』#4

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

[第四講 政党および代表制]

 第四講以降は、この政党論こそしっかり講義されていますが、「第五講 統治構造論」「第六講 政治体の均衡と変動」「結語」はあわせても8頁ぐらい。丸山眞男が学生に語りたかったのは心理的要素を重視し、自らがactorとなって働きかけ、しかも「安保闘争ぐらいで挫折しても無関心にならず、政治オンチにもなるな」ということだったと思います。

 ここでも民主政は本質的に矛盾概念であり《governするものとされるものの機能分化、さらに統治機構内部の階層的機能分化は、あらゆる社会価値(欲求対象)をすべての人間が無限に獲得・享受しえない限り、避けることはできないから》永久革命的な努力が必要なんだ、ということが語られています。

 丸山眞男が60年安保でシトワイヤン的側面(公民、政治的共同体の一員)の重要性を強調しすぎた、という批判も読みますが、そのオリジナルの吉本隆明さんにしても、闘争直後の熱気で書かされた部分はあったのかな、と今となっては思います。また、吉本さんの知り合いの兄で労働事務次官になった丸山眞男主義者がいて、そういうところからも丸山眞男の理念はかなり実現されている、と『吉本隆明が語る戦後55年』で語っています(p.75)。今後、講義録が出る前のこうした議論は変わっていくのかな、と感じます。

[政治的なるもの 政治体あるいは政治システム]

 《これまで、自我の世の中に対するイメージから出発して、態度形成の問題、集団化のプロセスを経て、リーダーシップへと、観点を下から上へと順次上昇させ》、その際《政治的状況を出来事―actorのイメージ―反応のプロセスとして、また、actor-相互作用として説明してきた》と。

 そしていよいよもっとも本来的な政治集団、政治組織である政党がテーマになる、と。

 政党の相互作用は「あらそうこと、まとめること、うごかすこと、きめること」で、それらが政治的なるものの構成要素だが、非政治的な出来事が政治的システムに入ると政治的出来事になる。

1)紛争・対立・闘争→極限では生殺与奪権
2)統合・調整・妥協→極限では友愛・団欒
3)運動・組織化
4)決定・裁定

 という政治システムの中でactorの相互作用が

a)社会、世の中の全体性のイメージに関連し
b)社会的価値の生産と配給についてのついての優先順位の決定に関連し
c)物理的強制の行使もしくは行使の威嚇を最後手段とすことについての正当・合法性のイメージに関連し
d)普通の、しかし限定された人間または集団のアウトプットをゴール達成に向かって組合せ、構造化することに関連するとき

 政治システムを語ることができる、と。

 このうちa)は政治的なるものの展望が、公共性にあることを示しb)は政治的なもののobjectiveが政策にあることを示しc)は政治の最終手段が物理的強制にあることを示しd)は政治の方法が一定範囲の人間行動の統制と組織化にあることを示す、と。

 東洋的な政治思想はa)にアクセントを置き、民の教育を重視した。また、国家はabcdのいずれかにアクセントをおいて発展してきた。

 また、カール・シュミットをこんどは否定的に引用します。それは彼の有名な「友と敵を区別するのが政治である。友敵関係を決定するのは国家の自主性にまかせられる。政治は主として国際関係にある。外交が内政に優先する」という言葉。

 仲正昌樹『カール・シュミット入門講座』の363頁によると、この言葉は「決定的な政治単位である国家は交戦権を持っているので、内外の多くの人の生殺与奪権を持っており、規範=正義を創出することと友/敵を分離することは表裏一体の関係にある。つまり、友/敵を分離することは、規範が通用し、正常性の基準が定まる内部空間を作り出すことになる」という意味だと思います。

 カール・シュミットは「ナチスの御用学者」というイメージが強く、扱いは難しいのですが、第三講では肯定的に引用していましたが、ここでは国内的な対立が過小評価され、全体性、統合性、目的性がはたらいていない「肉食獣的政治観」だと批判します。

 トマス・ペインは『コモン・センス』の中で《社会はわれわれの必要から生じ、政府は我々の悪徳(を抑えることによって消極的に幸福を増進させること)から生じる》と述べていますし、マルクス主義の政治観も「友/敵」論理に従っていますが、こうしたダークな議論はなかなか好きです。

 もっとも丸山眞男はどちらも、ひとつにアクセントをおきすぎるてバランスを欠いているという感じで、コミュニズムについては「対立と全体性の概念が統一されていない」としています。

[2 政党の本質と発展]

 日本において公共性を象徴するのは共同体と同一化された国家であり、天皇制国家と直結する官僚制は、政党に比して、ヨリ全体的なもの、したがったpublicなものを代表するとみなされていた。

 《山縣有朋が地方自治制を設けたのも、まさに地方農村を政争から超然とした「春風和気、子を育し孫を長ぜしめるの地たらしめる」という口実の下に、政党の浸潤を排して、官僚勢力の農村把握を確保するところに、根本意図があったのである》としています*1。

 ユンカーと官僚の強かったドイツでも、国家=全体、政党=部分というイメージがあり、これが大衆民主政の洗礼をうけて、ナチの民族共同体思想につながった、と。

 日本とドイツのように国家意識が強いところでは、国民の価値(一人ひとりの価値、究極には生命)が極端に低下い超国家主義に流れやすいというかファシズムにつながりやすいのかな、と思いますが《現代の政党に帰せられる自明的な地位は、19世紀の中頃までは、西欧諸国においてさえ、決して自明ではなかった》そうです。

 政党の起源はイギリスのToriesとWhigs。議会に対して責任を負う内閣制は、両党の対立のなかから、ウォルポール率いるWhigsが議会に安定した多数を確保しようとした努力の成果として生まれた。

 イギリスの二大政党制と責任内閣制の特徴は1)カトリックとnon-conformist(非国教徒)を政治的に排除して、宗教を中心とした政党形成の可能性が事実上消滅したという背景に確立し2)憲法政治のルールが長い慣行で確立した後に産業革命を迎えたという条件があった。

 ヨーロッパ大陸には1)宗教政党、特にカトリック政党をめぐる教権と俗権の関係が長く政治闘争のissue(争点)になり2)議会政治の確率過程が産業革命後の社会的大激動と時期的に重なりあって、階級対立の問題が初めから議会の深刻なissueとなった。

 本当の保守主義はイギリスだけにみられ、本当に議院内閣制が成功したのもイギリスだけといわれるのは偶然ではない。

 イギリスではWhips(院内幹事)に対して、選挙権が民主化されてcaucus(党員集会)を根拠とした職業政治家が党務に関与するようになった。また、この結果、代議士に対する規律が強化され、「代議士の独立性」は失われていった。

 1945年の敗北は伝統敵支配階級による支配を揺るがし、まさに革命だった。しかし、保守党青年部を中心に、選挙ごとに産業計画を説明するIndustrial Charterが発行され(40頁で6ペンス)、政策立案にたずさわるback-room boysを中心する政務調査に力を煎れるなどして立ち直った。

 近代政党の概念 政党は、政治的システムのなかのサブシステムとして、社会と当該政治的システム間に行われる産出投入関係の通常もっとも基本的な媒体をなすところの自発的組織。

a)政党は政治システムのなかのサブシステム。競争する他党派の存在を前提としているという意味でも部分partだが
b)政治システムを動かす主体たろうとする志向を持つ
c)そのため集団固有の利害をこえて社会についてのpublicな展望をもち、全体としての価値配分の決定に参加する
d)しかし、完全に公的決定の組織(統治機構)には吸収されない側面を持つ

 政党の機能は

イ)個別のactorの欲求・意思・情熱・利益・見解を政治システムに伝達し、政治体の動向や政策を社会に伝達するarticulation(声にする機能)
ロ)無限に文化した意思・利益・見解を共通項にくっつけて集中し、争点issueを単純化するaggregation(集約する機能)
ハ)社会の全体像の提供と長期的プランの提示

 競争的政党制の下では、政党の選択は政策の選択であると同時に、リーダーの選択でもある。

*1 『山縣有朋の挫折―誰がための地方自治改革』松元崇、日本経済新聞出版社によると、山縣は日本の伝統的なコミュニティを土台にして西洋諸国のいいとこ取りをして地方自治の基礎をつくったんですが、これによって日清戦争後の臥薪嘗胆の時期に地租増微という大増税を行って帝国海軍をつくることができたんだ、としています。松元さんによると、これは高橋是清の外債による満州派兵軍への食糧弾薬の補給と合わせて日露戦争の立役者的な功績だった、と。しかし、明治31年の隈板内閣で行われた猟官活動(あたかも群犬の肉を争うがごとくby徳富蘇峰)を懸念した山縣が文官任用令を改正することでこうした動きを封じると同時に、地方政治への興味を失っていき、明治32年の改正では郡を山縣閥による支配の道具としていきます(p.138)。こうした変身は星亨による利権政治に反発したたためで、山縣は政党政治の堕落から立憲政治を守ることを優先していくようになります(p.161)。

[3 政党とデモクラシー 政党論のむすび]

 戦前の日本の政党が大衆政党へ発展できなかったのは、天皇に直結する官僚制が公的決定者としての正統性を独占していたから。戦後でも高級官僚出身の政治家が優位で、社会的名誉も高い。そうした官僚機構への陳情は国家の慈恵への期待。

 議会制民主主義は政党の存在と活動なしには考えられない。

 民主政は本質的に矛盾概念。《governするものとされるものの機能分化、さらに統治機構内部の階層的機能分化は、あらゆる社会価値(欲求対象)をすべての人間が無限に獲得・享受しえない限り、避けることはできないから》《民主政が本質的に矛盾概念であるからこそ、それは不断の、また無限の過程または運動としての分裂のディレンマ、(公的)政策形成と(私的)利害実現のディレンマに不断に直面しつつ、これを打開していかねばならぬ》。

 しかし、本来、私的なクラブから発した政党はますます公的な組織に転化した、と。

 政党の大衆政党への発展、組織化は、闘争団体という本来の性格からくる内部統制によって国家(imperium in imperio)たらしめる。

 ドイツではワイマール期に、各々の政党が党員に制服を着せ、軍隊的規律と訓練を課し、ついには公然と武装した。その後、ナチはそれ自体が帝国となった。

 《一党独裁の出現は、前世紀からはじまる政党の国家浸透の極限形態》

 《ナチ党は、体制政党になって以後、特に占領地域を拡大して以後は、それ自体巨大な独占企業体であった》

 《民主政への信頼は、ある意味ではアマチュアが統治のエキスパートをコントロールする能力への信頼(「われわれは皆が皆必ずしも政策の立案者ではないが、それを判断する力をもっている」ペリクレス)》

 このため、革命家も含めたあらゆる職業政治家の危険は、普通人の感覚から離れること。

 「ドイツ人には党派的狂信性と党派的猫かぶりという一見矛盾した行動様式があるが、両者は同じ感覚、即ちuberparteiish(超党派的)な政治がありうるという根強い錯覚の上に立っている」byラートブルフ

 競争と闘争はロスを生むが、ロスは社会のヴァイタリティーの保持がはらわなければならぬ代償。

[代表の理論とその諸形態]

 カール・シュミットによるとrepresentareとは原義において、そこに現存していないものを現存させること。代表のディアレクティーク(弁証法)はa)代表されるものが見えないこと、つまりそこにないことb)それが代表によってそこにあらしめられること。

 単一性としてそこにない、つまり多数性としてしかないものが、代表によって単数として現れる。

 サンディカリズムの職能代表思想は、イタリアでは、ファシズム組合国家という反民主主義的な政治体制のなかに摂取され、フランコのスペイン、サラザールのポルトガル、ヴィシー治下でのフランスで試みられた。

 ファシズムでは労資を協同組合の中に統合してコントロールしようとするか、職業の社会的比重をいかに計量するかという問題で、致命的な困難に陥る。

 1918年のドイツ革命の際、ロシアのソビエト組織のような労兵協議会が各地に結成されたが、急進派は破れた。これは社民党という組織が帝政下で形成されていたから。

 コミューン的代表制であるソビエトは1870-71のパリコミューンで立法と行政を兼ね、人民によっていつでもリコールされるものとしてつくられ、半世紀後、レーニンによって着想が復活される。これルソー的な直接民主制の思想を背景にしている。ソビエトが当初、議会、官僚を否定していたのはレーニンが世界革命と国家の死滅を日程にのせていたから。しかし、これはユートピアだった。

 全体としての人民を誰が代表するかという問題は、ブルジョワ革命ではじめて鋭く意識された。

 マルクスは『ユダヤ人問題によせて』で人間は政治的共同体の一員(公民、シトワイヤン)としての性格と、市民社会の一員として(私人、ブルジョワ)の分裂を指摘していますが、ルソー的人民概念は、経済的人間が区別され、日常的欲求を持ち、privateな生活をもち、それをエンジョイする人間が軽蔑される。

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『丸山眞男講義録2』#3

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第1章 前期的国民主義の諸形態]

 東洋のナショナリズムはヨーロッパとの接触で国際社会に引き入れられたことから発生し、当時はアジアでもイギリスが主役を占めていました。

[1 海防論の登場]

 《日本における脅威は、まず北方から来た》が海防論の書きだしですが、これは今風に言えば、ロシアのグレートゲームが日本にも影響を与え始めた、ということでしょうか。ロシア国民は神によって選ばれた新しきイスラエルの子であり、「聖なるロシア」だったというロシアナショナリズムの解説を思い起こせば、19世紀半ばから、今の時代にいたるまで、ロシアによるグレートゲームは世界を揺らし続けているのかもしれません。

 近代的ナショナリズムは幕藩体制の崩壊が前提となりますが、江戸時代も後半になると生産と交通の発達によって、封建的な閉鎖性が打破されつつあったことが、対外脅威に関する関心が挙国的なものになる素地を提供していた、と。

 オランダ国王は幕府に開国を勧告したのに謝絶されますが、こうした対応には、日本だけでなく中国でも異質な他者に対するプリミティブな猜疑心や恐怖心があり、相手を対等の人間としてみない態度がみてとれます。

 こうした感情が抽象化されたのが海防論。

 林子平や大原左金吾の海防論は横の地域的な割拠、縦の身分的格差の否定につながることが萌芽的に示されており、国際的脅威を排除するためにはまず国内の経済的安定による国防強化を求める思想的動向が生まれ、それはやがて富国強兵論にもつながっていく、と。

[2 富国強兵の制度的改革論]

 問題は軍事的充実よりも国内体制にあるという反省に比較的早く到達できたのは蘭学者のおかげ。《彼らは決して抽象的な世界主義者ではなく、むしろヨーロッパ勢力の真の脅威を彼らほど痛切に意識した者はなかった》。杉田玄白も『野叟独語』でロシアの脅威は公益を許した後、10~15年で軍備を充実すべきとしています。

 高野長英はイギリスが「民を富し国を強くすることを先務」とするとしていますが、これは富国強兵。
 
 渡辺崋山も含めて弾圧を受けた彼らは、国際社会における日本の地位に深い関心を持っていました。やがて攘夷論に呑み込まれはしましたが、こうした中で富国強兵論を体系的に提示したのは本多利明と佐藤信淵。

 本多利明は「国を治むるの本は渡海運送交易にあり」とし、佐藤信淵の『垂統秘録』詳細なユートピア国家論となっています。

 二人に共通しているのは絶対主義への傾向。

 絶対主義の二大支柱は常備軍と官僚層の形成。《封建制の多元的権力を一元化し、政治的正統性を最高の君主が独占することによって、いわゆる中間勢力を解消し、唯一の国法の支配に服する同質的=平均的な国民を造り出すことにある》(p.77)

 信淵や利明の議論は東洋的デスポチズムが絶対主義と重なっているところもある、と。

 信淵の『大同書』には世界国家建設による民族差別の撤廃、戦争揚棄の構想が示されています。この「大同」は『礼記』礼連篇が典拠となっているが、日本には国家を超越する天下観念がないので、いち早く近代国家主義が芽生えても、素早く帝国主義に転化することになります。

[3 尊皇攘夷論]

 [外観]

 尊皇、攘夷、佐幕、開国という四つの契機は縦横に結合されるもので、「佐幕攘夷」も「尊皇開国」もありえたといいます。井伊直弼らの開国論も実質的には鎖国で、思想的には保守的な性格でした。実際、尊王論が倒幕論にまで到達したのは、幕末の最終段階。吉田松陰の尊王論も、皇室の下における諸侯並立状態を目的としていました。尊皇佐幕から公武合体を経て、尊皇倒幕にいたるまでにはさまざまなニュアンスがあり、主観的な用法は問題ではなかった。

 井伊直弼が勅許を待たずにハリスと通商条約に調印したのを草莽の志士が弾劾したのは戦術上の見地からという面もあり、不満のイデオロギー的な焦点となったものだ、と。

 開港以来の生活必需品の高騰、農村手工業の解体は攘夷の要求をある程度まで国民的な運動たらしめた要因となります。このため、下級武士とともに、上層部の村方地主も尊皇攘夷のもっともラジカルな担い手になった、と。

 尊皇攘夷の第1段階は、特定の藩に独占されてきた幕府権力に、西南雄藩などが割り込もうとしたもの。

 第二段階は激派と公武合体派の抗争。そして幕府改革派が権力につくと、激派の弾圧を開始。

 長州再征の失敗後の尊皇攘夷派は、攘夷を戦術的な意味でしか用いなくなり、これが第三段階(すでに外国との条約が天皇によって許可されていた)。

[公武合体論または諸侯的攘夷論の思想]

 水戸、越前、西南諸藩によって唱えられた公武合体論はナショナリズムの基本的要請である政治力の集中とその底辺への拡大という法則が貫徹されていた。もっとも明確なのは会沢正志斉の『新論』だが、庶民層が外国勢力を恃んで封建的支配関係を揺るがす恐怖が根底にあり、それは中間勢力の排除を意味する尊皇論ではなく、上からの内部的編成替えのイデオロギーだった。

 こうした後期水戸学が影響を持ったのは、尊王論と富国強兵論が一体として説かれ、美文をもって綴られたからであり、具体的内容が問われる前に政治的スローガンとして人心を捉えた。

 越前、薩摩の公武合体論は、外国の脅威にさらされた中で出てきたものなので、『新論』のような海外進出的な意味を持った攘夷論は姿を消し、消極的な海防論まで後退。しかし、徳川斉昭でも庶民の組織化や、商人からの自発的献金を考えざるをえなかった。

 島津久光は幕府での発言権を大にするとともに、過激派を朝廷の名において弾圧。

[急進的尊王攘夷論]

 この担い手となった激派は実践活動に多忙を極め、思想を体系的に残す暇はなかった。その例外である吉田松陰の攘夷論には、ヨーロッパ諸国の制度を歪みなく見ようとする努力があり、この反省的態度は、封建的支配関係の上に安住することを許さず、水戸学の身分的隔離は打倒対象となった。こうした考え方は断片的だが梅田雲浜や、公家の中山忠光にもみられる。

[総括]

 前期的ナショナリズムにも「政治的集中」と「政治力の拡散」という対立する要素が存在する。

 幕末の政治過程は対外危機に対して封建的政治力を集中させようとする契機が終始圧倒的に優位だった。

 心理的な挙国一致のためにできるだけ広い範囲の国民を動員するという課題は遅れがちで、人材登用にも超えてはならない一線があった。

 封建勢力は末期的段階で近代産業と技術に依存しなければならなくなり、絶対主義の樹立は朝幕どちらでも普遍的な課題となったが、庶民層の参与はなんら意味をもたなかった。

 庶民が政治的主体として能動的・自発的な関心を有していなかったことは、明治維新後のナショナリズムの解決すべき課題となった、というのが結論。

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September 30, 2016

『丸山眞男講義録2』#2

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[序説 国民(ネーション)および国民主義(ナショナリズム)についての若干の予備的考察]

 丸山眞男はナショナリズムを《きわめてデリケートな、ヨーロッパの学会でも最も難問とされているイデオロギー》として認識しています(『集5』p.78)。

 ドイツ語でnationalというのは、きわめてエモーショナルな響きをもった、憧憬をふくんだ言葉だから、英語のように散文的に乱用せず、くっつけられる言葉は偉大とか特性とかのシンボルを含むものに限定される、と。ナショナリズムの多義性は、このネーションの言葉の曖昧性と相互に規定しあっている、と。

 しかし、ネーションあるいはナショナリティーという社会的統一体を可能にするエレメントを支えているものは究極において、矛盾するようだがナショナリティの意識、いわゆる民族意識以外にありません。

 《だから国民とは同一の国民に属するという意識によって結びあわされた集団としか規定できない》(p.18)

 この循環論法のような構造は『日本政治思想史研究』でも、「国民」たるためには自らを政治的統一体として意識、意欲する国民意識の成立が必要だということで触れられています。

[近代的国民主義の特性]

 郷土愛とは畢竟環境愛にほかならず、環境愛は自己の外なるものへの伝習的な依存であるのに対し、国民の国家への結集はどこまでも一つの決断的な行為として表現されます。

 通常、この転換を決意せしめる外的刺激となるのが外国勢力。

 ローマ帝国も支那帝国も共属意識を起こさせられなかったのは、コミュニケーション手段の未発達が原因で、これは国民及び国民主義が広義において近代の所産であることを物語っている、と。

 《ナショナリズムは拡大された自我意識である。自我の発展が国家へと膨張する》

 このためナショナリズムは必然的に自分の内部に人民の政治参与への意向を含まざるを得ない。

 ナショナリズムは他国民の支配からの政治的独立と、自国内における政治的自己決定要求という二重の意味での政治的い゛こけってい要求として現れる。

 《その意味で、ナショナリズムは人間のかつて到達した最も高貴な意識、最も高度の精神的理性的な自己責任、決断の協働意識である。しかもこの意識が、同時に他方の極にもっと原始的な心情に根を下ろしているのである》

[ナショナリズムの変容(メタモルフォーゼ)]

 ナショナリズムの最も純粋な論理は「一民族一国家」の主張であり、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパをそれ以前の状態に戻すことを目的として1814から翌年にかけて行われたウィーン会議後、欧州各地で民族主義運動の嵐が吹きまくりました。

 一民族一国家は

1)各民族はそれぞれ一つの民族国家を形成すべきという主張(ドイツ)
2)同じ民族に属するあらゆる人間と土地が一つの民族国家に編入されなければならないというイレデンティズム。Irredentismはイタリア語の「未回収のイタリア」 (Italia irredenta)からくる。
3)一国家は同じ一民族のみにより成るべき

 という三つの形態からなり、論理的には少数民族の解放も出てくるハズだが、一民族一国家は統一国家をつくるまでの段階で主張されるものの、非合理的なエモーションに根ざしているのでいったん成立した国民国家は少数民族を圧迫する、と。

 ファシズムはナショナリズムのメタモルフォーゼであり、悪貨が良貨を駆逐した最終形態。

[イ 国家(至上)主義]

 近代的国民主義は統治機構を少数の人間の独占から奪い、広く国民化すると主張する。

 しかし、半封建勢力と野合したブルジョワや独占段階の資本主義が政治力の中心的擬集点となって官府が対外的に国民的自覚を代表したり、対外危機を挑発することで、国民的自負は《内においては奴隷的支配者の神化に、外に対しては下劣なジンゴイズム(好戦主義)へと歪められていくのである》

[ロ 人種的民族主義(Racism, Volk als Rasse)]

 イタリアとドイツはともに国民国家としては新しい国ですが、このうちイタリア的国家主義は、イレデンティズムの影響もあって、民族ないし国民をもって、国家によって創造されたものとして国家に対し副次的な地位に置き、逆にドイツ・ナチズムは生物学的意味でのミンぞに第一義的価値を置く、と・

 これは、ファッショ・イタリアは植民地を領有していたので民族主義の強調は有害であったが、ナチス・ドイツはオーストリアとの合邦が禁止されるなど、民族主義の高唱が有利だったから。

 どちらにしても《世界中どこにも生物学的に純一な、つまり単一の遺伝性をもつ人種などは存在しない。民族というのは歴史的概念であって、自然科学的範疇ではない》(p.30)。

 これは拾いネタですが、ナチスドイツ時代の笑い話は面白い。

 「純粋なアーリア人とは何でしょう?」「それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッベルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそりとしていて、その名前はローゼンベルクという」というのがあったそうで、これは、ヒトラーが黒髪で、ゲッベルスは背が低く、ゲーリングは肥満型、ローゼンベルクは典型的なユダヤ人の名前であったことへの皮肉です。

[ハ 帝国主義]

 19世紀ヨーロッパ型ナショナリズムは結局においてことごとく20世紀において帝国主義に転化した。しかし、帝国主義はナショナリズムの原則の否定であり矛盾であり、帝国主義的実践は必ず植民地などでの民族解放運動を呼び起こした。

 帝国主義よる交通などの発達によって、中国では閉鎖的な共同体的諸関係が破壊され、単なる中華的排外意識が近代国家形成へのエネルギーへと転化された。

 これは「民族国家」は、世界的な生産交通技術の発展段階に対してあまりにも狭隘なニユットになりつつあったと同時に、バルカンなどでの独立国も、経済的・軍事的裏付けが伴わない限り単なる名目的なものにすぎないことも明らかになった。

 また、第一次大戦時のベルギーの奮闘と比べ、第二次世界大戦では圧倒的な機械化部隊の機動力の前には抵抗も無力となったが、これも民族国家の独立が名目化してきた証拠。

 逆に日本が植民地解放を唱えたり、ドイツのように民族自決主義を逆手にとって侵略が正当化された。

[ナショナリズムの類型]

 アジア諸国はヨーロッパに全体として開国を迫られたでナショナリズムとインターナショナリズムとの調和が困難だった。

 [英仏]統一国家の形成が民族意識に先行し、むしろ後者を造り出す槓杆となった。国民意識は第一義的には政治的、二義的・三義的に文化的。国際主義とも鋭く対立せず、教会による強い妨害を受けることもなかった。

 イギリスはコモンローの普及で英国民の共通意識が養われ、ヨーマンリーの成長はイギリス国民の原基体となった。

 フランスはイギリスよりも地方的割拠、社会的分裂は甚だしいが、13世紀までに労働地代から生産物地代へと変わり、小土地所有農民paysans propriétairesが形成された。ラ・マルセイエーズの「進め祖国の子ら」の歌詞のように、祖国という概念はフランス革命によって初めて強力に発展。三色旗という国旗も含めてnational symbolsの使い始めでもある(p.44)。

 英仏とも農民の解放が下からのナショナリズム成長の決定的な条件となった。

 [ドイツ]民族意識はナポレオン的世界主義との対抗観念として生成され、啓蒙思想に対するロマン主義の反逆という形をとった。

 また、宗教改革はドイツをカトリックとプロテスタントに分裂させ、宗教や教会は政治的統一の癌となった。カトリックに対するビスマルクのkulturkampf(文化闘争)、ナチとの紛争。

 1848年はドイツ民主主義の敗北であると同時に下からの国民的統一の失敗となり、ビスマルクによる上からの政治的統一(自由の圧殺)となった。

 四分五裂していた祖国はへの愛は、空中の夢の世界での統一国家を歌った。

 [ロシア]教会がナショナリズムの障害どころか決定的な市中となり、ナショナリズムが最初から帝国主義的形態(世界統一)をとっており、目的において西欧化を排しつつ、手段としては西欧化を試みた。ロシア教会はコンスタンチノープルの羈絆を脱し、モスクワの大公は全世界の王で、ロシア国民は神によって選ばれた新しきイスラエルの子であり、「聖なるロシア」だった。

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『丸山眞男講義録2』#1

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『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

 あと、1冊で終わってしまうので、少し丁寧に。

 『丸山眞男講義録1』と『丸山眞男講義録2』はセットのような構成となっており、主著『日本政治思想史研究』と重なります。

 『日本政治思想史研究』の章立ては

第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連
第二章 近世日本政治思想における「自然」と「作為」
第三章 国民主義の「前期的」形成

 サマリーすると、徳川時代の儒教はいったん朱子学を受容した後、「道」の目的を「治国平天下」という政治的な側面に限定することで朱子学を解体した国学がヘゲモニーを握ります。その中心となった徂徠は朱子学を批判し、自然と人間を分離、社会規範を聖人の作為の産物としますが、それによって社会変革の可能性を示しました。それは明治維新で証明されたとになるが、自然的秩序思想は個人より自然的な国家を優先する考えとして残ることにもつながります。集団が国民となるためには国民意識が必要だが、明治維新は武士と庶民の上層部に担われ、大部分の庶民は傍観したため、政治の集権化が強調された、という感じでしょうか。

 『丸山眞男講義録2』の章立ては

序説 国民(ネーション)および国民主義(ナショナリズム)についての若干の予備的考察
第1章 前期的国民主義の諸形態
第2章 近代国民主義の古典的形成
第3章 征韓論(と征台論)
第4章 自由民権論におけるナショナリズム
附論 その後の歴史的概観

 となっています。

 『講義録2』は『日本政治思想史研究』に征韓論(と征台論)、自由民権論におけるナショナリズムを加えて、徳川時代だけでなく、明治期も含めて日本のナショナリズムを総合的に俯瞰する内容となっています。

 つまり、『日本政治思想史研究』の1~2章が『講義録1』、3章に加筆したものが『講義録2』という感じでしょうか。

 『日本政治思想史研究』は戦前に書かれた3本の論文が元になっていますが、『講義録2』の解題で講義におけるラインホルト・ニーバーの影響が強調されるのは、戦前の問題意識に新しく加わったからかな、と。

 丸山眞男は1965年の講義を北畠親房の『神皇正統記』にEternal Now Theologyを見る、というようなことを語っています(講義録5)。神学には現在、あまり興味はないのですが、この時期には、大塚史学につながる方にも、なぜかEternal Nowという言葉が、そのカッコ良さのためか、誤解気味に影響を与えていたんじゃないかと思っていたんですが、なんとこの講義録2ではラインホルト・ニーバーが大きな影響を与えています。

 ニーバーについては『丸山眞男集4』でインタビューと書評が載せられていまして、丸山眞男や大塚久雄などが敗戦直後に、なぜアメリカやドイツの神学者に対する興味を示し、そしてアッサリと忘れ去ったのか、という問題は充分、研究テーマになるというか雑誌論文ぐらいになるかな、なんて思いました(少なくとも取り合わせの妙があるな、と)。

 『丸山眞男集4』でも、ヨーロッパ精神的の中核としてカトリシズム復興を唱え、『ヨーロッパの形成』でヨーロッパはグレコローマンの文化、キリスト教、ゲルマン民族という三つの要素が融合してできたものというクリストファー・ドウソン(Christopher Henry Dawson)も言及されていて、驚いたのですが、敗戦直後の援助物資などによる一時的なキリスト教ブームも影響していたんでしょうかね。

 個人的にニーバーを最初に知ったのはカート・ヴォネガット『スローターハウス5』に引用されていた「祈り」です(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫、p.76)。

神よ願わくばわたしに
変えることののできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵を
さずけたまえ

 こうした文章には《ユートピア主義とシニシズムという左右の断崖にはさまれた峰を歩みつづける彼の強靱な思惟方法》(『丸山眞男集4』p.258)があらわれていると思いますし、《普通は理性は衝動を統制するものと考えるけれども、実は理性は衝動をリファイン(洗練)するにすぎない》など《平坦な合理主義やアイディアリズムをつきぬけていくパラドキシカル(逆説的)な思索の方法》(ibid, p.151)が感じられます。

 講義録2はナショナリズムを中心としています。

 解題によると「国家の偽善」などの強調は《最も理想的な企図、最も普遍的な目的、そのような最高の理性的態度をもって目されたもののなかにさえ、自己の利害が潜入するということは、偽善なるものが、あらゆる善なる努力の副産物として出てくることを不可避ならしめる》(『道徳的人間と非道徳的社会』、p.63)などニーバー著作によって影響を受けている、としており、その存在は《「参考文献」の域を超えて、ウェーバー、マイネッケらとともに、その政治的思索の中核そのものにかかわる重さをもっていた》(解題、p.218)としています。

 ということで次は「まえがき」は省略して「序説」から。

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September 08, 2016

『丸山眞男講義録3』#3

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 この講義が行われたのは60年安保闘争の後の秋から冬にかけての半年間です。岸内閣の強行採決などに対して、丸山眞男は珍しく集会に参加して発言などをしています。

 それは、今から考えれば、安保条約の可否よりも、永久革命としての民主主義を守れ、というもの。当時の学生運動のリーダーたちからすれば物足りないものでしたが、決戦を叫んでも安保条約を阻止することはできませんでした。

 続く70年安保は学生と対立して研究室は破壊され、再開された授業は妨害されて早期退官に追い込まれました。丸山眞男は全学連に対して嫌悪感を持っていたんじゃないかと思うんですが、それは、やはり展望もなく決戦を叫び、しかも自己否定の論理(最終的には連赤の共産主義化論理につながる)という生活感のない心理を嫌ったのかな、と感じます。

 『講義録3』の結語では、安保闘争で敗れた学生たちに、克服されるべき思考法として既存制度の絶対化と共に、一切の制度的なものを敵視する混乱と同一化された運動を上げています。そして、この第三講では群衆(multitude)を否定的に語っています。

 70年安保の学生たちを丸山眞男が否定的に見ていたわけは、この第三講を読むとよくわかります。

 と同時に米国のトランプ現象や日本のB層なども遠く言い当てているんじゃないかとさえ感じます。

 また、ファシズムなど沸騰するマスの感情に依存する運動は、反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にするとしていますが、現代日本でもヘイトなどはまったく同じだな、と感じます。

 明るく清らかな自己否定も否定し、もちろんファシズムにつながるようなのも嫌悪する、みたいな。

 同時に「ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない」という言葉も印象的。なんでもワンセットで反対するような、今のゆとりっぽい運動家の姿も思い浮かんできます。

 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物だというあたりで思い出したのは、映画『Do the right thing』ですかね。

[第三講 集団とリーダーシップの政治過程]

[序説 集団関係への接近角度]

 同じ集団でありながら、共同体と組織は違う。氏族tribe・同族団・部落などの地域共同体は成員丸抱え集団であって機能分化が低いのに対し、組織はもっと明確に機能分化した集団であるから。

 しかし、日本ではコミュニティに擬制される伝統が強く、天皇制のように無限責任原理となる。そして無限責任は結果的に無責任になる。

[集団化の諸形態]

 群衆(multitude)に混乱がおきないのは、個々のactorが成長する過程で身につけたより大きなsocialization(しつけ)・instutution(制度)の規範が作用しているから。しかし、ある出来事によるイメージを共有することで集団を形成することがあるとして、マスの危険性について語ります。

 例えば扇情的な見出しやテレビの映像に晒された者たちは街頭のマスと似た心理状態になる。マスは組織と違い役割意識がないから暗示にかかりやすく爆発的に行動する。しかもマスのエモーションはネガティヴで他律的。抑制する組織がないために、出来事の呼び起こした恐怖、敵に対する憎悪は無限に増幅する。

 群衆(multitude)、マスのエモーションはネガティブであり、わけのわからない「うっぷん」など他律的。恐怖や憎悪が先行してテコになる。ファシズムなどマスに依存する運動が反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にする所以はそこにある(p.91)。

 マスはそれ自体が全体で、限界の外は意識しない。他集団との折衝とか問題を解決しようとかいう意図がそもそもない。

 社会における自分の場(position)がなくなり、あるいは分からなくなると、アウトカーストoutcasteの意識がはぐくまれる。その個人生活の無意味さ、卑小さを大群衆の中で忘却する。
 
 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物。

 だから、革命の歴史的意味と価値は、街頭分子を新たに編成された社会集団の中に吸収し、部署において責任意識をもって建設的な仕事にあたらせる第二段階へ移行したときに明らかになる、と。

 ヴォランタリー・アソシエイションが多様であり、またそれが不断に結成される社会は、本来のpublicな関心が下からたえず上昇する社会であり、その伝統のない社会では、閉鎖的共同体と、国家の官僚制・軍隊のような非自発的組織体の両者にpublicなものが吸い取られる。

 これに関連して丸山眞男は、自由討議・寛容による多様の中での一致という考え方でアメリカの開拓を進めたロードアイランドの建設者、ロジャー・ウィリアムズ牧師のことを紹介します。個人的にロジャー・ウィリアムズといえば、その子孫のロックフェラー副大統領(フォード時代)を思い出します。彼はホワイトハウスを去った後、愛人宅で腹上死したので有名です。鎌倉仏教で触れた蓮如が82歳で子どもをつくったのも驚かされますが「どうも、この手の話しが多いよな、宗教関係者には」という印象が個人的にはぬぐえません。

 脱線はこれぐらいにしておいて、この後は定義集みたいになっていきます。

 ムラには組織というイメージはない。

 国家とは特定地域を基盤とするorgnisiere Einheit(組織された一体性)。

 組織は意志や感情の一致体では必ずしもない、行動統一体。

 統一を確保ではないところに組織はない。

 支配とは服従を調達すること。

 集団化の極はmultitudes(群衆)と制度(institution)。

 制度とは制度的行動様式で、慣習、伝統、モーレス(破れば村八分になるような暗示的な強い集団の規範byサムナー)、儀式、法律はいずれも制度。

 人間の環境適応の決断と選択の労を最小限にし、心理的安定を確保するのが制度。

 制度が人間行動を定型化する機能が弱まると、actorは環境と自己の間に亀裂ができ、いかに行動するか分からなくなる。この心理状態をデュルケームはアノミーanomieと呼んだ。アノミックな状況は大衆運動の出発点となる。

 また、multitudesと、その対極である人間行動があますところなく制度化された閉鎖的共同体ではリーダーシップの問題は登場しない。

 カール・シュミットは「主権とは例外状態の決断である」と定義している。

[3 リーダーシップの課題と機能]

 どういうtraits(資質)をもった政治家がリーダーになる傾向があるかということは、カルチャーと密接に関連している。イギリスやアメリカがファシズムの政治体制下におかれたとしても、ヒトラーのようなタイプが指導者になるかどうかは疑問。

 また、ケネディとニクソンのテレビ討論をみても、肌触りがなめらかになり、大きな思想よりも経済や技術についての具体的なプランや数字について語ることを得意とするタイプがリーダーになってきているとしているのは意外。

 しかし「弱体な指導とは、第一義的には相剋する利害(quarrelling interests)の産物であって、その逆ではない」byベントレー。

 また、イギリスの伝統的governing classのようにリーダーの訓練を受けるチャンスに恵まれているとと、ますます統治能力がみがかれる。

 リーダーの問題は、具体的な人間に則していうならば、sub-leadershipの問題となる。これと密接な関係にあるのが、組織内のinformal groupの問題。もちろん、こうした組織によって、既存の法的な手続きで吸い上げられない底辺の感情や要求を上げることはできる。

 informal groupが革命の温床となった例も多い。

 一方、リーダーはつとめて共属感と組織のpublic imageを培養しようとする。リーダーシップの一般的課題と機能は以下の4点。

1)状況の定義を与えること、状況を再定義すること。
2)組織のゴールと戦術の提示(優先順位など)。《ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない》
3)内部の決定過程の組織化
4)Leadership selection(sub-leader含む)

 また、組織は人間行動の組織化であって、人間の組織化ではない。

 リーダーの消極的な統合手段として、もっとも重要なのは、集団が外的危機に直面しているというイメージを造り出すこと。友/敵の区別はどんな場合にもリーダーの不可欠な課題。また、反動的リーダーシップは積極的ゴールよりも、ネガティブな恐怖と憎悪をセメント剤とする。

 組織の過程は役割(権限)期待関係および情報(通信)伝達過程(関係)としてあらわれる。民主的指導と権威的指導の違いは、リーダーの権威が随行者の側からのrole(役割)の信託(trust)に基づいているか、つまり随行者によるtrustの撤回=指導者の変更が制度化されているかどうか

 ミヘルスは戦闘的な民主主義政党ほどOligarchie(寡頭制=オリガルヒ。元のολιγαρχiαというギリシャ語の意味は支配する選ばれし者。少ないという意味のオリゴ+首長という意味のアルケ)の傾向が強化されるなど、ヨーロッパの社会主義政党の研究から少数者による多数者に対する支配が必然的に実現される「寡頭政治の鉄則」(Das ehernes Gesetz der Oligarchie)を提唱した(p.123)。

 このあたりを読みながら、難航している参院合区解消へ向けて総裁直属機関の設置を検討するという自民党なども、ますますその傾向にあるな、と感じます。

 ラスウェルはリーダーのタイプをCrowd compeller(強制者), Crowd exponent(主導者、解釈者), Crowd representativeに分けているが、ガリバルディ、ナセルなどはCrowd exponent(主導者、解釈者)でリーダーシップの統合過程を通じて、Latent(潜在的な)、また漠然とした感情・要求を顕在化させ、より高い集団意志に統合した。そうした過程を通じて成員の集団への帰属意識を強め、指導者との同一化(われわれのリーダーだという意識)が促進される。

 Crowd compeller(強制者)は創造的リーダーシップで、マホメット、カルヴィン、トマス・ミンツァー、クロムウェル、ナポレオン、カンジー、レーニン、孫文、毛沢東などで、彼らは世の中のイメージの核を変えた、とも。

[結語]

 リーダーシップへの要請が指導者主義(特定指導者の神化、万能化)に転落する危険性と、逆に民主的政治過程がリーダーシップ抜きの無責任とindecision(優柔不断)に陥る危険性に対処することが重要。

 指導者主義の発生は根本的に随行者、卒伍の責任。

 また、悪しき指導者への糾弾は、これを更迭し、自らの集団内からこれに代える良き指導を生み出す能力と責任によって裏付けられないかぎり、積極的市民の政治的批判とはいえない。

 指導者個人にたいする悪口がいくら盛んでも、民主的な言論の自由が行使されているとはいえないし、そこからはリーダーシップを他人事でなく、自己の問題として打開していく姿勢は生まれない。

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September 04, 2016

『丸山眞男講義録3』#2

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 3巻は最初にも書きましたが、この政治学の講義は60年安保闘争が終わった直後の下期から約半年間行われました。その結語で丸山眞男は政治学が進むべき方向として、一般市民の日常的立場から操作的operativeなものであり、操作的なもの、可変性を含んだものとして現実をみて、政治オンチを脱することが重要だとしています(p.210-)。講義も主体である自我から始まって、集団化、指導、政党・代表制の問題へと上に向けて行われ、あくまで個人が中心であり、制度は固定されたものではないものの、混乱もまた問題だ、みたいなことも語られていきます。

 だから第一講では《政治の場では、認識主体と客体との相互移入関係が存在する。俳優でない観客はいない、芝居を演技しながら、芝居を見る。見ることで芝居が進行する(観客も常に俳優なのである)》ということが強調されていたんだな、と。

 そして《具体的状況での政治的選択は、つねに相対的に良いもの、あるいは悪さ加減の少ないものの選択》で、政治はやってみなければ分からない要素があり《一般原則によって汲み尽くされない賭けであるからこそ、それは自分の責任における賭けなのである》と個人がactorとなって政治に参加することで、状況も刻々変化する、ことを語っていたんだなと。

 第二講では集団化の問題を取扱います。

[第二講 政治的態度の形成と変化]

[1 政治的分析の諸方法]

 デモクラシーの発展によってフォーマルな制度だけでなく、社会集団の政治的機能と、そうした集団の統治主体および制度に及ぼす作用と反作用が注目されるようになりました。

 さらに上下の相互作用だけでなく、内外の相互作用も視野に入ってくるとして、上下の相互作用を象徴する思想家がマルクスだとすれば、第三段階を象徴するのはフロイトだとしています。

 岸田秀さんは"フロイトは本当は集団分析を個人分析に使ったのだ"と唯幻論を飽くことなく繰り返していますが《一定の心理傾向と政治状況との函数関係への着目は、すでにアリストテレスの政治学にもある》ということは、そうした視点が丸山眞男にもあった、ということでしょうか。

 ここからヒュームの「いかなる専制政治も人民の意見に基礎を置いている」という言葉を引き、テクノロジーの発展が個人の人格内部の葛藤や緊張からのカタルシスが政治行動として放出される現象が出現した、として政治的状況における相互作用関係のアプローチは様々あるが、一般市民が自分を政治に関連づける方法を考える場合「行為者の内から(行為者のmotivationから)」から考えることを選択します。

[2 政治的態度の形成と変化]

 私は同一化を通じて「われわれ」となる、と。政治の場に登場するactorsは「われわれ」→社会化された私であり、他者に伝達され共鳴者を見出す=Shared Image化されることを期待するとして「私は日本人」「私は大学生」「私は××党」というのは、みな同一化のシンボルだ、と。

 要求とはある事物へのヴァリエーションの表現で、価値とは欲求された目標としての出来事であり、「もう第3次世界大戦は起こらないだろう」という期待のステートメントには同一化も要求も伴わず、楽観的期待と悲観的期待があるだけだ、と。

 さらに、信念とは感情化された期待、忠誠とは感情化された同一化または要求、態度は同一化・要求、期待が行為によって表現される際に、その行為を完成しようとする傾向であるとした上で、actorである「私」から出発します。

 他のactorや場(field)に対する態度形成のプロセスをモデル化する際に、有機体とはセンスを通して出来事を受け取り、センスを通じて反応する、と何回も開講の辞などで示してきた認識論を紹介。また、テレビには新聞よりも意識的選択の指の間からこぼれ落ちる砂が画面に入ってくる、という評価も与えています。

 そして、個人の価値秩序(生命、安全、富強、平穏、地位、学問、芸術など)に照らして、より高い価値を追求、維持、獲得できるチャンスが多いほど、世の中を快適と思う、としてローウェル、ロシターによる政治的態度の理念型を紹介します。

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 ローウェルの図式で重要なのは、4巻の鎌倉仏教でも触れられた図式のように、4つに分けられたディメンションを個人が動く場合、必ず右旋回か左旋回し、斜めには動かないこと。

 さらにロシターのchangeに対する7つのattitudeの図が紹介され、Liberalismは現在の生活様式に満足しているし、conservativeも変化が人生と社会のルールであることは知っている。ただShowdown(勝負どころ)でLiberalismは安定より変化を、conservativeは変化より安定を選ぶ。改革に楽観的か悲観的かの差がでる、とします。

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 このあとローウェルのLiberal(L、リベラル), Radical(R、ラヂカル), Reactonary(Rea反動), Conservative(C、保守)の4つの分類を元に、その割合によって安定的な社会、前進的で実験的な社会であることを説明していきます。

 ローウェルの分析は《世の中に対する人々(actor)の期待(出来事のイメージ)が自我の要求にどのように影響するかを定式化したものとして先駆的意義をもつ》とのこと(p.67)。

 ちなみにCが独立からフロンティアの消滅までのアメリカや維新期から明治期前半の日本で、こうした社会は支配層が改革的だとしています。

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 また《リベラルがラヂカルよりもコンサバティブへ移行する場合は、将来の社会をつくりかえて改善していく展望が縮小していくテンポが、現状に不満足になるテンポを上まわっている》としていますが、これって、いまの先進諸国じゃないですかね。

 丸山眞男はさらに《若い世代が早くから世の中に満足し、享楽する場合には、Radicalsの一般的噴出が枯れてくることを意味するので、その社会の停滞性の重要な兆候といえる》とも。

 日本の場合、民主化は敗戦後にアメリカのニューディーラーたちによってもたらされましたが、これによって《革新政党が「現在すでに得た価値」に満足し、それを失うまいとすること、保守党が現状に不満である》というねじれを生みます。原水爆禁止問題や安保闘争でも、そうした「保守意識」からの大衆運動というモメントが含まれている、と。

[3 政治的態度の構造]

 ラヂカルな行為は必ずしも態度としてのラヂカリズムに照応せず、自己欺瞞からそういう行動をとっている場合もあるとして《あてにならないという点では、言葉も行動も同じである》と。

 《価値(安心・財産等)が脅かされるという恐怖感、あるいは団結者にたいする嫉妬感、自己の孤立感(不安感)といった心理的媒体によって、はじめて客観的条件と、人々の政治的反応の仕方とが結びつく。歴史的にも見ても、社会のラヂカルな変革運動を抑圧することにもっとも熱心な声は、しばしば、財産と所得において上位に位置する層よりもむしろ中間(middle)から下層中三層(lower middle)に属する人々の間からあげられるのはそのためである(プチブルの動向の決定性)。支配層は、これを利用する》

 《大衆の消費生活が向上し、平均化が進むにつれて、かえってきわめて小さな不平等(限界差、marginal difference)が不満(status anxiety)を引き起こすようになる》というあたりを、1960年の段階で予言していたのは、凄いな、と。

 さらに、こうした問題をロンドン軍縮条約や戦後の米ソ核開発に敷衍して《心理的要因が政治の世界で独自のファクターをなしているかが分かる》と。

 「威信とは、他者の自己についてのイメージ」というあたりも、なるほどな、と。

[4 政治的無関心の問題(権力状況からの引退の態度)]

 ローウェルの分析は、人々が世の中を動かすことに関心を持っているとこが前提となっています。それは経済法則が高い利潤より低い利潤を望む人間actorを想定したら成り立たないようのと同じだと(p.64)。しかし、政治に関しては、実際はそうなっていないとして非政治的態度の三類型をラスウェルに従って示します。それは1)無政治2)脱政治3)反政治。

1)無政治は芸術家や学者に見られる、特定領域への関心の集中やコミットメントが高度である反射としての無関心
2)脱政治は政治的幻滅に基づく関心度の減退(期待・要求が大きければ幻滅も大きい)
3)反政治はアナキストやある種の宗教家

 政治的関心が高い人間が脱政治的態度に移行する場合、人格構造は不安定になり、その結果ダイナミックな政治行動として再噴出する可能性があるが、政治嫌悪が更新すると反政治的確信に基づいて政治行動を起こすというパラドックスも起こりうる。後者の場合、Lesser evilの観念がないから、bestを求める心情的ラヂカリズムによってworstな結果をまねくことがある。

 また、ダイナミックな政治行動として再噴出する場合も、無力感をひめた参加は、実質的にアパシーに近くなる、としてナチ運動を支持した大衆心理を説明しています。1930年のナチ大進出の投票行動を調べると、前回まで棄権していて、この時の選挙でナチ党に投票した者が非常に多かった、と。それは非合理的情動的選択だった、と。

 現代はイデオロギーの時代だとはいわれるが、19世紀の偉大な思想家によって生産されたイデオロギーに寄生し、寄食している時代だ、とも。

 また、ヴェーバーのいう意味でのBetrieb(持続的方法的経営)の発達、専門化と分業化の進展は、それ自体まさにアパシーの発酵源にもなり、こうしたアパシーの日常的な浸潤は、デモクラシーの胎内を蝕み空虚化する、と。

 ミルズがアメリカのホワイトカラーのアパシーをinactionary(無行動的)としていましたが、60年後の日本も、それかも。日本のアパシーが深まったのは、実質的な決定を行政が行い、再配分を労組や圧力団体で競うという現実も関係していたかもしれません。

 また、《態度として積極的に進歩的でも保守的でもないということは、政治的状況における意味としては、ヨリ保守に加算される》という見立ては、なるほどな、と。

 丸山眞男は、この第三講を締めくくるにあたって、デモクラシーの考え方は、政策の良否を最終的に判断する資格があるのは、その立案者ではなくて、その政策によって影響を蒙る者だというところに根ざしているとして、《場にあって場をこえた展望を持ち、場にあって生活と拠点をもった―東奔西走の志士的活動でなく―パブリックな関心と行動》を持ち続け《大衆に根を下ろした貴族主義が必要》だとしています。

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