『丸山眞男講義録1』
『丸山眞男講義録1』丸山眞男、東京大学出版会
去年は『丸山眞男講義録』を逆から読んでいたんですが、1だけ抜けていました。メモがなくなってしまって…。不完全ですが、忘れないうちにアップしておきます。
講義録を読む前は、正直、丸山眞男に関しては断片的な理解しかできていませんでした。主著と見なされている『日本政治思想史研究』は江戸時代の儒家に関するものですし、 岩波新書の『日本の思想』を除けば、読書家と呼ばれる人ならばこれぐらいは読んでいると思われる『現代政治の思想と行動』は論文集であったりと全体像が掴みにくい。
こうした感覚を変わるキッカケを与えられたのは、長谷川宏『日本精神史(上下)』と『丸山眞男をどう読むか』を読んでからでした。長谷川宏はヘーゲルの翻訳を終えた後、丸山眞男批判に向かいます。『日本精神史(上下)』はいま思えば講義録7巻の批判的註解だと思いますし、長谷川宏の丸山批判の出発点だった『丸山眞男をどう読むか』では、吉本隆明の共同幻想論が丸山眞男の日本史古層論と柳田國男の民俗学のハイブリッドという構造を持っていることも初めて理解できました。
講義録七巻を読み終わって、丸山眞男が解き明かしたかったことは、改めて日本史の特殊性だったんだろうと思います。そして、そのモチベーションは自身が従軍中に被爆まで体験した(そのことを明かすのは最晩年でした)、太平洋戦争の敗北に向かう昭和史に対する情けなさだったんだろうな、と。
講義録1は1948年度の講義をまとめたものですが、それは1940年から44年にかけて発表された『日本政治思想史研究』を構成する三つの論文のうち、前半の二つを引き継いだもので、最後の『「国民主義」の前期的形成』は義録2で講じられています。
『日本政治思想史研究』は戦前のファシズム的歴史学に対抗し、《周囲の「近代の超克」や「否定」の高唱に対して、「明治維新の近代的側面、ひいては徳川社会における近代的要素の成熟に着目」》し、そこを《必死の拠点》としようとした問題意識に支えられています(この引用は『日本政治思想史研究』の「あとがき」にあったものですが、以前はまったく目に止まりませんでした)。
講義録1の《いかなる歴史的認識も一つの自己認識である》という開講の辞の言葉は、後年の大家という目線で発せられたものではなく、抵抗宣言として読むべきなのかもしれません。
48年度講義は、歴史意識が思想史における決定的契機として強調され、こうした歴史意識の台頭は「西欧的思惟の体験した最大の精神革命」であるという引用もなされていますが、それは《「日本の儒教内部に於ける歴史意識の成熟」は、それだけに「マイネッケのいう以上に、全東洋的思惟世界に於ける最大の精神革命」》であると同時に、そうした偉大な歴史意識を形成したにもかかわらず《「日本に於ける歴史意識が、歴史的現実(status quo)の維持に結びついていることは、ザッハリヒに物を見るために、その歴史的事実を肯定することになるということであり(cf.本居宣長)、他方これに反し、変革的思想は、抽象的公式主義の形で推進されることになり、この二面の特殊性こそは、日本的歴史意識の宿命を端的に示すものである》とも語っています(解題にも引用された本書p.288)。
それはもっと具体的にいうと《歴史意識は保守的感覚と結びつき、自然法的思惟と革命思想とが結びつく》《進歩の立場が抽象的なものと結びつくと公式主義に堕するのである》ということでしょうか。講義録に沿っていえば、自由民権運動がナショナリズムとインターナショナリズムに分裂し、前者は昭和の超国家主義につながり、後者は大衆的な広がりを持つことなく霧散します。こうしたことは日本だけでなく、リベラルレフトの考え方は、どこから抽象的で広がりを持てず、いつの間にかポリティカル・コレクトネスをめぐって仲間内のつぶし合いに終始するようなことに反映されているのかもしれない、と感じます。
丸山の戦後初の試験問題は以下でした。
《諸君は我国が思想史的な意味での「近代」を既に通過したと考へられるや、将来の方向と関連して諸君の自由な見解をうかがひたい》
戦後、保守勢力以外が権力を握ったのは敗戦直後の片山・芦田内閣、高度成長期が終わった後の細川連立内閣、失われた20年が続いている中での民主党政権だけで、しかも、いずれも短命に終わっています。これらの政権にしても、本当の変革を掲げられていたのか、という疑問は発足当初からありましたが、その崩壊後の嫌悪感の蔓延たるや、江戸時代から続く歴史的現実の維持と結びついた大衆教育の強さを思い知らされます。
開講の辞で丸山眞男は『ヘーゲル法哲学批判序説』の「理論(Theorie)も大衆(Masse)を把握すれば、物質的(material)な力に転化する」というマルクスの言葉を引いていますが、批判的精神をもって歴史的感覚と歴史という二重の構造において捉える歴史的認識を得ることは、まだ、ぼくたちの課題ではないでしょうか。
目次は以下の通り。
序 開講の辞 思想史の方法論について
第一章 徳川封建制の機構と精神
第二章 伝統的イデオロギーの諸形態
第三章 近世儒教の興隆とその社会的基礎
第四章 初期朱子学者の政治思想
第五章 朱子学的世界像の分解
第六章 元禄・享保期の社会と文化
第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成
第八章 石門心学の勃興とその展開
第九章 近世後半期の社会及び思想の大勢
第十章 国学思想の発展
付章一 中期朱子学派の景況
付章二 安藤昌益
付章三 結論
『講義録1』は朱子学が徳川幕藩体制を支えるイデオロギーとして朱子学が採用されたが、やがて徂徠などによって克服され、日本独自の歴史意識の成熟を生むという東洋世界における最大の精神革命をなし、その中には、原始共産制への回帰をも連想させる安藤昌益などもいた、という流れになっていると思います。
[第一章 徳川封建制の機構と精神]
[第一節 徳川封建体制の歴史的位置づけ]
丸山眞男の講義録では目から何枚も鱗が落ちましたが、その一つは徳川幕藩体制によって中世からの荘園が解体された、というクリアカットな指摘でしたが、それは鎌倉時代からの武家一円支配の完成を意味していました。
中世荘園は公家と武家が重畳的支配を行っていました(上地・下地)が、やがて荘園の自足性の崩壊、経済圏の拡大とともに、地頭一円支配へと進展。織豊体制の集権制は大名支配を破壊できませんでしたが、徳川幕府は、旧勢力を無力化するとともに、農民と都市商人の勃興をも抑圧して封建的支配体制を完成させました。農民や都市が負けたのは《「西洋以外のどこにおいて、領主の軍隊が都市よりも起源が古いということのため」》(ウェーバー、経済史、s.275)です。
封土(レーン)を家臣に分配して、その代償として忠誠義務を負わせるという徳川体制は封建的生産関係を揚棄できず、上層に若干の絶対主義的な外見を纏っていました。
また、農民は土地に対する用益権(プレケース=請願に基づいて譲渡される恩恵的土地貸与および貸与地をさすプレカリウム)を持つだけの存在ではなく、収益権を私的な所有権にまで高め、領主も知行権を公的色彩の強い徴税権に昇華させていった。
徳川幕府は、人民に対する直接的支配は天領に限られていたが、大名を自己の地方行政官のように駆使した。こうした権力の集中は欧州の封建国家には見られず、近世の専制国家に傾斜しており、多くの武士は土地との直接的牽連を喪失、サラリーマン化した。
城下町に集中した武士は消費生活のために、扶持米を貨幣に替えなければならず、それは都市の発展に伴い《札差、掛屋、蔵元等を先頭とする高利貸資本、土木請負業者、貨幣鋳造業者、運送業者等々を先頭とする商業資本へ、ますます多くの貨幣資本が蓄積されることを意味した》。
また、《農民の手に余剰生産物を蓄積することが不可能な場合、貨幣経済の浸透は、決して農村を近代化するのではなく、東エルベの
日本の農村の停滞は著しく、相対的過剰人口は家族的奴隷に転化して生産性の向上は阻まれるか、城下で浮浪人や乞食、博徒となって治安を脅かした。
丸山眞男は『剰余価値学説史』から《自由労働、世界市場、旧社会の解消、一定段階への労働の発展、諸科学の発展―が存在するに至った時期において初めて、高利は新生産方法形成手段の一つとして現れ…要するに資本としての労働諸条件の集中手段として現れるのである》というところなどを引いて、江戸自体の町人階級は、社会的価値を移転するのみで、なんら価値の生産者ではなく賤民資本だ、としています。明治時代の苛酷な原始資本の蓄積をみても、徳川時代のマヌファクチュアの発展を過大視できない、と。
また、「権力なく権威」としての天皇は古くから存在しており、農村における家族共同体の存続と家族主義イデオロギーは、天皇崇拝の根拠を提供した、とも。こうして幕末までマヌファクチュアはさほど発展せず、封建制に真正面から対立する政治力の成長も阻まれた、と。
[第二節 徳川社会の社会・精神構造]
武士・僧侶・神官、そのた一切の不耕貧食階級を否定し、万人耕作の理想社会建設を説いた安藤昌益を除いて、体系的に封建体制に対立した思想は皆無に近い。
《われわれは思想構造の内面に深く立ち入って、下部構造の解体に媒介されながら隠微のうちに新公していくところの封建的思惟方法の腐蝕と崩壊を辿らなければならぬ》。
愚かな政治家が出ても差し支えない機構をつくることが近代政治思想の問題ならば、悪い制度機構の下でも賢明に支配する政治家をつくることが封建的思想の第一の課題。
江戸時代は一定の場で起こったことはできるだけ、その場で解決させることを特色としますが、近代国家は平均化された国家公民に直接対峙せしめるところに成り立ちます。封建社会の袋小路に分散化された政治的価値が中央に擬集されるにつれて、市民生活の活動は個人の生活へ沈下しますが、それは「国家のイデアリズムの完成は同時に市民社会のマテリアリスムの完成であった」というマルクスの言葉も引かれます。近代国家の特質は、特殊なものを一般的なものにまで還元し、法を媒介に間接的に階級支配する点にあるのだ、と。
[第二章 伝統的イデオロギーの諸形態]
第一章では徳川封建制の機構と精神形態が語られましたが、その支配的イデオロギーはもちろん儒教思想でした。第二章では、なぜ儒教、特に朱子学以外のイデオロギーが、適格性を欠くことによって圧倒されていったを明かして消去法的に儒教による制覇を語ります。その後、積極的な分析は三章で行われます。
[第一節 神道]
神道が教義としての構造を持つに至ったのは、平安末期に仏教の教理によって基礎づけられた習合神道からであり、常に仏教に思想的基礎を仰ぎ、核心は本地垂迹説でした。鎌倉時代に入ってからの外宮神道と北畠親房などの神道も基本的には仏教に依存しており、思想的な独立は復古神道によって成し遂げられます。
仏教に教義内容を負っていた神道は、吉田神道によって仏教から解放されますが、なんと儒教擡頭に対応して、廃仏論を展開するに至ります。
神道はその時代の主流的イデオロギーを基礎に仰いできましたが、近世の神道は神儒合一なのが共通点となります。
しかし、そのようにうまく儒教へ乗り換えたことにより、神道は宗教的特質を希薄化させていきます。仏教の末法思想に対する此岸的な生活倫理を強調するという役割は、儒教という徹底的に此岸的なイデオロギーの前に意味を失うのですが、やかで宣長から始まる国学思想によって、初めて注目すべきイデオロギーてき迫力を発揮するに至る、と。
[第二節 仏教]
仏教は中世であらゆる生活、文化領域を支配していましたが、徳川時代にはその権威を失います。
それは《仏教の持つ末法観に漂う本質的なペシミズムが、近世初期に社会的安定の回復とともに現実主義的、楽天的、肯定的な生活態度によって反発を受けた》からであり、《近世になって武士が都市に集住し官僚としての生活態度が一般的になっていくと、そこで必要とされるのはノーマルな状況での集団倫理》となった、と(p.58)。
しかし、ひたすら来世を求めるという彼岸性は、実は蓮如による浄土真宗の世俗化などをみても薄れてきており、世俗的な勢力の失墜が思想的勢力の無力化に拍車をかたともいえる、と。
仏教の興隆をもたらしたものは、俗的権力との結びつき(特に公家勢力、荘園所有者)であって、純宗教的なものではなく、思想的没落も俗的権力の没落を反映したものとなった、と。さらに破戒僧の存在は、儒者の廃仏論に実質的根拠も与えることになった、と。
[第三節 キリスト教]
1549年にザビエルから伝えられたキリスト教が急速に普及したのは1)封建領主をキリシタンが獲得することに努力を集中したのと同時に2)封建領主側も仏教や寺院勢力に対抗するためにキリシタンの力を借りたから。
その思想的影響は学校教育と出版によって行われ、禅僧出身のファビアン(修道女と駆け落ちして棄教した後はキリシタン迫害に廻る)の『妙貞問答』のような高度な神学も展開されたが、一般民衆に受けいれやすいように十戒などをアレンジした『とが除き規則』の第四条では「父母ニ孝行スヘシ」など上下関係の倫理を包括していました。
『とが除き規則』の第一条では「御一体ノ君ヲ「天主」(万事に超えて深く)大切ニ敬ヒ奉ルベシトノ事」のように対既成宗教では妥協を拒否するものの、対社会関係では円滑化を図る内容になっています。
ここらへんを少し補足すれば、 福音書では「わが母、わが兄弟とは誰ぞ」(マルコ3:33)とラジカルに親子関係を相対化した言葉をイエスに語らせていた原始キリスト教が、布教期に入るとパウロのように「凡ての人、上にある權威に服ふべし。そは神によらぬ權威なく、あらゆる權威は神によりて立てらる」(ローマ13:1)のように訓えたということとパラレルになっています。
丸山眞男の評価は《支配層には民衆に対する過当の搾取をいましめ、非支配層には、支配層に対する義務の遵守を説き、かくして全体として、当時の社会関係の円満化をはかったということである。日本に入ったキリシタンはヨーロッパ中世に於けるカトリックが然りし如く、封建的支配関係をば、むしろその政治的前提としていたのである》(p.70)というもの。
キリシタン禁圧の原因は複雑ですが、荘園支配を打破するための廃仏の手段として利用されていたものが、統一政権の確立で不要となると同時に、大名の分離主義的傾向が警戒されたためではないか、と。
《かくてひとり儒教が、とくに鎌倉時代に入り来った宋学が、近世封建社会の確立と共に急激に蔓延して殆ど思想界を独占するに至る》(p.74)わけです。
[第三章 近世儒教の興隆とその社会的基盤]
[第一節 徳川封建社会の儒教的適格性=徳川社会の体質]
儒教は欽明天皇の頃には仏教と並ぶ影響力を持ち、十七条憲法にもそれはみられる。しかし、漢以後は五経の訓詁学となり思想的に低調の一路を辿り、唐代には仏教に圧倒されていた。
中国では宋学が起こって訓詁学を一変させ、仏教哲学を摂取することで初めて雄大な思想体系を立てた。日本にも鎌倉に入ってきて、『資治通鑑』に代表される名分論は、南北時代にマッチして北畠親房の『神皇正統記』に影響を与えた。そして戦国末期に藤原惺窩が朱子学の新鮮な体系を解放し、それを林羅山が継いだ。
儒教はシナの読書人(官人=マンダリン)のイデオロギーであり、本来、武人を支配者とする封建社会に適合しないはずだが、文治官僚的側面が幕藩体制の創始者たちに重視された。それは武士が《ちょうどシナの読書人と同じく、自らの生産的基礎をもたず、庶民の勤労の上に徒食する階級に転化したからして、戦争が終焉するかぎり、武士そのものの社会的存在根拠が失われた》から。また、民を教化することにも適合した。《従ってそこでは政治は必ず道徳学問に連なり、道徳学問は必ず外からの、もしくは上からの教えという形態をとった》(p.78)。
ギリシャ以来の西洋ではロゴスが客観的真理であり、真理の前には教師も弟子も平等だが、儒教はその逆。《かくて道徳は良心に基礎づけられずして権威に基礎づけられる》(p.79)。
天子・諸侯・卿・大夫・士・庶民(農工商)という儒教のヒエラルヒーは将軍(大君)・大名・家老・その他一般武士・庶民となり、大名は諸侯、家老は大夫、武士は士と呼ばれた。儒教が日本に入って以来、徳川時代ほどその社会倫理が図式的に適合した時代はない。
[第二節 儒教に於ける朱子学の支配的地位]
[一 朱子学発展の沿革外観(通説的解説)]
朱子学は五経(易経、書経、詩経、礼楽、春秋)中心の訓詁学とは異なり、四書(論語、孟子、中庸、大学)を中心とする義理の学を前面に押しだした。中でも重視されたのは大学。
周茂叔(周敦頤)の『大極図説』は易に基づいて展開された宇宙生成論であり、こうした形而上学は仏教との対抗上、要請され、その弟子である程明道・程伊川の二程子はさらに哲学的に発展させた。
[二 根本原因=大極=理]
大極という根本原理から万物が派生するという構造で、伊川から朱子に至って「理」となる。それは「真実無妄の誠」として倫理的性格を帯び、西洋哲学とすでに根本的に異なる。理はアプリオリなものだから、経験的存在は「気」によって形を賦される。根本静である理から万物が生ずるのは気の作用。これが理一分殊。
宇宙は万物に理を内在した一大有機体であり、もっとも秀なる気を受けた聖人を最上位として、社会の位階的秩序が成り立っている、と説明される。これは倫理性を度外視すれば、ヨーロッパ中世の神学におけるアリストテレス的論理(形相と質料のヒエラルヒッシュな体系)が中世身分的秩序の基礎付けになったことと似ている。
[人性(人間)論]
宇宙の根本原理であり大極=理は本質である以上、人間をも規定し、大極=理を人間精神についていう時は「本然の性」と呼ばれる。ここにも運動を理そのものと見ないキエティスムス(静寂主義)が存在するが、これは仏教の影響。《人欲は情から起こり、情は動くところに発するから、静坐して内省すれば、未発の中を養い、天理が顕現する》(p.85)。
天下のものに理のないものはないので、『大学』に由来する格物窮理(理を窮め性を尽くし以て命に至る)から客観的対象への志向も生まれるが、仏教的悟りを狙っているので不徹底とみなされるようになる。このため、直截に倫理的修養の途をとる陸王学、仁斎学と、客体に即する態度を主張する山鹿素行・荻生徂徠に分かれていく。
また、窮理は近代合理主義と程遠いにしても、徳川中期には自然科学を刺激し、幕末にはも西洋自然科学が窮理の思想によって紹介された。
[四 陽明学の思想的性格略説]
気のモメントが希薄化し、主観的色彩が濃くなり「心学」と称される。心=理の考え方から、宇宙は心の中にあるとされ、客観的なものが軽視された。中江藤樹も陽明学的色彩を明白にしたのは晩年であり、日本で陽明学は系統的な発展は遂げなかった。
[第三節 朱子学的世界像の社会的意義]
ウェーバーによれば儒教は「世界に対する分裂を、世界の宗教的蔑視の意味でも、世界の実践的排斥という意味でも、絶対的ミニマムに縮小した合理的倫理」。善=道=自然的秩序=礼を通しての社会的秩序への順応であり、悪は社会秩序への背反であるとして根本悪を知らない。
封建社会に於いては何人も客観的環境の中に没入し、主体的意識を持たない。
これに対してヨーロッパのアウグスチヌス主義は世界を罪悪視するので自然法成立の余地はなく、規範的なものは神や支配者の外部的命令として来るので、人間の本性に内在しない。
それに対してトマス主義は神的法則を人間理性に内在せしめ、世界を罪悪の場所から神によって祝福された調和的秩序へと転回させた。アリストテレスに倣って人間は生まれながらに社会的・ポリス的(政治的)動物であるとして、原罪による堕落的産物ではなくなった。
ウェーバー流に言えば「トマス主義は、嘗てキリスト教が有したなかで、世界に対する対抗・緊張関係をミニマムに縮めたところの、最も雄大な体系」。
上下関係から把握された自然秩序を以て社会秩序を根拠づけるという循環論法は似ており、スコラ哲学が崩壊に至る過程は日本において朱子学が解体される過程と類似する。
[第四章 初期朱子学者の政治思想]
[序説]
初期の朱子学者は経典のみを学問として、リアルなものに直接目を向けようとしない東洋的学者の伝統を継承し、独創性に乏しかった。
修身斉家治国平天下の論理的必然連関を説き、政治を個人修養の問題としてしまう朱子学では厳密には政治思想はなく、客観的制度は軽視される。こうした政治的メカニズムへの蔑視は東洋社会では根強いが、封建社会とともに崩壊する。
[第一節 制度論・機構論の欠如]
初期朱子学者には政治的支配者の個人的人格の問題が前面に出てくる反面、制度論・機構論は全く見られず、非合理性に対する認識が欠如している。これは社会的分業が極めて低位にあることと関連する。
[第二節 「職分」思想]
位階制的社会秩序観には職分の観念が内在している。個物が全体の中に有機的に組み入れられている。職分は個物を個物たらしめているものであり、下層部には分限思想が、統治者には仁政思想が生まれる。仁政主義は君主としての職分にほかならない。
[一 被治者の職分としての「分限」思想]
家康の「うへをみな、みのほどをしれ」は分限思想の最も圧縮的な表現。そして分限思想は朱子学的自然法のうちに最も強固な理論的基礎付けを持っている。
中江藤樹は「気」に精粗を区別するという理論から人間の社会的差別、政治的支配関係の合理化を試みる。一方、林羅山は正反対に「元はといえば同じ」という理一分殊から差別を基礎づけており、《大極=天理の万物内在が平等の理論でないことがこれでよくわかる(近世自然法との相違)》。また、雨森芳洲の社会的分業からの封建支配の基礎付けは『孟子』に由来する。
個人の人格形成は、人欲を天理によって抑圧することでなされるが、そのイデアールなものは超越性を持っていない。
また、天理に従うことは、《法に服従することが人間精神の本質であり、人間の内面的価値の実現なりとするヘーゲルの考え方に、現象的には一致しているように見える。しかし両者を決定的に分かつものは、「自由」の概念の有無にある。ヘーゲルにあっては、法は自由の対象化、具体化であり、それ故にこそ法への服従はすなわち、抽象的自由のヨリ高度の段階に於ける実現とされるのである》。
朱子学では、社会生活への順応が道となり、社会的習俗伝統に内在する非合理性はかえってそのまま肯定される。かくて朱子学は一方ではイデアリズムへ、他方は自然主義へと分裂していく。
[二 統治者の職分(義務)としての仁政]
慈悲慈愛の政治は民衆に対する苛斂誅求の否定、為政者の私的享楽の抑制の教説となってあらわれる。
封建的農業はせいぜい同一規模の再生産であり、商品貨幣流通に伴う武士の生活費の騰貴に対処するためには絶えざる消費の抑制しかなく、結果的に私的享楽の否定が達成された。
また、有徳君主思想が説かれる時にも「天」の地位に皇室が置かれ、武家政治の交替を儒教的革命思想によって合理化されたが、これは彼らが日本の現実と儒教的革命論のギャップを看取できなかった証拠となっている。しかし、だからこそ、その彼らが尊皇論の最初の提示者となるというパラドクスをも生む。
[第三節 儒教思想と尊皇論]
林羅山、藤原惺窩は排仏論を展開して神儒一致を基礎づけようとした。徳川幕府の御用学者である林羅山は尊皇論の祖でもあるが、尊皇論が反幕となるのは、幕末の逼迫した政治社会情勢によって。
日本主義的ウルトラ・ナショナリズムは垂加神道と平田篤胤系の神道がある。垂加神道は禁欲主義のファナティシズム。後者は感覚的解放が国家に投影されたものとして汎日本主義に通じるが、両者のあざなえる縄が後年のウルトラ・ナショナリズムとなる。
山崎闇斎は天皇に対する倫理的価値判断を一切しりぞけて、敬虔主義に徹底するので、儒教的規範主義とは相容れなくなる。言語学的こじつけ分析こそ、狂熱的日本主義の特質であり、平泉澄は山崎闇斎型だった。
[第五章 朱子学的世界像の分解]
[第一節 斯界の大勢]
元禄までに儒教は興隆の一途を辿り、会津の保科の下には山崎闇斎、岡山の池田には熊沢蕃山、水戸には水戸学が生まれた。
しかし、最盛期において没落が準備されるように朱子学的世界観と近世封建社会とのギャップは拡大。
それに対応して、朱子学的世界観に固執して現実を斥ける佐藤直方、朱子学を現実にひきつけて解釈する貝原益軒、経験的現実を尊重して朱子学に拘泥しなくなる熊沢蕃山などに分かれ、やがては朱子学に対立する古学派を生む。これらは合理主義と歴史主義、自然法主義と実定法思想の対立という普遍的な問題が徳川時代に生起したものにほかならない。
[第二節 朱子学的思惟構造の分析過程]
《朱子学的思惟方補の分解はまず形而上学の領域で開始された。それは、脂油史学に於ける理=大極の実態的仕様越的性格が漸次後方に退いて、気=陰陽五行が前面に出て来て、理はむしろ気の理として経験的自然に内在する条理という意味に推移した》ex.伊藤仁斎。朱子学的思惟方法の全面的崩壊に最初の衝撃を与えたのはまさにこの気理論だった。
理=大極の超越より内在への変化は、ヨーロッパ中世の普遍は実在すという考え方(universalia ante rem)より、実在するは個物にして、普遍は抽象的な名目にすぎぬという考え方(universalia post rem)の推移と共通している。
朱子学では
1)アプリオリな理から万物を演繹する立場から、経験的事物すものに即するようになり、徂徠学のような実証主義を生む
2)静の理から動の気に優位が移ったことは動態観への展開をもたらした
3)道徳も動的実践において把握されるようになり、貝原益軒に朱子学へ反旗をひるがえさし、山鹿素行もドグマへの執着から自由を説くようになる
4)性善説を基礎づけていた理の気に対する優位が崩れることで、善悪相混じた人間性が気質の性として認められることに至る。これにより、朱子学の根本構造である人間に妥当する規範と宇宙法則との自同性が破壊される
5)赤貧洗うがごとき生涯を送った伊藤仁斎からも人欲を滅尽することは人間の感覚的存在を否定することにつながる、という批判が生まれ、朱子学の歴史書に見られる歴史的人物に対する峻厳無比な道徳的批判にも反発が生まれる。そこには元禄~亨保で高まっていく貨幣経済の進展に伴う生活の動態化、欲望の多様化が反映されている
6)人はみな成仏できるという大乗仏教に対抗して、朱子学は「人はみな聖人たるべし」と主張したが、人欲の滅尽はこの命題の否定につながり、そこから原始儒教に復帰してVirtuoseとしての聖人君子を一般人から異質化していく方向に帰結する。ここに「礼」が重要な意味を帯びてくる。
7)それは律令という法律制度の尊重に結びつく。熊沢蕃山は参勤交代や米の大都市への集中による輸送費高騰が困窮を生むと指摘するに至り、古代農兵制を理想とした。
8)自然法思想では移ろいゆくものは仮象と考えられたが、ヨーロッパにおいては十九世紀に歴史意識が台頭した。それはマイネッケにいわせると「西洋的思惟の体験した最大の精神革命」だった。
ヨーロッパ思想史は、空間的、円環的、完結的、幾何学的なギリシャ思想と、人間的、時間的、内面的なヘブライズムのおりなす綾だったが、東洋では精神に対する自然の優位が古来圧倒的だった。
従って日本の儒教思想の内部に於ける歴史意識の成熟は、中国思想史の単なる複写を免れた精神革命だった(しかし、歴史主義は全てを相対化する。ニーチェが人間的生の峻厳を主張したのも歴史主義への反発だった)。
日本での歴史意識は主に保守的面のみを表出した(Status quoの維持)。原始儒教に帰れと朱子学を批判した古学派は、反復古主義的な形をとる。熊沢蕃山は王政より武家政への歴史的必然を説くことで武家レジームを合理化した。これを精緻化したのが山鹿素行。
9)公的図式主義の破壊、個体性の尊重、人欲の解放がパラレルに起こる
[第六章 元禄・亨保期の社会と文化]
[第一節 問題の意味]
幕府創立から元禄まで100年足らず、元禄~亨保は50年、元文~慶応までは120年と年代的にも徳川時代の分水嶺であり、最盛期から下りはじめる時代。
間引きが広く行われるということも元禄以前にはなかった。
百姓一揆は亨保の頃から度数を増し、規模も急激に大きくなっている。
[第二節 元禄文化の社会的意義]
米による自然経済と貨幣経済の矛盾も元禄時代から露わになった。
荻生徂徠の蘐園学派(けいえん、蘐園は徂徠の号)は、それ以前の思想とは質的な断絶がある、としていますが、徂徠の言葉に「自分の小さい時は田舎で銭を見ることは稀であった」というものがある。
財政が窮乏した幕府は元禄八年に貨幣改鋳のインフレーション政策を行うが、一部の巨商が暴利を貪るのみで武士は窮乏するだけだった。
元禄=亨保時代は混沌たるアナルヒー(anarchie)が現出した。《閉鎖的固定化による窒息を免れんとする国民精神の大きないぶきであった。従って元禄文化を共通に位置づけるものは束縛よりの解放を求める個性的精神》であり、自主的、創造的なものの発生が認められ、それはこれまで辿ってきた儒学においても朱子学に対する古学派の勃興にみられる、と。
西鶴、芭蕉、近松、歌舞伎、光琳や浮世絵などは庶民、町民が担い手だった。
支配層を代表する狩野派が支那画に覊束されていたのに対し、菱川師宣は自ら大和絵と称したように日本的でもあった。
日本主義を最も高唱した闇斎派や、後の水戸学がその思想構造において最も朱子学の模倣を脱していないのに対し、徂徠の蘐園学派は道の普遍的妥当性を信じ、思惟を規定した素材は現実の元禄社会だった。
それは浮世絵や浄瑠璃が題材を庶民の日常生活からとっていたのと同じ。芭蕉が客体への没入を求めるのは、古学派における即物主義的方法論と照応している。
[第三節 町人道徳の思想的意義]
町人の精神は、ヨーロッパ中世におる賤民資本主義の精神であり、朱子学がアンチテーゼにおいた人欲の二大領域に栖家を見出した。
近世初期の思想において、町人は蔑視されたが憎悪はされなかった。しかし、元禄以降は徂徠のように抹殺論を唱える者も出て来た。
『永代蔵』のように犬の死骸を黒焼きにして疳(かん)の薬として売り歩くようなことはもっての他となり、やがて石門心学のように堅気に律儀に、始末と才覚をもって業にはげみ、色にふけらず情を解し、わびさびを楽しむのが真の商人である、ということになる。
しかし、町人は最後まで商業資本として封建社会に寄生する存在にとどまり、町人道の独立はならなず、儒教に基礎づけられた分限を守る道徳が流れ込んできた。もちろん、武士階級においてする外面化されつつあった規範は、町人階級でも内面化はされなかった。
[第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成]
[第一節 転換期の思想と徂徠の二元的性格]
第六章「元禄・亨保期の社会と文化」で見たとおり、この時代の社会的変動に真正面から取り組んだのは徂徠学であり、同時に没落する運命も有していた。
徂徠は非儒教的要素を導入することで原始儒教の精神を復活させた。また、封建的な支配関係を基礎づけるのに、本来は対立物である利益社会的(gesellschaftich)な論理を以てするという悲劇的な役割を演じた。君主制の基礎としてウェーバーはカリスマ的、伝統的権威をいい、カール・シュミットは名誉(Ehre)を源泉とするが、実用的価値(utility)を以て論ずれば、それは君主制の末期。
思想家の本来の意図と、それが拠って立つ論理が矛盾することはホッブスなど過渡期の思想にもみられる。
徂徠が天下国家を論じ、儒教を観念的な思索の世界から生々しい政治性の世界に引き入れ(儒教の政治化!)、時代の趨勢に深刻な憂慮を抱いた。同時に世俗を超越して詩を論じる非政治性もみられる。《それは、徂徠自身が、規範拘束性と不羈奔放性の両面性を合わせ持っていたことの現れでもあった》。
[第二節 徂徠に於ける社会改革論]
儒教は出発点となるのは個人道徳で、政治的なものは最後の帰結だが、徂徠では逆に政治が出発点となる。古文辞学研究も、熾烈な政治的関心が、儒教の理論的改造を思い出させ、原始儒教へと赴かせたものと考えられる。
徂徠は問題を1)機構と2)それを具体的に運営している人間の面に分けた。
機構の問題は「旅宿の境界」と呼んだ武士の生活の矛盾だった。それは城下町に集中した武士階級が商品経済に巻き込まれながらも、知行地を離れることで、農民との情誼的な結びつきが失われる搾取、被搾取のみが表面に現れるなど寄って立つ経済的基礎は自然経済という矛盾。
徂徠は『政談』で「一切ノ物、各々其限リ」があり、地位身分に応じて欲望を制限してゆく基準を設けなければならなず、それが「制度」であるとした。また、武士は領地に帰るとともに、人々の移動を旅行証明書で統制する策も提案している。例えば関八州の米産額を調べ、余剰の人口を「人返し」によって外域に疎開させるなどの統制経済によって幕府の絶対的支配権を確立しようとした。
こうした原始封建制を理想とし、制度改革のためには人材登用が不可欠とした。しかし、徳川幕府の家筋を重んじることと、人才をとりたてることは裏腹の関係にある。理想的な封建社会の危機を救治する方策として、近代的な絶対主義国家に於ける官僚制の原理を採用せざるをえなかったことに、転換期の政治思想の特色が端的に表れている。
[第三節 徂徠学の思惟構造=その方法論的基礎]
徂徠は封建社会再建のために、原始封建制の理想に基づく制度を求めた。しかし、当時の儒教思想は政治を個人道徳に還元してしまい、朱子学は抽象的な思弁に終始していた。朱子学が観念的思弁に陥ったのは「大極」を「理」とする儒教的自然法思想に胚胎する。
徂徠が「制度ノ代替」という場合、その担い手となるのは、従来の制度や規範の客体ではなく、そこから超越した主体的な人格となる。つまり、制度をつくる主体"Wer?"の問題が、従来の何が真理であるか"Was?"の問題にとって代わって関心の中心点となる。
そして「道を作為した聖人」が強く前面に押しだされ、道の普遍妥当性は人格から導き出されるようになる。これによって、儒教の道徳規範はアプリオリに決したものでなく、本然の性という命題も否定される。道は則るべきもので、人間性の内面は改造されるべきではない、とされる。
人間の気質は変わらないとする『答問書』の一説は、逆にいえば個性の尊重と結びついている。そして、それによって社会的分業による個性の有機的統合が可能になる。
道が先王によって作為されたものならば、社会規範たる道が自然法則ではなくなる。そして道を具体的な制度文物(Sttlichkeit)に限定することで儒教の政治性がはっきり出てくるとして、古文辞の微細な研究がなされる。
徂徠は古代はあくまで古代から理解されるべきとして、ザッハリヒ(客観的)な帰納的研究方法が、古代聖人の宗教的な尊崇と結びついていった。また、古代を古代から理解していこうとする態度は、現代を現代として理解していこうとする態度も生む。
「人皆聖人たるべし」という宋学の要請が否定され、聖人は古代中国に一回的に現れた経験的具体的人格となった。また、孔子に続く子思(孔子の孫で『中庸』は子思の作と伝わっていた)、孟子は諸子百家の時代に現れた論争家として相対化された。
《言い換えれば、彼岸的なものへの非合理性からして此岸的な経験的実証性が生まれた》。
自然法則は繰り返しという考え方に立つが、この同一性も破壊され、歴史の個体的把握が今や可能となる。朱子の『通鑑綱目』的な勧善懲悪観は決定的に批判される。
《この意味で、古学派・古文辞学の主張は、その名称とは逆に、復古主義的傾向に対する反抗として生まれてくるというパラドックスを含んでいた》
[第四節 けい園学派の思想的意義及び帰結]
徂徠において、全体が革命的転回をとげ、公的あるいは政治的なものは個人道徳から分離され、治国平天下は修身斉家から独立した。かくして、個人の私的な社会生活は、いかなる規範からも自由となり、公と私は分離併存することになる。これは次に公的なものよりも私的なものの優位を主張する立場を生む。
徂徠学における私的な側面は、元禄文化の反映に他ならない。儒教を政治化した徂徠は、思索に耽り、文辞をもてあそぶという非政治的行動に逃避する。
徂徠学における聖人に対する絶対的な信仰は、親鸞の阿弥陀に対する絶対的帰依に通じるものがある。
カール・シュミットは法的思惟を1)規範主義2)決断主義3)具体的秩序思想の3つに分類したが、徂徠は第2の思惟形態に属する。それはホッブスのような「真理でなく、権威が法を制定する」立場に立つ。
徂徠によって儒教は「礼楽刑政」という社会規範体系として把握されるようになったが、これにより「礼に常法なきことを知るべし」ということになるが、それは将軍がいかなることでも自由に支配(制度化)することができるようになることにつながった。
徂徠の治国平天下の面は太宰春台、山県周南が継承し、文学や歴史、詩歌を継いだのは安藤東野、服部南郭などだが、優位に立ったのは文人墨客的方向だった。危機意識は忘れ去られ、逃避的な文人気質が支配的となり、思想界におけるヘゲモニーも失うが、安藤昌益や本居宣長などが徂徠学に含まれた革命性を利用することになる。
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