ハイデガー『ニーチェ』

June 06, 2010

『ハイデッガー カッセル講演』#4

 「第八回 人間の根本規定としての時間(2)」では痺れるような表現がたくさん出てきます。

 100-101頁をアレンジすると、死という限界が未定で確実な可能性として差し迫っていることは人間的生を特徴づけている、と。死という可能性を実現することは、この可能性に向かって先駆することであり、そのとき、世界は後退し、将来を存在することになる、と。どんな行動でも、良心との葛藤は存在するが、自分の将来を選択することで、そうした過去の非を引き受けることになる、と。人間の現存在は本来的に、行動のなかにあり、自ら選択することで将来を存在し、非があることのなかで過去も存在する、と。つまり、現存在である(現存在を存在する)とは時間である、と。

 「第九回 歴史の規定としての時間」では、時間は場であるということが強調されます。それは、自己が本来的時間であり、けっして外部で生じているものではない、と断言します。

 そして「第十回 歴史的存在の本質/デュルタイに立ち戻る」では、デュルタイの問いとは、生をほかの現実からではなく生それ自身から理解しようとする意図があったとして、歴史とは《私たち自身がそれであるような、また私たちがそれに居合わせるような一つの生起(ゲシエーエン、Geschehem)》であるとします(p.111)。さらに(かつての)現在ではなくなり、過去を自由に(生きたものに)する可能性が生まれ》る、と(p.115)。

 ギリシア人は存在することを時間から解釈していたとして、その証拠にουσια(ousia)は現在を意味し、常に存在しているもの(こと αει ον)であるとします。訳注にも書いてありますがουσιαはギリシャ語のbe動詞に相当するειμιの分詞であり、財産などを意味します。

 しかし、ハイデガーはギリシアのこうした存在学説が無批判に受け取るのは間違いであり、簡単なことに、それは歴史的現実性は永遠には存在しないということからも明らかだ、という方向にもっていきます。生成消滅をまぬがれた超自然的原理であるイデアなどはないんだ、と。

 《したがって、歴史学的・哲学的な問題設定は、存在そのものについての基礎的な問いへと連れ戻される》というのが結論でしょうか(p.118)。最後に引用されているデュルタイのヨルクとの往復書簡での《学問に地盤があるとすれば、それは過去の世界。つまり古代世界という地盤なのです》というのは、ソクラテス以前に戻ろう、ということなんでしょうかね(p.119)。

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May 21, 2010

『 ハイデッガー カッセル講演』#3

 ハイデッガーのカッセル講演は以下のような構成で行われました。

予告
第一回 序論-この連続講義のテーマと論じ方と構成
第二回 デュルタイの生涯と著作
第三回 デュルタイの問題設定-歴史の意味についての問い
第四回 同時代の哲学に及ぼした影響/デュルタイの問題設定の限界/現象学のなかに再受容する可能性
第五回 現象学の本質と諸目標
第六回 歴史性の意味についての現象学的な問いは人間の存在についての問いである
第七回 人間の根本規定としての時間(1)
第八回 人間の根本規定としての時間(2)
第九回 歴史の規定としての時間
第十回 歴史的存在の本質/デュルタイに立ち戻る

 これまでは六回目までのことを書いていたのですが、七回と八回がいいんですよ。
 
 七回目から長く引用します(pp.94-95)。
 

 現存在は経過ではありませんし、死はその経過のあとでたまたま起こることではまったくありません。死は、人間の前に差し迫っている事柄、生自身が知っている事柄です。もちろんこれで死を定義したことにはなりません。多くのものが私に差し迫っていますから。しかしそこには違いがあるのです!ある事件〔例えば交通事故や地震〕が私に差し迫っているとすれば、それは私を襲う出来事、世界から私にやってくる出来事です。ところが、死はどこかから私にふりかかるのではなく、私自身がそれである〔存在する〕何ものかです。私はみずから、私の死の可能性である〔私の死の可能性を存在する〕のです。死は、私の現存在の極限的な可能性です。したがって、現存在のなかには、現存在に差し迫っているある可能性がふくまれており、現存在の極限的な可能性としてのこの可能性のなかで、人間の現存在そのものが自分に差し迫っているのです。ここで問題になるは、あれこれの気分ではありません。そうではなく、死とは現存在に差し迫っている現存在自身の極限的な可能性であるという自覚にもとづいて、現存在が、自分のおこなうさまざまな運動をひたすら見ることが大切なのです。私は、私が生きているときにこそ、私の死であるのです。ここで重要なのは、種々の死に方を描写することではなく、死を生の可能性として理解することです。

 
 しかし、人間は無関心さを装う中で死を遠ざけている、と。本当は死を思うことによって、他者をも気遣うことが含まれているのに、その可能性を遠ざけている、と。死の確実性と未定性は互いを深めあっており、死は現存在の、未定でありながら確実な極限的な可能性としてみずからを示している、と。そして《キリスト教神学によってはじめて、死の問題は生の意味についての問いにむすびつけられるようになったのです》というあたりも名調子。
 
 八回目は《限界が未定で確実な可能性として差し迫っているということが、人間的生という性格をもって存在するもの〔人間〕を特徴づけています》というおさらいから始まります。
 
 そして、死を耐え抜くということは、死を把握することであり、それはもちろん自殺することではなく、《可能性にむかって先駆する〔自分の前にあるこの可能性にむかって走る〕ということなのです》とまとめてからが、また素晴らしい。
 
 自分が世界から去るということは、世界がもはや何の意味もなくなるということで、配慮的に気遣っていることが無意味になることだ、と。
 
 生物は必ず存在する環境の中で生きていますが、死によって世界をもとに生きることを終わらせることができるようになる、と。
 
 そう把握することで、公共性の中に迷い込んでいる自分を、自分自身が選択することで、連れ戻せる、と。
 
 さらに《私自身の極限的な可能性のなかへと先駆することは、将来を存在すること(Zukunft-Sein)》であり《先駆することによって、みずから私の将来を存在する》ことになり、それは《私は将来において存在するのではなく、私自身の将来を存在する〔将来である〕》のであり、さらに、非があることのなかで自分の過去を存在し、行動することのなかで現在に至るということは《現存在である〔現存在を存在する〕とは時間であること(Zeit-Sein 時間を存在すること)》にほからない、と展開します。
 
 この後、プラトンは『ティオマイオス』で時間とは天であるとしていたが、時間を概念的にとらえることができてないとか、懐中時計によって人間は時間をなくすことさえ許されなくなり、自分がみずから時間として存在することに対する感覚をなくしていく、なんていう話が展開されていきます。

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May 16, 2010

『 ハイデッガー カッセル講演』#2

『 ハイデッガー カッセル講演』#2

 第六回講義「歴史性の意味についての現象学的な問いは人間の存在についての問いである」の後半にギリシア語をつかって説明するところがありますので、チラッとみていきたいと思います。
  
 ハイデッガーは現存在について、不特定の「ひと」が話して判断することなどによって支配されていると考え《私たちはたいていのばあい自分自身ではあらず、ほかのひとびとであり、私たちはほかのひとびとによって生きられているのです》としています。(p.88)。
  
 人という現存在には、世界にたいする配慮的気遣いの中で自分を喪失して自己自身から転落するという傾向があり、人間は日常性においては非本来的に存在しており、この非本来的存在こそ人間の現存在の第一次的な現実性格にほかならないとも書いていますが、ここらへんは難しいなぁ(pp.88-)。
  
 ということで、ハイデッガーはいきなりギリシア語にふり、人間とはロゴス(言葉・理性)を持つ動物であると定義される、とします。
 
 翻訳で引いているハイデッガーの文章はzoon logon echonですが、ギリシア語では ζῷον λόγον ἔχον となります*1
 
 日本語ではよく「ロゴス的人間」なんて言われ方もしますが、直訳するとハイデッガーの書いている通り「ロゴス(言葉・理性)を持つ動物」となります。
 
 ロゴスはδηλοω「あらわにする」ことであり、たんにおしゃべりの中で頽落することではないが、何から何まで自分で見て立証した上で語るのは不可能であり、《おしゃべりの世界が広がれば広がるほど、それだけますます世界はおおい隠されてしま》うということになりかねません(pp.89-90)。
 
 これをハイデッガーは《現存在が自分自身から公共性のなかに逃避する》と表現し、《現存在の本来の存在性格は気遣い(Sorge)》であり、人間の現存在は《いまだに存在しない[あらぬ]部分をつねに前にもつ生きているもの》と規定します。
 
 だから《生が終わり、全体となったときには、生はまさしくもはや存在していない》のであり、現存在は自分固有のものであり私自身のものだ、ということになります(p.90-)。

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May 15, 2010

『 ハイデッガー カッセル講演』#1

Diltheys

『 ハイデッガー カッセル講演』後藤嘉也(訳)、平凡社ライブラリー

 ハッピーリタイアメントしたら『ニーチェ』(邦訳は上巻のみ)と『ナトルプ報告』は英語でもいいから読みたいな、と思っているハイデッガーなのですが、遠い目標に向かって、ささやかに一歩ずつ、みたいな感じで書いてみます。
 
 ハイデッガーはデュルタイについて《ヘーゲル哲学解体後、デュルタイがはじめて、それも歴史的精神科学を同時に顧慮しながら、歴史についての問いを根本的に提出し、多面的に研究しました》という評価を行っています(p.46)。生の目的を歴史から引き出し、歴史の発展とは人間が束縛から自由に向かうことである、というヘーゲルの究極は《ヨーロッパの諸文化の人間性は国家において具現される》ことです(p.52)。
 
 そして、デュルタイの根本的な問いは生の概念についての問いだ、と(p.67)。デュルタイのテーマは精神的に存在するものとしての人間であり(p.68)、心の構造をただの形式として理解するのではなく、心的生そのもののありさまに固有のものとして理解する、と(p.69)。
 
  デュルタイにとって諸構造はただの図式ではなく、生そのものの第一次的な生きた統一であり

  1)心的生はみずからを展開する
  2)心的生は自由であり、
  3)獲得された連関によって規定されている。つまり、歴史である

  というのが根本規定である、としています(p.71)。
 
  この後、《どんな発見も歴史的連続性のなかにあり、歴史によっても規定されている》と現象学批判に行き、《存在の意味に近づくための未知を切り開くはたらきが、カテゴリー的直感なのです》とまとめます(p.81)。
 
  これは《環境世界は、生物とならんで客観的に存在しているものではなく、その生物にとって開示され暴き出されて現に存在しているものなのです》という結論に向かいますが(p.85)、人間が特殊なのは《私自身と同じ存在性格をそなえながら現実には異なったものたちが共に現存在していること》であり、《世界内に存在すること(Das Sein-in-der Welt)は従って相互に存在することに》なる、と(p.87)。
 
  次は明日にでも。

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February 28, 2009

ハイデガー『ニーチェ』#17

 真理とは《真なりと思うこと》とニーチェが考えているとすれば、真理は最高価値ではないが、必然的価値となり、位階は引き下げられる、とハイデガーは整理します(下巻、p.181)。

 上巻では真理と芸術の対比が語られていましたが、芸術は生成するものであり、ニーチェが真の世界とは生成するものだとするならば、こうした混沌を固定するような仮象世界を想定するプラトン主義の逆転が成就されたわけです。

 さらにニーチェは《真理とは、それなしには或る特定の種類の静物が生きることができないような一種の誤謬である》と『力への意志』493番で述べていますが、これに関してハイデガーは真理を一種の誤謬と受けとるのは単純であり、ギリシア語のπαραδοξον(パラドクス)と考えればいいのではないか、と考えます。真理は本質において調和であるとすれば、持続的存在としての真理はひとつの誤謬となりうるのであり、現実的なものへの合致、調和、ομοιωσιsとして規定されてきた、と説明します。ομοιωσιsは細谷訳では、そのまま翻訳もされませんが意味は「似る」あたりですかね*1。

 この後、ヘラクレイトスの形而上学にニーチェが影響を受け、ギリシア的な正義-δικη-という思想がニーチェに点火した、とハイデガーは書いています(下巻、p.200)。細谷先生の訳ではあっさりと「ギリシア的な正義-δικη-」と書かれていますが、δικηには習慣あるいは刑罰を司る女神という意味も含まれていることを知ると、余計に味わい深いテキストになるかもしれません。

 そしてハイデガーは、ニーチェにとって正義という言葉には法的意義も道徳的意義も持っておらず、ομοιωσιs(似る)の本質を引き受け成就すべきもの、同化という意味になる、と展開していきます(下巻、p.205)。

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January 01, 2009

ハイデガー『ニーチェ』#16

 ということで、先日はエコパで行われた天皇杯準決勝の行き帰りで、久々にハイデガー『ニーチェ』を読みすすむことができました。

 そんな中で気にかかっていたところも思いだしましたので、時間もありますし、チラッと…(下巻に関して書くのは初めてかな…)。

 ニーチェは、矛盾律が存在者の存在に関するひとつの命題だとギリシア的に思索して認識もしているが、この命題がアリストテレスによって言い現されたということを認識しておらず、彼自身の立所を確定することができない、というあたり。

 しかし、この翻訳では分かりにくいですよね(下巻pp.166-167)。

 いかにも、アリストテレスはギリシア的に思索していた。存在は直接的に、それの本質において臨在性として見守られていた。このような本質における存在者の存在をουσιαとして、ενεργειαとしてεντελεχειαとして端的に看取し、その観取されたものを語り、語りつつ示すことで、彼には足りたのである。ましてギシリアの思想家たちは、存在-存在者の本質-は、決して目前の存在者をもとにして算出したりできるものではなく、むしろιδεαとしてそれ自身からからおのれを示してこなくてはならず、それもそれにふさわしい直観にのみ近づきうるのだということを心得ていたから、それで足りたのである。

 ουσιαは英語でいえばbe動詞のειμιの分詞。LIDDELL&SCOTTの辞書(中型版)によると財産、所有物という意味の他に、プラトンの著作ではbeing, essence, nature of a thingという意味でも使われていると書いてあります。

 ενεργειαはエネルゲイアというか、力、働きですね。

 εντελεχειαはLIDDELL&SCOTTの大型版しか載ってません。意味はfull, complete。

 そうなると、ここの意味は「このような本質における存在者の存在を事の性質、力、充満として端的に看取し、その観取されたものを語り、語りつつ示すことで、彼には足りたのである」という感じなんですかね。

 ということで、今年もよろしくお願いします!

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August 18, 2008

ハイデガー『ニーチェ』#15

 「プラトンの《国家》」の章の後は「プラトンの《パイドロス論》」が続きます。平凡社ライブラリー版では上巻のp.258から。

 逆転したプラトニズムであるニーチェの哲学にとって、芸術は真理よりも価値が高くなければなりません。一方、プラトンにとって真理は芸術よりも高いというのが命題になっています。しかし、これまでの精緻な読解によって《離間はなく、ただ格差があるだけ》ということが明らかになったわけです。

 しかし、ハイデガーの講義が面白いのは、次のように強引に問題設定を行い、議論を展開させていくからです。

 真理と芸術の関係が位階上逆転し、そしてこの関係がニーチェにとって離間であるのだとすると、そこから引き出される当然の帰結は、その関係はプラトンにとってもやはりひとつの離間であり、ただしニーチェの場合とは逆の離間であるはずだ、ということである。

 ハイデガーはニーチェとプラトンの関係を《一、根本においては調和でありうるような分裂 二、離間とならざるをえないような分裂(引き裂かれた状態)》という両義的な眼差しの中でみていきます。

 そしてプラトン『国家』のように芸術が真理の側から測って第三位の位階におかれている限り離間はないが、それでもやはり《哲学と詩(創作)との間には昔から仲違いがあった》(607B、藤沢訳)とは書いており、藤沢先生が仲違いと訳しておられる原語διαφοραも「違い」という意味ですから。

 ということで、ハイデガーはプラトンが真理を論じる観点と同一の観点で分裂の成立条件を探ります。

 ギリシア哲学一般に体系は見当たらないものの《プラトンの思索の進め方には、一貫した基調がある。すべては、存在者とは何か、という哲学の先導的問題へ集中しているのである》ということで、ハイデガーが次にとりあげるテキストは『パイドロス』となります。

 『パイドロス』には「美について」という副題が掲げられていますが、内容はご存知の方はご存知でしょうが、ソクラテスとパイドロスが"少年"をいかに口説いて自分に身をまかせるようにさせるかについて論じ合うというもの。いやー、なんといいますか、文化の相違の素晴らしさですねぇw

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August 11, 2008

ハイデガー『ニーチェ』#14

 プラトンにとって、μιμησιs(ミメーシス、模倣)は従属的地位にあります。特に画家などの仕事はιδεα(イデア)がειδοs(エイドス)に移される際の第三の生産となるわけです。

 この後、ハイデガーは短く『国家』をサマライズを行いますが、プラトンで問題なのは彼が『国家』598Bで芸術は真実から遠く離れたところにある、とまで断言することだ、と。

 ハイデガーは、プラントが画家など芸術家のつくるものは何かについて、以下のように考えている、と精緻にまとめます。

 

それが制作するものはιδεα(φυτοs)としてのειδοsではなく、τουτο ειδωλοωである。これは純粋な観(エイドス)の映りにずきない。ειδωλοωは小さなειδοsの意味であるが、それは規模の上のみならず、顕現のありさまの乏しさも含意している

 ちなみに、このειδωλοωは新約聖書では「偶像」みたいな意味で使われている単語ですが、ハイデガーの「顕現のありさまの乏しさも含意している」という表現は面白いな、と思います。

 それはさておき、プラトンの形而上学にとっては、芸術は真理よりもはるか下位におかれているが、それは真理との間に離間があるという意味ではなく、格差があるということを確認して、「プラトンの《国家》」の章は終わります。

 次のパイドロス論の章は、もう少しサクッといきたいと思います。

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August 10, 2008

ハイデガー『ニーチェ』#13

 イデアのつくり手だけが「本性(実在)製作者」であるというのがプラトンの主張なのですが、藤沢訳で「本性(実在)製作者」と訳されているφυτουργοs(ヒュトウルゴス)は、本来的には「庭師」あるいは「ぶどう園の園丁」みたいな意味の単語です。

 例によってLiddell&Scottを引いてみると、中判では""working at plants, a gardener, vinedresser"がまずきて、比喩的にソフォクレスやエウリピデスが"begetting(子をなす者=特に男性)"という意味で使い、プラトンは"the author of a thing"という意味で使っている、と書いてあります。大判ではさらに『国家』597Dでは"creator, author"という意味になると書いています。

 「庭師」や「ぶどう園の園丁」を表す単語が創造者を意味するようになる、というのもなかなか深い気もしますが、それはさておきハイデガー『ニーチェ』の細谷訳ではφυτουργοs自体がまったく訳出されていないので、多くの方は「まあ、創造者ぐらいの意味なんだろうな」ぐらいて通りすぎていくかもしれません。

 とにかく、プラトン的に存在の製作者は第一に神です。第二は《寝台をそれの本質に従って製作する》職人。第三は《絵の中で寝台を出現させる》画家となります。

 しかし、職人は役立ちますが、画家の仕事はものの役にはたたない、とプラントは驚くような暴論を吐くわけです。

 『国家』第十巻は、この後、詩人をコテンパンに貶して終わるのですが、ここでも画家はδημιουργοs(公衆のための製作者)ではなく、μιμητηs ου εκειον δημιουργοιである、と貶します。μιμητηs ου εκειον δημιουργοιを直訳すると「公衆のための製作者である彼ら(職人)の模倣者」ということで、職人たちより明らかに一段、低くみなされています。

 597Eのこれ以降のテキストは、ぼくがLOEB CLASSICAL LIBRALYで持っているPLATO"REPUBLIC"とはかなり違っているので、ギリシア語ではあまり追求しませんが、とにかく、画家とは模倣者であり、第一のιδεαから数えて3番目のものでしかなく、職人が製作することに比べてもιδεαから遠ざかっている、というのがプラトンの主張です。

 そして模倣者μιμητηs(ミメーテース)としての芸術家に関してプラトン的概念で問題になっているのは、ものごとを再現し模写することすら満足にできず、職人ほどにも再現力がない、ということだとハイデガーは付け加えます。

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August 09, 2008

ハイデガー『ニーチェ』#12

βουλομενοs ειναι οντωs κλινηs ποιητηs ουσηs,αλλα μη κλινηs τινοs μηδε κλινοποιοs τιs μιαν φυσει αυτην εφυσεν.

 『国家』597Dのここの部分を私訳で直訳しますと「神は寝椅子づくりの職人や個々の寝椅子の製作者になりたくはなく、本質的で唯一の本当の寝椅子の製作者になりたかったのだ」ということになります。

 藤沢訳でも、細谷訳でも、ちょっと見えにくいところがありますので、短いですが、ギリシア語とともに、味わっていき、ハイデガーの議論についていけるようにしたいと思います。

 βουλομενsは欲するという意味のβουλομαιの現在分詞。

 κλινοποιοsは「寝椅子づくりの職人」と私訳した単語でκλινη(寝椅子)+ποιειν(つくる)の合成語。

 μιαν φυσειは「本質的で唯一の」と私訳したところで、μιανは「唯一の」という意味でよく使われていて、ここもその意味ですが、φυσειは本来、ごく普通の自然という意味だった単語ですが、ここは「本質的」とでも訳さないと、なかなか意味が通らなくなっています。

 #9で「φυσιsとは初期ギリシア人が、おのずから立ち現れて行きわたっている実在性という意味での存在を言い表した根本の言葉なのである」というハイデガーの言葉を引用しましたが、そういった意味からは、かなりかけ離れているように思います。

 そしてハイデガーはこう論議を進めていきます。

 《現在し現在させることとしての存在と、統合するものとしての一者とは、どのように相属しているのか。或る創造者への還元はこの問いに対する答えを内包していのか、それとも、存在が現在として考えることもなく、一者の統合が現在としての存在にてらして規定されることもないので、この問いは問われずにいるのか》と。

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