『ハイデッガー カッセル講演』#4
「第八回 人間の根本規定としての時間(2)」では痺れるような表現がたくさん出てきます。
100-101頁をアレンジすると、死という限界が未定で確実な可能性として差し迫っていることは人間的生を特徴づけている、と。死という可能性を実現することは、この可能性に向かって先駆することであり、そのとき、世界は後退し、将来を存在することになる、と。どんな行動でも、良心との葛藤は存在するが、自分の将来を選択することで、そうした過去の非を引き受けることになる、と。人間の現存在は本来的に、行動のなかにあり、自ら選択することで将来を存在し、非があることのなかで過去も存在する、と。つまり、現存在である(現存在を存在する)とは時間である、と。
「第九回 歴史の規定としての時間」では、時間は場であるということが強調されます。それは、自己が本来的時間であり、けっして外部で生じているものではない、と断言します。
そして「第十回 歴史的存在の本質/デュルタイに立ち戻る」では、デュルタイの問いとは、生をほかの現実からではなく生それ自身から理解しようとする意図があったとして、歴史とは《私たち自身がそれであるような、また私たちがそれに居合わせるような一つの生起(ゲシエーエン、Geschehem)》であるとします(p.111)。さらに(かつての)現在ではなくなり、過去を自由に(生きたものに)する可能性が生まれ》る、と(p.115)。
ギリシア人は存在することを時間から解釈していたとして、その証拠にουσια(ousia)は現在を意味し、常に存在しているもの(こと αει ον)であるとします。訳注にも書いてありますがουσιαはギリシャ語のbe動詞に相当するειμιの分詞であり、財産などを意味します。
しかし、ハイデガーはギリシアのこうした存在学説が無批判に受け取るのは間違いであり、簡単なことに、それは歴史的現実性は永遠には存在しないということからも明らかだ、という方向にもっていきます。生成消滅をまぬがれた超自然的原理であるイデアなどはないんだ、と。
《したがって、歴史学的・哲学的な問題設定は、存在そのものについての基礎的な問いへと連れ戻される》というのが結論でしょうか(p.118)。最後に引用されているデュルタイのヨルクとの往復書簡での《学問に地盤があるとすれば、それは過去の世界。つまり古代世界という地盤なのです》というのは、ソクラテス以前に戻ろう、ということなんでしょうかね(p.119)。
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