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May 16, 2026

『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』國分功一郎

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『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』國分功一郎、新潮新書

 コロナ禍での東大で、試験が終わった後に高校生も交えて行われた特別講話を元に、『暇と退屈の倫理学』を深化させた論考です。

 『暇と退屈の倫理学』の議論がしなやかで素晴らしいと思ったので読んでみました。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。目的は手段を正当化するという側面があるので、自由は目的に抵抗する、みたいなことが結論でしょうか。

[不要不急が奪ったもの]

 議論のたたき台はコロナ禍で行われた自由の制限。イタリア人の哲学者で著者も直接教えを請うたアガンベンは、コロナ禍での制限は人間の本質を損なうと徹底的に批判します。感染対策を目的とした措置は人間の生を単なる生物学的なあり方(剥き出しの生)へと縮減してしまう、と。そうした制限は人間的なものすべてを失わせ、剥き出しの生だけが立ち上がってくるようになってしまう、とまで敷衍します。もし、剥き出しの生だけが残ったら、それを失うことへの恐怖から人間同士も分断されてしまう、と。

 表現、信教、結社、職業選択など様々な自由の権利はあるのですが、移動の自由の制限は、死刑と罰金刑の間にある全て刑罰のグラデーションに関係するほど、重要な意味を持つという問題設定はハッとさせられました。

[移動の自由こそが支配を拒む]

 ここでマルクスの論考が紹介されているので、少し詳しくみていきます。マルクスは『資本論』第1巻、25章で、移動の自由は人間が不当な支配から逃れるための根本条件だということを、イギリス人資本家であるピール氏の逸話をもって説明しています。《ピール氏は嘆いているが、彼は五万ポンドにも上る生活手段と生産手段をイギリスから西オーストラリアのスワン・リバーまでもっていき、さらには用意周到にも、労働者階級の男女、および児童を三○○○人も連れて行ったのに、目的地に到着したときには、「彼のためにベッドを用意し、川から水を汲んできてくれるような召使いの一人もいなかった」。気の毒にもピール氏は、いっさいを周到に準備したにもかかわらず、イギリスの生産関係をスワン・リバーに輸出することまでは念頭になかったのだ》(『資本論』今村仁司ほか訳、筑摩書房、p.578)。不幸なピール氏は、なにもかも用意したが、連れてきた労働者たちは移動の自由を行使して逃げ出して、全てを失ったわけです。

 こんなに重要な移動の自由を簡単に手放してしまうと、やがて行政権力に全ての権利を売り渡してしまうのではないか、という問題提起がひかります。さらに、ナチスの問題は行政機関が立法権をもつことであり、このままいけば、我々も再びそうした例外状態に慣れてしまうリスクが浮上するのではないか、と議論を展開していきます。著者が実はカトリック的な保守的な考え方もあるのではないかと思ったというアガンベンは、死者の権利という概念から埋葬の制限にも従ったカトリック教会も「教会は教会の役割を果たせばいい。にもかかわらず、なぜ教会は科学に侍女として仕えているのか」と批判しているのは面白いと感じました。

[遊びと浪費が人間を取り戻す]

 さらに当時、さかんに言われた「不要不急の外出を控えましょう」という言葉は、社会があらゆるものを「目的」に還元し、目的から逸脱するものを許さない傾向を象徴しているのではないか、と批判します。目的が手段を正当化し、目的だけしかない社会では、過酷で空虚な生活しか残らないのではないか、と。

 そこで浮上してくるのが「遊び」の重要性。目的と手段のシステムから距離を置くために必要なのは、消費に対置される「浪費」であり、余裕としての「遊び」だ、と。贅沢は本質的に目的からの逸脱があります。食事するのは栄養を取るためであり、生を再生産するのが目的ですが、栄養摂取をしていれば、人間は確かに生存できますが、我々が本当に豊かさを感じるのは、目的をはみ出た部分ではないか、と。だから「資本は、現状に対して疑問を抱き、何事かに気づき始めた人間を、これまで通りの消費社会の論理に連れ戻そうとするのです」と著者は語ります。

[民主主義の形骸化]

 後半で語られる目的化される社会像も興味深かったです。著者は、地元の東京小平市で、都道の建設に関する住民投票を求める運動に参加しました。自由に参加するという形式の運動自体も楽しかったということで、その体験も本の内容を裏付けているのですが、さらにはナチスに権力を売り渡したワイマール的な危うさを我々の社会が抱えている、というところにまで話しを発展させていきます。

 この運動は数十年前に東京都が計画した道路整備計画が突如浮上したことに対して、それは必要ないんじゃないかといった住民の訴えがことごとく退けられたという顛末を辿ります。

 日本では、道路整備を含むインフラ計画などの具体的な政策について、行政側の主導が強く、議会は追認機関になりがちだという批判もあります。政治的決定の重心が国政では、法律的な規定のない内閣の閣議決定、地方政治では首長の特別職・参与などのアドバイザーと官僚に移っています。国政でも地方でも議会は存在し、手続きも行われていますが、本当に重要な判断はすでに行政内部で終わっているというのが現状です。

 これは三権分立という看板の裏で、実質的には『行政独走』の状態にあるのではないかと元の議論にもつながってきます。だから、本書の結論は、目的に抗するところにこそ人間の自由がある、というあたりなのでしょう。

 ガンジーの、我々が主張等をするのは「世界によって自分が変えられないようにするため」だという言葉は印象的でした。

 コロナ禍をきっかけに、移動の自由、行政権力、目的化される社会、そして「遊び」の意味まで考えさせる一冊でした。シリーズ哲学講話の二巻である 手段からの解放 も読んでみようと思います。

目次
第1部 哲学の役割―コロナ危機と民主主義(コロナ危機と大学、高校;自己紹介;近くにある日常の課題と遠くにある関心事;自分で問いを立てる;ある哲学者の警鐘 ほか)
第2部 不要不急と民主主義―目的、手段、遊び(前口上;日本では炎上しなかったアガンベンの発言;「不要不急」;必要と目的;贅沢とは何か ほか)

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