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March 26, 2026

『歴史学者という病』本郷和人

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『歴史学者という病』本郷和人、講談社現代新書

 花粉症で目が効かないので、相変わらず本郷先生の本をAudibleで聴いています。

 本郷先生の自伝ともいえるような本書は筑駒の受験を失敗するも、武蔵には合格、自由な議論が許されるサロン的な人間関係に癒やされた、など知らないことばかり。

 また、東大史料編纂所の仕事についても初めて詳しく知ることがきました。小中学校は渋谷だったので、江戸時代の国学者である塙保己一が設立した和学講談所が近くにあり、その建物は親しみがありました。東大史料編纂所に業務の一部が1888年に移管され、1901年からは『大日本史料』の編纂を続けています。これは『日本書紀』(720年完成) から『日本三代実録』(901年完成)までの「六国史」以降、日本ではずっと国史の編纂が行われなかったため、宇多天皇が即位する887年から、大政奉還の1867年までのおよそ1000年分の日本の歴史をまとめようというプロジェクト。

 本郷先生は大学、大学院、博士課程を経て、東大史料編纂所に職を得るのですが、東大文系でずっと東大に在籍して教授になれるのは法学部の超エリートと史学課のこのコースだけとのこと。

 こうした個人のテニュアトラックというかキャリアパスだけでなく、日本の歴史学の潮流を皇国史観、唯物論史観、四人組の観点からまとめているのも特長。

第0世代 皇国史観の歴史学  
第一世代 マルクス主義史観の歴史学  
第二世代 社会史「四人組」の時代
第三世代 現在

 戦後直後の唯物論史観時代の石母田正(中世史)、遠山茂樹(近代史)、井上光貞(古代史)、永原慶二(日本中世・近世経済史)の旧四人組は、その専門をみれば、古代、中世、近代と日本の通史となっていて、全体の流れが、この時代に整理されたのかな、と。

 そして、この戦後第一世代はマルクス主義的な唯物論史観に基づき、古代→中世(封建制)→近世→近代という「世界史的法則」に日本を当てはめることを目的にしていたと思います。彼らは日本にも西洋と同じく「封建制(中世)」があったことを証明することで、日本が「アジア的専制からの停滞」に陥ることなく、自力で近代化(資本主義)へ進む力を備えていたことを理論付けようとした、と個人的には思っています。

 日本が西洋列強に伍して急速に近代化できたのは、明治維新で突然変異が起きたからではなく、中世の時点で高度な社会組織や経済の土台が出来上がっていたからだ、ということを実証的に明らかにしようとしたのが戦後第一世代の功績だったと言えます。また、今からみれば、彼らの仕事は、戦後日本のアイデンティティ再構築にも寄与したのではないでしょうか。「日本は自力で近代化できる土台を持っていた」という理論は、敗戦後の自信喪失の中で大きな精神的な支えとなったはずです。

 その後の網野善彦、石井進、笠松宏至、勝俣鎭夫の新「四人組」はガチガチのマルクス主義的な歴史の段階論から離れ、より「中世そのものの実像」に迫るようになります。彼らは「領主vs農民」という単純な階級闘争的な視点だけでなく、女性、非農業民、宗教、芸能、市場といった多角的な視点から中世社会を捉え直しました。

 また、新四人組は、中世を単なる「暗黒の封建時代」とは見なしませんでした。むしろ、自律的な村落(惣村)や、権力に縛られない自由な場(無縁)、活発な商品経済など、「日本のダイナミズムの源流」が中世にあることを描き出しました。「領主中心」から「社会構造」へ視点を移したことで、「日本人は明治維新よりずっと前から、自分たちで組織を作り、契約を結び、経済を回す能力(近代の芽)を持っていたことが証明されたのが「中世研究の黄金時代」の成果です。石井進先生や網野善彦先生らが光を当てた「無縁・公界・楽」や「惣村」のダイナミズムは、お仕着せの理論ではなく、史料の向こう側に生きる人々の息遣いを掬い上げました。これにより、日本の中世は「暗黒」ではなく、多様な主体のエネルギーに満ちた時代へと塗り替えられました。属人的にも網野先生は代々木からの離脱を含めてマルクス主義からの脱却をはかります。

 本郷先生は恩師である石井進先生と同世代の網野善彦先生らが提示したような「自由な中世像」を継承しつつも、一般市民が求めるような「日本史を大きな物語(グランド・セオリー)として捉え直す」試みにチャレンジしようと宣言します。

 本郷先生は「歴史学者は史料に書いていないことは言えない」という強い自制心に捕らえられすぎていると語っていますが、そこで直面するのは、一行の史料(古文書)の解釈をめぐる妥協なき戦い。

 例えば鎌倉幕府の御家人は、神奈川、静岡などを中心とした一軍、千葉などの二軍、北関東の三軍があると考えられるのではないかとしています。こうした見取り図を示したあと、本領安堵を約束する源頼朝の袖判下文は、頼朝自身が花押を据える形式から、政所職員が作成する「政所下文」へと変化したという問題を取り上げます。袖判下文(頼朝の花押あり)と政所下文(頼朝の花押なし)が混在されていた時期があるのはなぜか、と。これは千葉常胤などの二軍、三軍地域の御家人から、頼朝の花押もなく、政所が保証する形式では頼りないので、昔の形式の文書をくれという要望が出されたことが原因ではないか、というのが本郷先生の見立て。二軍、三軍地域の御家人たちは頼朝との関係がやや薄いから心配になったのであり、実際、北条氏などの一軍地域の御家人からはそうした要望は出ていない、という仮説を私的な勉強会で明らかにしたところ「それは歴史学ではない」と言われ、激論になり、その勉強会も解散してしまったそうです。

 確かに史料は少ないかもしれませんが、本郷先生の視点を通じると、かつて学校で習った「鎌倉幕府の成立」といった無機質な出来事が、当時の人々が必死に権利を主張し、契約を交わし、時に不安に怯えながら社会を築いていった生々しい姿も見えてきます。

 実証主義者が史料に書いていないことを想像で補うのは、歴史学ではなく小説だとするのに対して、本郷先生は当時の社会のダイナミズムを語らなくて何が歴史学だ、と批判しているようです。こうした熱い議論があるのも、近代への離陸という大きなテーマにつながる日本史の誇りの部分を議論しているためなのかな、と個人的には改めて思いました。

[目次]

はじめに

第一章 「無用者」にあこがれて   幼少~中高時代
     立身出世は早々にあきらめ、好きなことをして生きようと思った

第二章 「大好きな歴史」との決別  大学時代
     歴史は物語ではなく科学  だから一度すべてを捨てる必要があった

第三章  ホラ吹きと実証主義   大学院時代・そして史料編纂所へ
     徹底的に実証主義的な歴史学を学んだ、そしてホラの吹き方も

第四章  歴史学者になるということ  史料編纂所時代 そして新たな道へ

終章   日本史王にオレはなる!

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