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September 14, 2025

『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤

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『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤、文藝春秋

 今年の夏の「楽しみだけの読書」で読んだのはこれでした。個人的には刺さる内容で、『斜陽』、『されど、われらが日々』、『赤頭巾ちゃん気をつけて』、『限りなく透明に近いブルー』など取り上げられている小説は、小説をまだ読んでいた学生時代にだいたい読んでいましたし、それが戦前の日共から朝鮮戦戦争、新左翼運動とその終焉までの若者の心象を描くというのにそそられて。

 江藤淳さんは、ご存命の時も「なんで米軍の駐留政策にそんなにこだわるの?」と思われていたし、ぼくは大好きだった山口瞳さんを異常なまでに酷評したこともワケわからないけど、今みたいに忘れ去られるのも変かな、とも思っています。

 『されど、われらが日々』は武装闘争時代の日共、『赤頭巾ちゃん気をつけて』は新左翼、『限りなく透明に近いブルー』は戦後左翼運動の終焉をそれぞれ表した文学だと思っていますが、実は太宰治も江藤淳も戦前の日共には関わっています。《弘前高校から東京帝大(仏文科、中退)にかけて、太宰は非合法だった共産党の地下活動に、従来の想定よりも深く主体的にかかわっていた。保守派の重鎮となる江藤も、太宰の死に接した湘南中学時代には、マルクス主義の歴史家・江口朴郎の私宅で勉強会を開き、しかも「こんな研究会には我慢がならない。実践運動をはじめなければだめだ、と」感じていたという(会の開催を持ちかけたのは、中学で1学年上の石原慎太郎)》(k.295、kはkindle番号)。

 著者の與那覇さんによると、これらの小説群から読み取れることは、改革を目指しては挫折して、イチから出直して、結局、次の世代には何も残さなかった運動ではないか、と。「充分に悲劇的でもなければ充分に喜劇的でもない、要するに感傷的なのだ」と。

『斜陽』

 例えば《『斜陽』からは天皇の下に日本人がたどった「恥ずかしい過去」の軌跡が、走馬灯のように浮かび上がる》(k.335)のですが、心中死した相手からは「コミュニストをどうしてやめたのか」とずっと太宰は問われていたそうです。《太宰は4回の自殺未遂をしたが、それらは戦前のかぎられた一時期(1929-37年)のことで、それぞれに理由があった。これにたいし48年の玉川上水入水は、流行作家となり全集の刊行も決まった時期のことで、生活的にも充実していたはずだった》(k.3551)と。

 《片山総理などが日本の大将になったということは、やはり嬉しいことではないかと思いながらも、私は昔と同じように、いや或いは昔以上に荒んだ生活をしなければならん。 1947年11月の『小説新潮』1巻3号の「吾が半生を語る」欄で、太宰治はこう語っている》(k.520)そうですが、これは個人的に凄くよく理解できる心証です。「片山と芦田の連立内閣は、いわば斎藤反軍演説に殉じた者の同窓会」だったと位置づけられますが(五百旗頭、『占領期』、380頁)、片山と芦田によって《法律上の「家」制度を廃止する民法改正、不敬罪や姦通罪を削除する刑法改正は保守政権では困難であり、(GHQも望んではいたにせよ)社会党を含む中道連立ゆえのイニシアティブで進められたと評価されている》(k.723)。

 こうした中、49年の総選挙で35議席を得て躍進した日共は、51年10月の五全協で毛型の暴力革命をめざす新綱領を採択。平和への復帰ではなく、むしろ再度の「戦争」へと突き進む。それは50年6月に始まった朝鮮戦争と51年9月の中ソ両国を排除した対日講和条約に影響されたもので、武装闘争路線はソ連が指示したものとみられていますが、52年10月の衆院選では日共の当選者はゼロとなります。

『されど、われらが日々』

 こうした運動の渦中で翻弄された活動家を描くのが『されど、われらが日々』なのですが、新しい事態になっているにもかかわらず、「あなたまかせ」の転向は続ききます。

 「転向」は戦前の日共だけでなく、敗戦にともなう日本人すべての体験となっていましたが、戦後になっても日共武装闘争からの「転向」は、『されど、われらが日々』で自殺する佐野にとっても「ただ嬉しい、嬉しい」ものだったとされています。

 53年3月にスターリンが死去
 主人公文夫と佐野が地下に潜るのは54年の秋
 しかし、54年の夏には亡命中の幹部が六全協の草案をまとめ
 55年1月に極左路線を清算

 という流れのなか、留年した佐野や文夫の大学卒業は58年3月。文夫の修士課程修了を待って節子との挙式は60年の春に予定されていましたが、第一次安保闘争の抗議活動がその頃から燃えさかり、文夫はF県(福井か)、節子は東北へ去ってゆくことになります。

 当時はこの文夫の大学院修了の2年間という時間軸が読めませんでした。

 また《実は朝鮮戦争の時代、日本共産党の活動家は在日朝鮮人が多かった。しかし武装闘争を放棄した六全協に前後して、彼らは党籍を離脱させられる。「最前線に立った朝鮮人日本共産党員たちの日本党籍は失われ〔19〕」、冷戦下のアジアの苦難もまた、戦後日本の視野の外へと去ってゆく》(k.1104)という指摘にはハッとさせられました。ナベツネが取材しようとした山村工作隊の部隊の隊長も半島の方だったな、と思い出しました。

 
『赤頭巾ちゃん気をつけて』

 64年に10年前の学生運動を追悼した『われらが日々』が最も売れたのは70年安保の時代だったそうで、こんなところにも「ひとつ前」の類似の体験が系譜として語られず、新たな世代の手で単に「上書き」されてしまう、と與那覇さんは綴りますが、庄司薫は柴田翔の二歳年下になります。

 薫くんシリーズの二番手役、小林のモデルは江藤淳ではないかという指摘にはなるほど、と思いました。入試の中止とは無縁に「おれは前から慶応に行くことに決めていた」わけですし、「漱石が大好き」とも語っていました。また、作中で「丸山眞男」の弟子だったのはこの兄で、一緒に泊まる政治学者の「中村さん」は『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』で知られる萩原延壽のようです。

『限りなく透明に近いブルー』

 沖縄復帰の72年は金日成の還暦にあたり、北朝鮮と朝鮮総連は帰国事業を強化して十数万人が動員されていたそうですが、もちろん第一次の帰国事業の失敗は知れ渡っており、渡った数は少なかったようです。半島で奇妙なナショナリズムが盛り上がるなか、「日本」で唯一ナショナリズムが残っていたのは沖縄だったそうです。ところが、元は独立した政党だった沖縄自民党は70年に自民党沖縄県連へと改組し、73年には瀬長亀次郎の人民党が日本共産党に合流するなど55体制に組み入れられていきました。

『ねじまき鳥クロニクル』

 大佛次郎の『宗方姉妹』と村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は半世紀近くの時を超えて、大陸で響きあうモチーフを持っています。

 『宗方姉妹』の三村亮助に刻み込まれた大陸開発の幻想は、満洲に配属された配属田中角栄によって日本国内にダウンサイズした形で反復され、それが行き詰まった後に『ねじまき鳥クロニクル』の平成が訪れる、という流れはなるほどな、と。『宗方姉妹』は50年、小津安二郎によって映画化されているというので、いつか観たいと思います。

江藤淳の陰謀論

 江藤淳は陰謀史観に近い「日本人はアメリカに洗脳された」論は、それによって論壇から干されるのですが、現在でもWGIPこと「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は《キャラクター商品化された歴史エンタメと、江藤のGHQ批判を借用した精力剤のような愛国ポルノが氾濫》(k.2071)という形で残っています。

加藤典洋

 加藤典洋さんの本はあまり読みませんでした(柄谷行人とその参謀役だった浅田彰も同じように読んだことありません)。でも、以下のところはなるほどな、と。《1966年の入学時には吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(前年刊)が囃されていたにもかかわらず、70年代初頭には――テクスト論の起源にあたる――ソシュール言語学にその座を奪われていたこと。当初は吉本派の左翼学生を見下していた加藤自身が、いつしか社会で忌避されるみすぼらしい活動家崩れになり果てたこと。専攻するはずだったフランス現代文学が読めなくなり、むしろ高校生の頃には軽んじていた、太宰治と中原中也に支えられるようになっていた》(k.4022)。

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