『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太
『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』内貴健太、風媒社
小牧・長久手の戦いのハイライト、池田恒興、森長可らの三河中入り軍を家康軍が破ったのは4月でしたが、外出するときにカバンに入れて読んでいた『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』をそろそろ紹介します。
花粉の季節で目が効かず、集中力もない中、移動中の無聊をなぐさめてくれました。いつか、春の季節にこの本を片手に羽黒城から小牧山城、長久手城あたりを歩いてみたいと思います。
日本史は(も)素人なので羽黒城が梶原景時の孫・影親が、一族を滅ぼされた後、頼朝の愛馬「麿墨(するすみ)」を伴って落ちのびた先に築かれたというのは知らず、本当に驚きました。羽黒城はその子孫の景義が信長に仕えて三千石の領主となった時まで居城だったとのこと。しかも、その景義は本能寺の変で殉死したとは(p.57)。
大留城もぜひ訪ねてみたい城です。大留城は足利義輝配下の村瀬氏が築城したとされ、合戦当時は信雄・家康側のつくのが筋だったが、池田恒興らの大軍を前に受け入れます。しかし、裏では小牧山にいる家康に三河中入り軍の行軍状況を報告、正確な状況把握に協力したとのこと。城跡碑しかないとのことですが、どこか詰めの甘い池田恒興、大軍相手に玉砕するのではなく、裏で敵方にも通じるという当時の武士のあり方、それを活用する家康の度量とか、いろんなものを感じることができそう(p.91)。
長久手の戦いで敗走した池田・森軍の兵士が落ちのびたのは大草城。家康は大草城の攻撃を命じますが、秀吉の大軍が接近しているとの報告を受けて攻撃を中断。小幡城に引上げます。家康が攻略できなかったということで、徳川家によって大草城の跡は抹消されたかのように残っていないとのことですが、籠城していた侍大将たちは大草村で帰農したとのことで、なんとなくホッとさせられます(p.103)。
池田・森軍が敗北したのは信雄に従っていた丹羽氏重が守る岩崎城を攻め落としたものの、首実検をしながら食事をとっていた最中に秀次敗走の知らせを聞き、あわてて長久手へ引き返したことにあるといいます。氏重が池田・森軍による城攻めで時間を稼がなければ、家康はたとえ池田・森軍を打ち負かせたとしても、追ってきた秀吉に追いつかれて粉砕させられていた可能性があり、家康は氏重こそ武功一番であると称えた資料もあるそうです。そうしたことから空堀を含めて良好な状態で残っているとのこと(p.135-)。大草城との対比は、まさに歴史は勝者によって書かれるし、残されるんだな、と。
長久手の戦いの後、秀吉は信雄の本拠地に近い蟹江城を奪うことで信雄と家康の連絡船を分断しようとします。調略によって蟹江城に入った滝川一益は、家康が総動員した諸将を前に二週間足らずで城を明け渡し、怒った秀吉によって追放されます。江戸前期に書かれた『老人雑話』の《賤ヶ岳の戦いは太閤一代の勝事、蟹江の軍は東照宮一世の勝事なり》という言葉がうなずけます(p.173)。
小牧・長久手の戦いは、そのダイナミックさ、残されたエピソードの豊富さを考えると、本当に天下分け目の戦いだったんだな、と改めて感じます。
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