『われもまた天に』古井由吉
『われもまた天に』古井由吉、新潮社
古井由吉さんは小説よりもエッセイが好きというと、ファンには怒られそうですが、お亡くなりになってから出た『われもまた天に』を久々の紙の本で読みました。
古井さんはコロナがいよいよ問題になってきた20年2月に肝臓癌でお亡くなりになっているんですが、その前年まで「新潮」でエッセイを連載していたんです。
老いの繰り言というか、足腰が弱くなり、あまり外にも出られず、さらには多少アルツも入っているんじゃないかとハラハラするような内容が胸に迫ります。
痛々しい感じもして、最後の絶筆は途中までしか書けなかったみたいですけど、あそこまで肉体が衰え、精神も落ち込んでいても、ここまで書けるというのは凄いな、と。
老人特有の中途覚醒の時に感じる朦朧とした感覚と記憶の混濁を描いていているような内容が多く、こうした感覚の文章というのは、個人的にあまり読んだことがなかったです。
コロナ前年は割と寒い気候だったのかな、なんてことも思い出しながら読みました。
以下は、一番印象に残ったのは、父親の顔を思い出すところ(p.98)。
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浮世の果ては皆悪尉なり、と戯れに詠んだことがある。芭蕉の名付句と言われる、浮世の果ては皆小町なりの、捩りである。六十代のことだった。あの父親の息子であれば、自分の内にも悪尉の面相がひそんでいて、さらに老いるにつれてあらわになるのではないか、と未明の寝覚めに手洗いに立ったついでに鏡をのぞけば、それらしい面相が浮かびかからないでもない。それでそんな悪戯に思いついたものらしい。まだ壮健の内の諧謔ではあった。
自身いよいよ老いて入退院を繰り返し、高齢の病人たちの様子にも接するようになるにつれて、今の世の年寄りこそ老病について、もしかすると生死についても、昔の人間よりはよほど、おのれのつましい分をおのずとわきまえさせられているのではないか、と考えるようになった。看護婦に文句をつけてからむ病人もあることはあるが、宥めるのにさほど手間がかかるようでもない。夜更けに声を立てる病人は毎度あり、人の気を引くような、厭がらせでもするような口調で言いつのりかけるが、そこで抑制がかかり、自嘲めいたつぶやきになり、まもなく止む。
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悪尉(あくじょう)というのは能の恐ろしげな表情の老人の面で、父親がその悪尉のような顔になってしまったということは、自分もそうなるかもしれないわけで、《浮世の果ては皆悪尉なり》というのは、自分の行く末もみているのかな、と。
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