『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』平山優
『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』平山優、角川新書
小牧・長久手の戦いについては、高校生ぐらいの時から判然としない印象があり、司馬遼太郎の『新史 太閤記』でも、小牧城から出てこない家康に対して怒った秀吉がお尻ペンペンして挑発したなんていうエピソードぐらいしか印象に残っておらず、池田恒興らの発案による尾張中入りは失敗したけど、秀吉による圧倒的なパワーは変わらず、なんとなく和睦した…みたいなイメージでした。対立軸は秀吉vs家康。
しかし、本当の対立軸は秀吉vs織田信雄であり、織田家の家督を継いだ信雄が秀吉に屈したことで、主従関係が逆転し、秀吉政権の成立につながったというのが歴史の流れだ、と本書は記します。
そうした認識が広がらないのは一般の読書人が手にすることのできる概説書がほとんどないこと。また、そうした概説書が書かれなかったのは《本能寺の変から家康上洛と秀吉への臣従に至る、およそ四年間の複雑な「織田体制」内部の政治・軍事動向、広域に及ぶ戦国大名との外交や、地域争乱との関わりなどを総括しつつ、合戦の背景、原因、経過、結果を叙述することの困難さにあるだろう》(k.51、kはkindle番号)。
当時は越後上杉景勝も織田氏に敵対していた時期から時間はたっていませんし、武田勝頼も滅亡したばかりでした。
《本能寺の変により、最も混乱した織田領国は、旧武田領国(甲斐・信濃・上野・駿河)であった。河尻秀隆、毛利長秀、森長可、滝川一益、木曾義昌は、信長横死を知った各地の国衆、一揆の蜂起や、上杉景勝、北条氏直の攻勢に直面した》(k.416)わけです。
本書の特徴はこうした地方の戦いとの連動が描かれていることであり、特に信州については中入りの原因にもなっていると深く分析していますが、信雄の領地となった旧伊勢北畠家も信長の粛清などもあって難治の地であり、長久手の敗戦後、秀吉が狙いを定めて攻撃し、信雄は和議を申し出る=主従逆転するしかありませんでした。
[発端]
小牧・長久手の戦いの対立軸は秀吉vs信雄です。清洲会議の後《信雄と信孝、秀吉と信孝・勝家という対立が始まり、「織田体制」の内部抗争は激しくなった。当時、これは「上方忩劇」と呼ばれ、この結果「織田体制」は、総力を挙げて北条氏と戦う家康に、援軍を送ることが出来なくなった》(k.546)というのが当時の情勢でした。
《織田家家督信雄と宿老秀吉・長秀・恒興により、「織田体制」が再編されたが、結果として、柴田勝家、織田信孝、滝川一益は排除され》(k.606)、賤ヶ岳の戦いなどで柴田勝家は滅びましたが《柴田らの遺跡を接収し、それらを織田家臣に配分(知行宛行、加増)や安堵などをする行為は、主従制の根幹であるので、当然、当主信雄が執行すべきものであった。ところが、これを秀吉が勝手に行ってしまったわけである。当然、両者の関係は、これを契機に冷え込んでいった》(k.714)です。
さらに秀吉は、将軍足利義昭の帰洛の実現に向けて調整を図り、主家信雄と、将軍義昭を従属させることで秀吉権力を成立させようしますが、ことここに至って信雄は秀吉に融和的な三家老を粛清し、家康とともに織田体制を再構築するため立ち上がるわけです。
[小牧・長久手の戦いの勃発]
《秀吉は、信雄が、自身との取次役をつとめる岡田・津川らを誅殺したとの情報を、大坂城で知ると、ただちに軍勢の招集と派遣を決断した。秀吉にとって、主君である織田家督信雄が、自身を攻め滅ぼそうと動き出したのであるから、これに対抗することは謀叛ではないと充分に主張できるものであったといえる》(k.1046)ものであり好都合だったかもしれません。《やはり秀吉にも、自身が織田の「天下」の簒奪者とみられている自覚があり、それに対する後ろめたさがあったと思われる。しかし、信雄が先に拳を振り上げてくれたことで、彼は謀叛人の烙印を押される危険性から解放され、自らの身を守るためにやむなく軍勢を尾張・伊勢・伊賀に差し向ける構図を作り上げることに成功した》(k.1091)わけです。
一方、清須城にいた信雄と家康は小牧山に急行、尾張の要所を確保します。両軍の動きは素早いものがありましたが、これによって、戦いは膠着状態に陥ります。それは両軍を隔てていたのは湿地帯だったから。秀吉が大軍を擁しながら動けなかったのはこうした地理的な要因が大きいと考えられる、と。
[日本全国を巻き込む戦いに]
両軍がにらみ合いを続けている間に、戦火は全国に波及します。《小牧・長久手合戦が、天下をめぐる「織田体制」と秀吉との抗争であったという事情から、それまで「織田体制」の枠内(和睦、従属、同盟)にいたか、もしくはその枠外(敵対関係)にあった戦国大名や国衆、一揆などは、各自の利害にもとづき、双方に味方して地域での戦いを繰り広げた。その範囲は、東北と九州を除く、本州・四国に及んだ》(k.1231)というのですから驚きです。
長年、織田は対立してきた上杉が秀吉方となり、同じく家康と対峙してきた北条氏が家康側になっていたのはいかに権力が流動的だったかが実感できます。
特に複雑で活発な動きを示したのは信州。《遠山一族は、隣接する信濃を支配する武田信玄と、尾張から美濃へ勢力を拡大しつつあった織田信長の両者と友好関係を結び、両属の国衆として生き残りを図っていた》(k.2777)が、森長可(蘭丸の兄)領となり、遠山一族は家康を頼りに落ちます。その後も不安定な情勢が続きますが、小牧・長久手の前哨戦となった羽黒合戦で森長可が敗退したことで遠山方が東美濃で蜂起。《尾張に在陣する森長可は、これに対応できず、座視せざるをえなかった。この地域での劣勢を挽回するためにも、長可は尾張の戦局を優位とし、秀吉の許可を得て、金山城に転じて対応したいと考えていたとしてもおかしくはなかろう。長可の焦りが、長久手合戦の開戦に、大きく影響していたのではないだろうか》(k.2942)というのは納得的です。
[長久手の戦いの敗北後の秀吉の巻き返し]
尾張中入りは池田恒興らの発案とされていますが《これほどの規模の作戦は、やはり秀吉が発案したと考えたほうが自然であろう。結局それが長久手合戦で失敗したため、敗戦の屈辱を糊塗すべく恒興の献策ということにしたのではないだろうか》(k.3277)というのはなるほどな、と。
長久手の合戦で敗北した後、秀吉はどうやら体調を崩し、有馬温泉で湯治をします。その後、秀吉は近衛前久の猶子として関白となりますが、「豊臣」改姓を勅許され、五摂家に並ぶ豊臣氏を創設し、権力基盤を圧倒的なものとしていき、信雄領を徐々に浸蝕し、有利な和議に持ち込みます。
[評価]
《小牧・長久手合戦は、「織田体制」の二派それぞれが、関東・北陸・畿内・西国・四国の戦国大名、国衆、一揆などを巻き込みながら展開した抗争であった。そして、その勝者こそが天下を掌握する天下人となることが明確に予想されていた、まさに「天下分け目の戦い」だったといえるだろう》(k.4963)というのが著者の評価です。
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