『国家はなぜ存在するのか』の感想を書く前に『ヘーゲル 法哲学講義』を復習してみた
『国家はなぜ存在するのか』大河内泰樹、NHKブックスは面白かったのですが、その感想を書く前に長谷川宏訳の『ヘーゲル 法哲学講義』作品社を復習してみました。
長谷川訳『法哲学講義』は609頁以降に収められている『法哲学要綱』の当該§を読み、だいたいの流れを掴んでから、『講義』部分を読むという感じで読み進めました。構成は序論、第一部「抽象的な正義(法)」、第二部「道徳」、第三部「共同体の倫理」の三部。第二部の最後に《最初に自由が対象となりました。つぎに、自由が形をとったものとして主観と定義されるものが登場した。自由の土台は主観的意志ないし意識にほかならず、それが第二の要素でした。第三の要素が両者-自由の概念と主観的意志-の一体化したものです。ここに共同体がわたしたちの対象になります》とありますが、前半は自由礼賛が印象的です。
「はじめに」では自殺できるのは人間だけだというあたりの講義ならではの脇道の論議も面白い(p.40)。
《わたしが権利をもつというのは、わたしの自由が外的な物のうちに対象化されることです》(p.96)というあたりは、最初から自由が一番大切と言ってるヘーゲルならではだな、とか。
[財産]のあたりで封建制度の封土の所有者は、使用権しか持っていないために、完全な所有者ではない、ということから、封建制では交換が制限され、物の否定(自分のものでなくなる)から発生する譲渡や交換といったダイナミックな過程は生まれにくい、というあたりも痺れました。貨幣を価値が完全無欠に対象化されたもの、とするあたりや、私たちは所有物を手放すことはできるが、所有能力だけは手放せない。《わたしの人格性、万人共通の意志の自由、共同体の倫理、宗教など》は譲渡できないのだ、みたいな議論もカッコ良いな、と(p.152)。
ヘーゲルは「市民」に当たるフランス語にはbourgeios(有産者)とcitoyen(公民)があるが、ここで分析の対象とするのはブルジョワであるとして、社会はいまや様々な欲求が存在し、個人は極端な欲求も実現できる自由を得る段階に至り、そうした主観の自由を原理とする社会は私有財産の存在が不可欠となったことで「欲求の体系」がネットワーク化されたのが市民社会なのだと定義しているように読みました。そして、こうした市民社会は《欲求の対立とからみあいのなかで、過剰および貧困の舞台と化し、両者に共通の、肉体的・精神的な頽廃の光景を示すことになる》、と。
[A.欲求の体系][(a)欲求と満足のありかた]では≪法の対象は人格であり、道徳の対象は主観であり、家族の対象が家族員だとすると、市民社会の対象は市民(ブルジョワ)である。この欲求の段階にきて、人間の名でイメージされる具体的な存在が登場する。ここにきてはじめて、しかも本格的に、人間らしい人間が問題となるのである≫というしびれるフレーズが出てきます。所有や欲求には≪他人と同等でありたいという要求がただちに生じてくる。この同等性の欲求と同等をめざす模倣が一方にあり、他方には、他にぬきんでて認められたい、という、同等性の欲求のうちなる特殊性の欲求があって、この二つの面からして、現実に、欲求の多様性と拡大化が推進される≫からだ、というあたりも素晴らしい。
こうした欲求の体系が進化する≪贅沢が贅沢を呼ぶことに≫なり≪従属と貧窮の無限の増大を招来する≫と。≪人間は自然ではないし、自然のままの人間(動物)ではない。人間は反省力のある精神であって、多様化は人間につきものであり、多様化を観念的に楽しむのが人間の本性≫だからだ、と。
[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][B.司法活動][(c)裁判]について《世論は現実に存在し、現実を動かす力を持つべきであって、そのためには、公衆は、判決がどうくだされるかを知る権利があり、判決について意見や判断をもつ権利があります》(p.444)というあたりは意外でしたが、『国家はなぜ存在するのか』を読んで、なるほどな、と納得したところです。
[C.社会政策と職能集団] Polizei(社会政策、警察)という言葉はギリシア語のPolis(都市国家)とPoliteia(政治)に由来する言葉でという解説あたりから社会政策を説明しはじめます。
《だれもかれもが社会政策の怠惰を非難するかと思うと、他方では管理過剰が非難される。管理には偶然の要素が入りこみ、それが非難を生む原因ですが、これは避けがたいのです》あたりも『国家はなぜ存在するのか』で最初に議論されていたあたり。
[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][C.社会政策と職能集団]は『国家はなぜ存在するのか』で重視しているコルポラツィオンに関してでしょうか。コルポラツィオン=職能集団は《成員にとって、共通の、実質的な、内在的な、固有の目的》を実現するために《共同のまとまりをなし、そのための活動をおこなう》ものである、と。人間はやりたいことをやるのが一番いいことではなく、生計を立てて生きていくことが大切なのであり、仕事を一緒にやる人たちが集まって集団をつくり、共同の利益を追求することは、特殊な利益を追求するにせよ、自分の所属する≪共同体のために働きたいという精神の欲求に、活動の場を与え≫ることになり、国家の土台となるという議論になっていきます。
働かない賤民のダメさについて延々と語る《かれは、生計の道を見つける権利が自分にあると知っているから、貧困は不法であり、権利への侮辱であると考えて、当然のごとく、不満をつのらせ、その不満が正義の形をとります》というあたりは『国家はなぜ存在するのか』のペーペルのことでしょうか。
そして市民社会にこうした人びとが出現するのはそれを《防ぐのに十分な共同財産を所有していない》からだ、と結論付けます。
≪結婚の神聖さと職能集団のもつ誇りは、市民社会の解体をつなぎとめる二つの軸である≫≪市民社会は、すべての貧困な家長や、破産した家長、および、数多くの賤民を扶養する義務があって、さもないと社会が危険にさらされます≫と書いたあと、最終章「国家」の議論が始まります。
[第三章 国家][A.国内法] [I.国内体制] [(a)君主制] ヘーゲルは《「意志するわたし」》という役割が必要だから、君主は必要だと説きます。最終的に「意志するわたし」があらゆるリスクを背負って決断することは、国家が自由な人格として行動していることの証だから、というあたりも『国家はなぜ存在するのか』で議論されていました。
ということで第三部「共同体の倫理」中心の『国家はなぜ存在するのか』の感想を書く前に、法哲学の講義を復習してみました。
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