『国家はなぜ存在するのか ヘーゲル「法哲学」入門』
『国家はなぜ存在するのか ヘーゲル「法哲学」入門』大河内泰樹、NHK
ヘーゲルは1831年にコレラに罹ってあっけなく死ぬのですが、同時期にプロイセンはポーランド、ロシアとの戦争でクラウゼヴィッツ、グナイゼナウの2将軍もコレラで失っている、というあたりからの書きだしは「掴みはOK」という感じ。こんなところから医療ポリツァイについて説明し、ヘーゲルの法哲学と国家論に向かいます。
長谷川宏訳『法哲学講義』でも[C.社会政策と職能集団] Polizei(社会政策、警察)という言葉はギリシア語のPolis(都市国家)とPoliteia(政治)に由来する言葉でという解説あたりから社会政策を説明しはじめますが、著者はコロナ禍でのワクチン接種問題から、どれほど公権力は住民に強制力を使えるかという問題を投げかけます。
《医療ポリツァイと訳したのはドイツ語で「メディツィーニッシェ・ポリツァイ medizinische Polizei」という言葉で、英語に直訳すると「メディカル・ポリスmedical police」ということになります。英語やフランス語の「ポリスpolice」もそうですが、この「ポリツァイ Polizei」という言葉は現在のドイツ語では「警察」を意味する言葉です。そうすると「医療警察」と訳すこともできそう》(k.257、kはkindle番号)ということですが、遅れていた領邦国家にすぎなかったプロイセンを近代化に向かわせた重要なファクターが「医療化」であった、と。著者は《医療ポリツァイは、フーコーの言葉を使うならば、国家が「医療化」を進めるために導入した行政機構・装置です》とも補足します(k.289)。
医療ポリツァイの重要な要素に住民を人口として統計的に管理することがあげられますが、これはフーコーが「生権力」と呼んだ人間を生かす、肯定的に働く権力のようだ、と。《従来の権力は、たとえば敵や罪人に死をもたらすものだと見なされてきたのですが(フーコーはそうした権力を「主権権力」と呼びます)、生権力はそうではなく、死亡率に影響を与えようとします。疫病が発生したときに、いかにしてそれによる死亡率を減らすかという、コロナ禍において世界中で表面化した権力が、この時代にすでに存在していたことが浮かび上がってきます》(k.331)。《フーコーが述べるように、こうして医療・医学というものを用いて、人口として把握される住民を統治しようという権力形態が当時生じていたのであり、その典型的な道具が統計》だった、と(k.352)。
実は、コロナ禍での様々な施策について、20年頃に自分自身もヘーゲルを引き合いにして
《自称専門家がコロナ対策班の「責任」を追求するのは本当に日本的
事故なんかでも、免責の上で喋らせないと本当の事は出てこないので社会的リスクは高くなる
未知のウィルスに対する対策を結果論で追及するのは誰でも出来ること
ヘーゲルなら批判は子供でもできるというだろうな
しかも結果は上々なのに》
なんてことをポストしていたんですが《ヘーゲルが生きていたのも感染症の時代であり、彼はその時代にパンデミックを引き起こしたコレラで死んだと考えられています。まさしく、感染症やその予防接種に対して社会がどう向き合うか、その際の国家の役割とは何かが議論されていた時代に、ヘーゲルは自分の社会哲学・国家哲学を練り上げようとしていました》(k.100)とまでは思い至りませんでした。
《コロナ禍が私たちに可視化したのは、私たちの生活の隅々にまで、「私たちのため」といって介入してくる国家の姿でした》(k.115)ということで、フーコーの「生権力」という概念を借りながら、19世紀のヨーロッパで実現されつつあったこの権力形態を分析しようというのがこの本。
《二一世紀のコロナ禍においても、ワクチン接種を強制すべきか、そもそも国家にそのような権限があるのかについて、世界中で議論されましたが、種痘をめぐってすでにこの時代に、同じような議論がなされていました。ここではとくに学校に通う子どもたちに種痘が強制できるのかが議論になっています。 ヘーゲルは、子どもたちは「家族」のためではなく、「市民社会」のために育てられる権利を持っているのだといいます。これは別に、社会の役に立つ人にならなければならないということではなく、むしろ自立して職業を持って自分で生きていけるように育てられる権利があるということです》(k.480)
『法哲学』は序論、第一部「抽象的な正義(法)」、第二部「道徳」、第三部「共同体の倫理」の三部構成ですが、『国家はなぜ存在するのか』は第三部「共同体の倫理」について主に扱います。
こうした問題を考える際《ヘーゲルにとって最も重要な価値は自由です。そこで「法」は、「自由の実現」である、といわれます。つまり、精神的なものであれ制度的なものであれ、自由が人々によって共有されるために何らかの形で存在しているもの、そうした存在が「法」と呼ばれます》(k.535)というのは重要な視点。
「わたしは、意志することではじめて自由になり、自由な意志となるのですが、この自由を可能にするのは理論の力です。自然のままの内容を一般的な内容へと高めたり、一般的な内容をつくりだしたりするのは、思考の働きなのです」(長谷川宏訳『法哲学講義』、p.36)、「法(正義)の内容は自由を否定したり制約したりするものではなく、法(正義)は自由を肯定し、自由は法(正義)のうちに十全のすがたをあらわします」(ibid, p.37)などの自由礼賛は印象的ですらあります。
[自由と貧困]
ヘーゲルは「家族」、「市民社会」、「国家」が近代社会を構成する諸制度であり、近代国家は人間を生かす、肯定的に働く権力だとしています。
ヘーゲルは「誰も、他人に、パンを与えることなしには、ひとかけらのパンも口に入れることはできない」(一八二二・二三年講義Ⅱ 三六九頁=GW 16-2, 962)と語っていますが、これこそが《利己的な経済活動を通じて人々が結びつき、誰も全体のことを考えているわけではないのに、全体として一定の秩序が成り立っているという、考えてみれば不思議な社会の姿》(k.597)であり、 アダム・スミスが「見えざる手」の働きとして描いた社会秩序を、ヘーゲルは「欲求の体系」と呼びます。
しかし《ヘーゲルはこの欲求の体系にも欠陥があるといいます。そしてその欠陥を補完するものとして、三つのもの、三つの制度を「市民社会」章で描いています。その一つがポリツァイなのです》(k.959)。ヘーゲルは「普遍と個別の一致の必然性を保証するには十分ではない」と語りますが、《自由な経済活動による人々の結びつきだけでは人々の幸福は保証されない》のです(k.964)。
その中でも問題視しているのがペーベルの問題。《貧困それ自身は、誰もペーベルにはしない。ペーベルは、貧困に結びついている 心持ち によって初めて〔ペーベルとして〕 規定される》(k.1088)としていますが、これはマルクスならルンペン・プロレタリアートのカテゴリーなんじゃないかと思います。社会が富めば富むほどペーベルは増えるというのは今にも通じる凄い洞察力だな、と改めて感じました。
大河内さんはアーレントのモッブの議論を引きながら、今で言うこうした「無敵の人」は、自分を締め出した社会と、自分を代表していない議会を憎む、と。そして、落ちこぼれのモッブの指導者はしばしば犯罪者で、社会通念上、普通なら信頼はできないハズだが、モッブにとっては「自ら退路を断って進んでいる」と見えるから、かえって称賛する、と。アーレントはモッブはこうした称賛か投石しかできないとしているのですが、ヘーゲルもペーベルは感情に従って何かを破壊する集団生活とみています。そして、ヘーゲルは政府が生活保護を与えたり、富者の慈善活動も彼らの誇りを傷つけるとまで書いていたのには改めて驚きました。今の状況を予言しているような…。
《結局、「欲求の体系」としての市民社会は、私たちに生計を、つまりは生命の保障を与えてはくれません。司法の存在もそのためには十分ではありません。それだけで人々の「福利」「幸福」を実現することはできないのです。しかもそのことを、ヘーゲルはここで「生計の確実さは普遍的目的でなければならない」とか「生命の権利」という印象的な強い言葉を用いて、表現しています。 そして、まさにそのためにポリツァイが必要だとヘーゲルはいい》(k.1131)《司法によって人格と権利が保障されたとしても、これらを 毀損 する人が罰せられなければそもそも欲求の体系は成立しないからです。 司法だけでは、法を犯した人が罰せられることはありません。つまり、そもそもポリツァイ、この場合はまさに警察が、「犯罪者を法廷に連れてこなければならない」》(k.1172)と硬軟両方の側面がある、と。
《ヘーゲルの「法哲学」は、ポリツァイにおいて現れるような国家権力を、全否定するのでも全肯定するのでもなく、批判的に組み込んでいます。それは、市民の安全と自由という二つの一見相反する原理の間の 隘路 を行こうとする試みだということができます》(k.1378)とした上で、《市民社会を補完するためにヘーゲルが持ち出す、第三の概念が登場することになります。それが「コルポラツィオン」という概念です。この語も再び、ドイツ語の音でカタカナ表記せざるを得ないのですが、このコルポラツィオンに、ヘーゲルは普遍と個別の媒介、そしていわゆる「理性国家」を実現する重要な機能を見て取ることになります》(k.1390)。《コルポラツィオンは、英語で表記するならcorporation、つまりコーポレーションとなります。これは、今日では「会社」を意味する言葉になっていますが、もともとは「団体」一般を意味する言葉でした。語源をたどるとラテン語で「身体」を意味するcorpusにさかのぼることができます。つまり、複数の人間が文字通り 一体 となっているのが「団体」だということです》(k.1509)。
ヘーゲルは『法哲学講義』の[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][C.社会政策と職能集団]の中で、コルポラツィオン=職能集団は《成員にとって、共通の、実質的な、内在的な、固有の目的》を実現するために《共同のまとまりをなし、そのための活動をおこなう》ものである、と。人間はやりたいことをやるのが一番いいことではなく、生計を立てて生きていくことが大切なのであり、仕事を一緒にやる人たちが集まって集団をつくり、共同の利益を追求することは、特殊な利益を追求するにせよ、自分の所属する≪共同体のために働きたいという精神の欲求に、活動の場を与え≫ることになり、国家の土台となるという議論にもなっていきます。
《ヘーゲルは諸団体に細分化されていることこそ、「それがもともとそうであるところのものとしての」(第三〇八節) の市民社会のあり方》だとしています(k.2163)。そして《ヘーゲルが執行権として考えているのは、ポリツァイとコルポラツィオンを結合させたものです。コルポラツィオンは市民社会において、上から下に働くポリツァイに対して、下から上への働きとしてこれを補完するもの》としてとらえていました(k.2300)。
ヘーゲルはフランス革命を、社会の中で自尊心を失ったペーベルのような人々が熱狂に駆り立てられて引き起こした批判していますが、《フランス語では「福祉国家」のことを「摂理国家État-providence」といいます。étatは国家のことですが、後半のprovidenceの「pro-」は前という意味で、「vidence」は元々ラテン語で「見るvider」という動詞から来た言葉ですので、これも「前もって見る」ことを意味します。providenceも単独では「摂理」と訳されるので、フランス語では今でも福祉国家のことをまさに摂理国家というふうに呼んでいることになります》(k.1206)なんてあたりも印象的。
このほか、シュミットは主権論で、例外状態における大統領の無制限な権限を主張したのは、ワイマール期のドイツでは、第一次大戦後の混乱の中、この条項が乱用され、ナチスの登場を準備したからだ、という議論も面白かった(k.2428)。
そして本書はシュトラウスによるヘーゲル最後の法哲学講義について残されている唯一の講義ノートで締めくくります
..........Quote.............
自由は〔人間の〕 最も奥底にあるものであり、この自由から、精神的世界の構築物全体がそびえ立つことになるのです。(一八三一・三二年講義=GW 26-3, 1495)
.......End of Quote.........
それにしても《ほとんどを幸いにも日本語で読むことができます。 このことは、世界的に見ても珍しいことであり、ヘーゲルを読もうとする日本語使用者にとっては大きな利点》というのは知らなかったな(k.136)。ぼくも訳もわからず読んだクチですが、ヘーゲルに難解さに普遍のヨーロッパを感じとり、難解ながらも翻訳に取り組んだ先人たちの存在はありがたい限り…。
《ヘーゲルの「法哲学」には次の三つのものがあるということになります。 1.ヘーゲルが『法の哲学要綱あるいは自然法と国家学概説』として一八二〇年に出版したもの、またはそれを(多くの場合は補遺を付け加えて) 再版したもの。 2.『エンチュクロペディ』第三部「精神哲学」第二編「客観的精神」(第一版:一八一七年、第二版:一八二七年、第三版:一八三〇年)。 3.「自然法と国家学」などのタイトルで行われた「法哲学」に関する講義の聴講者による講義録》があるのですが、これ、ほとんど日本語で読める
んですから…(k.450)
前も書きましたがNHK出版は西研『ヘーゲル 大人のなり方』も出すなど、初心者向けヘーゲルの良書を出す感じです。
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