『御堂関白記 藤原道長の日記』角川ソフィア文庫
『御堂関白記 藤原道長の日記』繁田信一編、角川ソフィア文庫
まさか『御堂関白記』をダイジェストにせよ読むことになろうとは思いませんでしたが、面白かったです。
書き始めの頃、道長しか宮中に参内せず、アタマ来て日記を半年も休んでしまう道長とか、犬が食った死体が内裏や寺社の軒下に転がり、そういった穢れにヤんになる道長とか、いきなり抱きしめてあげたくなる感じ。
正妻倫子の子である頼通を可愛がる道長も分かりやすいし*1、一条天皇の中宮となった彰子の無事出産を祈願するための金峰山詣は往復十数日をかけてしっかり歩いて完遂するのですが、お礼参りは穢れがあったからとあっさりと中止する道長も良いな、と。
解説を読むと、書き下し文の文法とかメチャクチャな道長に驚きます。あんなに大切な一条天皇の崩御の「崩」を書けずに「萌え給ふ(萌給)」と『御堂関白記』に書き残してしまうほど。漢詩大好きな一条天皇に合わせるため、下手な漢詩の会を主催し、そこへ接待ゴルフのように付き合わされる平安貴族も大変だなと感じますが、一向に漢文が上手くならない道長も可愛い。
漢字をあまり勉強していなかった道長については解説でも何回も指摘されています*2。
中世の鎌倉時代は東国国家論的に理解していたんですけど、御堂関白記を読んでいると、古代の平安貴族の政治性の高さに驚かされます。権門的な見方はなるほどな、と改めて感じます。
それにしても六国史が、九世紀末で終わっているので、平安時代史はフロンティアなんですよね。
《藤原道長の書いた日記『御堂関白記』が広く一般に知られるが、史料として刊行されたのは一九五○年以降のことである。摂関期の研究は一部の研究者によって行われていたのだが、史料が公刊されるようになってようやく平安時代史の研究も盛んになってきた。
摂関期の日記や儀式書を読み解けるようになったのはこの三○年と言っても過言ではない。日本古代史の中で、平安時代史はフロンティアなのである。
また、日記、儀式書や文書はその読み方も六国史に比べると個々に難しい。『日本書紀』をはじめとする六国史は一次文書を編集して出来上がっているので、ある見方で統一されているという問題はあるかもしれないが、筋道がたてられてまとめられており、その分読みやすい。
六国史を編纂していたのは律令国家である。六国史編纂後、正史を編纂することが全くなくなったかと言うとそうではない。「新国史」という正史を編纂する事業は継続されていたのだが、結局完成はしなかった》と『摂関政治』古瀬奈津子、岩波新書、2011の「はじめに」に書かれているのを思い出しました。
それにしても『御堂関白記』読んでみると、さすがに佐藤英作日記なんかより、よほど上品だな、と感じますね。こんど出てきそうな宮澤喜一日記がどの程度か楽しみではありますが。
それにしても平安時代の日記、「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」にたくさんございます!
藤原道長『御堂関白記』
藤原行成『権記』
藤原実資『小右記』
紫式部『紫式部日記』
いくつか読んでみようかな、と。
晩年は兄、道隆のように水飲み病(糖尿病)に苦しみ、視力も衰えるのですが、仏道に反するものの肉魚を食べタンパク質を取るようにするなど、合理的な対処方法に感心します。晩年は御堂関白の名で呼ばれるようになった法成寺で九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引いて息を引き取ったのですが(源信『往生要集』のように)、兼好法師は『徒然草』第二十五段で、大火や戦乱によって伽藍が荒廃したことを世の無常として喩えているな、とか思い出しました*3。
*1
頼通の母親は源倫子であり、頼宗の母親は源明子であるが、右の一件に明らかなように、倫子と明子との二人の妻たちを同等に扱うように努めていた道長も、倫子所生の子供たちと明子所生の子供たちとを同等に愛そうとはしなかったようなのである。
k.878(kはkindle番号)
*2
『御堂関白記』に残された藤原道長自筆の漢文は、その少なからぬ部分が、常識的な訓読法では読み下し得ないような、何とも個性的なものであり、言葉を選ばずに言うならば、ずいぶんとでたらめなものなのである。しかも、『御堂関白記』の記述には、とにかく誤字や脱字が多い。
k.943
藤原道長が「降」という漢字を覚えたのは、この頃のことだったのかもしれない。というのも、降水があったことについて、寛弘七年までの『御堂関白記』には、常に「雨下」「雪下」と見えるのに対して、寛弘八年以降の『御堂関白記』では、「雨降」「雪降」と見えるようになるからである。
k.4280
*3
《京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門、金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊たふとくて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし》
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