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October 14, 2022

『太平天国』菊池秀明

Taihei-tengoku

『太平天国 皇帝なき中国の挫折』菊池秀明

 これをこちらでアップするのを忘れていました。

 著者の問題意識は「強国化」を推し進める現在の中国の状況を踏まえ、中央集権国家しか中国の選択肢は歴史上なかったのかという問いを、郡県制ではなく古代の封建制を志向していた太平天国の挫折を通じて、「皇帝なき中国」は可能なのかという現在の中国が抱える課題を浮かび上がらせるというもの。

 著者の提示する洪秀全はファナティックな誇大妄想狂的なイメージではなく、客家出身ゆえの差別に苦しむ中で、伝統文化の否定ではなく、伝統への回帰とその見直しをキリスト教との出会いはたした人物として描かれています。太平天国は軍師として政治・軍事的な大権を任された楊秀清と五王が宗教的である洪秀全を支えるという体制でしたが、東王としてNo.2だった楊秀清だけでなく、その統治下にあった無辜の民までも皆殺しにして権力を再奪取します。結局、洪秀全は「他者への不寛容さ」という問題を克服できず、諸王に統治を分権的に任せるという制度を確立できずに終わったということなのでしょう。

 しかし、太平天国の流れを読む限り、カルト的集団の中での権力争いで洪秀全はますます独善的になっていき、現実との接点を失い、諸王同士の内ゲバも発生する中で自滅していったという歴史しかみえず、中国社会を分権的に支配する体制は可能だったのか、という問題的はそれほど深くは掘り下げられていなかったようにも感じます。しかし、それ以上に、1864年に終わった14年にわたる太平天国の内戦は江南三省(江蘇、安徽、浙江)に大きな被害を残し、江蘇だけで死者は2000万人を超えるという中国近代の血塗られた、分岐点としての大きさに改めて驚きます。実際、香港の中国人キリスト教社会から「第二の洪秀全」を自任する孫文が登場したという指摘には不意を突かれました。

 著者は満洲族の王朝である清朝の中で、客家など下層民がかえって抱いていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」というエスノセントリズム(自民族中心主義)を指摘しますが、この後、欧米だけでなく、日本にも侵略される中で、漢民族全体にルサンチマンに満ちたエスノセントリズムが広がったという感じになるのかな、と個人的には感じました。

 「はじめに」では《自分たちの原則や価値観を世界に向けて発信する中国のスタイルは、現代的な装いをまとった中華帝国の復活なのだろうか。国家主席の任期期限を撤廃して中央の権限を強化するなど、毛沢東時代への回帰を思わせる習近平の共産党体制は、歴代王朝の統治スタイルであった皇帝政治の再来なのだろうか》《中国ではこうした中央集権的な統治を「郡県制」、分権的な支配体制を「封建制」と呼びならわしてきた。だが始皇帝の統一以来、最後の王朝である清朝まで郡県制が主流だったという事実は、現代中国の政治体制に大きな影響を与えている》として、中国において政治レベルでの多様性が確保されていない原因は分権的な政治体制が生まれなかったからとして、始皇帝以前の複数の王からなる復古主義的な政治体制をつくろうとした太平天国を見直す、としています。そして、太平天国は南北戦争、戊辰戦争と並ぶ人類史上最悪の内戦で、惨禍ははるかに大きかった、と。

 洪秀全は後発の移民だった客家で、旧約のモーセ五書に描かれた虐げられたユダヤ人と自分を同一視していたとしています。そして、日本仏教の本治垂迹説のように、漢訳された聖書の神概念である「上帝」を中国古来の神として、分権的な古代に立ち返るべきと考えた、と。そして、アメリカ人宣教師ロバーツに洗礼を求めるも嫌がらせを受けるのですが、このロバーツは高等教育を受けていなかったそうです。著者はこうした人物を訪ねたのは洪秀全の不幸だったとしていますが、当時の中国ミッションは宗教復興運動の熱に浮かされたプロテスタントがロバーツのように個人の資格でやってきた人物も多かったようですが、どうしようもないプロテスタント系の宣教師たちによって、洪秀全とヨーロッパとのつながりは断ち切られ、ロバーツは太平天国を「クーリーの王たち」、洪秀全を狂人と呼んだといいます。

 洪秀全の創設した上帝は、偶像破壊などを行って弾圧されるのですが、イエスの託宣をする蕭朝貴とヤハウェの託宣をする楊秀清という二人のシャーマンが現れます。二人は最初の金田蜂起を指導した馮雲山から指導権を徐々に奪っていきます。二人が力を持ったのは、漢民族は根底にシャーマニズムの文化を持っているからだとしていますが、特に楊秀清は身障者で《身体的なハンディキャップをもった人間が人々の苦悩をあがなうというモチーフは、中国の民間宗教に広く見られる》ため、南京で洪秀全の上に立とうとして、最後は殺されます(p.29)。

 楊秀清はシャーマニズムのご託宣によって密会していた男女を公開斬首刑にしたり、新約聖書の『使徒行伝』、ペトロ専制下の原始共同体におけるアナニアとサフィラの突然死(刑死?)を思わせるような専制体制をやってるな、と(p.175)。新約聖書は政治的なテキストだとも思いますが、No.2の楊秀清がシャーマン的に神の声を発するのをやめさせなかったのは、太平天国の甘さだよな。キリスト教の原始共同体がペトロを排除し、ヤコブによるヘブライ回帰を経て、パウロがヒステリックに喚き散らすシャーマン的女性を排除してるのは大したもんだな、と。

 財産の共有制は、原始キリスト教会みたいな小さな組織でもうまくいかず、使徒行伝に描かれているように、ペトロの権威が揺ぎ、人間社会と同様、イエスの兄弟であるヤコブが台頭したけど、太平天国みたいな大所帯では寡婦が庇護を諸王に求くるなど、さらに苦しかったろうな、と(p.94-)。死海文書を残したエッセネ派みたいに、最初は男女を別にしていたというのにも驚く。もっとも洪秀全や諸王たちは妃を多数抱えていたのに不満が出て、結婚と夫婦同居を認めざるを得なかったというあたりのカルトっぽさも凄い。あと、集団結婚式をやったあたりも、某キリスト教カルトにそっくり(p.95-)。中には捕らえた少年に男色を迫る将校もいたとか、人間社会で、カルト宗教が権力を持つと、性の抑圧を行って、内部ではかえってはちゃめちゃになるという典型なのが興味深い。それにしても、太平天国みたいなのがあったら、社会学者の人たちは潜入取材したいだろうな、と(p.96-)。

 洪秀全が最初に出会ったのは無知で不寛容な信仰復興系のプロテスタントの宣教師だったことで、旧約聖書の偶像崇拝拒否などに異様にこだわって、カトリックのキリスト像などを破壊した、ということですが、ヨーロッパでも偶像破壊は繰り返し行われてきたので異端とも見なさない考えもあった、と(p.70)。

 ヨタ話しになりますが、洪秀全は刑法は旧約的だけど、民法は新訳的な感じがする。使徒行伝に描かれた初期共同体の共有制を拡大した感じ。

 また、研究者の方々には常識かもしれませんが、易姓革命は《天から命令を受けることは「兵権」つまり王権を与えられることだと考えられてきた》というのは知りませんでしたが、そう考えると中共と人民解放軍の成立ちがよくわかるな、と(p.30)。日本やヨーロッパみたいな封建制だと、小さいながらも所領の中で一所懸命に頑張ろうとして、あまりギャンブルはやらないようになるんだろうけど、郡県制で易姓革命説だと、一発、皇帝になれるかもしれないから、やりすぎるのかな…

 さらに、最初の拠点となった永安州時代の太平天国は、延安時代の中国共産党とよく似ている、と。シャーマニズムを知識階層だった会員から批判された楊秀清は反対派を排除したんですが、これは毛沢東が辺境で体制づくりのため粛正を実行したのと似ている、と。このことは、抑圧的な体質を刻み込んだ、と(p.50)。日本でも連合赤軍が規模は小さいけど、拠点を持って、その中で好き勝手できるようになった時の陰惨さは似ているな…。太平天国の、他者を排除してしまう不寛容さと権力集中は中国本土だけでなく、台湾や香港、少数民族にも深刻な影響を与えている、と。権力の一極集中を是正する西欧や日本の普遍的な価値も、中国にとっては屈辱を想起させるトラウマになっている、と(p.243-)。太平天国は連合赤軍みたいに内部分裂で終わったんですが…。

 それにしても太平天国が清朝と本格的な戦闘を開始したのは1851年で、膨大な死者を出した乱が最終的に鎮圧されたのは1864年。日本の場合、ペリー来航は53年で、桜田門外ノ変は1860年、王政復古は1867年ということを考えると、明治維新はエリートたちの圧倒的に少ない血で争われて、素早く体制が変わったのかなと改めて感じます。さらに、巻末の太平天国の年表を日本史の年表と見合わせると、1850年の金田村蜂起の年、日本では佐賀藩が反射炉建設していました。南京を占領した1853年はペリー来航。アロー号事件も起こった1856年はハリスの下田駐在。滅亡した1864年には長州征伐が行われていいます。太平天国は鎮圧できたけど、総じて清朝は欧州列強と太平天国にやられまくったな、と。

 幕末に日本でも活躍したパークスが、上海など租界には手を出すな、と太平天国との外交交渉も行っていたというも知りませんでした。大阪打ちこわしを太平天国と比較したりする知見はもちろんのこと、薩長などは徳川とは別政権とするリアリティは、中国での経験から得たというか、通商出来ればOKという立場だったのかな(p.210-)。薩英戦争も横浜港付近の生麦事件が発端でした。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されているのを犯されたから、イギリスは艦隊まで出撃させたんだろうな、と。

 一般に、薩英戦争によって薩摩藩は殖産興業に転換すると言われていますが、やはり、日本のいち藩にイギリスが勝利を収められなかったということは大きかったのかな、と*1。

 いろんな方が書いてるように、確かに「あとがき」は出色の出来。天狗党に加わった祖先がキリスト教に帰依したという内発が研究に結びついているし、それがコロナ、香港民主化運動の挫折という状況ともリンクしています。ちょっと書きすぎじゃないかと思うところがあったけど、岩波の編集はよく諒解したと思うし、素晴らしいな、と。

*1 『日本近代技術の形成 “伝統”と“近代”のダイナミクス 』中岡哲郎、朝日新聞社によると、幕末の雄藩は尊皇攘夷のための黒船と大砲を自力で製作するために、独自の工業化を目指すのですが、特に資金が豊富にあった薩摩藩は、反射炉を建設したほか、独自に3隻の蒸気船をつくるまでになります。その気質も含めてもっとも勇猛果敢であった薩摩藩が生麦事件の賠償を求めるイギリスと戦ったのが薩英戦争です。

 1863年8月15日《戦闘開始後45分、油断したイギリス戦艦が桜島付近に錨をおろし砲撃を開始したとき、桜島からの薩摩藩の砲弾がイギリス旗艦ユーリアラス号に命中し、ジョスリング艦長ほか八名が戦死します。このことが最後まで尾を引き、イギリス艦隊は決定的勝利を収めないまま引き揚げます》《この戦闘でイギリス側も薩摩の実力をあなどれないと認識します。しかし薩摩の側もそれをはるかに上まわって、彼我の力の格差の大きさを認識します。それはサムライ工業の苦心にはじまり、学校としての長崎で育てられた彼らの現実認識に最後の仕上げを与える、決定的な事件でした》(pp.37-38)。

 このくだりをメキシコで講義した時、《講義は冒頭から、思いがけない反応があった。第二章で書いた、薩英戦争で桜島の砲台からユーリアラス号へ加えられた一撃の話をしたとき、学生に異常な興奮が起こった。なぜ貴方は、薩摩が勝利したといわないのかという発言があり、全員を巻き込む討論になった。私は、薩摩はこの一撃によってかろうじて敗北を免れたのだ。大切なことはこの戦争をとおして、薩摩が敵の実力を認識したことなのだと応じたが学生たちは引かなかった。最後に「貴方は植民地化された国に住んだことがないから、この勝利の大切さがわからないのだ」という一撃を浴びた》《日本がこの時期に植民地化を免れたことの大切さを、彼らほどの切実な思いで受け止めてきたかという反省のきっかけとなった。その影響は本書にも示されてる》(pp.482-483)というんですね。

 ぼくも薩英戦争のこのエピソードは知っていましたが、スイカ売り決死隊と同じぐらいの重さでしか受けとめていませんでした。でも、確かにメキシコの大学院生が興奮したように、この一撃は「がさつの聞こえあるイギリス」に日本の植民地化をあきらめさせただけでなく、欧米に対抗するためには国民国家をつくり、挙国一致の体制をつくらなければならないと構想した薩摩藩と協力して幕府を倒し、新政府を打ち立てるパワーを持っていたかもしれません。

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