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May 29, 2022

『NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』』

Etika-aristoteres

『NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』』山本芳久、NHK出版

『ニコマコス倫理学』は社会的生活において徳を身につけて幸福になる方法について書かれています。いわば古代のハウツー本みたいな印象。しかも「幸福」は遠くにあるものではなく、「いま、ここ」の自分の行為に関係してくる、みたいな。そして《アリストテレスは、「よい人間」は「よい共同体」のなかではじめて生まれてくるものであり、「よい共同体」を担う存在は「よい人間」であると考え、倫理学と政治学を不可分のものと捉えていました》とクリアカット説明してくれたのが「100分で名著」。

それはそれとして何ヵ所かギリシア語のサビ落としをしていて気になったところを書いてみます。

「倫理学」は、ギリシア語の「タ・エーティカ(τα ηθικα)」で、人柄(エトス、ἔτος)や習慣(エートス、ηθos)」の積み重ねから生じてくるというアリストテレスの考えから生じると説明されていますが、このηθosは1コリ13:33の「悪い交わりは、良い習慣を損なう」で使われていて、それはメナンドロスの喜劇『タイス』(あるいはエウリピデス、ディオドロス)の引用とみなされています。パウロは古典ギリシア語の教養を確かに持っていんだな、と説明されるところ。

習慣を重要視するアリストテレスにとってアクラシア(ἀκρασία)「自制心のなさ」は大敵となります。「意志の弱さ」「悪い行為だと自覚しているのに手を染めてしまう心の傾向」とも訳されますが、新約ではここでも1コリの7:5が有名でしょうか《互いに相手を拒まないように。ただ、祈りに専念するため、合意の上しばらく禁欲し、また一緒になるというのならかまいません。これは、自分を制する力がないのに乗じて、サタンがあなた方を誘惑するようなことになるといけないからです》の「自分を制する力」が「アクラシア」です。

賢明に判断できる能力を指すフロネシス(φρoνησιs)はアリストテレスが重視した概念ですが、パウロはロマ11:25でも「兄弟たちよ。あなたがたが自分で賢いと思わないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない」で、否定的なニュアンスにしても使われています。古典ギリシア語の素養は持ちつつも、自力救済は否定する、みたいな感じでしょうか。

個人的には山本芳久先生がハイデガーもスピノザも何ページ目かで読めなくなりました(k.63)と「はじめに」で書いているところは共感しました。『哲学者廣松渉の告白的回想録』廣松渉、小林敏明、河出書房新社でもヘーゲルの『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(p.125)と告白していますが、個人的に勇気づけらますw

学生の頃読んだ本はなかなか読み返す機会がないし、哲学書は無手勝流で読んでいたので、NHKの「100分で名著」でアリストテレス『ニコマコス倫理学』が取り上げらたのは嬉しかったです。昔読んだ時には、有用性に基づく友愛は老人たちの間に良くみられるなんていう箇所(八巻三章)は読み飛ばしていたな、とか考えながら読めたのは本当にありがたかった。

以下は印象に残ったところを箇条書きで(k.はkindleの位置No.)

倫理学は哲学の一分野で、ひと言で言えば「いかによく生きるか」を考える学問です。単に考えるだけでなく、それを実践に応用することに力点を置く学問でもある。そうした意味で、倫理学は「実践哲学」と呼ばれることもあります(k.54)

哲学においては、入門的な本と、本格的な哲学書を読むこととのあいだに大きなギャップがあり、そこを埋める機会が非常に少ないという問題がある(k.82)

アリストテレスは、人は徳を身につけてこそはじめて幸福を実現できると考えました。そのため、彼の倫理学では、人間としての力量である徳を身につけることが核になってきます(k.157)

(目的論的倫理学)では「善」が一つの大きなキーワードになります。「幸福とは最高善である」と(k.166)

最高によいものを探究していくという立場が幸福論的倫理学です。これとしばしば対比されるのが、「義務論的倫理学」です。これは読んで字のごとく、「〇〇すべきだ」という義務や、「〇〇してはいけない」という禁止に基づいて倫理を考える学問です。その代表的論者がイマヌエル・カントです。カントは、人間は義務に基づいた行為をする必要があり、道徳法則に対する尊敬が重要であると主張します(k.169)

「何のために幸福になるのか」とは問わず、「幸福になる」ことが人間の行為のすべてを支えている究極的な目的としてあるのだと考える。(k.244)

アリストテレスは、こうした様々な学問を大きく三つに分類しました。理論的学、実践的学、制作的学の三つです(k.256)

アリストテレスは、「よい人間」は「よい共同体」のなかではじめて生まれてくるものであり、「よい共同体」を担う存在は「よい人間」であると考え、倫理学と政治学を不可分のものと捉えていました。実際、『ニコマコス倫理学』の最後は「それでは、最初のところから論じることにしよう」という一文で結ばれており、これは『政治学』という本に橋渡しする役割を持っています。(k.263)

世の中には必然的な真理を求めるべき対象もあれば、そうではないものもある。そのことを柔軟に捉えきれていないのです(k.318)

人生経験の少ない若者にはそれを的確に学ぶことはできないのだ、とアリストテレスは述べている(k.356)

アリストテレスの倫理学は、「徳」を身につけることで「性格」をよりよい方向に変容させていき、それによって「幸福」を実現するという基本構造を有しています(k.373)

〈性格の徳〉の方は習慣から形成されるのであって、ここから「性格の(エーティケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させてつくられた(k.376)

「タ・エーティカ」という名詞形が『ニコマコス倫理学』の原題(k.393)

倫理学の原点であるアリストテレスの著作のタイトルは「タ・エーティカ」、つまり「人柄に関わることども」の探求という意味(k.396)

究極目的としての「幸福」は、単にはるか遠くにあるのではなく、「いま、ここ」の自分の行為に常に意味を与え続けている(k.451)

アリストテレスが使う「善」という言葉には、大きく分けて三つの意味が含まれています。「道徳的善」「有用的善」「快楽的善」の三つ(k.470)

実際に私たちが「よい」という言葉を使うとき、かなり多くのケースで「快楽的善」や「有用的善」の意味になっている(k.487)

「悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない」というトマスの一節であり、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』の冒頭で述べている、「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべてみな何らかの善を目指していると思われる」という一節(k.509)

カントは善悪に関わるラテン語の二義性を指摘したうえで、(道徳的な)善(Gute)、幸福(Wohl)、(道徳的な)悪(Bose)、不幸・禍い(Weh)を意味する言葉が別個に存在するドイツ語のほうが、倫理学について考えるにふさわしいと言います。なぜならば「われわれがある行為について、その行為の 善悪 を考慮するか、それともわれわれの 幸不幸(禍い)を考慮するかということは、二つのまったく別の価値評定となる」(同前) から(k.523)

「よく生きる(エウ・ゼーン)」ということ、あるいは「よくなす(エウ・プラッテイン)」ということを、「幸福である(エウダイモネイン)」ことと同じものと見なしているからである。しかし、幸福について、それが何であるかということになると、人々の意見はくい違い、大衆は知者たちと同じような説明を与えてはいない。なぜなら大衆は、幸福について快楽や富、名誉などのような、何かはっきりとした目に見えるようなものを考えているからであり、さらに彼らの間でもそれぞれに見方が異なっていて、しばしば同じ人でさえ、たとえば病気になれば健康を、貧乏なときには富をというように、自分の意見をくるくると変えるからである(k.544)

享楽の生活(アポラウスティコス・ビオス)」を愛好するのである。このように言ったのは、生活の種類には、今挙げられたもののほかに、「政治の生活(ポリーティコス・ビオス)」、そして第三に「観想の生活(テオーレーティコス・ビオス)という、およそ三つの主要な類型がある(k.557)

テオーリア」という名詞に由来します。「テオーリア」は英語の「セオリー」の語源で、「セオリー」は学説や理論という意味ですが、ギリシア語の「テオーリア」は「見ること」というくらいの意味です。「観想」と「観」の字を当てているのはそのため(k.574)

「観想的生活」と言われても、ぴんと来ない方が多いかもしれません。アリストテレスの幸福についての考え方は、現代的な言葉で言うと「自己実現」に重なる部分がかなりあります(k.584)

「可能性」や「現実化」という概念を最初に本格的な仕方でつくり出したのがアリストテレスなのです。日本語で「可能態」「現実態」と訳されるアリストテレスの用語がまさにそれです。 「現実態」は「エネルゲイア」というギリシア語の訳語であり、「可能態」は「デュナミス」というギリシア語の訳語です(k.589)。

人間が持っている能力・可能性で最も優れたものは何か。それは「理性」です。動物は持っておらず、人間だけが持っている「理性」という優れた能力をできるかぎり開発し、花開かせる(k.600)

分量的に『ニコマコス倫理学』の大半を占める内容、社会的生活において徳を身につけて幸福になる方法(k.649)

「アレテー」という言葉の意味をもう少し深く考えてみましょう。Liddell & Scott というギリシア語-英語辞典を引いてみると、一番目に「あらゆる種類のよさ、卓越性、とりわけ男らしい性質、力強さ」という意味(k.652)

徳はそういうもの(上から押しつけられるようなもの)ではなく、むしろ内に 漲っている力という意味なのです。人間が生まれながらに持っている可能性が実現し、より充実した力強い人間として優れた働きができるようになる、それを可能にするのが徳(k.656)

アリストテレスは、様々な徳のなかでも、極めて重要なものが四つあるとします。これはのちに「 枢要 徳」と呼ばれるようになるもので、「賢慮」「勇気」「節制」「正義」の四つ(k.664)

「賢慮」は「思慮」や「知慮」などとも訳され、ギリシア語では「フロネーシス」と言います。アリストテレス倫理学における最も重要な用語の一つ(k.667)

編者が自然学(ピュシカ)のあと(メタ)に置いたので「メタピュシカ」と呼ばれるようになり、明治期の哲学者・井上哲次郎は、『易経』の「形而上者謂之道」(形より上なるものはこれを道と謂い)を基に「形而上学」という訳語を創出(k.690)

「倫理学」という言葉は、ギリシア語で「タ・エーティカ」で、これは「性格の」「人柄の」といった意味の形容詞「エーティコス」に由来します。この形容詞は「エートス」という名詞に基づいています。「エトス(習慣)」と「エートス(性格、人柄)」が似ているのは偶然ではなく、人間の性格や人柄は習慣の積み重ねから生じてくるというのがアリストテレスの見解でした。どのような人柄を形成すれば全体として幸福な人生を送ることができるかを考察する学問が「倫理学」であり、その中心にあるのが「アレテー(徳)」というものなのです。
 徳のなかでも極めて重要なのが、 後の時代に「枢要徳」と呼ばれることとなる「賢慮」「勇気」「節制」「正義」の四つ(k.701)

思考の徳はその生まれと成長とを主として「教示(ディダスカリアー)」に負っており、まさにそれゆえに経験と時間とを要するが、それに対して〈性格の徳〉の方は習慣から形成されるのであって、ここから「性格の(エーティケー)」という呼び名も「習慣(エトス)」という言葉を少し変化させてつくられたのである(k.708)

古代の自然学においては、ものにはそれぞれ「固有の場所」があると考えられていました。重いものの「固有の場所」は下、軽いものの「固有の場所」は上といった具合です。重いものは手から離すと自ずと下に移動し、軽いものは上に移動する。石は重いものなので、自然によって下に落ちるように傾向づけられている(k.732)

ここでは、「徳」と「技術」の類似性という、重要な話が展開されています。アリストテレスは、技術に関する話として、「人は家を建てることによって建築家になり、竪琴を弾くことによって竪琴奏者になる」と言い、また徳に関する話として、「正しいことを行なうことによって、われわれは正しい人になり、節制あることを行なうことによって節制ある人になり、また勇気あることを行なうことによって、勇気ある人になる」と述べています(k.753)

アリストテレスの徳論は、一見すると個人の修練のような話ですが、そこには共同体や他者との関わりが含まれています。第1回で、アリストテレスにおいては倫理学は政治学の一部だと言いました。そのことは、徳と技術の話からも明らかでしょう。つまり、善き共同体(そこにおいて師匠やモデルが見出されます)があるからこそ、はじめて善い個人(徳を身につけた人)が生まれ、その善い個人が今度は共同体を支える軸になっていく(k.846)

「抑制のなさ」はアリストテレスの重要な概念で、ギリシア語で「アクラシア」(k.887)

アリストテレスは、人間には「わかっちゃいるけどやめられない」ことがあるとし、それを「抑制のなさ」と呼びました(k.889)

「放埒」は、ギリシア語で「アコラシア」と言います。
 これらを整理すると、「節制ある人」と「抑制ある人」においては理性が支配し、「抑制のない人」と「放埒な人」においては欲望が支配していると見ることができます。また、「節制ある人」「抑制ある人」「抑制のない人」は健全な理性を持っていて、「抑制ある人」「抑制のない人」「放埒な人」は悪しき欲望を持っているという共通点(k.891)

アリストテレス倫理学には「エンドクサ」という概念があります。「常識」とか「通念」などと訳されることもありますが、単なる一般常識や社会通念というよりは、むしろ、「優れた人々の共通見解」「(最終的な真偽はまだはっきりしないが)もっともらしいところのある見解」とでもいった意味(k.1010)

ホッブズは、「万人の万人に対する闘争」が人間の「自然状態」だという観点から、近代政治哲学の基盤となる『リヴァイアサン』という本を書きました。ホッブズはこうした人間観を、ローマの喜劇作家プラウトゥス(*2) の Homo homini lupus というラテン語を引用しながら表現しています。このラテン語は、「人間は人間にとって狼である」と訳されるものです。これに対し、『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの人間観は、ラテン語で表現するならば、Homo homini amicus となります。日本語に訳すと、「人間は人間にとって友である」という意味(k.1035)

「類は友を呼ぶ」と日本のことわざに訳されている箇所は、直訳すれば「からすはからすのところに」となります。それとは反対に、ある人々は「相似た人たちはすべて、あの争い合う陶工たちである」と言う。同業者同士は嫉妬し合い、利害が衝突するのでうまくいかない。そういう見解(k.1061)

「愛されるもの(ピレートン)」とは何であるかが知られたなら、事情は明瞭になるであろう。なぜなら、すべてのものが愛されるわけではなく、愛されるものだけが愛されるのであって、愛されるものとは、(1) 善きものであるか、(2) 快いものであるか、(3) 有用なものであるかのいずれかだと考えられるから(k.1090)

『ニコマコス倫理学』の冒頭には、あらゆる行為は「何らかの善を目指している」と書かれていましたが、その「善」には、「道徳的善」「快楽的善」「有用的善」という三つの意味が含まれているという話をしました。それと同じことです。要するに、広い意味での「善」すなわち価値のあるものこそが「愛されるもの」であり、その「愛されるもの」の一つとして挙げられている「善きもの」とは、狭い意味での「善きもの」すなわち「道徳的善」に対応しています。「快いもの」が「快楽的善」に対応し、「有用なもの」が「有用的善」に対応しているのは、見て取りやすい(k.1098)

友愛とは、「応報(アンティペポントス)」が行なわれる場合の「好意(エウノイア)」だと考えられている(k.1113)

友愛が成立する条件は①相手に好意を抱く、②その好意が相互的なものである、③気づかれている、の三つが揃ったとき(k.1123)

「相手に好意を抱く」は、アリストテレスに特徴的な言い方では「相手に善を願う」となります。無生物に対して善を願うということはありえない。しかし、友に対しては善を願わなければならない。この「相手に善を願う」が、アリストテレスが考える友愛の核(k.1128)

『弁論術』のなかに「 妬み」についての記述があるのですが、そこでアリストテレスは、嫉妬とは他者の善を悲しむことだと言っています。たとえば、他者が価値あるものを手に入れたとき、一緒に喜ぶのではなく、「なんであいつがあれを手に入れたんだ」と悲しむ。それが「妬み」と呼ばれる感情だというわけです。妬みについて、これほど見事で簡潔な定義をほかに知りません。  それに対し、友愛とは「相手が価値あるものを手に入れるといいな」と願い、それをお互いに願い合うことです。『ニコマコス倫理学』においては、「善」が大きなキーワードの一つになると再三述べてきましたが、友愛の議論においても「善」が中核的な役割を果たしている(k.1133)

アリストテレスは、愛されるものが三種類あることに対応して、友愛にも三つの種類があると言います。①人柄の善さに基づいた友愛、②有用性に基づいた友愛、③快楽に基づいた友愛(k.1141)

このような友愛〔引用者註:有用性に基づいた友愛〕 は、とりわけ老人たちの間に見られ(なぜなら、そうした年齢の者たちは、快いものを追い求めるのではなく、有益なものを追い求めるからである)、また壮年の者たちや若者たちにおいても、利益を追求するかぎりの人々の間に見られるように思われる。
 のみならず、そのような人たちはお互いあまり生活を共にすることもない。なぜなら、時には、互いに相手を快く思わないことさえあるからである。(k.1169)

勇気であれ節制であれ正義であれ、習慣の積み重ねで築き上げられた徳には持続性があるため、善い人柄も同じく持続的で堅固なものであるとアリストテレスは考えている(k.1212)

アリストテレスの言う人柄の善い人というのは、単なる「お人好し」ではありません。人間として充実した在り方をしており、そのことに「喜び」を抱きつつ日々の生活を送っている人のこと(k.1221)

ここまで、アリストテレスの友愛に関する議論を、『ニコマコス倫理学』第八巻の冒頭三章を通して 瞥見 してきました(k.1232)

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