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December 21, 2021

『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』

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『南北朝時代 五胡十六国から隋の統一まで』会田大輔、中公新書

これ読んだのにまとめていなかったので…

「はしがき」で《ユーラシア大陸各地で類似の現象が起きたのは偶然ではない。中央大学の妹尾達彦によれば、二世紀後半の匈奴の西方移動と二~三世紀頃に始まった地球全体の寒冷化(年平均気温の低下と乾燥化) を契機に、遊牧・牧畜民(西:フン族・ゲルマン民族、中央:エフタル、東:匈奴・鮮卑など五胡) が大移動を始め、四世紀には既存の古典文化圏(西:ローマ帝国、中央:サーサーン朝、東:漢文化を継承する晋) に大打撃を与えた。その結果、遊牧・牧畜民と農耕民が衝突・融合を繰り返し、遊牧地域と農耕地域を包含する新たな農牧複合国家が生じたと説明している(妹尾達彦、二〇〇一)》。

442年に仇池が北魏により滅ぼされ、ここに北魏は前趙の成立から約150年にわたって続いた華北の分裂を収拾して統一政権を樹立。これ以後、中国は南北朝時代に入る。北魏はそれまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していった、と。

《北魏前期には遊牧文化と中国文化が接することで意外な化学反応が発生し、「子貴母死」制や保太后、太上皇帝などの独自の政策が生み出された》(k.912)、と。

そして、《南北朝時代は華北・江南・モンゴル高原が衝突と交渉を繰り返し、ダイナミックに連動した時代》(k.3283)とまとめられる感じ。

そして、カジュアルに皇帝を名乗っていた時代は隋によって終わり、中国は400年ぶりに統一されたが《南北統一を果たした隋そして唐は、中国化を進めた北魏後期および北斉の制度・儀礼を国制の基軸に据え、遊牧的要素のある北周の制度も一部で取り入れた。さらに南朝の儀礼・学術・文化の影響も受けている。いわば南北朝の制度・文化が融合して成立した王朝なのである(k.3317)》と。

《さらに視野を広げれば、高車やエフタルといった中央ユーラシアの遊牧民の興衰と連動していたほか、朝貢国である高句麗・百済・倭といった東アジア諸国、林邑をはじめとする東南アジア諸国などとも結びつきをもっていたのである》(k.3288)

《東アジア諸国は、北朝と南朝の双方から制度・文化を摂取し、それぞれ国造りを進めていった。このうち倭・日本が南朝文化の影響を強く受けていることは、すでに多くの研究者が指摘している。しかし、意外なところで北朝の影響も受けている。例えば「太上天皇」である》(k.3321)

と遊牧・牧畜民と農耕民の融合が、列島まで影響を与えていた、というのが結論でしょうか。

....…以下はアンダーラインをつけたところで(kはkindle位置).......

鮮卑服が流行して中国的服飾に影響を与えたほか、食生活でも遊牧民由来の羊料理や乳製品などが普及した。女性の行動の活発化も遊牧民の影響と指摘されている(k.61)

南北朝時代は、五世紀前半の北魏の華北統一によって始まった。しかし、南北朝時代を知るためには、中国はなぜ南北に分裂したのか、そもそも北魏を建国した 拓 跋 氏とは何者なのかを見ていく必要がある。そこで、序章では三世紀後半に中国統一を果たした西晋が皇族による激しい権力闘争と遊牧民の挙兵によって四世紀初めに崩壊し、中国が南北に分裂する過程から見ていく(k.136)

餓死者が出た際に、「〔穀物がないなら〕なぜ 肉 粥 を食べないのか」(『晋書』巻四恵帝紀) と無邪気に尋ねてしまうような人物だったと伝えられている。当然、その政務能力は低く、即位後、ただちに西晋の実権をめぐる争いが発生した。それが皇族諸王による権力闘争、いわゆる 八 王 の乱(二九一~三〇六) である。彼らは西晋領内に居住する遊牧民(匈奴・鮮卑・烏桓 など) を兵力に利用して激しく争った(k.159)

この一連の動乱の結果、黄河流域は遊牧民が支配し、長江流域は漢人が支配する南北分断の状況が生じた(k.190)

このころ、南匈奴の一部を統括したのが 劉 豹 である。その子の劉淵は、『春秋左氏伝』『孫子』といった中国の古典を習得し、さらに文武両道を目指して武芸も体得した。劉豹没後に地位を継承した彼は、匈奴内での存在感を高めるため、南匈奴の単于の孫を称した(k.206)

このとき前漢の初代皇帝である劉邦や後漢を建国した 劉秀( 光武帝) らを 祀って、蜀漢の 劉 禅( 後主) を 孝 懐 帝 と追尊している。すなわち劉淵は、漢(前漢・後漢・蜀漢) の後継者であることを 標榜 し、匈奴を中心とする遊牧国家ではなく、漢人と匈奴の双方を統べる王朝の樹立を目指した(k.219)

k.236
即位を果たした劉 曜(劉淵の遠縁) は長安に遷都し、国号を趙( 前趙) に変更したが、その間、石勒も大単于・趙王( 後趙) をなのって自立したため、華北は前趙と後趙の対立状態に陥ってしまったので

五胡諸政権には多くの共通点がある。なかでも重要な制度が漢人と遊牧民を分治する二元統治体制(k.240)

生業も文化も歴史も異なる漢人と遊牧民に対して、別々の統治体制をとった(k.243)

遊牧民の世界では、君主の地位は世襲であると同時に実力が問われたため、後継者争いが多発したが、漢・前趙でもカリスマ君主の死後に、激しい後継者争いが発生(k.245)

漢・後趙に積極的に仕えたのは 寒 門 層(中下級官僚を輩出した豪族層) であって、魏晋期に高官を輩出した漢人貴族は仕官に消極的(k.248)

四〇年間続く「五胡十六国」時代が始まったとされる。この「 五胡」は、一般的には匈奴・羯・鮮卑・氐・羌を指す。しかし、この時期には 丁零・烏桓・巴・蛮 なども活動しており、民族状況はより複雑であった。そもそも「五胡」は、四世紀半ばに登場した言葉であるが、具体的な民族名は定まっておらず、三~五世紀に活動した非漢人の総称として使われていた(k.254)

独自の年号を立てた勢力は、いわゆる「十六国」を含めて三一にも及ぶ。このように「十六国」という言葉は、当時の実態に合っていないのである。そこで本書では、四~五世紀に主に「五胡」が諸政権を立てたことを踏まえ、「五胡諸政権」(便宜的に漢人政権も含む) を用いることとした(k.267)

婚姻は、まず恋愛関係を持ったのちに略奪の形をとって同居し、半年ほどすぎたころ、媒酌人を立てて牛・馬・羊などを結納として贈り、妻の家に二年ほど仕えたのち、夫婦で独立する。夫婦の住まいや財物は妻の家から出る(k.303)

発言力が大きく、その地位も低くはなかったのである。一方、父や兄が死ぬとその妻(生母は除く) を娶る習慣もあった(レヴィレート婚)。宗教は、北アジアに広く流布しているシャーマニズムであり、鬼神を敬い、天地・日月・星辰・山川とともに勇名を馳せた祖先の大人も祀った(k.305)

魏晋時代から、王朝の干渉を受けない地方政権の首長(漢人) にも内臣が与えられるようになった(k.347)

追い詰められた西晋は、徐々になりふり構わなくなり、漢打倒の期待を込めて、猗盧を代王に封建したのである。以後、五胡諸政権・南北朝において、非漢人政権に内臣の王爵が贈られるようになった(k.352)

代は、猗盧没後に後趙に従属した時期もあり、中原に進出していない段階では皇帝をなのるべきではないと判断したものと思われる。彼らの複雑な国家意識(k.359)

これは中国の聖君( 舜・周の文王など) が高身長だったという伝説に由来(k.392)

君主継承の安定化と諸部大人の抑制を達成できないまま、滅亡してしまった。これらの課題は北魏に持ち越される(k.444)

北族の諸部族の力を弱めるため、部族解散を行った。諸部族は、平城近郊に移住させられ、牧畜を行いつつ、北魏の軍事力を担った(k.534)

道武帝は皇帝の実母や外戚による権力掌握を防ぐため、後継者の決定後にその生母を殺す「子貴母死」制を創出したのである。このような制度は遊牧民にも中国諸王朝にも見えないが、先例がないわけではない。それは前漢の武帝が行った皇太子弗陵(後の昭帝)の実母(鈎弋夫人)殺害(k.538)

賀蘭氏は、道武帝の叔母(母の妹) であり、道武帝が賀蘭部に赴いた際に見初めて、その夫を殺して妻に迎えたと伝えられている。北魏成立前後の状況を踏まえると、単なる好色ではなく、賀蘭部との関係を深めるために通婚したと考えられるが、史書は因果応報譚として描いた(k.556)

親征を重ねて華北統一を果たした太武帝の権威は高揚し、親征に反対した北族の重臣の発言力は低下することとなった(k.607)

このころの仏教は、道武帝・明元帝期に道人統(僧侶の監督官) となった僧侶の 法 果 が、皇帝を如来として礼拝する「皇帝即如来」という思想を打ち出したことによって、国家への隷属を強め、皇帝の権威を支える役割を果たしていた(k.643)

やりすぎであるとして寇謙之でさえも反対したが、太武帝と崔浩は断行した。はしがきでも、南北朝時代の混乱・強権政治を象徴する出来事として仏教弾圧をあげたが、その一回目(k.656)

中国史上の著名な四つの仏教弾圧事件、いわゆる「 三武一宗(北魏太武帝・北周 武帝・唐宗・後周世 宗) の法難」の一つ目(k.659)

晃の殺害を進言した宗愛が、晃の死を悔やむ太武帝を恐れ、四五二年( 正平 二年) 三月に太武帝を暗殺したのである。享年四十五。宗愛は、太武帝の子の拓跋 余(鮮卑名は 可 博 真) を擁立して実権を握った。しかし、十月に宗愛は余も殺してしまった。余が宗愛排除を図ったためである。この混乱の隙をつき、北族の重臣である 源 賀 や 歩 六 孤 伊 麗(『魏書』では陸麗) などが、晃の長子で十三歳の拓跋 濬(文成帝。鮮卑名は烏雷直勤)を皇帝に擁立(k.695)

南朝の宋のほか、東北アジアの契丹・高句麗、中央アジアの 于闐・エフタル・サーサーン朝など五十国以上から使節が来ており、このころの北魏がユーラシア大陸東部で大きな存在感を持っていたことがうかがえる( 図1‐4)。ただし南朝に遣使していた 百済 や倭国の名は見えない(k.707)

「子貴母死」制によって皇帝の実母が存在しないため、その代替として養育係で信頼厚い保母を皇太后にしたものと思われる(k.719)

北魏では皇帝の徳の広がりを示すため、道武帝以来、他国の君主の血縁者を皇后としてきたが、馮氏もその一例(k.732)

治世は、無欲・無為だったので皇を称しました。それゆえ漢の高祖(劉邦) は皇帝を称した後、父を尊んで 太上皇 とし、天下を統治しないことを明示しました。いま皇帝(孝文帝) は幼いので、陛下(献文帝) が政治の大権を統べた方がよろしいかと存じます。謹んで尊号の太上皇帝をたてまつります。(『魏書』巻六顕祖紀) と述べて太上皇帝号をたてまつったので、献文帝は国政を執ることとなった。以後の中国諸王朝や日本・ベトナムなどに見える上皇の起源(k.755)

什翼犍が置いた近侍官(諸部大人等の子弟から有能な人物を近侍に登用する制度) であり、北魏成立後に次第に拡充していった。内朝官は皇帝に仕える侍臣であり、上位の構成員は国政に参与(k.808)

官名末尾の「真」は、トルコ=モンゴル系言語で「~の人」(事物を掌る者) を表す +ci、あるいは +cin という接尾辞の音写と考えられている。構成員は、主に鮮卑・匈奴や来降した高車・柔然などの北族の高官子弟だが、徐々に漢人も増加(k.815)

共通点は、君主護衛を基本とする近侍官に、功臣・帰属勢力の子弟を就任させ、多様な職務(護衛・使者・家政・衣食など) を担当させ、幹部候補生として養成すること(k.824)

前漢の郎官や古代日本の 人 制・舎人 も同様の制度であり、遊牧民独特というわけではない。今後、本格的な比較研究が求められよ(k.827)

中国諸王朝では、儒教に基づいて都の南の郊外で冬至に行う祭天儀礼(南郊祭祀) が最も重要な祭祀(k.831)

北魏は柔然・高車討伐による略奪や、陰山などからの貢納によって家畜を補充し、臣下に分け与えることで紐帯を深めた。さらに平城付近に徙民された人々に計口受田(戸口の把握後に土地を給付)を通じて農耕用の家畜(牛)を配布し、農業生産力の向上にも努めていた。鹿苑は遊牧と農業をつなぐ役割を果たしていた(k.844)

北魏は官制・儀礼面で皇帝と北族の紐帯を深め、北族の不満を解消したのである。これが五胡諸政権と異なり、北魏が華北統一を果たし、長期安定政権となった(k.871)

北魏前期には遊牧文化と中国文化が接することで意外な化学反応が発生し、「子貴母死」制や保太后、太上皇帝などの独自の政策が生み出された(k.912)

王導をはじめとする琅邪(現在の山東省 臨沂)の王氏や、陳郡(現在の河南省 太康)の謝氏は大きな影響力を持った(k.928)

k.932
貴族社会成立のきっかけになったのは、三国魏で制定された 九品 官人 法 である。これは一品から九品まで官職を九等にランクづけし(官品)、地方の人事官(州大中正・郡中正) が任官希望者に九ランク(九品) の 郷 品 を授け、その郷品に相応する官品の官職を与える制度で

日本の学界では主にこの士人を「貴族」と呼んでいる。貴族は州・郡の中正官に就任し、貴族秩序の維持に努めた。東晋では、華北から避難してきた王・謝・袁・褚・江・蔡氏などが甲族に該当(k.948)

徐々に官職のなかに郷品の高いものが就任する「 清 官」と、郷品の低いものが就任する「 濁 官」という区別が生じてきた。これには実務を忌避する当時の貴族の価値観が反映されており、図書や著述を掌る 秘書 郎・著作 佐 郎、皇太子の侍従( 太子 舎人)、天子側近の顧問官( 中書 郎・黄門 郎) などは甲族の就く清官とみなされた(k.959)

東晋では皇帝権力が弱く、北府と西府が主導権を奪いあった(k.989)

前秦の苻堅が天下統一を狙って百万と号する大軍を率いて東晋に侵攻してきた。このとき苻堅が勝利を収めていたら、東晋は滅亡していたかもしれない。しかし、北府軍団を率いる 謝玄(謝安の甥) が淝水の戦いで苻堅を打ち破り、東晋はからくも生き長らえることができた(k.999)

当時、高官を輩出する貴族に対し、中下級官僚や軍人を輩出する家柄を「寒門」といったが、劉裕はその寒門の出身だった(k.1015)

無忌(k.1041)

皇族・貴族にかわって、寒門あがりの軍人が東晋の実権を掌握した(k.1046)

「桓玄のときに、すでに天命は改まったけれども、劉公(劉裕) が二十年も延ばしてくれたのだ。今日のことは甘んじて受け入れよう」(『宋書』巻二武帝紀中) とつぶやいた(k.1093)

漢魏革命・魏晋革命の際には、最後の皇帝は天寿を全うできた(k.1098)

以後、中国では王朝交替後、禅譲した皇帝の殺害が通例化する(k.1102)

孝武帝は、文帝期にも増して皇帝権強化と寒人重用の動きを進めた(k.1133)

寒門・寒人偏重の政策を展開した上に、叔父や弟の殺害といった皇族抑制策も実施したため、後世、恩倖寒人をのさばらせて独裁的政治を行った暴君という歴史像が定着(k.1139)

東晋では、建康はあくまでも仮の都であり、中原を恢復するまでは国家儀礼や雅楽の整備を控えるべしとする者が多かった。そのため宗廟・郊祀自体は実施されたものの、ついに雅楽は整備されなかった(k.1145)

文帝の北伐(四五〇年) が失敗し、中原恢復の可能性が低くなると、孝武帝は建康を天下の中心とし、洛陽にかわる真の都にする動きを加速(k.1148)

西晋までは祖先を祀る宗廟と天地を祀る郊祀とでは、異なる雅楽を演奏していた。しかし、孝武帝は弟の 劉 宏 の提案を採用し、同じ楽曲を演奏することにした。戸川貴行(二〇一六) によれば、これは音楽の共有によって、皇統(宗廟) と天(郊祀) を結びつけ、王朝の正統性を強化する試みであった。この雅楽通用という形式は、南朝・北斉・北周を経て隋・唐に継承され、新たな「伝統」として定着した(k.1154)

また、明帝は孝武帝の子一六人を殺し、さらに重病にかかると幼い皇太子の将来が不安になり、功臣のほかに弟四人も殺害している。その結果、四七二年(泰豫元年)に明帝が三十四歳で没し、皇太子の昱(後廃帝)が十歳で即位したときには、皇帝を支えるべき皇族は激減(k.1180)

宋・斉では、血で血を洗う粛清が繰り返された。その激しさは同時期の北魏を上回っている(k.1227)

貴族の形成・維持には、官制との関係が欠かせなかったのである。そのため、貴族(特に甲族) の多くは生き残りを図って政争から距離をとり、王朝交替の際には粛々と従っている。宋末の袁粲のように王朝に殉じた者は珍しい(k.1257)

高官を輩出していた貴族の支持が王朝維持に欠かせなかったことがあげられる。当時、政策は貴族や官僚が月二回開いていた「議」(会議) や重要案件を審議する「大議」でまとめられ、皇帝は提出された議文に可否の判断をくだす形がとられていた(k.1262)

宋・斉にとって貴族社会の維持と並んで重要な課題だったのは、北魏との抗争を生き抜くことであった。そこで宋は北魏に対抗するために、夏・北涼・北燕といった五胡諸政権、青海を支配していた 吐谷渾、朝鮮半島北部の高句麗、モンゴル高原の覇者たる柔然と結んだ(k.1267)

東方からは、朝鮮半島西南部を支配する百済と日本列島の倭(五王: 讃・珍・済・興・武) がたびたび宋に遣使して王号と将軍号(地位の高さを示す官号) などを求めている。百済や倭は、宋から官爵を得ることで、国内外に権威を示し、国家体制を整えようとしたのである。また、南方からは 林邑(ベトナム南部)・扶南(カンボジア)・呵 羅 單(ジャワ島) といった東南アジア諸国も遣使している。ただし、林邑はたびたび宋の南端の 交州(現在のベトナム北部) に侵入したため、四四六年(元嘉二十三年) に文帝の命で攻撃されている(k.1286)。

日本では倭の五王に注目が集まるが、南朝における周辺国家の位置づけは、柔然がほぼ対等関係であり、宋から官爵を受けた国では高句麗─吐谷渾─百済─倭─林邑の順となっている(k.1294)

玄学とは、後漢末以降の動乱のなか、儒学に飽き足らなくなった知識人が生み出した思想である。儒学に老荘思想の要素を加え、『 易経』『 老子』『 荘子』をもとに、「無」や「有」に着目して世界の根本について思索するものであり、三国魏の 何晏・王弼 らに端を発す(k.1299)

范曄は左遷を恨み、劉義康を文帝の跡継ぎとする動きに反対するため、『後漢書』のなかで帝位の非正統な継承を企図した人物を批判した。このように『後漢書』の叙述や人物評価には、南朝の政治・社会状況が反映されており、読む際には注意が必要(k.1312)

裴松 之 が西晋の 陳寿 撰『三国志』につけた注釈も重要である。裴松之は宋の文帝の命を受け、歴史的教訓を伝えるために、四二九年(元嘉六年) に『三国志』注を作成した。彼は二百以上の文献を利用し、『三国志』の簡潔すぎる叙述を補った。ここには『三国志』に見えない興味深い逸話が満載で、現在まで『三国志』が読み継がれ、人気を博しているのも、裴松之のおかげといって過言ではない(k.1322)

四四三年(元嘉二十年) に作成された暦(元嘉暦) では、建康を天下の中心と言い張るために、夏至の影長を実際よりも長い一尺五寸に改竄したのである。このとき作られた元嘉暦は、後に百済を経由し、六世紀の倭国に伝来して用いられた。認識していたかどうかは不明だが、倭国は建康を天下の中心とする暦を使用していた(k.1394)

k.1407
側近に寒門・寒人を登用し、皇帝権の強化を進めた。しかし、皇帝が皇族中の第一人者にすぎなかったため、帝位継承が安定せず、代替わりのたびに凄惨な粛清の嵐が吹き荒れた。

北魏では官僚に 俸禄(給与) を支給していなかった。官僚は軍功などをあげた際に、土地・奴婢・家畜等を恩賞として与えられ、それによって生計を立てていたが、不足分を補うために賄賂や収奪が横行した。その対策として、官僚の生活を安定させるために給与を支給することとした(k.1430)

北魏前期は、豪族・庶民を問わず、一戸単位で徴税していた(戸調制)。しかし、大土地を所有する漢人豪族の戸籍には、その庇護を受けた民衆(蔭附民)が附載され、その数は三十家から五十家に及んでいる(k.1435)

四七〇年代から勧農(農業振興) 政策を進めてきた馮太后は、四八五年(太和九年) 十月には、成年男子とその妻に 露 田(死亡時または七十歳で返還) と 桑田 を支給し、その収穫を税として徴収する 給田 制、すなわち世にいう均田制を施行した(k.1449)

三長制・均田制の施行と合わせて、従来の戸単位で徴税する戸調制から、夫婦単位で徴税する均賦制に転換(k.1459)

北魏前期は、北族が軍事を担ってきたが、領土拡張とともに徐々に農民からの徴兵が始まった(k.1473)

北魏建国後、帝室ではレヴィレート婚の事例が見当たらない。それどころか北魏には皇太子の生母を殺害する「子貴母死」制が存在しており、現に孝文帝の生母とされる李氏も馮太后の意向で殺されている。北魏の実権を握る馮氏にとって、殺される危険を冒してまで子を産む必要はあったのだろう(k.1494)

孝文帝は、華北を治める北魏の正統性を強調するため、祖先祭祀の対象を鮮卑の首長にすぎなかった神元帝や平文帝から、北魏を建国して華北進出を果たした道武帝に変更した(k.1525)

孝文帝は、これまで拓跋氏や北族の間に広く存在した一体感を希薄化し、道武帝とその子孫の権威を高めた(k.1532)

孝文帝は鮮卑の伝統や北族の紐帯を重視する路線から、中国的礼制を軸に中国支配の正統性を示す路線に切り替えたのである。また、封爵や祭祀の改制を通じて、部族的紐帯の解体や皇族の縮小も進め、皇帝の権限強化も図った(k.1539)

孝文帝は、南朝のような貴族社会を創出するために、姓族分定を断行しただけでなく、四九九年(太和二十三年) に南朝の宋・斉の官制を模倣して、清官(貴族の就くべき官職)・濁官(寒門の就く実務官) の区別も導入し、行政法規である 令 において明文化(k.1624)

宣武帝は同年、住民の管理を目的に、居住区を三百歩(約五百メートル) 四方の壁(坊) で囲む 城 坊 制(三二三坊) を始めた。城坊制は、中国における秦漢以来の築城技術の伝統や碁盤の目のような町割と、遊牧民の家畜管理の経験や、 徙民(強制移住)・計口受田などに代表される北魏の政治組織力が化学反応を起こして創出されたものである。  右で見てきた北魏洛陽城の中軸線・城坊制は、隋・唐の長安城に引き継がれ、さらには日本の平城京・平安京にも影響を与えることとなった(k.1701)

高肇は四川に侵攻していて洛陽に不在であった。そこで禁衛長官の 于忠 が一時的に実権を握って高肇を殺害した。しかし、于忠に反発した群臣は皇太后 胡 氏(漢人) の臨朝を望んだ。彼女は宣武帝の妃であり、孝明帝の生母である。宣武帝の后妃たちが「子貴母死」制を恐れて皇太子の生母となるのを願わなかったのに対し、彼女は「お腹の子が男であり、また〔宣武帝の〕長子となりますように。子が産まれれば自分が死んでも構いません」(『魏書』巻十三皇后伝) と祈願し、孝明帝を産んだ。中国文化に親しんでいた宣武帝は、五一二年(延昌元年) に元詡を立太子した際、「子貴母死」制を廃止し、皇子を産んだ胡氏を殺さなかった(k.1752)

諸王から家庭内暴力を受けた妻を保護し、諸王の暴力行為を禁止している。当時としては珍しい命令であり、女性権力者ならではの方策といえよう(k.1761)

中国文化に親しんでおらず、文書行政にも精通していない中下層の北族は、徐々に官界から排除されるようになってしまった。その結果、中下層の北族の不満が増大していく(k.1777)

遊牧生活を行う部族民の「酋長」は、渡り鳥のような行動から「雁臣」と呼ばれていた。彼らは平時には遊牧生活を送り、時に北魏の軍事行動に参加した。また、彼らは洛陽に赴くたびに名馬を持参して交易(k.1801)

k.1820
宣武帝・孝明帝期には北族内部で格差が拡大し、中下層の北族の不満が高まっていった。彼らの怒りは五二三年(正光四年) に頂点に達し、六鎮の乱が発生することとなる。この反乱の結果、北魏はおろか南北朝全体が動乱の時代に突入するので

孝文帝の諸改革によって、北魏が貴族制国家に変貌した結果、北族内の格差が広がり、特に北魏の北辺に居住する中下層北族の不満が高まっていた。その不満が爆発に至る遠因は、北魏前期に設置された「鎮」(k.1830)

孝文帝の洛陽遷都によって、六鎮は首都の防衛拠点から北辺の防衛拠点に格下げされ、重要性が薄れて政治的地位は下落(k.1841)

中央ユーラシアは、モンゴル高原の柔然、天山山脈の高車、中央アジア西部を支配する遊牧国家エフタルの鼎立状態となった(k.1850)

五二三年(正光四年)、阿那 は飢饉を理由に六鎮周辺で略奪を繰り返したあげく、モンゴル高原に戻って柔然の可汗に返り咲き、さらには北魏の派遣した追討軍をかわすことにも成功した(k.1857)

胡太后は、五二八年(孝昌四年) 正月に後宮で生まれたばかりの孝明帝の娘を男児と偽った上で二月に孝明帝を毒殺し(享年十九)、生後五十日の女児を帝位につけたのである。ただし、群臣の動揺が収まったのを見た胡太后は、すぐさま皇帝が女児であることを明かして廃し、改めてわずか三歳の 元 釗(孝文帝の曽孫: 幼主) を擁立した。これを受けて爾朱栄は、同年四月に献文帝の孫の 元子 攸( 孝 荘 帝) を擁立(k.1907)

以後、爾朱栄は次々に軍功をあげていく。まず、五二八年( 建 義 元年) 九月に葛栄が河北から百万人と称する大軍を率いて進軍してくると、その伸びきった隊列をわずか七千人で襲撃して葛栄を捕えることに成功した( 口 の戦い)。このとき二十万人が降伏し、河北の反乱集団の多くは爾朱栄に吸収されていった。そのなかには、後に西魏の実権を握ることとなる武川鎮出身の 宇文泰 が含まれてた(k.1931)

爾朱栄の誅殺後、洛陽の人々は 快哉 を叫んだといわれている。しかし、孝荘帝の栄華はあまりにも短かった。爾朱栄の死後、すぐさま爾朱一族が各地で蜂起したのである。特に晋陽で挙兵した 爾 朱 兆(爾朱栄の甥) は、 元 曄( 景 穆 太子拓跋晃の曽孫: 敬 帝) を擁立して次々に朝廷軍を破り、十二月には洛陽に進撃してきた。その鋭鋒の前になすすべもなく孝荘帝は捕えられ、晋陽に連行されて殺された(享年二十歳)(k.1981)

高歓は爾朱氏を滅ぼした後、孝荘帝の皇后であった爾朱栄の娘(大爾朱氏) と、元曄の皇后であった爾朱兆の娘(小爾朱氏)を側室に迎えている(k.2019)

高歓は、爾朱兆が擁立した元恭と自らが擁立した元朗をともに廃して、新たに孝文帝の孫の 元 脩 を擁立している(孝武帝)。孝文帝の血を引いている元脩を、わざわざ帝位につけたのは、孝文帝路線の継承を望む漢人官僚の支持を集めるため(k.2023)

高歓は軍事的にも経済的にも安定していた鄴に遷都したのである。これがいわゆる東魏の成立である。これにより北魏は分裂し、高歓が実権を握る東魏と、宇文泰が実権を握る西魏が華北の東西に対峙する(k.2043)

東魏は、漢人貴族の支持する孝文帝路線をベースとしつつも、北族重視路線が入り混じっている(k.2066)

高歓はすでに五十歳。病気がちだったこともあり、彼女の寝所に赴くことができなかった。しかし、阿那 が送り込んだお目付け役の圧力で、病をおして輿に乗って公主のもとに通ったと伝えられている。  なお、彼女は高歓が亡くなると、遊牧民の習慣であるレヴィレート婚を行って高澄に嫁いで一女を産んだが、五四八年(武定六年) に十九歳で没してしまった。近年、彼女の墓誌が発見されたが、外聞を憚ったためか、レヴィレート婚に関する記事は見えない(k.2094)

簒奪計画の密談中に、膳奴(配膳のための奴隷) の 蘭 京 によって刺殺されてしまった。享年二十九。蘭京は、梁の名将の 蘭 欽 の子で、東魏の俘虜となった際に、高澄の膳奴とされ、恨みを抱いていた(k.2126)

宇文泰の長兄は破落汗抜陵に抵抗した際に戦死、次兄は父とともに北魏に敗れて戦死、三兄はその才幹を恐れた爾朱栄によって殺害された(k.2140)

賀抜岳没後の混乱を鎮め、関中を掌握したのが宇文泰である。賀抜岳の配下の多くは武川鎮出身の中下層の北族であり、賀抜岳の後継者として同郷の宇文泰を推したのである。このとき宇文泰は三十歳(k.2148)

成立当初の西魏では、宇文泰の直属部隊は三万人程度にすぎず、主に六鎮出身の中下層の北族が軍事力を担っていた。なかでも、もともと宇文泰の同輩だった北族系の元勲が大きな影響力を持っていた。そのため宇文泰は彼らの統率に苦しんだ。河橋の戦いでも山の戦いでも、元勲が独断で撤退したため、総崩れを起こした(k.2178)

軍事体制を整えた西魏は、東魏への侵攻を一時的に諦め、南朝の梁に目を向けることとした。梁で侯景の乱が発生すると、折よく長江中流域をめぐって 蕭繹(梁の武帝第七子・後の元帝) と対立した 蕭(梁の武帝の孫) が西魏に支援を求めてきた。そこで宇文泰は、五四九年(大統十五年) に武川鎮出身の元勲である 普 六 茹忠(『周書』は 楊忠) を派遣し、漢水の東側を獲得した。この普六茹忠こそが後に隋を建国する 楊堅 の父である。その後、宇文泰は蕭 を傀儡として梁王に擁立(k.2189)

五四九年(大統十五年) には、孝文帝改革で中国風に改められた北族の姓をもとに戻す政策がとられた。このとき西魏皇帝も元から拓跋に改姓している。さらに漢人にも北族の姓が賜与された。特に多く与えられたのが宇文姓である。宇文泰は、漢人に宇文姓を賜与し、擬制的に同族とすることで、紐帯を深めようとした(k.2214)

k.2237
孝文帝路線に対する反発を踏まえ、北魏以前の鮮卑の制度(擬制的に部族復興) と漢人の理想である「周」制を再現し、北族・漢人を双方の制度に所属させることで、北族と漢人の融和を進め、団結させる意図があったと

西魏の中核を占めていたのは、宇文泰を筆頭に六鎮出身者を中心とする中下層出身の北族である。なかでも五五〇年(大統十六年) までに柱国大将軍と大将軍を拝受した元勲は、大きな影響力を持っていた。柱国大将軍を拝受した者が八人、大将軍を拝受した者が十二人程度いたので、前島 佳 孝(二〇一三) は「八柱国十二大将軍クラス」と呼んでいる。「八柱国クラス」には後に唐を建国する 李淵 の祖父の 大野 虎( 李 虎) が、「十二大将軍クラス」には先に紹介した楊堅の父の普六茹忠(楊忠) が含まれている( 図4‐5)。この「八柱国十二大将軍クラス」に次ぐ地位にあったのが北族系の功臣である。宇文泰は、頼れる親族が少なかったこともあり、「八柱国十二大将軍クラス」や北族系功臣と積極的に通婚し、紐帯の維持に努めた(k.2246)

一貫して北族優位の状況にあったこと、そして漢人の一流貴族が少なかったことがかえって効を奏し、北族と漢人の深刻な対立は発生しなかった(k.2264)

五四〇年代に柔然と東魏が結んだため、西魏は五四五年(大統十一年) に 突厥 に使者を派遣して 誼 を通じた。突厥は、柔然に服属していたテュルク系の遊牧民だが、このころ、勢力が盛んとなり、自立を図っていたのである。五四六年(大統十二年) になると、突厥は柔然と完全に対立状態に陥り、西魏に対して通婚を求めてきた。そこで宇文泰は、五五一年(大統十七年) に西魏の皇族の娘を突厥の首長である 阿 史 那 氏の 土門 に降嫁し、関係強化を図った(k.2269)

孝文帝が中国化政策を推し進めた結果、中下層の北族の不満が爆発し、最終的に北魏は分裂してしまった。東魏の実権を握った高歓は、漢人貴族と勲貴のバランスをとりつつも、孝文帝路線を継承した。一方、西魏の実権を握った宇文泰は、孝文帝路線を継承せず、復古的政策を展開した。しかし、その西魏でも孝文帝改革以前の体制に完全に戻すことはできなかった(k.2290)

孝文帝改革の反動で北魏が混乱状態に陥ったあげく東魏・西魏に分裂したのに対し、南朝の梁では約半世紀にわたって王朝が安定し、文化面で最盛期を迎えたのだ。その立役者が梁の武帝(k.2301)

仏教に傾倒し、皇帝菩薩として君臨し、対外的にも影響力を持った。しかし、その平和は東魏からの亡命者侯景によって打ちくだかれる(k.2303)

南朝の梁を建国したのは蕭衍である。その在位期間は、五〇二年から五四九年と約半世紀に及んでおり、南北朝時代で最も長い。事実上、彼は一代で建国から崩壊までを体験した稀有な人物(k.2306)

起家年齢を早めることは、より上位の官職に到達できる可能性が高まることを意味し、寒門層にとっては任官の機会そのものが増えることを意味したので、学問に励む風潮が生じてきたのである。この射策は、後の隋に始まる科挙の源流の一つ(k.2376)

宋では西晋末の混乱で失われた礼楽の再建が進められ、祖先を祀る宗廟と天地を祀る郊祀という異なる儀礼の間で同じ雅楽を演奏させ、皇統と天を結びつけることで王朝の正統性強化を図った(k.2396)

武帝の儒学振興策の下、漢から南朝までの『論語』注釈書を集大成した 皇侃 撰『 論語 義疏』が編纂されたのである。この書物は、中国では後に散逸してしまったが、日本に古写本が残されていたことで、現在でもその内容を知ることができる(k.2414)

皇太子の蕭統( 昭明太子と呼ばれる) とその側近たちによって編纂された『文選』は、中国古来の詩文のなかから奥深い内容と華麗な表現を備えた作品を精選したアンソロジーであり、唐以後の文学のみならず、日本・朝鮮の文学にも大きな影響を与えた(k.2421)

朝鮮半島諸国、なかでも百済はたびたび梁に遣使し、その文化を積極的に摂取している。六世紀半ばには、多くの百済人が倭国に渡来し、中国の学術・文化を伝えているが、その中身は梁代のもの(k.2431)

武帝は、五一九年(天監十八年) 四月八日に高僧から 菩薩戒 を受けた。菩薩戒とは、善法を実践し、人々を教化するという菩薩が持つべき戒で、在家・出家者に共通のものである。実は菩薩戒を初めて受けた皇帝は、梁の武帝ではなく、宋の明帝(k.2457)

群臣は多額の銭(『南史』巻七梁本紀中には銭一億万とある) を寺院に払って、武帝の身柄を買い戻すという形をとった。要するに手の込んだ 喜捨 である。こうして捨身から数日後に宮殿に帰り、 大赦 と改元を実施(k.2474)

船山徹(二〇一九) は、その発想の元になったのは、南朝と貿易や仏教面で往来があり、以前から捨身を行っていたスリランカ諸王ではないかとしている(k.2479)

武帝の崇仏事業や仏教外交を踏まえ、朝鮮半島の百済や 新羅 は王権主導で崇仏を進め、仏教を介して梁と良好な関係を築いている。倭国は斉建国直後の四八〇年(建元二年) 頃の遣使を最後に南朝との往来を絶っていたが、やはり六世紀前半には百済から仏教を導入している。その背景には、仏教の知識が国際関係構築に不可欠となっていたことがあったと考えられている(k.2495)

貨幣経済が活性化していた南朝では、梁以前から銅銭不足に悩んできた。領内で銅銭を大量に鋳造するための銅を確保できなかったためである。そこで武帝は、良質の貨幣発行を心がけ、通貨の安定を図った。しかし、五二三年(普通四年) に方針を大きく変更してしまった。なんと銅銭を廃止して、鋳造しやすい鉄銭に切り替えたのである。すると、銅に比べて鉄の入手が容易だったため、鉄銭の 私鋳(民間での銭の鋳造) が相次ぎ、貨幣の価値が下がってしまい、インフレが起きて経済が混乱してしまった。その結果、窮乏した農民が増加して都市部に流入し、深刻な社会問題が引き起こされた(k.2520)

北魏では、献文帝が孝文帝に譲位し、太上皇帝を称して政務を執った。これは中国の伝統と遊牧民の柔軟な思考が意外な化学反応を起こした結果であった。しかし、魏晋以来の正統な中華王朝を標榜していた南朝では、自発的意思による皇帝の生前譲位など選択肢になく、老齢であっても在位し続けるほかなかった。蕭綱は老いゆく武帝の補佐役として皇太子に選ばれた(k.2534)

朱は後述する侯景の乱への対応に失敗し、梁滅亡を招いた 佞臣 とみなされ、はなはだ評価が低い。日本でも『平家物語』の冒頭に「秦の 趙高、漢の 王莽、梁の 周 伊(朱)、唐の 禄 山(安禄山)」とあるように、王朝を傾けた悪臣の代表格として描かれている(k.2546)

武帝没後、侯景は武帝の皇太子の蕭綱を皇帝(簡文帝) に擁立し、その娘を妃に迎え、梁の実権を掌握し、長江下流域に勢力を拡大していった。彼は東魏の官制を一部採用し、側近の護衛官に鮮卑語由来の庫真の肩書を与えている。五五〇年(大宝元年) 七月、侯景は漢王となり、十月には宇宙大将軍・都督 六合 諸軍事を称した。この将軍号を聞いた簡文帝は、大いに驚き、「将軍に宇宙の号などあろうか」(『梁書』巻五六侯景伝) とつぶやいた(k.2627)

侯景は、官制は北朝(特に東魏)、儀礼は南朝というキメラのような体制構築を図ったようである(k.2657)

侯景の乱に始まる一連の動乱は、繁栄を誇っていた貴族社会に大きなダメージを与えた。激しい攻防戦と侯景軍・梁軍による略奪の横行で、絢爛たる大都市建康は荒廃し、貴族から庶民まで塗炭の苦しみを味わった(k.2743)

武帝が求めた才能とは儒学・文学といった教養面であり、一部の例外を除き一流貴族が行政・軍事面で活躍することはなかった(k.2747)

もともと北魏の孝文帝以後、漢人官僚が国史を編纂し、孝文帝の中国化政策を正当化していた。しかし、第4章で論じたように、五二〇年代半ばには孝文帝路線に反発する爾朱栄が北魏の実権を掌握し、北魏前期の体制を志向するようになった。これに合わせて、史官にも北族が就任するようになったため、一時、国史の編纂は停滞してしまった(k.2798)

『魏書』は北魏を中華王朝として宣揚するため、列伝に五胡諸政権と併せて東晋・南朝を収録している。北斉は、西晋→北魏(東魏も含む) →北斉という正統観を抱いていた(k.2805)

建国当初、政治・軍事に励み、漢人官僚・勲貴双方の支持を取りつけようと努めた文宣帝だが、そのストレスからか酒に溺れて暴君に変貌してしまった(k.2822)

五五八年(天保九年) には人望の厚かった弟の高浚・高渙を鉄籠にいれて自らめった刺しにした上で焼き殺している。さらに、五五九年(天保十年) には東魏の皇族であった元氏も虐殺し、斬殺された者七二一人、その他の死者三千人に及んだと伝えられている。
 こうした行為の一方で、文宣帝は僧侶と交遊し、菩薩戒を受け、多くの仏寺を建立し、座禅に励んだ熱心な仏教信者でもあった。信仰と行動のギャップには戸惑うばかりである(k.2828)

武成帝は、五六五年(河清四年) に二十九歳の若さで、十歳の皇太子 緯(後主) に譲位して太上皇帝となった。第1章で紹介した北魏の献文帝に続く二例目の太上皇帝(k.2876)

文宣帝以来、弟による事実上の帝位簒奪が続いていたことを踏まえ、帝位継承の安定化を図って行われた(k.2879)

レヴィレート婚も行われており、北族の気風も色濃く残っていた。五六三年(河清二年) には北周が突厥と連合して晋陽に来襲し、翌年には北周が洛陽に侵攻してきたが、いずれも撃退に成功している。特に洛陽の戦いで活躍したのが勲貴の斛律光(娘は後主の皇后)や皇族の高長恭(高澄の子:蘭陵王)(k.2887)

k.2911
ある。  そして祖 は「恩倖」との対決に踏みきった。ところが、この対決は皇帝の寵愛を受けている「恩倖」が勝利を収めた。五七三年(武平四年) 五月、祖 は失脚して病死し、十月には文林館に集った漢人官僚の多くも殺害された。この間、名将として知られる蘭陵王高長恭も、後主の猜疑心によって死を賜って

k.2949
北斉の政治動向を端的に要約すると、複雑な権力闘争が続いた果てに、北周に滅ぼされたということに

西魏時代と同様に仏教も厚く保護し、仏教信仰を利用して地方に北周の影響力浸透を図っていた。こうした配慮の結果、北周建国当初を除き、皇族・群臣による反乱や、諸勢力の深刻な対立は発生していない。ほとんどの北族・漢人が宇文護に協力して政権を支えていたのである(k.2996)

五八〇年(大象二年) 五月、天元皇帝は二十二歳の若さで急死した。彼の死により、天元皇帝号は自然消滅した。幼少の静帝にかわって実権を握ったのは宣帝の舅である普六茹堅、すなわち隋を建国することとなる楊堅(k.3118)

実権を握った楊堅に、元勲・漢人官僚の多くが従った。武帝・宣帝と続いた皇帝専権体制に対する不安、廃仏による人心の離反、華北統一後の北斉系官人の流入による混乱と危機感、突厥や陳との対立といった緊迫する国際情勢、幼君のカリスマ不足などの理由が重なったためである。そして、五八一年(大定元年) 二月、楊堅は静帝から禅譲を受けて皇帝に即位し、開皇と改元して隋を建国し、北周の皇族を粛清(k.3151)

ユーラシア大陸東部に大帝国を築いた隋・唐は、孝文帝路線を継承した北斉と復古政策を展開した北周の双方を継承して成立した(k.3159)

妖姫臉は花の露を含むに似て、玉樹光を流して後庭を照らす。 と妖艶な張貴妃の美貌をうたいあげた後主の代表作「玉樹後庭花」もある(k.3253)

後主は井戸のなかに寵妃とともに隠れているところを捕えられたと伝えられている。長安に連行された後主は殺されることなく、六〇四年( 仁寿 四年) に天寿を全うした。享年五十二。  こうして、三国時代から数えて約四〇〇年続いた分裂時代は終わりを迎え、中華は再び統一された(k.3268)

南北朝時代は華北・江南・モンゴル高原が衝突と交渉を繰り返し、ダイナミックに連動した時代(k.3283)

その代表的事例には、草原と華北の中間地帯(農牧境界地帯) である六鎮に生まれ、柔然と北魏のせめぎ合いの過程で発生した六鎮の乱を生き抜き、北魏末・東魏の動乱のなかのしあがり、梁に亡命した後に反乱を起こして貴族社会を崩壊に導いた侯景があげられよう(k.3286)

さらに視野を広げれば、高車やエフタルといった中央ユーラシアの遊牧民の興衰と連動していたほか、朝貢国である高句麗・百済・倭といった東アジア諸国、林邑をはじめとする東南アジア諸国などとも結びつきをもっていたのである(k.3288)

近年はこれら諸勢力をつないだ存在として、シルクロード貿易を担ったソグド人に注目が集まっている(k.3292)

中国文化と遊牧民が接触・融合するなかで、意外な化学反応が生じ、それまで遊牧世界にも中国にも存在していなかった太上皇帝・子貴母死制・天元皇帝なども出現した(k.3303)

南北統一を果たした隋そして唐は、中国化を進めた北魏後期および北斉の制度・儀礼を国制の基軸に据え、遊牧的要素のある北周の制度も一部で取り入れた。さらに南朝の儀礼・学術・文化の影響も受けている。いわば南北朝の制度・文化が融合して成立した王朝なのである(k.3317)

東アジア諸国は、北朝と南朝の双方から制度・文化を摂取し、それぞれ国造りを進めていった。このうち倭・日本が南朝文化の影響を強く受けていることは、すでに多くの研究者が指摘している。しかし、意外なところで北朝の影響も受けている。例えば「太上天皇」である(k.3321)

古代日本は七世紀に徐々に中国の制度を導入していったが、その過程で漢籍輸入を通じて『魏書』に記されていた「太上皇帝」の知識を入手したのであろう。そして、唐の律令をもとに独自の律令を編纂して天皇制を確立するなか、時代状況に合わせて「太上天皇」制を創出したのである。すなわち、日本の「太上天皇」制は、中国文化と遊牧民の接触のなかで生まれた「太上皇帝」を日本の天皇制に巧みに取り込むことによって成立(k.3329)

総じていえば南朝は下からのエネルギーをうまく掬い取れなかったように思われる(k.3341)

基本は任子(官僚の子を登用) であり、元勲・功臣子弟が幅をきかせていたが、軍功をあげた兵士や文才を持つ庶民が官職を得られる可能性もあったのである。  こうした気風は隋に受け継がれ、中国統一後の科挙創出につながっている(k.3358)

科挙官僚が台頭してくるのは七世紀末の 聖 神 皇帝 武 照(いわゆる 則天武后) の時代(k.3362)

仏教は、北朝・南朝の双方で皇帝から庶民まで広く信仰されただけでなく、儒者との議論の応酬や、インド僧が次々に到来して経典翻訳を進めた結果、教学面も深化して諸学派が精緻な理論を競うようになった(k.3369)

北魏の馮太后(第1章・第3章)・胡太后(第3章・第4章)、北斉の婁太后(第4章・第6章) の事例をあげたように、北朝では女性権力者がたびたび出現した。儒教的価値観に基づく正史は彼女たちに批判的であるが、実際のところ、その能力は男性権力者となんら遜色ない。さらには権力者だけではなく、官僚の妻たちも実に活動的(k.3388)

南北朝時代は、ユーラシア大陸東部の諸勢力が連動し、制度や文化が融合・伝播した時代である。さらには下からのエネルギーが社会を揺り動かし、仏教と道教が相互に影響を与え合って活性化し、時代のうねりのなかで女性が活発化した時代(k.3421)

 

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