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March 01, 2021

『律令国家と隋唐文明』大津透、岩波新書

Ritusryo

 本書は全体として、ヤマト王権がいつ唐・新羅連合軍に攻められるかわからない「極度の軍事的緊張」の中にみずからの失策で陥り、そこから脱却するために律令制の導入による中央集権国家づくりを急いだものの、丸のみではなく独自の制度を築いていった、という内容。

 メチャクチャ面白かったのは大陸、半島史とのからみのあたり。そこらあたりは複雑なので、いったん途中ですがまとめていたのですが、残りを忘れていましたので、最初に制度の独自な受容のあたりから改めて書いてみます。

 調はミツキと読み、それは「みつぎもの」からきており(p.86)、調は郡司など地方豪族が集め、天皇は神々に奉納して収穫に感謝して国家の安寧を祈ったものが基礎にあった、と(p.90)。

 日本では文書行政と言っても唐のように案巻処理は行われず、主典が文書を詠み上げて、それを長官以下が口頭で決裁した(宣という)。決裁の結果はその後に居合わせた官人が共知するという連帯責任制、というあたりも今に続いているのかな、と(p.101-)。

 長官が複数いるというのも日本古代国家の古くからの伝統だったようで、責任の所在が曖昧で、なんとなく空気で決めて連帯責任というのも古くからの伝統なんだな、と(p.103)。

 さらに、半島からの帰化人が墓誌に祖先は中国とするのは虚構ではなく、魏晋南北朝期の大規模な民族移動の一環であるという言い方にはハッとさせられました。五胡十六国で中原に流れ込んだ異民族が皆、漢民族になってしまったように、半島からの帰化人も日本の祖先になった、と(p.120)。ここらあたりは、ユーラシア草原史の行き着く先が列島史みたいな感じの本をいつか読んでみたいな、と思いました。

 さて、以前書いたものとは重複しますが、列島の半島、大陸との関わりの部分を改めて。

 当時のヤマト王権は蘇我氏などによる豪族連合。大陸は後漢が黄巾の乱の混乱などで220年に崩壊したあと長く分裂状態でしたが、581年に隋が300年ぶりに再統一。強大な統一王朝の出現を期に、半島の三国でも権力集中が行われます。これによって列島でも中央集権が志向され、蘇我氏が高句麗型の中央集権を目指すも、新羅型を目指した中大兄皇子による大化の改新のクーデターで天皇への権力集中が図られます。しかし、外交方針をめぐって混乱。

 唐・新羅との同盟を目指す皇極から譲位された孝徳天皇が第二次遣唐使を派遣するなど親唐派が権力を握り、百済派の中大兄皇子は皇極天皇とともに飛鳥に去るが、孝徳天皇が死去。中大兄皇子は皇極天皇を重祚して斉明天皇として即位させます。斉明天皇は半島を追われた扶余豊璋を百済王とする儀式まで行い、大国意識が肥大、唐との戦争に突き進むものの、663年の白村江で大敗。

 672年の壬申の乱で権力を握った天武天皇は唐との関係修復の機をうかがう中、則天武后は690年に国号を周として帝位に就きます。天武天皇は701年に第七次遣唐使を送り、粟田真人は倭から日本に国名を変えたとぬらりくらりと説明。周則天武后にも「容止温雅なり」と愛されたおかげで、白村江の戦いは不問にふせられ、白村江の戦いで捕虜になっていた者も連れて704年に帰朝、というのが全体の流れ。

 特に統一王朝である唐は、せっかく高句麗を討ったのに新羅が滅んだ高句麗王を柵封した行為を非難したのですが、再び権力を握った中大兄皇子が率いる改新政府も滅んだ百済の王を柵封する儀式を行ってしまったために、白村江の戦いまで行わなければならなかったのかな、とか愚考しました。

 念のため年表も整理しました。

618 李淵が即位、唐を建国

622 聖徳太子死亡。新羅が任那と倭国に遺使、仏像などを献上

624 高句麗、百済、新羅が入朝し柵封を受ける(推古朝は622に聖徳太子、626に蘇我馬子を失い、大陸情勢に対応できず)

626 李世民が内乱を収めて太宗に。

628 推古天皇死亡

629 舒明天皇が蘇我入鹿に推挙されて即位(対抗馬だった山背大兄王は643に蘇我入鹿に攻められて自害)

631 舒明天皇が派遣した遣唐使が長安に到着、太宗に謁見(「太宗その道の遠きを衿れみ」歳貢を免除)

632 太宗は御田鍬の帰国に合わせて高表仁を倭に派遣、高句麗攻めの協力を働きかける。しかし舒明天皇は臣下の礼で詔を受けるのを拒んだため、太宗の在位中に遣唐使を派遣できなくなる。

641 舒明天皇死去、中継ぎの女帝として皇極天皇が即位
 百済で義慈王が弟や重臣を追放して権力を集中

642 高句麗では宰臣が権力を独占して宝蔵王を擁立して権力を独占(もうひとつの新羅では王族の1人に権力が集中された)

643 百済や高句麗の政変を受け、蘇我入鹿は高句麗型の権力集中を目指して山背大兄王を攻め滅ぼす

644 太宗、対高句麗戦争を開始

645 中大兄皇子は新羅型の権力集中を目指して大化の改新のクーデター。皇極天皇は弟の孝徳に譲位

646 改新政府は玄理を新羅に派遣、任那を諦めることを伝える

647 新羅で反乱が発生したが鎮圧され、その立役者である金春秋が来朝(日本書紀では「姿顔美しく、善みて談笑す」と記す)

648 金春秋は唐に入り、高句麗包囲網を協議。倭は金春秋に太宗への書簡を託す

651 新羅は唐化政策を進めるが、改新政府は筑紫に来た使者を追い返すなど、一枚岩ではなかった

653 中大兄皇子は皇極などを連れて飛鳥へ遷る(孝徳天皇との外交をめぐる対立?)
 孝徳天皇など親唐派が第二次遣唐使を派遣

654 さらに、新羅・唐の同盟に加わることを目的に第三次遣唐使を派遣するも孝徳天皇が死去。中大兄皇子は皇極を重祚して斉明天皇とし、違う外交路線をとる

659 中大兄皇子が中心となった改新政府はそれまでの新羅経由ではなく百済経由で、蝦夷を連れた第四次遣唐使を派遣。高宗は未開の蝦夷が入朝したことを喜ぶ

660 唐は高句麗の前に百済を滅ぼすことを決めたため、百済派と思われた遣唐使は長安に幽閉される。百済は8月に討平される

661 敗戦国百済の受けた辱めをみせつけられた遣唐使は5月に帰国。しかし、斉明天皇はすでに臨戦体制を整え、九州で扶余豊璋を百済王とする儀式まで行い、後にひけなくなっていた

663 白村江の戦いで倭・百済連合軍は劉仁顧率いる唐・新羅に大敗

664 劉仁顧は新羅と百済を和解させ、倭にも使者を送るが、倭は文書も受け取らなかった。しかし、饗宴だけはして帰国させる

665 唐は再び使節団を倭に送る。さすがに今回は表函も受け取り、高宗が執り行う封禅の儀式への参加も決める
 高句麗では唐の侵入を前に内紛が発生

666 高宗は泰山で封禅の儀式を行う(新羅、百済、耽羅、倭の酋長を領して、会に赴く。高宗甚だ悦ぶby旧唐書)。唐に征討の口実を与えないような事実上の服属儀礼。
 唐は高句麗征討を開始

668 唐・新羅軍は平壌城を陥とす
 中大兄皇子がやっと天智天皇に

670 新羅は高句麗王を柵封した行為を唐が非難、対立へ。新羅は668-680の間に13回も倭に使節を送り、協力を要請

672 唐も倭に使節を送り協力を要請するも壬申の乱の直前なので倭は対応できず
 壬申の乱
 倭は兵を半島に送らず、新羅の外交が成功。以降、新羅は2-3年に1回程度、倭に使節を送るなど密接な関係続くが、倭は遣唐使を送れない状態が続く

690 則天武后が国号を周として帝位に(690-705)

701 第七次遣唐使が任命

702 唐に渡った粟田真人は倭から日本に国名を変えたとぬらりくらりと説明。則天武后にも「容止温雅なり」と愛されたおかげで、白村江の戦いは不問にふせられた

704 粟田真人、白村江の戦いで捕虜になっていた者も連れて帰朝

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