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January 03, 2021

『100分de名著ブルデュー『ディスタンクシオン』』


Distanction

『100分de名著ブルデュー『ディスタンクシオン』』岸政彦、NHK出版

 『ディスタンクシオン』はちょうど、流行りの哲学書を読まなくなってきた頃に「まあ、いいや」と放っておいた本です。今回『100分de名著』で取り上げられるということをSNSの社会学者の方から教えていただき、楽しみだったのですが、想像以上でした。

 生まれや環境によって趣味というか生き方の「ハビトゥス」が決められるというのは納得的といいますか、2000年代に読んで衝撃を受けたRobert Putnam "Bowlingalone" のソーシャル・キャピタル(Socialcapital、社会関係資本)という概念はブルデューが人が持つ資本を経済資本、文化資本、社会関係資本に分類したあたりに由来するんだな、と気がつく始末。今さら、自分の読書量の少なさと教養のなさは嘆きませんが、もうちょっと早く読んでおけばな、と。

 今でいうアンダークラスの再生産みたいな話しなんじゃないかとも思っていましたが、ますます格差の拡大が進む時代となっきた中で、一人ではどうしても読む気の起きなかった本だけにありがたい。

 また、個人的には吉本隆明さんの大衆の原像と比較しながら読んでいました。下層階級の人たちが自然に自分たちを目立たない存在として位置付けるハビトゥスは合理的であるというブルデューは、まるで現実は合理的だというヘーゲルを思い出させるのですが、同じようにヘーゲル/マルクスから影響を受けた吉本さんは、目覚めた大衆などはいないけど、その「大衆」を神として組みこまない社会の改革などあり得ないというのが「大衆の原像」だと考えていたと思います。いま思うと、それは階級が西欧ほどハッキリしていない日本の独自性なのかな、と。

 例えば、ヨーロッパでは庶民が愛好するサッカーを、日本では圧倒的な人気を誇っていた野球のアンチテーゼとして好むという傾向がいまやすっかりオールドになりつつ世代にあると思いますが、ジャンルが入り乱れている感じが日本にはあるのではないでしょうか。

第1回「ハビトゥス」

 《ブルデューは、今回紹介する『ディスタンクシオン』などの多数の著作のなかで、私たちが自然だと思っていること、当然だと思っていることが、いかに階級などの社会構造に規定され、条件付けられているかを明らかにしました。たとえば、聴く音楽、毎日の食事、好んでおこなうスポーツ。あるいはもっと微細な身のこなしや態度、歩き方や喋り方まで、こうした日常的な行為や認識が、いかに社会によって決定(と言うと言い過ぎですが)されているかを、執拗なまでに説き続けたのです》

《あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好は、まず教育水準(学歴資格あるいは通学年数によって測定される)に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついているということがわかる》

《純粋無垢な眼など存在しないというわけです。私たちの眼、つまり見たものに好感を持ったり嫌ったりする姿勢(性向)は、私たちそれぞれが享受してきた社会環境、つまり歴史によってつくられるとブルデューは主張します》

 ここで重要な概念が出てきます。それはハビトゥス。

《ハビトゥスとは私たちの評価や行動のさまざまな傾向性のことであり、同時にそれらを生み出す原理のことです。また、それは一回性のものではなく持続性があり、異なる分野においても同じ傾向を示す(移調可能)》もので《ハビトゥスは世界を分類していくものであると同時に、それによって行為者が分類されていくものでもあります。傾向性(dispositions)の体系としてのハビトゥスに分類されることによって、その人の位置(position)が確定され、同じハビトゥスを持つ者たちの集団(クラスター)ができていきます。こうして似た者同士の集団がつくられることによって、人びとは何者かに「なっていく」のです》

 個人的な経験からは「生まれ」の他にも環境が大きいんじゃないかな、と感じます。家は貧しかったですが、友人たちや親戚、それに渋谷という街に助けられましたね。60-70年代の映画とか名画座で見まくれました。歌舞伎は祖母、宝塚を含む商業演劇は叔母、落語は従兄弟からの広義の「家庭教育」で好きになったと思います。能、狂言、文楽は歌舞伎をより深く楽しむために勉強した感じ。だから、漫才は見たことないかな…まさに環境に支配されてます。音楽に関してはピアノを習わされましたが、小学校の高学年でやめてます。友人の兄たちから聞かせられたロックに凄く影響を受けて、クラシックなんて…という感じでした。でもパンク、クイーン、キッスみたいな商売を前面に出してきた企画モノが流行り始めて興醒めしてジャズに。そこからクラシックに戻ったという感じですかね。

 この庶民vs上流に関しては《一方で、ブルデューには特筆すべき特徴がありました。それは、彼が庶民階級に対してもほとんど幻想を持っていないことです。これはおそらく、ブルデュー自身が庶民階級出身の当事者だからでしょう。インテリ階級の学者は民衆に対するロマンが強く、ややもすると「民衆たちが立ち上がっていつか革命を起こす」と真顔で主張しますが、そのような庶民階級に対する幻想を、ブルデューはいっさい持っていませんでした》という見方が面白い。《ハビトゥスには、ひとりの人間の人生においても、またひとつの社会全体を巻き込む巨大な歴史的変動においても、常に組み換えが起こったり、変化したりすることがあるのです。おそらく、高度経済成長期の日本にも同じようなことがあったでしょう。『ディスタンクシオン』は階級システムの機械的な再生産論として読まれることもありますが、それはブルデューの本意ではないと思います》という感じで、やはり環境にも影響を与えられているという感じなのかな、と。

 とにかく《私たちの行為がどれくらい構造に規定されているのかを知ることは、言い換えれば、私たちがどれくらい「不自由か」を知る、ということに他なりません。ブルデューは、一見逆説的ですが、私たちがどれくらい不自由であるかを明確に知ることが、私たちが自由になるための条件であると主張したのです》と結びます。

第二回「界」

 人はハビトゥスによってクラスターに分けられ、そこで「否定」をテコに闘争するという世界観は凄いな、と思うし納得的です。

 《ブルデューによれば、私たちの好みは家庭や学校を含む社会生活において培われたハビトゥスによって方向づけられ、規定されています。そしてこのハビトゥスによって、私たち自身が、ある種のクラスターに分類されていきます》《私たちは、この空間のなかで、お互いの資本やハビトゥスを「武器」として、何らかの「ゲーム」に参加しているのです。ブルデューは、私たちがゲームに参加しているこの空間のことを、「界」と呼びます》

 こうした《趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなければならないときに、まったくネガティヴなしかたで、つまり他のさまざまな趣味にたいして拒否をつきつけるというかたちで自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である》とブルデューは書きます。《バッハを好む人はチャイコフスキーを嫌うといったように、必ず否定がセットになるのです》《そして趣味goutsとはおそらく、何よりもまず嫌悪degoutsなのだ》と。それは《社会階層と個人のあいだには、芸術という界、音楽という界が成り立っています。その界の中でバッハはどこに位置づけられるのか。私たちはそのことを実践感覚で捉え、自らを卓越化させるためにバッハを選んでいる(あるいは選ばない)のです。このように、二重、三重のプロセスを経て決まっているのが趣味》という複合的な要素を持っています。

 こうしたクラスターに属することによって、人は闘争することになります。

 《自分が好きな音楽も絵も食べ物も連鎖的に否定される可能性がある。ひいては自分そのものを否定されることにつながるわけです。 みなさんも映画や音楽の話をしていて、自分が好きな作品やアーティストを「まったく駄目だね」などと言われ、自分でも意外なほどに深く傷ついた経験があるのではないでしょうか》

 そして、こうした闘争で《界の中で立ち振る舞うには、必ず界全体の構造や局面に関する実践的な知識が伴う》という大きな視点を人に与えます。《そうすると、なんとなく、複数の界を貫いて、統一した自己というものができてきます。さまざまに異なりながらもひとつのまとまりのある自己ができ、同じような行為者たちが集まってきてクラスターができる。そして、ハビトゥスによる傾向づけがあるためその後も自己は再生産され、界の構造も再生産され、さらに大きな社会空間も再生産され》《このような界の構造は、ブルデューが想定する、もっともマクロな社会空間(階級)全体の構造と相似します。その構造を表したのが次の図です。これは『ディスタンクシオン』に載っている図を簡略化したものですが、縦軸が資本量(社会階層)、横軸が資本構造(資本の種類、たとえば文化資本か経済資本かの違い)を表します》《すべての趣味は、高級な/安っぽい、優しい/激しい、内省的/外交的、精神的/肉体的などの二項対立のなかに置かれ、他の趣味との関係のなかではじめて意味を持つようになります》。

 さらに芸術も、こうした否定による闘争の影響の中にあります。《わかりにくい作品というものは、言い換えれば、「わかりやすい作品への抵抗」としてつくられているのです。ですから逆に、ゴッホやピカソのような、すでに十分権威付けられていて、途方もない値段がついている、もっとも象徴的な利得を多く所有している作家や作品に対する反抗なのだということが理解できれば、現代アートの難解な作品も、とたんによくわかるものになります》

第3回「文化資本と階層」

 ブルデューは経済的な資本だけでなく文化資本、社会関係資本というものがあり、それぞれ蓄積し増やすことができるとしています。このうち《文化資本とは、経済資本と対比させることで社会や界の横幅を描くための概念です。ハビトゥスに近いものでもあるのですが、もうすこし具体的で、それは文化財、教養、学歴、文化実践、文化慣習、あるいはブルデューが言うところの美的性向などを指します》。

 《資本とは何か。それは投資され、増殖され、蓄積されます。そして所有する人々に「利得」をもたらします。音楽を聴くこと、絵を所有すること、映画を見ること、外国語を習うこと。それだけでなく、「よい大学」に行くこと、上流階級のマナーを身に付けること、すぐには役に立たないような「高級な」教養を身につけること。これらはすべて、投資され、蓄積され、そして利得をもたらす資本の一種なのです》と。

 ここからは簡単に。

 《美術館に行く回数には露骨な階級差があるといいます。上流階級ほど行く回数が多く、下層階級の人はあまり行かない》

 《映画館に足を運ぶ頻度は、収入や居住地に左右される割合が高い。しかし映画監督についての知識は、映画を見る頻度に関係なく、学歴が高い人ほど多い傾向がありました。つまり、それは「密接に文化資本の所有量と結びついている」のです》

 《ブルデューは、美的性向とは端的に言って、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受容する能力のことだと言っています。内容ではなく形式。絵画で言えば、描かれているテーマや対象ではなく、その「描き方」、つまりそれぞれの作品が持つ、描線や色彩のスタイル、技法、流派、「見せ方」を鑑賞し評価するための知識や態度のことです》

 《それらのスタイルや技法を十分に感受し価値づけするためには、美術界においてそのスタイルや技法がどのようなポジションにあり、ほかのスタイルや技法とどのような関係にあり、誰と連携して誰と闘っているのかについて、十分に詳しくなる必要があります》

 つまり、作品に対して距離を置くことで、冷静で客観的な態度を取ることができる、みたいな。そして、話しは文化的再生産論へ向かいます。学校教育は階級をシャッフルするためのものでもあるが、実際は階級を再生産している、と。

 《学歴という資本を得るためには勉強をしなければなりません。しかし、そもそも机に向かって勉強することができる、そうすることが当たり前であるという態度を持っていることが、学歴を得る場合には有利に働きます》《しかも、勉強することができる人はどのくらいのリターンが得られるかをおおむね予測できる》《学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化資本(身体化された文化資本)であるため、その資本が多いか少ないかによって学校での序列が決まり、ひいては社会での位置も再生産される》と。

 例えば、貧民街などで《ロールモデルになる学歴の高い人がいないとなれば、不良少年たちには、教室で我慢してみんなに合わせて勉強する意味がわからない。これはブルデュー的に言えば、知的能力ではなく、ハビトゥスのレベルでの排除》であり《不平等な階級格差が、むしろその下位の人々の「自由意志」によって再生産されているという、きわめて皮肉な現実があることを、ウィリスは詳細なエスノグラフィーによって見事に描き出したのです。教育社会学には、野心の冷却(クーリング・アウト)という概念があります。客観的なチャンスが存在しないところでは、主観的な野心も、はじめから存在しない》のであり、《学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本を、そのまま自動的に親と同じように高い地位に押し上げるための装置》だ、と。

 《東大生の親の年収を調べると、約六割が九百五十万円以上だといいます(東京大学「学生生活実態調査報告書2018年」)。全世帯のうち所得が一千万円以上のものはわずか十二パーセントですから(2019年「国民生活基礎調査」)、東大生の出身階層はものすごく偏っている》。

 こうした考えを進めると《文化資本がなければ社会を変えようとする発想そのものが生まれてこないとか、過酷で身もふたもない話になってしまう》が、幻想を持たずに他者を知ることを可能にしてくれる、と。

4回目「境界と境界感覚」

 こちらも簡単に。人は分けられていき、社会的にもそれが固定化されていきます。さらには内面にも境界線がひかれるようになって、排除されていると感じたら自分からそうした世界には近づかず、自主的に排除されていき、秩序を自然なものとして受け取る、と。自分に与えられているもので満足して、謙虚で慎ましく目立たない存在となる、と。

 《前回、学校での序列が社会的差異を再生産するという議論で見たように、その差異は中間層や下層階級の人びとにも内面化され、「これは自然なものだ」という見方を植えつけています。ブルデューは『ディスタンクシオン』の結論部分で、これを「客観的な境界」が「境界の感覚」になっていると説明》しているのですが、それは《デュルケームが「論理的適合性」と呼んでいたもの、すなわち社会界の多様な知覚カテゴリーの統一的編成が、社会秩序の維持にどれほど決定的な寄与をもたらしているかがこれで見てとれ》る、と。

 そして《ハビトゥスとは、もっとも広く捉えられた意味での「合理性」ではないでしょうか。冷静で客観的で科学的な合理性ではなく、もっと慣習的で、日常的で、実践的な合理性》だ、と。

 《人びとが圧政に苦しむ社会でも、楽天的に「やがて下からの革命が起こるだろう」とは考えません。逆に、民衆は「愚かな」人々だから、ただ苦しみに甘んじているのだ、とも考えません。そこには彼らのハビトゥスがあり、相応の合理性があるのだとブルデューは考えます。「いったいどうして民衆は革命を起こさないのだ?」ではなく、「革命を起こさないことの理由があるはずだ。まずはそれを丁寧に理解しよう」というのが、ブルデューを貫く信念》なのだ、と。

 《ブルデューは『世界の悲惨』の冒頭に収録されているインタビューで、人を理解するとはその人のハビトゥスを把握することだと述べています》《自分がどのくらい自由で何ができるのかよりも、自分の行為がどのくらい制限されているのか、どうやって制限されているのかを知るほうが、私たちを社会構造の鎖から解き放ってくれるのではないでしょうか。「重力の法則は飛ぶことを可能にする」とブルデューは言っています(『介入Ⅰ』)。幻想を持たずに希望を持つ。ブルデュー社会学が教えてくれるのは、その姿勢なのです》。

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