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January 12, 2021

『テアイテトス』プラトン、渡辺邦夫、光文社古典新訳文庫

Theaetetus

『テアイテトス』プラトン、渡辺邦夫、光文社古典新訳文庫

 去年、コロナの流行り初めの頃、面白くないのでプラトンを光文社古典新訳文庫で読み直していたんですが、また、宣言などが出て、面白くない状況になってきましたので、まだ、まとめていなかた『テアイテトス』のことでも書いてみようか、と。

 小説ではないので、一度、読んだ本は気に入ったところの引用などをしつつ、まとめておかないと、何を読んだのかも忘れてしまうので書いているんですが、ここまで書かなかったのは、やっぱり、あまり面白くなかったから。

 本書は討論相手のテアイテトスの「知覚が知識だ」という提案が例によって否定されるんですが、それはプロタゴラスの相対主義だけでなく、ギリシャで支持を集めていたもうひとつの有力哲学説である「流動説」とも結びつく内容でしたので、それについての吟味がなされるというあたりまでは面白かったんですよ。

 しかし、有望だった「知識とは、説明規定つきの真の考えである」という考え方も否定され、結論は「したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる」という全否定。訳者の解説によると、議論は次の『ソフィスト』に持ち越されるという、随分、中途半端な幕切れなんですね(まあ、対話編はだいたいそうだと言われればそうなんですが)。

 この「説明規定」は「ロゴス」の訳語。「ロゴス」は《言語的な要素が深くからむ人間の歴史と、言語にかかわる側面が強い学問・知識の成り立ちを、語義に反映する言葉で》あり、「心のなかにつねに埋め込まれている、言語的な原初構造」という考え方にも関係してきます。「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という定義も否認されるのですが、その原因は《文字の読み書きや音楽といった、(話され、聞かれる)母語修得以後の初歩的学習からとられていたことにあります》。

 プラトンの原則《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《現代哲学の「ラッセルの原理」に相当する原理である。バートランド・ラッセルは、判断ないし想定について、判断者は判断の項すべてを知って(beacquaintedwith)いなければならない、と考えた》ことにも通じる、というあたりは面白かったかな。

以下は箇条書きで引用します。

[訳者まえがき]

《著者プラトンは、かつて自分が書いた初期の比較的短い作品群のなかで、「勇気とは何か?」(『ラケス』)、「節度(健全な思慮)とは何か?」(『カルミデス』)、「敬虔とは何か?」(『エウテュプロン』)、「美とは何か?」(『大ヒッピアス』)、「愛(友愛)とは何か?」(『リュシス』)、「徳とは何か?」(『メノン』)というように、もろもろの徳や徳に関係する価値を主題にして、ソクラテスを一方の対話者とし、かれが対話の相手に質問しながら議論するという趣向の対話篇を書きました》

《つぎにプラトンは、『パイドン』と『饗宴』に始まる中期作品群で、そのような否定的結論の作品と、いったん訣別しました。いわば一八〇度書き方を変えて、「プラトン主義」の源とみなされる数多くの積極的な(そして時に大胆な)主張を提出しました。しかし、その中期の最後の作品である本書『テアイテトス』は、もういちど初期の対話のスタイルに一時的に戻った作品です》

《自分が何をどの程度学ぶかで自分の運命全体が変動し、自分が社会に貢献できる事柄と、社会自体のあり方も変動しうるのです》

《中期の大著『ポリテイア(国家)』は、若者を段階ごとにどのように鍛えて、正しい知識に基づく人間形成と理想の共同体の建設を図るかということを、登場人物の「ソクラテス」に語らせる、壮大な作品です》

[導入部 テアイテトスとの対話]

《産婆は妊婦の身体に薬となるものをあたえ、まじない唄を歌って陣痛をひきおこし、必要を感じれば苦痛を和らげることもできる。また、産むのに難渋する女性が、なんとか産むようにすることもできるし、あるいは、胎児が早い時期で、流産させるのがよいと思われる場合には、流産させる》

註5《「かたち」と訳したのはeidosという名詞。日常的には「かたち」や「種類」という意味。プラトン初期では、たとえば徳目の「敬虔」について、「敬虔とは何か?」と対話相手のエウテュプロンし定義的説明を問うソクラテスは、さまざまな敬虔な行為など「多くの敬虔なもの」を一つにまとめあげる「かたち(エイドス)」を求めている、とエウテュプロンに説明した(『エウテュプロン』六D)。つづく『パイドン』『ポリテイア』などの中期のイデア論では、美や正義や等しさなどのイデアを表すひとつの表現として、このeidosが用いられる》

註7《プラトンの初期対話篇でソクラテスが主導する対話はほとんどの場合、対話の相手を難問(aporia)で困惑させ、主題となる徳や美や愛について、相手が「知っていたと思っていたが、じつは知らなかった」という消極的結末に至ることで終わる。「ソクラテス的論駁」と呼ばれ、積極的結論は導かれない》

註10《原語はeidola(eidolonの複数形)で、像のうち、実在の本質を映さないみせかけという意味》

[第1部 ]

《不思議に思うこと(タウマゼイン)は、知恵を愛する者に固有の経験》

《全体はそもそも動きであり、それ以外には何ものもない。しかし動きにも二つの種類があって、そのそれぞれが無数あるが、一方は作用しうる[生ませることができる]もの、他方は作用される[生むことができる]ものである。そして、[まったく新しいものを生み出す]これら同士の「交渉」と「相互の摩擦」から、数において無数の「子孫」が生じるのだが、それら子孫はすべて双子をなしており、一方は知覚されるもの[という子孫]、他方は知覚[という子孫]である》

《その一方で、知覚されるものの種類は、これらのそれぞれと生まれが同じであり、多種多様の視覚に対しては多種多様の色があり、多種多様の聴覚に対しては同様に、多種多様の音声がある。そしてこれら以外の知覚にも、それぞれ知覚されるものが、ペアとなるそれぞれの知覚と生まれを同じくするようなものとして、生じるのである》

《なにものも、それ自体としては一つのものではなく、「なにかにとって」つねに「なるところ」なのである》

註1《知覚している」の原語はaisthanesthaiで「感覚している」とも訳せる》

註2《「知覚」の原語はaisthesis。「感覚」とも》

註6《原語はphainetai(不定法はphainesthai)。「あらわれる」「みえる」「思われる」と訳せる動詞。これの名詞はphantasia「あらわれ」(ほかの哲学者の文脈では「表象」「想像力」という意味になることもある)で、ここでは知覚と区別されないが、つづく『ソフィスト』二六四A~Bでは、「知覚が関係するような考え(判断)(doxa)」という新解釈が示される》

註7《これは一五二C二で底本および旧版OCTに従ってgarという一語として読む読み方(有力写本はこの読み方である)による訳。議論の根拠と結論を逆転させ、g’ar(geara)のように、二つの小辞の組み合わせに読み直す提案も、複数の有力解釈者によってなされている。この提案に従えば、「したがって、温かいものやこの類いのすべてのものにおいて、あらわれと知覚は同一なのである。それゆえ、それぞれの者にとって、それぞれの者が知覚する、そのとおりに有りもするだろう」という意味になる》

註11《原語はkinesisで、「運動」「変化」を一般的に指す非常に広い意味の言葉。後に一八一B[二七節]以下で「場所の移動」と「性質の変化」に種類分けされる》

註12《原語の不定詞はgignesthaiで、「生成する」「生まれる」「つくられる」という意味の用法のほか、補語を取って「……になる」という意味の用法ももつ、きわめて広い意味の動詞。これの名詞はgenesisで、基本的に「生成」と訳すが、「何かになること」が適切な場合も多い》

註23《エウリピデスはアテナイの悲劇作家。ここで言及されているのは、かれの『ヒッポリュトス』六一二行にある「舌は誓ったが、心は誓っていない」という苦しい言い訳のせりふ。ソクラテスは皮肉を込めてテアイテトスに、ほんとうの矛盾ならば、単なる「口先で答えて逃げられる問題」では済まないと言っている》

註32《白いものを見るとき、ここでのプラトンの説明では、眼からも、見られる対象からも、何かが、互いのほうに向かうように動く。そして、一定の近さになったとき「視覚経験の成立」が起こり、視覚に白いものが見える》

註44《有」の原語はousiaで、この名詞は「ある」「有る」を意味するeinaiという動詞に対応する抽象名詞である。日常的には「財産」などの意味だが、プラトンとかれ以後、哲学用語として活用され、プラトン哲学では「有」「実有」などの日本語訳があてられる(アリストテレス哲学では「実体」「本質」「本質存在」などに訳される)。『テアイテトス』のこの箇所では、「有」は「真理」に近い意味内容であり、それが各人に相対化され、「太郎の有」「花子の有」などとされる。そして、太郎自身、花子自身にとって誤りえないものであり、それゆえ他人によっては反証されない「知識」だということが、結論的に述べられている》

註45《原語はamphidromiaで、新生児が誕生した数日後女性たちによっておこなわれた当時の儀式》

[第一定義の批判的検討]

《この世からあの世へと、できるだけ早く逃げようとしなければならないのです(51)。そして、逃げることとは、できるかぎり神に似ることです》←トマスのインド格言に似ている

《むしろ、この説を語る人々は、なにか別の言語をつくらなければなりません。現状ではかれらは、かれらの想定にかなうような言い回しをもっていないのですから》

註1《「判断する」の原語はdoxazeinで、名詞doxa(「考え」。次注参照)からできた動詞。doxaはまた、「第一部 一」注19の動詞dokein(「思える」)とも語源的につながる。プロタゴラス説は「万物の尺度は人間である。太郎にあらわれるものは太郎にとって有り、花子にあらわれるものは花子にとって有る」のように「あらわれる(phainesthai)」を使って表現されたが、「太郎に思える(dokein)ものは太郎にとって有る」というようにも言い換えられるとソクラテスたちには理解されている》

註2《「考え」と訳した原語はdoxa。「思いなし」「思わく」「判断」等に訳されうるが、『テアイテトス』では、「知識(episteme)」との強い対比を含む「思わく」「臆見」(英語ではopinion)の類いはふさわしくない。ここや第二部冒頭における議論から、動詞doxazein「判断する」との関係が強いと考えると「判断」だが、思考活動としての「判断」では、「知識」という状態との関係がみえにくい。そこで一般的な「考え」で訳す》

註3《原語はdialektike。対話的問答を通じて互いを吟味するソクラテス的方法。『ポリテイア』第六巻五一一Bとそれ以後では、哲学の代名詞のようにも扱われた》

註27《これがこの箇所の議論の大枠である。〔A〕プロタゴラスが言うように人間は全員、真を判断するとしても、人間は真と偽の双方を判断するし、〔B〕大多数の人間が前提とするように人間は真も偽も判断するとすれば、[当然]人間は真と偽の双方を判断する、ということ。〔A〕の部分は、プロタゴラス説が自分で自分に反対する結果となる(「自己論駁的」である)という趣旨である。非常に強力な反論にみえる。しかし、逆にあまりに強い議論にも思えるはずである。そこでその成否が論争の的になっている》

註29《原語はtaontadoxazein。最初「それぞれのものはわたしにあらわれる(phainetai)とおりに、わたしにとって有り、きみにあらわれるとおりにきみにとって有る、しかるにきみもわたしも人間である」(一五二A[八節])と、別の動詞で言われていたこと》

註36《「有益な」事柄(sumpheronta。一七七D[二六節]では同義語としてophelimaも用いられる)と、後の一七七Dの「善い」事柄(agatha)は、ほかの正しさや敬虔や美しさとは違って、万人が尺度になれる相対的なものではなく、(絶対的に)より正しい考えがありうる例外的な事柄であるとする。この部分的な理論修正により、善さと有益さについて知恵があるソフィストは、身体状態にかんする例外の「健康」と「病気」の専門家の医者と同じように、人々とポリスの善さについて特権的な知恵をもちうると主張できることになる》

註37《原語はousiaで、ほかの箇所では、おもに「有」と訳した言葉。ここでは意訳》

註42《原語はdeinosで、善い目的のための頭のよさ、ないし思慮深さも、邪道な目的のための「ずるがしこさ」「狡猾さ」もこの言葉で言える。「恐るべき才能の人」という含みの言葉》

註52《「人間は神の似像とならなければならない」という脱線議論の主題(『ポリテイア』第六巻五〇一B、『法律』第四巻七一六D参照)がここで明示される。「脱線」ではあっても、この議論で集約されるプラトン主義の趣旨はその後の古代世界に大きな影響を与え、アリストテレスも新プラトン主義も、またキリスト教プラトン主義も、ここの議論をプラトンの基本的な教えとして理解した》

註53《ホメロス『イリアス』第一八巻一〇四行などから多少変形して引き継がれた、「まったくのダメ人間」に当たる表現》

註54《『パイドロス』二四三E~二五七Aにおける神話的説明によれば、平凡な人々や悪徳の人の魂は死後、生きていたあいだ送っていた生にふさわしい地上の生活をそれぞれ送らざるをえないが、知恵を愛し徳のある生活を送った人は、死後のそうした輪廻転生を免れることができる》

註55《脱線部分以外の『テアイテトス』の議論が、プラトン周辺の当時の知識人にとっても新鮮で、きわめて高度であったことの示唆》

註74《プラトンのこの箇所は「運動変化の分類」の歴史上初めての試みのひとつ。アリストテレスは『自然学』第五巻第一章などにおいて、「動き(kinesis)」として、ここで分類された「変化(性質変化)」と「移動(場所移動)」のほか、「量的増減」を加え三種類とした。かれはその上で、実体そのものの生成と消滅をも、これらとともに広義の「生成消滅、運動変化(metabole)」の種類とみなした》

註76《原語はpoiotesで、ここ以後「性質」を意味する術語となった。疑問詞poios「いかなる?」からつくった抽象名詞で、原語を直訳すれば、「いかなるものであるかということ」程度の意味である。ラテン語でも対応する語源関係から、qualis「いかなる?」→qualitas「性質」という術語が使われた。そしてこれが、qualityなどの「質」「性質」を意味する現代欧米語の語源》

註81《ここに書かれた事情から、知識論の『テアイテトス』につづいて存在論の『ソフィスト』が書かれなければならなかったと推測》

[第二部]

《つまり、一言で言って、自分が知らない、また自分がかつて知覚しなかったものについて、今われわれがなにか健全なことを語るとすれば、だれも誤ることもなければ、虚偽の考えもないように思える。 しかしこれに対して、われわれが知っており、かつ知覚もしているものについて言えば、まさにこれらの対象の場合に、考えは、曲がりくねりながら、虚偽にもなり、真にもなる。すなわち、考えが結局、まっすぐ直線的に、固有の過去の経験の印章と固有の現在の印とを一つに合わせる場合には、真になるし、斜め方向に逸れた場合には虚偽になる》

註9《原語はdianoiaで、以下の一八九E~一九〇A[三二節]において、心のなかの無言の対話問答の過程として規定される。そして、その過程の結果出される心の結論が、考え(doxa)とされる》

註12《思考dianoia」という心の対話問答の過程の末に心が一つの結論をきめるときに、心のなかにある結論の「言葉logos」が「考えdoxa」である、という説明。『テアイテトス』のこの箇所と一見よく似た主張が、つぎの『ソフィスト』二六三E~二六四Aでも述べられる。ただし『ソフィスト』では、「logos」は「言明」ないし「文」であり、「なにかについて・なにかを・語る」という基本構造のもとで押さえられる。そして、自己との対話のような思考過程を経た「doxa」も、「なにかについて・なにかを・判断する」という主語と述語の構造をもつ「判断」であり、同じ基本構造という限定のもとで「言明logosの一種」だとされている》

註17《ムネモシュネは神ウラノス(天空)と女神ガイア(大地)の娘の女神で、その名は「記憶」を意味する》

註30《原語はhexisで、ekhein(英語のhaveにおおむね相当する動詞)の抽象名詞。ここは哲学用語としての用法の始まりの箇所の一つで、以後アリストテレスたちにより「状態」「性向」等の意味で術語的使用がなされる。ラテン語ではhabitus。以下の議論では「もっていること」という意味だが、「かつて獲得して、今所有していること」との対比で使われている。なお、hexisとekheinには「服を着ている」「手にもっている」など現に身にかかわってその活用ができるという含みがあり、この含みから、買ってすぐに衣装棚にしまい込まれた服や、ただ単に鳥小屋で飼っている自分の鳥を「もっている」とは言わない》

[第三部]

《それではきみには、この説は、気に入ったのだね? そしてきみは、「知識とは、説明規定つきの真の考えである」と定めるのだね》

[第三定義の批判的検討]

《三つのうち、少なくとも一つを「説明規定」と考えるのだろうと、われわれは主張したのである。テアイテトス はい、よく思い出させてくださいました。そのとおりでしたね。まだ一つ残りがありました。 一つは、声に映し出された、思考の像のようなもの、もう一つは、「字母を通じて事柄の全体に至る踏破」と今言われたばかりのもの》

《「知識とは何か?」と問われて、「差異性の知識がついた正しい考えである」と答えようとしているように思える。この説によれば、これが「説明規定の付加」になるからだ》

[結論]

《したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる》

註3《「バシレウス」は「王」を意味する言葉だが、王がいなくなった民主制のアテナイでは、「バシレウスの柱廊」は、司法の役所のことである。この一文は、ソクラテスが前三九九年に死刑判決を受け、処刑されることになる裁判への言及である。裁判と刑死にいたる過程の話としては、本対話篇『テアイテトス』(執筆時期としては中期最後の作品)のつぎに、バシレウスの役所前で出会った旧知のエウテュプロンとの、敬虔をめぐる初期対話篇『エウテュプロン』がきて、そのあとに被告ソクラテスの裁判弁論を描いた初期作品『ソクラテスの弁明』、そのつぎに獄中のソクラテスの処刑が迫った日の老友クリトンとの対話を描いた初期作品『クリトン』、そして最後に、処刑当日の親しい仲間たちとソクラテスによる、魂にかんする対話を描いた中期作品『パイドン』、という順番で並ぶ》

[解説]

[1「知識とは何か?」という問いの意味について]

《『テアイテトス』のテーマは「知識」です。「知識とは何か?」を西洋哲学の歴史ではじめて本格的に研究した書物とされます。この「知識」は、原語のギリシャ語では「エピステーメー」です》

《古代ギリシャ人が用いたギリシャ語の「エピステーメー」は、意味上、「学問的」知識、組織的な「理解」というニュアンスを、強く含んでいました》

《プラトンは『テアイテトス』で、今日確実なやり方とされるように、「知る」の意味や用法の分類からは、話を始めていません。方向としては逆に、組織的理解・知識すべてについて、その一般的本質をまず問います。問うなかで、「知識」と呼ばれるすべての事柄の内部に重大な違いや隔たりがあれば、おそらくそのいくつかは、発見されてくるはずです。そうした探究として、「知識(エピステーメー)とは何か?」という言葉で導かれる探究を考えることができる、と予想されるのです》

《つまり、「エピステーメー」という知識にかかわるプラトンの一般的態度は、組織的理解を重んじるものであり、善と諸価値への積極的荷担を含むものであるという二つの特色をもちます》

《ソクラテスは初めてテアイテトスに、「知識とは何か?」という問いを投げかけます。もっと詳しくみると、かれはつぎのようなステップを経て、「知識とは何か?」を対話に導入しています。(1)学ぶとは、人が学ぶ事柄をめぐって、より知恵のある者になることである。(2)「知恵のある者」が、知恵がある(賢い)のは、本人の内部にある知恵の力による。(3)知恵は知識(と同じ)である。(4)知識とは何か?》

《「知恵がある」という言葉は、人間として無条件にすぐれていて、徳があるという意味合いをもっていました。ギリシャでは知恵は、つねに代表的な徳でした。「徳」の原語の「アレテー」は一般に、はたらきがあるもののはたらきがすぐれているという意味の言葉です》《プラトンの議論以来、勇気、正義、節度と並んで、知恵は四つの代表的な徳のひとつとされました》

《ギリシャ人が知恵をとくに重視したことは、かれらがもろもろの古代文明のうちでも際立って教育熱心な民族であり、教育と学習の方法についてさまざまな工夫を重ねた人々であった、ということのひとつのあらわれです》

《「知恵」なあたるギリシャ語原語「ソフィア」は、人間としての端的な優秀性を示すような、抜群の「賢さ」ないし「知恵」という語義のほかに、「専門家(エキスパート)の知識」という意味をもっていました。『テアイテトス』ではこの二つの意味は、連続的に捉えられています》

《知識であるものをたくさん答えてほしいのではなく、知識か、それとも知識でないかをもともときめてくれる一般的規準が知りたかったということです》

《成功した学習に共通の「自分の内側の原因」を言うためには、自分を含む人間たちが(ほかの動物とは違って)なぜ「知識」を頼りに生きるのかという問いにも、正面から答えられなければなりません》《テアイテトスという人は、このおもしろいけれども特殊で、難しい研究に向いています。なぜならかれは、√2や√3やなどの個別的な無理数の列を見て、無理数とは一般に何かという問いに、歴史上初めて答えた人だからです》

《テアイテトスが、「知識とは知覚である」と一般的に定義し、そう言い切ることができるためには、かれは自分の単なる実感を超えて、なんらかの特別な哲学的立場に荷担しなければなりません。ソクラテスは、プロタゴラスの相対主義が、このテアイテトスの必要を満たしてくれる立場だと考えます。そしてテアイテトスも相対主義を、議論のために受け入れることにします》

《最終提案の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」が、初期の作品のころから中期最後の『テアイテトス』執筆時にいたるまでのプラトンの考え方に近いものだということは明らかです。動物と人間が共有するような単なる「知覚」では知識にならず、人間のみがもつ「考え」が知識には必要であること、そして、後に詳しくみるように、「説明規定」と訳した「ロゴス」が「真の考え」に付け加わったとき知識が得られるのではないかということ》

《そしてプラトン自身も『テアイテトス』以前の『ポリテイア』などの中期作品で、正しい説明を含むエピステーメー(知識)と、そのような説明のないドクサ(「考え・憶測」)を、互いにまったく違うものとして説明していました》

《第一定義の「知識とは知覚である」は、相対主義による補強を受けて、知覚という経験領域に「誤りのない真理」を見ようとします。プラトンは、知覚とは異なるもうひとつの経験領域(これをかれは、「考え(ドクサ)」と呼びます)にこそ「誤りのない真理」だけでなく「真理」と「虚偽」も全体的に含まれると結論づけたいのですが、この結論を得る過程で、プロタゴラスの相対主義哲学は格好の論敵として、プラトンの結論の確立に間接的に貢献してくれるのです。 第一の点を説明しましょう。プラトンによれば相対主義自体は、永遠に論駁不可能かもしれない、手ごわい論敵です。相対主義のはじめの例は、風が吹いていてAさんは温かいと感じ、Bさんは冷たいと感じるという、知覚における「相反するあらわれ」と呼ばれる事態でした。『テアイテトス』のその後の議論では、実際には現在形でだれかに現在風が温かい(あるいは、冷たい)とあらわれることが、その人にとっての相対的な真理というより、絶対的で客観的な規準から真理か虚偽かに分類できるという趣旨の、「反相対主義」の完成した主張は、なされません。 むしろ、一見すると小さなポイントに思える、未来の事柄のあらわれにおいて、知識の絶対的な優劣の差がある、とする反論のみが述べられます》

《『テアイテトス』では、相対主義との対決を、次作の『ソフィスト』になって最終解決をみるよう「継続審議」にします。しかし、その一方でかれは、『テアイテトス』のこの辺の議論では、知識を探すべき場所を確定するという目標に向かっており、このためには、未来の事柄のあらわれの絶対的差異が用意されれば十分なの
です》

《プラトンによれば知識は、知覚ではなく、知覚とともに「人間の心による経験」の二大分類をなす、「考え」のところで探されなければなりません》

《わたしの経験を束ねる何かを「魂」と呼んでよければ、単に「視覚により認識する」とか「味覚によって感じる」と言うより、「魂により感じる・知覚する」と言うほうが、誤解の余地は少ないでしょう。プラトンはこの一般的なポイントを明確にするために、人は感覚を通じて魂によって知覚の経験をする、と語法の整理をします》

《存在」と簡略にまとめた言葉は、「有・あること(ウーシア)」や「あること(エイナイ)」などです。「エイナイ」という不定詞の動詞は、「存在する」という用法と、「……である」という補完を要する用法の両方を含む、広い意味の動詞でした。プラトンが、これら二用法を含むウーシアは、知覚には関係なく、もっぱら考えに関係すると考えたことの意味は、つぎのようなものです》

《プラトンは、「知覚」と「考え」の二大区分をおこない、知覚を知識候補から完全に除外します。そして、考えの領域のどこかの部分に知識を発見するという方向へと一八〇度転換するわけです》

[2第1部の主要な哲学説の配置]

《第一部の全体は長大な議論ですが、これは、テアイテトスの「知覚が知識だ」という提案が、プロタゴラスの相対主義だけでなく、ギリシャで支持を集めていたもうひとつの有力哲学説である「流動説」とも結びつく内容であったためです》

[3プロタゴラスの相対主義と、その評価]

《(1)プロタゴラスは、人間はつねに真を判断する、と考えている。(2)(a)プロタゴラス自身にとってプロタゴラスは、真を判断しているが、(b)ほかの無数の者にとってプロタゴラスは、虚偽を判断している。(3)(1)より、プロタゴラスは、(2b)のようにプロタゴラスは虚偽を判断していると他人が判断するとき、この他人の判断が真である、と容認する。(4)(3)より、プロタゴラスは、自分の見解が虚偽である、と容認する。(5)(2b)および(4)より、プロタゴラスは、だれにとっても、虚偽を判断している》

《この議論の評価をおこなうときに重要なポイントは、(3)から(4)に進むのには、問題があると見抜くことです。まず(3)のなかの「プロタゴラスは虚偽を判断している(と他人が判断するとき……)」という部分は、正確には、「他人にとってプロタゴラスは虚偽を判断している」という内容でなければなりません。したがって、プロタゴラスのほうでは、(4)を導きたいだれかから、「きみは虚偽を判断しているのだね?」と問われたなら、自分は自分にとって真の判断をしている、と(2a)を繰り返し言っておけば、それでいいのです。ところが(4)では、「或る人にとって」という、相対主義の立場からは必ずつけておくべき限定を外して、無条件に「自分の見解が虚偽である」ことをプロタゴラスに認めさせようとしています。もちろんプロタゴラス本人はこれに同意しないでしょうし、予想されるプロタゴラスのこの態度は、正当なものです》

《アリストテレスも新プラトン主義の人々も、そしてキリスト教プラトン主義者たちも、みなここの「神の似像としての人間」という考え方に深く共鳴しながら、ここに、プラトン的な哲学の重要な基本があると考えました》

《未来の言明では相対主義は成り立たないというこの点は、対話篇全体のなかでももっとも重要な三、四個の主張のひとつ》

《脱線議論は、このような「時間の、過去と現在と未来の系列」のなかで知識と知恵の問題を考えるべきだという、話のそもそもの原点を示す役割を担っています。脱線議論中のおもしろいエピソードにおいてタレスが、天体を観測していて井戸に落ちたこと(一七四A~B[二四節])は、学問や知恵の真の意義を知らない人々からみれば、頭の悪い失敗として嘲笑すべきことでした》が《ソクラテスが裁判で被告になったときにも、ふつう人々がおこなう心理作戦や、「助かるためなら(善悪を問わず)とにかくなんでもやる」工夫をせずに、徹底的に正攻法で弁論したために敗訴し、死刑を宣告され処刑された「『頭の悪い』失敗」を読者に思い出させようとしています》

《白熱した議論をおこないながら知恵を愛し求める哲学(と諸学問)の道だけが、個人と人間集団の未来に向けて、実質的進歩の原動力となることができ、発展性があること――このようなメッセージが、脱線議論直後のプロタゴラス説への反論の趣旨であると思います》

[4ほんものの生成、ほんものの変化]

《プラトンによれば、説得されるならわれわれは、自分たちの言語を破壊しなければならないので、したがって流動説を信じてはならないことになります。 プラトンは議論の手がかりとして、「変化」とも「動き」とも訳せる「キネーシス」という広い意味の言葉の二つの意味を区別します。ひとつの意味は、或る地点から別の地点への単純な移動や、円運動で動きつづけるといった「場所の移動」です。もうひとつの意味は、色が白から青になるなどの「性質の変化」です。この意味の区別を道具にして、流動説を論駁できます》

《流動説を趣旨どおりにあくまで守ろうとすれば、場所の移動も性質の変化も全部同時に起こっているので「およそなにも確固として存在しない」、と言うしかありません》

相対主義と「知識とは知覚である」という第一定義の両方が必要とした説明機能をソクラテスは流動説にみようとしたのですが《すべてがいかなる意味でも安定せずに動きつづけているという趣旨に解釈するかぎり、われわれは、まさにそうした流動説を適切に表現する言語を、もてないということになったから》

《少なくともプラトンが『テアイテトス』で確立した、変化も生成も消滅も、そもそも言語的な記述と分類を受け入れる事柄だという論点は、かれの完全に積極的な主張であり、かれを離れても正しいと思われます》

《以前の『パイドン』において「見えるもの」、つまり肉体や物体について言われていた「たえざる生成消滅過程のなかにある」という論点は、「見えないもの」(魂、思考、イデア)との対比において主張されていました》

[5第一部最終議論 知覚は知識ではないこと]

《一言で言ってわたしは、わたし自身が見たことや聞いていることと、きわめて近い関係にいるのです。否、それは、「近い」と言うことさえ、もう遠すぎるくらい、それくらいわたしに「固有のこと」であって、わたしのいわば「一部」のようなものだと思えます》

《それでは、この関係は「物」同士の関係なのでしょうか? プラトンは、そうではないと答えます。眼で見るし、耳で聞くけれども、わたしが見ているのは、単に視覚「を通じて」なのであり、見聞きしているわたしの「魂」や「心」によりわたしは感覚的「経験」をしているはずだと言うのです》

《こう考えてゆくと、大きく分けて二種類の経験が、人間にはあることになります》
《(1)各感覚を経由する知覚経験。「『道具』を通じて・魂により・把握される」。例―赤い色が見える、塩辛い味がする》
《(2)感覚を通じてでない「共通なもの」の経験。「魂自身により把握される」。例―存在する(ある)と考える、二つであると数える》

そして《(2)のほうが存在の経験であり「真」と正当に言える領域なので、つねに真であるような「知識」もまた、この(2)のほうに属し(1)には属さない、と論じられます。こうして、「知覚こそ知識である」というテアイテトスの答えは最終的に否定されます》

これは、総合的な推理の力は教育などによって長い時間をかけてそなわるものであるから《多くの経験の領域において、われわれが初めからものを知っているわけではなく、それなりの学習・教育を経てようやく「真にいたる」「有(あるということ)を掴む」「知る」「有益さ(善)を理解する」という見解です》

《人間の人間としてのパワーがどこかにあるとすれば、それは、弱々しい存在でありつづけながらの長い学習期間を経て大人になるという、独特の成長過程と無関係ではありえません》

人間は《ほかの動物の幼児期と比べて「なにもできない」のですが、このような「無能性」は、やがてずっと後で、学習したことに基づいてほかの動物には不可能なことをおこないうること(ものを考えて行動できること)と表裏一体のことでしょう》

《「未来の事柄のあらわれ」のところで相対主義批判がおこなわれたのですが、時間における「過去と現在と未来の系列」で生きる人間の場合にのみ、「知恵という力」ないし「知恵の徳」として人に宿る「知識」が真の関連性をもつという観点が、相対主義に最終的に対抗するポイントだった、と言うことができるでしょう》

《初めからそなわっている、単にその場で可能なこと」としての「知覚」ではない力が、つまり過去の学習を反映して未来の事柄にその人なりに荷担するための「考える力」が、その場の経験における各人の優劣を示す実力になっているので、それで「知覚は知識ではない」とされることになります》

[6第二部の議論と虚偽不可能性の難問]

第二部は「知識とは真の考えである」という定義を論じるのですが《プラトンは、たとえば初期の『メノン』においても、考えが事実真であったとしても、それはまだ知識とは言えず、問題となる事柄にかかわる原因を正しく推測し特定して、その原因からの推論により正しい結論を導き出した「原因の推論」が入ってこないと知識にはならない、というアイデアを提出しています》

《『テアイテトス』でプラトンが真剣な検討に値する知識定義候補と考えたものは、後の第三部の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」だけです。ところで、第三部で扱われるこの定義にあらわれる「説明規定」とは、「ロゴス」の訳語です。「ロゴス」は言葉、言明(文)、分別、理由など豊かな意味内容をもつ語ですが、人間がもともと言語生活を営むこと、そしてその言語生活が個人のレベルでも文明の段階でも或る程度発展した形態になったときに学問探究や学問的説明も成り立つということは、明らかでしょう。この語はそうした、言語的な要素が深くからむ人間の歴史と、言語にかかわる側面が強い学問・知識の成り立ちを、語義に反映する言葉です》

《「考え」が知識を探究すべき場であることは第一部最終議論で確立しましたが、そこを場にしたこの先の「知識の探し方」の問いは、じつは「心」、「言語」、「認識」、「存在」をめぐる、現代理論哲学の大半の重要トピックもまたすべてそこに勢ぞろいする程度の、途方もなく大きな諸問題に囲まれた問いです》

《『テアイテトス』第二部のテアイテトスの素朴さは、「考え」は、考えという心的な営みだから、あくまで「心的なもの」として分析される、そして考えは事実真と偽に分かれるから、そうした真偽の区別も、たとえばわれわれの心で起こることと世界のなんらかの関係として簡単に見つかるはずだ、といった態度として言い表すことができます。しかし、以下の虚偽不可能性の難問は、じつは「心的なもの」を、「心のなかにつねに埋め込まれている、言語的な原初構造」としての「何かについて・何かを判断する(考える)こと」のもとでみる用意がないかぎり、「虚偽の考え」と、「考えにならない、『考え・意識』の無効な空回り」を適切な形で区別できないという、重要な教訓を含みます》

《第三部の「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という定義は、前の二つの定義候補に比べてはるかに有望であり、後で「結び」でみるように、この第三定義にに似た説明をプラトンが自分の哲学の探究で活用していた証拠もあるのですが、しかし定義としては否認されます。この定義の挫折は、ひとつには「知識」の多義性によるものだと思われますが、挫折のもうひとつの原因は、『テアイテトス』第三部における「説明規定」のひな型が、文字の読み書きや音楽といった、(話され、聞かれる)母語修得以後の初歩的学習からとられていたことにあります》

プラトンの原則P《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》

《原則Pの趣旨を生かすように難問を正攻法で解決する方法は、虚偽が結果として出てきてしまった原因の間違いを、そもそもの知識とは別の種類、あるいは別の次元の「外れ」や「失敗」として説明することだと思われます。 対話のなかでソクラテスもテアイテトスも、原則Pは、虚偽の考えの場合に直ちに全面的に破られると、いとも簡単に考えています。かれらがこう考えるひとつの理由は、直接目的語を取る「判断する」や「考える」、あるいは「知っている」の用法で考えを理解していることにあります。「ソクラテスを(あるいは、ソクラテスと)判断する」、「美しいものを考える」、あるいは「十二を知っている」などの文が、この用法の例です。虚偽不可能性を論じる第二部の議論では、こうした直接目的語を取る構文が頻出しています。そのことがひとつの原因になって、難問の罠にはまってゆくソクラテスとテアイテトスの会話が、あたかも素直で自然であるかのような印象を、読者に与える》

《考えはいかなる場合であれ、ただ単に漠然と「何かを考えること」ではありません。われわれの考えはふつう、言葉でつくり上げられています。そして言葉は、主語と述語によって意味のまとまりとしての文をつくります。文や、文と同次元の言明や主張が、真と虚偽を担うものだと思われます。――このような筋道で考えてゆくなら、心に浮かぶ考えも、当人がさしあたり意識できることとしては「何かを考えること」であるときにも、じつは言語の構造としての「何かについて・何かを・考える」という仕組みをしっかり保っているということが、重要》

《『テアイテトス』第二部のいくつかの説明の試みは、一回の虚偽がもつこうした「皮肉にはたらく、積極的な意味」を理解できない、単調なものなので、学習による人間特有の「進歩の秘密」の全貌を衝くところには、まだいたっていないように感じられます》

《『テアイテトス』の後、後期第一作の『ソフィスト』が書かれます。その『ソフィスト』では、人間の知識の問題というより、言葉や考え(判断)の真偽の問題、ものや人の存在のほうが主題になります。しかし、多くの話題はこの二作品に共通のものです。そして、『テアイテトス』では読者に考えることのみを要求して、プラトンの側の答えを用意していないいくつかの問題が、『ソフィスト』では鮮やかな仕方で回答されます》

《われわれがものを言葉で「同一指定」して「指示」することが、言語を初めて習ったときにできるようになったということを振り返ってみれば、この事実の比類ない重要性に納得できるでしょう》←この事実とは人間が言語を持つ存在だということ

《『ソフィスト』二六二D~二六四Bでプラトンは、 何かについて・何かを・語る(もしくは、判断する)ことが人々の「基本形」であることをはっきりと確認します》

《『ソフィスト』では、人間だけがもっている、なにか変わった、皮肉な要因そのものに肉薄できていることが、納得できるように思われます。つまり、人間だけが言語をもっていて、それゆえに人間らしい心をもっています。そしてそれゆえにまた、心で真を把握することも、ときにまた虚偽に陥ることも、可能なのでしょう》《以上の検討によって、虚偽の考えの説明の可能性が、『テアイテトス』の本題であった、知識の探究に密接に関係していることもまた、明らかになっていると思います》

《知識と深い関係をもつけれども「間違い」であるもの、ただし間違いではあっても、完全に意味や有効性のない「ノイズ」ではない、有意味な(それどころか、多くの場合有意義でもある)間違いであるもの――これが虚偽であるとプラトンは考えていたのだと思います》

[7裁判員と知識]

《現に目撃した証人の事件体験をここで重んじていることの一解釈は、プラトンが学問や知性的経験の場面でも、「透視的能力」、「知的千里眼」のようなものを知識の力として考えていた、というものです。しかし、この一種の神秘主義的解釈は、苦労して学問を修めて、各分野で言葉の厳密な定義とそれに基づく知識を一歩一歩把握していくべきだという、プラトンが力説した基本的主張に反しています》

《われわれの「知識」は「伝播可能」なものである、と言えます。これに対し、プラトンや古代中世の西洋哲学では、同じ問題について、自分で計算して「九四」と答えられないかぎり、「知っている」とは言いませんでした。算数ができて知っているのでなければならず、正当化というより、そのつどの事柄に合った適切な説明能力(たとえば数学の場合であれば、証明能力)を伴うほんとうの理解がなければならなかったのです》

[第三部の議論 わたしは何を、どのように知っているのか?]

《「説明規定」と訳しました。「ロゴス」は学問の文脈では、ものごとの厳密な「定義」を意味します》

《「第一のもの」と言うだけではあまりに抽象的で分かりにくいので、字母(アルファベットの文字)にあたる「ストイケイオン」という語が同時に「要素」という意味ももちうることを活用して、「字母」とそれからなる「音節」を、「要素(第一のもの)」と、それらからなる「合成的な対象」の分かりやすいひな型として使っているのだと思います。ハートが使ったうまい表現では、『テアイテトス』の夢の理論とその検討で論じられる「字母と音節」は、「全体と部分の本格的議論」をつぎの『ソフィスト』でおこなうのに先立って、そうした議論で主題化される部分と全体の話のために「あらかじめ場所取りをしておいてくれるもの(place-holder)」です》

《たとえば手や足や諸臓器という「人間」全体の身体的部分が高度に有機的な結合(構造)をもっているので、それで生きている人間はばらばらの部分の集合体ではなく、一人の人間としての統一性と同一性をもちます》

《プラトンはつぎの『ソフィスト』で、根本的な構造を次々発見して、人類の歴史そのものに貢献したともいえる偉業を成し遂げました。ここの「夢の理論」はその発見の道を準備する、貴重な一歩です。そしてプラトンはその『ソフィスト』で、「宇宙の『母音』と『子音』の識別こそ問答法(『哲学』とほぼ同義)の課題である」とまで主張します》

《夢の理論では字母は「知られない」のに対し、音節は「知られる」ものだとされます。この主張全体をハートにならって、認識論的な「非対称テーゼ」と呼ぶことにしましょう》

《「so」という音節を「知る」ことは、「s」の音を識別して「o」も識別した上で(つまり、アルファベットの文字を「知った」上で)「so」全体を「つづり方の技術に沿って」聞き分ける(見分ける)ことで、これが学習の実際であるとされます》

《字母にかかわる能力自体が知識レベルにまでアップし、この新段階の能力が数多くの活動の基礎となって、以後の人生を豊かにしてくれています)。これは、音楽の学習でも同様です。音楽を学ぶことは「一つひとつの音の聞き方」自体が変わってしまうことを含んでいます》《「音楽の要素・『字母』としての音自体」が知識特有の仕方で識別されることであり、もう一面が「音楽の合成物・『音節』である音の列や和音」が「音感のある、音楽技術に通じた人」特有の仕方で聞きとられ、理解されることである、といえます》

説明規定の意味は《(一)「説明規定」の初めの意味は、この言葉の原語「ロゴス」が動詞「レゲイン(語る)」と語源的に結びついていることから、「語句(rhema)や名(onoma)を伴う声を通じて、考えを、(中略)口を通る流れの中へと映し、それを外に出して、自分自身の思考を表現すること」(二〇六D[四二節])という形で表現されます》

《つぎの『ソフィスト』では、ほぼ同じ表現で「ロゴス」がまず規定され(二六一D~二六三D)、考えないし判断を意味する「ドクサ」のほうは、ロゴスが心のなかでいわれる場合、とされます》《『ソフィスト』の一連の議論では「ロゴス」を、主語(onoma)と述語(rhema)の構造があるもの、つまり「(主語部分により)何かについて(を把握し)・(その上で述語部分により)何かを・語ること」としてみます。そして、同じ主述構造がドクサにもあり、あらわれにもあるので、結局、真のあらわれと同じように虚偽のあらわれも存在することが示されることになって、『テアイテトス』から長くつづいたプロタゴラス的相対主義の論駁は、この事実の確認をもって完結するのです》

《第二の意味の学問活動における「ロゴス・説明規定」が、知識の第三定義の「真の考えに説明規定が加わったもの」で言われる本命の候補だ》が、こうした能力は母語の修得が前提であり、それは《語(の意味)に対する「文の一次性」と呼ばれる論点》であり《初めの構造である「何かについて・何かを」を学んだことにより、関連するすべての構造にかかわる能力も、潜在的に修得できるようになったのだと思えます》

《したがって「言語的に言い表す」という「説明規定」の第一の意味は、「説明規定」の、つぎに登場する、より高次の「第二の意味」につながる、われわれの諸活動の原点を示唆するという意味合いをもっていたと言えると思います》

《プラトンのエピステーメーという知識は、今日の「知識」というより「理解」に近い意味合いをもっていました》

《「『考え』から『知識』へ」という全面二段階説は、漠然と語られる一般的な主張として言われると、なるほどそうかなとも思えますが、一つひとつの事例についてじっくり検討してみると、じつは成り立たないとしか言えない、そうした主張なのです》

[9結び]

《本書の結論は「したがって知識は、テアイテトス、知覚でもないし、真の考えでもないし、真の考えに説明規定が付加されているものでもないことになる」》という全否定。

《さまざまな専門知、さまざまな学問と知識の多様性を超えて、それらをゆるやかに一まとめにする本質をも見極める(あるいは、見極めようとする)ことは、「『差異性の本性(違っているもの同士は、どう違っているかということの一般的本質)』を見極めること」に匹敵する困難を伴う探究であると、ここで示されています》

《ソクラテスの使命と真価は、あらゆる建設的議論に先立つべき「哲学におけるあれこれの事柄の重要度と、哲学探究の一般的困難の、すぐれた自覚の訓練」というところ》

註2《この連続性は従来の解釈では表現されていない。多くは、おもにエキスパート的知識の問題としてこの箇所の議論を理解する。しかし、テアイテトスは幾何学で「より知恵がある」ようになりつつあるのだが、同時に端的にもより知恵があるようになりたいと思っている若者だ、ということが非常に重要であるとわたしは考える》

註3《プラトンは後の近世の哲学の論争では知覚に基礎を置く経験主義のグループとは遠く、知性主義的な合理主義のグループに近い立場といえる。しかしそれとともに重要なのは、経験主義のバークリや合理主義のライプニッツなど、この一七~一八世紀の大論争に参加した哲学者たちが、『テアイテトス』第一部のもろもろの議論から、知覚経験にかんする哲学的考察の材料を得ていたという事実である》

註6《『パイドン』では「見えないもの」である善や正義や等しさのイデアのほうが実在であり、つねに自己同一性を保つものとされる。この部分は流動説のいかなる部分にも対応しない》

註18《「読解A」と呼ぶ解釈で、流動説をイデア論の立場から補うために、流動説の説明する知覚の世界に、中心的な魂とイデアが、ここで外付け的に登場するという解釈である(Burnyeat,TheTheaetetusofPlato,56;cf.Cornford,105)。もうひとつは「読解B」で、「共通なものの考え」とは、判断であるとする解釈である》

註24プラトンの原則P《人が考え(あるいは判断、あるいは信念)を形成するには、その人はその考えに入るすべての項を知っていなければならない》は《現代哲学の「ラッセルの原理」に相当する原理である。バートランド・ラッセルは、判断ないし想定について、判断者は判断の項すべてを知って(beacquaintedwith)いなければならない、と考えた》ことにも通じる、と。

註26《第二部の虚偽不可能論はあらゆる「考え」ないし「判断」にかんするものか、それとも同一性判断に限定した難問なのかという解釈問題がある。多数派解釈(McDowell,195;Burnyeat,TheTheaetetusofPlato,71-73)は同一性判断に限定して解釈するが、わたしは考え一般にかかわるパズルだと解釈する》→註29《考えや判断にはそれぞれ、そこが問われることになる、真偽評価のポイントとなる項があり、そこの「取り違え」をすることが虚偽だ、という理解が背景にあるとわたしは考える。こう考えることができれば、ポイントとなる項にかんする同水準の誤答と正答の取り違えとみなすことから出発して、そのような真偽のポイントで説明すべき虚偽の考えは一般に不可能だ、という難問をつくることができる。また、こうすれば、多数派のように虚偽の同一性判断に話を限定しないで済む》

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