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December 25, 2020

『南朝研究の最前線ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』日本史史料研究会、呉座勇一、朝日文庫

Nanbokokucho

 《「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手である。Nodocument,nohistory(史料がなければ、歴史はない)という言葉を思い出すべき》(kindle位置1351、以下、k.1351)

 一番印象に残ったのは細川重雄先生による〈4 後醍醐と尊氏の関係 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?〉にあったこの言葉です。小説家や自称研究者が「偽史」とでもいうべき物語を、ありえたかもしれない日本近代を描き直そうとして書くケースが増えていますが、そうしたものは最初からアウト、ということで厳しく指弾する必要を改めて感じました。

 また、研究者の方々には常識かもしれませんが《鎌倉幕府の後ろ盾により皇位を確保するなど、幕府への依存傾向がみられる持明院統に対して、大覚寺統は幕府から距離を置いていた》というのはハッとしました。同じように《天皇は、退位して上皇となることで初めて、積極的に仏教と関われるようになった》(k.3281)というあたりも単なる歴史ファンにはありがたい指摘です。

 《関東の国々では守護の職権が、一国全体に満遍なく及んでいたわけではなかった》(k.3723)というあたりもクリアカット。こうしたことを前提に考えることができると中世史の本の読み方も違ってくるな、と、一般読者向けのこのシリーズに感謝。

 さらに、戦前の東大の研究者は国定教科書の編纂に携わっていたというのも知りませんでした。これは南北朝研究では、先進的な部分もあった平泉澄を皇国史観をつくりあげた張本人と切り捨てるだけで問題は解決できないという問題にもつながります。亀田俊和先生も《平泉の「研究史整理」が正しいことがわかる》と書いていますが、それ以上に《なぜなら、東京帝国大学に所属する研究者は、国定教科書の編纂にも携わっていた》(k.4491)ほど研究と歴史は切り離すことはできないから。個人的にはまったく問題はないと思うけど、今も東大の日本史研究は山川から雑誌を支援してもらっています。だから某本郷先生などは喉も裂けよとばかりに高校教科書の定説に反するような研究を否定するのだろうか…などとも考えてしまいました。

 以下、箇条書きで。

〈はじめに 建武政権・南朝の実像を見極める 呉座勇一〉

《後醍醐天皇の宗教政策は、鎌倉後期の歴代天皇、特に後醍醐の父である後宇多上皇(一二六七~一三二四)のそれをおおむね引き継いでおり、後醍醐の「異形」性には限界があったことが浮き彫りにされた》

《鎌倉幕府―建武政権―室町幕府の三者の間でスタッフの連続性が認められる(本書の森幸夫論考を参照)。公家官僚に関しても、後醍醐天皇が用いた者の多くは、後宇多上皇に仕えた廷臣たちの子孫であることが解明された(本書の杉山巖論考を参照)。建武政権・南朝は大覚寺統系の公家たちによって支えられた朝廷だった》

【第1部 建武政権とは何だったのか】

〈1 鎌倉時代後期の朝幕関係 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった! 中井裕子〉

《亀山は政治改革をどんどん進めた。先ほど述べたように、鎌倉時代後期の為政者たちは、徳政を意識して政治を行っていた。このころ徳政政策の代表格とされていたのが、増加する土地訴訟への対応であった。幕府では安達泰盛(一二三一~八五)が訴訟制度の改革に乗り出した。それに呼応するように、亀山も弘安八年(一二八五)に「新制」と呼ばれる朝廷政治の進め方を示した法令を制定した》ように亀山が上皇になっても《公武が手を携えて同じ方向へ進んでいた。その結果、朝廷と幕府の裁判制度が似通ったものになっていった。この素地があったからこそ、鎌倉幕府が倒れたあと、建武政権が曲がりなりにも緒に就くことができたのである》

両統迭立の中で《政権を勝ちとるために有効な方法と考えられたのが、訴訟制度の充実である。持明院統の伏見天皇(一二六五~一三一七)は記録所の改革を行った》が《鎌倉時代後期、荘園社会の動揺などで朝廷に持ち込まれる訴訟が増え、それを裁決する治天の君が果たす役割が大きくなった。しかし天皇家が分裂してしまったことで、治天の君の裁許が対抗する皇統の院・天皇により覆される可能性が出てきてしまう。そこで後醍醐は、治天の君に強い力を持たせようとした(市沢:一九九二)》《後宇多と後醍醐は不仲であったといわれているが、政治の手法に関しては、後醍醐が後宇多を見習っていたことがわかってきた》

〈2 建武政権の評価「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか 亀田俊和〉

『太平記』では《後醍醐に諫言した硬骨の廷臣万里小路藤房(までのこうじ・ふじふさ 一二九五~?)が、諫言が聞き入れられなかったために出家・遁世した事件が描写される》が、これが建武政権への普遍的イメージとなった。また、《平泉の「研究史整理」が正しいことがわかる》ほどで《戦後の建武政権研究も、まさに『太平記』史観の申し子であり、かつて平泉が嘆いた段階に先祖返りしていたのである。否、学術研究の世界では「忠臣」史観が後退した分、建武政権に対する評価はいっそう悪化したといえるだろう》とのこと。

《佐藤は、後醍醐が自ら発給する綸旨で政務のすべてを決裁することを目指したとする、いわゆる「綸旨万能主義」を提唱したことで著名である。加えて、後醍醐が目指した君主独裁体制が中国宋朝(九六〇~一二七九)の模倣であったとする見解も看過できない。後醍醐は、宋朝への志向に基づいて官司請負制・太政官制度を解体し、官僚制の構築を目指した。だが、日本においては官僚制をつくる基本条件が存在しなかったため、新政は挫折した(佐藤:一九六五)》

《古澤は、《「不公正な裁判にもとづく》即決主義、その在地への強制》という、倒幕勢力を形成した鎌倉幕府末期裁判の性格を、建武政権はまさに最悪のかたちで再現」したのであり、「むしろ得宗専制以上に政権としての新政の可能性は低い」と断じた(古澤:一九九》。現在の研究では《南北朝内乱に勝利し、曲がりなりにも安定した長期政権を築いた室町幕府が、建武政権の改革政策の多くを模倣・継承したことを根拠に、建武政権の現実性を再評価して》おり、《数百年にわたって日本人を束縛してきた『太平記』史観からようやく解放され、政治史的に建武政権を「前代鎌倉期朝廷―幕府」と「後代室町幕府」の中間に位置づけようとしている。皇国史観とは別の意味で、現実的・有効な改革政権として客観的に評価する機運が生じつつあるといえよう》

〈3 建武政権の官僚 建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち 森幸夫〉

《名和長年(?~一三三六)は、周知のように、鎌倉幕府が滅ぶ元弘の乱(一三三一~三三年)の際に、後醍醐天皇を配流地の隠岐から伯耆国船上山に迎えた武士である。いわゆる後醍醐の忠臣でもある。長年のような存在が、記録所職員としてみえていることは非常に興味深い。彼は上記三人と異なり官僚の家に生まれていないので、当然ながら後醍醐により取り立てられたと考えてよい》《長井氏は初代政所別当の大江広元流、大田氏は初代問注所執事の三善康信流、摂津氏は朝廷の下級官人中原氏流》《長井氏は初代政所別当の大江広元流、大田氏は初代問注所執事の三善康信流、摂津氏は朝廷の下級官人中原氏流である》

《関東と六波羅探題の官僚メンバーの大きな相違は、北条氏の有無である。例えば関東では、五番編成の引付のうち、一番から四番の引付頭人を北条氏が占めるようなことがよくあった。これは、引付頭人職が政治的地位を表すものとなっていたことによる》《六波羅探題出身の官僚が、雑訴決断所職員に最も多く採用されたのはなぜだろうか。建武政権が京都に置かれたという事情も無視できないが、六波羅の官僚たちが北条氏とあまり関係を持たない、純粋な官僚集団であったことが、建武政権による人材登用をもたらしたと考えられる》

《これは摂津親鑒(?~一三三三)・高親(同前)父子が、得宗北条高時(一三〇三~三三)とともに自害するなど、北条氏と密着した存在であったからだろう》

《皮肉にも、建武政権は、都に不慣れな旧関東関係者を京都に結集する役割をも果たし、のちに室町幕府官僚に連なる人々に、都での貴重な実習の機会を与えていた》

〈4 後醍醐と尊氏の関係 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか? 細川重雄〉

《後醍醐の命を受けた新田義貞が鎌倉に迫ると、尊氏は「もうナニもかもイヤだ!」とばかりに、浄光明寺に籠もってしまった。だが、兄に代わって出陣した直義の苦戦を知らされると、「直義が死んだら、自分が生きている意味はない!」と叫んで出陣し、義貞を撃破したのである。支離滅裂である》

《鎌倉後期になると、御家人には格差が生じ、執権・連署・六波羅探題(北方・南方)・引付頭人・評定衆・引付衆などの、幕府要職に世襲的に就任する家系(北条氏がその代表)の人々は、幕府の支配層といってよい状況となる》

足利氏は二代目から七代目までの当主《六人全員が国守に任官し五位に叙されており、鎌倉時代を通じて有力御家人の地位を保ちつづけている。 しかも、四代泰氏(一二一六~七〇)の丹後守任官は二十一歳、五代頼氏(一二四〇~六二)の叙爵は二十歳、六代家時は叙爵十七歳以前、伊予守任官は二十三歳と非常に若く、さすがに得宗には及ばないものの、幕府要職の就任者を出す北条氏有力庶家(前掲「足利氏当主の婚姻関係図」に載せた佐介・常葉・金沢・赤橋家はその一部)出身者に比肩する》

《頼朝と義兼は、熱田大宮司藤原氏・北条氏によって婚姻関係で二重に結ばれた》義兼は足利家二代目当主で、《北条氏以外の女性を母とした当主は、父頼氏の妻となった佐介時盛(一一九七~一二七七)の娘が男子をまなかったらしい家時、金沢顕時(一二四八~一三〇一)の娘が産んだ兄高義(一二九七~一三一七)が早世した尊氏の二名だけである。このような家はほかにない》ほど家格が高く、《尊氏が鎌倉幕府から離反した理由を、北条氏との関係の薄さに求める見解もあるが、足利氏の鎌倉幕府における地位はすでに安定しており、ことさらに強調すべきではない》と。ただし、《鎌倉時代における足利氏の立場は、「代々北条氏と婚姻関係を結び、鎌倉後期には北条氏の姻戚として北条氏有力庶家に匹敵する厚遇を受けたが、一方で源氏将軍家の一門とは周囲から意識されておらず、まして源氏嫡流には程遠い」といったところ》。

《もし、鎌倉幕府が滅びたならば、外部から見れば、ほとんど北条氏と一体化して繁栄してきた足利氏は、北条氏と運命をともにすることになる。「バスの乗り換えに遅れたなら、足利の家は滅びる」という危機感が尊氏を突き動かした》というのが六波羅を討った理由。

《後醍醐は武士たちを卑しい「戎夷」(獣のような野蛮人。後醍醐はかつて鎌倉幕府をこの言葉で呼び、「天下管領しかるべからず」〈天下を支配するなど、とんでもない〉と言ってのけている。『花園天皇日記』正中元年〈一三二四〉十一月十四日条)と見なしており、後醍醐にとって尊氏は、いわば駒の一つであった》。また、最初から尊氏は征夷大将軍を目指していたわけではなく《鎌倉幕府滅亡時点(一三三三年)では、源氏将軍よりも親王将軍のほうが人々になじみ深い存在だったのである。建武政権で征夷大将軍となったのも、後醍醐の皇子護良親王であった》《むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったといえよう。ゆえに護良は後醍醐に警戒され、失脚の憂き目に遭ったのである》が、北条時行に奪われた鎌倉を取り返しに行く時《「鎌倉を目指す自分を、東国武士たちが平維盛に見立てたなら、負ける」、この判断が尊氏に無理筋な征夷大将軍任官申請をさせたのではなかろうか》というのが見立て。

《建武政権期、北条氏を「先代」と称する史料が現れ、南北朝期には北条時行が「中先代」、尊氏をはじめとする足利氏が「当御代」と呼ばれるようになる》《鎌倉末期前後の武士たちにとって、「将軍家」は征夷大将軍を指す以前に、頼朝以来の武家政権の首長を意味していた(鈴木:二〇一四)》

【第二部 南朝に仕えた武士たち

〈5 北条氏と南朝 鎌倉幕府滅亡後も、戦い続けた北条一族 鈴木由美〉

《北条与党の乱は単に北条一族の残党が蜂起したものではなく、建武政権および足利氏に対する不満を持つ武士たちが、北条一族を擁立して起こした反乱という側面を持っていた。南北朝内乱史における北条与党の乱の影響を軽視すべきではなく、重要な研究対象として再評価する必要がある》

観応の擾乱では《最初に直義が、その後、尊氏が南朝と講和する(正平の一統。一三五一・五二年)。この状況を利用して、南朝方は京・鎌倉を同時制圧すべく軍事行動を起こす。南朝方は、正平七年(一三五二)閏二月二十日に京を制圧した》

〈6 新田氏と南朝 新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源氏嫡流」だったか? 谷口雄太〉

《新田と同じく足利との姻戚関係を構築した熱田大宮司・北条・上杉らも、足利一門化を果たしていなくてはならないことになる》がそうなっていないので、新田氏は足利一門ではなかった、と。

〈7 北畠氏と南朝 北畠親房は、保守的な人物だったのか? 大藪海〉

親房は《数え年一歳で叙爵(公家衆としてのスタート地点である従五位下に叙されること)されており、いわば生まれながらの公家衆であった。 しかし、北畠氏は公家社会のなかで、特に抜きんでた家柄だったわけではない。事実はむしろその逆で、村上源氏の本家である久我家の、分家の傍流にあたる家柄であった。その北畠氏が南朝において活躍することになるのは、親房よりも以前から、南朝の皇統である大覚寺統と北畠氏が深いつながりを有していたからである》

《鎌倉幕府の後ろ盾により皇位を確保するなど、幕府への依存傾向がみられる持明院統に対して、大覚寺統は幕府から距離を置いていた》

《後醍醐天皇を中心とする鎌倉幕府打倒の動きに、親房は参加していない》というのは知らなかった。また、東北に向かった《親房は、現地の統治に有益となる武士の能力を正しく評価して利用することで、「奥州小幕府」の基盤を固めようとしていたのである。 また親房は、後醍醐天皇の施策や方針をたびたび批判しており、その際に足利尊氏を擁護する発言をすることもあった》と。

《のち、親房らが伊勢国から出航して関東を目指すように、伊勢国が関東への窓口としての機能を有していたため、その掌握をもくろんでいたとする見方(大西:一九六〇)が穏当なところであろう》

伊勢神宮の神事に奉仕する未婚の皇女は《ついに持明院統の天皇治世下では一人も派遣されることがなかった。大覚寺統が、このような神宮に関わる伝統を守ろうとしていたことは明らかであり、そのことは神宮の人々にも意識されていた》

〈8 楠木氏と南朝 楠木正成は、本当に〈異端の武士〉だったのか? 生駒孝臣〉

《散所とは、耕作に適さない河原など、領主が年貢の徴収を予定しない土地を指す。そこに生活する住民は、年貢を免除される代わりに、領主の警護や交通運輸業務などの雑役にしたがい、商業的な権利を得ていた。この散所の統括を領主から任されたのが、「散所の長者」である》《戦後の悪党研究は、悪党が諸国を往来し、交通・流通路の掌握をとおして、神出鬼没の活動を可能とする存在であったことをその特質として論じた》


【第3部 建武政権・南朝の政策と人材】

〈9 建武政権・南朝の恩賞政策 建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか? 花田卓司〉

恩賞地を知行できない武士もしたため《後醍醐天皇は拝領者へ土地を引き渡すよう第三者(おもに国司・守護)に命じる雑訴決断所牒を発給し、綸旨の内容を確実に実行させる方式を案出した。 従来、これは綸旨の権威の後退と評価されてきた。しかし、近年では武士の権益保護を図ったものとして積極的に評価されるとともに、この雑訴決断所牒の機能は、室町幕府の執事(管領)施行状に継承され、幕府の恩賞政策を支える柱となっていくと指摘されている》

公家側から批判が出るほど《建武政権では大量の武士が従来の家格を超えた官位を手にしていたのである》

《武士の反発を招いたエピソードとして有名なのが、御家人制の廃止である》

《建武政権は、恩賞の前提となる勲功認定に難問を抱えていた。尊氏の六波羅攻略戦に参陣した証拠として御家人たちが提出した着到状を見ると、六波羅陥落後の日付がかなりある。ここからは、戦局が明らかになるまで去就に迷っていた御家人の姿が浮かび上がってくる》

《元弘三年四月まで朝敵だった大部分の御家人たちは、幕府滅亡直前に突如官軍へと変貌した。当初から奮戦した護良親王や楠木正成らの功績は誰の目にも明らかだが、最終段階で倒幕に参加した御家人たちの勲功をどこまで評価し、いかほどの恩賞を与えるか、これは難しい判断だったにちがいない》《武士たちが建武政権を見放した最大の原因は、恩賞給付が遅々として進まなかったところにある。だが、その全責任が後醍醐天皇・建武政権にあるかというとそうではなく、倒幕時の御家人の去就が、建武政権の恩賞給付を困難にさせていたのではないだろう》

室津の軍議で《尊氏と別行動をとる大将に行賞権を委ねることで、各国武士へのすみやかな恩賞給付を可能にしようという意図からなされたと考えられる》

《北畠親房が、関東執事の高師冬(?~一三五一)率いる幕府軍を苦戦させ、征西将軍府が大宰府を占領し、鎮西管領の一色氏を駆逐して九州全域を支配する勢いをみせたのは、南朝の分権策の成果にほかならない》《後醍醐天皇以来、恩賞は勅裁事項であり、天皇のみがこれを行ったと思われがちな南朝だが、室町幕府が大将や守護に恩賞を給付させたのと同じように、親王や軍事指揮者に行賞権を分与することで各地の武士たちの結集を図り、成果を挙げていたのである》南朝は地方分権を進めていたが《南朝が置かれた状況は厳しく、軍事面で主柱となるべき人材や各地の拠点を次々と失い、朝廷を維持するために、南朝を支えている武士たちに不利益を強いるという矛盾した行為もせざるをえなかった》

〈10 南朝に仕えた廷臣たち 文書行政からみた〈南朝の忠臣〉は誰か? 杉山厳〉

《政権にとっては、都市の荘園領主に対してその権利を保障するだけの軍事的・政治的勢力を確保することが重要であった。その際、軍事力の裏づけとなるのが、武士の帰趨であったことは言うまでもない》

〈11 中世の宗教と王権 後醍醐は、本当に〈異形〉の天皇だったのか? 大塚紀弘〉

《天皇は、退位して上皇となることで初めて、積極的に仏教と関われるようになった》《天皇位を退いたことで減退した宗教的な権威を補ったのである》

《中継ぎの天皇として即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、自らの皇統を築くことを目指して討幕へと舵を切った。当時の朝廷は直属の兵力をほとんど失っており、後醍醐は幕府に対抗するため、中央の有力寺院が持つ軍事的な力を頼った》

《後醍醐天皇の祖父である亀山上皇は、京都東山に禅院として南禅寺を創建し、後宇多上皇が鎌倉幕府の意向を確認したうえで、「五山」に準じる寺格を認めた。以後、南禅寺住持は天皇による任命が例となり、後醍醐も自ら好む禅僧を住持に呼び寄せた》

《当時、本地垂迹説に基づく神祇に対する仏教の優越化や皇統の分裂を背景に、神祇の祭祀者としての天皇の宗教的な権威は極度に低下していた。後醍醐には、密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるをえない切実な事情があったのである》《後醍醐は〈異形〉の天皇として振る舞うことで、たしかに一時の求心力を得ることはできた。だが結局のところ、新たな皇統や政権を宗教的に支える権威の源泉を掘り当てることはできなかったのである》

【第四部 南朝のその後】

〈12 関東・奥羽情勢と南北朝内乱 鎌倉府と「南朝方」の対立関係は、本当にあったのか? 石橋一展〉

《東国の南北朝動乱は、北畠親房(一二九三~一三五四)の常陸漂着・小田城(茨城県つくば市)入城によって長期化、本格化したといえる》《鎌倉期をとおしていわゆる「守護職」を維持してきた小山氏や千葉氏らの武家と、それに列することができなかった佐竹氏や宇都宮氏、常陸大掾氏などの武家とが、内乱を機会に、それぞれ所領の獲得に向かっていた》《しかし、小田氏も暦応四年(一三四一)、常陸合戦で高師冬(?~一三五一)の攻撃を受けて降伏し、同じく親房が頼りにしていた陸奥白河の結城親朝(?~一三四七)も康永二年(一三四三)、幕府方に通じてしまう。これらによって親房は東国での活動を断念し、吉野に帰還するのである》

《観応二年(一三五一)、尊氏と直義の表面的な講和は成るものの、八月、再び直義は京を出て兄への敵対姿勢を見せる。そして、今度は尊氏のほうがその対抗措置として十月、南朝に降ってしまうのである》《その後、尊氏は、鎌倉に入った直義と戦い、さった山(静岡市清水区)での合戦(一三五一年)に勝利する。これにより、尊氏は、南朝との関係を維持する必要がなくなった。南朝は勢力拡大の足がかりを失ったことを意味する》
《関東の国々では守護の職権が、一国全体に満遍なく及んでいたわけではなかった》。新田氏の発給文書の《花押形は、嘉吉の乱(一四四一年)前後に、播磨を中心に活動していた足利義尊(直冬の孫。一四一三~四二)のもの(『建内記』)とも似ていることが興味深い》

こうしたあと《十四世紀後半に鎌倉府と敵対した武士たちが、反乱の大義名分として「南朝方」を名乗った形跡は一次史料からは認められない。皮肉なことに、関東の南朝勢力の敵であった鎌倉府の側が、抵抗勢力の討伐を公戦として正当化するために「南朝方」というレッテルを利用したように思われる》

〈13 南朝と九州 「征夷大将軍府」は、独立王国を目指していたのか? 三浦龍昭〉

後醍醐天皇の復活プランは《奥州に義良親王(一三二八~六八。のちの後村上天皇)、遠江に宗良親王(一三一一~八五?)、そして九州へは懐良親王(一三二九?~八三)を「征西大将軍」として遣わし、それぞれが地方に軍事拠点を築くというものであった》

九州に遣わされた懐良《親王の年齢は、だいたい八歳前後であった。この幼少の親王を支えたのが、側近の五条頼元(一二九〇~一三六七)である。他の地域に派遣された親王の補佐役は、北陸が新田義貞、東国は北畠親房(一二九三~一三五四)であったが、これに比べると五条頼元はあまり名の知られた人物ではない》

こうした地方では府を通さない武士の「直奏」に悩まされており《実はこの問題には、東国にあった北畠親房も悩まされており、いわば遠方にある南朝の地方統治機関の宿命ともいえるものであった。もしこの「直奏」を認めてしまうと、征西府に与えられていた権限の形骸化は避けられなくなるだろう》

直冬は「第二将軍」として九州の在地武士の期待を集めていたが《一色氏に代わり鎮西探題になったことにより、武士たちは、結局、直冬も一色氏と同じく幕府方の「出先機関の長」にすぎなかった、と見なすようになった。彼にかけていた期待は急速に失われ、離反していった》。そして《征西府の自立化とは、実は、菊池氏を筆頭とする九州の武士たちがそれを自前の国家権力として換骨奪胎した結果であり、天皇の弟という懐良の尊貴性はむしろ南朝からの分離を促進した》という流れに。こうした《村井説が提言されたころ、日本中世史学界では「地域権力論」の研究が盛んとなり、在地領主法、在地徳政、惣国一揆などが熱心に議論されていた。村井の「九州国家」説は、そうした「地域」を重視する当時の研究動向と相まってしだいに受け入れられていった》と。

〈14 南北朝合一と、その後 「後南朝」の再興運動を利用した勢力とは? 久保木圭一〉

《当時の北朝は、大きく二つの系統に分かれていた。時代はやや遡るが、観応三年(一三五二)、南朝が一時優勢になって京都を掌握し、北朝の崇光天皇(一三三四~九八)をはじめ二上皇らが、南朝により吉野に連れ去られるという事態が発生した。 北朝側は、僧侶となる予定だった崇光の弟(後光厳天皇〈一三三八~七四〉)を擁立し、かろうじて断絶を免れた。南北朝の合一当時の天皇である後小松は、この後光厳の孫にあたる。 拉致された崇光らは後年帰京を許されたが、後光厳の系統に渡った皇位が崇光の側に戻ることはなかった。この崇光の系統が伏見宮家である。後光厳の系統の天皇たちは、血統的には嫡流である伏見宮家を事あるごとに敵視し、圧迫していた》

〈15 平泉澄と史学研究 戦前の南北朝時代研究と皇国史観 生駒哲郎〉

《明治維新後の日本の社会は、現在とは比べものにならないほど歴史に敏感であった。なかでも天皇家が分裂した十四世紀の南北朝時代に関しては、きわめて神経質に扱われていた》。例えば大逆事件の《裁判で秋水は、現在の天皇は南朝から皇位を奪った北朝の子孫である、と発言し、裁判長が言葉に詰まるという事態が起こっていた》。

 そして平泉澄を切り捨てるだけで問題は解決できない。《なぜなら、東京帝国大学に所属する研究者は、国定教科書の編纂にも携わっていた》というように研究と歴史は切り離すことはできない。

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