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December 25, 2020

『信長研究の最前線ここまでわかった「革新者」の実像』日本史史料研究会(編)、朝日文庫

Nobunaga-kenkyu

 復刊されている「研究の最前線」シリーズ、今回も勉強になりました。例えば《信長の家臣団は、与力・家来による二重構成をとっていたとされる》なんていうあたりも、研究者の方々には常識なんでしょうが、改めて言われてみると、なるほどな、と。《信長は贈物をみた後、他の人たちが贈物をした場合と同様に、そのうち三つをフロイスに返し、びろうどの帽子だけを受け取った。信長は、贈物のなかで気に入ったものだけを受け取ったのである》というあたりも印象的。当時の振る舞いがうかがわれますし、信長っぽいな、と。

 信長の革新性の否定というあたりでは、将軍権力との関係や楽市楽座のあたりが印象的でした。

 義昭と信長の権力構造は、けっしてこの二人にのみ見られた特異なものではなく、十五世紀以来の足利将軍家と細川京兆家の関係や、前述の第十代義稙期における大内義興・細川高国、第十二代義晴期の六角定頼などと似ていたし、信長の京都支配は発給文書の視点からは、信長独自のものではなく、従来の将軍と大名の関係の延長線上にあった、というあたり。

 また《楽市楽座令は地域住民の要望を受けて出されるもので、戦国大名のめざす立場は、都市や市場の強固な支配や搾取ではなく、これを復興・保護することにあったという見方が主流となっている》《不特定多数の人が集う市場では、商品の売買を強いる押売・押買や、質取などが横行したが、楽市楽座令の多くにはこれを禁ずる条文がみえることから、市場の治安維持を目的とした平和令》であり《戦国時代研究の第一人者である池上裕子氏は、信長の流通・都市政策について「信長のなしたことは、戦争を除けば、それらにつきる」と評価している。本章で取り上げた一部を概観するだけでも、その評価は的確といえよう。 だがこれまで述べたように、信長の政策はそのすべてが特別なものだったわけではない。市場や都市、商人を通じて物流を掌握しようと考えるのはごく自然で、それは他の戦国大名も同様である。信長の政策だけが「先進的」だったという実証はまだなされていない》というあたりはうなりました。

 さらには《天野忠幸氏によれば、信長による流通・都市支配の実態は、彼が上洛を果たす前の堺・尼崎や寺内町など、大坂湾一帯の港湾都市を経済基盤とした、三好氏の支配体制を再編継承したもの》であり《法華宗を対象とした宗教政策は、京の都という都市政策の一環でもあった。このように、信長の法華宗に対する政策は、単純な宗教政策では語れない一面をもってい》た、と。

 また《秀吉が甥の秀次に関白職を譲与しながら、秀頼誕生後の文禄四年(一五九五)に妻子も含めて粛清した理由について、織田氏の血を引く秀頼の正統性によって説明しようとする論説もあ》り、さらには、大坂冬の陣でも《強硬派の津田左門(長益子息)による秀頼追放・信雄擁立すら取沙汰された(『駿府記』)。慶長末年(一六一〇年代前半)に至っても、織田一族が高い権威を保持していたことを示す一幕だろう》というのは知らなかったな。

 武田氏との関係も知らないことがいっぱいだし、《信長の上洛と信玄の駿河侵攻は、両者の共同で行われた軍事作戦であったことが明らかにされている》とは驚きました。

 《岩村(岐阜県恵那市)城主の遠山景任・直廉兄弟には信長の叔母と妹が嫁ぎ、織田氏は遠山氏と姻戚関係を結んでいた。この遠山氏が、信長と信玄が同盟を結ぶ際に、重要な役割を果たすことになる》など深い関係があったとは知らなかった。《織田氏と武田氏の勢力が境を接するようになった状況では、互いの衝突を避けるために、間にいる遠山氏が緩衝材のような役割を果たすことが期待された》というもあったんだな、と。《信玄は信長の同盟者であった三河の徳川家康と「国分」(領土分割)を協議し、ほぼ同時期に双方から今川領国に侵攻する作戦を実行した》《この時期の信長と信玄は、将軍義昭を支える有力な戦国大名として協力する関係にあったが》《その後、信長と信玄が対立した背景には、徳川家康の存在があった》という流れは納得的。織田と武田《両者の同盟破綻を決定づけたのは、武田軍の織田・徳川領国への侵攻であった。元亀三年(一五七二)の八月から九月にかけて、信玄は義昭の命令で信長と本願寺との和睦を仲介したが、信玄は信長への「遺恨」を本願寺に伝えており》それは家康への鬱憤だった、と。さらには《これまでは将軍義昭が「信長包囲網」を作り上げ、信玄がその一翼を担ったと考えられていたが、逆に義昭が信玄の快進撃を受けて信長の没落を予見し、信長と敵対していた朝倉・浅井両氏や三好氏、本願寺などと手を結んで行動を起こしたのが真相だったようである》というのも凄いな、と。

 この後の武田氏滅亡の説明も最初につながります。《滅亡の原因は信玄が残した負の遺産(本来は諏方氏を継ぐはずだった勝頼の後継者問題、信長との抗争など)や、武田氏の外交政策の失敗(北条氏との同盟破棄)が挙げられている》《かつて東美濃の岩村城が武田方の手に落ちたとき、信長の子の御坊丸は人質として甲府に送られ、のちに武田氏の通字の「信」を与えられて信房と名乗っていた。勝頼はこの信房を信長の元に返し、和睦交渉の仲介役としての役割を期待したが、効果を挙げることはできなかった。 翌年には本願寺の門主顕如が信長と和睦して大坂(大阪市)を退去し、また関東の北条氏も信長に誼を通じて従属を申し出ていた》
 《とくに北条氏は、信長が勝頼を滅ぼすにあたって関東口から軍勢を出し、信長への従属を表明しており、さらに北条氏政は三島大社(静岡県三島市)に願文を捧げ、嫡男の氏直が信長の息女を娶り、信長の下で北条氏が関東を支配できるよう祈っている》と八方塞がりとなった、と。そして《武田氏の滅亡後に信長が東国の領土裁定(東国御仕置)を行い、現地の諸大名がそれに従った事実は、信長の政権が「天下」(畿内)とその周辺を支配する領域権力(織田権力)から、各地の領域権力(戦国大名)の上に君臨する中央政権(織田政権)になった》と。

 《信長の人材登用は能力主義といわれるが、けっして能力を発揮する機会が平等に与えられたわけでも、その能力が公正に評価されたわけでもなかった》《尾張出身者には、無残に改易された佐久間信盛のような末路しかなかった》というあたりから本能寺の変を説明するのも素晴らしい。《光秀は本能寺の変を藤孝の嫡男で娘婿の忠興を取り立てるために起こしたと述べ、畿内近国「天下」平定のうえは退き、自身の子息十五郎(実名を光慶とされる)や忠興に政務を委ねると記しているのである。つまり自身および一族に連なる配下の後裔たちのためとは、家の政治生命およびそれに伴う格の護持であり、本能寺の変はそのために起きたのであったことが、この光秀の証言よりわかる》と。

 さらに《このため近江国を平定し、安土城へ入城した光秀の早急な政治対応は、この摂津衆に対する制圧へと向けられることとなる。こうした事態に対して、摂津衆は明智氏へ屈強な敵対態度を示すとともに、自分たちの援護を各地の織田家臣に求めていく。そして、この摂津衆の働きかけにいち早く援護の対応を示した存在こそが、中国地方で安芸毛利勢と対陣を続けていた羽柴秀吉であった》というあたりから中国大返しが始まる、と。

 以下も印象に残ったところの引用を中心に。

《現在の信長観を植えつけたのは、戦前・戦後を通じて活躍した近世史家の今井林太郎氏(一九一〇~二〇〇三)なのかもしれない》

《さらに今谷氏は、天文年間以降(一五三二~)における細川京兆家(管領家であり細川惣領家にあたる)、三好長慶、松永久秀といった将軍以外の大名などの畿内における権力を検討し、戦国時代の将軍・幕府に対して、細川京兆家を中心とした「京兆専制体制」論を提起したのである。これらの研究が戦国時代の将軍・幕府研究に与えた影響は大きい》

《戦国時代の幕府の政務に関与し、将軍・幕府を支えた大名は、信長が最初ではなかった。これらの大名たちは、いわば信長の前提となるべき存在であり、大内氏や六角氏の権力との比較については、まとまった研究はまだなされていないが、信長が特別な存在でなかったことは確か》

《久野氏の提起した「二重政権」とはどのようなものであったのだろうか。久野氏は、義昭期の幕府は義輝死後、なかば停止されていた従来の幕府の諸機能を復活させており、幕府を再興したとされた。ここでいう幕府の諸機能とは、各種相論の裁許や安堵のほか、財政・守護補任権・軍事動員権などである。そして将軍義昭は、信長の「傀儡」でなく、その権力は信長の軍事力などによる権力と相互補完の関係にあり、そのような体制について「二重政権」であると規定された。また、久野氏は将軍義昭・幕府について、畿内(京都周辺の地域)を直接支配し、また権限の及ぶ範囲である「畿内における最大の政治権力であった」》

発給文書の《同じく「執申」を有する奉行人奉書は、第十代将軍義稙期には大内義興の、第十二代将軍義晴期には六角定頼の事例が存在し、そのほかにも十六世紀に発給された奉行人奉書には複数の事例が存在していた。「執申」の事例でも判明するように、信長の独自性と理解されていたものに、実際には先例があったことが続々と解明されている》

《「幕府」の定義として、藤田氏は将軍任官が絶対条件でなく、右近衛大将に就任した「公儀」と呼ばれた権力者による政権と定義された》

《現在では、戦国時代の将軍・幕府は諸大名と相互補完しながらその滅亡に至るまで、諸裁判などの案件の処理のほか、守護補任権や大名間の和平交渉、軍事動員権などの機能を継続して維持しており、「傀儡」ではなく、政務遂行に積極的に取り組んでいたことが知られるようになった。 結果、義昭の幕府はそれ以前の戦国時代の将軍・幕府と同様に機能していた》

天正改元と信長の権力については《天正改元は、信長が対立していた義昭を京都から追放した三日後の元亀四年七月二十一日に朝廷へ申し入れ、まもなく実施された(七月二十八日)ことから、これまで「織田政権発足のシンボル」と見なされてきた》《朝廷の改元希望を信長は承諾したが、義昭は聞き入れなかった。義昭は、将軍任官後に、自身と朝廷が歩み寄って実現した「元亀改元」に思い入れがあり、元亀年間の継続に執着していたのであろう》と。《改元には朝廷が武家権力者の正当性(誰が武家権力のトップたりうるか)を認定する意義もあった》

《なぜ、信長は二度にわたって閏月の有無、つまり宣明暦と地方暦の違いを問題視したのか。この理由は、信長が天下統一に向けて、各地でそれぞれ異なる暦を用いているという状況を改めるためだといえる。この年の三月、武田勝頼を討った信長は、東国を統合した存在と見なされていた》《本来ならば作暦は暦家の賀茂家が行う職務(家業)であるが、このとき、実際に暦を作成していたのは土御門家の久脩であった。これは、戦国時代、賀茂家に跡継ぎがおらず同家は一時断絶したことによる。そのため、土御門家が自身の家業である陰陽道に加え、賀茂家の家業の暦道も担うことになった》


《信長が上洛した際に麾下に属した松永久秀は、これより前に弾正少弼に任官していたが、これが弾正忠の上官にあたることから、信長を憚って山城守に改め》たほか《他者は、私称官途を認めればそのまま呼び、敵対するなどして認めない場合は、仮名や別の官途で呼んでいたのである》というあたりも面白かった。

《天正三年(一五七五)は、五月に長篠の合戦で武田勝頼に大勝し、八月には越前一向一揆を平定して一時的に本願寺と和すなど、信長にとって政治的安定がもたらされた年であった。七月には明智光秀ら一部の家臣の任官も行われている。信長の権大納言兼右大将は、これらの政治情勢を背景に行われたものであり、義昭をも上回る、新たな政治的立場を手に入れるために、朝廷から推認を受けた結果であろう》

《信長は豊後大友義統の左兵衛督や、常陸佐竹義重の常陸介をはじめ、地方の大名の叙任を朝廷に取り次ぐことをしていたが、こと織田家中に関しては、信長は自身および息子・一族と、家臣とのあいだに歴然とした格差を設け》たが、家臣には上位の官途は名乗らせなかった、と。


家康、秀吉との関係も興味深い。《信長と家康の軍事援助の実態をみると、元亀元年(一五七〇)以前と天正三年(一五七五)以降とでは質的に変化があることに気付く。元亀元年以前は、家康の信長への軍事援助が、将軍足利義昭の要請に基づいている。信長が家康に軍事援助を要請するには、将軍足利義昭を介さなければならなかったのである。信長と家康は、将軍足利義昭の下で対等な立場にあったと捉えられよう》

《天正八年当時の秀吉は、おもに中国地方で活動していたが、その声望は関東でも知られており、太田道誉は対織田氏外交を展開するうえで、織田家中の実力者である秀吉とも通信関係を構築しておくべきと見定めたのであろう。秀吉の存在感が、本来の活動範囲を超えて高まっていた証左となりうる》し《信長は中国地方の経略を浦上氏による間接支配から、秀吉を指揮官とする軍事制圧に路線転換したと位置付けることもできる》《こうした秀吉の権勢は、その才覚に加え、養子に迎えた秀勝の存在も作用していたと考えられる。秀勝は信長の五男であり、羽柴氏は次代以降に織田一門として遇されうる立場も確保した》《天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳合戦で信孝と結んだ柴田勝家が滅亡し、次いで信孝も自害すると、織田家中では、信雄ではなく秀吉から知行宛行を取得する事例が続出するようになり、信雄家督体制は急速に有名無実化した》《秀吉が信長五男の秀勝を養子にしていたことは、三法師・信孝や信雄の正統性を相対化する方向にも作用したのであろう。結局、小牧の陣で信雄は劣勢を覆せずに秀吉と和睦し、織田氏から羽柴氏への政権移行はほぼ確定》

四国戦略も勉強になりました。《信長は四国各地に目を配りつつ、九州地方へも関心を寄せていた。これは、とりもなおさず毛利氏攻略のための布石であって、冒頭で述べたように元親の動向のみを念頭においた政策ではなく、絶えず四国各地で複雑に絡み合う情勢に対応した政策であった》《従来の四国政策は、長宗我部氏側に対する四国領有の承認を反故にした信長の転換に激怒した元親の離反によって「四国攻め」が決定されたと理解されてきた。しかし、そこに信長と元親の対立でしか語られてこなかった傾向を危惧する研究も出はじめ、現在では、阿波三好氏を四国政策の中心に据える研究が主流になりつつある》とのこと。

信長と法華宗との関係も知りませんでした。《勧進が宗教行為であり、法華宗と町衆との信仰に基づく関係によって成立するものであった。したがって、信長の都における経済政策は、法華宗の存在がなければ成り立たなかった。信長は、都市政策において法華宗を利用したという側面を有した》というのも知らなかった。さらには《本能寺は法華宗の本山寺院である。たしかに、法華宗の寺院は堀がある要塞というような一面を持つ。それは、一向一揆や比叡山との攻防という歴史性も考慮しなければならない。ただし、信長の曽祖父である織田敏定は熱心な法華宗の信者で、とくに十五本山の一つである本圀寺に帰依していた。信長は、永禄十一年(一五六八)、将軍義昭を奉じて入京し、同年十月に本圀寺に入ったのである》というところまでつながっているとは。

文化面では《相撲が行われるときは、大々的に人が集められていることは共通したところであろう。そして、その場面において、知行を百石拝領するなどという人物も記事に書かれていることから、相撲という文化的な要素も含みながら、家臣の登用を行う目的も存在した》とか《能のあとで舞を舞うことは、正式ではないものの、信長が所望して、もう一番舞うようにと指示があり、幸若八郎九郎大夫は「和田酒盛」を舞っている。すぐれてよく舞い終えて、これで信長の機嫌は直ったという。型がある事柄について、それを破ってでも事を進めた様子》があり《信長は為政者として積極的に文化的な側面にかかわったことが明確になっている》と。

《尾張一国が約五十七万~五十九万石であったことから、織田・今川両氏の動員可能兵力に大差はなく、織田軍の実数は通説の二千~三千人より実際は多かったのでは》ないかという見方もあり《『信長公記』に出てくる今川軍へ正面攻撃を行った織田軍二千は、信長直轄の旗本で、援軍を含めた全織田軍の一部にすぎないとの説》もある、と。

武田氏との関係でも《輪番射撃を行ったとの記述が明の記録に残されていること、『長篠合戦図屏風』に銃兵が二列、前列が座った姿で、後列が立った姿で描かれていることから、移動を伴わない輪番射撃が行われた可能性を指摘している》というのも面白かった。

《信長は信秀没後の苦境を打開する過程で、勝幡織田氏という「イエ」ではなく、信長という「ヒト」との関係を存立の拠所とする家臣たちとの情誼的結合を深め、地位を引き立てたのである(成政・利家の場合は嫡流の継承)》

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