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July 14, 2020

『関ヶ原大乱、本当の勝者』日本史史料研究会、白峰旬、朝日新書

Sekigahara
講談、小説、映画、テレビドラマなどで描かれてきた家康の問鉄砲は史実とは言いがたく、小早川秀秋は開戦当初から裏切ったたため西軍の右翼が崩壊し、山中に密集していた石田、宇喜多の主力は総崩れになり、島津義弘の敵中突破も午前中の早い段階だったという話し。さらには直江状も《実在したとは考えられない》というのに驚く。

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確かに、家康の秀秋への問い鉄砲、山から降りてきた秀秋の軍勢を止めようとして闘死した大谷刑部などはドラマティックで、二次資料の創作だろうというのは納得だけど、出来事を理解しやすく「物語化」したことんだな、ということもよく理解と納得する。

しかし、ざっと読んだだけにしても、小山評定の有無や加賀征伐の評価など各論文によって評価が違うところが統一されていない感じ。

それぞれの研究の延長線上で、いま言えることはここまで、ということなのかもしれないが、編者による最終的な総括みたいな一文は必要なのではないかと思う。そうした「編集作業」がなければ、これまでの書きっぱなしのアンソロジーとあまり変わらないような。まあ、面白かったから良いけど。

確かに、数々の定説というか二次創作による伝承は史実ではなく、そうした誤解が主に小説によって大衆に広まったのは、戦後の歴史学のアカデミズムが、軍事史を軽視、忌避していたためともいえるかもしれませんが、群盲象を撫でるような印象もぬぐえません。

以下、箇条書きで印象にのこったところを。

序章で関ヶ原大乱など戦いの活発化について《桐野氏は「惣無事」体制の無効ととらえているが、これは「無効」になったという消極的理解ではなく、「惣無事」体制の「崩壊」というように、よりマクロな視点でとらえたほうがよいと筆者は考えている》というのはなるほどな、と。

《実際に家康は、ルソンとメキシコを結ぶ航路に関東を入れた通商圏の構築や、西洋式の大型船を入手して家康の側からもメキシコへ貿易船を出していくといった活発な対スペイン交易、そして精錬技術(アマルガム法)を導入して金銀を効率的に取得するという富国策を抱いており、スペイン側に要請を出している》《伊達氏や長宗我部氏、島津氏、細川氏など政権中枢に携わらない大名への影響力を求めて勢力の強化を図っている》という見取り図も納得的。

大乱のきっかけとなった上杉討伐については《秀吉から厚い信頼を得ていた景勝は、関東を牛耳る徳川氏、あるいは親徳川の色をもつ伊達氏、最上氏など奥羽諸将の監視・牽制という役割が期待された》というのが前提だったんだな、と。そして、《糾明使に対する景勝の返答は上洛に応じるというものであり、直江兼続が書いたとされる「直江状」はそれと相反する内容となっており、実在したとは考えられない》《上杉景勝を軍事行動により屈服させたという実績を家康は必要としたのであろう。会津征討は上杉氏の対応に関係なく、家康の思惑によって強引に導かれた回避不能のものであったといえよう》。

兼続のイメージも大分、変わりました。《上杉勢は、小手郷大館の奪還戦で「撫切」を敢行している。上泉泰綱による七月晦日付首帳には、首級一○六のほか、打ち捨ては際限なかったと記されている(『覚上公御書集』)》というんですから。また、兼続の戦略は《最上領を併呑して上杉領の長井と庄内をつなげるという目的はなく、最上氏を滅ぼそうという意図もない。最上義光を軍事力で脅して降伏させれば、孤立する伊達政宗も与同せざるをえず、この両者の加入を得て関東を圧迫するというのが景勝と兼続の作戦だった》と。《八月二十八日に二本松城に入った兼続は、伊達氏、最上氏平定後の関東出兵に備え、旧宇都宮氏領における一揆の下工作を進めるように結城朝勝に指示した》というんですが、正宗も《和賀忠親に岩崎一揆を起こさせたと家康に疑われ反故にされたことや、上杉景勝の抑えとしてにらみをきかせたこと、そして上杉氏に攻められた母の兄である最上義光に援軍を出した》こともあるわけで、こうした地生えの侍衆も入り乱れての戦いだったのかな、と。

小山評定については《諸将が小山へ赴いたのは、家康が未だ宇都宮に到達していなかったからにほかならず》《家康は近隣に位置する敵対勢力の打破や、防衛強化などによって地固めをしていく長期的な戦略を持っていたといえる》。出馬が遅れたことで《家康が美濃赤坂(大垣市赤坂町)に着陣したのは本戦前日の九月十四日であり、これまで幾多の前哨戦が行われていたが、家康は本戦まで采配をまったく振っていなかったのである。結果的に本戦が東軍の完勝で終結しながらも、徳川家臣の兵庫と、旧臣の奥平貞治が戦死。松平忠吉と井伊直政が負傷。戦場で傷を負うことがなかったとされる本多忠勝でさえ、名馬三国黒を被弾で失っている。徳川氏の関係者に死傷者が目立つのは、こうした引け目が背景としてあったのかもしれない》。

また、家康の《何よりの誤算は、奉行衆のうち、現役であった増田長盛、長束正家、前田玄以の三名が西軍に味方したことである》というのもなるほどな、と。そして《輝元は秀吉生前の裁定を三成らの協力を得て、輝元の有利になるように改めてもらうこととなった》と。

伊達政宗は百万石のお墨付を徳川家康から与えられたと言われていますが《この約束には戦国期以来の社会的慣習である「自力次第」という前提があったとみられる。つまり、政宗が自身の力によってこれら七カ所の領地を奪い取ることができた場合は、家康がその領有権を認めるというもの》で、自力で領地を奪えない場合は、その権利はなく《政宗が景勝から奪い取った白石城のある刈田郡は、戦後に家康から安堵されている。家康は政宗を騙したわけではなかった》というもなるほどな、と。正宗は《秀吉と秀頼に対し欠字という貴人の名前の前を一文字あける儀礼をしている。こうした豊臣政権で守られていた儀礼を政宗はまだ守っており、秀頼の身を案ずる思いと合わせて、政宗は依然として豊臣大名であった》と。

西軍については秀吉の母の妹の子である《尾張国の動向を左右した清須城主の福島正則が味方すると想定していたことが、三成最大の誤算であり、敗因だったと考えられる》と。また大老の《宇喜多氏の石高は飛躍的に増加したとみられ、おそらく大名蔵入地(直轄領)も拡大した。土地の支配権もすべて大名当主に集約されたので、秀家の権力はいやがうえにも高まった。かたや家臣の多くは知行地の移転や分散を強いられた。しかも新たな石高は実状よりも過大に設定されていたので、名目上、同じ石高でも以前より収入は目減りする。検地への不満はやがて、家臣団内部の派閥抗争に発展していったらしい》というは知りませんでした。《「二人の中納言殿は若輩である。そのうえ家臣もまちまちである」(『吉川家文書』)と述懐したが、家臣団=軍勢の不統一は、こうした応急処置としての人員確保の結果と考えられよう(大西:二〇一〇ほか)》という評価だったとは。だから《徳川家康との決戦を控えた秀家は、国許の防御を固めるとともに、家臣からの人質徴収を通して戦時態勢の引き締めを図り、彼らの寝返りを防いだのであろう》と。

大谷刑部の章はやはり面白かった。《政権に復帰した吉継が従事した案件というのは、豊臣政権のなかではかつて石田三成が担った分野である。政権復帰といっても、吉継の意思だけで可能になるとは考えられない。おそらくは三成の不在によって生じた人材不足を補う必要性から、むしろ家康が吉継に復帰を求め、吉継がこれに応じたという事情も推察できる》。

《利長撤退の理由を軍記類の多くは大谷吉継の謀報戦とする。すなわち、上方から加賀へ帰国の途次にあった前田利家の娘婿中川宗半(光重)を吉継が捕らえ、吉継には北庄を拠点に前田軍を迎え撃つ兵とは別に、これより多くの兵を海路宮腰に上陸させ金沢を攻撃するのに充てる計略があるとして帰国》するなど吉継は健闘します。そして、《利長再挙のリスク覚悟で大坂に向かう理由があったとすれば、豊臣秀頼、毛利輝元の出馬要請》という形で本戦になだれ込みます。しかし、小早川秀秋による、開戦当初からの裏切りにあい《大谷軍は家康本陣めがけて進み、藤堂高虎などの軍勢ともみ合っている最中に、秀秋の軍勢に背後から攻めかかられ、さらに脇坂安治、小川祐忠の反転も加わり、合戦の序盤でほぼ壊滅したと考えるのが穏当である(白峰:二〇一六、二〇一八)》というのは憐れだな、と。

《津義弘隊のみは、敵中突破を敢行し薩摩に逃れたことはあまりにも有名であるが、この作戦についても、合戦後半の正午すぎではなく、早い段階である午前中には敢行されたという見直しの議論がある(白峰:二〇一五)》という島津の引き口も伝承だったのも驚きましたが、《義弘は朝鮮出兵から帰還した後、薩摩に戻ることもなく政変に巻き込まれていた》とは知りませんでした。だから、本戦では戦わなかったんでしょうし、家康から許されたのかな、と。《二十九日の朝、義弘の使者が吉継のもとに遣わされたが、吉継は沈酔を理由に使者には応対せず、詫びの書状を託して使者を返している(『島津家文書』)》ということもあったとは。

大老の前田家に関しても、随分、イメージが変わりました。《江戸の家康が上方の利家に宛てて、息子の秀忠に対し万端指南を施すよう頼んでいる(「前田育徳会所蔵文書」)。利家もその死の間際に、利長の行く末を家康に頼んだという(「利家公御代之覚書」。この史料は随分後代に至って「陳善録」等の別名を与えられている)。過去の経緯から考えれば、豊臣政権に内紛が起こった場合、利長が家康方に与するのはそれほど不自然ではない》だいたい前田利常(利光)は秀忠の娘婿ですし《先に出兵を拒否した利政の改易も、ここで決定したらしい。その結果、利長は能登一国も自領に統合し、加越能三カ国のほぼ全域を支配下に置くことになった。近代に至って「加賀百万石」という俗称が生まれる素地がここに生まれた》のも関ヶ原の過程だった、と。しかし《関ヶ原合戦の結果、利長は「大老」の地位と引き換えに、加賀南部の二〇万石程度を得たにすぎないのだが、これを「守成」とか「礎創」とのみ評価するのは一面的であろう(大西:二〇二〇)。失った何かにも目を向けなければならない》というのはなるほどな、と。毛利は、「西軍」に味方して一〇〇万石を超える領地の大半を削られ、一地方大名に地位を落とされましたが《利長もまた、領地を多少は増やしたが、「大老」の地位を失った点では、関ヶ原の敗者上杉景勝や毛利輝元と変わるところがなかった。加賀藩は、徳川幕藩体制下における最大の外様大名》となった、と。

同じように没落したのは長宗我部。《(慶長四年)の盛親実兄津野親忠の幽閉(家督争いが原因とされる)や父元親の病死で動揺していた家臣たちに対する盛親の求心力低下に起因するものであり、当時の長宗我部家中は一枚岩ではなかったのであろう。それだけに軍勢の動員に苦心》するほど家は動揺しており、《信親の戦死により思いがけず家督を相続した盛親だったが、国持大名の嗣子としては異例というべき叙位任官がされず冷遇されていた。それだけに、大坂方に味方することによっては羽柴政権内での地位向上(叙位任官)や知行の加増を条件提示されていたとすれば、彼が大坂方に味方したのは必然だったのかもしれない。つまり、盛親にとっての関ヶ原合戦とは、自身の地位向上と加増を勝ち取るための戦いであった》。

龍造寺宗家→鍋島家の動きも興味深かった。《「大気」とは天下取りを望むほどの大望、野心であるといえよう。「智勇兼備にして野心なし」とは家臣としての理想像である《朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにおいていかに直茂が徳川家康と密接な関係を結んだのかを謳い上げ、龍造寺宗家断絶の際には幕府が鍋島勝茂の龍造寺家の家督相続を認め、勝茂を初代藩主として佐賀藩を成立させた》と。《佐賀藩は龍造寺・鍋島連合政権的性格を持って幕末まで存続し》たのですが、《秀忠正室小督の方を有事の際には鍋島家で保護するように依頼されたことは特筆に値するであろう》と。

秀吉ファミリーの崩壊も改めてみると凄い。《家定は豊臣秀吉の妻、北政所の兄なので、秀秋は「豊臣ファミリー」の一員だった》《福島正則は福島正信の子として誕生した。幼名は市松。通称は市兵衛だった。母は豊臣秀吉の母の妹でもあり、幼い頃から秀吉と親しい関係にあった》《長政は十歳のときに織田信長のもとに人質に送り込まれ、北政所により秀吉の居城、長浜城(滋賀県長浜市)で養育された。幸長の母は、北政所の妹であったという。秀秋は、北政所の兄木下家定の五男だった》という関係は密接だったな、と。

福島正則と直政、忠吉との先陣争いの背景もよく理解できました。《本来、秀忠が率いる部隊が関ヶ原合戦で先鋒を務めるはずだったが、到着が遅延したので実現しなかった。そこで、代わりに忠吉が先鋒を務めたのである》《井伊直政と松平忠吉が先鋒として西軍に攻め込むと、そのほかの東軍の衆もそれに続いて突撃した。東軍の勢力が西軍の要害へ攻め込んで戦いがはじまると、小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が西軍を裏切って東軍に味方し、やがて西軍は敗北を喫したのである》《直政が戦闘の開始を指示し、一斉に全軍が突撃したと考えられないか。指示命令系統がしっかりしていないと、全軍の統率は図り難い。前線に忠吉がいたのかどうかは不明であるが、いた可能性は高いのではないか。戦後の恩賞がその事実を示している》。

最後は近衛前久書状。それは《近衛前久(一五三六~一六一二)といえば、長尾景虎(上杉謙信)、織田信長、徳川家康との交流が著名であり、その関係により越後、関東、九州に下向するなど、戦国時代における武闘派の公家として有名である。 その近衛前久が、関ヶ原本戦(九月十五日)五日後の九月二十日付で子の信尹に送った書状》でした。

以下、目次。

第1部 東国の武将(徳川家康の戦い
上杉景勝の戦い
伊達政宗の戦い
最上義光の戦い)
第2部 西国の武将(毛利輝元の戦い
石田三成の戦い
宇喜多秀家の戦い
大谷吉継の戦い
前田利長の戦い
長宗我部盛親の戦い
鍋島直茂の戦い
小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い
関ヶ原本戦について記した近衛前久書状

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