« 『『室内』40年』山本夏彦 | Main | 『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫 »

May 04, 2020

『論註と喩』吉本隆明、言叢社

Ronchu-yu

 ここを始めるずっと前に読んでいた本なので、書いてみます。

 これは『最後の親鸞』と『マチウ書試論』のあとがきのような本。特に惹かれたのは「喩」。

《それなくしては教義が存在しえない最高の唯一の〈神〉への媒介者でさえ〈罪〉の意識の権化として死んでしまう異様さがマルコ伝》

 というあたりはいま読んでも凄いな、と。

 当時、なんで吉本さんが親鸞や新約などの宗教批判にそれほど入れ込むのか、正直、分かりませんでした。中途半端に「もっと下部構造の分析やれよ」みたいな感じで。

 でも、ヘーゲルやマルクス、ニーチェなどを元にした善悪の起源の考察は、宗教以外の形態では思想が不可能だった時代に考えついた極限が、浄土真宗と原始キリスト教に示されている、という見取り図はどうにか理解できるようになっていきました。

 《宗教はいわばこの親和性と禁忌とを超越者との関係におきかえることを強いるために、もっとも近親との関係に背反するということができよう》というあたりは「関係の絶対性」の註にもなっているかな、とか(p.126-)。
 マルコ13:31の「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」に対する解釈も素晴らしいと思いました。

 それは書かれた言葉は生きつづけていくという意味でも、人々の記憶として残るという意味でもない、と。それなら語られても瞬時に過ぎゆくといっても同じだ、と。そうではなく《言葉はある〈信〉の状態に支えられていると、成就されないかわりに滅びることもなく永続するといっているのだ》というあたりは、宗教やそれの変形である国家、あるいは近代的な思想すべて同じだという意味です(p.162)。国家や近代的な思想も〈信〉という状態(盲信)に支えられている。まあ、共同幻想に支えられいるにすぎない、みたいな。

 そして《ある普遍的な水位にとどいたとき言葉は生きるのだという仮定に促されてわたしたちは、遠い時間を隔てた言葉に相対している》と評価する吉本さんによるマルコ伝の革命性はおそらく、次のあたりだと思います。

 《人間を支配する能力に欠けていることが「神の国」に流通する資格であることを教義的にくりかえした。これこそがユダヤ的自然宗教に異議をとなえた主人公の特異な思想だった》(p.171)。

 原始キリスト教の純粋性をパウロが…なんてつまらないことを言わず、あっけなく種明かしをすれば、これは共同幻想は自己幻想に必ず逆立することを示しています。

 マルコの主人公がわかりにくい喩で語るのは、その喩が「共同幻想」と「自己幻想」が逆立せずに接続している原始的な段階の喩であるからで、喩がわかるということは、共同幻想に浸蝕されていない自己幻想をキチンと確立しているからだ、というわけです。

 マルコ7章で娘から悪霊を追い出してくれとすがる異邦人の女に対して、主人公は「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」といったんは、ユダヤ教的教義の構造の上にたって拒絶するのですが、その女は「食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と答えると「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」となるのは、ユダヤ的自然宗教からは阻害されている異邦人でも主人公を信じれば救われるという話しではなく、そうした共同幻想が虚構である気づいてさえいれば力強く生きていけるではないか、という意味ではないかと思っています。

 キリスト教がユダヤ人や異教徒をいざとなったら徹底的に差別、迫害するのも、2000年たってもマルコ7章のこの喩を「異教徒にも教えは開かれているんです」といい加減なことを言ってすませている、キリスト教という〈信〉の上にたった、相対的な善悪の構造から抜け出られていないからなのかな、と。

|

« 『『室内』40年』山本夏彦 | Main | 『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




« 『『室内』40年』山本夏彦 | Main | 『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫 »