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May 07, 2020

『一揆の原理』呉座勇一、ちくま学芸文庫

Ikki

 kindleのセールで安かったので買っておいた『一揆の原理 (ちくま学芸文庫)』呉座勇一、ちくま学芸文庫を読みおわりました。kindle paper whidte(防水)を使ったオフロ読書にして、指でなぞったところを自分宛にメールしておきました。こうすれば、気に入ったところがまとまっちゃう。これからはkindle中心でもいいかも…と思えるほど。

 それはおいといて。

 戦後史学などで《一揆がもてはやされたのも、民衆運動顕彰の一環である。このギャップが、人々のデモへの過剰な期待と、その後の幻滅を準備している》と書き始め、《デモがイマイチ盛り上がらない理由は色々と考えられるが、その一つとして、脱原発デモも戦後日本の諸々のデモと同様に、結局は「百姓一揆」の域を出ていない、ということが挙げられるだろう。 本書でも詳しく述べたように、百姓一揆とは、「武士は百姓の生活がきちんと成り立つようによい政治を行う義務がある」という「御百姓意識」に基づく待遇改善要求であるから、既存の社会秩序を否定するものではない》と締めるように、3.11以降の脱原発デモのどこか予定調和的な雰囲気はなぜだろう、というあたりの問題意識を戦後史学批判をおりまぜて説明していきます。

 その背景は「政治はすべて武士にお任せ、ただし増税だけは一切拒否」という與那覇潤が百姓一揆を評した言葉で説明しています。例えば《脱原発を唱える場合、代替エネルギーをどうするかという問題(節電を含む)は避けては通れないはずだが、脱原発デモにおいて、現実的・具体的な解決策が提示されることはない。たぶん彼らは「それは政府が考えることだ」とでも思っているのだろう》と。

コロナ禍で湧き出てきた自粛ゲシュタポ、自粛憲兵たちの吐き気をもよおすような行動をみると《日本人の「和」の精神とは、果たして手放しで賞賛できるものなのだろうか。実のところ、「義理」「人情」など、明文化されていない暗黙のルールに縛られる「ムラ社会」の方が息苦しい》という、3.11後に湧き上がった自称「正義の声」の気持ち悪さはまだまだ克服できていないな、と感じます。

 勝俣鎮夫氏や網野善彦氏の研究において、一揆と無縁に積極的な意味が付与されたのは「進歩的文化人」の近代化志向であり、《本当は、暴動や革命より、むしろ「人のつながり」の一つのパターンと見た方が、一揆の実態に近いのだ》と。《革命を目的とする直接行動をことさらに神聖視するのではなく、そうした政治運動の基盤となった人々の連帯にこそ目を向けよう》《一揆を「階級闘争」ではなくソーシャル・ネットワークとして捉えた時、一揆は単なる〝昔の出来事〟ではなくなる》と。コロナ禍で顕在化した列島住民の同調圧力の醜さは、自分たちの行動が正義であると過信しているからだけど、その理由は単に「皆んな一緒に一生懸命やってるから」だ、というのも納得。

 ただ、せいぜい〝体制内改革〟だった温い一揆が、今の温いデモにつながってはいても、必ずしも全否定はしていないところがイデオロギッシュな戦後史学の方々とは違ったところ。ダメダメだけど、ま、いっか、みたいな。最後は《中世の一揆も突発的・衝動的な大衆闘争ではなく、「他人とつながる」という点に本質を持つ》ものだと結論付けます。

 また、逃散も完全に逃亡するもんだと思っていたけど《逃散とは、百姓たちが一斉に耕作を放棄して村を離れるという抵抗運動で、要はストライキである。ストライキであるから、逃散によって両者の交渉が途絶することはない。逃散後も両者の間で交渉が持たれる》ことだったとは。《まず領主に訴願して、その要求が容れられなかったら逃散する、という手順を踏めば、逃散は許容される》とは知りませんでした。

 以下、せっかま自分宛にメモをおくったので箇条書きにしてみます。まずは一章から。

 秀吉の刀狩りは《武装解除ではなく身分統制が眼目だったのである。それは武士なのか百姓なのかよく分からない中途半端な存在をなくす(教科書的に言うと「兵農分離」)ということだ。秀吉が刀狩りに加えて、浪人を村から追い出すよう命じたのも、そのためだった》

 江戸時代に個別の村単位でなく藩単位での大規模一揆が増えたのは《藩の農業政策は領内全体に統一的に実行されるから、藩内の村々は利害を共有する。ここに、一カ村にとどまらず藩領全体で百姓たちが連帯する全藩一揆の素地が作られたのである》

 姫路藩が百姓に威嚇射撃を行ったことをに対して幕府は、一揆側が飛び道具を持っていたかを問い糾し、持っていなかったという回答を得ると以後は「無用」と沙汰。《鉄砲を使用するには事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される》

 江戸時代の一揆(強訴)で農民は鉄砲や弓矢で武装しなかったのは《要するに鎌や鍬は百姓のシンボルであった。鎌や鍬を使っても鉄砲や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないということを幕府や藩に示すアピールだったと思われる(ちなみに旧ソ連の国旗は、農民の象徴である鎌と工員の象徴であるハンマーを組み合わせたデザインとなっていた)》。←ちなみにこの象徴はカマトンカチと呼ばれていたましたw

 初期藩政改革によって「百姓の生活が第一!」という考え方が浸透していた江戸時代の強訴は大きな暴力はともなわなかったが、明治維新は士農工商の身分制度を廃止したので一揆も暴力的となった。《新政反対一揆は、新政府に要求をつきつけるのではなく、新政府そのものを否定している。だから一揆の側も新政府の側も妥協することはできない。相手を倒すまで徹底的に戦うしかない。一揆は、竹槍はもちろんのこと、時には鉄砲や刀まで持ち出して戦った。いわば殺し合いだから、大勢の犠牲者が出るのは必然だった》。また、農民たちは平民となった部落民も襲撃した。《新政反対一揆の中には明治政府の解放令に反対して被差別民を襲撃したものもある。百姓も被差別民も平民とする「四民平等」に反発し、「天下の御百姓」としての身分的特権を維持しようとしたのである》

 幕府は当初《数千人規模の百姓一揆に対応した法律を用意していなかった。依拠すべき基準がないため、幕府・諸藩の百姓一揆への処罰は恣意的なものになってしまい、場合によっては、逮捕後に吟味もしないまま即座に斬首するなど非常に苛酷な処分が行われた》が、その後、江戸時代の一揆(強訴)では《百姓たちは敗訴した結果、処罰されたのであり、直訴や逃散という行為のみをもって処罰されたのではない。実際、直訴や逃散による百姓の要求が通り、かつ百姓たちにお咎めなし、というケースも多く見られる》

 そのキッカケは島原の乱《島原の乱が鎮圧(一六三八年)された後、百姓が「徒党」を結ぶことは原則的に禁止された。つまり寛永期以降、タテマエとしては「一揆」は禁止だったのである。 だから百姓たちは自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばない。「一揆」と名乗ってしまうと、幕藩体制に対する明確な反逆行為として厳しい処罰を受けるからである》

 《島原・天草一揆の鎮圧により幕藩体制が確立し、平和な時代が訪れると、百姓たちは多くの被害を出す「一揆」=武装蜂起という選択肢を捨てた。武器を使わない抗議活動に転換した》

 暴力的な一揆は中世が本場だが《中世の場合、百姓だけが一揆を結んだわけではない。武士も僧侶も一揆を結んだ》

 成功した土一揆の場合《百姓だけの一揆と見るのは難しいという意見が有力である。武士や牢人なども参加し、彼らが「大将」として土一揆を指揮していたケースが目立つのだ。ちなみに江戸時代初期に勃発した島原の乱でも、大名に仕えていたものの大名家の倒産・リストラにより職を失った武士たち、つまり牢人が多数参加していた。このため神田千里氏は島原の乱を「最後の土一揆」と評価している》ほどで、《戦国時代末期、具体的には十六世紀後半になると、「一揆なんてものは身分の低い百姓たちが結ぶもので、立派な武士は一揆には参加しない」という認識が広がっていく。この一揆を見下す考え方が近世の「一揆」禁止につながっていく》

 康暦の政変は細川頼之の退陣を求めて足利義満邸を包囲=御所巻したものだが、列島では百姓による庄屋の包囲、首相官邸の包囲デモまで連綿と「囲」戦術が受け継がれているたが《この種の「官邸包囲デモ」は暴動や革命ではない。どんなに大げさに表現したとしても、せいぜい〝体制内改革〟といったところ》。なせなら、悪代官の罷免を求めて行われるから、と。

 面白かったのは、山門などの強訴は暴力的なものでなく、今のデモみたいなもので、それを百姓がマネした、というあたり。逃散もストだったとか。日本人はカンパニア闘争に向いているw

 源義綱の流罪を求めるの強訴への弾圧に怒った《山門は堀河天皇と関白の藤原師通を呪詛する。すると、承徳三年(一〇九九)、三十八歳の壮年であった関白師通が急死する。師通は朝廷内で強訴弾圧を主導した人物であったから、当時の人たちは神の罰が下ったと考えた。すっかり怖くなった朝廷は、山僧を攻撃した源頼治を処罰した》ということから呪詛を恐れたのか…にしても、延暦寺、とんでもねぇなwオウム並みw

 《大衆の最大の強みは武力ではなく、「神威」すなわち人々に天罰を下す神の力であった。武士たちも直接攻撃は原則禁止なので、武力行使はできるだけ控えた。双方が戦闘回避を望んだので、強訴は平和的に推移することが多かった》

 《笠松宏至氏は、寺僧の専売特許であった強訴というスタイルが「土民」たちの武器として登場するようになった点に、時代の変化を見ている。従うべき見解であろう。月並みな言い方になるが、やはりそれは民衆の政治的成長の証だと考える》

 また、逃散も完全に逃亡するもんだと思っていたけど《逃散とは、百姓たちが一斉に耕作を放棄して村を離れるという抵抗運動で、要はストライキである。ストライキであるから、逃散によって両者の交渉が途絶することはない。逃散後も両者の間で交渉が持たれる》ことだったとは。《まず領主に訴願して、その要求が容れられなかったら逃散する、という手順を踏めば、逃散は許容される》

 《いずれにせよ、荘家の一揆も寺社の強訴と同様、反権力闘争ではない。年貢をまけてくれとか代官をクビにしてくれとか、そういう条件闘争は行うが、荘園領主を打倒する意図は持っていない》。しかし《鎌倉時代の人たちは強訴そのものを「一揆」とは呼ばなかったが、「強訴する」には「一揆する」ことが不可欠であると認識していた》。さらに《神田千里氏は、武士たちが戦国大名によってガッチリと組織されるようになり、戦闘のたびにいちいち一揆を結成する必要がなくなったからではないか、と推測している》

 《一揆は、まさにこのような運命共同体であった。永享五年(一四三三)、伏見宮家の荘園である伏見荘の百姓たちが、沙汰人たち(荘園の管理人)の指令を待たずに、前々から山の境界をめぐって争っていた醍醐寺三宝院の所領である炭山に押し寄せ、炭山の郷民三人を殺害してしまった。伏見荘の領主である伏見宮貞成親王はこの勝手な振る舞いに激怒し、沙汰人たちを呼び出して、張本(首謀者)として誰を捕らえればよいかを尋ねた。すると彼らはビビリながらも「土一揆のしわざなので、誰か一人を首謀者と特定することはできません(土一揆の所行の間、誰を張本とも申しがたし)」と返答した(『看聞日記』)

 《権勢のある大寺社だからとか神輿や神木の霊力がバックにあったからというだけではなく、「一味同心」という意思統一によって、自分たちの行動が〝正義〟であるという確信を得ていたからなのである》
まさに勘違いも甚だしいが、あとでコロッと忘れて反省もしないw

 《「一味同心」に基づく訴えは合理的な判断を超越した絶対の正義であり、その主張が正しいか否かを論理的に検討することすら許されなかった》というあたりは、まさに今の列島の状況がこれかも。まあ、そのためにコロナの感染が防げているのかもしれないけど、経済を浸蝕したり、副作用のことまでは考えないヒステリーも増長しているわけで。

 延暦寺の大衆僉議では大講堂に全員が破れ袈裟で頭と顔を覆い互いが誰かはわからなくして集まったと紹介して、三島由紀夫の日本理解の浅さを指摘しているところは、三島も江戸仕草を称揚したヒトたちと同じ中途半端な日本理解にとどまっていたんだな、と。

 《「三島由紀夫は全共闘を「まつたく日本人らしく思はれない」「あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである」と酷評したが、良くも悪くも全共闘のスタイルは日本の伝統に沿ったものであるように思われる》

 《鶴の一声で決まったのではなく参加者全員が対等な立場で主体的に意見を表明し議論を尽くした上での結論であるからこそ尊重すべきである、という強い信念が、中世社会に散見される》が、それこそ、格差を隠蔽するための仕掛けでもあった、みたいな。

 なぜなら《学侶集団内部にも階層があった。皇族・上級貴族出身の貴種僧、中下級貴族出身の良家僧、上級侍の家が実家の凡家僧である》からで《「一味和合」を強調しなければならなかったのは、現実には「一味和合」が風前の灯であったからに他ならない》

 また、そもそも一味同心の作法は仏教と関係ない《一味同心して何かを決定した場合、起請文という文書を作成することが多い》《延暦寺が強訴を行う時は日吉山王権現の神威を利用するし、興福寺の場合は春日大明神である。彼らの「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神なのだ》

 日本の神道は、仏教の概念を密輸入して構築したものだけど、日本の仏教も、漢語に翻訳された仏典の翻訳という二次的テキストを元にしているだけでなく、神道からも逆に影響受けていた、みたいな。山門で起請文をつくって団結を確認する時にご当地アイドル的な仏像に神罰を担保させるという仏教とは相容れないまがい物になっていった、みたいな。《ひとたび娑婆に下りてきて、仏像という可視的な肢体を持ち特定の場所に常駐するようになると、地域限定のローカルな存在=「神」へと転化する。この「神」は、篤く信仰する者には御利益を与え、逆に信心が足りない者には神罰を下すという、現世=現実世界に密着した存在である。これが中世人の宗教観の根本たる「本地垂迹」の本質である、と佐藤弘夫氏は主張する》《したがって起請文に登場する神々は、人々にとって地域に根差した身近な存在である。実際、起請文には伊勢神宮の天照大神や熊野三山の熊野権現など全国区の有名な神だけでなく〝ご当地〟神様が勧請されることが多い》

 《そもそも仏教の教義には、仏が仏敵に罰を下すという内容は含まれていない。「日本国仏神の御罰」によって実効性を担保しようとする「一味同心」観念が仏教本来の教えと無関係であることは明白》

四章では

 《江戸後期になると、村ぐるみでの百姓一揆への参加が少なくなってきたことが分かる。これは村役人・地主たちが藩と癒着した結果、彼らが百姓一揆を指導する立場から離れ、むしろ百姓一揆の攻撃対象になったからだ、と保坂氏は説く》。アトム化が江戸の農民にも波及していたのかw

 四章後半は徳政一揆は飢餓に耐えかねた農民が、施しを行わない富者に襲いかかったということで、貨幣経済の進展とは関係ない、と。中世の農民は土倉から借金などはほとんどせず、逆に貨幣経済のなかで日ごろから貸し借りをしていた都市住民たちは、土一揆による徳政でも債務を《帳消しにはせず、土倉に対して一部返済や後日の返済を約束した上で質草を請け出す者も少なくなかった。 したがって、近江国(現在の滋賀県)や南山城(現在の京都府南部)などの遠方から京都にやって来て土倉の蔵から物を取っていく百姓は、債務を破棄したというより、単に略奪をはたらいただけ》

 《中世の恐ろしさは、富者が自発的に喜捨を行わない場合はムリヤリ金を出させるという行為が社会的に容認されていたところにある。これこそが徳政一揆の本質》

 《徳政一揆が発生した時期と、飢饉が発生した時期はほぼ重なる。十五世紀は徳政一揆の時代であるが、同時に飢饉の時代でもあった》《惣村が確立したのも、飢饉が頻発した室町時代のことである。惣村とは自治権を持った村落のことで、その実態は百姓の一揆的結合である》

 《神様を喜ばせるというところから出発して、人間どもが楽しむことの方がメインになっていくというのが芸能の歴史》

五章は一揆のお作法から

 《一味神水は江戸時代の百姓一揆のオリジナルではなく、その歴史は中世に遡る。百姓たちが荘園単位で連合する際に一味神水が行われている》。参加者は起請文に血判して、神社の境内などでそれを焼いて飲むが、これは《嘘をついているのに起請文という誓約書を飲んだら身体に異変が起こる》という意味。

《一揆結成の際に、この種の同調圧力がはたらいたことは確実だろう。第三章で、大衆僉議においては強訴反対を主張することは難しいと論じたが、それと同じことである》

もちろん中には「神をも恐れぬ人間」もいて、裁判で不利になるとヤケになると湯に手を突っ込んで身の証をたてる湯起請を要求する者もいるが、これも《多くの人々が神の意志の存在を信じているがゆえに湯起請という神判が成立しているわけだが、一方で周囲の人々の信仰心を利用する「罰当たり」な不届き者も中世社会に少なからず存在した》

一揆勢が焼いた起請文を水に溶かして共飲したというんですが、思いだしたのがユダヤ聖書(キリスト教の旧約聖書)レビ記。焼き尽くす捧げもの(燔祭)がこう書かれています《1:15 祭司はこれを祭壇に携えて行き、その首を摘み破り、祭壇の上で焼かなければならない。その血は絞り出して祭壇の側面に塗らなければならない(レビ記1:15)》

この焼き尽くすの語源は「上る」という意味ですが、『一揆の原理』では《起請文を飲みこむことだけが求められているならば、焼かずに、そのままちぎって飲んでも構わないはずである。この問題については、千々和到氏が面白い仮説を提示している。文書を焼いて煙を天に届けることは、自分の誓約を神に伝えることを意味しているというのである。つまり、人と神を煙がつなぐ、ということである》と書いてあってなるほどな、と。

 ユダヤ聖書(旧約)は1回しか読み通したことがなく、ヘブライ語で再読することはないでしょうが、なんで焼き尽くすのかというのが、初めてよく分かりました。それは煙が上ることによって「人と神を煙がつなぐ」という象徴だったんだろうな、と。

 《正文(写しや控えに対して、もとになる文書原本)は神前において麗水で呑んだ」といった断り書きのある起請文が現存していることを踏まえると、「焼く起請文」と「残す起請文」をセットで作成することが一般的なあり方だったと考えられる》《鎌倉幕府の法廷では、民事裁判の一方当事者が、主張の正しさを証明するために自ら起請文を提出することがあった。佐藤雄基氏はこれについて、起請文を提出するという行為自体に、自分はウソを言っていないので神罰を恐れる必要がないと幕府にアピールする意味合いがこめられていたと推理》

第六章は《起請文が意味するもの 「一揆契状」という文書》を解説

 《中世の日本は訴訟社会であり、裁判には証文(証拠文書)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達したのであり、起請文を未開的な呪術意識とのみ関連づけて理解するのは正しくない》
《石井進氏によれば一揆契状とは、「人々が一揆することを契約した文書で、ほとんどの場合、神仏に一揆を誓約する起請文の形式をとった上、参加者おのおのが連署を加えるのが普通である」》

 《大隅国の有力国人で禰寝氏という武士の家がある。江戸時代には薩摩藩に仕えた。余談であるが、禰寝氏は江戸中期になると「小松殿」、すなわち平清盛の長男、重盛の末裔と主張しだし、小松氏に改姓した。そして幕末に肝付尚五郎が小松清猷の養子となり》小松帯刀になったというのは驚きました。そして南北朝時代、《一揆契状の写しも同様の意味をこめて、了俊が禰寝氏に送ったのではないか。「この一揆にはこんなに大勢の方々に加わっていただいております。あなたもいかがですか?」》と。

 また、山門の僧兵による暴力沙汰は、それほどでもなかった可能性があるというのも思しかった
《『平家物語』の成立には延暦寺関係者が関与していることが古くから指摘されている。彼らが『平家物語』の中で誇張と脚色を交えて、強訴の神がかり的な性質、非日常性を喧伝した可能性は否定できない》

 つまり、一揆は革命的な行動ではなく訴訟のようなもの。《規律正しい交渉」の要素と、「放火、略奪などの暴力行為」の要素とは、二者択一的なものなのだろうか。かえって、両者が矛盾することなく併存している点にこそ、徳政一揆の特質がある》《徳政一揆を原告、土倉を被告、幕府を裁判所とみなせば、三者の関係がよく分かるだろう》。

 しかし、《従来の研究は、徳政一揆を中世民衆運動の輝かしい達成として高く評価してきた。だが規模や暴力性において違いはあるものの、徳政一揆は大寺社の強訴や荘家の一揆と本質的には変わらない。やはり権力側との〝なれ合い〟が見てとれるのである》。

 さらに山城一揆の実情もかくの如し。《戦後も山城国一揆を「自治共和国」として賛美する傾向が続いたが、一九八〇年代以降は、山城国一揆は国人たちの自発的な運動ではなく、幕府の実力者である細川政元が背後から操っていた、という見解が一定の支持を集めた》《交渉戦術のツールという点で、山城国衆の「申状」は荘家の一揆の百姓申状に通底する性格を持っていると言えるだろう。実は山城国一揆は革命ではなく「強訴」だった》《守護軍と一揆軍との戦いの末、応永十三年に山名満氏は罷免されて帰京、新たに山名熙重が守護に就任した。一揆の中心メンバーは起請文を提出して幕府に降参し、幕府は彼らを赦免した。まあ痛み分け》ということで、《一揆の反守護の姿勢は反幕府、反体制を意味しない。逆に、幕府への忠誠をことさらに強調するところに反守護国人一揆の特徴がある》。

 つまり《一揆イコール反権力、反体制という「階級闘争史観」的な思いこみにすぎない》《村で悪政を敷く地元の共産党幹部たち=悪代官を、村民の自治組織が実力で追放し、広東省共産党委書記=殿様の汪洋が慈悲深くもこれを追認した、中国の「烏坎蜂起」(二〇一一年十二月)に近い》と。

 第七章 「人のつながり」は一対一から 国人一揆と百姓

 7章では《国人一揆を上部権力との関係から捉えようとする見方がそもそもおかしい》というところまでいきます。

 《国人一揆は、室町幕府や守護といった〝上〟からの編成によって成立したのではなく、農民たちの〝下〟からのつきあげに対抗することを目的に誕生した》《佐藤氏らは、百姓の逃亡を領主権力に対する抵抗運動=農民闘争の一種と位置づけ、これを「人返法」によって抑止することが国人一揆の最大の目的であると考えた》が《南北朝期の一揆契状においては、百姓を統制する規定は一般的には存在しなかった。したがって、南北朝期に成立した国人一揆の目的を、農民闘争の弾圧に求めることはできない》と。

 さらに《全ての一揆が「強訴」を目的としているわけでない以上、もっとノーマルでソフトな「一味同心」があっても不思議ではない。複数の人間が心を一つにして共に行動することに一揆の本質があるとしたら、二人でも一揆は十分に成立し得る》と。「一味神水」という儀式を伴わない《一揆契状の交換によって結成される一揆は〈集合しない一揆〉》であり《一揆の本質が偉大な革命運動ではなく等身大の「人のつながり」にある》と。だから《もしデマ情報が流れて、一揆を結んだ相手に対して疑いが芽生えた時は、顔と顔を合わせて話し合い、不信感を解消しろ」という》ことになっていた、と。

 《一九八〇年代の「社会史ブーム」以降の諸研究によって、中世社会は人と人との「契約」によって回っていたことが解明されつつある。中世史研究で自明視されてきた、農民が荘園領主の苛酷な支配の下に置かれていてカワイソウという構図も見直された》、と。例えば年貢も農民が決める「地下請」「百姓請」などと呼ぶ制度も実現している、と。それは《村の側が「契約」に基づいて年貢を納める限り、荘園領主が村の運営に関与しない体制が成立し、荘園領主が好き勝手に年貢を取り立てることはできなくなったのである。荘園領主と村は「契約」によって結びついており、支配─被支配関係として単純に理解すべきではない》と。

 さらに《「契約」とは「上」と「下」との間でのみ結ばれるものではない。むしろ、水平的な関係において「契約」が結ばれることの方が一般的》として《第六章で検討した一味神水のための一揆契状は起請文的性格が強く、第七章で検討した交換する一揆契状は契約状的性格が強い、と整理することができ》るとし《二人や三人で結成する一揆があるという歴史的事実を念頭に置けば、一揆契約と義兄弟の契りとの距離は非常に近い》と。

 《ヨーロッパの市民革命の起源として市民の文化的な交流があったことは、ユルゲン・ハーバーマスの研究以降、広く知られている事実である。俗に言う「フランス革命は、パリのカフェから始まった」というやつだ。そこでは、革命家が大衆を鼓舞し、政治的に指導するというステレオタイプな革命像が相対化されている。  東島誠氏は、「高邁な思想、思想家が社会を変えるのではなく、社会的な結集極、人と人との〈つなぎ目〉の再組織化こそが社会を変えていくのだ」という〈市民的公共圏〉の考え方は今日においてこそ有効であると説いている》

 このほか、《大蔵館に住んでいた義賢の次男の駒王丸は、からくも信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れた。彼こそが後の木曾義仲である。源義朝の子である源頼朝と、源義賢の子である木曾義仲との対決は、この時点で運命づけられていたのかもしれない》《義朝と為義─頼賢の関係は修復せず、結局、一年後の保元の乱で激突することになる。同乱によって為義らを葬り去ることで、義朝は長年にわたる河内源氏の内紛を解決し、平清盛と並ぶ武家の棟梁としての地位を確立した》《為義の後継者となった義賢であったが、不祥事によって官職を失ってしまう。この結果、左衛門尉に任官した頼賢が次の後継者として浮上することになる。為義は、為義義賢頼賢という順に家を相続することを決め、この路線を確定させるために義賢と頼賢に「父子の約」を結ばせたのではないだろうか》というのは知らなかったな…。

《十世紀後半には、摂政藤原実頼摂政藤原伊尹(実頼の甥)関白藤原兼通(伊尹の弟)関白藤原頼忠(兼通の従兄弟)摂政藤原兼家(兼通の弟、道長の父)関白藤原道隆(兼家の子)関白藤原道兼(道隆の弟、道長の兄)といった形で摂政・関白はコロコロと入れ替わり、親子間での継承はほとんど見られない》

しかし、「家」が成立すると《跡継ぎ=次期当主を確保することが不可欠である。もし実子がいなければ、よそから連れてきてでも「家」を相続してもらわなければならない。かくして親子契約の必要性が生じ》《窮状にある人間が有力者と親子契約を結んで「親」となり、自らの財産を「子」となった有力者に譲渡するかわりに有力者の庇護を受ける、というパターンがしばしば見られる》ようにもなる、と。

 《無縁」の産物として語られることの多い一揆であるが、実はその根底に、擬制的な親子兄弟という「縁」を秘め》ようになった、と。中世ではこうした実利的な契約が増え、一揆にも親子関係を契約するようなものも出てきたが、農民の一揆を特別なものとする考え方も根強く《社会史研究では、この問題に対する答えとして、信仰の力を想定していた。「一味神水」という神秘体験を通じて、神と一体化した、もしくは神に変身したという意識を各人が共有することで、一揆としての結束が生まれた、というわけだ》。しかし、《マルクス流の「唯物史観」をしりぞけて宗教的側面を重視した勝俣「無縁」論も、一揆に自由と平等、個人の尊厳、さらには身分制を突き崩す革命的な要素を求めるという根っこの部分では、「階級闘争史観」とつながっている》と否定。《一揆契約は親子契約・兄弟契約の延長上に位置づけられる。したがって一揆の本質は、呪術的な〈神への誓約〉ではなく現実的な〈人と人との契約〉という点に存在する》とします。

 

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