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October 02, 2019

『都市国家から中華へ(殷周 春秋戦国) (中国の歴史 2)』平勢隆郎、講談社

 殷から戦国末、秦の成立に至る流れを
1)新石器時代以来の8つの地方的文化圏が春秋時代に徐々に統合されて都市の連合体となり
2)戦国時代に至って文化圏ごとの中央集権が達成される
という過程として捉えた史観でしょうか。

 80年代ぐらいに黄河文明と長江文明の違いを初めて知ったのですが、今は化旧石器時代の文化的影響が、ここまで細かく分かってきたのかと、すでに10年以上前の本ですが、感動。

 特に『春秋』の各バージョンに各文化圏が反映されているという推論に感動しました。その後に成立した『史記』には、中央と途方を結ぶ文書行政が開始され、それを支える律令が整備された前の時代のことがまったく念頭におかれていない、と批判。それは、春秋時代までは、中央も地方も独立した国(都市国家)だったが、鉄器が普及した戦国時代から変わってきたからだ、と(p.31-)。

 漢字は西周まで殷、周で使用される文字に過ぎなかったが、周の分裂によって西周は混乱。やがて秦が西から侵入。この混乱の中、青銅器に銘文を鋳込む技術が拡散。また、鉄器の格段によって農業生産に不可欠な歴が発達した、というあたりもスリリング(p.202-)。

 また、黄河は600年に1回ぐらい、大規模に氾濫するんですが、機械などを使えなかったので抜本的な対策は出来なかったんですね。結局、氾濫地域での生産をあきらめて、別な地域に農民が移動して、それが政情不安に…みたいなサイクルだったというあたりも興味深い。

 ふと、覡(げき=かんなぎ、男のミコ)は性的なサービスを与えたのだろうか、とつまらぬ疑問が…(p.212)。巫女的な職業はお参りした後に男性相手に性的サービスを提供していたのは世界共通でしょうが、覡は男性。覡は男性それとも女性を相手にしていたんだろうかという疑問も。

 践祚の祚は月偏もあり「ぎょうにんべん祚を践む」と読み下せる儀式。この儀式を行うにあたって登る階段が「ぎょうにんべんの祚階」。ヤマト朝廷は高御座に登る儀式に変えることで換骨奪胎したんでしょうか、元々は中国の戦国時代の儀式で、秦から漢に継承されたが、楚では「覇道の証し」とくさすそうです(p.246-)。

 諸子が「天下」を語る議論は、官僚統治を基礎とし、戦国時代にできあがった理論を縦横に駆使しますが、九・六・八、天・地・人・陰陽五行、周易、いずれを論じても、戦国時代にまとまった、と(p.306)。

 荀子と性悪説についての説明も、それだけで面白かった。長くなりますが、引用します。

 《後漢の王充によれば、孟子は中人以上を述べ、荀子は中人以下を述べたという(『論衡』本性篇)。後漢時代の認識が『漢書』(後漢時代に前後漢時代をまとめた史書)の古今人表に示されているが、古今の人を上上聖人・上中仁人・上下智人・中上・中中・中下・下上・下中・下下愚人の9等に分かつ。これらを3つにまとめなおせば、上人・中人・下人となる。この中人以上について性善をとなえたのが孟子、中人以下について性悪をとなえたのが荀子だというのが王充の説明であった。これに沿って述べれば、道家は上人のみを語り、法家は中人以下を管理しようとした(徹底すれば上人までいく)、ということになる。眼目とする階層が異なれば、諸子の言説は、互いを補完しつつ共存することができる。

 王充の上人・中人・下人に関するまとめは、従来の理解が的を射たものではないことを教えてくれる。孟子の性善説と荀子の性悪説が同じ人の性の理解として対立していたのではない。孟子は中人以上を論じ、荀子は中人以下を論じていて、どの階層に焦点を当てるかが異なっている。同じ国家に両者の議論が混在することも可能であり、いわば「棲み分け」の議論をしていたのである》
(p.307-)

 中国のメインランドでも新石器時代以来、絶え間なく戦争は起き、夏・殷・周3代の世もそうだったわけですが、鉄器は青銅器と違って原料を大量に確保できたので一気に普及。森林伐採、開墾、車と畜力を使った耕作も軌道に。耕作可能面積は劇的に拡大、都市の人口も多く養えるようになり、成長しつつあった国家の管理を受けることになります。変法を進めた者は戦争が続く中で、耕作民確保など富国強兵を目指していくわけです(p.336)。

 中国の度量衡の九・六・八は天地人を表し、単位が繰り上がるんですが、楽器の基準とも関わっているというのは、ピタゴラスの60進法にも似てるんだろな、と感じました(p.332)。

 山本義隆『小数と対数の発見』は難しくて、なかなか読み進めていないのですが、木星の公転周期12年、手の指から由来する十進法、手足の指の二十進法と共通の倍数が60だからというあたりなんでしょうか。もっとも、中国由来の十で繰り上がる数の数え方は便利な十進法に整合的で、和算が高度だったのも、そのおかげなのかな、とか色々考えさせられます。

 「國(国)」は中国の戦国時代になってできた字、つまり春秋時代にはなかった、という指摘も新鮮。それまでは都市を「邦」と言い、邦を含む一定の領域を西周以来「域(或)」と言っていたが、領域国家の出現で、その領域を囲む境界が意識され、結果として「國(或を囲む)」「国」という字ができた、と(p.363)。

 科挙の定着には中国でも文書行政が根付いてから1000年と唐宋改革と出版事業の進展が必要だったというあたりも、なるほどな、と(p.388)。殷、周王朝でも複数の血縁集団が王を出していた、ということも含めて、ヤマト朝廷も複数の血縁集団から大王を出していたんだろうし、聖徳太子の苦労も分かります。万世一系は後進国を支える幻想だったんでしょうね。

 伊藤仁斎など江戸時代の儒学者たちを《中国皇帝の大領域ではなく、日本という領域国家の時点でものを見ていた》(p.395)というあたりの指摘は現代の政治でも通じるかもしれません。個人的に中共はもちろん批判しますが、どこか習近平の悲しみも理解できそうな気もしますから。

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