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July 09, 2019

『人生で大切なことは泥酔に学んだ』

『人生で大切なことは泥酔に学んだ』栗下直也、左右社

 扱っているのは大きく分けて歴史的人物、スポーツ選手、文壇の人々だが、ダントツに面白いのは文学者、評論家、出版人など。やはり屈折が入っているからだろう。歴史上の人物やスポーツ選手の場合、酒の上の失敗エピソードは豪快だが、ほとんど記憶喪失としてしか処理されていないというか、忘れさるしかないので屈折として残らないが、文壇の人々は引きずる感じ。そこが面白い。
 《酒をやめたら、もしかしたら健康になるかもしれない。長生きするかもしれない。しかし、それは、もうひとつの健康を損ってしまうのだと思わないわけにはいかない》というのは山口瞳の『酒飲みの自己弁護』というタイトルそのままの言い訳ですが、文学者は《かんがへて飲みはじめたる一合の. 二合の酒の夏のゆふぐれ》(牧水)のはずがいつの間にか度を過ごしてしまい、ウジウジと自己弁護をしながら、毎晩飲みまくります。
 しかも、その自己弁護っぷりが面白い。例えば河上徹太郎。日本芸術院会員、文化功労者で小林秀雄などと近代の超克などを語りながら《足し算も引き算も要らない典型的な「ザ・酔っ払い」》となりトラ箱のお世話になります。《もう、河上などと書かずに「てっちゃん」と親しみを込めて呼びたい》ほど可愛い酔っ払いぶりの河上は、自分を保護してくれた上に家族を呼んでくれた警察に《「あそこのおまわりさんはホテルのボーイさんみたいに親切だね」とよくわからない分析を示》し、さらには御礼にウィスキーで乾杯したいとまで言い出す。これには《斬新すぎて盟友の小林秀雄も言葉を失うであろう》と近代を意外な方向で超越してしまったという筆者の評価には深く頷かざるをえません。《知識人にはときに独特の世間ずれが見え隠れするが、てっちゃんはもはや読み手がリアクションに困る域まで昇華させている》から。
 そのすぐ次に紹介されているのが小林秀雄。水道橋のホームから酔っ払って10メートルほど転落、奇跡的にかすり傷ひとつ負わずに助かった事件の顛末が笑えます。小林秀雄は《母親が助けてくれた、と考えたのでもなければ、そんな気がしたのでもない。ただその事がはっきりしたのである》とベルグソンを論じた「感想」に書くのですが、《どうだろう。前提を踏まえて、ありのままを語ってもらっても全くわからないではないか》という文章の呼吸には笑わせてもらいました。小林は落下したあと、助けてくれた駅員など《相手の善意を全て撥ね付けて爆睡》したあげく《いろいろ反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近附かぬ事を確かめただけであった》と記します。これには筆者ならずとも《「ごめんなさいもいえないのか」と叱ってやりたい》と思うばかり。
 河上、小林に共通するのは面倒臭さでしょうか。しかし、二人を紹介したあとで《人間振り幅が大事なのである。意外な一面を見せれば「こいつ、実はしょーもない」と思われるかもしれないが、親近感は増す。職場での好感度が上がることは間違いない》と結ぶ筆者。新たな文壇のスター誕生を予感させます。童貞を捨てたいと路上で寝そべって駄々をこねた梶井基次郞、同居女性の首をしめ「俺は天狗になったぞ!」と二階から飛び降りた辻潤なども素晴らしいのですが、個人的には連載時から筑摩書房・古田晁社長のエピソードが好きです。
 名文なので引用してみると。
《ある日、馴染みの居酒屋でできあがっていた古田は店の前を屋台のラーメンが通ったので外に出た。酔っ払っていたとはいえ、腹が減っていたのだろう。食べながら、しばらくすると、一緒に出ていた板前に紙を要求する。口の周りでもふくのかと我々のような凡人は思うし板前も想像したのだが、古田は紙を腰より下に持っていく。どうしたのだろうか。のぞいてみると何と脱糞していたのだ。ラーメン食いながらクソである》
 酔い潰れてズボンを濡らしてしまった、なんていうエピソードまではよく聞くが、その上空はるか成層圏を超音速で翔け抜けるような見事さです。
 酔うと誰彼かまわず寝込みを襲い、出版社社長や文人をたたき起こして拉致、ついでに隣人の家に配達されていた牛乳を飲み干す古田。そんな古田が経営していた筑摩書房の社員旅行は、女子従業員の部屋に突入し、全裸でエレベーターに乗る乱れっぷりだったといいます。一度でいいから、古田時代の筑摩書房で働きたいと思ったけど、やっぱり実際に対応するのは面倒臭いかもしれない。でも、素晴らしい。最高です。

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