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June 17, 2019

『中世史講義 院政期から戦国時代まで』高橋典幸、五味文彦(編)

 白眉は[室町幕府と明・朝鮮]。ここは本当に面白くて、日本史は東アジア史とリンクさせないと実相はみえてこないな、と改めて感じました。それにしても宋も明も漢民族の王朝は弱すぎるな、と。漢民族が統一しても、だいたいすぐに騎馬民族にやられてしまう。結局、各地で実質的に面倒をみる官僚層が民衆から尊敬を受ける基盤がつくられていくんじゃないのかな…どうなんでしょ。旧仏教=顕密仏教が、《依然として鎌倉時代の仏教の主流だったという理解は、研究者の間で広く認められ》(p.86)ているという指摘や、《ここまで東班衆と美術との関わりについて見てきたが、歴史に詳しい方はこれに若干の意外さを感じるかもしれない》というあたりは、抹香臭い仏教などにはあまり興味がなかったので蒙を啓かれました。

[中世史総論]

商人や職人たちの「座」、農村でも惣村など庶民にも団結する動きが広がる
「古代の氏(ウジ)から中世の家(イエ)への転換」
武士のアイデンティティーは氏文よみ(武勲を重ねてきたイエの継承者であることを戦場での名乗りで伝えること)
武家政権は「将軍のイエ」と「武士のイエ」が主従関係で結ばれることによって成立
後白河天皇は全ての土地は天皇のものと宣言するが、これは整理しなければならない荘園という空間があることを認めたこと
私徳政や「公方」の展開は、様々な公権力が中世社会にあったことを示す
中国の毛利氏の起源は安芸国の国人一揆
係争地の問題で施行状が出されても、それだけでは権利は守れず、僧兵を持つ延暦寺などは出訴委託の「寄沙汰」の常連に
インフラ整備や病人など弱者救済を訴えて勧進する聖は、個々の組織・集団の手に負えない事業の「すきま」を担った

[院政期の政治と社会]

院政期こそが新たな中世の始まり
中世に国家があったのかが問われるほど、中世社会は多元的・分権的で、地方と地域が成長した
武士は地方で土地を開発した在地領主が武装したものというより、武芸を専業とする中下級貴族が起源
中世武士は京都と地方に拠点を持ち、兄は在京、弟は地方にとどまる兄弟分業も一般的だった
奥州藤原氏、越後の城氏も国衙から相対的に自立した「一国棟梁」に
鎌倉幕府は平氏だけでなく、奥州藤原氏など各地の地域権力を圧殺した
院政期に成長した地方権力は、東国武士によって征服された
藤原氏を外戚にもたない後三条天皇が親政を開始、荘園整理などの政治改革が行われ、白河天皇に譲位
白河天皇は後三条の兄弟ではなく自分の実子に皇位を継承させるために譲位
道長の嫡流が継承するようになった摂関家も実は院政期に成立
荘園は開発領主が寄進して成立したのではなく、寺の造営費捻出のための「立荘」が多かった

[日宋・日元貿易の展開]

モンゴルの進出に伴い、南宋では貿易関係のあった日本の重要性が認識され、優遇措置によってさらに活発に
元は南宋制圧以前からクビライ没まで日本に12次にわたって遣使して服属を求めた
クビライから代替わりした孫のテムルは、日本に形式的な服属関係を求めたが、使者も返されなかった
テムルは服属を問わず、日本の貿易船を受けいれ、日宋貿易の活況が戻った

[武家政権の展開]

武士の発生は地方・中央の両方から考えられるようになってきた
地方の武士は官職・位階を求めて中央と結びつき、中央の武士は受領として地方に下り、婚姻で地方と中央がネットワーク化
奥州藤原氏は京下りの文筆官僚を抱え、行政文書も把握していた
頼朝は反乱軍として出発したため、所領支配を自らの実力で行った
鎌倉幕府は源平騒乱で平氏の荘園を、承久の乱でも3000箇所以上の没収地を獲得。朝廷の軍事力も崩壊したので治安維持でも重要に

[鎌倉仏教と蒙古襲来]
モンゴル襲来では寺社の神仏が総動員されたが、祈祷は「旧仏教」が圧倒した
黒田俊雄の顕密体制論は、仏教の教えを顕教と密教に分け、古い顕密仏教は鎌倉時代に生まれた新仏教より影響は大きかったとする
モンゴルに反感を持つ南宋出身の無学祖元は来日後も情報収集を続けモンゴル襲来を時宗に予言
禅宗の集団は元の支配となった後も関係は絶たず、体制仏教の座を勝ちえた

[荘園村落と武士]
地頭が耳や鼻を削ぐ行為は、女性の処刑が忌避されていた結果
ある土地(下地)の富は本家-領家-預所がそれぞれ得るが、公領の知行国主-受領-郡郷司という重層性にならっている
畿内周辺での近隣住民間の連帯の誕生が村落につながっていった
武士が館を構える場所は、以前からの交通の要衝
鎌倉の御家人たちは関東だけでなく、西方の平家と上皇の所領の支配も迫られたが、遠隔地の往来などでは荘園公領制のシステムを利用
京下りの官人など「できる」被官たちが既存の交通・流通体系を活用して全国に散在する所領の管理にあたった
代官として下向して送り込まれた一族は独立の傾向を強めた
鎌倉幕府の滅亡で新補地頭はその地位を失うことが多かった
御家人は検断権(警察権)を通じて交通・流通を支配するほか、検断権の不法行使などによって支配を拡大
日本の中世社会は自力救済社会
百姓はサボタージュなどによって御家人に従わず、御家人が幕府に訴えることも
逃散は年貢をきっちり納めた上で行われる正当な抵抗運動で、領主はなんとしても避けたかった
武士は検断権の行使など横暴だったが、荘園公領制の破壊には働いていない

[朝廷の政治と文化]
公家社会では徳政(善政)は人事と裁判と認識されていた
職務の遂行にあたっては同じ職務の経験者である父祖の記録が最も有効な参考書となり蓄積された
中世の役所は細分化が進み、家ごとに担う「官司知行制」ともいえべきものになった
12世紀には特定のイエと特定の学問分野の結びつきが深まる
勅撰和歌集は治天の君による編纂による示威と位置づけられた

[南北朝動乱期の社会]
鎌倉後期から貴族社会で分家が見られなくなり、嫡子による単独相続へ以降(註・確か武士のイエもそうだった)
武家の惣領と庶子の対立を一気に加速したのは南北朝の動乱で、恩賞獲得を目指して戦った
武士は戦場でも「恩賞を与えてくれそうな側」について戦った
負けても所領の半分または1/3を安堵して降参すればよかった
各地では武士たちによる国人一揆が結ばれるようになった
野伏の活躍は、モンゴル襲来以降の騎馬武者中心の編成からの変化をうかがわせる
惣村の実力は武士も注目して協力を求めた
14世紀から現在につながる集落が形成

[室町文化と宗教]
・東班衆と美術との関わりは意外だった
・道元の『典座教訓』のエピソードを引いて《日常生活(作務)のすべてがそのまま修行になるのだ、という中国禅の考え方》を示す
・学問をもっぱらとするスタッフ部門である西班衆にライン部門である東班衆は次第に押されていくが、角倉了以などの土木事業や《江戸の「科学」にも結実する》

[中世経済を俯瞰する]
・古代は国衙に調庸などが集められて都に送られ、国家機構の維持費用などに分配したが、このシステムが機能しなくなり、現地から年貢を直接徴収するようになったのが中世荘園
・国衙で使用していた調度品などをつくっていた職人たちは、自立を強いられ、普及品生産にシフトし、新興の武士層に販売
・年貢輸送はアウトソーシングされ、そのおかげで航路網が構築された
・12世紀に唐坊というチャインタウンが形成されると、そこでやり取りされた宋銭が日本国内でも普及
・国家保証もない銅銭だが、タイミングがよかったためかなぜか普及
・銅銭は持ち運びも容易でないので、替銭=為替のシステムが利用されるようになる
・これによって京都に全国の物資が集まる求心的経済構造が活気づく
・しかし、混乱の中で不知行が増えて中央へ向かう物資が細くなり、その結果、地域経済の分立化が進展
・日用品の量産化、地域経済の発展は近世の豊かな消費生活を支える経済構造となった

[室町幕府と明・朝鮮]
・1350年頃から活動を活発化させた前期倭寇は、16世紀の後期倭寇とは区別して考えなければならない
・蒙古襲来の後、高麗は前期倭寇の禁圧を室町幕府に求めたが、九州を回復した後、対処すると僧侶を介して返信
・南朝側に奪われていた九州探題を攻略した今川了俊は、高麗の使者と接触して独自の交渉を行い、李氏朝鮮が成立しても交渉を継続。さらに、大内氏とも協力して前期倭寇を鎮圧。了俊解任後は大内義弘も李氏朝鮮と通交。
・中国本土では洪武帝が明を建国。九州に朝貢を促す使者を送ったが、当時、九州を制圧していたのは南朝の後醍醐天皇の皇子懐良。懐良は日本国王に柵封された。
・こうした事実を知った義満は、南朝側に明が味方されると困るので、自らの使節を派遣したが、洪武帝は日本国王は懐良で、義満は臣下だと判断。さらに、洪武帝はねつ造クーデターで臣下を粛清し、日本が加担したとして断交
・明では靖難の変でいったん建文帝が即位。建文帝は自らの正当性をアピールするために、義満の使節を受容して、義満を日本国王に柵封。その後、即位した永楽帝にも「日本国王臣源義満」で上表文を送って柵封された。
・「日本国王」号は国内で用いられたことはなく、あくまで南朝対策の対外交渉上の称号
・義満は李氏朝鮮とも「日本国王」を名乗って通交したが、朝鮮との通交は大内氏、対馬宗氏、少弐氏など多元的だった
・しかし、こうした外交姿勢には批判も多く、義時は日明関係を断交したが、義教時代には復活。勘合貿易がスタート。しかし、将軍権力の弱体化で、詐称した使節が横行
・1547年で室町殿名義の朝貢使節は途絶え、後期倭寇が盛んに
・石見銀山の銀目当てに荒唐船も朝鮮近海で横行
・1590年に秀吉が150年ぶりに朝鮮に使節を送った時、李氏朝鮮はそれまで通交を続けてきた大内氏、少弐氏など諸大名の滅亡を知る

[室町幕府と天皇・上皇]
・観応の擾乱以降、義詮は、足利将軍家家長のみが院参・参内できるようにして、皇位継承プロセスにも参与できるしくみをつくった
・後花園天皇が義教邸に行幸した際の天盃拝受の儀礼にはカワラケが用いられ、足利将軍家と天皇家との間に主従関係、ミウチ化も認められる
・義満は鎌倉幕府がなしえなかった門跡寺院への子息の入室も果たす。山門側も義満を「聖君」「君」と称す

[戦国の動乱と一揆]
・江戸時代の一揆は3710件発生したが、竹槍で役人を殺したのは1件だけで、竹槍一揆は明治以降のもの
・中世の一揆は「結ぶ一揆」
・浄土真宗は一向宗という呼び名を嫌い、一向一揆という言葉も江戸時代に出現して明治以降に学術用語として利用
・事実、本願寺は証如(蓮如のひ孫)以降、既存の権力・秩序との共存へと舵を切り、一向一揆を担った地侍や百姓とは方向性を変える
・一向宗は本願寺教団の教えから逸脱して呪術的・土俗的な信仰だった
・蓮如は往生を約束してくれた阿弥陀如来への感謝として念仏をとなえるように教えを変更したが、本願寺はやがてこの「報謝行」を軍事費として求めるように
・惣国一揆は土豪=小領主と農民の「統一戦線」

[戦国大名の徳政]
・新たな領主の代替わりの際には「世改め」が行われるべきという中世民衆の観念があった
・逃散もいったん年貢を納めてから行うものだけど、徳政を受ける際には、今後は年貢をキチンと納めるという誓約が必要

[中世から近世へ]
・鎌倉時代後期、社会が安定すると名主や百姓が力をつけ、開発した土地への権利意識を強め、近畿など先進地帯では荘園領主や地頭と争った
・平家は厳島神社、奥州藤原氏は中尊寺や毛越寺などイエのための寺社を造営したが、鎌倉幕府はさらに南都仏教も取り入れた八幡や寺院を造営

[目次]
中世史総論
院政期の政治と社会
日宋・日元貿易の展開
武家政権の展開
鎌倉仏教と蒙古襲来
荘園村落と武士
朝廷の政治と文化
南北朝動乱期の社会
室町文化と宗教
中世経済を俯瞰する
室町幕府と明・朝鮮
室町幕府と天皇・上皇
戦国の動乱と一揆
戦国大名の徳政
中世から近世へ

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