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April 29, 2019

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』

『天皇はいかに受け継がれたか: 天皇の身体と皇位継承』加藤陽子責任編集、歴史学研究会編、績文堂出版

 この手のアンソロジーは例えば哲学の分野などでは凡庸なものに終わることが多い印象ですが、日本史の場合は、執筆者が協力して、全体としても統一感のある読み物になっています。監修した加藤陽子先生による、全体のサマリー「はじめに」だけでも読む価値はあります。

 列島では古来から比較的王殺しが少なく、禅譲=上皇が突出して多いというのは、例えば総理大臣など政治のトップの逮捕・起訴などが少ないというのにも通じるかな、というのが第一印象。

 「はじめに」で加藤先生は、朝幕関係についての議論が活況を呈しており、さらに現在の皇統が始まった光格天皇以来の譲位で多くの人が興味をいだいているとした上で、殺害される王が稀で譲位する王がこれほど多いのは珍しいと紹介。さらに、八人十代にも及ぶ女性天皇は東アジアでも珍しいとも。列島では皇位継承の明確な準則がなかったため、継承方式は推移し「擬制的な直系」の創出が目指されたが、それもほとんど異質だ、と。

 また、近世期の改元は践祚から一、二年後になされるのが普通だったとも。中国でも崩御後一年は前の皇帝の年号が使われていました。さらに、秋篠宮の問題提起でも話題になった大嘗祭も中世以来、霊元天皇まで行われず、東山天皇の時に二百数十年ぶりに再興されたものです。

 もっといえば、欧州の王政は世襲と選挙があるが、日本は世襲を疑わなさすぎだ、とも。

 池亨先生の《官位叙任機能は天皇制の本質というよりは、天皇制維持のための必要条件、天皇による生き残り戦略》という考え方は、マルクス主義の尻尾を引きずるぼくにはしっくりきます。中世史でも、どうしても権門体制論より東国国家論の方がしっくり来ます。

 天皇にとっては「退位」ぐらいしか人間としての意思を示す場所はない、という河西先生の論考は、天皇と皇室メンバーの自由のなさなど、深刻な人権侵害を考えると、任期付の選挙天皇制への途も日本国憲法と皇室法の擦り合わせで可能という奥平、長谷川の指摘につながるかな、と。

 天皇の職は祭祀儀礼などの公事遂行と内廷経営。さらに治天の君となった時には《天皇の周囲に構築された国政処理のための政務全般》が核になるというあたりも、なるほどな、と。

 ということで古代から箇条書きでみていきます。

「古代の天皇」

 禅譲と対をなす放伐(王の追放)という言葉は日本書紀などでは使用されなかったそうです。中国でも放伐の代わりに禅譲の形式をとった王朝の簒奪が増えていきましたが、日本の禅譲の多さは東アジアでも突出しており、それは「退位させられる強制禅譲」とみることも可能だ、と(p.7)。

 例えば大王崇峻は蘇我氏によって殺害されましたが(フレイザー的王殺し)、その後の皇極から孝徳への王の交代は、王殺しによる事態打開の途を避ける日本の特徴となっていった、と。世界でも日本は王殺しが少なく、譲位が逆に多すぎるのですが、これは世界史的にも意義あるとのことです(p.11)。

 中国唐代では、退位した皇帝が「太上皇」の尊号を付与されたが、令文に「太上天皇」の語はみえず、日本独特のもの。淳仁を廃した孝謙天皇は、道鏡を随伴した大嘗祭で称徳天皇と重祚。道鏡の即位を企てるが失敗。称徳には太上天皇や皇后、皇太后、皇太子がおらず、老齢の白壁王を光仁天皇を立太子します。

 天皇と太上天皇のどちらが偉いか、太上天皇は降りたのかなどの矛盾を抱えることも。天皇と上皇は激突することもあったが、王権を分裂される危険を内包しつつも制度化されていきます。今後、新羅やベトナムとの比較研究が進めばさらに特色は際立ちそうだ、と(p.23)。

 日本の女帝は八人十代に及ぶが、中国では唐代の則天武后だけで、朝鮮半島でも新羅善徳、真徳、真聖の三人だけ。日本の場合、律令にも規定があったほど(p.29)。

 日本古代の女帝の必要十分条件は「内親王(皇女)」。道鏡事件の後に践祚した光仁天皇は、内親王皇后の井上内親王を廃する。それは、産んだ子供だけでなく、自分も皇位継承者となる危険性があったから。その後は、女帝の影響力が大きくなってきたため、藤原氏などの臣下皇后が相次いで立てられることになります(p.37)。

「中世の天皇」

 室町期になると官位授与が買官としておこなわれ、天皇は家業としてそれを営みます。もうひとつの重要な収入源は改元。京都周辺の天下を制した武家が、その宣言として改元を行わせた。細川高国の大永、足利義昭の元亀、信長の天正などの勘文、難陳の費用は武家が出資しました(p.94-)。

 戦国期になると天皇の葬儀、践祚の費用は将軍から得られくなり、近場の大名から調達するようになります。禁裏小番衆は天皇の最期の藩屏となったが、経済基盤の狭小化で出仕しなくなる者も出てきたほど。そこに現れたのが信長。御所警護、経済援助で信長への依存を高め、秀吉には聚楽第行幸までして最悪期を切り抜けたことになります。

 信長の上洛時、御所を荒らされると思ったけど、郷民を雇うぐらいしか出来なかった正親町天皇。最悪の事態を覚悟しただろうけど、警固の兵を送られた時には本当にホッとしたろうな、と。この時期は譲位の費用も出せないので、行き当たりばったりの崩御→践祚に戻ったという指摘は可哀想すぎ。

 11世紀に神鏡とアマテラスが同一視されて伊勢神宮は宗廟となったのですが、古代の天皇は神聖性を保持していたが、中世では、神仏という超越者他者に保証される象徴的権威に変化したという指摘はなるほどな、と(p.105)。

 中国・朝鮮の儒教的社会では「異姓不養」の原則から、他家から養子を迎えて継嗣とすることはできないといいます(p.66)。このことは、日本社会が中世に、経済的発展を遂げていたからなのかな?

 南北朝の対立は、皇統に連動したさまざまなレベルの家督争いによって構成される、と(p.64)。応仁の乱の畠山とかまさにそうだったな、と。それが朝倉的解決に収斂していくのかなと思いました。

 皇位継承は1)傍系継承や兄弟叔甥の争いから候補者を絞り込むために2)皇族出身の妃所生の男子とする六世紀型から3)藤原氏出身の妃所生とする八世紀型へ推移していきます。さらに荘園の拡大など経済発展で資産が増加したため、皇位を子孫に伝えるために譲位&院政が生まれた、と(p.58)。

「近世の皇位継承」

 室町幕府が弱体化して畿内政権になると、天皇の葬儀→践祚の費用を幕府が出し渋るようになって、夏場などには遺体がひどい状態になってしまうことがあったそうで。天皇家の「家業」化の進展で制度化された譲位→受禅という安定的な継承もできなくなり、崩御→践祚という行き当たりばったりの継承に戻る、と。天皇家は最後の頼みの綱となった禁裏小番衆の権益確保のため鷹司家から塩漬魚の徴税権も奪ったりもした。織豊政権が破格に天皇家を大事にしてくれてホッとしたのもつかの間、徳川時代になると突然、天皇が病弱となり早死にし始めます。

 桃園天皇は脚気にもかかわらず酒を飲んで行水するなどして急性心不全で死去。天皇の継承は幕府の許可をもらわなければならなかった当時、桃園天皇の死は関白近衛内前によって伏せられました。それは桃園の子・英仁親王が五歳で病弱だったから。幕府には桃園の姉の智子内親王が践祚し、5-6年で英仁親王に譲位するという方向で許可を得て、7/9の死去の後、21日になって践祚が実現。桃園の姉・後桜町の譲位により、後桃園は13歳で皇位についたが9年後に父・桃園と同じ22歳で死去。当初から病弱で、この時は1歳になる皇女しか子がいなかったため、再び死は秘匿されました。

 しかし元々、後桃園は病弱だったため、公家たちも準備万端。今の皇統となる閑院宮家には王子が多かったので得度してない九歳の裕宮が光格天皇に。この時は死んでいる後桃園が裕宮を養子として践祚させるという叡慮が幕府側に打診されて了承をもらった。聞くも涙の物語で、昭和天皇の時も何ミリの下血があったなどの病状まで公表されたり、秘匿と公表が極端で可哀相すぎ。今上陛下が生前譲位を望んだのも、昭和天皇崩御時の国民生活の混乱も含めて宜なるかな、と。

 昭和天皇の病状が悪化していった当時、駆け出しの記者だったんですが、JRのダイヤ改正の発表も「Xデイがあったら繰り延べ」という条件付だったことを思い出す。今上陛下の譲位は昭和天皇崩御時の混乱とローマ法王の生前退位(これも驚愕だった)を受けて実現したんだろうな、と改めて思います。

「戦後天皇制と天皇」

 神なき国で天皇と皇室を機軸とした西洋近代化を目指した明治国家は、19世紀後半のドイツで確立した国家法人説を導入し、天皇と国家の関係を人体に喩えて説明する途が開いた。天皇の位置付けについてキリスト教の神学に代わって援用されたのは「歴史」だった、と(p.183)。

 昭和天皇にとって欧州歴訪は人生の花だったが、帰朝に際し、米国への訪問を果たせなかったことを残念に思うという令辞があったとは知らなかった(p.195)。歴史にIFは禁物だが、宮中某重大事件に訪欧問題がリンクされず、もっと見聞を広める機会があれば大平洋戦争への道も違ってものになったかもしれない。昭和天皇は訪欧時、初めて切符を自分で買って列車に乗ったが、降りる時、それを渡すとは知らず持ち帰ってしまう。しかし、生涯、その切符を大切に持っていたという話しは、天皇の孤独を感じさせるエピソードとして印象に残っています。

 5.15事件のあった1932年7月、昭和天皇は陸軍士官学校の卒業式に出席できなかった。天皇に対する生徒の態度に学校側が自信を持てないほど悪化していた証左かもしれないというのは初めて読みました。2.26に続く陸軍の叛乱は昭和天皇に対する不満、異議申し立てから再考する必要があるかも(p.209-)。


「戦後天皇制と天皇」

 GHQは占領を円滑に進めるために天皇の権威を欲していたので、日本側の「象徴」の内実を曖昧化。このため敗戦後の天皇制の存立根拠が憲法にあるのか歴史にあるのかハッキリしなくなっていった、と。

 敗戦直後、近衛文麿は昭和天皇退位を主張したが、これは支配層が天皇制を継続維持するためには天皇個人の身体をある程度、犠牲にしても構わないという発想があったから。

 新しい皇室典範に退位規定が入らなかったのは、退位の自由を認めたら、天皇にならないという不就任の自由も認めなければならなくなるから。

 三笠宮は基本的人権を謳う憲法の精神からして、退位など人間としての意思を発露できないのはおかしいと指摘していた。天皇の意思は発露できないが、人々の自由は保証されるというのは矛盾だ、と。

 初代の「象徴皇太子」となった今上陛下は、憲法にも皇室典範にもその職務が規定されていなかったので、自らの存在意義を模索していきます。

その際、戦国時代にあって疫病や飢餓を祈りによって克服できなかったことに後奈良天皇が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」と写経の奥書に書いたことに共感したとインタビューで答えていいます。

今上陛下は、戦国時代にあって疫病や飢餓を祈りによって克服できなかったことに後奈良天皇が「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」と写経の奥書に書いたことに共感していることをインタビューで答えている


「中国皇帝の譲位と年号」

 中国ではある年の途中で皇帝が亡くなって次の皇帝が即位してももその年は亡くなった皇帝の年として、新年を迎えて初めて新しい年号を発布し、自身の治世を開始する「踰年(ゆねん)改元」が原則。また、皇帝が翌年の正月を迎える前に亡くなると皇帝とは扱われません。

 前漢で即位儀礼は祖先の位牌を安置する宗廟で行われたが、武帝からは先帝の棺の前で即位する「棺前即位」に。また、年号も前漢の武帝の途中から始まります。

 唐代では則天武后が周朝を開くまでは皇太子の即位が通例だったが、則天武后の子で皇太子から即位した中宗が韋皇后に毒殺された後は睿宗-玄宗-粛宗と異例の即位が続きます。

 日本の院政期と違い、中国の皇帝の譲位は政争をともなう。隋の煬帝だけ「ようだい」と呼ばれるのは暴君だったからで、日本でも反乱に加担したとして廃位された淳仁天皇と仲恭天皇の二人の廃帝も「はいたい」と呼んで区別した、と。

 前漢では皇后の出自はほとんど考慮されず、歌手が見そめられたこともあったが、やがて有力臣下の娘が皇后になっていき、後漢では外戚が権力を握います。

 「前代自り以来、未だ人君(君主)即位の後に皇后の太子を産むことあらず」という言葉があるように、例外は紂王。唐代でも皇后の実子が皇太子から皇帝となるのは例外だったが、その時代に遣唐使が送られていて影響された?

「ヨーロッパの王制と王位継承」

ベルばらファンなら王家打倒後、マリー・アントワネットが「カペー未亡人」と呼ばれるるようになったとは知っていると思いますけど、中世フランスは「カペーの奇跡」と呼ばれる長子による直系相続が続いたが、カペー直系はシャルル四世の死によって1328に断絶。しかし、ヴァロワ朝、ブルボン朝ともカペー家とは男系でつながっている。男系男子の相続が続いたのはヨーロッパの世襲王制国家の中でも極端に珍しく、イギリスは男女系男女世襲王制だし、ポーランドなどの東欧は選挙王制だった。米ワシントン大統領と同時代のポーランド王の参政権の割合はほぼ同等。

 日本では世襲の男系による皇位継承が自明のものとされており、王制と共和制は別個のものと考えられているが、ポーランドのように「王のいる共和国」も存在したほど。神聖ローマ帝国皇帝はハプスブルグ家の当主が15世紀以降、選挙で世襲王として選ばれたが、それは結婚政策で反対派と縁結びしていたから。

 こうした「世襲的選挙王制」はハンガリー王国でもみられた、と。

 さらに、これも本になるのが楽しみな歴研のシンポ!

「天皇と皇位継承のコスモロジー」では《明治に形成された近代国家としての日本が、新たに創出した天皇にまつわる制度や儀礼につき、古代史から無媒介に援用し遡及させようとした試みを、古代史の立場から批判的に論ずる》とのことです。Tennoh-katoh

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