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February 27, 2019

『承久の乱 日本史のターニングポイント』

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『承久の乱 日本史のターニングポイント』本郷和人、文春新書

 ぼくみたいな素人からすると、本郷和人さんの議論は東大の先生らしからぬ素晴らしく分かりやすさだと思うんですが、呉座さんとか若手の研究者からなんで目の敵にされるのかわからない感じがします。

 鎌倉幕府といいますか、関東における武士政権の成立というのは、在地領主による支配によって、日本の歴史を他のアジア諸国から画する出来事だと思います。

 それは「武士の、武士による、武士のための政権」であり、当初の「源頼朝とその仲間たち」から承久の乱を経て「北条義時とその仲間たち」という政治体制に変わっていった、というのがサマリー。

 当時の関東はホッブス的な「万人の万人に対する闘争」であり、在地領主=農民である武士たちは深刻に安全保障を求めていた、と。それは、朝廷の役人である国司や寺社などとは違って領地争いの時など《困ったときにすぐ駆けつけてくれ、実力行使を厭わない「上司」》。頼朝の傘下に入れば、土地が安堵され、さらには領地を広げていくことも可能かもしれないから関東の武士たちは団結したわけです。

 頼朝が挙兵して、伊豆の目代を打ち取った時の総勢は90人。北条時政も命をかけた戦いだったので目一杯頑張って掻き集めたのですが、時政が動員できたのは50人だったそうです(p.33-)。しかし、それでも、関東の武士たちは頼朝に賭けたわけです。

 それは関東の在地領主である武士にとって、大切なのは、領地争いの困った時に大勢の仲間と駆けつけてくれる親分グループだったから。富士川の戦いの後、京都を目指す頼朝を諫言した関東武士たちは、同じ源氏の佐竹氏などを平らげて、東国の新秩序を樹立することを求めました。それは朝廷=国衙の排斥。親の敵である平家討伐よりも、頼朝は関東の在地領主たちのニーズに応えて鎌倉にとどまることを選択しました。

 p.37-で紹介されている男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろうえことば)は知りませんでした。武士は庭先に生首を絶やすなと言われ、屋敷の前を乞食や修行者などが通ると、狩の獲物のように矢で射たり、追いかけて捕まるものだ、と書かれています。武士の野蛮さとともに、まさに「万人の万人に対する闘争」状態をあらわしていると思います。

 坂井孝一先生の『承久の乱』でも中宮(皇后とほぼ同格の天皇の后)とか、乳母子(めのご、乳母の実子)などの母系の固有名詞の多さから日本は母系社会だな、と感じたのですが、本郷先生の『承久の乱』でも、この時代における結婚によって生じる結びつきは重く《ある家が幕府に対して謀反を起こしたら、その家から嫁をもらった武士もいっしょに幕府と戦わねばなりません。娘を誰と結婚させるかは究極の人事でもあり、同盟の締結でもあった》という指摘にはうなりました(p.67)。

 土地制度に関しては、源平の乱以前に後三条天皇の親政で摂関政治は終了したという指摘もなるほどな、と。その決め手は荘園整理令。きちんとした手続きを経ていない荘園は公地公民に組み入れられ、藤原氏は1/3を失ったそうです。この脅威から逃れる術は、上皇への寄進。しかし、公地公民の原則からは天皇は荘園を持てないので、後鳥羽上皇は六勝寺といういわばトンネル会社をつくったというあたりもなるほどな、と(p.101)。これによって後鳥羽上皇は文化面だけでなく経済面でも「治天の君」となるわけです。

 院政の特徴は理念がなく自分が贅沢したいだけ。人事も側近で固め、信西などは政治力はあったが、その信西を倒して政権を握った藤原信頼は、後白河上皇との男色関係によって気に入られただけの存在。後白河はしたたかな政治家ではなく、台頭した武士に空手形を出してごまかしただけ、というあたりの院政への評価も明快。これでは在地領主のリアリティには負けるな、と。

 それはさておき、上皇や天皇の娘である内親王は独身のまま荘園の番人として贅沢な暮らしを与えられたそうです。子供が出来ると荘園は分割されますが、独身の内親王を荘園領主とすると大規模なまま維持できる、と。後鳥羽上皇の時代には皇室関連の荘園がほとんど後鳥羽の支配下になるなど抜群の経済力になった、と(p.106)。

 中世史は黒田俊夫の天皇中心の「権門体制論」、佐藤進一の「東国国家論」という2つの見方があるそうで、なんと学界で多いのは天皇と将軍は上下関係にあるという表面的な権門体制論だそうです。本郷さんは東国国家論で二つの権力が存在したと考える立場(p.147-)。東国派の本郷さんに対して呉座さん、亀田さんなどは権門体制論派?

 中公新書の著者が文学系統ならば、本郷さんは《鎌倉幕府とは何か、をずっと考え続けていた》研究者であり、坂井孝一先生の『承久の乱』のように、後鳥羽上皇は単に義時を討つことが目的でない点も明確です。

 1)当時はそもそも幕府という言葉自体がなく、敵は「北条義時とその仲間たち」2)朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのが通例、という指摘からも、後鳥羽上皇は「北条義時とその仲間たち」というシステムを破壊することを目的としていたんだろうな、と。

 このほか、北条政子の名は、天皇、上皇の前に出るときに時政の一字をとってつけられたもので、頼朝は政子とは呼んでいなかったハズというあたりも面白かったです(p.32)。

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