菊田一夫作『霧深きエルベのほとり』の対照構造
現在、宝塚大劇場では菊田一夫作の『霧深きエルベのほとり』が上演されています。1963年初演で、再演は83年以来36年ぶり。水夫が父親との確執から家出してきた深窓の令嬢と恋に陥るが…というベタな作品なんですが、そんなベタな話に感動するのかわからないけど感動してしまう。宝塚大劇場の客席は2550ですが、平日も立見の入れたキャパの2710人に迫る行列が出ていました。なぜなのか、と考えながら新人公演を含めて3公演見てきました。
観劇後に考えると菊田一夫の脚本はダブルイメージのシンメトリーな構造を持っていることがわかります。
・オープニングとエンディングが同じ歌
・オープニングでは客席から最も近い銀橋に立たせ、ラストでは最も遠いフランクフルト号の船首に立たせる
・主人公は女に振られたハンブルグ港におり立ち、女を振ってハンブルグ港を去る
・上流階級と庶民の二つのカップルが誕生する
・ゲスな男と高貴すぎる男が一発ずつ殴りあう
・男に去られた女が、女から去った男の話を聞いてやる
という対照構造が浮かび上がり、そうした構造がうねって若い二人が出会って別れるだろうなという予感の物語に推進力を与えている感じ。
さらに
・ビール祭りの庶民の喧騒vs上流家庭のパーティの盛り上がりのなさ
・自分のことしか考えてないフリして利他的な船員vs文化多元論主義者だけど実は自分のことしか考えてない青年貴族
・一途で思い切った行動に出るが実は家に縛られている深窓の令嬢vs思い切って結婚する主人公の妹
という構造もみえてきます。
大衆演劇は90分のプログラム・ピクチャーと同じ尺の中でダブルイメージ、対照構造で物語の骨格を印象付けて、物語をドライブさせていくんだな、と。というか、こうした脚本の構造がしっかりしているから、ありきたりすぎる物語の設定に説得力を与えているいるんだろうな。さらに脚本の力を持ってしても越えられない古さは演技力でカバーする、と。
でも、こうした複雑な構造を考えすぎると、文楽のようにあまりにも高度になって庶民の支持を失うことにもなりかねない。そうなったのは、こうした構造をひねりすぎて、わかりにくくなっていったからなのかな、とも考えました。
菊田一夫は映画『哀愁』(Waterloo Bridge)のウォータールー橋を数寄屋橋に置き換え、ラジオの連続ドラマにするために戦時下の男女の出会いを何回も繰り返すという構造を考え出したのですが、大衆が何に反応するか、ということを熟知していたのかな、と。
菊田一夫は商店で働いていた時代、美しい女性に恋をしたが振られたという経験を持っているらしい。時代背景も日本の戦前。そうした厳しい時代のリアリティがカールに投影されているんだろうな…と思いながら岩波から出ている『菊田一夫評伝』を読んでいたら、修行時代にお嬢様に恋をして、その美也子さんがお嬢様だったので宝塚が好きで、気を引くために「歌劇」に詩を投稿していたというのも知りました。
石段に腰を下ろした一人のマドロスは
背中をまるめてパイプをふかしながら
じっと沖を見つめてゐた。
まるで、『霧深きエルベのほとり』のハンブルグ港のシーンみたい!
宝塚歌劇の各公演ごとのステージ写真集などが載っているLe Cinq(ル・サンク)というムックには、脚本も掲載されています。それも読んでみたんですが、カールとマルギットを探す警察官たちの出番が1)最初に出てくるビール祭りではカウフマン警部と部下2)次のホテルではシュラック家の当主を連れ3)湖のレストランではフロリアンもと徐々に登場人物を増やして見物にわかりやすく紹介してる感じ。初歩的な技術かもしれないけど、んまいなぁ、と。
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