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December 28, 2018

今年の一冊は『初期仏教』

 今は現役時代に読みきれなかった古典などを中心に読み返していて、その合間に新刊を読んでいる感じでしょうか。

 とはいうものの、ずっと続けているので2018年の書評年度の新刊から今年の一冊を決めようかと思います。

 いろいろ考えましたが『文選』は全巻が完結してからにしたいので、『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書にしようと思います。

 『初期仏教』で得た知見はインドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文だったということ。改めて言語は数多くあるにしても、文字を持つものは少ないということがわかります。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、というのを知った時は胸が熱くなりました。ユダヤ教徒もユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書いていたけど、後の世代には、例えば古典を読むような感じで読まれていて、ローマ時代の話し言葉はアラム語やギリシャ語だったという説が有力ですし、ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われています。ゾロアスター教の終末観はユダヤ教、キリスト教にも影響を与えているでしょうし弥勒、人の子は光の概念なのかな、とか。

 このほか年末年始に読まれるのでしたら、以下の新書五冊をあげたいと思います。

『古代史講義』佐藤信(編)、ちくま新書
『倭の五王』中公新書、河内春人
『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書
『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版
『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰、中公新書

 以下はざっとした紹介です。


『古代史講義』佐藤信(編)、ちくま新書

 1講から3講の「邪馬台国から古墳の時代へ」「倭の大王と地方豪族」「蘇我氏とヤマト王権」が面白かった。邪馬台国の位置は三万五千里四方という中国王朝の世界観の東端に位置づけられたもので、距離は遠方からの朝貢を強調するもの(p.19)。列島と朝鮮半島との交易は壱岐対馬と北九州が中心だったが、山陰地方にも列島側の拠点が拡大するなど《多極的ネットワークが形成された》(p.27)。楽浪・帯方郡の滅亡によって九州中心の交易ネットワークは終焉、畿内のヤマト王権が伽耶地域と交易を行うようになる(宗像・沖ノ島の祭祀が開始される)。卑弥呼の墓と有力視されている箸墓古墳を含むオオヤマト古墳群でも、二系統に分ける見解がある。初期の高句麗王は五つの部族から交互に出ていたり、新羅でも二人の王が役割を分担して併存していた。草創期や初期段階の王位のあり方は《もはや「一系統の王朝」の存否だけを議論する状況ではない(p.33)。巨大な盟主墓を含む古墳はオオヤマト、佐紀、馬見(大和)、古市(河内)、百舌鳥(和泉)、三島(摂津)に別れているが、有力首長たちは通婚を重ねて血縁的に近しかったと推測される(p.39)。421年 倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使、478年までに7回の朝貢は奈良時代の遣唐使を上回る頻度(p.41)。古墳の規模規制は制度に基づく統治の先駆け(p.44)。蘇我氏を滅亡させた645年の乙巳の変の前年、高句麗でも似たようなクーデターが勃発、百済と新羅でも混乱が生じており、朝鮮半島情勢が緊迫していた(p.68-)。初期段階の王位のあり方を含めて(部族からの交互選出、王位の役割分担、p.32)など大陸と半島、列島の政治はクロスしてる。

『文選 詩篇 四』川合康三ほか訳注、岩波文庫

 楽府第の「長歌行」に《百川東至海(すべての川は東に流れ海に注ぐ)》とあって、中国の河川は東流して海に注ぐだけの一方通行なんだな、と思う(p.368)。そうなると基本的にインドは南流、ロシアは北流するだけなのに対して日本や欧米のように東西どちらにも流れる川が多いのは珍しいのかな、とか。解説では「過ぎ去った歳月が二度ともどらないことをたとえる」としているけど、日本の時間感覚が一方通行ではなさそうなのは、そうしたことからなのかも。

『文選 詩篇 三』川合康三ほか訳注、岩波文庫

 曹植の詩には泣きました。《曹操、曹丕、曹植の三曹と建安七子は中国文学に最初の黄金期を築いた》(p.74)わけですが、なかでも曹植は当時、最大の詩人と言われていました。八斗の才(天下の八割の才能を占有)と言われ、疎まれた兄曹丕に七歩歩く間に詩を作れと嫌がらせを受けるも、それに見事応えるなど、キレキレの才能をみせつけます。贈答ニに収められている曹植のものは、自らを皇帝に押した忠臣たちを励ます詩が続くのですが、多くは曹丕に殺されていくという凄い大状況の中で書かれた詩。ギリシャ悲劇的というか。こうした曹植の『文選』贈答ニの一連の詩を核に、曹丕の詩も交えて、オペラとか書けそうだと思いました。マーラーの時代にドイツ語訳があれば『大地の歌』みたいな傑作を書いていたんじゃないか、とも。

『文選 詩篇 二』川合康三ほか訳注、岩波文庫

 二巻の途中、詠史から哀傷に移ってきて、中国史批判みたいな詩から隠遁願望みたいなのが多くなり、感情移入しやすくなった。左思の招隠(二)や「先を萬里の塗(みち)に争い 各おの百年の身を事とす」なんていう鮑照の詩は、分かりやすい(p.220)。《唐詩の先声》という評価がなんか分かるような気がする。名高い顔延之よりよほど鮑照の方が感情移入しやすい。『文選』に収録されている詩人の多くは政争に巻き込まれて処刑されたり、殺害されている。漢詩の詩人には官僚が多く、三国から南北朝という時代かもしれないが、それにしても多すぎ。

『文選 詩篇 一』川合康三ほか訳注、岩波文庫

 精興社での印刷時のみ使用可能な精興社書体は読む歓びも感じさせてくれます。梁の武帝は下級貴族の出で、深い学識と午前二時に起きて政務を行うという経世済民の責任感にあふれていたとのこと。『文選』は日本の文学や政治にも影響を与え、仏教の供物を果物とし、先祖崇拝に結びつけたのも武帝。あまりに大部なので出ないかなと思われたが、詩篇の全訳注が刊行開始されたのは喜ばしい限り。

『倭の五王』中公新書、河内春人

 中国の五胡十六国、朝鮮半島の三国鼎立時代と、連合王国であった倭との関係がダイナミックに描かれています。地理的に重要なのは楽浪郡(平壌)なのか、ということも改めて知りました。楽浪郡は前108年に衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝が設置、朝鮮支配の拠点でした。一時、公孫氏が支配下に置くも、魏が238年に楽浪・帯方郡を接収。卑弥呼も楽浪郡の南方にあった帯方郡を通じて通じたが、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼす、と。その後も朝鮮半島では高句麗と百済が激しく争い、高句麗は魏の後の東晋に入朝。420年に宋が建国されると、宋は高句麗、百済に進号。すると負けじと421年に倭王讃が宋に遣使。高句麗、百済は大将軍、倭は将軍号が与えるとともに、原初的な官僚組織を与えた、と。倭王讃が二度目に宋へ派遣した人物は司馬曹達。これは軍トップの司馬である曹達という意味。曹は一文字の名前だからおそらく中国系。高句麗、百済も楽浪郡が消滅した後、中国本土に帰れなかった現地の中国人を官僚として雇い、組織をつくっていった。日本列島には《朝鮮系の技術者が集団で渡来し集落を集落を形成したのに比べて、中国系知識人は小規模で列島内でも拠点を持つことができなかった可能性が高い》(p.71)。

『素顔の西郷隆盛』磯田道史、新潮新書

 経済重視の考え方は、西郷が斉彬に引き上げられる前に、先代の島津斉興は調所広郷を抜擢し、薩摩藩の財政を一気に改善したあたりから始まったのかな(この本には書いていませんが)。斉興と斉彬は反目する父子でしたが、その目指したところは富国による強兵だったわけで、薩長の藩閥が駆逐された後の陸軍によって、まるで今の北鮮のような「先軍」思想による軍事重視によって葬り去られるまで、明治維新後の基本的な方針だったようにも思えます。いろいろ面白かったのですが、ハッとしたのは、幕藩体制の殿様は国元の生活が嫌いで、江戸に住む方が楽しいし、財政難で百姓一揆も起きる地元を治めるのは面倒だった、という指摘。廃藩置県で天皇の朝臣となって《江戸東京に住んで生活が保障され、国を治めなくてもいいならその方が良いというのが、旧殿様たちの本音の気分》だった、と(p.205)。

『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏、中公新書

 ある年代までの哲学書を読む層では、ドイツ観念論がヒエラルヒーの最上段に置かれ、それこそ廣松渉さんではないけれど、ヘーゲルの論理学、法哲学などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」(『哲学者廣松渉の告白的回想録』p.125)というような経験をしていると思います。その点、イギリス経験論は、その分かりやすさ、対象の卑近さなどが神々しさを感じさせないためか、ドイツ観念論がより高等なものだ、みたいな雰囲気がさらに増していったのかな、と。本文でも、カントをわざとつまらなく取り上げたりして、ドイツ観念論中心の日本の哲学受容を相対化しているように感じました。

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版

 無産政党を含めたオポジションがなくなった時点で昭和陸軍の暴走を止める勢力がなくなってしまったということで、アジアで唯一といっていいほど長い複数政党による政党政治の意義を改めて見直す、みたいな論議が基層。ただし、様々な利益は政党によって代表されてきたものもの「公共の利益」だけは代表されてこなかった、と。それは前書きのような「日本の近代を考える」で引用されている《首尾一貫する考え方の格律に達することは最も困難である》(『判断力批判 上』カント、岩波文庫、p,231)と。戦前、マルクス主義に接近した部分ほど大政翼賛会に行ってしまったのは、ソ連による一党独裁を無産政党がモデルにしていたから、というあたりは膝を打つ。実は、右派の無産政党を束ねようとしていたのが吉野作造。戦後の片山内閣は首相、西尾以下吉野の影響下にあった人間だった、というのはなるほど、と。

『初期仏教』馬場紀寿、岩波新書

 パーリ語の仏典からの引用を中心に後世の諸教団(小乗、チベット)の解釈などは排除して解説、と原典主義を宣言しているのが潔い。インドは文字の成立が遅れ、最古の資料はアショーカ王の碑文。ブラーフミー文字はアケメネス朝ペルシャで使われていたアラム文字から派生した可能性が指摘されている、あたりは凄い。ユダヤ教の写本(旧約聖書)はヘブライ語で書かれているけど、ユダヤ教徒もそれを古典を読むような感じで読んでいて、ローマ時代の話し言葉はアラム語。ナザレのイエスもおそらくアラム語で語っていたと言われているので、本当に胸熱。仏教、ユダヤ教、キリスト教の基層はササン朝ペルシャだったりして。

『松竹と東宝』中川右介、光文社新書

 これまでの劇評は役者や演出家中心だったけど、普通の評論からは見えない演劇の世界の政治を描いてきた筆者が、ついにプロデューサーの立場から描いたのが本書。芝居はカネがかかるから客を呼ばなくては続けられない。江戸三座もゴーイングコンサーンに問題を抱えていた。個々の小屋では「大当り」「不入り」で不安定だった経営を地域独占にして役者のワガママを許さず、何が当たるかわからないので、出し物を常に提供して実入りをならしたのが松竹の兄弟。小林一三はさらにその先を行こうとした。
松竹兄弟と小林は、水物だった芝居にゴーイングコンサーンの考え方を入れ、不要な支出を押さえ(経費削減)、観客優先で考え(収入確保)、役者のワガママを許さなかった(労務対策)。学のない松竹兄弟は無意識にやったことだけど、小林は資本も持つ大経営者。後の勝負はついていた。対比列伝としても鮮やか。

『水底の女』チャンドラー、村上春樹訳、早川書房

 村上春樹さんによるチャンドラー長編小説の翻訳もこれが最後。第二次世界大戦中のカルフォルニアが舞台。ダムを防衛する州兵、合成ゴムが大量に生産される前ということもあって徴用されるゴムなど、戦時中ということがわかる部分もあるが、基本的にマーロウものの雰囲気は戦前、戦中、戦後を通じて変わらない。《医師というのはだいたいにおいて他人にはほとんど好奇心を抱かない人種であるからだ》(p.39)、《太陽は朝には年代物のシェリー酒のように軽くドライになり、真っ昼間には燃えさかる火炉のように熱くなり、黄昏時には怒った煉瓦となって沈んでいく》(p.343)などの人物、風景描写は相変わらず素晴らしい。

『鉄道貨物 再生、そして躍進』伊藤直彦、日本経済新聞出版社

 改めて驚くのは貨物会社が1000億円近い長期債務を背負わされたこと。国鉄末期には赤字の元凶とまで言われ、赤字必至とみられた貨物会社にしては、随分、ハードルの高い船出だったなと。長期債務を負わせられたのは、この本でも書いている通り、いずれ経営が立ちゆかなくなり、5年後ぐらいに本州3社を中心に再統合する構想があったことが遠因のひとつかな、と。本州3社は三島・貨物とは比べものにならないほどの優良資産を継承していたが、大都市に広大な土地を保有する貨物の資産もいずれ自分たちのものになると考えれば、多少はハードルを高く発足させた方が後々、早く回収できるし、自分たちの会社の長期債務も少なくてすむ、と。それを考えると、バブルとともに発足したことは天佑だったのかもしれない。

『近代日本150年 科学技術総力戦体制の破綻』山本義隆、岩波新書

 腰巻の「黒船から福島まで」が効いている。山本さんは反原発で、その理由として過酷事故の時にECCSが働くかどうか分からないなんて言ってるわけですが、ま、そうした部分は置いといて、まだ、駿台予備校で頑張っているんだな、と。偉いもんです。この本は東大全共闘時代からの「自己否定」を、日本の理系研究者に向けて問うた印象。その前提となっているのは、戦前の革新官僚によって道筋がつけられた国家総動員体制が、戦後は高度成長に向けられたという見立て。この見立ては現代史の研究成果の上に立っていると思うので、日本近現代史を技術史から補強する、という本になっているな、と。個人的に、映画『この世の片隅で』みたいな作品を原爆レクイエムとしてとらえる一般の日本人に「ああした映画をいつまでもありがたがっているのはいかがなものか」と書いたら猛烈なクレームつけられて辟易としたことがあるのですが、原爆に関しては《1945年に原子爆弾二発で大日本帝国は崩壊した》というのがクリアカットな見方なんだろうな、と改めて思いますね(p.v)。

『ナポレオン』杉本淑彦、岩波新書

 ナポレオンの父はコルシカ独立派から転向したことで貴族となったという経歴を持ち、そのことにナポレオンはコンプレックスを持っていたとか、応用数学が得意だから弾道計算の必要な砲兵科に進んだとか、なるほどな、と。ジョセフィーヌは英雄としてのナポレオンをアピールするために有名画家に肖像画を依頼するなどで内助の功を発揮するのですが、一番有名なダヴィッドの肖像画『グラン・サン・ベルナール峠を越えるナポレオン』のサン・ベルナールは、英語読みでは「セント・バーナード」なのかと知る。本当のアルプス越えはラバに乗っていたらしいんですが、ダヴィッドの肖像画では、急斜面を馬が後ろ脚で立ち、岩にはハンニバル、カール大帝と並んでボナパルトの名前を刻むなど「徹頭徹尾、格好良くナポレオンを描いている」、と(p.147)。また、イギリス経済に打撃を与えるために行った大陸封鎖は、かえってイギリスにアメリカとの交易を促して成長させてしまったとか。

『脳の意識 機械の意識』渡辺正峰、中公新書

 脳のどこにもブラックボックス(未知の仕組み)が隠されていないのに意識が宿ることはなるほど改めて衝撃的です。単に電気の流れ。だから機械の意識をテストする手法を示し、機械への意識の移植を見据えることができ、情報が意識を生むのだ、と。単なる電気の流れということでは、有名なリベットの自由意識の問題(行動の0.5秒前に実は意思されている)が、シナプスの発火量に原因があったということを知ったのが、この本で得た最大の知見です(p.146)。つまり、ある閾値に達して意思するには時間がかかるけど、その前にしばし行動が先んじる、と。

『棋士とAI』王銘琬、岩波新書

 一番驚いたのはアルファ碁が部分の攻防という概念を持たずに、常に全体を見ながら過去の棋譜や自己対戦から一番勝率が高いと思われる場所に打っていること。この驚きを囲碁を知らない方々にどう説明したらいいのか…。個々の局面での攻防などは考慮せず、人間の最強棋士が部分で頑張っても、真綿で首を締めるよう感じで圧倒していくという。アルファ碁が勝負を決める「地」の多さの予想(読み)で形勢を判断するのではなく、この局面は勝率n%である、と判断していること。局面の判断に、シミュレーションによる評価を加味して、勝率が一番近い手を選んで最後まで打つというんですが、実は人間の囲碁では確率は全く使われていなかったわけで。

『ギリシャ人の物語III 新しき力』塩野七生、新潮社

《書き続けてこれたのは、私の作品を買って読むことで、私が仕事をつづける環境を整えてくれた読者がいたから》という50年にわたる長編の歴史エッセイの執筆はこれで最後という塩野さんの挨拶に感動しました。副題の「新しき力」というのは、アレクサンドロスがペルシャからインダス河流域まで制服し、各地にアルキサンドリアと名付けた都市を建設、通貨も統一して(貨幣に横顔を彫らせたのは彼が最初とか)ギリシャ商人などが行き来することによって、ヘレニズムという新しい世界が現出したことをさすと思います。後にカエサルがブリタニアを征服しますが、大航海時代が来る前のヨーロッパ社会にとって、世界とはインドからイギリスまでのことを指していました。アレクサンドロスはそうした「世界」をつくりあげたことになります。

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