« 『磁力と重力の発見 1~3』 山本義隆 | Main | 『リスク・オン経済の衝撃』 »

October 16, 2018

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集

Modern_and_contemporary

『近代と現代の間』三谷太一郎対談集、東大出版、2018

 物故者2人を含む6人との対談で、古いものも多いが、全く色褪せていないことに驚く。無産政党を含めたオポジションがなくなった時点で昭和陸軍の暴走を止める勢力がなくなってしまったということで、アジアで唯一といっていいほど長い複数政党による政党政治の意義を改めて見直す、みたいな論議が基層をなしているんでしょうか。

 ただし、これまでも、様々な利益は政党によって代表されてきたものもの「公共の利益」だけは代表されてこなかった、と。それはカントの『判断力批判 上』で書かれている《首尾一貫する考え方の格律に達することは最も困難である》(岩波文庫、p,231)ということなんでしょうか。

 敗戦後、日本人が必ずしも十分に考えてこなかった脱植民地帝国化(ディコロナイゼーション)の問題が問われているという視点も大切だな、と。

 韓国で三・一独立運動(1919年)が起きた時、日本の当局者に非常な衝撃を与え、伊藤博文が併合までは反対していたということも改めて議論されたそうです。欧米とは違って、かつての先進国である朝鮮を植民地化するという違いがあった、と(p.18-)。

 その結果、寺内正毅の武断支配が見直され、原敬の文化統治に移り、朝鮮語新聞の東亜日報の発行も認められた、と(p.21)。原敬はサハリンも陸軍直轄から内務省の管轄に変えるなどシビリアンコントロールを追求した、と。三・一独立運動後は日の丸掲揚も強制されなくなり、台湾でも教育勅語による教育方針をうたった文言が削除された、と(p.23)。

 衆議院議員で初めて首相になったのも原敬(p.35)。

 明治十年代に自由民権運動というオポジションが出来たということは、日本の複数政党制成立の前提となった(p.39)が、満州事変(1931年)前後で空気が変わり、新聞の熱狂が始まり、大政翼賛会につながり、戦争を終結させる反戦論がなくなっていく、と(p.41)。

 張作霖爆殺事件では田中義一を辞任させ、海軍軍縮条約の批准に枢密院が反対すると、枢密院首すげ替えを決意した浜口雄幸を昭和天皇は支持するが、満州事変ではクーデターも起こりかねなかった(p.45)。

 河本、板垣、石原らの満州事変の動機は、権益維持ではなく体制への朝鮮で、反体制のモデルを提示すること(p.61)

 昭和天皇にとって最大のショックは、統帥権干犯となる朝鮮軍の独断越境問題。すでに天皇をもってしても、如何ともし難い状況になっていた、と(p.65)。

 そうした中、無産政党の社会大衆党は第三党になり、2.26事件の将校たちの危機感を煽った、と(p.68)。

 戦前、マルクス主義に接近した部分ほど大政翼賛会に行ってしまったのは、ソ連による一党独裁を無産政党がモデルにしていたから、というあたりは膝を打ちました。

 実は、右派の無産政党を束ねようとしていたのが吉野作造。戦後の片山内閣は首相、西尾以下吉野の影響下にあった人間だった、というのはなるほど、と。同時に、祖母からは「片山内閣ほど嫌いなのはなかった」みたいな話しを何回も聞かされたこともあって、今のリベラルの不人気ぶりも昔からかな、とか…。

 第二次大戦後、太平洋諸島に張り巡らされた沖縄も含む基地網があればソ連の対日侵攻は阻止できるとケナンは考え、日本本土には大規模な軍事力は不要と考えたというあたりも面白かった。同時に日本を輸出経済で再建し、原料は非ドル地域のアジアから調達することで地域の共産化も防止できると考えた、と(p.81-)。

 あと、日露講和成立直前の桂・タフト協定では、アメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮支配を相互に認めあい、その財政的裏付けとして東拓米貨社債が発行されたというのは知りませんでした。しかし満洲支配のため井上準之助らが求めた満鉄米貨社債は米国が認めず、つまり、それは米国は日本の満洲支配を認めなかったことになるが、日本側はその意図を十分に理解できといなかったのかも、と。

 歴史認識問題の日韓共同研究での《韓国の学者は基本的にナショナリズムなのです》《非常に残念なのは、韓国の社会では反日的ではないと生きていけない》《個人レベルでは理解できるとは言うのですが、社会に向かってはそう言えないのです》というあたりも、なるほどな、と。

 そういえば、自衛艦の旭日旗掲揚問題で、寡聞ながら韓国の学者さんの意見というのはあまり読んだことはない。本来ならば、ナショナリズムに酔う人たちに待ったをかける役割が期待されると思うのだけど。コーランを文献学的的に研究ではないイスラム学者と同じで、韓国の歴史学者は勇気がないのかな、と。

 自民党政権は歴史問題は国家間で解決済みという立場なので、日本側が何かサービスするということはないから、韓国内で植民地となってしまった歴史的経緯、なぜ防げなかったのかなどの問題、日本の社会政策が与えた影響などについて議論してもらうしかないんだろうなと暗澹たる気持ちに。

 以下は箇条書きで。

 挑戦使節使は江戸まで来るのは1764年で終わっている(p.12-)
 外債を抑えるということは、経済面でのナショナリズムの現れ(p.15)。

 山県有朋のロシアに対する危機感は対馬占領(1861)が原点になっているが、日清戦争まではロシアの南下政策はそれほど具体的なものではなかった(p.28-)。

 明治天皇が帝国憲法体制をつくるプロセスに関与し、憲法発布で明治維新をひと区切りとして、西郷隆盛の名誉も回復、伊勢神宮などに勅使を派遣し、伊藤博文にだけ勲一等を授けた(p.31)。大名の政治参加を求める公議輿論からスタートした長い明治維新というステート・ビルディングのフロセスの到着点が明治憲法だった(p.33)。
 
 連合国が昭和天皇の責任を追及した場合、髪をおろして仁和寺に入って退位、裕仁(ゆうにん)法皇と名乗る計画もあった(p.57)。
 
 日本占領は米国国務省の中国派のイニシアチブで運営された(p.62)。

《総論、ジェネラル・セオリーの哲学的部分から素人は影響を受けるわけで、それが重要なことだと思うのですけれど、そういうものに対する関心がなくなってきています》《プロフェッショナルのアマチュアに対する影響力は細分化した分野の研究では生じない》なんて言葉も印象に残っています。
【主要目次】
I 日本の近代を考える
1 明治150年―どんな時代だったのか(×御厨貴)
一 3.11まで続いた戦後70年の「富国」路線
二 政治過程における明治天皇/国民国家形成の任務
2 日本の近代をどう捉えるか(×松尾尊兊)
はじめに――なぜ近代史を問題にするか
一 植民地とは何だったか
二 明治憲法とオポジション
三 対外侵略と天皇制
四 可能性としてのデモクラシー

II 政治と経済の間で
1 戦争・戦後と学者(×脇村義太郎)
はじめに
一 石油と戦争
二 人との出会い
三 財閥解体
四 石橋内閣のこと
2 財政金融・政治・学問(×神田眞人)
一 国際金融と世界秩序、そして内政
二 権力と知識人――時代との向き合い方
三 学問と現実との相克

III 吉野作造と現代
1 吉野作造の学問的生涯(×岡義武)
一 吉野における啓蒙の意味
二 吉野の講義
三 吉野の研究指導
四 教官食堂の吉野
五 晩年の吉野
六 人間と学問
2 戦後民主主義は終わらない――吉野作造の遺産を引き継ぐために(×樋口陽一)
一 吉野作造についての思い出と「憲政の本義」
二 ポツダム宣言にみる「民主主義的傾向の復活・強化」
三 憲法へのコンセンサスと緊急事態条項
四 日本政治の不安定要因

|

« 『磁力と重力の発見 1~3』 山本義隆 | Main | 『リスク・オン経済の衝撃』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/67280434

Listed below are links to weblogs that reference 『近代と現代の間』三谷太一郎対談集:

« 『磁力と重力の発見 1~3』 山本義隆 | Main | 『リスク・オン経済の衝撃』 »