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August 29, 2018

『松竹と東宝』

Shochiku_toho

『松竹と東宝』中川右介、光文社新書

 これまでの劇評は役者や演出家中心だったけど、普通の劇評から見えない政治を描いてきた筆者が、ついにプロデューサーというか資本の立場から描いたのが本書。芝居はカネがかかるから客を呼ばなくては続けられない。江戸三座もゴーイングコンサーンに問題を抱えていた。個々の小屋では「大当り」「不入り」で不安定だった経営を地域独占にして役者のワガママを許さず、何が当たるかわからないので、出し物を常に提供して実入りをならしたのが松竹の兄弟。

 個々の小屋が独立して経営していると、手っ取り早く当てるためには人気役者の奪い合いになる。しかし地域独占で京都と大阪の小屋全てを傘下に収めれば役者の出演交渉は不要になる。やがて東京の歌舞伎座だけでなく全国の小屋も系列にして喜劇、文楽、新派も全部押さえた松竹兄弟は凄い。芝居小屋は役者が座主だったり、好き者の素人が乗り出してきたりして、プロの経営ではないから赤字に悩んでいた。そこに定時開幕、チップ不要など観客優先の松竹兄弟が現れ、赤字に悩んでいた芝居小屋の持ち主が我先にとばかりに松竹兄弟に小屋を売りまくり全国制覇するダイナミズム。小林一三はさらにその先を行こうとした。

 松次郎、竹次郎兄弟と小林一三は、水物だった芝居にゴーイングコンサーンの考え方を入れ、不要な支出を押さえ(経費削減)、観客優先で考え(収入確保)、役者のワガママを許さなかった(労務対策)。学のない松竹兄弟は無意識にやったことだけど、小林は資本も持つ大経営者。後の勝負はついていた。

 小林一三は鉄道経営に沿線開発、末端での娯楽施設と商業施設の建設という海外でも例のない「需要創造」をやってのけたが、経営不振に陥っていた東京電燈(後の東電)の再建でも電力需要を増やすために、後に昭和電工となる昭和肥料を設立している(p.282)。無から有を生む凄い経営者。

 いま日比谷にある東京宝塚劇場は東京電燈がNHKに売ろうとした土地。歌劇団としては浅草に建てるべきだったし、阪急としては東京に建てる必要もなかった。しかし小林は新しい「劇場街」をつくり、勤め人が仕事を終えて行きやすくした。複数の劇場を建てれば相乗効果で郊外の客も呼べると判断したという凄味。

 小林一三が文学青年だったのは知っていたが、慶應の学生時代、新聞にミステリーを連載するほどの腕前を持っていたとは(p.31)。裕福な小林一三に比べ松次郎と竹次郎の松竹兄弟は小学校から親の芝居小屋で働き、最初の旅興業で酷い目にあう。まさに対比列伝。

 小林一三の歌舞伎論も分かりやすすぎて痛快。歌舞伎に人気があるのは1)音楽を伴い2)唄いを伴い3)踊りがあり4)台詞も唄いもの的にメロディがあり5)動作と衣装、化粧が絵画的で6)題材が豊富で世界が広く7)全てが娯楽雰囲気にあること-の7点をあげており、見事に本質をつかまえている。

 宝塚も歌舞伎も子供の頃から見物していたのですが、宝塚に関してだけでも認識を新たにしたことはいっぱいあります。
・パラダイス劇場となった室内プールは傾斜がつけられており最初から冬場は興業を打つ構想だったこと(通説では小林一三が失敗を華麗に成功に逆転させた)
・1914年の宝塚第一回公演は「婚礼博覧会」の余興で「タダにしては面白い」という評価だった
・14-18年の64公演中、逸翁作は22作と1/3を超えるほどの熱中ぶり
・すぐに飽きられた歌劇団の救いの手は大阪毎日新聞とのチャリティーコラボ

 歌舞伎のこと知ってるようで知らなかった。
・息子を水難事故で失った大谷竹次郎は、一歳違いの児太郎を可愛がったが早世(その実子六世歌右衛門は長く歌舞伎の女帝に)
・兄の松次郎は鴈治郎と終生の同盟関係にあったこと(残念ながら映画初期に撮影した鴈治郎の舞踏は現像の失敗で残らず)
・松竹は東西の成駒屋(五世歌右衛門、初代鴈治郎)で持ったいたこと

 松竹はそれまで劇場に巣くってチップをせびっていた茶屋や案内役を廃し、役者には開幕時間を守らせるなど合理的な経営を進め、同時期に開業した帝劇は客席での禁煙を初めて実施とか、今では当たり前の劇場システムが確立されたのは、大正期だっかのかな。

 このほか、面白かったところを箇条書きで。

 小林一三先生が宝塚少女歌劇団のヒントとした三越少年音楽隊に、最年少の十歳で田谷力三がいたとは(p.128)。

 片岡仁左衛門が上方に居づらくなったのは、五世歌右衛門襲名問題で東京の福助に味方したから、というのも初めて読んだ。松嶋屋はこれで上方の役者連中から疎まれて東京に本拠地を移したらしい。孝夫さんあたりからかな、と思っていた自分が情けないw

 日本映画やハリウッドもダメになるときは一発勝負の大作で失敗した。映画でも松竹と東宝は、そんな一発勝負の大作を作ってないと思う。寅さん、マンガ祭りなどのシリーズで映画でも地道に稼ぐ感じ。ワガママを監督にも許さないから、競争率100倍の難関を通ってきた黒澤も干す。

 218頁からの小林一三先生の白井松次郎への公開書簡が面白かった。逸翁は長すぎる上演時間を短縮させ、安価に見せることが重要だとして、劇場の大型化と、それに伴う上演システムの変更を提案するが、松竹兄弟の会社は21世紀になっても長時間、役者を拘束し続けている。海老蔵がぶっ通しの上演に異を唱えて、1回は休みを入れているが、こうした反逆がどうなるか。

 松竹は映画製作にも乗り出すが、映画を完成させるまで社員や俳優に給料を払わねばならず、幕さえ開けば日銭が入る演劇とは違い収入にタイムラグがあって五世歌右衛門から撤退したらどうかと言われていたとは(p.215)。演劇部門は合名会社のままだったが、松竹キネマを株式会社にしたのは負債が膨れ上がっていたから(p.233)。

 小林一三先生が乞われて東京の電力会社再建に乗り出したのは、電力の鬼・松永安左エ門の東邦電力が殴り込みをかけてきたからだが、逸翁と松永は箕面有馬電気軌道が開業する際、大阪市議会に贈収賄まがいのことをして、共に逮捕されたという、臭い飯を食った仲だったとは(p.278)。

 最後の方でも長谷川一夫があんなに歌舞伎に出ていたとは知らなかった。初代鴈治郎の芸は名ばかり高く実際どういうものか分からないのだが、長谷川一夫に継承されたのかも、というあたりに膝を打つ。

 それにしても鴈治郎と長谷川一夫が両社にとっていかに大きなものだったか。しかし、松竹は鴈治郎に金銭的に報いることはせず、長谷川一夫もそうした理由で東宝に移るが顔を切られてしまう。宝塚起死回生の舞台となったベルばらの演出快諾は長谷川一夫が傷つけられても契約してくれた逸翁への恩義だったとは。

 小林一三先生が古川ロッパも後援していたとは知らなかった。都会的で新しいものには支援していたのかもしれない。
【い】いつも初舞台の気持ち
【ろ】論より稽古
【は】はね太鼓を聞いて帰る
などの「ロッパいろは歌留多」
 は現在でも宝塚音楽学校でも教えてるし、人材発掘とその活用策が凄い。

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