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May 10, 2018

『倭の五王』

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『倭の五王』中公新書、河内春人

中国の五胡十六国、朝鮮半島の三国鼎立時代と、連合王国であった倭との関係がダイナミックに描かれています。

 地理的に重要なのは楽浪郡なのか、ということも改めて知りました。

 楽浪郡(平壌)は前108年に衛氏朝鮮を滅ぼした漢王朝が設置、朝鮮支配の拠点でした。一時、公孫氏が支配下に置くも、魏が238年に楽浪・帯方郡を接収。卑弥呼も楽浪郡の南方にあった帯方郡を通じて通じたが、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼす、と。

 朝鮮半島では高句麗と百済が激しく争い、高句麗は魏の後の東晋に入朝。420年に宋が建国されると、宋は高句麗、百済に進号。すると負けじと421年に倭王讃が宋に遣使。高句麗、百済は大将軍、倭は将軍号が与えるとともに、原初的な官僚組織を与えた、と。

 こうした原初的な官僚組織は宋が高句麗、百済、倭を柵封し、外藩の国として承認され、将軍号を与えたがきっかけ。これは宋から各国に対して「幕府」を開いてもいいよ、というお墨付きを与えたということ。大将軍の高句麗、百済の場合、文官の長の長吏、軍は長である司馬のふたつが与えられたが、ただの将軍の倭は司馬のみ。

 倭王讃が二度目に宋へ派遣した人物は司馬曹達。これは軍トップの司馬である曹達という意味。曹は一文字の名前だからおそらく中国系。高句麗、百済も楽浪郡が消滅した後、中国本土に帰れなかった現地の中国人を官僚として雇い、組織をつくっていった。

 日本列島には《朝鮮系の技術者が集団で渡来し集落を集落を形成したのに比べて、中国系知識人は小規模で列島内でも拠点を持つことができなかった可能性が高い》(p.71)。

 そうした中、讃の後の倭王珍は連合王国の長として、権威付けのため大将軍の称号を求める、と。

 この本は五世紀の倭国について、宋書などを元に讃、珍、済、興、武の時代の権力構造まで推察する、本当に面白い本です。浅学非才なので日本書記の記述などをみ直しながら読んでいるんですが、履中天皇から清寧天皇までの凄絶な継承争いが反映されていそう。

 履中天皇は仁徳天皇死去後、住吉仲皇子の叛乱を同母弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じて誅殺させて即位。在位6年で死去、反正天皇が即位したが5年で死去。豪族が允恭天皇を推したので、大草香皇子との間で問題は生じなかったが、42年後に大混乱。

 皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の疑いで豪族が従わず、同母弟の穴穂皇子が安康天皇に即位。後に木梨軽皇子を誅殺したが、今度は木梨軽皇子の子、眉輪王によって暗殺される。ここから、雄略天皇となる大泊瀬皇子は允恭天皇の子である白彦・黒彦と眉輪王を焼殺。

 大泊瀬皇子は従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)を狩りにかこつけて射殺、弟の御馬皇子も処刑するなど政敵を一掃して即位。これが讃、珍、済、興、武。しかし、星川皇子は死後に反乱を起こして、大伴室屋によって焼殺。讃、珍、済、興、武の後に清寧天皇が即位。

 讃=履中、珍=反正、済=允恭として《珍の近親の係累が珍の次の倭国王として後を継がなかったことは事実》であり、宋から済が国王として認めもらうには、前任の珍から将軍号を得た人物だった必要がある。倭王珍は連合王国の長として、自身の他に倭隋にも将軍号を求め、与えられた(p.96-)。

 倭珍は讃以来の安東将軍で倭隋は平西将軍に号されたが、この時期、畿内には古市と百舌鳥に古墳群があり、大王を出すことのできる王族集団は2つあった。こう考えると《倭隋と倭済は同じ集団と捉えた方が理解しやすい》《済は珍と勢力を二分した倭隋の近親で》《珍から王位を移行させた可能性を見ておきたい》としています。

 済は433年に続いて451年に宋へ使者を派遣。444年に新羅へ侵攻した際に功があった23人に官爵を仮授したが、その正式任命を求めたが、これは王としての地位を固めつつあったことになる(p.103)、と。

 朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』でも、日本書紀でも倭国は新羅に侵攻した。日本書紀では加耶国に矛先を変えたが、これは豪族たちがそれぞれ朝鮮半島との関係を構築していたことを示す。対高句麗では統一的に行動したが、新羅や加羅との関係では意思統一は困難だった可能性がある、と(p.92)。

 つまり連合王国である倭国には大王を出せる2つの勢力があったほか、朝鮮半島と独自の関係を持っており、《新羅が倭国軍の中の関係の深い豪族に働きかけて自国への攻撃を阻害したことは十分にある得る》(p.92)、と。
  三章は「倭王武の目指したもの」

 山東半島を奪取した北魏の膨張と宋の劣勢という中国メインランドの情勢が朝鮮半島、日本列島に影響を与える中、朝鮮半島では百済が高句麗に事実上、滅ぼされます。こうした事態に、倭の五王の最後に名を連ねる倭王武は宋に遣いを出し、高句麗を非難するとともに、高句麗と同格の大将軍号を求めます。

 その際の上表文は中国古典を踏まえた上色の出来映えで、楽浪郡が消滅した後の中国人が倭で外交文書の作成などの官僚として活躍していたことがうかがえます。

 また、考古学的な立場から、最近では古墳時代に列島では大きな戦争は確認できないとされているというのには驚きました(防御集落、武器、殺傷人骨、戦士・戦争場面の造形などがない p.156)。高句麗との対決は衰えた百済に変わって倭国が盟主となって戦わざるを得ない状況だったことは事実にせよ、上表文の「東征」「西服」も中国古典からとった文学的なものだったともいえる、と(p.161)。

  『倭の五王』は初期の倭国は巨大古墳を造営できる2つの有力グループから大王が選ばれたという説明がなされますが、四章「倭の五王とは誰か」では、その次の段階が語られます。よく知られているように、その後の遠縁の継体天皇の即位には、五王たちと始祖を同じくするいう認識があったからではないかとして、その始祖こそホムタワケ(応神)であり、七支刀と七子鏡が贈られてきたのも応神の事績であったと考えることが合理的だ、と。こうした《百済との外交開始こそがホムタワケを始祖の地位に押し上げたと考えることもできる》と(p.196-)。これは記紀で応神の子である仁徳から傍系継承が語られていることにも対応します。

 これをこれまでの議論にあてはめると、五王のうち始祖王ホムタワケから讃・珍に連なる地位継承次第を保有していたが讃グループから、済グループの歴代リーダーが王位継承次第に組み込まれていった、とものと考える、と(p.202)。
 
 そして、倭国内の有力者たちに称号を与えてもらうという機能を「倭の五王」たちは重要だと考えていたんですが、倭国内の安定とともに、武として有力視されている雄略天皇は南朝への遣使だけでなく、朝鮮半島との交渉も低下させていきます。

 五世紀末に雄略が死去すると、混乱の後、ホムタワケ五世の子孫と称する継体大王が507年に即位しますが、五世紀に倭姓を名乗っていた王族集団の出身と認めてもいいだろう、と(p.223)。しかし、継体大王を受けいれない勢力もあり、そのためヤマト入りするのは即位して20年後になったのではないか、と。継体は自身の継承が不安定であると感じ、大兄という制度を創出、それまでの複数の王統から最有力者が即位する方式から、近親者が引き継ぐ方式に変え、世襲化が強まった、と(p.224)。

 こうした変更を日本書紀では武烈天皇の暴虐がもたらしたものとしているが、百舌鳥と古市の古墳群を造営した王族グループ(讃・珍グループと済グループ)は婚姻によって統合されていったのではないかとしています(p.225)。

 《五王は倭姓を名乗る王権が無姓の人々を治める体制を作り上げた。それに対して六世紀の王権は大王が姓を持たず、豪族以下民衆までの人々に姓を授けて、その上に君臨するという体制への一大変革を実現した》《それと軌を一にするのが継体大王の即位と世襲する王権の成立》だった、というのが結語(p.228)。

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