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January 20, 2018

『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)』

China_history_5
『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝)』 川本芳昭、講談社

 今年は講談社の『中国の歴史 全12巻』のシリーズを読もうと思います。10年ぐらい前に完結したシリーズなんですが、現役時代は時間がなくて読めませんでした。

 最初に『中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝) 中国の歴史5』川本芳昭から読み始めたのは、趣味で中国の南北朝を研究していた雰囲気のあるお偉いさんが、飲んでいる時に「南北朝には汲めども尽きせぬ魅力がある」と話してくれたことを覚えていたから。

 読み終えて、その面白さが実感できたのは、この時代はタイトルにもなっている「中華の崩壊と拡大」といいますか華夷秩序の変質と中華思想の浸透が日本、朝鮮半島を含めて起こっていたのが分かったから。

 ちなみに三国志の時代は邪馬台国に重なりますが、魏晋南北朝の時代を通じて日本列島の政権は中国の華夷秩序の中に組み込まれていきます。

建武中元2年(57年) 後漢の光武帝が奴国からの朝賀使へ冊封の印として金印を賜う
西暦107年 後漢に帥升が朝貢
中国は後漢崩壊の混乱。日本列島も大乱に。中国では魏晋によって収拾。日本列島と中国の交流を遮断していた遼東半島の公孫度が魏によって滅ぼされ交渉再開
西暦239年 魏の曹叡帝が邪馬台国の卑弥呼に対して「倭王」の封号を与える
正始8年(247年) 邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、宗主国の魏から張政が派遣され攻撃中止を命令
266年以降 中国王朝への使節派遣は413年まで途絶
西晋末に起こった八王の乱、永嘉の乱などにより混乱、五胡十六国時代に
413年 南燕が410年に滅び倭国が東晋に使節派遣再開。同じ年に高句麗も使節派遣再開。倭の五王は山東半島まで勢力の伸びた東晋に高句麗の牽制を期待。
420年 東晋が滅亡
421年 倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に遣使

 ワカタケル(雄略天皇)に同定される武は達意の文章で「あなたの臣下としての私は身分は低く愚かですが(臣雖下劣)」と述べていますが、稲荷山鉄剣銘文では「治天下大王獲加多支鹵(ワカタケル)」と書いています。これは、中華思想が変質を伴いながら徐々に日本列島にも浸透、小さいながらも中華を支配しているという考え方をもらたした過程を表している、と(p.300)。

 また、倭の五王は高句麗や百済が大将軍の称号を得ていたのに対抗しようとして、安東大将軍の名称を求め、ワカタケルの時代になって、ようやく得ることができた、というのもなるほどな、と(p.304)。

 年表を見て、勝手に想像をたくましくしてみると、後漢が滅ぶキッカケとなった黄巾の乱が発生した184年頃は、全世界的に進んだ紀元後百年から気候の寒冷化によって、ローマでは疫病、中国では飢饉、日本列島でも倭国の大乱、朝鮮半島でも高句麗、新羅、百済が三つ巴の争いを続ける不安定な状況が生まれていることがわかります(ついでに書き加えますと、インドではナーガルジュナが現れて大乗仏教の中心的思想である「中論」を著しています)。

 中国史、東アジア史に引きつけますと、後漢が滅亡し、三国時代でも決着がつかなかった漢民族の中華思想は、実態として北方民族によって打ち砕かれ、夷狄をも中原の覇者となれるように変質していきます。そして、その中華思想は朝鮮半島、日本列島にも及び、周辺国でもこじんまりとした中華思想による支配が生まれるようになる。それが「中華の崩壊と拡大」なんだ、という感じ。

 三国~南北朝時代は北方の夷狄だけでなく、今のベトナムあたりの南方の諸民族も《戸籍につけられて税を納めさせられる良民としての身分を持つ新たな「漢民族」となった》といいます(p.186)。しかも、南方では貨幣経済が発達し、銅が不足するほどだった、と。日本はヤマト王権がやっと成立したぐらいの時代なのに中国は凄いと思うと同時に、今でも続く中国の南北問題の原因は、この時代からつくられるんだな、と。つまり、北京を中心とした政治、上海などを中心とした経済の分離。

 また、揚子江以南は漢民族の文化の揺り籠ともなります。梁の武帝は下級貴族の出で、深い学識と午前二時に起きて政務を行うという経世済民の責任感にあふれていたそうで。彼の編んだ『文選』は日本の文学や政治にも影響を与えています(十七条憲法も文選から引用されています)。

 朱子学の創始者、朱熹は福建省の生まれです(p.192)。福建の名は福州の「福」と、北西部の建州の「建」から成っており、その名称は福建の地における漢民族拡大の歴史過程を保存しています。朱熹は南宋時代の福建に生まれましたが、その福建は都が杭州臨安府に移されたこともあり発展していきます。福建は山がちだった地ですが、そうした地も朱熹を産む先進性を示すようになっていった、と。

 この時代まで、仏教は漢民族の社会に受けいれられておらず、かえって北方の夷狄の王朝が「外国の宗教だから、夷狄の我々が信仰しやすい」ということで広まっていきます。そして、南朝でも貴族出身である武帝が信仰(というより仏教狂い)したことで、公認化されていきます。

 仏教狂いになる前の武帝の時代は「南朝四百八十寺 多少の樓臺煙雨の中」と杜牧が歌う隆盛を誇っていました。先祖に対する祠祭の供物(血食)を、仏教における不殺生戒に反するとして果物などに変えるぐらいでしたらよかったのですが、やがて国家儀礼を仏教に則って行なおうとするだけでなく、仁政を単なる性善説で行なおうとするなど姿勢が弛緩。やがては裏切りにあって憤死します。

 日本の仏教は中国の仏教を輸入したもので、オリジナルのものではありません。それは中国の先祖崇拝と結びつけられ、儒教思想にも適合されて土着したんだな、ということが改めてよくわかります。実際、空海さえも、梵字が読めたわけではなさそうです。いわんや鎌倉仏教などの開祖をや、という感じでしょうが、あまり深くはしりません。

 ちなみに、先祖に対する祠祭の供物を果物とし、先祖崇拝に結びつけたのも武帝です(p.152-)。

 北の方に目を向けると、倭の五王が南宋に遣いを出した北に北魏があったわけですが、北魏の孝文帝はヤマト王朝が採用した班田収授制に影響を与えた均田制を創始したとか(p.102)。この北魏は漢族からすれば夷狄による建国なんですけど、どっちにしても中国からの影響は絶大すぎです。

 また、鮮卑が天を祀る「祀天」は匈奴の「龍会」、モンゴルのクリルタイにつながる儀式で、日本では大嘗祭にも関連するとか(p.218)。

 このほか、三国時代を終息させて中国を再統一に導いた西晋の司馬炎の息子、司馬衷は無能で、戦乱で穀物がなく民が飢えていると聞いて「なぜ肉入り粥を食べないのか」と言ったとか。「東洋のマリー・アントワネットかよ」と笑いました。バカな王族というのは洋の東西を問わずにいるな、とwつか、一応、こっちは皇帝なのにとか(p.54)。

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