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December 06, 2017

『ハプスブルク帝国』

Habsburg

『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書

 世界史を国民国家への到達プロセスとして描く近代史学からハプスブルク統治は低い評価しか与えられなかったんですが、ヘーゲル以来のそうした史観が衰えた今《多様性・複合性・流動性》を通して諸国家のありようを考えるスタンスから見直しが始まっているのかな、ということで読んだのが『ハプスブルク帝国』(p.4)。

 こうした近現代史観の反省から《帝国を過度なナショナリズムを抑え、多様な国・民族を包含した「連邦国家」の先進事例とみる研究が盛んになった》というんですが、従来、ハプスブルクはアナクロニズムの最たるものというか、知り合いの美術の先生が口を極めて貶すように建築の趣味なども良くありません。ディズニーが密輸したシンデレラ城のような偽ハプスブルク調は確かにオリジナリティのなさ、貴族趣味の大衆迎合を表している感じ。

 スナイダー『赤い大公』『ブラッドランド』などを読むと、そうした貴族趣味、権威主義の下ではあるものの、ナショナリズムに目覚めた多民族をなだめすかしながら統治し、域内とヨーロッパを戦禍から守ってきたハプスブルクの姿が浮かびあがってきます。しかし、第一次大戦でハプスブルクが倒れてしまい、そこからユダヤ人大虐殺と東欧の大量餓死が発生、東欧には自由がなくなった、と。

 例えば、ハプスブルクのブタペストは人工的なモデルとしてつくられたからユダヤ人が同化できたとも言われています。逆に、国民国家成立以前のような農村の孤島として存在していたユダヤ人村では、周辺の風習に同化しなかったので、主の祈りを唱えられない、乗馬が出来ないなどから簡単に特定されてしまい、迫害された、と。

 にしても、1912年のウィーンフィルによるマーラー9番の初演は、ブルーノ・ワルターが指揮、コンサート・マスターがマーラーの妹を娶ったロゼというユダヤ色の濃さに驚きます。しかし、ハプスブルクのウィーンが狂気のナショナリズムから庇護しようとしたユダヤ人たちは、オーストリア併合で散り、ロゼの娘はアウシュビッツで死ぬことになります。

 以下、箇条書きで。

 ハプスブルグを隆盛に導いたルドルフ1世の没後、スイス永久同盟とハプスブルクとの関係は悪化、ゼンパハの会戦(1386)で矛槍を装備した軽装歩兵が地の利を生かして、ハプスブルクの封建重装騎士軍に勝利したそうです(p.53)。乗馬した重装兵をこうした軽装の槍兵が圧倒していくというのは、観応の擾乱以降、在地領主が馬に乗らない槍部隊を活用した日本史とパラレルなんじゃないかと思いました。

 ちなみに、ハプスブルク城は1020-30年にチューリヒ近郊に築かれ、ルドルフ1世がドイツ国王=神聖ローマ皇帝に選出されたのは1273年。ルドルフ1世は各地を移動する「巡幸王権」スタイルで利害を調整。《文武両道に秀でながらも謙虚さと敬虔さを失わず、気さくで機知にも富んでいた》といいます。また、ルードルフ一世が国王に選出されたのは、「諸侯が勢力拡大を図る都合から強力な王の登場を望まず、弱小な「貧乏伯」を良しとしたためとされてきた」(p.22)が、今日では、適当な国王候補が見当たらない中、フランス王やチェコ王に抗しえる人材と見込まれたことや、当時ヨーロッパ最大の政治勢力であったシュタウフェン朝から支持されていたことが根拠となっている、とのこと。

 ルドルフ1世の諸民族と王国の利害を調整して帝国の安寧をはかりながらも、ローマでの戴冠式は法王の相次ぐ交代でかなわなかったという姿は、ミュージカル『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフの姿に重なります。こうしたマジメな始祖の心意気は受け継がれる時もあるし、スペイン・ハプスブルグ家のように広げすぎて破産する場合もあるな、と。

 スペインはカール、フェリペ以来、オランダ支配継続のためフランスにちょっかいを出し続けるんですが、プルボン家はスペインだけでなくオーストリアのハプスブルクからも嫁を貰い続けるなど王族の婚姻戦略は闇が深いな、と。オートリア・ハプスブルク家もナポレオンに王女を差し出すし。

 にしても、30年戦争をハプスブルクがまだ再カトリック化を目指して戦っている同じ頃、徳川幕府は宗教的には一向宗、キリシタンの過激派をほぼ殲滅し、豊臣家も根絶やしにしたというのは日本はすごい現世主義だな、とも思いました。

 今日の研究では「絶対主義」という用語をあまり用いなくなっているとのこと。三十年戦争以降の近世後期でも、ヨーロッパ諸国は絶対主義ではなく複合(君主制)国家だった、と。例えばプロイセンでも王権は諸身分の了解の下、中央の諸制度に地域の伝統的諸制度を「接ぎ木」する形で支配を浸透させていった、と(p.168-)。

 近世ヨーロッパ諸国における「強国化」の成否は、政府と国内諸勢力との合意形成に大きく依存していた、と。君主を中心としつつも複数の権力(とりわけ貴族)か国政に参加する「穏和」な混合君主制を最良とする見方が一般で、絶対王政、専制の擁護は傍流だつた、と。

 三十年戦争で没収したプロテスタントの領地は、戦費調達のため、ハプスブルク家が貴族たちに売却したが、シュバルツエンベルグ家はこれを足がかりに帝国諸侯となったという記述にはうなりました。ミュージカル『エリザベート』を見てシュバルツエンベルグ公爵が出てきたら「成り上がり者」と思うことにしようかな、と(p,171)。

 中興の祖となったマリア・テレジア軍事勲章は、勇敢さのみが授与の案件とされ、身分、宗教、民族のいずれも問わないと明文化されたそうです(p.176)。死は平等という原則が確認されたから、どんな開発途上国でも、民主化は軍隊が模範となるんだな、と。

 マリア・テレジアは他国の外交官から、美しくはないと書かれました。だから、末娘のマリー・アントワネットにも、さほど美しくはなかったのかもしれません。だからマリア・テレジアはアントワネットに、王妃として身を入れろと手紙を書き、息子、ヨーゼフ二世には、強権的な態度では一人も友人を見つけられないと言っていたのかも(p.230-)。

 ヨーゼフ二世が「良き意図を持ちながら、何事もなさなかった」まま1790年に没した後、開明的な弟、レオポルト二世が即位。内政を立て直したが、アントワネットの兄としてフランス国王夫妻を心配するあまり、外交的にはプロイセンと共同でピルニッツ宣言を発して失敗、92年に没となったのはハプスブルグ家にとってアンラッキーだったな、と。

 カール六世の娘であったマリア・テレジアは君主となったが、夫フランツ1世は皇帝となったものの、ハプスブルクの家領の継承者ではなく、実業に精を出して、ゾンバルトから「真の天才実業家」と評されていたというのには驚きます(p.243)。

 フランツ・ヨーゼフ1世は革命で損なわれた権威回復を目指し、フィッシュホーフ曰く「立っている軍隊すなわち兵士、座っている軍隊すなわち官僚、跪く軍隊すなわち聖職者、隠密の軍隊すなわち密告者」によって支えられていたというんですが、これはエリザベートの中の台詞のオリジナルだった(p.286)。

 文化面では色々ありますが、バルトークはパリのピアノコンクールでヴィルヘルム・バックハウスに次いで2位になったことがあったのか…。つか、バックハウスはそんな時代から活躍していたのか…子供の頃、まだバックハウスは神格化されていて、古臭い演奏のどこが凄いのかわからなかった(p.350)。

 にしても、日本人はハプスブルク帝国生まれの音楽家が大好きだな…。サラエボ事件で殺されたフランツ・フェルディナントも来日してるし、お互い割と軽蔑してるのに、なんか親近感あったというか。カラヤンもフランツ・フェルディナントの遺体を乗せた戦艦をアドリア海から眺めたという(p.351)。

 スターリンとヒトラーはシェーンブルン宮殿の庭園を愛して散歩したというのも驚きました。二人のちょっとダサい趣味はハプスブルク文化好きが共通項かも。トロツキーはカフェ「ツェントラール」の常連で展覧会やアートギャラリー巡りをして、チトーは労働運動で帝国内を転々、としていたとか(p.356)。

 ユーゴスラヴィア内戦における凄絶な民族浄化は、ナショナリズムの問題を浮き彫りにし、「ハプスブルク君主国は、国民国家的プランが必ずしも最善の解決法ではないことを我々に思い出させてくれる」クリストファー・クラークというのはいいまとめかもしれません(p.406)。

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