« 『ウォークス』 | Main | iPhone XとApple Watch 2 »

November 29, 2017

『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』

Kannou_no_joran

『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』亀田俊和、中公新書

 最近の室町ブームは、若い研究者たちが資料を佐藤進、林屋辰三郎などが追いかけられかったような膨大な読み込んで、新たな視点から歴史を描いてくれているからだと思います。

 学生の頃から室町時代は資料が少ないので確定的なことが言えない、と言われていましたが、僧侶などが大量に残した日記や、地方に眠る資料などをから、自領安堵と恩賞目当てで離合集散する複雑な武士たちの動きが見てきた感じ。それは司馬遼的なワンパターン的な武士像ではなく、日本が世界に誇る、元はといえば農民が自らの権利を守るために台頭し、同時に統治能力もたかめていったというボトムアップ型の権力構造を実際の動きから垣間見せてくれる感じがします。

 観応の擾乱は、以下のようにダイナミックな攻守転換で推移します。

 《四條畷の戦いで難敵楠木正成に勝利して室町幕府の覇権確立に絶大な貢献を果たした(足利尊氏の)執事高師直が、わずか一年半後に執事を罷免されて失脚する。だがその直後に数万騎の軍勢を率いて主君の将軍足利尊氏邸を包囲し(御所巻)、逆に政敵の三条殿足利直義(尊氏の弟)を引退に追い込む。
 ところが直義は南朝と手を結ぶと直義に寝返る武将が続出し、尊氏軍は敗北して高一族は誅殺される。
 だがそのわずか五ヵ月後には何もしていないのに直義が失脚して北陸から関東へ没落し、今度は直義に造反して尊氏に帰参する武将が相次いで、尊氏が勝利する。そして、その後も南朝(主力は旧直義派)との激戦がしばらくはほぼ毎年繰り返されるのである。
 短期間で形成が極端に変動し、地滑り的な離合集散が続く印象である。このような戦乱は、日本史上でも類を見ないのではないか》(p.215-)

 恩賞を通じて師直が急進的に進めようとした在地領主優先主義を、直義が何故か待ったをかけて歴史の動きを止めてしまった、みたいな感じも受けますが、師直は領地をそれほど重視しておらず、綺麗な歴史的な解釈といいますか、観応の擾乱が幕藩体制で完成する荘園制解体にどう繋がったということを説明するのは難しいかもしれません。

 また、恩賞充行結果が出るのに時間がかかったことも、それが観応の擾乱の根本的な原因になったとという考えもあるようですが、寺社と公家の領地を守ろうとした足利直義が消え、所領や在地に執着しなかった高師直も消えた事もある意味象徴的。

 観応の擾乱後に、二人の代わりに表舞台に出てくるのが、在地を基盤にした細川、山名(どちらも応仁の乱の主役)だというのは、これからの荘園制社会の変化が読み取れるかもしれません。

 さらに、享徳の乱で鄙な関東から、こうした動きが拡大されるのかな、と。

 さらに、『ハプスブルク帝国』岩崎周一、講談社現代新書を読むと、ルドルフ1世の没後、スイス永久同盟とハプスブルクとの関係は悪化、ゼンパハの会戦(1386)で矛槍を装備した軽装歩兵が地の利を生かして、ハプスブルクの封建重装騎士軍に勝利したという記述があるのですが(p.53)、これは観応の擾乱以降、在地領主が馬に乗らない槍部隊を活用した日本史とパラレルなのかな?

 また、守護大名は結構、足利将軍家からの命令で変わっていることもわかります。名誉職みたいな感じといますか、やはり、在地領主や戦国大名に取って代わられるわな、と。しかも、在京の守護大名だったわけですし。

 とにかく、この後、細川顕氏と山名時氏が重要なプレーヤーになるんですが、それにしても、山名はこの時から有力なのに、なんで管領になれなかったんだろ、とも感じます。まあ、その秩序感覚が守護大名の限界だったのかもしれませんが(p.34)。

 このほか、鎌倉期においては、下文や下知状は拝領者の自助努力によって実現するのが原則で(守護に強制執行を命じる機能はない)、沙汰付を命じるタイプの施行状は、基本的に武家政権では室町幕府になって初めて登場したというのは知りませんでした。執事執行権は鎌倉期と最も違っており、それを担当したのは高師直、と(p.21)。

 Eテレでも『観応の擾乱』が取り上げられましたが、中野サイコパス信子による「わかりやすさvsただしさは、必ずわかりやすさが勝つ」という話しはわかりやすかった。彼女は「インテリは秩序感覚を重視した直義を支持したろうが、バカな武士は『尊氏マジ神』で支持した」とも語っていて、わかりやいかな、と。

 また、足利家執事という立場のおかげで、師直自身が兵馬を養わなくても大軍を指揮することが出来てしまっていたのが、他の武士たちと価値観の相違を産み出した、ってのは頷ける話。

 それにしても、観応の擾乱は、今年の衆議院選挙に似ていました。民進右派の連中が結局は細野と一緒になって、今度は民進左派と戦い、かつてのボス前原は無所属になるったあたりの、もう訳がわからん状況から、希望の党が地滑り的に敗北。あの無節操な入り乱れ方はまさに観応の擾乱を目の当たりにしている気分でした。観応の擾乱、享徳の乱、応仁の乱で一番大切なことは、二世三世の守護大名が淘汰され、地元に根づいた地侍が世界に誇る戦国大名として自らを昇華させていったことだと思うし、そうした契機に、今回の観応の擾乱ならぬ「平成の擾乱」がなってほしいんと思います。ただ、終わった後は、まだ風まかせの空中戦やっているようで、丸山眞男が高く評価した朝倉は誰だろと思うことがあります。

 南北朝はいったん、正平の一統で和解しますが、それが尊氏の長年の目標と限りなく近いものだった、というのは、なるほどな、と。元々、尊氏は後醍醐天皇に叛意はなかったのに直義に引っ張られて挙兵したわけで、そもそも尊氏には北朝に強い思い入れなど抱いておらず、建武新政時代に持明院党の光厳天皇は敵だった、と(p.166)。

 尊氏は複雑というか、最終的にやる気になるというのは、40代になってからも人は変われる、ということまで教えられるとは!御家人同士の血で血を洗う鎌倉時代と違って、どっか守りに入った感じもある武士の姿は、現代のサラリーマンにも通じるというか、また、室町時代が身近になりました。

 後期の足利幕府の将軍たちは、実権を失って有力大名を頼って転々とするけど、尊氏、直義、義詮も戦いに敗れると逃げまくっているので、あまり、そうしたことは恥と考えてなかったというか、尊氏は敗走した後、なんか盛り返して勝つみたいなことをやっていたから、作風と考えてたりして。

 にしても、尊氏、直義の二頭政治論by佐藤進一を最初に批判したのは、『応仁の乱』の呉座勇一なのか(p.9)。


|

« 『ウォークス』 | Main | iPhone XとApple Watch 2 »

「書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/66100434

Listed below are links to weblogs that reference 『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』:

« 『ウォークス』 | Main | iPhone XとApple Watch 2 »