『丸山眞男講義録2』#7
『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会
征韓論で内乱を収束させた明治政府は国会開設(1890年11月に第1回議会)、日清戦争(1894年7月~1895年3月)を経て、小日本主義は「世界の中の日本」を意識する大日本主義となり、日露戦争(1904年2月~1905年9月)にも勝利します。
しかし、日露戦争は国家予算の7倍にも達する戦費をかけながら賠償が取れず、財政的には負け戦でした。
しかし、明治政府はこのことを国民に説明できませんでした。このため、本来ならば日露戦争後に行うべきであった国内改革を行えずに農村部が疲弊。その結果、台頭してきた軍部の誤った政治・経済運営で破綻へと向かう、というのが現代におけるこの時代に対する認識なのではないかと思いますが、丸山眞男のナショナリズムを切り口とした分析はどうなっているでしょうか。
[附論 その後の歴史的概観]
日露戦争後、資本主義の発展と国家的栄光の発揚は《ナショナリズムのイズムとしての擬集性を解きほぐして、これをいわば気体化せしめた。国家主義はいわば日本帝国の精神的支柱として確立されたので、思想ないし運動としてのナショナリズムは明治四十年以後むしろ退化していった》。
国会開設後に、地主層の反動化によって自由民権論者は単なる国権論者に転化していき、玄洋社も藩閥政府の吏党となり、政府に暴力を提供するようになります。
こうした転換は日清戦争がキッカケ。
1)日清戦争の償金は金本位制の基礎となり、資本主義の発展をもたらしたこと
2)日本にとって理想国家の雛形を提供してきたアメリカが帝国主義に転じたこと
3)三国干渉によって民権論者も帝国主義者へと変貌されられたこと
などがその要因。
特にアメリカは帝国主義列強としては立ち後れていたので、門戸開放と領土保全を原則として、日本をロシアに対抗させてきたが、中国をもり立てて日本帝国主義を阻止する方向に転じていったことは大きかった、と。こうしたことで日本のセキュリティが動揺しはじめ、再びナショナリズムの擬集現象をもたらしします。
悪いことは、悪い時期に起こるものですね。
[附論1 草稿断簡]
ナポレオンによって神聖ローマ帝国は解体されてライン同盟、プロイセン王国、オーストリア帝国に3分割されます。ライン左岸はフランスに組み込まれ、ライン同盟はフランスの衛星国なり、オーストリア帝国の皇帝フランツ1世の娘マリー・ルイーズはナポレオンと結婚して同盟国となりました。
こうした中、反フランス勢力はドイツ解放をプロイセン王国に託し、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を反フランスの中心地となりつつあったベルリンで連続講義という形で行いました。
この時のドイツを敗戦直後に日本に仮託して、「国家の運命を自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」の確立を求め、ナショナルなものの積極的意義を説く未完成、未発表の断簡がこれ。
《われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかしあてがはれた自由、強制された自由とは本質的な矛盾―contraction in adjecto―である》という書きだしは好きです。
[附論1 雑誌「日本人」及び新聞「日本」グループ]
《明治20年初頭の日本主義の中核をなす「国民」観念は、一方では外国に対する国民的独立を意味すると同時に、他方では、国内における政治・経済・文化の国民化、即ち民衆化を意味し》ており、それはドイツやイタリアの近代化運動のような外からの独立と内部の解放、ナショナリズムとデモクラシーとの結合として現れた先例を追おうとしたもので、この時点の日本主義は健康性と進歩性があった、と。
「日本」新聞の陸羯南は「他人に向ひて奴眼する者は必ず家人に向ひて鬼面するものなり」と政府を攻撃します。また、政治を抽象的なイデオロギーとしてではなく、具体的・歴史的な問題と関連させ、経済を重視していた、と。
さらには前期的な暴利資本主義に対する中産階級的資本主義精神をつくろうとして、下からの殖産興業を目指し、民力休養と租税軽減を主張。政府の軍備拡張と増税政策に対抗します。こうした流れのなかで、三菱の高島炭鉱における坑夫虐待をルポルタージュしたりしますが、それは坑夫虐待が労働力の再生産を不可能にし、殖産興業を阻害するから、という理由でした。
しかし、こうした先進性にもかかわらず、反動的国粋主義の流入を拒むことはできず、ナショナリズムはロマン主義に流れます。
ロマン主義は《歴史的形象のなかに直接自己との生命的つながりを認めることによって、対象に対する理性的批判の眼を曇らせてしまう。ロマン主義の国家観たる有機的国家観の弱点もまさにそこにある》と丸山眞男は分析します。
フィヒテで言及したナポレオン侵攻によって生まれた《ドイツの自由主義運動は、ロマン主義をもってドイツ・ブルジョアジーの革命思想を正当化したが、そのロマン主義がやがて封建的反動の正当化に転化》するなど正反対の政治的意味を持つようになります。
そして「日本」グループも《反動的・国粋主義的傾向と自由主義ないし社会主義的傾向との二極に分化》していった、というのが結論。
ということで『講義録2』もこれで終了。
次からは、逆から読んできたので、最後の「講義録1」となりますが、すでに読了しています。
とにかく、この後は残る一巻をまとめるだけとなりました。
フィレンツェから追放されたマキャベリは昼間は、ならず者のような生活を送りながらも夜、執筆活動をするときには、いつも官服に着替えたと伝えられていますが、そんな気持ちで久々に読んでいました。
一巻の最後は理想社会としての「自然の世」をたったひとりで構想した安藤昌益。
講義録の最後に「終講に当たり、卒業の諸君に贈る」と語り、付章でも解説していたのも安藤昌益訓でした。
一、人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ
一、世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ
一、朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし
安藤昌益の思想については素朴な唯物論にともなう運命論的色彩が濃いとはしながらも、「朋友を求むることなかれ、而も友に非ずという人なし」は親疎の別に基づく朋友観念に対して博愛を説き、「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」「世に用いらるることを好まざれ、世に用いられざることを憂えざれ」は後の福沢諭吉の不羈独立の高唱を思わせるとして、孤独な思想家である彼を《日本だけでなく殆ど東洋に比肩する思想家を見出しえない》《封建社会の人間であることを疑う》とまで評価しています。
とりあえず「人を謗らず、己を慢(たかぶら)せず、人を頌せず、己を屈せず、人たるといふべきのみ」というのは、いいな、と。
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