« 『丸山眞男講義録2』#4 | Main | 『丸山眞男講義録2』#6 »

October 15, 2016

『丸山眞男講義録2』#5

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第3章 征韓論(と征台論)]

 日本のナショナリズムの特徴は、福沢諭吉的な古典的内容を持ち得た期間が短く、すぐに帝国主義へのメタモルフォーゼを開始し、sui generis(独特)な日本的国家主義を生み出したこと。そうした契機となった征韓論は《近代日本思想史の上に人が考える以上に大きな意味をもっている》として一章を割いてます。

[1 維新前後の対韓関係 廟議分裂まで]

 韓国は大院君が極端な排外主義をとり、1867年(慶応3年)に宣教師やカトリックに対する大規模な虐殺を行ったため、フランス東洋艦隊と戦闘。徳川慶喜は使節を朝鮮に送って攘夷の中止を勧告しようとしましたが、その直前に王政復古となってしまいました。

 明治四年にはアメリカ東洋艦隊が米船乗組員虐殺事件の責を問うて陸戦隊を上陸させたが、京城に進撃できずに退去したので、大院君の息はあがっていきます。

 日本政府は明治維新にともない対馬の宋氏の私的貿易を禁止するなどしたため、韓国側は反発。明治六年には日本人を接客した娼妓を罰する法律などをつくり、日本人密貿易の取締を強化したため、廟議で対策を協議することになった、と。

 この際、外務卿の副島種臣は清国と台湾及び韓国との関係について質し、台湾蛮地は化外の地であり、韓国の内治・外交には干渉しないことを報告していた、と。西郷辞職までは省略します。

[2 イデオロギーとしての征韓論]

 征韓論は幕末から唱えられていました。

 勝海舟は反幕的な攘夷の動きを兵庫、対馬、朝鮮、支那に海軍の営所を置いて西洋に対抗するという大陸進出に転じようとしていました。これは欧州帝国主義の圧力を、東洋の弱小国家への帝国主義的進出に転化しようというもの。

 西郷の征韓論にも、対外進出を契機として国内改革を行うという目的が潜在しており《軍部有力者の間にも対韓進出を機会に武断派の革命を行い、政府内部の文治派を一掃しようとする動機があった》(p.131)と。これは大久保が秩禄処分で武士の大リストラを行うと共に大軍縮を断行しようとしていたことに反発したためでしょうか。

 木戸孝允は幕末時代から勝海舟と征韓を策していましたが、維新直後も征韓を利用して天皇直属の兵を徴募して全国の大名などによる内乱を抑圧しようと目論んでいました。しかし、同じく征韓論者である長州の大村益次郎が暗殺されて失望、その主張はしばらく薄らいだ、と。木戸は大久保と感情的に対立していたが、武権派の西郷とはさらに対立していました。また、農民暴動を恐れていたため、西郷の征韓論には反対することになります。しかし、征韓論によって大久保利通が権力を強化したことについて日記で愚痴を吐くなど、木戸はなんともいえない性格をもっていましたよね。

 こうした中で議論をリードしていたのは大久保です。孝明天皇は欧米列強の兵庫沖への艦隊派遣という威嚇を受けて、それまでの鎖国攘夷を投げ捨てた後、大久保に第二次長州征伐への勅命を非義の勅命と非難されて政治生命を失ったんですが、こんなところも含めて大久保は、たいしたものだと思っています。

 大久保の考え方は《英仏の如きは、悍然、護兵を我地に置き、殆ど属国の如し。然るをこれをこれ恥じずして独り朝鮮に咎む、大に忍びて小に忍びず、遠きに察し近きに察せず》というものでした。

 このほか、岩倉は西郷が行けば殺されが、それで兵を挙げたらロシアが黙過しないので、まずロシアに了解を求める工作が必要だ、という立場でした。

 丸山眞男は《面白いと思われることは、不平士族の暴動を恐れた者が征韓論の主張者となり、農民暴動を恐れた者が反征韓論を主張した》としています(p.135)。

[3 征韓論を惹起したリアクション(征韓論が国内問題であっことの証示)]

 征韓論は1)国内テロと暴動叛乱2)自由民権運動(土佐の民権運動と西郷らの動向は初期において一体性を保持していた)3)後の玄洋社に発展していく福岡の結社などによる国権運動―を呼び起こしました。

 この中で頁を割いているのが3)の国権運動。

 佐賀、熊本、秋月、萩、西郷による西南戦争、福岡と続く乱は、旧藩意識が強いというか相互不信が強く、連携がまったく取れていませんでした。板垣は西南戦争後、挙兵をあきらめ民撰議院を目指しますが、萩の乱で逮捕されていた頭山もこれに感じ、向陽社を設立、明治14年には玄洋社に改称します。

 さらに4)政府のリアクションとしては、台湾征討がありますが、これはもちろん征韓論の代用物で、征韓論と台湾征討に一貫して反対したのは木戸のみでした。

 政府は明治6年10月に西郷らが下野した翌7年には台湾出兵を行ういますが、そのイニシアティブをとったのは大久保利通、西郷従道、樺山資紀など薩摩藩出身者。

 大久保は台湾出兵で清から五十万両の賠償金を得て権威を高め、懸案となっていた横浜に駐屯していた英仏の外人部隊の撤退まで実現してしまいます。

 さらにロシアとの樺太千島交換条約では弱腰とされた政府も5)明治8年には江華島事件を機に日韓修好条約まで結びます。

[4 結論]

 丸山眞男は征韓論に、その後の日本の大陸政策が包含した全ての問題が圧縮されて表現されている、として、以下のようにまとめます。

1)内乱を外戦に。内の不満を排外的雰囲気の高揚によってそらす(レーニンは「対外戦争を内乱へ」だったが、日本は「革命よりは常に対外戦争」を選んだ)

2)外戦(国際紛争)を起こすことによって国内改造を行う(満州事変では桜会を中心に国内改造が同時に目論まれ、十月事件も類似した事件)

3)政治の軍事に対する統制の弱さ。西郷隆盛自身が急進論に押されたこと。また西郷従道の征台論における動き(出先軍部の独断専行、強硬論)

4)対外的な国威発揚(なるべく抵抗の少ない海外進出を試みようという考え方が、この後も引き続き、日本の政治支配層には強く流れていた)

5)東アジアをヨーロッパ帝国主義から防止する意味と、日本自身がヨーロッパと互して進出するという意味が重なり合っていること

 こうして膨張主義と平和主義の厳密な区分が溶解していきます。それは征韓論に反対した大久保が台湾出兵を行ったことは、後年の幣原外交と田中外交の「対立」と同じ性格を持っていた、と。

|

« 『丸山眞男講義録2』#4 | Main | 『丸山眞男講義録2』#6 »

「丸山眞男講義録」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/64351745

Listed below are links to weblogs that reference 『丸山眞男講義録2』#5:

« 『丸山眞男講義録2』#4 | Main | 『丸山眞男講義録2』#6 »