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October 09, 2016

『丸山眞男講義録2』#3

『丸山眞男講義録2』丸山眞男、東京大学出版会

[第1章 前期的国民主義の諸形態]

 東洋のナショナリズムはヨーロッパとの接触で国際社会に引き入れられたことから発生し、当時はアジアでもイギリスが主役を占めていました。

[1 海防論の登場]

 《日本における脅威は、まず北方から来た》が海防論の書きだしですが、これは今風に言えば、ロシアのグレートゲームが日本にも影響を与え始めた、ということでしょうか。ロシア国民は神によって選ばれた新しきイスラエルの子であり、「聖なるロシア」だったというロシアナショナリズムの解説を思い起こせば、19世紀半ばから、今の時代にいたるまで、ロシアによるグレートゲームは世界を揺らし続けているのかもしれません。

 近代的ナショナリズムは幕藩体制の崩壊が前提となりますが、江戸時代も後半になると生産と交通の発達によって、封建的な閉鎖性が打破されつつあったことが、対外脅威に関する関心が挙国的なものになる素地を提供していた、と。

 オランダ国王は幕府に開国を勧告したのに謝絶されますが、こうした対応には、日本だけでなく中国でも異質な他者に対するプリミティブな猜疑心や恐怖心があり、相手を対等の人間としてみない態度がみてとれます。

 こうした感情が抽象化されたのが海防論。

 林子平や大原左金吾の海防論は横の地域的な割拠、縦の身分的格差の否定につながることが萌芽的に示されており、国際的脅威を排除するためにはまず国内の経済的安定による国防強化を求める思想的動向が生まれ、それはやがて富国強兵論にもつながっていく、と。

[2 富国強兵の制度的改革論]

 問題は軍事的充実よりも国内体制にあるという反省に比較的早く到達できたのは蘭学者のおかげ。《彼らは決して抽象的な世界主義者ではなく、むしろヨーロッパ勢力の真の脅威を彼らほど痛切に意識した者はなかった》。杉田玄白も『野叟独語』でロシアの脅威は公益を許した後、10~15年で軍備を充実すべきとしています。

 高野長英はイギリスが「民を富し国を強くすることを先務」とするとしていますが、これは富国強兵。
 
 渡辺崋山も含めて弾圧を受けた彼らは、国際社会における日本の地位に深い関心を持っていました。やがて攘夷論に呑み込まれはしましたが、こうした中で富国強兵論を体系的に提示したのは本多利明と佐藤信淵。

 本多利明は「国を治むるの本は渡海運送交易にあり」とし、佐藤信淵の『垂統秘録』詳細なユートピア国家論となっています。

 二人に共通しているのは絶対主義への傾向。

 絶対主義の二大支柱は常備軍と官僚層の形成。《封建制の多元的権力を一元化し、政治的正統性を最高の君主が独占することによって、いわゆる中間勢力を解消し、唯一の国法の支配に服する同質的=平均的な国民を造り出すことにある》(p.77)

 信淵や利明の議論は東洋的デスポチズムが絶対主義と重なっているところもある、と。

 信淵の『大同書』には世界国家建設による民族差別の撤廃、戦争揚棄の構想が示されています。この「大同」は『礼記』礼連篇が典拠となっているが、日本には国家を超越する天下観念がないので、いち早く近代国家主義が芽生えても、素早く帝国主義に転化することになります。

[3 尊皇攘夷論]

 [外観]

 尊皇、攘夷、佐幕、開国という四つの契機は縦横に結合されるもので、「佐幕攘夷」も「尊皇開国」もありえたといいます。井伊直弼らの開国論も実質的には鎖国で、思想的には保守的な性格でした。実際、尊王論が倒幕論にまで到達したのは、幕末の最終段階。吉田松陰の尊王論も、皇室の下における諸侯並立状態を目的としていました。尊皇佐幕から公武合体を経て、尊皇倒幕にいたるまでにはさまざまなニュアンスがあり、主観的な用法は問題ではなかった。

 井伊直弼が勅許を待たずにハリスと通商条約に調印したのを草莽の志士が弾劾したのは戦術上の見地からという面もあり、不満のイデオロギー的な焦点となったものだ、と。

 開港以来の生活必需品の高騰、農村手工業の解体は攘夷の要求をある程度まで国民的な運動たらしめた要因となります。このため、下級武士とともに、上層部の村方地主も尊皇攘夷のもっともラジカルな担い手になった、と。

 尊皇攘夷の第1段階は、特定の藩に独占されてきた幕府権力に、西南雄藩などが割り込もうとしたもの。

 第二段階は激派と公武合体派の抗争。そして幕府改革派が権力につくと、激派の弾圧を開始。

 長州再征の失敗後の尊皇攘夷派は、攘夷を戦術的な意味でしか用いなくなり、これが第三段階(すでに外国との条約が天皇によって許可されていた)。

[公武合体論または諸侯的攘夷論の思想]

 水戸、越前、西南諸藩によって唱えられた公武合体論はナショナリズムの基本的要請である政治力の集中とその底辺への拡大という法則が貫徹されていた。もっとも明確なのは会沢正志斉の『新論』だが、庶民層が外国勢力を恃んで封建的支配関係を揺るがす恐怖が根底にあり、それは中間勢力の排除を意味する尊皇論ではなく、上からの内部的編成替えのイデオロギーだった。

 こうした後期水戸学が影響を持ったのは、尊王論と富国強兵論が一体として説かれ、美文をもって綴られたからであり、具体的内容が問われる前に政治的スローガンとして人心を捉えた。

 越前、薩摩の公武合体論は、外国の脅威にさらされた中で出てきたものなので、『新論』のような海外進出的な意味を持った攘夷論は姿を消し、消極的な海防論まで後退。しかし、徳川斉昭でも庶民の組織化や、商人からの自発的献金を考えざるをえなかった。

 島津久光は幕府での発言権を大にするとともに、過激派を朝廷の名において弾圧。

[急進的尊王攘夷論]

 この担い手となった激派は実践活動に多忙を極め、思想を体系的に残す暇はなかった。その例外である吉田松陰の攘夷論には、ヨーロッパ諸国の制度を歪みなく見ようとする努力があり、この反省的態度は、封建的支配関係の上に安住することを許さず、水戸学の身分的隔離は打倒対象となった。こうした考え方は断片的だが梅田雲浜や、公家の中山忠光にもみられる。

[総括]

 前期的ナショナリズムにも「政治的集中」と「政治力の拡散」という対立する要素が存在する。

 幕末の政治過程は対外危機に対して封建的政治力を集中させようとする契機が終始圧倒的に優位だった。

 心理的な挙国一致のためにできるだけ広い範囲の国民を動員するという課題は遅れがちで、人材登用にも超えてはならない一線があった。

 封建勢力は末期的段階で近代産業と技術に依存しなければならなくなり、絶対主義の樹立は朝幕どちらでも普遍的な課題となったが、庶民層の参与はなんら意味をもたなかった。

 庶民が政治的主体として能動的・自発的な関心を有していなかったことは、明治維新後のナショナリズムの解決すべき課題となった、というのが結論。

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