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September 08, 2016

『丸山眞男講義録3』#3

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 この講義が行われたのは60年安保闘争の後の秋から冬にかけての半年間です。岸内閣の強行採決などに対して、丸山眞男は珍しく集会に参加して発言などをしています。

 それは、今から考えれば、安保条約の可否よりも、永久革命としての民主主義を守れ、というもの。当時の学生運動のリーダーたちからすれば物足りないものでしたが、決戦を叫んでも安保条約を阻止することはできませんでした。

 続く70年安保は学生と対立して研究室は破壊され、再開された授業は妨害されて早期退官に追い込まれました。丸山眞男は全学連に対して嫌悪感を持っていたんじゃないかと思うんですが、それは、やはり展望もなく決戦を叫び、しかも自己否定の論理(最終的には連赤の共産主義化論理につながる)という生活感のない心理を嫌ったのかな、と感じます。

 『講義録3』の結語では、安保闘争で敗れた学生たちに、克服されるべき思考法として既存制度の絶対化と共に、一切の制度的なものを敵視する混乱と同一化された運動を上げています。そして、この第三講では群衆(multitude)を否定的に語っています。

 70年安保の学生たちを丸山眞男が否定的に見ていたわけは、この第三講を読むとよくわかります。

 と同時に米国のトランプ現象や日本のB層なども遠く言い当てているんじゃないかとさえ感じます。

 また、ファシズムなど沸騰するマスの感情に依存する運動は、反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にするとしていますが、現代日本でもヘイトなどはまったく同じだな、と感じます。

 明るく清らかな自己否定も否定し、もちろんファシズムにつながるようなのも嫌悪する、みたいな。

 同時に「ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない」という言葉も印象的。なんでもワンセットで反対するような、今のゆとりっぽい運動家の姿も思い浮かんできます。

 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物だというあたりで思い出したのは、映画『Do the right thing』ですかね。

[第三講 集団とリーダーシップの政治過程]

[序説 集団関係への接近角度]

 同じ集団でありながら、共同体と組織は違う。氏族tribe・同族団・部落などの地域共同体は成員丸抱え集団であって機能分化が低いのに対し、組織はもっと明確に機能分化した集団であるから。

 しかし、日本ではコミュニティに擬制される伝統が強く、天皇制のように無限責任原理となる。そして無限責任は結果的に無責任になる。

[集団化の諸形態]

 群衆(multitude)に混乱がおきないのは、個々のactorが成長する過程で身につけたより大きなsocialization(しつけ)・instutution(制度)の規範が作用しているから。しかし、ある出来事によるイメージを共有することで集団を形成することがあるとして、マスの危険性について語ります。

 例えば扇情的な見出しやテレビの映像に晒された者たちは街頭のマスと似た心理状態になる。マスは組織と違い役割意識がないから暗示にかかりやすく爆発的に行動する。しかもマスのエモーションはネガティヴで他律的。抑制する組織がないために、出来事の呼び起こした恐怖、敵に対する憎悪は無限に増幅する。

 群衆(multitude)、マスのエモーションはネガティブであり、わけのわからない「うっぷん」など他律的。恐怖や憎悪が先行してテコになる。ファシズムなどマスに依存する運動が反ユダヤとか反共とか否定的シンボルを統合手段にする所以はそこにある(p.91)。

 マスはそれ自体が全体で、限界の外は意識しない。他集団との折衝とか問題を解決しようとかいう意図がそもそもない。

 社会における自分の場(position)がなくなり、あるいは分からなくなると、アウトカーストoutcasteの意識がはぐくまれる。その個人生活の無意味さ、卑小さを大群衆の中で忘却する。
 
 集団が危機的状況に直面したら、冷静で大胆な思慮深い人がリーダーに選ばれるが、マスがモッブ化したときに出てくるリーダーはエモーションに点火するような人物。

 だから、革命の歴史的意味と価値は、街頭分子を新たに編成された社会集団の中に吸収し、部署において責任意識をもって建設的な仕事にあたらせる第二段階へ移行したときに明らかになる、と。

 ヴォランタリー・アソシエイションが多様であり、またそれが不断に結成される社会は、本来のpublicな関心が下からたえず上昇する社会であり、その伝統のない社会では、閉鎖的共同体と、国家の官僚制・軍隊のような非自発的組織体の両者にpublicなものが吸い取られる。

 これに関連して丸山眞男は、自由討議・寛容による多様の中での一致という考え方でアメリカの開拓を進めたロードアイランドの建設者、ロジャー・ウィリアムズ牧師のことを紹介します。個人的にロジャー・ウィリアムズといえば、その子孫のロックフェラー副大統領(フォード時代)を思い出します。彼はホワイトハウスを去った後、愛人宅で腹上死したので有名です。鎌倉仏教で触れた蓮如が82歳で子どもをつくったのも驚かされますが「どうも、この手の話しが多いよな、宗教関係者には」という印象が個人的にはぬぐえません。

 脱線はこれぐらいにしておいて、この後は定義集みたいになっていきます。

 ムラには組織というイメージはない。

 国家とは特定地域を基盤とするorgnisiere Einheit(組織された一体性)。

 組織は意志や感情の一致体では必ずしもない、行動統一体。

 統一を確保ではないところに組織はない。

 支配とは服従を調達すること。

 集団化の極はmultitudes(群衆)と制度(institution)。

 制度とは制度的行動様式で、慣習、伝統、モーレス(破れば村八分になるような暗示的な強い集団の規範byサムナー)、儀式、法律はいずれも制度。

 人間の環境適応の決断と選択の労を最小限にし、心理的安定を確保するのが制度。

 制度が人間行動を定型化する機能が弱まると、actorは環境と自己の間に亀裂ができ、いかに行動するか分からなくなる。この心理状態をデュルケームはアノミーanomieと呼んだ。アノミックな状況は大衆運動の出発点となる。

 また、multitudesと、その対極である人間行動があますところなく制度化された閉鎖的共同体ではリーダーシップの問題は登場しない。

 カール・シュミットは「主権とは例外状態の決断である」と定義している。

[3 リーダーシップの課題と機能]

 どういうtraits(資質)をもった政治家がリーダーになる傾向があるかということは、カルチャーと密接に関連している。イギリスやアメリカがファシズムの政治体制下におかれたとしても、ヒトラーのようなタイプが指導者になるかどうかは疑問。

 また、ケネディとニクソンのテレビ討論をみても、肌触りがなめらかになり、大きな思想よりも経済や技術についての具体的なプランや数字について語ることを得意とするタイプがリーダーになってきているとしているのは意外。

 しかし「弱体な指導とは、第一義的には相剋する利害(quarrelling interests)の産物であって、その逆ではない」byベントレー。

 また、イギリスの伝統的governing classのようにリーダーの訓練を受けるチャンスに恵まれているとと、ますます統治能力がみがかれる。

 リーダーの問題は、具体的な人間に則していうならば、sub-leadershipの問題となる。これと密接な関係にあるのが、組織内のinformal groupの問題。もちろん、こうした組織によって、既存の法的な手続きで吸い上げられない底辺の感情や要求を上げることはできる。

 informal groupが革命の温床となった例も多い。

 一方、リーダーはつとめて共属感と組織のpublic imageを培養しようとする。リーダーシップの一般的課題と機能は以下の4点。

1)状況の定義を与えること、状況を再定義すること。
2)組織のゴールと戦術の提示(優先順位など)。《ゴールについてのconsensusのないところでは、組織は存在しない》
3)内部の決定過程の組織化
4)Leadership selection(sub-leader含む)

 また、組織は人間行動の組織化であって、人間の組織化ではない。

 リーダーの消極的な統合手段として、もっとも重要なのは、集団が外的危機に直面しているというイメージを造り出すこと。友/敵の区別はどんな場合にもリーダーの不可欠な課題。また、反動的リーダーシップは積極的ゴールよりも、ネガティブな恐怖と憎悪をセメント剤とする。

 組織の過程は役割(権限)期待関係および情報(通信)伝達過程(関係)としてあらわれる。民主的指導と権威的指導の違いは、リーダーの権威が随行者の側からのrole(役割)の信託(trust)に基づいているか、つまり随行者によるtrustの撤回=指導者の変更が制度化されているかどうか

 ミヘルスは戦闘的な民主主義政党ほどOligarchie(寡頭制=オリガルヒ。元のολιγαρχiαというギリシャ語の意味は支配する選ばれし者。少ないという意味のオリゴ+首長という意味のアルケ)の傾向が強化されるなど、ヨーロッパの社会主義政党の研究から少数者による多数者に対する支配が必然的に実現される「寡頭政治の鉄則」(Das ehernes Gesetz der Oligarchie)を提唱した(p.123)。

 このあたりを読みながら、難航している参院合区解消へ向けて総裁直属機関の設置を検討するという自民党なども、ますますその傾向にあるな、と感じます。

 ラスウェルはリーダーのタイプをCrowd compeller(強制者), Crowd exponent(主導者、解釈者), Crowd representativeに分けているが、ガリバルディ、ナセルなどはCrowd exponent(主導者、解釈者)でリーダーシップの統合過程を通じて、Latent(潜在的な)、また漠然とした感情・要求を顕在化させ、より高い集団意志に統合した。そうした過程を通じて成員の集団への帰属意識を強め、指導者との同一化(われわれのリーダーだという意識)が促進される。

 Crowd compeller(強制者)は創造的リーダーシップで、マホメット、カルヴィン、トマス・ミンツァー、クロムウェル、ナポレオン、カンジー、レーニン、孫文、毛沢東などで、彼らは世の中のイメージの核を変えた、とも。

[結語]

 リーダーシップへの要請が指導者主義(特定指導者の神化、万能化)に転落する危険性と、逆に民主的政治過程がリーダーシップ抜きの無責任とindecision(優柔不断)に陥る危険性に対処することが重要。

 指導者主義の発生は根本的に随行者、卒伍の責任。

 また、悪しき指導者への糾弾は、これを更迭し、自らの集団内からこれに代える良き指導を生み出す能力と責任によって裏付けられないかぎり、積極的市民の政治的批判とはいえない。

 指導者個人にたいする悪口がいくら盛んでも、民主的な言論の自由が行使されているとはいえないし、そこからはリーダーシップを他人事でなく、自己の問題として打開していく姿勢は生まれない。

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