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September 04, 2016

『丸山眞男講義録3』#2

『丸山眞男講義録3』丸山眞男、東京大学出版会

 3巻は最初にも書きましたが、この政治学の講義は60年安保闘争が終わった直後の下期から約半年間行われました。その結語で丸山眞男は政治学が進むべき方向として、一般市民の日常的立場から操作的operativeなものであり、操作的なもの、可変性を含んだものとして現実をみて、政治オンチを脱することが重要だとしています(p.210-)。講義も主体である自我から始まって、集団化、指導、政党・代表制の問題へと上に向けて行われ、あくまで個人が中心であり、制度は固定されたものではないものの、混乱もまた問題だ、みたいなことも語られていきます。

 だから第一講では《政治の場では、認識主体と客体との相互移入関係が存在する。俳優でない観客はいない、芝居を演技しながら、芝居を見る。見ることで芝居が進行する(観客も常に俳優なのである)》ということが強調されていたんだな、と。

 そして《具体的状況での政治的選択は、つねに相対的に良いもの、あるいは悪さ加減の少ないものの選択》で、政治はやってみなければ分からない要素があり《一般原則によって汲み尽くされない賭けであるからこそ、それは自分の責任における賭けなのである》と個人がactorとなって政治に参加することで、状況も刻々変化する、ことを語っていたんだなと。

 第二講では集団化の問題を取扱います。

[第二講 政治的態度の形成と変化]

[1 政治的分析の諸方法]

 デモクラシーの発展によってフォーマルな制度だけでなく、社会集団の政治的機能と、そうした集団の統治主体および制度に及ぼす作用と反作用が注目されるようになりました。

 さらに上下の相互作用だけでなく、内外の相互作用も視野に入ってくるとして、上下の相互作用を象徴する思想家がマルクスだとすれば、第三段階を象徴するのはフロイトだとしています。

 岸田秀さんは"フロイトは本当は集団分析を個人分析に使ったのだ"と唯幻論を飽くことなく繰り返していますが《一定の心理傾向と政治状況との函数関係への着目は、すでにアリストテレスの政治学にもある》ということは、そうした視点が丸山眞男にもあった、ということでしょうか。

 ここからヒュームの「いかなる専制政治も人民の意見に基礎を置いている」という言葉を引き、テクノロジーの発展が個人の人格内部の葛藤や緊張からのカタルシスが政治行動として放出される現象が出現した、として政治的状況における相互作用関係のアプローチは様々あるが、一般市民が自分を政治に関連づける方法を考える場合「行為者の内から(行為者のmotivationから)」から考えることを選択します。

[2 政治的態度の形成と変化]

 私は同一化を通じて「われわれ」となる、と。政治の場に登場するactorsは「われわれ」→社会化された私であり、他者に伝達され共鳴者を見出す=Shared Image化されることを期待するとして「私は日本人」「私は大学生」「私は××党」というのは、みな同一化のシンボルだ、と。

 要求とはある事物へのヴァリエーションの表現で、価値とは欲求された目標としての出来事であり、「もう第3次世界大戦は起こらないだろう」という期待のステートメントには同一化も要求も伴わず、楽観的期待と悲観的期待があるだけだ、と。

 さらに、信念とは感情化された期待、忠誠とは感情化された同一化または要求、態度は同一化・要求、期待が行為によって表現される際に、その行為を完成しようとする傾向であるとした上で、actorである「私」から出発します。

 他のactorや場(field)に対する態度形成のプロセスをモデル化する際に、有機体とはセンスを通して出来事を受け取り、センスを通じて反応する、と何回も開講の辞などで示してきた認識論を紹介。また、テレビには新聞よりも意識的選択の指の間からこぼれ落ちる砂が画面に入ってくる、という評価も与えています。

 そして、個人の価値秩序(生命、安全、富強、平穏、地位、学問、芸術など)に照らして、より高い価値を追求、維持、獲得できるチャンスが多いほど、世の中を快適と思う、としてローウェル、ロシターによる政治的態度の理念型を紹介します。

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 ローウェルの図式で重要なのは、4巻の鎌倉仏教でも触れられた図式のように、4つに分けられたディメンションを個人が動く場合、必ず右旋回か左旋回し、斜めには動かないこと。

 さらにロシターのchangeに対する7つのattitudeの図が紹介され、Liberalismは現在の生活様式に満足しているし、conservativeも変化が人生と社会のルールであることは知っている。ただShowdown(勝負どころ)でLiberalismは安定より変化を、conservativeは変化より安定を選ぶ。改革に楽観的か悲観的かの差がでる、とします。

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 このあとローウェルのLiberal(L、リベラル), Radical(R、ラヂカル), Reactonary(Rea反動), Conservative(C、保守)の4つの分類を元に、その割合によって安定的な社会、前進的で実験的な社会であることを説明していきます。

 ローウェルの分析は《世の中に対する人々(actor)の期待(出来事のイメージ)が自我の要求にどのように影響するかを定式化したものとして先駆的意義をもつ》とのこと(p.67)。

 ちなみにCが独立からフロンティアの消滅までのアメリカや維新期から明治期前半の日本で、こうした社会は支配層が改革的だとしています。

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 また《リベラルがラヂカルよりもコンサバティブへ移行する場合は、将来の社会をつくりかえて改善していく展望が縮小していくテンポが、現状に不満足になるテンポを上まわっている》としていますが、これって、いまの先進諸国じゃないですかね。

 丸山眞男はさらに《若い世代が早くから世の中に満足し、享楽する場合には、Radicalsの一般的噴出が枯れてくることを意味するので、その社会の停滞性の重要な兆候といえる》とも。

 日本の場合、民主化は敗戦後にアメリカのニューディーラーたちによってもたらされましたが、これによって《革新政党が「現在すでに得た価値」に満足し、それを失うまいとすること、保守党が現状に不満である》というねじれを生みます。原水爆禁止問題や安保闘争でも、そうした「保守意識」からの大衆運動というモメントが含まれている、と。

[3 政治的態度の構造]

 ラヂカルな行為は必ずしも態度としてのラヂカリズムに照応せず、自己欺瞞からそういう行動をとっている場合もあるとして《あてにならないという点では、言葉も行動も同じである》と。

 《価値(安心・財産等)が脅かされるという恐怖感、あるいは団結者にたいする嫉妬感、自己の孤立感(不安感)といった心理的媒体によって、はじめて客観的条件と、人々の政治的反応の仕方とが結びつく。歴史的にも見ても、社会のラヂカルな変革運動を抑圧することにもっとも熱心な声は、しばしば、財産と所得において上位に位置する層よりもむしろ中間(middle)から下層中三層(lower middle)に属する人々の間からあげられるのはそのためである(プチブルの動向の決定性)。支配層は、これを利用する》

 《大衆の消費生活が向上し、平均化が進むにつれて、かえってきわめて小さな不平等(限界差、marginal difference)が不満(status anxiety)を引き起こすようになる》というあたりを、1960年の段階で予言していたのは、凄いな、と。

 さらに、こうした問題をロンドン軍縮条約や戦後の米ソ核開発に敷衍して《心理的要因が政治の世界で独自のファクターをなしているかが分かる》と。

 「威信とは、他者の自己についてのイメージ」というあたりも、なるほどな、と。

[4 政治的無関心の問題(権力状況からの引退の態度)]

 ローウェルの分析は、人々が世の中を動かすことに関心を持っているとこが前提となっています。それは経済法則が高い利潤より低い利潤を望む人間actorを想定したら成り立たないようのと同じだと(p.64)。しかし、政治に関しては、実際はそうなっていないとして非政治的態度の三類型をラスウェルに従って示します。それは1)無政治2)脱政治3)反政治。

1)無政治は芸術家や学者に見られる、特定領域への関心の集中やコミットメントが高度である反射としての無関心
2)脱政治は政治的幻滅に基づく関心度の減退(期待・要求が大きければ幻滅も大きい)
3)反政治はアナキストやある種の宗教家

 政治的関心が高い人間が脱政治的態度に移行する場合、人格構造は不安定になり、その結果ダイナミックな政治行動として再噴出する可能性があるが、政治嫌悪が更新すると反政治的確信に基づいて政治行動を起こすというパラドックスも起こりうる。後者の場合、Lesser evilの観念がないから、bestを求める心情的ラヂカリズムによってworstな結果をまねくことがある。

 また、ダイナミックな政治行動として再噴出する場合も、無力感をひめた参加は、実質的にアパシーに近くなる、としてナチ運動を支持した大衆心理を説明しています。1930年のナチ大進出の投票行動を調べると、前回まで棄権していて、この時の選挙でナチ党に投票した者が非常に多かった、と。それは非合理的情動的選択だった、と。

 現代はイデオロギーの時代だとはいわれるが、19世紀の偉大な思想家によって生産されたイデオロギーに寄生し、寄食している時代だ、とも。

 また、ヴェーバーのいう意味でのBetrieb(持続的方法的経営)の発達、専門化と分業化の進展は、それ自体まさにアパシーの発酵源にもなり、こうしたアパシーの日常的な浸潤は、デモクラシーの胎内を蝕み空虚化する、と。

 ミルズがアメリカのホワイトカラーのアパシーをinactionary(無行動的)としていましたが、60年後の日本も、それかも。日本のアパシーが深まったのは、実質的な決定を行政が行い、再配分を労組や圧力団体で競うという現実も関係していたかもしれません。

 また、《態度として積極的に進歩的でも保守的でもないということは、政治的状況における意味としては、ヨリ保守に加算される》という見立ては、なるほどな、と。

 丸山眞男は、この第三講を締めくくるにあたって、デモクラシーの考え方は、政策の良否を最終的に判断する資格があるのは、その立案者ではなくて、その政策によって影響を蒙る者だというところに根ざしているとして、《場にあって場をこえた展望を持ち、場にあって生活と拠点をもった―東奔西走の志士的活動でなく―パブリックな関心と行動》を持ち続け《大衆に根を下ろした貴族主義が必要》だとしています。

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