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August 26, 2016

『蓮如 聖俗具有の人間像』

Rennyo

『蓮如 聖俗具有の人間像』五木寛之、岩波新書

 20年前に出た本で、読んだのも忘れかけていたのですが、丸山眞男講義録で真宗と蓮如に関して書いていたら、いろいろ思い出しました。

 著者は蓮如のことを聖俗具有のモンスターと呼びます。

 蓮如はうち捨てられたような本願寺に父・存如と「いずこの人なるを知らず」という女性との間に生まれました。親鸞の血は引きますが、生まれからすると卑種栄達の人生を歩むことになります。

 貧しい部屋住みのような生活が続き、庶子ながら法主となったのは43歳。当時、最大のサポーターだった関東の信者たちは、親鸞の血縁というだけで本願寺を頂点とした組織化を図ろうとしていた親鸞一族に反発ししており、寄進も減り、寺もボロボロだったようです。

 法主となった蓮如は他力信仰の純粋さを保つため、存如の正妻とその子たちが接近した延暦寺との関係を断ち、それによって僧兵の襲撃を受けて最初の本願寺は破却されてしまいます。これは応仁の乱の起こる2年前というのですから、世のすさみ具合もわかろうというもの。

 身を寄せたのは琵琶湖一帯での運送を担っていた堅田(かただ)衆。ここでも延暦寺とは一進一退の攻防を繰り返しますが、日本史的にも惣村が成立した時期でもあり(この当時にできた村が現在でも続いています=現在は600年前に形成された風景が失われつつある時代)、この惣を基板として目につけ、信徒たちが寄り合って話しながら他力信仰を語る「講」で布教を行います。

 堅田衆と延暦寺との抗争が続く中、蓮如は堅田を立ち去ります。うろ覚えですが、ここらあたりは親鸞の「仏縁つきたと思ったら、その地を去れ」という言葉や、新約聖書の「また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」を思い出します。

 マルコなどの「足の裏のちりを払い落とせ」という命令は、一見、潔い感じも受けますが、蓮如のケースなどをみると、やっかいなことにならない間に静かに立ち去る、というイメージなのかな、なんて考えたりして。

 向かったの北陸の吉崎。ここで蓮如は真宗の大ブームを巻き起こしますが、あまりにも急激に広がった組織は蓮如の統制が効かなくなり、他の念仏集団(仏光寺派、高田派、三門徒派)との内ゲバなどが激化。アジテーターではあっても組織者ではなかった蓮如は嫌気がさし吉崎を離れては戻されたり、門徒から逆ネジを食わされたりします。

 やがて1474年(文明6年)には守護富樫政親の要請を受けて門徒衆は合戦に参加して勝利しますが、2000人の死者を出し、様々な批判を受けた蓮如は1475年に吉崎を去り、山科から石山(何回も書きますが現在の大阪城)に拠点を移します。

 その後、門徒衆は1488年には20万人で富樫を囲んで自害させ、約百年にわたって「百姓の持ちたる国」をつくりますが、それを蓮如はどのように見ていたんでしょうか。

 蓮如は28歳の時に初めての妻を迎えましたが、その後、妻たちは次々と蓮如を残して死にます。まったく信じられないのですが、蓮如は5人の女性に13男14女あわせて27人の子を産ませて、最後の蓮能という若い女性が子どもを産んだのは84歳の時という性生活を送ります。

 こうしたことも含めて蓮如というのはモンスターだな、と。

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