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August 26, 2016

『丸山眞男講義録4』#6

『丸山眞男講義録4』丸山眞男、東京大学出版会

 いよいよ、古代王制から進められきた原型と普遍的規範の相剋の話しが複合的になってきます。それまでの「外国」からの普遍宗教であった仏教が、最澄以降、日本人の頭によって咀嚼され、世界的な高みにまで登った鎌倉仏教と、どのように絡み合うのかに移っていくわけですから。

 しかし、鎌倉仏教は一向一揆が信長などによって粉砕されてしまいます。以降は、やはり外国の宗教であったキリスト教が個人の内面的尊厳の自覚を呼び起こすことになります。しかし、それも島原の乱で潰滅され、それ以降《下層民衆はもはや直接的におのれの上に君臨する世俗的権威を超えた普遍者にアピールする途を閉ざされ》ることになりました。

 もちろん、それは一向一揆の集団の統治能力のなさが原因ではありますが、浄土真宗の八代法王蓮如から十一代法王顕如までの経験も他の教団とは比べものにならない深さがあると感じます。武装蜂起した下層民を抑えかね、最初は法王である蓮如自らが立ち去らなければならなくなったにもかかわらず、一定の権力を農民たちが持ってしまった後は、信長との石山決戦まで進んでしまうという流れは、やはり親鸞の形而上学的達成だけでなく、形而下でも真宗の善悪含めた巨大さを改めて感じます。

 加賀一揆では「にこにこにて身命も捨て」と檄を飛ばし、信長との石山決戦では破門もちらつかせながらの檄文まで発した本願寺は、リアル『邪宗門』といいますか、これほど「砦の上に我らが世界、築き固めよ勇ましく」(ワルシャワ労働歌)コンミューンをつくった集団は日本になかったと思います。

 丸山真男は真宗の経験を踏まえてとは直接、書いていませんが293頁と314頁で要旨、以下のようなことを繰り返しています。

 政治的リアリズムは、正義価値と秩序価値のバランスの上に成り立っている。秩序価値がなくなると正義価値だけが昂進し、圧倒的多数の人々に浸透できなくなる。組織化さえも秩序価値を前提としているが、それが強調されすぎると革新のエネルギーはなくなる、と。

 すべての社会運動は最後に勝てばいいから敗北を前提としているとは言われますが、それにしても、極端なことを主張すれば圧倒的多数の人々には浸透しないということを、わかっていない人たちが多すぎるな、と感じます。

 丸山真男は講義録3で、60年安保直後に「政治原論」のような講義を行い、そこで《政治を決して甘く見ず、したがって簡単に「挫折」せず、政治の困難さを充分承知しながら、しかも「脱政治化」してアパシーに陥らず、まして「二度目の政治参与」としての「ヒステリックな暴風のような」「過政治化」にも走らず、ユーモアを忘れない「能動的市民」として生き続けるように、静かに勧めていた》そうです(講義録3の解題から p.227)。

 親鸞は偉大で、蓮如は亜流と感じていましたが、農民たちを一揆に立ち上がらせないように説得し、それができないとわかると戦争指導を放棄して吉崎を退去するという行動は、一見、無責任にも思えますが、重い決断だったと感じます。この後、本願寺は各地の一向一揆を抑制しようとしますが、末寺の組織化=門徒組織の系列化が進んでしまい、それを危険視した戦国大名と、まるで思った方向とは別の戦いに進まざるをえなくなるという悲劇を経験した組織は、なかなかありません。まるで、太平洋戦争の陸軍みたい。

 蓮如と吉崎退出に関しては、護経的な小説とそれを元にした映画しかなさそうですが、いつか、もっと詳しく知りたいと思います。蓮如から顕如にかけての法王四代は、アンバレンツで悲劇的な決断を自ら下した、日本における数少ないリーダーだったと思うので。

 また、法然はそれまで布教の対象ではなかった無知蒙昧な農民たちを初めて含めた、というのもなるほどな、と(それまでは社会の上層部だけが対象)。個人的に法然に関しては、マル経の宇野弘蔵先生が、法然上人が大蔵経を読んで南無阿弥陀を発見したように、資本論をよんで発見したのは労働力の商品化だ、と語っていたあたりが印象に残っているんですが、宇野先生にも、こうしたパースペクティブがあったのかもしれない、と思いました。

[第五章 鎌倉仏教における宗教行動の変革]

[序説]

 福沢諭吉は『文明論之概略』の中で仏教を強烈に批判しています。

 日本において自立の宗教などは聞いたことがないとして《独り一向宗は自立に近きものなれども尚この弊を免かれず。足利の末、大永元年、実如上人の時に天子即位の資を献じ、その賞として永世准門跡とて法親王に准ずるの位を賜りたることあり。王室の衰微貧困を気の毒に思うて、有余の金を給するは、僧侶の身分として尤ものことなれども、その実は然らず、西三条入道の媒酌に由り、銭を以て官位を買いたるものなり。これを鄙劣というべし》と浄土真宗までもコキおろします。もっとも当時は日本だけでなく世界の思想史上でも重要な親鸞の思想は、ほとんど知られていませんでした(歎異抄などが読まれるのは明治期以降)。

 さらに《然り而してその威力の源を尋れば、宗教の威力に非ず、唯政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず》と、徳川時代には末端の行政組織としての役割ぐらいしか果たしていなかったとして《その勢力なきの甚しきは、徳川の時代に、破戒の僧とて、世俗の罪を犯すにあらず、ただ宗門上の戒を破る者あれば、政府より直にこれを捕え、市中に晒して流刑に処するの例あり。かくの如きは則ち僧侶は政府の奴隷というも可なり。近日に至りては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。この例に拠れば、従来僧侶が肉を食わず婦人を近づけざりしは、その宗教の旨を守るがためにはあらずして、政府の免許なきがために勉めて自ら禁じたることならん》とまで書きます。

 丸山眞男は福沢諭吉を高く評価しますが、こうした批判を最初に2頁にわたって紹介した後、少数ではあったが、烈々とした光をを放った思想と運動が、鎌倉仏教の初期にはあったとして親鸞、道元、日蓮などの思想を紹介していきます。

 彼らの著作は《単なる経論のスコラ的注釈ではなく、時代の深刻な苦悩を直視する認識を、さらに自己の内面の奥底からの体験によって深化させたところに生まれた魂の叫びであった》とします。そして三人について、日蓮は伝統と比較的つながっているが、親鸞と道元は切れている。宗教的情操の豊かさにおいては親鸞に及ぶものはなく、哲学的論理の透徹さでは道元がもっともすれ、日蓮は「予言者」的実践の強烈さがある、としています。丸山眞男がプリントで「予言者」としているところは、まだ聖書学が十分伝わっていない時なので仕方ないでしょうが、「預言者」としたいところです。

 日本における仏教は、鎌倉仏教までの道のりを振り返ると1)呪術的な力の所有者を仰ぎ見て祈願する2)絶対者の懐に抱かれることによって永遠の生命に参与しようとする遁世3)人間の有限性を高次に自覚して、遁世によって1回的に救済へ到達するのでなく異質な次元への飛躍と認識する、という具合に進展していきます。

 ここに至って、この飛躍は、人智をもって不可測な絶対者の側からの恩寵に摂取されてのみ可能であるという側面だというを強調すれば法然から親鸞に至る他力信仰となり、飛躍が一回的な出家遁世によってもたらされるものではなく、不断の真理への実践のプロセスにあり、実践過程が得道であることを強調したのが道元の「自力」の立場だった、と。

[一 絶対的他力信仰による非呪術化 親鸞]

 真宗に関しては講義録から少し離れる部分も含めて自由に書きます。

 法然は遁世の系譜。《布教対象としてまったく無知無学の人々をも含めたのは法然がはじめてである》。善根功徳を条件としない往生という立場から、絶対者と一個の人間との出会いが定式化され、「我が身ひとりよくよく往生願う」という個人主義は、「不信の衆生をもおぼしめす」という慈悲の前の平等性から、他人との連帯感情が生まれる、と。

 親鸞は叡山を下りて妻帯するのですが、持戒の立場に立って破戒を糾弾する新約聖書のパリサイ派のような伝統仏教の徒に対して《構造的に濁世末法の世であることの意識を欠いているために、自らの生そのものがすでに業罪だという内面的自覚を持たない》とみる一方、自らの立場を非僧非俗と規定します。

 求道者の偽善性を暴露したり、肉食妻帯の生活を即時的に肯定しても、安定した低い位置から理想を欣求する者の姿勢を笑っているにすぎない、というあたりの書きっぷりは素晴らしいな、と感じました(p.239)。

 《信仰自体が一歩の差でデカダンスになる》《信仰とは安心立命の「状態」ではなくて、千仞の谷間への顚落の危険を不断に冒しながら、ぎりぎりの小径を歩む行動のプロセスなのだ。総じて人生とはそうしたものだ》というあたりは、珍しく自分語りをしているように感じます。

 恩恵的利他主義を否定し、自分のためだけの救済であることを案じ、絶対者の前にただ一人で直面し、自己の煩悩罪業を内省すること。《それが絶望的に深まったときに、はじめて救われていることの喜びが自覚される》なんてあたりも。

 《特殊な人間関係をいったん断ち切ることから逆説的に生まれた連帯感であるから、「開かれた」連帯感として、無限に自己から世間へと拡がってゆくダイナミズムをもつ》あたりも素晴らしい。それはマタイ伝にいう隣人愛=友愛のuinversalismだ、と。

 『教行信証』の「出家の人の法は、国王に向ひて礼拝せず、父母に向ひて礼拝せず、六親(親類づきあい)に務めず、鬼神を礼せず」あたりも、『菩薩戒経』からの自由な引用であるとは思いますが、親鸞は共観福音書の中国語訳 『世尊布施論』(異端として排斥されたネストリウス派=景教による)を読んでいたんじゃないかと勘ぐりたくなります。

 とはいうものの、《自分の往生が決定していない人は、なにより自分の往生のために念仏すべきであるが、すでに弥陀の救済を確信しえたものは、仏恩報謝のため「世の中安隠なれ、仏法ひろまれ」と念仏すべき》であるというあたりは、好きではないのですがカルヴィン的な神学を感じます。

 しかし、悪人正機説は、いまでいうポピュリズム的ワンフレーズポリティクスのように広まってしまった面もあります(師である法然は布教対象としてまったく無知無学の人々をも初めて含めたわけですから、明治期の自由民権運動みたいな感じだったのかもしれません)。だから、他の神仏を軽蔑したり、年貢を払わないなどフリーダムすぎる行動に出てくる人たちはどうしても出てくるわけで、晩年の親鸞は、こうした人々への対応に追い詰められます。

 親鸞はこうした人々に対して1)神仏軽侮・造悪無碍はいけい2)それが抑えられるのは仕方ないことで、処置は権力者にまかせるべき3)しかし邪義をとなえたものの往生は願うべき4)領家・地頭・名主は、百姓の一部がこうしたひが事をしたからといって、百姓全体を苦しめる措置をしてはいけない―と書きます。また、地頭などの武士にたよって念仏をひろめようとしてはいけないともさとしています。そして、内面的信仰にはいかなる俗権もも立ち入れないという立場を堅持し、俗権と同じ次元に自分をおくことを避けます。

 この後、真宗は一向一揆に突き進むわけですが、親鸞の《国家と社会の二元性はこの思想の上のみ確保される》という理念は《真宗の発展は親鸞の思想から遠ざかっていく過程とはいえ、下層農民に依拠した自発的集団というその初期のパターンが内包する巨大な社会的・政治的可能性を暗示している》と。

 親鸞は愚禿と称しますが、禿とは「衣食のために出家した破戒僧」という意味があるとは知りませんでした。

 《在家主義がEntzauberung(脱呪術化)〈反呪術主義〉によって随伴されるときは、自他の生活態度を合理的に改造してゆく力となる》とプロテスタンティズムとの類似性を指摘して親鸞の講義は終了しますが、力が入っていることは講義録からもわかります。

 親鸞のあと、道元、日蓮などの思想に触れていきますが、最後は再び真宗にもどり、一向一揆と蓮如、顕如の対応について掘り下げています。

 大河ドラマで比叡山焼き打ちは描かれることはあっても、10年以上続いた石山本願寺との石山合戦が描かれた記憶はあまりありません。

 信長の人生のメルクマールは桶狭間、上洛そして石山合戦ではないでしょうか。長篠の戦いなどは付け足しでしょう。事実上の天下人となったものの、一時は京都を追われ、根拠地までも奪われそうになり、弟も失うなど、上洛した後は一向一揆対策に終われたといっても過言ではありません。

 しかし、大河ドラマでは、いまでこそ東西に別れているとはいえ(その原因も信長との戦争)、いまだ門徒の数が約1300万人と一番多い真宗との戦いは視聴率やクレーム対応などの手間を考えても描けなかったりして。

 丸山眞男は石山合戦の過程などは詳しく書いていませんが、簡単にまとめてみます。

 八代法主の蓮如が山崎の一向一揆を抑えるのを失敗して吉崎を退去、隠遁先として選んだ場所が山科と石山でした。十代法主証如は、京都の山科本願寺が法華衆と細川晴元によって焼き払われたことや、加賀で本願寺一門内の内戦が起ったこともあり、少しでもそうした場所から離れようとして現在、大阪城のある石山に本拠地を移しました。

 秀吉が難攻不落の築城をする前でも石山は守りに固いだけでなく、大阪湾を扼する上野台地という絶好の位置を占めます。

 信長は弟信興が長島一向一揆で自害に追い込まれ、浅井・朝倉を滅ぼした後の越前でも守護代前波吉継を一向一揆で殺されるなど苦汁を飲まされ続けます。

 しかし、一向一揆側でも越前、長島、石山の連携はないだけでなく、本願寺から派遣された坊官らが重税を課して農民が離反。こうしたこともあって信長は越前と長島を各個撃破します(長島は皆殺し)。

 信玄の妻と顕如の妻は姉妹だったこともあり、顕如は将軍義昭なども含めた戦国大名と反信長で複雑な政治的連携もみせます。それでも信長には圧倒されてはいくんですが、いったん信長と和議を結んだ顕如は、東進してきた毛利勢力と結び、海上での連携も図って対抗しようとします。

 しかし、ここでも敗北し、最終的な3回目の和議を結びます。

 顕如は退去する際、嫡男、教如に石山を渡しますが、教如は兵糧を失っては妻子を喰わせられないという門徒に押される形で籠城を続けます。

 教団内部での内ゲバ、農民への負担などの失策のほか、まるで応仁の乱の時代というか、いまのイスラム過激派のような「戦わなければ喰っていけない」層までも抱えていたんですね。

 やがて、敗北した教如は廃嫡され、顕如三男の准如が嫡子と定められますが、以降、本願寺は分裂。現在の東西に別れます(教如派が東本願寺)。

 加賀一向一揆も柴田勝家に鎮圧され、一向一揆は終焉を迎えますが、信長が世を去るのはその4年後。一向一揆に苦しめられ敗死寸前に追い込まれた光秀も秀吉に討たれ、柴田勝家も滅ぼされ、秀吉は石山本願寺跡地に大阪城を築城しますが、その子秀頼は大阪城とともに滅びます。

 どうしても真宗に関しては講義録の紹介だけでは気が済まなくなるというか、言葉が多くなります。親鸞はもちろん大好きな思想家ですが、蓮如の偉大さも改めて感じました。

 ということで、さすが本願ぼこりといいますか、真宗の巨悪も含めた偉大さを感じたところで、丸山眞男の講義録に戻ろうと思います。

[求道修行の純粋化 道元]

 《果報ヲ得ンガ為ニ仏法ヲ修スベカラザ、霊験ヲ得ンガ為ニ仏法ヲ修スベカラザ。但ダ、仏法ノ為ニ仏法ニ修スル即チ之レ道ナリ》『学道用心集』という道元は『法華経』を中心的経典であるとし《「悟り」はただ不断の真理への実践プロセスの中にある。実践の過程そのものが得道である》としました。

 また、修行中心への批判に対しては《けわしい道は原理的に、万人に、社会的地位にかかわりなく開かれている》という平等主義を提示し、親鸞の絶対他力信仰とまったく反対の立場にたちながら、基底にひそむ根本的動機づけなどは一致がみられる、と。

 また、単なる隠遁ではなく、人間の内面的尊厳の自覚を呼び起こした、と。

[仏法と王法の否定的媒介による結合 日蓮]

 庶民に仏教の途を開いた法然・親鸞は貴族出身だったが、日蓮は海女の子であり、自らセンダラ(カースト最下層)の子と称したが、出発点から強い政治的関心(仏法による王法保護)も著しく異なっている。

 個人の救済だけでなく、『法華経』による国家の護持を説き、呪術的要素、神仏習合の要素も内包している(日蓮は浄土宗からの転向者)。

[屈折と妥協の諸相]

 原型はこうした宗教改革にも影響を与える。

 それは日蓮宗の呪術的傾向や、道元が極力排斥した呪術的祈祷を修行の中にいれる曹洞宗のなかにもみられる。曹洞宗は山を下り、武士層に接近した。

 また、真宗の推進力は関東の門徒衆だったが、親鸞の血縁的系譜が強調される。

 栄西の臨済宗は最初から鎮護国家的性格が強く、鎌倉幕府と密接な関係を結んだだけでなく、徳川幕府の宗派教団制度と檀家組織は彼の発案によるもの(p.275)。

 禅宗は社会的行動への発案になるよりも、美意識を宗教化した。茶道など「道」の拡散化が進んだが、それは山林修行のように全生活が投入されるものではなかった。

 仏教は根本的に「空」の直観を目指す神秘主義的瞑想行動の傾向が、社会的実践よりも強い。

 《いかなる絶対者を追求する普遍宗教も、人間の世間的な営為と交錯することによって、世間的な価値との通路の断絶か、さもなくば世俗への限界のない妥協かという二律背反に直面してきた》が、日本の場合、家族や世間への精神的もたれかかりを絶つこと自体が倫理違反と受け止められがちだった。江戸期の廃仏論は、この点を突いたが、すでに仏教は儒教から批判されるほどの宗教的内面性に基づく力を失っており、冒頭の福沢諭吉の批判を浴びることになる。

[(鎌倉仏教における宗教行動の)問題整理]

 鎌倉仏教の宗教行動はA)救済信仰B)宇宙論的真理信仰C)経典信仰、という3つのタイプがある。

A)人格的救済信仰
 救済者信仰はa)自己と救済者の神秘的一致b)絶対他者への傾倒に分けられる。
α)自己と救済者の神秘的一致は空也から自分自身が阿弥陀仏になる一遍(時宗)らつながる
β)絶対他者への傾倒も法然・親鸞のスタティックなタイプと、悟りは境地ではなく日常的実践の過程の中にあるというカルヴィニズムに通じる召命的自己意識を持つ親鸞・日蓮のダイナミックなタイプに分かれる。

B)宇宙論的真理信仰
 原始仏教に最も近いこのタイプはα)禅による自我との神秘的一致を目指す栄西β)絶対者へ傾倒する道元

C)経典信仰
 α)神秘的一致を『法華経』の引用によって説明する直接演繹主義的な日蓮β)律法主義的な律宗・臨済宗
 王法(俗)への志向を

de-political non-political
(From 脱王法) (Inside 在王法)
anti-political political
(Off 断王法) (Toward 向王法)

 という4つの次元(ディメンション)にわけると、浄土真宗は親鸞のときはOff 断王法(anti-political)だったが、一向一揆においてToward 向王法(political)となり、蓮如はInside 在王法(non-political)の契機もあり、徳川時代にはInside 在王法(non-political)となった。

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 ここで重要なのは真宗もanti-politicalからnon-politicalの方向へ、斜めにはいかないこと。必ずanti-political(親鸞)→political(一向一揆の体験)→non-political(農民たちとともにあろうとしながらも、農民たちから最初に拒絶された蓮如と一向一揆敗北後の分裂した真宗)と回る方向を通ることだと、丸山眞男は『話文集2』のp.338以降で語っています。

 これはキリスト教なども似ているというか、イエスはanti-politicalだったけど、中世ヨーロッパではpoliticalとなり、やがて俗権に圧倒されてnon-politicalになる、と。やはりanti-politicalからnon-politicalには一気にいけません。

 付け足しのように簡単に触れられていますが、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗も妥協と屈折の過程はnon-politicalに収斂している、と。

 《政治的リアリズムは、正義価値と秩序価値のバランスの上に成り立っている。秩序価値がなくなると正義価値だけが昂進し、強度の主観主義に陥る。そうなれば、秩序価値を多少とももってる圧倒的多数の人々に浸透できなくなり、運動の組織化さえできなくなる。つまり、組織化さえも秩序価値を前提としているのである。けれどもも他方、秩序価値が一方的に強調されると、革新のエネルギーがアピールする場がなくなる》 というあたりが印象的。

[宗教行動の政治行動への転調(1963年講義)]

 鎌倉新仏教は1)生死という人間実存の問題を凝脂させ2)明確な目標価値を設定し3)この単一の目標に雑多な感心を集中させることによって行動を合理化4)日常をルーティンの繰り返しではなく、目標を目指す無限の決断過程としてダイナミックに旋回させた。

 また、広大な仏恩に対する報恩行動として修行や勤行が意味づけられ、主君への忠誠パターンとして武士の行動様式(エートス)に精神的基礎を与えた。

[蓮如と一向一揆]

 真宗の信者の社会的分布が全階層に及んだのは江戸時代で、それまでは下層農民が中心だった。蓮如で真宗の宗教改革的性格はピークに達し、決定的変質も開始された。

 蓮如は法主ながら門徒とは平座で雑談し「門徒にもたれ、門徒に養われている」といつも語っていた。また、門徒組織を発展させた講(同一の信仰を持つ人々による結社)を重視し「愚者三人に智者一人とて、何事も談合すれば面白きことあるぞ」(『実悟旧記』)と語っているなど魅力的な人物です。

 真宗は蓮如一代で驚くべき伸長をとげたが、俗権との紛争回避も含めての妥協的傾向としては1)呪術性の傾斜2)王法の尊重、主従倫理の肯定(王法をば額にあてよ、仏法をば内心に深く蓄へよ)があげられる。俗的権威を重んぜよという教説は、社会的・政治的領域を既存権力に無条件に明け渡す可能性をはらんでいた。丸山眞男はこの《親鸞との一歩の差がやがて後世に千里の距離にへだたる明白なきざしを見せている》とコメントしています。

 信仰は内面の問題で政治や法律は外部的行動のみ関係すべきという一線は画しているが、信仰は行為に関係する。宗教行動は政治的秩序や倫理的秩序と交錯するし、そこに宗教の立場からする政治や社会の批判が不可避となる。

 蓮如の王法を重んぜよという教説は、社会的・政治的領域を既存勢力に無条件に明け渡す可能性をはらみ、徳川以降はこの方向を辿った。しかし、実如(九代)を経て顕如(十一代)までは抵抗の論理として機能したという二面性もあった。

 文明四年(1472)から五年にかけて蓮如の本拠吉崎をめぐる対立は激化し、加賀の一向一揆に発展する。蓮如はあらゆる機会をとらえて、他宗誹謗を禁止し、守護地頭の権威の尊重と年貢公事の完納を門徒衆に訴えたが、七年に蓮如は吉崎を退去する。抑制者がいなくなって、一揆のエネルギーは一気に燃え上がり、1488年には富樫政親を倒し、一世紀以上、門徒と坊主の合議制による支配下に置かれた。

 このほか近畿一帯、飛騨、尾張、美濃、紀伊雑賀、播磨などで一向一揆が発生した。

 本願寺の懸命な抑圧にもかかわらず、それを乗り越えて一向一揆は続発したが、同時に末寺組織の動員による門徒組織の系列化も進んだ。

 蓮如死後は、半ば下層門徒農民に突き上げられた形で、半ば本願寺勢力を押しつぶそうとする戦国大名に対する自己防衛として、全組織を動員した闘争へて駆り立てられていく。そのクライマックスが1570年から11年にわたる織田信長と石山本願寺(現在の大阪城)との決戦。

 《このとき、かつては一揆に破門をもって臨んだ本願寺は、いまや一揆に不参加の門徒に破門を課してまで、全組織動員を試み》大阪、河内、近江、金森、草津、勢多、守山、勝部、浮気、高野、金藤、甲賀などの一揆が呼応。さらには信玄、将軍義昭、三好、松永、浅井、朝倉、謙信とも信長の全国制覇を阻止するという目的で結んだ。

[一向一揆の思想史的意義]

 蓮如が一向一揆を抑えようとしたのは、彼岸浄土ではなくこの世の救済に民衆の関心を向けさせる危険性、現世利益の教えに堕すると考えたからだが、同時に守護大名から連合して押しつぶされるのを回避するためだった。このため《本末組織は農民的エネルギーの氾濫と急進化をチェックする方向に動員された。しかし、他方、本末組織がなかったならば、村ごとに孤立分散していた農民が、村なり郷なりの狭隘な地方的制約を突破して大きな統一的をおこすことは不可能に近かった》(p.306-)。

 本願寺の末寺組織が農民の闘争に対して矛盾した両面を持つだけでなく、一向一揆の門徒領国内部の社会的構成も矛盾した動向を波乱でした。

 当時の国人は1)地頭が小領主・地侍として土着化したもの2)荘園の名主(上層農民)が領主化したものであり、農民が門徒化すると、彼らを掌握するために、自らも門徒化せざるを得ない。しかし、守護大名は農民から離反する可能性をもっている。

 農民は守護と地頭の闘争に際しては一方に組するので、農民一揆は純粋に耕作農民対領主という形で展開されたわけではない。

 このため本願寺、地方の有力寺、末寺道場、門徒国人、農民のレベルによって意図も利害も異なっていた。しかし、俗的行動のなかに超越的原理が働く一向一揆は信長と家康を長年手こずらせたほどの戦闘力を発揮した。

 《日本の場合、最底辺の共同体はつねに擬制を含んだ血縁的な結合体であり、ために無限のダイナミズムをもたず、農民がその狭い限界を突破した血縁的結合に踏み出るうえには、普遍者にたいする共通の信仰という精神的契機が少なからぬ役割を果たしていた》(p.311)が、石山戦争と島原の乱でそうした契機は失われ、農民は武装能力を剥奪されただけでなく、江戸時代に幕藩権力の統制に動員された寺に従属した。

 これによって仏教教団は精神的権威を失い、徳川時代に後世に残る高僧は出ません。そして《下層民衆はもはや直接的におのれの上に君臨する世俗的権威を超えた普遍者にアピールする途を閉ざされ》ることになった、と。

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