« 『丸山眞男講義録5』#3 | Main | 「徒歩徒歩亭」の皿雲呑 »

July 18, 2016

『丸山眞男講義録5』#4

『丸山眞男講義録5』第2章「武士のエートスとその展開」第3節「武者のエートスの概念的洗練(合理化)」

 この第3節「武者のエートスの概念的洗練(合理化)」だけで50頁近い長さで、しかも以下のように詳述されています。

背景
一道理と天道の観念
二統治の理念と武家支配の正統根拠
三御成敗式目の精神(武士のエートスの反映、式目に具体化された「道理」、事実的なるものの規範力)
四宗教との関連(神祇信仰、仏教)
 
 なぜ丸山眞男が1965年の講義で、これだけ長い時間を「武士のエートス」にかけたのか。その理由が解題に書かれています。

 丸山眞男は1960年に「忠誠と反逆」を発表しました。これは明治維新における忠誠対象の相剋と、それ以後の西南戦争・自由民権運動・明治キリスト教・大逆事件における忠誠と反逆とその自我における精神的葛藤、封建的忠誠(武士のエートス)とその衰滅がテーマでした。

 武士のエートスは主従的側面からは「没我的献身」が、族制的側面からは「家門のほまれ」という名誉感が抽出されますが、忠誠心と並んだ強烈な名誉感と自負心から「抵抗と反逆」が生じます。

 また、武士のエートスは仏教、キリスト教、儒教といった外来の普遍的世界像と出会い、受容・相剋・変容しますが、それは後年の「原型・古層・執拗低音」にも深められていまきす。

 ちなみに「エートス」はウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神』のタイトルの「倫理」です。

 武士という人間像は日本の歴史が内発的・自主的に産出した国際的に通用する唯一の人間類型であり、その主体は忠誠というパラドクスをはらんだ非合理的主体性ともいうべきエートスを生み出し、さらに徳川時代に変容していた伝統が、維新の志士たちや自由民権運動の志士仁人たちにおいて「反逆のエートス」としてリバイバルした力強さもあります。

 それは市民的徳性をもった市民的人間という近代的主体の代替物として機能したかに見えるほどでしたが、究極のところでは代用品でしかなく、明治後期には臣民の道へ継受されて「のっぺり反逆」と化してしまいました。

 丸山眞男は「武士のエートス」を高く評価しますが、その背景は具体的課題を解決しようとする市民法的考え方をも生み出し、御成敗式目などで表現したからだ、みたいなことがあると思います。そして、その背景には道理、天道という一種の自然法思想もあった、と。さらには撫民という観念も内面的に発展させていきました。

[背景]

 《武士のエートスはしばしば述べたように、まさに生きた生活感情》で、教義やイデオロギーではないが、こうした下にある生活感情の上に儒教・仏教などが上から入って相互作用が行われた。その背景となる武士団の全国的組織化は、鎌倉幕府の成立により、恩給的主従関係を通ずる御家人の組織化。

 しかし、その中核となった東国武将はあまりにも粗野で、政権というより非常時の軍事権力であり、必要に応じて臨時に設けた機関が恒久化して、機能も日常化していった。守護にしても当初は総追捕使という名称の通り、義経・行家の追捕が目的だった。

 頼朝の権力はひしめきあう豪族のエネルギーを、朝廷からの正統性の獲得と京都出身の側近官僚の補佐によって上から統御していた不安定なものだったが、やがて北条執権によって下から合理的化される。

[一 道理と天道の観念]

 こうした合理化を内部から規律したのが道理、天道であり一種の自然法思想といってよいが、その条件は

i)伝統的権威の下降
上皇たちの場当たり的な追討命令や律令官僚制支配の弛緩

ii)既成事実からのイデーの剥離と、その理念の新たなる現実との関係づけ
諸行無常ではなく現実の背景になんらかの規則性があると考える意識の目覚め→道理

iii)それが勃興する中間層の意識に適応していくこと
仏教は元々現実否定で、鎌倉新興仏教は武士層に共鳴板を見出すが、『愚管抄』はヘーゲルの「理性の狡知」(ロゴス=世界精神がナポレオンの野心などを道具として使って自己実現すること)のようなものを武士のエートスに感じて高く評価。

[二 統治の理念と武家支配の正統根拠]

 撫民という観念は、それが全てに優先し、統治者の行動や政策を規律する規範として意識されたとき、初めて自然法的な統治の理念となる。

 平家はあまりにも伝統的体制に寄生していたので新たな政治形態を樹立することはできなかった。頼朝は文治元年、院の独裁抑制のため朝廷に議奏十人を設置させたが、その趣意は以下の3点。

1)天下之政道は重臣会議によって決する
2)道理の支配は伝統的権威よりも優越されるべき
3)諫争の忠の重要性

 このうち諫争の忠は古儒教に見られる観念だが、英国にやける「陛下の反対党」の観念にまで通じるフィードバック機能。中国では諫官、日本では御意見番として制度化されたが、形骸化しやすかった。

 鎌倉幕府はその後、承久の乱で、皇室の伝統的権威から自立した正統的根拠を求めざるを得なくなったが、その際、天道のイデーがアピールされる。鎌倉幕府滅亡後に、南朝派に立った北畠親房も『神皇正統記』では、仁政安民とリンクした天道理念に立って承久の乱に関する記述では上皇側を非難し、頼朝・泰時の治世を称揚しています。このように儒教的な天道思想が幕府の正統性の基礎として自覚されていったことはナチュラルで、それ以外に道はなかったろう、と。

[三 御成敗式目の精神(武士のエートスの反映、式目に具体化された「道理」、事実的なるものの規範力)]

 御成敗式目で留意すべき第一は、国衙法、本所荘園法から独立した武家社会の固有法であることで、武士権力の自律化のシンボルだったこと。

 第二に、この制定は貴種であった源氏将軍のカリスマ時代が終わって、武士団の特殊な構造の自覚の上に幕府体制が築かれたことの表現であり、実力関係のなかに平衡点を求めて一般原則に昇華させている。

 法律は日本古来は上から宣布させる「のり」という垂直性を持つが、市民法の精神は水平的構造を持つ。それは典型的には民事法と訴訟法・裁判法規で、自然権の思想、横の紛争の実存性から出発するが、貞永式目は驚くほど、この市民法的考え方によって法思想が浸透浸透されていた。

 裁判では人の強弱で決まらないように式目がつくられたことが強調され、ただ道理のおすところが求められた。親疎関係によって決定が左右されるべきではないことも強調され、不利な状況におかれた者の正当な権利が正義であり、罪刑範囲の明確な規定が仁政だとされる。同様に容疑者の正当な権利も保障される。さらに社会的紛争は良い悪いにかかわらず存在するという実存性の意識があるから、いかに解決するかという手続き感覚も発達した。

 式目は在地領主としての武士の「権利のための闘争」のエネルギーを前提として、そこから発生する紛争の合理的解決を図ったので、その道理は抽象的理念ではなく、武士のエートスほ法的に合理化したものだった。

[四 宗教との関連(神祇信仰、仏教)]
 
 三種の神器が教義化されたのはも13世紀の伊勢神道だが、曇りな鏡という考え方は社会的意識に広がっていった。そこには正直と道理を守る者には神明の加護があり、無理を通そうとるものには、神罰が下るという素朴な神祇信仰があった。

 武士が独自の政治権力を打ち立てた時代に興った鎌倉仏教は日本思想史を通じて最も創造的な時代だった。皮肉にも、東大寺・延暦寺などが自己武装したことに対抗して院や摂関家が武士を起用したという因縁もある。

 仏教においては罪中の罪は殺生だが、武士たちは自己の存在の矛盾を内面化し、罪意識から宗教意識へと向かった。また、恩と報恩が主従関係の範疇となった際に「ひとつのものは他のものの依存の上に成り立つ」という因縁の観念と結合した恩が強調された。

|

« 『丸山眞男講義録5』#3 | Main | 「徒歩徒歩亭」の皿雲呑 »

「丸山眞男講義録」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/63932681

Listed below are links to weblogs that reference 『丸山眞男講義録5』#4:

« 『丸山眞男講義録5』#3 | Main | 「徒歩徒歩亭」の皿雲呑 »