『丸山眞男講義録6』第二章「キリシタンの活動と思想」#1
『丸山眞男講義録6』、丸山眞男、東京大学出版会
第二章「キリシタンの活動と思想」#1
丸山眞男は自身の戦争・軍隊体験から、日本社会の同調圧力の高さ、個人の抵抗の少なさなどの問題がどこから来ているのか、ということを考えてきたのかな、と個人的には思っています。大正3年生まれという、もっとも太平洋戦争でかり出された世代として。
現代の視点からその限界性を指摘するのは学部の学生でもできるわけですが、そんなことをしても無意味だと思うし、まるで学んでいない態度は、個人が確立されていないこと=自立していないことの裏返しなのかな、なんてことも思います。
ということで、この第二章「キリシタンの活動と思想」は、日本の思想史というか庶民に対しても、初めて個人の自由という概念を与えることになったカトリックの宣教師たちのインパクトと、鎌倉仏教などを拠り所として農民がコミューンをつくろうとした加賀などにおける日本国内の試みが、ともに織豊時代から幕藩体制が確立されるまでの期間に徹底的に粉砕され、それによって中央集権と代替え可能な地方行政機関としての藩が250年間の太平の世をつくられたが、同時に後世への問題も残した、みたいなことが語られています。
徳川時代初期の島原の乱(対キリシタン)と、それに先立つ信長の石山合戦(対本願寺)は皆殺しという処理方法も含めてパラレルであり、それは戦国大名と宗教を盾にした民衆が解体期の荘園支配で争ったからなんですが、この二つの乱の平定で仏法など宗教法の王法への従属が決定的となったことは、世俗権力の批判がなくなったことで日本思想史上に禍根を残した部分もある、みたいな(p.122-)。
日本では社会勢力としての宗教排除が400年前に達成されていたというのは、ある意味凄いわけで、それ以降、仏教は葬式仏教として、幕藩体制の下級行政機関となっていくことで、完全に思想的な活力は失います。
その前提となるのがキリシタンの徹底的な弾圧。
なぜ、幕藩体制はキリシタンをあそこまで弾圧したのか。
それはキリスト教の社会史は、パウロ的な秩序への服従義務の教えと、神への信仰の絶対性に発する抵抗権=抵抗義務との二元的緊張の歴史であり、信者は最終的に世俗権力へ逆らうことも辞さなかったからだ、と(p.99-)。
こうした原則は個人の信徒に宗教弾圧などプレッシャがかかるようなディレンマの状況でこそ所在が明らかになる、なんてとこも含めて渋い。原則は経験的頻度数の問題ではなく、ディレンマの状況で明らかになる、なんてあたりは、SNSでの虚しい政治論議、その内容のなさまでも照射しているような感じがします。政治なんて、何を主張したかではなく、具体的な状況の中で、なにをやったかなのにな、なんてことも含めて。
林羅山との論争で有名な日本人転びバテレンのハビアンは、イルマンでパードレになれず転向した可能性もあるなんてあたりも人間くさくて面白かった。インテリ転向者は精神的に傷ついているため他者を激烈に攻撃する傾向にあり、偽装転向ではないかと思われているため、かえって熱狂的な敵対者になるなんてあたりは、現代史でもそうだよな、と感じます(p.108)。
あと、キリシタンの宣教師たちは、一向宗について邪悪なアミダ信仰とはしながらも宗論は行わず、正面からの対決を避けているというのも面白かった。一向宗は教義などなく、民衆の求めた絶対者による彼岸での救済指向を基督教布教の際にも作用したわけですが、これを読んで、親鸞は景教による漢訳ロマ書を読んでいたという話しをまた、思い出しました。
基督教に救いを求める救済の欲求の強さは、阿弥陀一仏への傾倒、雑信への排撃、呪術の拒否、彼岸での救済思考など一向一揆と似た精神的共鳴板の存在を思わせる、なんてあたりも(p.74)。
宣教師たちも「日本にも一神教への潜在的な萌芽があった」とぬか喜びしたかもしれませんが、ただ、宣教師たちが知らなかったのは熱しやすく冷めやすい日本人気質だったのかな、と。
以下は箇条書きで後から面白かったところを追加していきます。
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