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May 10, 2016

『丸山眞男講義録7』#5

『丸山眞男講義録7』丸山眞男、東京大学出版会

 「第二章 近世儒教の政治思想」「第四節 江戸時代における修正と変容の諸形態」

 講義録7巻はこの後「第三章 思想運動としての国学」で終了するといいますか、講義録全体が大団円を迎えますが、その三章でも《江戸時代における思想史的位置づけについては、若干の修正を要する》(p.280)として、これまでの主著の内容を変更することもいとわない態度は門外漢からすれば凄いな、としか思えません。

 ということで四節は国学に向かう江戸時代の儒教の変容について。

 人間本性の実現が同時に社会秩序の円滑化に通じるというのは、儒教の根本思想で、それを「本然の性」論として展開したのが宋学です。

 こうした儒教のイデオロギーとしの社会的普及は18世紀末(寛政)以降に《藩校の続出、庶民教育の普及とあいまって、むしろ通俗化された形で最盛期を迎え》ます(p.253)。

 様々な読みかえの中で《「天地の公道」→宇内公道→宇内公法→万国公法(自然法としての国際法規範)というようにつぎづきに読みかえてゆくことによって、華夷内外の弁から内在的には出てこない、近代国際社会観を受容していゆく思想的過程は、横井小楠のような朱子学的立場に近い思想家において典型的に見られる》ようになる、と。

 こうした契機は《儒教世界像の前提とする周代の封建制や秦漢帝国以後の読書人・官僚支配体制と、戦闘者=武士を支配階級とし、藩の群居と幕府の集権的統一の微妙なバランスの上に立っている幕藩体制との間の照応性よりは、ずれが自覚化され》ることにあり(p.256)、儒教の日本化の課程だ、と。

 こうした中で君父をなみし、人倫秩序を無視する仏教を拝するという斉唱も生まれる、と(p.257)。

 なんか、この状況というのは、その2000年前のパレスチナで《父とは誰か、母とは誰か》とラジカルに問うた原始キリスト教の段階というか、原始キリスト教が批判した伝統的ユダヤ教の段階なのかな、なんてことも思ったりして。

 《人欲を媒介にして理性が実現されるというヘーゲルの「理性の狡知」にも似た考え方が示され》たことも仏教を廃する動きにつながる、と(p.261)

 さらに理気一致論が一方で「気」の強調となり他方で主観的観念論に傾斜したように、「道」の心情化傾向と、「仁」が愛に結びついて主観的内面性が亢進するというようなことにもなる、と(p.262)。

 荻生徂徠は普遍的な道も「時勢」「時処位」「水土」を無視しては、空虚な観念論に陥ると主張し、その弟子の春台の著書『経済録』は「経済」をタイトルにした最初の書物でもあることから、白柳秀湖は徂徠を封建時代のマルクスと呼びます(p.271)。

 こうした古今の変化に着目する考え方は、江戸時代のように超越的普遍者へのコミットメントがそもそも弱いカルチャーの下では、歴史的所与を「ありのまま」に肯定する現実主義に転化しやすくなります(p.272)。こうしたことから江戸時代の自由主義者たちは泰平の御代を賛美する、と。

 長く引用される富永仲基の《唯物ごとそのあたりまへをつとめ、今日の業を本とし、心をすぐにし、身持をただしくし、 物いひをしづめ、立居ふるまひをつつしみ》《暇には己が身に益ある芸を学び、かしこくならんとつとめ、今の文字をかき、今の食物をくらひ、今の衣服を着、今の調度を用ひ、今の家にすみ、今のならはしに従ひ、今の掟を守、今の人に交り、もろもろのあしきことをなさず、もろもろのよき事を行ふ》というのは凄いな、と(p.273-)。

 こうした現状肯定主義は、古代日本において堯舜の世が実現されていたとした山形大弐(明和事件で処刑)の思想も生むことになり(p.275)、第三章の国学につながります。

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