« 『十六夜清心』 | Main | 『丸山眞男講義録7』#5 »

May 09, 2016

『丸山眞男講義録7』#4

『丸山眞男講義録7』丸山眞男、東京大学出版会

「第二章 近世儒教の政治思想」「第三節 近世儒教の思想的地位と政治的諸概念」

 《儒教の歴史は書かれた日本の歴史と同時に始まるといって過言ではない》という書きだしが印象的。言い回しだけでなく、たとえば十七条憲法の「和を以て貴しとなす」は『礼記』に由来するし、「民を使ふに時を以てす」(農繁期には賦役に用いない)の出典は『論語』にある、と(p.173)。

 しかし、江戸幕府は必ずしも儒教、特に朱子学に排他的な正統性は与えられてはおらず、新井白石は林(大学頭)信篤に敵意を隠さなかったし、八代吉宗は朱子学からすれば異端の荻生徂徠(古学)を重用した、と(p.177)。さらに、藩校のなかにでは幕末にいたるまで、陽明学、古学系の学者が主流を占めていた藩もあった、と(p.179)。まあ、弘道館、日新館、明倫館など藩校の名称の典拠はすべて儒学にあったわけですが(p.183)。

 ちなみに儒教という名称は中国でも日本でも学者はあまり使わず、宋学も「性理の学」「理学」「義理の学」程朱学」「紫陽の学」といわれるそうです。

 古学は伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の総称ですが、重要なのは尊王攘夷論につながる水戸学へと流れ込むこと。ひるがえって《幕府諸藩の教学振興は、庶民の教育普及には役立った。江戸時代を封建時代とすれば》、かくも教育を普及させた封建制は世界にその例をみない》(p.181)として、《通念化し常識化した形での宋学的宇宙像と世界像は、幕藩体制下に住む人々に一種の精神的安定感を与えたと思われる》と(p.184)。

 とはいうものの、武士がどれほど勉学に励んだかは疑問だと福沢諭吉の指摘なども紹介しています。尊皇攘夷の理論も、役立ちそうだから使っただけで、必要がなくなるとあっさりと捨てられるのも、そこらへんが遠因かもしれません。わかりませんが。

 四書のうち大学、中庸は元々礼記から取り出したものなど儒教の正統性を確定する難しさを語った後、仏教は元々ウパニシャッドの異端だし、そういえばキリスト教も、マルクス主義もと説明する図は楽しい(p.188)。こうした思想は、時々、原始儒教に、原始キリスト教に、原始マルクス主義に帰れという立場が現れますが、それらも古典の読みかえであって、元々あった思想の復元では有り得ない、というあたりは、敷衍といいますか、講義ならではのところだと思います(p.190)。
 
 儒教的諸概念は数千年を経て形成されたのですが、あえてもっとも特徴的な観念を一言でいえば、それは「天人相関」もしくは「天人合一」(p.194)。陰陽の調節まで君主の職責とされ、自然の秩序の攪乱が嫌われたわけですが、このため宇宙の観測でも、中国の場合は超新星の爆発や彗星などの異変が重要視される、という山本義隆さんの物理学史にも通じるんだな、なんてことも考えました。

 白馬非馬論など、名実論は日本で最も定着しなかった、というのはなるほどな、と(p.210)。日本人は抽象的思考が苦手なんだと思いますが、そうしたことは証明は出来ないし、ま、単なる個人的な感想になりますが。

 あまりにも膨大ですが、司馬光の『資治通鑑』も、もう少しマトモな解説書ぐらい読まないとダメかも、と思いました。なにせ朱子の『通鑑綱目』と合わせて、幕末維新の志士たちのバイブルとなった藤田東湖の弘道館記述義なんかの大義名分論に影響したんですから(p.212)、

 儒教を江戸幕府が支配の原理として用いた時、悩んだのが易姓革命の思想との折りあいだといいますが、もちろん、これは中国の歴代王朝も同じでした。禅譲がうまくいかなくなり、夏王朝の桀を湯王が滅ぼしたことから革命が始まっているので、愛民仁政という天職を尽くさない皇帝は討たれるという儒教を始皇帝が弾圧したのもわからないではありません。

 西欧社会で封建貴族が暴君を追放するスコラ的自然法に基づくモナルコマキ(monarchomachia、暴君放伐論)はありましたが、儒教の場合は天道に反しているかは自然災害によってはかられます(p.222-)。中共が自然災害に対して、割と全力で取り組む姿勢をみせるのは、こうした背景があるんでしょうね。

 ということですが、より体制イデオロギーとなった朱子学でも君主追放は非常時の「権道」として認めるということになります(p.224)。

 しかし、元々、孔子はこうした体制イデオロギーを目指していたわけですありません。『論語』も牧歌的なシーンから始まりますし、苛烈な現実の混乱と争奪の中から、逆に理想の秩序と平和の理念が結晶化していった、と儒教の歴史を見ることができる、と(p.225)。

 孔子から100年後の戦国時代に生まれた孟子いわく《「力を以て仁を仮る者は覇たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。徳を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。湯は七十里を以てし、文王は百里を以てせり。力を以て人を服する者は、心服せしむるには非ず、力贍(た)らざればなり。徳を以て人を服する者は、中心より悦びて誠に服せしむるなり》という『公孫丑篇』は、周王朝の復興は期しがたい状況から生まれた「小さな政府」論のようにも読めます。

 それにしても、儒教の幅は広いです。なにせ、日本は西欧帝国主義「覇道」として、満洲の地に「王道楽土」を建設すると謳われたのですから(p.228)。ここらあたりは旧軍嫌いの丸山先生ならでは皮肉ですね。なにせ、日本の武士道も「権」を臨機応変の名のもとに、易々と肯定したわけですが(p.229)。また、山片蟠桃などの非儒者も「覇道」を重視していたといいます(p.232)。

 一方、対外関係。

 自民族を世界の中心と見る自民族中心主義は、史上いたるところでみられるが、中華思想は天下、大同の観念と結びついた世界主義を内包し、優越性の核心が文化であり、武力ではない点が特色。これが、軍事的敗北にも動揺しないナショナリズムを形成した、と(p.234)。中共が軍事的覇権をもとめていないという妙に自信に満ちた断言は、こういった儒教的世界観からきているんだろうけど、英国、ドイツや日本、ロシアの軍国主義にさらされた後でも、その内実が変わらないと自分では信じているんだろうな、みたいなことを考えました。

 こうした儒教の歴史をざっと、さらってみて、丸山先生は、元々のイデオロギーを読みかえることも可能で、多義性・両極志向性(アンビヴァレンス)はもっとも体系的な朱子学でも克服れなかった、としています(p.243)。

 日本では儒教の受容に際しても、換骨奪胎していますが、中国では「諫(さんかん)して聴かざれば、 則ち之を逃」という相互規範性が保証されていますが、日本の場合は「三諫して聴かざれば、 則ち号泣(ごうきゅう)して之に随え」となり、さらには死を賭せばいいのだろうということで、幕末に志士が藩主に無断に勝手な能動的な行動を起こす起爆剤になっていった、というあたりも面白かった。

 これは旧帝国陸軍の関東軍にも通じるかな、と。

|

« 『十六夜清心』 | Main | 『丸山眞男講義録7』#5 »

「丸山眞男講義録」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/63604829

Listed below are links to weblogs that reference 『丸山眞男講義録7』#4:

« 『十六夜清心』 | Main | 『丸山眞男講義録7』#5 »