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April 12, 2016

『鎌倉幕府と朝廷』

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シリーズ日本近世史2『鎌倉幕府と朝廷』近藤成一、岩波新書

 「はじめに」で、強調されているのは頼朝が日本全国を統治することを意図していたなら幕府を創設しなくても、朝廷の主導権を握ったり、自ら天皇になるなど様々な方法がありえたはずだ、というあたり。後述されるように幕府側は京都の政治とは極力、距離を置き、朝廷の方から次は誰が天皇となるかなどについての「お墨付き」を貰いにくるという具合であり、しかも鎌倉は京都のような種と機構を引き受けられるほどの規模ではないし、三方を山に囲まれている、と。

 頼朝は東日本政権のようなものを目指していた、という話しは定説になりつつあると思いますが、《京都から百里以上を隔てた僻遠の地に、三方を山に囲まれ》た幕府と書かれてみると『ワルシャワ労働歌』の最後を思い出します。

「砦の上に我らが世界 築き固めよ勇ましく」

 というあたり。

 鎌倉幕府は百姓が独自の倫理観で自前の権力をつくり、地頭の設置から承久の変を経て全国に支配権を広げたという東アジアでは燦然と輝く歴史的意義を持ちます。それを成し遂げた坂東武者は凄いな、と思うと同時に、全てを自分たちで決めなければならない自前の権力ならではの疑心暗鬼、それが高じての内部での権力闘争から生け贄を見つけての陰惨な集団テロといいますか内ゲバに走るという暗黒面は、タガが外れるとヒトは類人猿の暴力性からは逃れられないんだな、とも感じます。

 もっとも、頼朝が権力基盤を強化できたのは、平家追討によって、その所領を恩賞として与えられた、という事情もあって、幕府による白色テロが起こるのは得宗家の代替わりの時期であることを考えると、目をつけられた家が滅ぼされ、それを恩賞として与えるためなのかな、なんてことも考えました。

 それにしても面白いです。日本史の中でも明治維新、織豊政権から徳川幕府の成立あたりと並ぶ面白い時代なので、ある程度は分かっていたつもりだったんですけど、凄い情報量を整理して伝えてくれているから、分かりやすくて面白い。頼朝の直系が絶えた後も、女系や立太子されなかった皇族の就職先として将軍が鎌倉に向かったあたりの話しも。

 これまで刊行された岩波新書の23冊の新しい日本史シリーズの中でも、加藤陽子先生の『満州事変から日中戦争へ』と並ぶ、単独で読んでも十分面白い、筆者である近藤成一先生によればGeschichteというか歴史物語だと思います。まあ、時代が面白いというのもあるんでしょうけど。

 頼朝は1194年に征夷大将軍を辞しており、賴家が後継になっても朝廷からこの職に補せられたのは1年7ヵ月後であり、征夷大将軍に補せられることが幕府の首長であることを意味するようになったのは、実朝からだ、というのも知らなかったな(p.27)。

 後鳥羽上皇が命名した実朝が暗殺されたことは朝幕関係を変化させて承久の乱になるのですが、その後は皇位継承を巡る混乱が続き、後高倉は皇位を経験せずに院政を行ったり、そのため即位後わずか78日で廃された仲恭天皇に諡号が贈られたのは明治時代になってからとか(p.39)。

 ここまでが幕府成立から執権が確立するまでの話し。

 長谷川宏さんの『日本精神史』やそのモチーフとなった丸山眞男さんの著作からも、御成敗式目は日本史史上に燦然と輝く理性の法というか、朝廷が律令制を中国から取り入れたのに対して、農民出身の武士が自ら考え抜いた自前の法だと改めて感じているんですが、それが太陽歴で7月~8月に雪が降り、霜が降って大飢饉になった寛喜の飢饉の最中に制定されたというのは知りませんでした(p.48-)。

 御成敗式目の制定時期は幕府の成立根拠であり権力基盤となった本領安堵から一定期間が過ぎ、相続が問題となりはじめたことに対応しているのかもしれませんが。

 また、貴族や寺院などの荘園は従来、荘園領主(本所)のもとで下司が行っていたのですが、源頼朝が地頭を置いたために、下司が地頭に置き換わっていき、本所が下司のように解任できなくなったことから、幕府に訴えざるをえなくなった、ということもあるようです。

 蒙古襲来が苦労した時宗が弘安七年(1284年)に34歳で死去すると安達泰盛が政局を主導し、弘安徳政が行われます。研究概念として整理するならば、「徳政」は中世における理想の政治という広義の意味を有するのに対して、「徳政令」は質流れ・売却地取り戻しとう狭義の意味で用いられるといいますが(p.175)、泰盛が目指した源氏将軍回帰は翌年、霜月騒動で一族500人が滅ぼされることで否定されます。

 鎌倉幕府は頼朝という玉を抱えて関東の百姓侍が自分たちの所領を朝廷から守ろうとした地域権力で、御成敗式目などの草の根的発想の法律も自らの手でつくった偉大な政権だと思うんですが、伝統もなく野蛮な性格から十分には抜けきることでできず、執権・得宗が変わる度に誰かが追討されて滅ぼされるという剥き出しの暴力が繰り返される印象。

 鎌倉時代の訴訟のやり方も面白かった。鎌倉幕府の裁判は訴状と陳状を引付を通して交換することで行われるんですが、訴訟を継続する財力を考えて三回までで打ちきられ、これを三問三問という、と。その後、訴人・論人に出頭が命じら口頭で質問され、引付は判決原案に相当する勘録を作成し、評定で決する。プラグマチックだよなぁ。

 十二世紀に展開した大規模開発が本所と下司・地頭という重層的な領有構造と分割相続という相続形態を生み出したが、開発が限界に近づくと、その二つの構造が二つながらに社会矛盾となり、訴訟を続発させたという構図もあったようです(p.212-)。

 以前は鎌倉幕府滅亡を蒙古襲来→勝ったが恩賞を与えられず武士困窮→幕府が徳政令→幕府の信頼が失墜→救済された御家人以外の武士が悪党化→後醍醐天皇の倒幕計画大成功と説明されていたが、徳政令は当時としては正当化されていたし、武士の困窮化が進展したのは分割相続が原因、としているのはなるほどな、と。

 あとがきによると近藤成一先生は34年間東大史料編纂室に在職し『大日本史』の編纂を進めたが刊行できたのはわずか3年分だという。しかし、その作業ですら百年以上、先輩の研究者たちが蓄積してきた材料を前提としている、と。いまや、未完部分もデータベースで公開されている、というのはありがたいかぎりです。

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